イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    怖いもの知らずを愛する方法「其方、もう少しローゼマインに感謝した方が良いと思うぞ」
     アナスタージウスがそんなことを述べたのは、ゲヴィンネンの盤に駒を並べていた時だった。彼が王配となってから三度目の領主会議、その社交の席である。
    「おっしゃることの意味がよく分かりませんが」
     盤の向かいから聞こえたのは、フェルディナンドの冷めた声だ。本日エグランティーヌとアナスタージウスのお茶会に招かれているのは、この領主会議の初日に星に結ばれたばかりのアウブ・アレキサンドリア夫妻である。部屋の向こう側では、エグランティーヌとローゼマインがクラッセンブルクとの取り引きについて話し合っているのが見える。
     先に全ての駒を選び終えたアナスタージウスは、相手の陣地に目を移す。上部の濃紺から下部の淡い水色へと、一つの中に様々な青を湛えたゲヴィンネンの駒は、随分と凝った意匠をしていた。神々の儀軌を巧みに取り入れた駒の並びは、まるで物語絵を見ているかのようだ。ユルゲンシュミットの全土から書物を集めるアレキサンドリアらしい、とアナスタージウスは思う。駒ごとに題材となる神話は異なるようだが、どの駒の天辺にも白蝶貝の螺鈿が巻かれていて統一感が出ている。螺鈿細工はハウフレッツェの特産品だったが、国境門を閉ざして以降生産量が低下していた。何をどのようにしたのか分からないが、ローゼマインは自領における螺鈿細工の技術開発に成功したようだ。
     領地の粋を集めたようなゲヴィンネンの駒を眺めれば、それだけでアウブ配への寵愛の深さが知れるというものだ。ローゼマインはいつだって、フェルディナンドへの愛情を衒うことなく表現する。初めてアレキサンドリアを訪れた際にも、フェルディナンドを殊の外褒めていた。
     ――だというのに、この男は。
    「お待たせ致しました」
     駒を並べ終えたことを告げる面には社交的な微笑が刷かれていて、その奥にある感情は一切窺えない。その彫刻のような相貌を、アナスタージウスは何とも言えない気持ちで見遣る。恭しくアウブに付き従う姿も、彼女からの繰り返しの賞賛に返される、光栄です、という静かな物言いも、もはや領主会議では恒例の風景だ。その取り澄ました慇懃な態度の裏に、寵を受けて当然と言わんばかりの傲岸を嗅いでしまうのはアナスタージウスだけではないだろう。
     二人を良く知らぬ者からすれば、アウブが夫を手放しに褒めるのは、二人目、三人目の配偶者を勧める者達から彼を庇う行動だと受け取られるはずだ。ローゼマイン自身には全くそのつもりがないのだろうが、周囲はそのようには見ない。女神の化身を独占する男、というのがフェルディナンドの大方の評判だ。女神の化身から賜わる過分なほどの寵愛を、誰憚ることなく平然とした顔で受け止めているのだから、傲岸不遜と言われても致し方ない。
     ――しかも、ローゼマインと違ってこちらは確信犯でやっている。
     その方が自らのためにもローゼマインのためにも良いと判断しての行いだろうが、何やら妻の愛情を社交の道具にしているかのようで、見ていて楽しいものではない。ローゼマインほど分かりやすく表せとは言わないが、もう少し妻の愛情に感謝して見せても罰は当たるまい、とアナスタージウスは思う。
    「どちらだ」
     握り拳を二つ差し出せば、こちらを、フェルディナンドがアナスタージウスの左手へ視線を向ける。開けば文官の駒。フェルディナンドが先攻だ。
     ――良くもまあローゼマインは、あんなつれない態度を取られて平気でいられるな。
     私なら傷つくぞ、と心の中で独りごちる。自分がエグランティーヌのツェントとしての努力を人前で褒めたなら、エグランティーヌは間違いなく照れたり、嬉しそうに微笑んだり、後から心の籠もった返事を聞かせてくれたり、そんな風に愛らしい反応を返してくれる。
     ――そういう対話があってこその夫婦ではないのか?
     貴族院六年生のアナスタージウスはエグランティーヌの心を得んとして、アウブ・クラッセンブルクの許に何度も足を運んで説得した。王位に関わるのはエグランティーヌの本意ではないこと、自分はただエグランティーヌの望みを叶えたい一心であることを述べ、二人の婚姻の許可をもぎ取った。エグランティーヌはその時の必死なアナスタージウスの姿に心を動かされたという。今でも折に触れて、あの時のアナスタージウス様は本当に素敵でした、と言っては彼を喜ばせてくれる。
     ――愛する人の喜ぶ姿を見たいから、もっと尽くしたい、もっと優しくしたい、と思うのはローゼマインも同じだと思うのだが。
     逆にアナスタージウスが嬉しそうにしていれば、エグランティーヌも眩しい微笑みを見せて喜んでくれる。お互いに喜びを分かち合い、一人でいるよりもずっと大きな幸福を得られることこそ、愛情の真価ではないか。
     この男も、ローゼマインと二人きりの時にはそのような表情を見せているのだろうか、と考えたところで、ないだろうな、という結論に即座に行き着く。いつぞやの領地対抗戦で、まだ幼いローゼマインと彼がやりとりをする姿を見たことがあったが、あの頃から感謝や褒め言葉とは無縁の厳しい物言いをしていた。よくローゼマインはこんな厳しい保護者に懐いているものだと思った覚えがある。
     ――もう少しローゼマインに優しくしてやれと思うのは私だけか?
     赤の他人同士だ、二人の間柄にあれこれと口を突っ込む気はない。そうも思ってみるが、三年前の領主会議の際に図書館の地下書庫で見たローゼマインの姿が、折に触れて思い出されるのだ。
     ――何よりも守るべき家族同然なのですから、心配くらい、しても当然ではありませんか。
     魔法陣に弾かれても食い下がったのだろう、手を赤黒く腫らして戻ってきたローゼマインは、目の色を変えながら必死で彼に訴えた。家族同然という言葉の意味するところの重みを測りかねたが、その激烈な様子から、自分が彼女に対して大きな裏切りをしてしまったことに気付いたアナスタージウスは、酷く後悔した。
     あれはエグランティーヌとの間を取り持ってくれた恩を、仇で返すような行いだった。かつて彼に率直に話せと助言してくれたローゼマインの姿を思い出すたび、申し訳なさがアナスタージウスの胸をじくりと絞る。
     ――ローゼマインは愛情を良く知っていたからこそ助言してくれたというのに、私はそれを踏み付けにした。
     彼女の書庫で見せた姿を振り返るたびに鮮明になるのは、ローゼマインからフェルディナンドへの愛情の深さと強さだった。礎を奪いに行った理由といい、戦後会議でのジギスヴァルトへの威圧といい、何ならジェルヴァージオやラオブルートとの戦いでむちゃくちゃな洗浄魔法を使ったことといい、彼女が果敢に行動する理由のどれもこれもが、フェルディナンドのためだ。
     ――大領地、中央、王族、神々、何を敵に回しても助けに行くと約束したではありませんか。
     先日読んだアレキサンドリアの建領物語には、そんな言葉が書かれていた。エグランティーヌへの執着の強さをエーヴィリーベのようだと揶揄われるアナスタージウスでも、こんな愛の言葉は言える気がしない。
     ――だというのに、この男は。
     眼前で物静かに座るフェルディナンドへちらりと視線を遣って、アナスタージウスはこっそりと息を吐く。
     ――あれがどれほど得難い愛情か、どれほどのものに身を浴しているのか、この男は分かっているのか?
     ローゼマインは、この男の何をあそこまで信じているのだろう、とアナスタージウスは疑問を覚える。剃刀のように切れる頭脳、ありとあらゆる情報を操っては敵を追い詰める策士ぶり、またあるいはその身に備える強大な魔力……。彼の持つものは貴族社会においてどれも強力な手札となり得るものではあるが、ローゼマインがそんなもののために彼を大切にしている訳ではないのは明らかだ。
     ――ローゼマインの愛情が報われていない気がしてならないのだが……。
     三年前に彼女を陥れるようなことをした手前、またエグランティーヌとの仲を取り持ってもらった手前、ローゼマインの愛情のためならば少しばかり世話を焼いてやりたい、そう考えながら盤を見て作戦を練るふりをしていると、先攻のフェルディナンドの駒が魔力を受け、ふわりと動いた。
    「――それで、先ほどのお言葉はどのような意味でしょうか」
     槍の駒を一マス進めると、フェルディナンドは徐ろにそう尋ねて来た。アナスタージウスは肩を竦め、剣の駒を進める。
    「先日、アレキサンドリアの建領物語を読んだ。あれに書いてあることは事実か?」
     アレキサンドリアの建領物語は、元々は旧アーレンスバッハの貴族達を黙らせるために出版されたものらしい。だが物語としての出来が良かったこと、アレキサンドリアの情報を求める他領の貴族が多かったことから、貴族院で写本の希望が相次いだため、ウリアゲテキに増刷した方がよいと判断したアウブ・アレキサンドリアが、自領の最初の大規模印刷物として他領へ大々的に売り出した。その一冊が、先日巡り巡ってアナスタージウスの手元にも来たという訳だった。
    「概ねは。ローゼマインも私も、印刷前に手を入れておりますから」
    「ならば、ローゼマインは其方の命を救うためにアーレンスバッハの礎を染めたというのも本当か?」
    「そのようですね」
     まるで他人事のような言い方に、アナスタージウスは溜息をつく。
    「……そういうところだぞ」
    「――は?」
     フェルディナンドは煩わしげに剣の駒を動かした。アナスタージウスはそれを受けて、補給の駒を動かす。
    「だから、そういうところだと言っている」
    「おっしゃる意味を測りかねます」
     フェルディナンドは鬱陶しげに弓の駒を横にずらす。定石とは異なる動きに、アナスタージウスは小さく眉を上げた。
    「……ちょうど三年前の領主会議の際、私とエグランティーヌはローゼマインをけしかけて祠を巡らせた」
     ――あの弓の駒は、何が狙いだ?
     脳の半ばで盤上のことを、もう半ばで数年前のことを考えながら、アナスタージウスは言葉を選ぶ。
    「ディートリンデの不敬をだしに其方が連座になる可能性をちらつかせて、祠を無理に回らせたのだ」
     フェルディナンドはその言葉を聞くなり、文官の駒を起動させた。罠が動いて、アナスタージウスの前線にいた剣の駒と槍の駒が動けなくなる。
    「ほう、てっきりジギスヴァルト様が吹き込んだのかと思っておりましたが、アナスタージウス様の方でしたか」
     今まで知らなかったのか、とアナスタージウスは男の言葉を意外に思った。ちらと視線を向ければ、彫刻のような面は微動だにしない。
    「ローゼマインから聞いていないのか」
     罠に嵌った二つの駒を回収すれば、フェルディナンドは喉をくっと鳴らす。
    「あれ以降、立て続けに色々なことがありましたので。それどころではなかったことは、アナスタージウス様がよくご存じなのでは?」
     アナスタージウスが弓の駒を下げたところで、それにしても、とフェルディナンドは言葉を続ける。
    「私が想像していたよりも、貴方がたはローゼマインのことをよくご存じのようだ。我が妻に言うことを聞かせようとするならば、一番効果的なやり方でしょう」
     結果を思えば、発せられた言葉を真っ正直に受け取る訳にはいくまい。ローゼマインの誠意を裏切るような行いを重ねた結果、トラオクヴァールとその一族が被った女神の譴責は相当に大きなものになった。
     フェルディナンドの弓兵がまた一つ横へずれる。先ほどからの奇妙な弓の動きに、アナスタージウスは首を傾げざるを得ない。
    「ローゼマインを追い詰めるような条件を出したこちらに非があるのは認めよう。――だが、こたびの本題はそこではない」
    「……続きを伺いましょう」
     フェルディナンドの面白くもなさそうな返答を聞きながら、アナスタージウスは槍兵を今一歩前へ進める。盗聴防止の魔術具を差し出せば、怪訝そうな表情を見せつつもフェルディナンドは黙って受け取った。
    「貴族院の図書館に、最も奥まった地下書庫があるだろう」
     読唇術を身につけた側仕えがいる可能性を考慮して、グルトリスハイトのある書庫とは言わなかった。フェルディナンドは探るような視線をこちらへ投げかけると、黙って槍兵を左翼へ展開する。
    「ローゼマインはあの書庫へ赴いた後、手を火傷のように腫らして戻って来た」
     アナスタージウスは補給の駒を起動する。先ほど回収した剣と槍を復活させ、盤上へ戻した。
    「其方の連座を止めようと祠を巡ったのに、あと三年も待たねばならないのかと食ってかかって来た。自分にとって大事な人が処刑されるかもしれないのに怒らずにいられるか、と目の色を変えて……。あの様子を見て、焚きつけたのを随分と後悔した」
     フェルディナンドはその言葉に、部屋の向こう側へと視線を投げる。エグランティーヌと穏やかに談笑するローゼマインに、ほんの少しだけ表情を動かしたのが見て取れた。
    「私の命一つのために、ローゼマインは随分と高い買い物をさせられたようですね」
     皮肉っぽい物言いと共にこちらへ向けられた目は、冷え冷えとしていた。アナスタージウスは、ふんと鼻を鳴らして受け流す。彼を睨んだまま、眼前の男は剣の駒を端へ寄せる。剣兵はすぐにアナスタージウスの槍兵と斬り結んだ。
    「法外な値をふっかけたことは反省している。だが、そもそも其方の命を値高あたいたかいと思っているのは、ローゼマインの方ではないか?」
     アナスタージウスはそう言いながら、文官の駒を起動させる。フェルディナンドの剣兵と、その背後の弓兵が罠に嵌る。と、即座に敵の補給兵が動いて弓兵が復活した。フェルディナンドは剣呑な目をしたまま、黙々と剣の駒を回収する。
    「連座回避を願った時も、其方が毒に倒れた時も……。ローゼマインは持てる全てを使って其方を助けようとする。だが其方はそれを平然と受け入れるだけで、まるで感謝しているようには見えない」
    「しておりますが?」
     即座に返された言葉に、アナスタージウスは首を横に振る。
    「そういう風には見えないな」
     アナスタージウスはフェルディナンドが左右に配した弓の駒に意識を向けつつ、再度文官の駒を起動する。今度は右翼で敵の槍兵が罠に掛かった。フェルディナンドは表情を変えずに弓兵を操る。こちらの陣の奥深くまで矢が飛び、剣兵と槍兵が一つずつ斃れたところで、フェルディナンドの忌々しげな溜息が聞こえた。
    「あれの実兄にも似たようなことを言われたためしがございますが。――私の何がそんなにご不満なのでしょう?」
    「ローゼマインの兄に共感するぞ。私が気にしているのは、その態度そのものだ」
     不可解そうなフェルディナンドの様子に、アナスタージウスの方もやれやれと溜息をつく。
    「あれだけ思われているのだぞ? 今回の領主会議に限っても、何度ローゼマインは其方を自慢していたことか。あの愛情の重みやら熱意やらに、嬉しいとか喜ばしいとか、何か感じないのか。心の籠もった礼の一つも言ってやれ」
     フェルディナンドは眉間に深い皺を寄せながら、喜ばしい、とまた不可解そうに呟く。アナスタージウスはその様子を見ながら、黙って補給兵を発動させる。
    「何をそんな不思議そうにしているのだ」
     フェルディナンドはすぐには答えず、難しい表情で槍兵を動かす。先ほどとは違い、すぐに動きの目的が読めるような単純な手筋だ。動揺しているらしい、とアナスタージウスは相手の心中を推し量る。
    「ローゼマインに思ってもらえることについてはこの上なく感謝しておりますが……。いくら社交の場で自慢されても、次にどんな予想外の発言が来るのかと思うと気が気でないので、嬉しさは感じませんね。私のためにグルトリスハイトを得ようとしたり、他領の礎を染めたり、といったことについて言うならば、これ以上揺さぶらないで欲しいというのが正直なところです」
     苦いものを飲んだような表情から出た言葉を聞けば、今度はアナスタージウスが不思議を覚える番だった。それはローゼマインの周囲にいる全員が思っていることではなかろうか。そう返せば、目の前の男は益々渋面を作ってみせる。
    「命を助けられた時にもそう思ったということか?」
    「そうですが?」
     険しい声によってなされた応答に、アナスタージウスは覚えず首を傾げる。
     ――愛情でもって命を救ってくれたなら喜んでしかるべきだろうに、揺さぶられたと感じるのか、この男は?
     衝撃的だったという意味だろうか、とアナスタージウスは想像する。エグランティーヌに初めて思いを受け入れて貰えた時、確かにアナスタージウスは心に激震が走ったように感じた。世界が一変した。目に映る何もかもが、鮮やかで美しいと思えた。
     ――だが、揺さぶらないでくれとは思わなかった。
     己を根底から震撼させるような衝撃も、また一つの喜びではないのか。手を取り合い、二人で新たな地平へ歩を進めてゆくならば、驚きや衝撃もまた喜びだ。エグランティーヌが母親になった時、ツェントの位を望んだ時――。どれもアナスタージウスに大きな衝撃をもたらしたが、それらの驚きは必ず、新しい喜びと幸福を連れて来た。
    「揺さぶられても良いではないか」
     そう言って先ほどの槍兵を弓の駒で狩る。アナスタージウスが盤から視線を上げれば、そこにはどことなく警戒するような面差しがあった。
    「揺さぶられても良い……?」
     知らぬ言葉を口ずさんで確かめるような物言いに、アナスタージウスの方も段々と不安になる。眼前の人物の過去を詳しく知る訳ではなかったが、ラオブルートの言葉や、ジェルヴァージオの容姿との酷似から、出生について大方の想像はついている。エーレンフェストへ引き取られてからも恵まれぬ環境で育ったというのは、アウブ・エーレンフェストやローゼマインからそれとなく聞いたことがあった。幸薄い生い立ちの中にある真っ暗な淵を覗いてしまったのではないか、とアナスタージウスの心がざわめく。
     そこまで考えて、はたと思い至る。愛されることを知らずに育ったこの男は、果たして愛情の色や形を知っているのだろうか?
     アナスタージウスは幼い頃の記憶を手繰る。柔和で優しい父と、明るく朗らかな母。政変の影響で父の身辺には波乱が多かったが、母はそんな父を献身的に支えていた。気の弱いところのある父を励ましていたのは、いつだって母のあの楽天的な笑みだったと思う。アナスタージウスがエグランティーヌを支えたいと思うのは、もしかすると父を支える母の姿を、愛情そのものだと感じていたからかもしれない。
     今日のアナスタージウスの愛情が、父と母から形作られたものなのだとしたら、眼前のこの男はどうなのだろう、と思う。アウブ・エーレンフェストは領主の位に似合わず身内に甘いというのは良く聞く話だが、そんな彼でも領内の政治のために弟を神殿へ入れたし、魔力量を度外視した実子との婚約をローゼマインに強いた。
     ――実の両親なしで育つには、貴族の世界は余りに寒い。
     そんなことを思って盤面を眺めていると、不意に部屋の向こう側からエグランティーヌとローゼマインの話す声が聞こえる。
    「ローゼマイン様のお蔭で、ユルゲンシュミット全土で神殿改革が行われていますね。どの土地でも、随分と生産量が向上しているとか」
    「神殿の意義が見直されて、本当に嬉しいです。わたくしにとって、神殿は第二の家のような場所ですもの。差別されるのはやはり辛いですから」
    「フェルディナンド様と出会ったのも神殿なのでしょう? 建領物語を読みました」
     エグランティーヌの言葉に、ローゼマインがほんの少し照れたように笑うのが見える。
    「……ええ。洗礼式前のわたくしを膝に抱き上げて、聖典を読んで下さいました」
     その声が本当に優しくて、幸せそうで、アナスタージウスは胸の奥をつかまれたような思いがした。フェルディナンドもローゼマインの発言を耳にしたのだろう、口許にうっすらと笑みを浮かべている。その表情は、ローゼマインの声音の柔らかさに似て優しげだった。
     ――何よりも守るべき家族同然なのですから、心配くらい、しても当然ではありませんか。
     あの時のローゼマインの言葉の意味が、ようやく腹に落ちた。アナスタージウスは成る程、と呟いて一つ笑う。彼も昔、父の膝に上がるのが好きだった。多忙の隙間にたまさか離宮を訪れるだけではあったが、父はいつも優しく兄と自分の頭を撫でてくれた。
     愛情を知らずに育った男がどのようにローゼマインを慈しんだのか、アナスタージウスには分からない。けれど、それが途方もない手探りの連続であったことは想像がつく。
     ――だから、あんなに懐いていたのか。
     過度に厳しい保護者だとばかり思っていたが、ローゼマインが彼にだけ無類に懐くだけの理由があったということだ。二人の結びつきの深さと強さに、アナスタージウスは不思議な気持ちになる。
     ――揺さぶられたくない、か。
     今しがたの気付きを手に提げて、改めてフェルディナンドの発言を反芻する。
     愛情を知らずに生きてきた人間には、余りに大きく、強すぎる愛なのかもしれない。ローゼマインの行動の数々を思い出して、アナスタージウスは苦笑する。
     ――フェルディナンド様が助からなかったらユルゲンシュミットが助かっても意味がないでしょう?
     命を救われた直後に突然そう言われたら、確かに受け止めるのにも苦労するかもしれない。そんなことを思いながら、アナスタージウスは眼前の男に伝わるような言葉を選んでゆっくりと口を開く。
    「……今まで当たり前に思っていたものが揺さぶられ、亀裂が入り、壊れてしまったとしても、その先に愛情があるならば怖くないだろう? 私はエグランティーヌに接する時、いつもそのように考えてきた。ローゼマインも同じだろう。其方のためならば、何がどのように変わっても恐れまい」
    「あれは幼い頃から、私の何倍も怖いもの知らずです」
     その言葉には一種の感慨が籠もっていて、アナスタージウスは思わず顔を上げた。フェルディナンドは時間稼ぎとばかりに剣の駒を一つだけ動かすと、小さく笑う。
    「直情径行で怖いもの知らずなせいで、ローゼマインは何度も命を危険に晒しています。いくら痛い目を見ても一向に学ばないので、こちらは常にはらはらさせられる……」
     危機について語っているというのに、その眼差しは懐かしい過去を振り返る優しさを帯びている。
    「私がずっと欲していたものを、ローゼマインは与えてくれました。そのことは本当に嬉しく思っておりますが、かと言ってあの蛮勇に感謝をしようという気には、とてもなれません。私は……ローゼマインを失いたくありませんから」
     ローゼマインの行いを蛮勇と言い切る口吻はいつも通り辛辣だったが、口調はごく穏やかで、アナスタージウスは殆ど初めて、この男の愛情と優しさの形をじかに知った思いがした。失いたくない、というフェルディナンドの一言が、アナスタージウスの内側に大きく響く。
     ――愛することにも、愛されることにも不慣れなのだろうな。
     そう直感して、アナスタージウスは淡く笑う。あらゆる意味で余人を寄せ付けないこの男も、彼なりに懸命にローゼマインに接しているのだろうことが窺えて、小さく息をついた。
     ――しかしそれはそれとして、ローゼマインの果敢な愛情にはもう少し感謝すべきだと思うぞ。
     彼女の勇気と行動力がなければ、今頃ユルゲンシュミットも、アナスタージウスも、そして彼の差し向かいに座るこの男も、とっくに命脈を絶たれていた。感謝してし過ぎることはないだろう。
    「だが、その怖いもの知らずのお蔭で命拾いしたのは、どこの誰だ?」
     挑発するようにそう言い返せば、フェルディナンドは複雑な目で盤へと視線を落とす。
    「怖いもの知らずなローゼマインは、私に泣きながら誰の命をこいねがった? 戦後処理の会議の席でローゼマインが怒ったのは誰のためだ?」
     月の瞳の奥に脈打つ炎のような愛情。それが誰のために燃え盛るのか、知らぬ訳ではあるまい。
    「怖いもの知らずだからといって、本当に恐ろしさを覚えない訳でも、危険を感じない訳でもない。怖くても、危なくても、叶えたいことがあるから飛び出していくのだ。――その勇敢さは、敬意に値しないのか? ローゼマインは危険を顧みぬほどに其方を値高く見てくれているというのに、其方は感謝一つ出来ないのか?」
     畳み掛けるように発せられた言葉に、フェルディナンドは僅かに逡巡を見せて視線を逸らす。アナスタージウスは言葉を叩きつけた勢いのまま、フェルディナンドの凡手を責めるべく文官の駒を動かす。宝の前列に配されていた駒が全て罠にかかり、宝が剥き出しになった。
     フェルディナンドはいよいよ困惑を深めたと見えて、力のない眼差しを盤上へ注いだ。しばらくそのまま動かなかったが、思い出したように弓の駒を起動する。宝へと進めようとしていたアナスタージウスの剣兵が、がくりと力を失って斃れる。
    「感謝……」
     またぞろ、意味を確かめるような声がする。アナスタージウスが補給の駒を動かした辺りで、フェルディナンドはようやく口を開いた。
    「以前、ローゼマインに言われたことがあります。私は他人からの好意に鈍感だ、と……」
    「ローゼマインの言う通りではないか?」
     フェルディナンドは険しい表情でこちらを見る。剣兵が復活したことで、彼が宝を守る道筋は絶たれたと言って良い。妙な動揺を誘って勝ったので大して良い気分ではなかったが、平素隙を見せないフェルディナンドが凡手や悪手を踏むところを見られたのは、少しばかり愉快だった。
    「怖くても飛び出して行く――か。確かにあの勇気に報いようとしたことは、一度もなかった……」
     独言のごとき言葉は弱々しく宙へと散らばり、消える。そこにいたのは、寄る辺のない子供のような目をした男一人。
    「――私の負けです」
     宝の駒をこちらに差し出して、フェルディナンドは大きく息をつく。その一息の間に、すっかり表情を元に戻したのだから大したものだと思う。
     双方が握っていた盗聴防止の魔術具を回収すると、オスヴィンがやって来て茶を淹れ替える。微妙な沈黙が降りたところで、部屋の向こう側にいたローゼマインとエグランティーヌがこちらへ近付いて来た。
    「ゲヴィンネンはいかがでしたか?」
     エグランティーヌは言いながら、まだ片付けていなかった盤と駒に目を留めて、まあ、と明るく笑む。
    「フェルディナンド様の駒は珍しい意匠ですね。螺鈿でしょうか?」
     背後にいたローゼマインが、その言葉に嬉しそうに目を細めている。その様子に気付いたのか、フェルディナンドも穏やかな声でエグランティーヌに答えた。
    「ええ、ローゼマインが随分と開発に力を入れています。ゲヴィンネンに使うのも彼女の発案です」
    「ゲヴィンネンの駒や盤は全て魔石で作るのが普通だと聞いたのですが、魔石だけだとどうしても質感が均一になりますでしょう? 一部だけならばこうした飾りをつけても良いのではないかと思って、作ってみました」
    「……其方、そのようなまともな美意識ありながら騎獣をグリュンにしたのか?」
     思わずそう問えば、ローゼマインはむっとしたような表情で、レッサーくんは可愛いのです、と言い返して来る。成人しようが結婚しようが変わらない物言いに、思わず苦笑が漏れた。
    「では、この駒はローゼマイン様からの贈り物なのですね」
     エグランティーヌがくすりと笑いながら言えば、ローゼマインは嬉しそうに頷く。
    「はい、フェルディナンドにはいつもお世話になってばかりですから。日頃の感謝を籠めて――といったところでしょうか」
     ね、とローゼマインは夫になったばかりの男へ笑みを向ける。フェルディナンドは先ほどの会話がよぎったのだろう、いささか気まずそうな表情を見せた。
    「どうしたのですか? わたくし、何か変なことを言ったでしょうか?」
     その表情をすぐさま読んだローゼマインが、不思議そうに問う。アナスタージウスは笑いながら手を振ってみせる。
    「先ほどフェルディナンドへ、其方にもっと感謝した方が良いと言ったのだ。それを思い出して気まずいのだろう」
     当の本人から底冷えするような視線を感じるが、無視する。ローゼマインはと言えば、アナスタージウスの言葉が呑み込めないといった様子で、こてん、と首を傾けた。
    「感謝、ですか……?」
     アナスタージウスは頷くと、にやりと口許を歪めて見せる。
    「建領物語を読ませてもらったぞ。アーレンスバッハの礎を染めたのは、フェルディナンドを助けるためなのだろう? 三年前の領主会議の際も必死にフェルディナンドの連座回避を求めていたし、婚約してからは領主会議のある毎に、立場の弱い夫を立てているではないか。命を助けられた上、其方が第二、第三の配偶者を打診されてもおかしくないところを、眩しいばかりの寵愛で退けているのだから、感謝の一つも言ってやれと助言したのだ」
     その言葉を聞いたローゼマインは急激に頬を赤くしながら、目を左右に泳がせる。余りの分かりやすさに、いっそ気の毒なくらいである。
    「ちょ、ちょっと待って下さいませ、わたくしの言動は他の方にはそんな風に映っているのですか? わたくしは単に、フェルディナンドの自慢をしたいからしていただけなのですけれど! あ、いえ、別に夫は二人も三人も欲しくないので間違ってはいないのですが! でもですね、あの……」
     ぐるぐると百面相を見せる若きアウブに微笑ましい気分だったが、肝心の夫の方は全く別の感情を覚えたところであるらしい。アナスタージウスの向かいから発せられる空気が重たい。
    「だから不用意に自慢をするなと言ったではないか。褒めれば良いというものではないのだぞ」
     フェルディナンドが苦りきった面持ちでそう言えばローゼマインは頬の赤さをそのままに、ぷしゅん、としょげて、申し訳ありません、と返す。
     ――だから、そこは感謝すべきところだと言ったばかりだろう!
    「それならばそれで、ローゼマインの純粋な愛情に感謝すべきだな」
     ローゼマインを援護してやれば、凶悪な顔がこちらを睨み付けてくる。うるさい黙れと顔に書いてあるのが分かったが、無視を決め込む。
     ――睨むよりも先にやることがあるのではないか?
     そんなことを考えながらローゼマインに目を転じれば、あの、その、と一頻りごにょごにょ呟いた後、ばっとフェルディナンドの方へ向き直る。
    「わたくし、フェルディナンドのことを幸せにすると約束しましたよね。ですからその、わたくしに何をして欲しいのか、どんなことなら嬉しいのか、ちゃんと言葉で教えて下さいませ。対話が足りなかったばかりに居たたまれない思いをさせてしまったのだと思いますから、次こそは――」
     明後日の方向へと進むローゼマインの言葉を、眉間に手をやったフェルディナンドの大きな溜息が遮る。はああ、とこぼれた声には、疲労と気恥ずかしさと思考の遅滞と、その他あらゆる微妙な感情が含まれていて、アナスタージウスは愉快な気分になった。良い気味だ。
    「フェルディナンド、其方の妻はこのように言っているが?」
     どうなのだ、と発破をかけてやれば、渋面を作った男は席を立ち、星に結ばれたばかりの妻の腕をつかんだ。
    「ローゼマイン、来なさい」
    「え、え、まだお茶会の途中ですよ? わたくしは急いでおりませんし、あの」
    「黙りなさい」
     アナスタージウスは、にやつく口許を強いて抑えながら、手をひらひらと振って見せる。
    「どうせ明日も明後日も領主会議は続くのだ。嫌でも顔を合わせる機会があろう。今日はもう寮へ戻って、フェルディナンドの話を聞いてやれ、ローゼマイン」
    「え、あ、はい……?」
     フェルディナンドに引きずられるようにしてローゼマインは退出して行く。二人の側仕えは何とも言えない表情を見せながら、てきぱきとゲヴィンネンの駒を片付け、一礼して去って行った。
     扉が閉まったところで、オスヴィンが苦笑しながら茶器を回収する。エグランティーヌも穏やかに笑いながらこちらへやって来て、アナスタージウスの肩に手を置いた。
    「――フェルディナンド様とはどんなお話しを?」
     アナスタージウスの最愛の人はおっとりとそう言うと、近くの椅子に腰を下ろす。
    「そのままだ。少しはローゼマインに感謝してやれと言ったのだ。あの取り澄ました態度が気に入らななくてな」
     まあ、と言ってエグランティーヌはくすくす笑う。
    「傍目では分かりづらいですけれど、フェルディナンド様も愛情深い方だと思いますよ」
    「だが、それは伝えなければ意味がないだろう。妻が惜しみなく愛情を表しているというのに夫があれでは、ローゼマインが気の毒だ」
    「アナスタージウス様は、やっぱりローゼマイン様と仲良しですね」
     その言葉には釈然としないものを感じて、アナスタージウスは顔をしかめる。エグランティーヌはまた一つ笑うと、窓の外へと視線を向ける。夏の日差しが美しい金髪に注がれて、光の女神もかくやと言わんばかりの輝きを放つ。
    「あの方があんな風に厳しい態度を取るのは、きっと大切なものが失われてしまうのを恐れているからなのでしょうね」
     先ほどのフェルディナンドは、確かに失いたくない、と言っていた。エグランティーヌの発言は正鵠を射ているのだろうとアナスタージウスは思う。だがどうしてその考えに至ったのかが読めなくて、彼は妻を見返す。彼の光の女神はその眼差しの意味を読み取ったのか、視線を窓の外から夫へと移して、ほんのりと笑った。
    「詳しくは言えませんが……。あの方が必死でローゼマイン様を守っていたのを、見たことがあるのです。神々が相手では、なかなか心も安まらないでしょう」
    「成る程な」
    「……アナスタージウス様の後押しで、少しは丸くなるかしら?」
     さて、と返したところで、テーブルにゲヴィンネンの盤が出しっ放しになっていたことに気付く。片付けるよう言っても良かったが、お茶会が早く終わった結果、夕餉の会食まで時間に余裕がある。
    「エグランティーヌ、久しぶりに一局どうだ?」
     妻は、あら、と言って嬉しそうに差し向かいの席へ座り直す。自分の駒を持ってくるよう側仕えに伝えて、柔らかく笑う。
    「では、お手合わせお願い致します」
     お茶が淹れ直され、落ち着いた香気が二人の間に漂う。エグランティーヌの駒は大理石にも似た意匠で、底だけが赤い。親しんだ道具や香りに、身体の力が少しばかり抜ける。
    「さて、どちらをお選びになりますか? ツェント」
     駒を二つ握って妻へと差し出す。可笑しそうに笑いながら、妻の繊手がアナスタージウスの右手へ触れる。その温もりに、ああ好きだな、と思う。
     ――幸せになったら良い。
     目の色を変えて怒った、あの時の少女。あんなに小さかったローゼマインがこれだけのことをしでかしたのだ。その働きに見合うくらい幸せになったら良い。そんなことを思いながら、アナスタージウスは右手の中にある補給の駒を見つめた。
    ほしなみ Link Message Mute
    2022/06/18 11:43:13

    怖いもの知らずを愛する方法

    #本好きの下剋上 #フェルマイ

    アナスタージウスとフェルディナンドがゲヴィンネンをしながらローゼマインの話をしていたら、おや?様子が……。
    アナスタージウスのコレジャナイ感には目をつぶって頂けると。

    (こちらを久しぶりに動かします。pixivとバイバイしたくて居場所を探し中……。)

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
    • 少女革命ウテナ考察既に小説ではない方でも上げてますが、試験。
      #考察
      #少女革命ウテナ
      ほしなみ
    • 2SS名刺SS名刺メーカーさんで作った短文画像から、気に入っているものを。

      #創作 #オリジナル #詩歌
      ほしなみ
    • 麗しの海フェルマイ・星結び後
      Twitterに上げたものをこちらにも。引き続き居場所探し中……。
      #フェルマイ #本好きの下剋上
      ほしなみ
    • 男と影と影に殺される夢を見た。
      毎日毎日、繰り返し見た。
      段々とそれが本当なのではないかと
      現実よりも真実なのではないかと思って
      汗みどろになって考えた。
      「殺されたくない」
      「殺されたくない」
      必死になって助かる方法を考えた。
      それで、そんな夢見がちで臆病な彼は
      いっそ影を自分から殺してしまえ、と思ったらしい。
      それで、ある秋の夕暮れ時に長く長く伸びた影に、ぐさりとナイフを突き立てた。
      影ば悶え苦しみながら小さく言った。
      お前が俺を殺したその時から、俺はお前でなくなった。俺は殺されて初めて俺になったよ。
      お前が世界の客になる日も、そう遠くは無いぜ。
      そして次の日から、彼に影は無くなった。
      彼は影の最期の言葉を不安に思いながらも、それ以外は心安らかに暮らしていた。
      なあに、あんなのは末期の強がりさ。
      そう思って、幸福をこれでもかと享受していた。
      不安も薄れ、平和が続いたとある日の事、夕暮れ時に影を殺した道を通った時だった。
      前から歩いて来る、真っ黒な奴が居る。
      彼とそっくりの背格好をした、陰鬱で凶暴な気配のする男だ。
      「やあこんにちは、俺を俺にした者よ」
      男は笑ってそう言った。彼はその男の正体に気付いて震え上がった。
      「お前は俺を世界の主にしてくれた。だからお前は世界の客になる。今までと入れ替えさ。さあ、お客人は世界にあれこれ口出ししちゃ失礼だろう」
      そうやって、彼は胸にぐさりとナイフを刺された。どばどばと溢れる血は、地面を真っ黒に染め上げた。男はにやにやと笑いながら、そのまま凝っと血を見つめていた。
      やがて、そろりと歩き出すと、血は影になって彼の足元にへばりついた。

      #創作 #オリジナル

      ***
      Tumblrから。
      影に殺される夢を見た。
      毎日毎日、繰り返し見た。
      段々とそれが本当なのではないかと
      現実よりも真実なのではないかと思って
      汗みどろになって考えた。
      「殺されたくない」
      「殺されたくない」
      必死になって助かる方法を考えた。
      それで、そんな夢見がちで臆病な彼は
      いっそ影を自分から殺してしまえ、と思ったらしい。
      それで、ある秋の夕暮れ時に長く長く伸びた影に、ぐさりとナイフを突き立てた。
      影ば悶え苦しみながら小さく言った。
      お前が俺を殺したその時から、俺はお前でなくなった。俺は殺されて初めて俺になったよ。
      お前が世界の客になる日も、そう遠くは無いぜ。
      そして次の日から、彼に影は無くなった。
      彼は影の最期の言葉を不安に思いながらも、それ以外は心安らかに暮らしていた。
      なあに、あんなのは末期の強がりさ。
      そう思って、幸福をこれでもかと享受していた。
      不安も薄れ、平和が続いたとある日の事、夕暮れ時に影を殺した道を通った時だった。
      前から歩いて来る、真っ黒な奴が居る。
      彼とそっくりの背格好をした、陰鬱で凶暴な気配のする男だ。
      「やあこんにちは、俺を俺にした者よ」
      男は笑ってそう言った。彼はその男の正体に気付いて震え上がった。
      「お前は俺を世界の主にしてくれた。だからお前は世界の客になる。今までと入れ替えさ。さあ、お客人は世界にあれこれ口出ししちゃ失礼だろう」
      そうやって、彼は胸にぐさりとナイフを刺された。どばどばと溢れる血は、地面を真っ黒に染め上げた。男はにやにやと笑いながら、そのまま凝っと血を見つめていた。
      やがて、そろりと歩き出すと、血は影になって彼の足元にへばりついた。

      #創作 #オリジナル

      ***
      Tumblrから。
      ほしなみ
    CONNECT この作品とコネクトしている作品