考える人 夜の深い時間帯は空気が冷たい。元々が工場だった聖域の建物はコンクリート製であるため全体的にひんやりとしている。この夜の空気の冷たさを感じながら廊下を歩くのは聖域を治めるニーガンだ。
複数人いる妻たちの中から今宵を共に過ごす一人を選び、その相手の部屋で大人の時間を楽しむのはニーガンの日課である。美しい女を抱いて快楽を得るのは好きだ。世界が変わる前は妻の目を盗んで愛人と過ごしていたニーガンにとって、己のハーレムを作ることへの抵抗は全くない。救世主として人々を救う褒美の一つや二つあっても良いだろう。
ニーガンは妻との楽しい時間を過ごした後、己の寝室へ戻る途中だった。ほんのりと残る情事の熱を味わうかのようにその足取りは普段よりもゆったりとしている。
ニーガンは誰もいない廊下を歩きながら、先ほどまで共に過ごしていた妻から投げかけられた言葉を思い出す。
『心が別のところにあるみたいだった。誰のことを考えていたの?』
問いかけてきた彼女の顔に嫉妬は見当たらなかった。それどころか好奇心に輝く目を見て苦笑が漏れたほどだ。
自分の心が別のところにあるのだとすれば、それは一つしかない。最近支配下に置いたアレクサンドリアのリーダーであるリック・グライムズ。彼のところだろう。
ニーガンは近ごろ、肌寒い夜の森で出会った男に思考の半分を占領されている。ふと気づけばリックのことが頭に浮かぶのだ。妻とのセックスの最中にも彼を思い浮かべることがあるため、それを見透かされたのは間違いない。
「ヤッてる最中に他の奴のことを考えるのはマナー違反だな。しかも男なんて。」
ニーガンは自身に対して苦笑しながら前髪をかき上げた。
自他共に認める女好きな自分が一人の男のことばかり考えるだなんてらしくない。しかも目の前の快楽と熱に集中しきれずに他事を考えるだなんて今までなかったことだ。
思い返せばリックと出会ってから今までになかったことばかり起きている。自身でも不思議に思っているというのに、リックの何が他の人間と違うのかということについて深く考えてこなかった。
そのことに思い至り、ニーガンは思案するように目を細める。
「リックは──何だ?」
まずはリックを表現するに相応しい言葉を思い浮かべていく。
小さな町の指導者。敵の寝込みを襲う冷酷な男。我が子を心から愛する父親。支配者に敵意を向ける愚か者。情の深いお人好し。
リックを表現する数多の言葉はちぐはぐで、繋ぎ合わせることが難しい。それでも一つも間違っていないのだから不思議だ。それが彼に興味を抱かずにいられない理由なのだろうか?
ニーガンはリックについて考えるうちに自室に到着した。そして部屋に入ってベッド脇のランプを点けて、棚から未開封のブランデーのボトルとグラスを取り出す。部屋全体の照明を点けないのは小さな明かりの方が雰囲気が良いからだ。
ニーガンはソファーに腰を下ろすとグラスにブランデーを注ぎ、鼻に近づけて香りを楽しむ。それから少量を口に含んで舌の上で転がした。
「……美味い。やっぱり上物の酒は堪らねぇな。」
香りも味も文句のつけようがない酒に思わず頬が緩む。
これをリックに飲ませたらどのような反応をするだろうか?憎い相手から施しを受けることに渋い顔をするだろうが、一口飲めば美味さに表情を緩ませるかもしれない。その顔を見てみたいものだ。
そこまで考えてニーガンは苦笑を漏らす。
「参ったね。あいつのことを考えるのが癖になってやがる。」
まるで思考回路がリックに直結しているようだ。これではどちらが支配されているのかわからなくなってくる。
ニーガンはグラスを満たすブランデーを一気に喉に流し込んだ。空になったグラスに二杯目の酒を注いでもすぐに飲み干して空にしてしまう。
別に苛立っているわけではない。それでも一人の人間に振り回されているような気がして落ち着かなかった。全てを掌の上で転がす自分が他人に思考を占領されている状態を「自分らしくない」と感じているのかもしれない。
ニーガンは何かを振り切るように三杯目のブランデーを煽る。流し込むように飲んだせいで香りも味も通り過ぎていき、そのことを「惜しい」と思う気持ちが生まれた。
しかし酒を煽る勢いは衰えず、新たに注いだ四杯目のブランデーも真っ直ぐに喉を流れ落ちていった。
封を開けたばかりだったブランデーのボトルは中身を全て吐き出した状態でコーヒーテーブルの上に佇んでいる。それはニーガンが一人で全部飲んだせいだ。
ボトル一本を飲み干してもニーガンは芯から酔うことができなかった。結局はリックのことを考えてしまうので酔い切れない。
ニーガンはグラスに僅かに残った琥珀色の液体を眺めながら、改めてリックについて考えてみる。
真っ先に思い浮かぶのは彼の瞳だ。怯えながらも反抗的な目をしたり、真っ直ぐに殺意を向けてくる時もある。そうかと思えば堪えるように涙を滲ませるのだ。いつまでも見ていられると本気で思うほどにニーガンの目には彼の瞳が魅力的に映る。
人柄はどうかというと、非常に興味深いと言えるだろう。ニーガンの基地の一つを襲撃した際のリックの作戦は的確かつ冷酷で、多くの部下を殺されたというのに感心せずにいられなかった。だが、彼は驚くほどの冷酷さを見せながらも仲間に対する情は深く、仲間を守るためなら己の身を削るようにして走り回る。そして同時にこの地獄のような世界で「仲間を誰も失いたくない」と切望し、「皆で穏やかに生きていける」と夢を見るような甘さも持っていた。リーダーとして今の世界の厳しさを知り尽くし、非情な決断を下すことができる男の本質には甘さがある。
屍が生きた人間を食い殺す世界で一人も失わずに済むはずがない。生存者でさえ敵に回る厳しい状況で穏やかな暮らしを望むなど夢見がちなティーンエイジャーのようだ。それは冷酷な指導者のイメージと余りにもかけ離れている。その願いをニーガンが打ち砕いた時、リックは厳格なリーダーではなくどこにでもいる普通の男として涙を流した。
ただ、その甘さは嫌いではない。彼の思い描いた夢は努力の上に成り立っていたからだ。単純に夢を膨らませるだけではなく必死に足掻いて掴もうとする姿勢は評価できる。
「──ああ、なるほどな。」
その時、ニーガンは唐突に悟った。リックがどれほど打ちのめされても立ち上がろうとするのは彼の持つ甘さゆえなのだ、と。夢物語を諦められないからこそ自分を阻む相手に立ち向かい、捻じ伏せられても抗って起き上がろうとする。それを「諦めが悪い」と言うのだろうが、それが彼の持ち味とも呼べる。
そんなリックの描いた夢を形がなくなるまで粉砕し、絶望の涙を零す瞬間を見てみたい。必死に立ち上がろうとする姿を美しいと思うからこそ「屈服させたい」という欲望が膨れ上がっていく。それと同じくらいに彼の夢が形を成す瞬間を見てみたい気持ちもある。
一体、この感情は何だ?
「全く……ますますわからなくなってきた。」
ニーガンは顔をしかめ、グラスの底に残るブランデーを一息に煽った。
リックと出会ってから己の心に生まれた感情の正体はニーガン自身にもわからない。理解できない状態を楽しんでいるものの、知る気が全くないわけではない。
リックの顔を見ながら考えれば答えが──ヒントぐらいは見つかるだろうか?
*****
翌朝早く、ニーガンはアレクサンドリアの土を踏む。夜が明ける前に出発したため睡眠時間は少ないが、不思議と眠気はなかった。
支配者の早朝からの訪問に見張り担当の者は動揺と緊張を隠しきれず、門を開ける手が震えていた。ニーガンは怯えの眼差しを寄越す相手に「良い朝だ」と言って笑いかけてやったのだが、縮こまる様子を見て逆効果であったことを知る。
アレクサンドリアの住人の中でニーガンを前にして怯えを見せないのは一部の者だけ。怒りと憎しみを瞳に宿して見据えてくる者は気骨があり好ましいが、それは仲間全員の命を預かる重みを知らないからできること。リックがニーガンに対して怒りだけでなく恐怖を抱くのは己が背負った命を守りたい気持ちが強いからなのだ。
住人たちをまとめ上げるという点に置いてリックが非常に難しい舵取りを強いられていることをニーガンは理解している。救世主の支配に怯える者の不満やストレスのはけ口がリーダーになるのは当然の流れであり、支配に対する反発心を抱く者の暴走を抑えるのは簡単ではない。大勢が扱いの難しい状態に陥っている中でリーダーを務めるのは大きなプレッシャーだろう。それでもリックは全てを投げ捨てるような人間ではない。
そのようなことを考えながらリックの家に向かって歩いていると、前方から走ってくる者の姿が見えた。リックだ。
ニーガンはニッと笑って「おはよう、リック!」と大声で呼びかける。
「ジョギングか?今日は朝っぱらから良い天気だから走りたくなる気持ちはわかる。俺も付き合うぞ。」
ニーガンの前まで来たリックは肩で息をしながらも鋭い目つきでこちらを見た。
「冗談はそれぐらいにしてくれ。朝から何なんだ?徴収は一昨日だったじゃないか。」
「徴収日以外は来ちゃいけない、なんてルールがあったか?来るのは昼だけってルールも?いつの間にかそんなルールができてたのか?俺に何の相談もなしに?」
追い立てるように言葉を繰り出せばリックが眉間にしわを寄せて黙り込む。リックは大勢を統率してきたのだから口下手ではないはずだが、ニーガンが相手では誰も反論できないので仕方ない。
ニーガンは反論が来ないことから、徴収日以外の訪問・早朝の訪問に問題はないと勝手に判断して微笑む。
「さーて、この話はお終いだ。朝飯を食ってこなかったから腹が減った。リック、行くぞ。」
そう言って歩き出すとリックが「どこへ行くんだ?」と慌てて追いかけてきた。
「そんなのお前の家に決まってるだろ。リックの家はアレクサンドリアで一番快適だ。それから、小さな天使に朝の挨拶をしなきゃな。」
リックの娘であるジュディスのことをチラつかせると彼の表情が強張った。リックにはカール以外にも子どもがいると知ったのはつい先日のことだ。初めて会った大人に抱き上げられても泣き出さず、マイペースに過ごす幼子は愛らしかった。それがリックの子どもであれば尚さら興味を抱かずにいられない。
リックは強張った表情のままニーガンを真っ直ぐに見上げてきた。
「子どもたちに関わるな。特にジュディスには──」
「リック、勘違いしてもらっちゃ困る。」
ニーガンはリックの言葉を遮り、彼の唇に己の人差し指を押し当てた。たったそれだけの行為でリックは己の失態を悟って視線を泳がせる。
動揺するリックに対してニーガンは薄く笑みを浮かべた。
「ここにお前のものは何一つない。お前も、お前の子どもたちも、全てが俺のものだ。わかるな?」
それに対しての返事はゆっくりとした瞬きだった。それを確認したニーガンは更に言葉を続ける。
「それならカールとジュディスに会うか決めるのはお前じゃなくて俺だってことも理解できるよな?そこで質問だ。お前が俺に言うべきことは?」
答えを聞くためにニーガンはリックから指を離した。唇から指が離れた途端にリックが深々と息を吐き出す。
そして、リックは怒りと怯えの入り混じった眼差しを寄越した。握りしめる拳には悔しさが見える。それでも全てを理解している彼は間違えない。
「……出過ぎたことを言ってすまなかった。許してほしい。」
感情を押し殺した声で謝罪の言葉が紡がれ、ニーガンは破顔した。
「気にするなよ!俺たちの仲だ!さあ、朝飯を食べに行くぞ。」
そう言ってリックの背中を叩き、肩に腕を回して歩き出す。親しい友人同士のような行為にリックが顔をしかめたのがわかったが、ニーガンはそれを無視した。
家に到着して中に入ると不機嫌さを丸出しにしたグライムズ家の長男が階段の前で待ち構えていた。二階にある彼の妹の部屋へニーガンが向かうのを阻もうとしているのだろう。
ニーガンは全てを理解した上でカールの立つ場所まで歩みを進めた。
「おはよう、少年。ジュディスはまだ寝てるのか?」
「お前には関係ない。出ていけよ。」
突っぱねるようなカールの言い方に背後にいるリックが息を呑んだ。ニーガンは後ろを振り返ってリックに微笑んでから再びカールに向き直る。
「やれやれ、この前の失敗から学ばなかったらしいな。カール、お前のやらかしたことでアレクサンドリアの奴らが巻き添えを食ったのを忘れたか?オリビアとスペンサーの死を招いた根本的な原因はお前じゃなかったか?お前が乗り込んできて部下たちを殺さなきゃ俺がここに来ることもなかったんだからな。さて……お前は今、どうすべきかな?」
容赦のない言葉を浴びせてやればカールの顔が青ざめた。反発心が折れた少年は無言で脇へ退く。その様子を見て、ニーガンは「良い子だ」とカールの頭を撫でてやった。
障害物がなくなったのでニーガンは階段を上り始めたが、その途中で足を止めると無言で立ち尽くすリックを振り返る。
「リック、ジュディスの世話は任せろ。用意ができたら呼びに来い。」
その命令に対する返事はなく、リックは両手を強く握りしめてこちらを睨みつけている。だが、「息子同様に躾が必要か?」と考えたニーガンが口を開く前に彼は「わかった」と答えた。
「朝食の準備が終わったら呼びに行く。……娘を頼む。」
「娘を頼む」と告げた時のリックの声は微かに震えていた。こちらを睨む目は潤み、その表情は泣き出しそうにも見える。
リックが己の中に渦巻く感情を飲み込んでまで皆を守ろうとしていることを理解する人間がこのアレクサンドリアにどれだけいるのだろうか?
リックを排除しようとしたスペンサーや密かに銃弾を用意していたロジータは全く理解していなかったのだとわかる。息子のカールでさえ理解していなかったのだから、彼の思いを汲み取ることができる者は少ないのだろう。ある意味、リックは一人で戦っているのだ。
そのような思いが過ぎったが、それを忘れるかのようにニーガンは普段通りの笑みを浮かべて再び階段を上り始めた。
ニーガンが部屋に入って間もなく、ジュディスは目を覚まして不思議そうにこちらを見た。その彼女に朝の挨拶をしておむつを取り替え、その次にはクローゼットの中から服を取り出して着替えさせてやる。
ジュディスはおむつ交換の時も着替えの時も嫌がる素振りを全く見せなかった。一度しか顔を合わせていないというのに人見知りをしない幼子にニーガンは感心する。
ジュディスの顔を洗うためにニーガンが彼女を連れて一階に下りると、リックが目を丸くしながら近づいてきた。
「着替えさせてくれたのか。」
意外そうにこちらを見るリックにニーガンはウインクを飛ばす。
「世話は任せろと言っただろ。おむつ交換も済んだ。後は顔を洗うだけだ。」
そのように答えてバスルームへ行こうとすると、リックから「ニーガン」と名前を呼ばれた。
「もうすぐ準備ができる。ジュディスの顔を洗ったらダイニングに来てくれ。」
「そうか。早いな。」
思ったよりも早く朝食の準備が進んでいることにニーガンは軽く目を瞠り、それ以上は何も言わずバスルームへ向かう。そしてジュディスの顔をきれいに洗ってやり、さっぱりしたことにより上機嫌な彼女を連れてダイニングルームへ足を向けた。
ダイニングテーブルの上には三人分の食事、テーブル付きのベビーチェアにはジュディス用の食事が用意されていた。ニーガンたちの食事は非常に質素なもので、皿に乗っているのはクラッカーと豆の水煮だけ。ジュディス用の皿にあるものの方が美味しそうに思える。
ニーガンがテーブルの上を見つめていると、いつの間にか近くに来ていたカールにジュディスを奪われた。その彼は妹をベビーチェアに座らせながら恨めしげにこちらを睨む。
「物足りなくても文句は言わないで。この町には余裕がないんだから。」
怒りを隠しきれない少年にニーガンは肩を竦めてみせた。
「何も言ってないだろ?それより、お前たちの食事はいつもこんな感じなのか?」
「そうだよ。でも、今日はあんたのせいで父さんの分が減った。父さんは僕にたくさん食べさせることを優先するからいつも量が少ないのに、あんたの分まで用意しなきゃならなくなって……少しでも良心が残ってるなら二度と食事時に来ないでほしい。」
カールの表情は真剣そのものだった。それにより彼が父の体を案じていることが伝わってくる。
その時、「カール、もういい」と言うリックの声が響いた。
「食事にしよう。ニーガンはここに座ってくれ。」
リックが示したのはニーガンがこの家でスパゲッティを作った時に座った席だった。
ニーガンがリックの案内に従って着席すると目の前に新たな皿が置かれる。それには一口サイズに切ったリンゴが乗せられていた。リンゴが乗る皿を置いたリックは「あんたの分だ」と苦々しげに言った。
「クラッカーと豆だけじゃ足りないだろう。それも食べてくれ。」
リックは言い終えるとジュディスの隣に座った。カールは既に着席しているので食事を始められる状態になった。
ニーガンは合図代わりに一つ手を打ち鳴らす。
「よし、楽しい朝飯の時間だ。食べよう。」
ニーガンの呼びかけに対してリックとカールは気まずげに視線を己の皿に落とす。その二人とは異なり、ジュディスが小さな手をパチパチと叩いた。ニーガンの真似をしたのかもしれない。
ニーガンは少し身を乗り出して「ジュディスは良い子だな」と幼子の顔を見る。
「俺に付き合ってくれるのは君ぐらいのもんだ。パパとお兄ちゃんはちょっとノリが悪い。」
ニーガンが大げさに顔をしかめてみせるとその顔が面白かったらしく、ジュディスは声を上げて笑う。そのジュディスの笑顔をリックは複雑そうに眺めていたが、気を取り直したように「さあ、食べよう」と明るい声で幼い我が子に話しかけた。
「ジュディ、口を開けてごらん。美味しいぞ。」
リックが小さなスプーンを口に近づけてやればジュディスはスプーンに食いついた。そして、口の中に入れたものを飲み込むと次を強請るように口を開ける。それを見たリックが目元を緩ませる様子をニーガンは凝視した。
「美味しいか?良かった。さあ、次だぞ。……そう、上手だよ。」
リックは絶えず声をかけながらジュディスに食べさせ続ける。その横顔を見つめながら、ニーガンは不思議な感覚を味わっていた。
ジュディスに向き合うリックは穏やかで柔らかな空気をまとっている。我が子を心から愛し、平穏な日常を大切にする普通の男だ。基地を奇襲してニーガンの部下を皆殺しにした人間と同一人物とは思えない。
非情なリーダーと優しき父親。結びつけるのが難しい属性だが、リックは間違いなくこれらを併せ持っている。
ニーガンがリックとジュディスのやり取りに目を奪われていると、カールの方から「食べないの?」と訝しげな声が飛んできた。
「一口も食べてないみたいだけど、いらないわけ?」
カールの声によりニーガンは己の皿に視線を戻す。そこには手が付けられていない朝食があった。
ニーガンはカールに向かってニッコリと笑んでからスプーンで豆をすくい上げて口に運んだ。
(……豆の水煮缶を温めて塩を振っただけか。正直に言って美味くはねぇな)
よく噛んでから豆を飲み込み、続けてクラッカーを口の中に放り込んでみたが、これも美味しいとは言えないものだった。いかにも非常食といった味と食感で世辞の一つも浮かばない。
だからといって文句をつけるつもりはなかった。アレクサンドリアの食糧事情は把握しており、急な訪問であることを考えれば今のリックに用意できるのはこれが精一杯だ。リンゴを加えただけ上出来と言える。
そして、こっそりとリックの皿を覗いてみれば量の少なさに思わず眉根が寄った。皿に盛られた量はこの場の誰よりも少なく、カールが文句を言うのも無理はない。今になって「食事はいらない」などと言うつもりはないが、リックの性格をもっと考えた上で行動すべきだった。
ニーガンは自らも食事を始めたリックに視線を送りながら己に出されたものを完食した。
*****
朝食を終えた後、ニーガンはダイニングの椅子に座ったままでいた。リックは食後の片付けを行い、カールはジュディスを連れて慌ただしげに出ていったため、ニーガンとリックの二人だけが家に残っている。
ニーガンはダイニングからキッチンを眺めてリックの動きを観察した。観察されることにリックは居心地の悪さを感じているようだが、文句も言わずに食器を洗っている。
リックを観察するのは粗探しをするためでもプレッシャーをかけるためでもない。ただただ彼を見ていたかった。これほどに興味を引かれる理由を知りたくて、見つめていれば答えが見つかるかもしれないと思ったからだ。だが、答えが見つかる気配はない。
やがて後片付けを終えたリックがニーガンの傍にやって来た。その顔に浮かぶ緊張の理由が掴めず、ニーガンは微かに眉根を寄せる。
リックは「カールのことなんだが……」と話し始めた。
「あまり良い態度ではなかった。すまない。だが、この前の件で責任を感じていて精神的に不安定なところがあるんだと思う。今回は大目に見てもらえないか?」
必死に言い募るリックの意図が読めず、ニーガンは「おい」と鋭い声と共に彼の腕を掴む。腕を掴んだ瞬間にリックの肩が大きく跳ねた。
「何が言いたい?はっきり言え。」
腕を掴んだまま問うと、リックは自身を落ち着かせるように息を吐いた。
「……カールを許してやってほしい。そして、誰にも罰を与えないでほしい。それだけだ。」
それを聞き、ニーガンの眉間に刻まれたしわが深くなる。
リックはカールの態度がニーガンを怒らせ、それが理由で誰かが罰せられることを恐れているのだ。ニーガンの中ではとっくの昔に終わっていた話がリックにとっては現在進行系なのだと初めて知る。
ニーガンが腕を掴む手に力を込めるとリックは微かに眉根を寄せたが、それに構っていられない。リックにはニーガンが無差別殺人犯のように見えているならば正さなければならない。
「リック、俺は無駄な殺しはしない。損害を与えられた時、ルールが破られた時、徴収量が足りない時、反乱を企んだ時。そういう時には罰として誰かに死んでもらうが、それ以外の殺しは無駄だ。お前は過剰反応してる。」
手当り次第に処刑する人間と思われるなど冗談ではない。無駄な殺しはニーガンが一番嫌いなことだ。
しかし、ニーガンの反論を聞いたリックは「ふざけるな!」と声を荒らげ、腕を掴む手を勢い良く振り払った。
「無駄な殺しはしないなんてよく言えたな!それなら、なぜ──なぜスペンサーを殺した⁉」
怒鳴り声を上げたリックは目を吊り上げてこちらを凝視する。怒りが頂点に達したため感情を顕にすることに躊躇いはないようだ。
ニーガンは立ち上がってリックの腕を掴んで壁際まで連れていき、その体を壁に押し付けた。
「頭に血が上ってるお前にはもう一度説明してやらなきゃならないみたいだな。いいか、あの坊やはお前のポジションを奪うために俺にお前を殺させようと企んだ。自分の手は汚さずに楽しようとした。お前を蹴落とそうとした奴を始末してやったのに責められる理由はないぞ、リック。」
「感謝しろって言うのか⁉まだ何も起きてなかったのに、俺たちだけで解決できたかもしれないのに、仲間を殺されて感謝できるわけがないだろう!」
反論を続けるリックに対してニーガンは苛立ちを覚える。
苛立ちを表すようにリックの体を壁に押し付ける手に力が入り、リックが痛みに顔を歪めた。それでも彼はこちらを睨み続ける。それがニーガンの苛立ちを煽った。
「スペンサーにコミュニティをまとめる能力なんざない。もっともらしいことを言ってたが、結局あいつはお前を妬んで引きずり下ろしたかっただけのクソ野郎だ。仲間のことなんて考えてなかった。あいつを放置すれば厄介なことになるのは目に見えてた。」
「だから殺したのか?」
「そうだ。アレクサンドリアに問題が起きれば俺たちにも影響する。要するにスペンサーは周りに損害を与える存在ってことだ。実のところ、お前は奴を厄介者だと思ってたんじゃないのか?」
ニーガンの指摘に対してリックは苦々しげに顔をしかめて黙り込む。思い当たることがあるようだ。
しかし、リックは「それでも」と反論を続ける。
「スペンサーはアレクサンドリアの住人であり仲間だ。問題が起きれば俺たちの間で解決する必要があったし、俺には彼を守る義務があった。どんな理由を並べられようと認められない。」
リックの頑なさにニーガンは溜め息を零した。
「お前って奴は何でそんなにも頑固なんだ?スペンサーはお前にとって特別だったのか?」
溜め息混じりに尋ねるとリックの表情が曇った。そして、彼はこちらから視線を逸らして「特別だったわけじゃない」と小さな声で答えた。
「スペンサーの母親から息子を見守ってほしいと託された。死を目前にした彼女に仲間として見守ってやってほしいと頼まれて、俺は必ずそうすると約束した。……あいつを厄介な人間だと思っていたことは認める。それでも守ろうと努力したんだ。彼は俺の仲間だから。」
返された答えにニーガンは目を瞠り、次の瞬間には固く目をつぶった。急激に湧き上がる感情を処理するのが難しかったからだ。
リックにとって特別な存在だったのはスペンサーではなく母親の方だ。かつてアレクサンドリアのリーダーであったその女性はリックの心に深く影響を与えたのだろう。そんな相手との最期の約束を守るために必死だった彼の思いはスペンサー本人に届かず、男は道を踏み外した。母とリックの思いを顧みなかった代償にスペンサーは死んだのだ。
スペンサーの死に対するリックの怒りはニーガンに向けられたものではなく守りきれなかった自身へのものであり、彼は約束を破ったことへの罪悪感に苦しんでいる。「自業自得だ」と割り切ることができないのは果たせなかった約束を今でも背負い続けているせいだ。
リックという男は何かを背負わずにいられない。それがどれほど重たくて押し潰されそうでも、一人で背負うには数が多すぎても、彼は絶対に投げ捨てようとしない。腐りきって彼自身を蝕むものに変質したものでさえ背負い続けるのだ。
大量の血を浴び、全身が泥に塗れ、背負うものの重さに潰れそうになっても、リックは必死に耐え抜いて決して倒れない。その姿は哀れでありながら凄絶に美しい。
──だから惹かれるのだろうか?
瞬間、己の頭を過ぎった疑問にニーガンは「違う」と頭を振った。
リックに向ける己の感情は「惹かれる」という表現では余りにも生温く、だからといって他に相応しい表現が見つからない。これほどに強烈で凶悪な感情を表す言葉が見つかるはずもなかった。
リックを徹底的に支配したいと望む欲は出会った時から変わらない。完全に屈した彼が涙を零す瞬間を見たいとも思う。それと同じくらいに「この男を救いたい」という願望が胸の奥に根付いていることも事実だ。
どれだけ考えてもリックという人間は本来であればリーダーには向かない。元々持っている優しさがリーダーとしての彼を苦しめるからだ。だからこそ「リックは支配を完全に受け入れるべきだ」とニーガンは考えている。彼の背負うものを引き受け、彼が守りたいものを守ることができるのはニーガン以外にいない。
ニーガンはゆっくりと目を開けて、こちらの様子を窺うリックを見下ろした。真っ直ぐにこちらを見つめるリックの瞳は美しい。この瞳に涙の膜が張ると驚くほどに美しく、いつまでも眺めていたいと思う。この瞳が濁るくらいなら彼から全てを取り上げてしまいたい。
ニーガンはリックの頬を両手で包み、親指で目の縁をなぞった。
「リック、いい加減に俺を受け入れろ。受け入れて、お前の背負うもの全てを寄越せ。」
そのように告げればリックの眼差しが鋭くなる。続けて怒りを孕んだ声で「断る」と返されたが、それは予想の範囲内だ。
ニーガンは顔を近づけてリックの瞳を覗き込み、そこに映る己を見た。
「救ってやる、と言ってるんだ。お前を救えるのは俺しかいない。──救ってやるよ。お前も、お前の家族も。」
それに対してリックが「わかった」と答えることも、首を縦に振ることもなかった。返されるのは憎しみだけだ。それでもニーガンはリックから目を離さない。
支配を受け入れろ。
俺の前に屈しろ。
お前の持つ全てを寄越せ。
そうすれば俺がお前を救ってやる。
END