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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    しおり
    麗しの海 ぽろん、ぽろろん、と弦の顫える音が部屋に響く。下から四本目の弦の音が少しばかりずれているように感じて、上部のねじを締め直した。再び掻き鳴らせば、今度は思っていたのと相違ない音が奏でられる。
     ――まあ良かろう。
     前回触れたのが随分と前だったこともあって、手が楽器に馴染まないような感触はするが、許容範囲内だ。手を慣らすため、まずは見知った曲を幾つか弾いてゆく。
     久しぶりの休日だった。夫婦共用の私室で、フェルディナンドはこのところ無沙汰をしていたフェシュピールに触れていた。この春にローゼマインの新たな楽譜集を入手したは良いものの、全く弾けずにいたのである。
     アレキサンドリアで作った植物紙のページをぺらぺらとめくり、主旋律を美しいと感じた曲を幾つか爪弾く。その中に海の女神フェアフューレメーアに捧げる歌があって、ふと目を止めた。
     ――あれは本当に海が好きだな。
     窓の外へと目を転じて、庭園の向こうに映る海を見た。彼の目には、単なる巨大な水の集まりとしか思えない風景だが、ローゼマインにとっては特別な愛着の対象であるらしい。
     良く分からない。そう思うのは、きっと彼女の海を好む理由が異界の記憶にあるからだろう。あちらの世界では海に囲まれた国に住んでいたと、何かの折にローゼマインは語っていた。
     ――わたくし、アーレンスバッハが欲しくなりました。
     そんなことを言っていた幼い姿が脳裏によみがえる。時勢もあってぎくりとさせられた言葉だったが、聞けば何ということはない、海恋しさに発せられたものだった。
     ――アーレンスバッハが欲しいのであろう? 君の望みのままに取ってやろう。
     別れの不安と寂しさを紛らわせたくて、そんな風に言った記憶もある。だが結局この地を取ったのはローゼマイン自身だった。彼女は望んだものを必ず手に入れるだけの意志と知恵と力を持っている。本も、海も、この土地も。
     あるいは自分も。そう心中で付け加えてみる。彼はローゼマインに望まれてここにいた。その事実がどれほど彼自身を強くしているか、きっとローゼマインは知らないだろうけれど。
     ゆっくりと、視線を窓の外から楽譜へ戻す。海の女神に捧げる歌のページに折り目をつけ、書見台へと載せた。そんなにややこしい曲ではない。簡潔で美しく、寄せては返す旋律は正に海を連想させた。
     二度、三度と弾いた後に、ゆっくりと歌詞を口ずさみながら弾いてゆく。月が昇り日が沈む海。どこまでも続く波。船で別の土地へと赴く者。それら全てを見守る女神……。
     歌い終え、最後の音を鳴らした直後だった。不意に、ぱしん、と背中に軽い何かが当たる。痛みも衝撃も殆どなかったが、音ばかりが大きく響いた。半ば音の原因が予想できると思いながら、フェルディナンドは後ろを振り返る。
    「うふふん、いたずら成功です!」
     案の定、見れば背後に立ったローゼマインが、紙を蛇腹状に折った物を持ってにやにやとこちらを見つめている。いたずらが成功した喜びからか、頬が少しばかり紅潮しているのが見て取れた。後ろに控える側近達が苦笑しているのが窺えて、フェルディナンドは大きな溜め息をつく。
    「ローゼマイン」
     そのまま妻の左頬をつまんで引っ張る。いらいれふ! と抵抗するような言葉が聞こえたが、目が笑ったままだ。ぺいっと頬を引くようにして手を離せば、ローゼマインは赤くなったところを押さえながらも朗らかに口を開く。
    「この度、厚手で固めの紙が完成したのです。折角ですし、またハリセンを折ったのですけれど、わたくしが叩ける相手なんてフェルディナンドしかいないでしょう? ご迷惑にならないところを狙ってみたのです!」
     さも当然のことであるかのような口ぶりに、もう一度溜め息をついた。妻の顔に再び手を伸ばせば、細い手がぱっと守るように両頬を覆ってしまう。少し考えて、右頬を守る手に挟まれたハリセンを取り上げる。制止する声を無視して、そのままローゼマインの肘のあたりをパシンと叩いた。
    「ひゃん! 取らないで下さいませ!」
     非難がましい声に思わず笑う。左手で支えていたフェシュピールをラザファムに預けると、ハリセンを持ったまま演奏用の椅子から立つ。長椅子へ場所を移しながら、ローゼマインに隣の席を指し示した。
    「エーレンフェストでこれを作った時よりも、更に厚手の紙だな」
     ハリセンの端の辺りに触れながらそう言えば、ローゼマインはむっとした表情のまま彼の右横に腰掛ける。彼女の右手にいたクラリッサが、折る前の紙を資料と共にテーブルに載せた。
    「厚手で丈夫なだけではないのですよ。こちらは水を弾く性質を持つようですから、工夫すれば色々と使いどころがありそうです」
    「ほう」
     ローゼマインが眼前の資料をめくって、簡単な作り方と特徴を説明してくれる。
    「今回はザイツェンに自生する魔木から紙を作りました。こちらと、こちらですね。ハリセンにしていない方の紙は、耐水性ではなく耐火性の高い紙です。羊皮紙よりも更に燃えにくいですから、貴重書の表紙に使うと良いかもしれません」
    「偶然にしては、随分と有用な物ばかりだな」
     そう返せば、偶然ではないようですよ、と言って妻が楽しげに笑う。
    「どうやらルッツ達とザイツェンの下級文官とが協力して、素材の属性を一つだけ飽和させてみたようですね」
    「……文官が商人と協力を?」
     思わぬ言葉につい訊き返せば、ローゼマインは楽しそうに頷く。
    「はい、ザイツェンのギーべからも報告を受けておりますから、間違いありません。――耐水性は水の属性の飽和、耐火性は火の属性の飽和によって得られるみたいです。作り方の手順の中に魔術的な要素は一切ありませんが、素材を選ぶ上で貴族の調合に近い観点が入っているとのことでした」
     貴族と平民の間の垣根を低くするという望みが早くも叶う形になったからだろう、ローゼマインは酷く嬉しそうに紙の作り方について説明してくれる。
    「昨年から他領に製紙業の技術供与をしているが、このような紙はアレキサンドリア以外ではまず作れぬであろうな」
     彼がそう呟けば、ローゼマインは嬉しそうに頷く。褒めて下さいませ! とねだる幼い姿を思い出していると、気付けば左手を伸ばして妻の頭を撫でていた。意識もせずにそのようなことをした自分に急に決まりが悪くなって、それとない動きを装い手を引っ込める。
    「……それにしても、君は何故ここに? 今日は一日図書館に籠もると言っていなかったか?」
     朝方に予定を聞いた時にはそのように言っていた筈だ。誤魔化せる話題を見つけたのでこれ幸いと問いかければ、ローゼマインは少しばかり焦ったような表情を見せる。ややあって、紙を指差してちらと笑う。
    「あ、えーと、紙が手に入ったので、早くフェルディナンドにお見せしたくて……」
     ――?
     その口ぶりにどことなく奇妙なものを感じたが、言葉にはならなかった。左手にパシパシとハリセンを打ち付けながら、そうか、と相槌を打つと、ローゼマインは頷きながらじっとこちらを見た。
    「……何だ?」
     視線の意味するところが分からず、フェルディナンドは妻にそう問いかける。ローゼマインはしげしげとこちらを見ると、うん、とまた一つ点頭してから口を開いた。
    「ハリセン、やっぱり似合いますよね」
    「似合うとはどういう意味だ?」
     揶揄含みとしか思えぬ発言に、フェルディナンドはそのままハリセンでローゼマインの頭をぱしんと叩く。
    「むう! あの頃と違って髪を纏めているのですから、頭はやめて下さいませ!」
     そんなことを言いながらもローゼマインは満更でもない表情をしている。今度は左肩の辺りを叩けば、ローゼマインは楽しそうにくすくすと笑う。
    「フェルディナンドばかりずるいですよ」
     彼の右手からハリセンを奪うと、ローゼマインは彼の右肩を叩いてくる。奪い返そうと手を伸ばせば、まだだめです! という言葉と共に彼女は立ち上がった。
    「えい!」
     可愛らしい掛け声に合わせて、今度はフェルディナンドの右の二の腕辺りを叩く。
    「返しなさい」
    「返しません、わたくしのですもの!」
     ローゼマインは夫の手を逃れようとして、長椅子の後ろへ回り込もうとする。だが勢いをつけて動くことに慣れていないからだろう、すぐに長椅子の脚に踵を取られてよろけた。
    「わっ!」
    「ローゼマイン」
     慌てて彼も立ち上がると、妻の両肘の辺りをつかむ。引き寄せるようにして支えれば、二歩、三歩、たたらを踏むような按配でローゼマインがこちらに身を預けてきた。手から落ちたハリセンが長椅子の座面に跳ねる。
    「あ、ありがとう存じます……」
     フェルディナンドの二の腕の辺りにつかまりながら、ローゼマインは驚いたような表情で礼を口にする。
    「全く君は……」
     はあ、と思わず溜め息がこぼれた。くるくると楽しそうに動いていたと思えばすぐに転びそうになって、全く目が離せない。これでは幼い頃と変わらないではないか、と胸中で独りごちる。
     再び腰掛けるよう促してハリセンを回収する。あ、と咎めるような声が横から上がったけれど無視した。
    「どこか痛いところは?」
     そう問うてみたが、ローゼマインはけろりとした表情で笑う。
    「平気ですよ? フェルディナンドが支えてくれましたもの」
     何とも思っていなそうな口調だった。この危機感のなさゆえにこちらがはらはらするのだと、良い加減自覚して欲しい。
    「はあ……。こういうところは全く成長がないな」
     思ったままを口にすれば、流石に心配をかけたと感じたのか、ローゼマインはちらりと視線を逸らす。
    「……確かに今のはちょっと、考えが足りなかったかもしれません」
    「かもしれないではなく、間違いなく考えが足りない」
     言い返すと、ローゼマインがむくれたような表情でこちらを見る。
    「……とりあえず、君がはしゃいで羽目を外すようなので、これは没収だ」
     ハリセンで最後にローゼマインの頭を叩くと、取り返されぬようユストクスに預ける。彼の笑いを堪える表情に腹が立ったが、ひとまずは何も言わずに下がらせた。
    「むう、わたくしが作った物なのに……」
    「君が転びそうになるのが悪い」
     そう言って、入れ替わりに出されたお茶を口にしながら報告書に目を通す。ザイツェンの魔木の特徴や種類についても纏めてあり、研究の手掛かりになりそうで大変興味深い。
     ――この魔木は研究所でも栽培していたな。この木の枝とこちらの素材を用いて飽和させるのなら、逆にこちらを使うとどうなる?
     調合や実験の手順をあれこれと考えながらページを繰る。下級文官が作成に携わっているからだろう、今までの製紙業の報告書に比べ、格段に貴族へ向けた情報量が増えている。これからは製紙業の現場で魔紙の開発に当たらせても良いかもしれない、などと考えていると、ふと隣から小さな歌声が聞こえてきた。
    「フェアフューレメーアの腕の中、月は昇りて日は沈む……」
     先ほどの、海の女神に捧げる歌だった。書見台に楽譜を載せたままだったからだろう、ローゼマインは何気ないゆったりとした調子で歌を紡いでゆく。書面を追う目を止めて、意識を歌声に集中させる。優しい声によって描かれる海の風景は、もっと聞いていたいと思わせるに十分なものだった。女神の腕の中に広がる海は広く、優しい。
     だが第一聯が終わり、そこで歌声は途切れてしまう。続きが聞けないのを残念に思って、彼は視線を書面から離す。ローゼマインに目を向ければ、ほっそりとした指が書見台の楽譜を何気なくめくっていた。
    「……良ければ弾いてくれないか?」
     報告書を閉じてそう声をかけると、ローゼマインはこちらを向き、意外そうな表情でぱちぱちとまばたく。
    「先ほどのフェルディナンドの演奏の方がお上手だったと思いますけれど……」
     そう言いながらも拒む様子はなく、グレーティアにフェシュピールを持ってくるように命じる。フェルディナンドが使っていた演奏用の椅子に移動すると、奥の飾り棚から出された楽器を受け取った。調弦の後にゆっくりと息を吸うと、やがて緩やかな弦の音と共に、柔らかい歌声が流れ始める。寄せては返す波のように繰り返される旋律と、それに沿うローゼマインの声が耳に心地良い。
    「フェアフューレメーアの腕の中、優しき波が寄せ来ては……」
     ほう、と後ろで側近達が息をこぼすのが聞こえた。曲の雰囲気とローゼマインの声や弾き方が良く調和していて、凝った曲ではないのにとても美しく感じる。
     ――君は本当に海が好きだな。
     彼女の手と口とが刻む旋律に耳を傾けていると、フェルディナンドの思考は自然と先ほどの考えに立ち返ってゆく。自分一人では大きな水たまりだとしか思えなかったのに、ローゼマインの歌声を通して海を思うと、それは確かに美しい風景だった。陽光と月光を代わる代わる浴びる水面。濃淡様々な青を湛える水底。人の旅路の行末を見守り、案じる優しき女神。ローゼマインを通して感じ取るだけで、風景は鮮やかな色彩を帯び、人はその善性を露わにし、神々は情け深い微笑みを向けてくれる。何につけても、彼にとってローゼマインはそのような存在だった。
    「フェアフューレメーアの腕の中、船は波間を進み行く……」
     ――女神の腕の中、か。
     ローゼマインに望まれ、こうして彼女の隣にいることを許された自分も、またある意味では女神の腕に守られている、と思う。事実、彼を離宮から出してくれて以来、彼女の細腕は何度となく彼を救い上げてくれた。彼は女神の腕の中にいる。明るく美しい、入江のような腕の中に。 
     そんな取り留めのないことを考えている間に、ローゼマインの左手が小刻みに揺れて、フェシュピールの音が細やかに顫える。装飾的な和音がいくつか続くと、転調して最後の一聯へと移った。
    「フェアフューレメーアの腕の中、我らが御身に捧ぐるは、熱の鎮めを祈る歌……」
     その歌詞に釣られたのか、指輪から祝福の光がはらはらとこぼれる。慣れていても美しいと思えるその光景に、フェルディナンドは考えごともやめて、ただ見惚れた。
     穏やかな後奏の最後の一音をぽろん、と響かせると、ローゼマインはフェシュピールからゆっくりと顔を上げる。
    「……いかがでしょう?」
     にこりと笑んでそう問われる。フェルディナンドは口を開くと、ごく素直に感想を述べた。
    「美しいな。君の出す声や音色と曲調が良く合っていて、ずっと聞いていたくなる」
     ローゼマインはその言葉にきょとんとした表情を見せると、ややあって照れたような笑みを浮かべる。
    「そんなに気に入って下さったのですか? 嬉しいです」
     その笑みに引き込まれるようにして、フェルディナンドもまた淡く笑う。
    「君は、本当に海が好きだな」
     胸中で繰り返した言葉を口にすると、ローゼマインは間髪を容れずに、ええ、と返してくる。
    「君の目に映る海は、さぞ美しいのであろう……」
     その言葉にローゼマインは不思議そうに何度かまばたく。
    「フェルディナンドの目には、美しく見えませんか?」
     フェシュピールを一旦グレーティアに預けるのを見て、フェルディナンドはローゼマインの前に手を差し出す。今度は彼女も危なげなく立ち上がり、先ほどと同じくフェルディナンドの右隣に腰掛けた。
    「初めてこちらへ来た時は、単なる巨大な水の集まりにしか見えなかった」
    「ふふ、フェルディナンドらしいですね。――今は?」
     座った後もフェルディナンドの手を握ったまま、ローゼマインは優しく問いを重ねる。その仕草にどこかで安心して、彼は先ほど美しい音を紡いでいた指を撫でながら口を開いた。
    「君が美しいと褒めるので、そう悪くもないと思えてきた」
     ローゼマインはその言葉に、実に嬉しそうに目を見開く。
    「まあ、そうなのですか」
     きらきらと輝く月の瞳をじっと見つめる。この金色に目を留めてもらったものは幸せだ、と彼は思う。本も、海も、この土地も――あるいは自分も。
     事実、彼は今幸せだった。ローゼマインに望まれ、彼女の隣にいる権利を得て、名実共に彼女の家族になった。彼は今、誰憚ることなくローゼマインを愛することができている。
    「あ……ということは、ですよ?」
     ぼんやりと二つの月を見つめていると、ふと良からぬことを思いついた時に特有の物言いが聞こえてくる。彼は意識を現実に引き戻して、眉間に皺を寄せながら言葉の続きに注意を向けた。
    「わたくしが日頃からレッサーくんを可愛いと褒めていれば、その内フェルディナンドも、レッサーくんを可愛いと思って下さるようになるということでは?」
     唐突に発せられる残念な言葉に、思わず空いていた左手が伸びて妻の頬をぐにっとつまむ。
    「い、いらいれふ! ぼうりょふはんはい!」
    「そのように愚かなことを考えるのは実に君らしいな」
     先ほど言われた言葉をそのまま返すと、ローゼマインは頬をつままれているにも拘らず、どうしてか嬉しそうに目を細める。怪訝に思って頬から手を離すと、どこからかハリセンをもう一つ出してきて、ぱしん! と頭を叩かれた。
    「わーい、引っかかりましたね! 大成功です! って、い、いらららら! いらいれふー‼︎」
     先ほどよりも更に強い力で頬を引っ張ると、ローゼマインが涙目になって抵抗してくる。ハリセンを取り上げてから手を離すと、赤くなった頬に癒しを与える。
    「はぁ、ローゼマインにルングシュメールの癒しを」
     指輪から緑色の光が溢れて妻の頬へと吸い込まれると、すぐに赤みが引いてゆく。
    「癒しを下さるなら最初からつねらなければ良いのに……」
     不満たらたらな表情でそうこぼす妻の姿に、思わず笑ってしまう。
    「もっとつねって欲しいのか?」
     その言葉を聞いた途端、ローゼマインの両手が頬を覆う。
    「結構です」
     お返しに、その頭を再度ハリセンでぱしり、と叩く。むぅ、と頬を膨らませる妻を見ながらハリセンを遠くにやると、お茶の淹れ換えを命じた。
    「……ね、今度一緒に海を見に参りませんか?」
     新しく入ったお茶を飲んでいると、ローゼマインがふとそんなことを言った。言葉の意図が読めずフェルディナンドは首を傾げる。
    「日常的に目にしていると思ったが?」
     窓の外を見た。借景のようにして庭園の向こうに広がる海、そして国境門。日頃からこのように目にしているものを、改めて見に行くとはどのような意味だろう。
    「そうですけれど、そうではなくて……。その」
     ローゼマインは小さく首を振ると伸び上がり、片手を夫の肩に添えて口を耳許へ近付ける。フェルディナンドが右側へ上体を傾けてやれば、嬉しそうにもう片方の手で耳と口許を覆った。正に内緒話といった姿勢になると、ローゼマインは楽しげな囁き声を耳に吹き込んだ。
    「あのね、デートで海に行きたいです」
     デートが何のことなのか、以前説明された内容を思い出す。恋人同士が逢引することですよ、と言った時のいたずらっぽい表情も。
     自分の肩に手を置いてこちらを見上げるローゼマインも、その時と同じ表情を見せている。楽しそうで、いたずらっぽくて、ほんの少しだけ頬を赤くして。
     ――幸せそうだ。
     胸の中、不思議な高揚がじわじわと湧いてくる。ゆっくりと息を吸い、吐いた。
    「……君に望まれるものは、幸せだな」
    「はい?」
     意味が良く分からない、と言うように首を傾げた妻に、くすりと笑う。彼女に生きることを望まれ、幸せになることを望まれ、隣に立つことを望まれ、それが叶った今、また新たに様々なことを望まれる自分は、やはり果報なほど幸せだと彼は思う。
    「――いや。では、次か……その次の休みは海へ行くか」
     ローゼマインは少しばかり不思議そうな表情でこちらを見たけれど、一拍の後に破顔して、はい! とうべなう。
    「えへへ、嬉しいです。砂浜も歩いてみたいし、空から海を見るのも良いですね」
    「はぁ、やりたいことがそれだけあるのならば、事前に一覧を提出するように。勝手に君だけで計画するようなら次はないと思いなさい」
    「ええ? 折角のデートに喜んでいたのに、そんなことをしたらムードぶち壊しですよ。どこにデートでやりたいことを一覧にして提出するカップルがいるのですか……もぉ……」
     こちらの人間には意味不明な言葉が既に三つも飛び出しているので、とりあえずフェルディナンドはローゼマインの頬にぷすりと指を突く。黙れという意味なのは通じたようで、猶も言い募ろうとしていた口がゆっくりと閉じられた。
    「……今日、わたくしのほっぺが凄く犠牲になっていると思うのですが」
    「頬をつねられるようなことをする君が悪い」
     ローゼマインの言葉に鼻を鳴らしてあしらうと、今度はすらりとした左の人差し指が彼の右頬を突いてくる。
    「――今度は何だ」
    「いつもフェルディナンドはわたくしの頬を好きなようにいじくるのですから、お返しです!」
     口から再びため息がこぼれる。ハリセンといい、内緒話といい、今日のローゼマインは殊更に彼にじゃれついてくる。そもそも朝の時点では、今日は一日図書館に行くのだと言っていたのに、と、もう一度そこまで考えて、そういえば二人の休日が重なるのは随分と久しぶりだったことに思い至る。
     ――寂しかったのか。
     そう考えれば、図書館から早々に引き揚げてきたことにも、じゃれついてくることにも、「デート」の約束を取り付けようとすることにも説明がつく。
     ――気付くのが遅れたな。
     ローゼマインも、もしかしたら自分では気付いていないのかもしれない。生来の優しさのせいで、自分の感情の満足をいつでも二の次にする性格だから。
     そう考えて、フェルディナンドは彼の頬をぷすぷすとつついて遊ぶ左手を取る。指先に軽く口付けを落とすと、膝の上に下ろして両手で包むようにそれを握った。
    「良ければ、午後はここにいてくれないか?」
     金の瞳を覗き込んで、そう問うてみる。ローゼマインは一瞬固まると、やがてそわそわと落ち着かない表情でこちらを見返した。頬が先ほどよりも顕著に赤い。恥ずかしがっている時の表情だとすぐに分かった。
    「あの……お邪魔ではないですか?」
    「いや、少しも」
     そう返したのに、ローゼマインはなかなか返答を寄越さない。顎を引きがちにすると、まばたきの回数ばかりを増やす。その様子を眺めながら、フェルディナンドは四本の指先でそっと妻の左手の水掻きに触れた。
    「……君が寂しそうに見えたから」
     指の間の薄い皮膚は、ほんのりと汗ばんで湿っている。手が少し前より熱くなっている気がした。ローゼマインは自分からは易々と距離を詰めて来る癖に、こうしてフェルディナンドから近付くと、すぐに照れたり恥ずかしがったりして逃げようとする。逃げを打たれぬようにするためには、手を握って話すと良い。シュミルのように臆病なところのある彼女と共に過ごすようになって、自然と学んだことだった。
     ローゼマインは何度も何度もまばたくと、やがて観念したように彼の手をぎゅっと握り返す。
    「……そう、かもしれません。図書館に行って本を読んで、楽しい筈なのに、何だか落ち着かなかったのです」
    「そうか」
    「一緒にいたいです」
     いつも通りの、ローゼマインらしいまっすぐな言葉。それにふと笑みがこぼれて、また考える前に手が頭へと伸びる。ゆっくりと夜空の髪を撫でた。
    「ならば、そうすれば良い」
     ふにゃ、と表情が緩むのが見えた。頭から手を離す。親指で手の甲を撫でる。
    「フェルディナンドは何でもお見通しですね」
     安心したような声に、彼自身も心が和んで小さく息をつく。ローゼマインの幸せをまどかなものに整えてやることが、ひいては自分の幸せでもあるのだと実感する。
     ――君に望まれたから。
     望まれることがどれほど彼の心を強くし、また幸せにするか、きっとローゼマインは知らないだろう。知らなくても良い、と彼は思う。ローゼマインがリーゼレータに昼食をこちらで取ると伝えているのを見ながら、彼は今一度妻の手の甲を指の腹で撫でる。
    「ね、お昼の準備まで少し時間がかかるみたいですから、今度は一緒に弾きませんか?」
     そう言うと、ローゼマインは右手で書見台の上の楽譜を指し示す。そういえば、次のページに合奏用と思しき譜面も載せられていた。
    「――ああ」
     ゼルギウスがその会話を聞いて、演奏用の椅子をもう一脚出してきた。クラリッサをはじめ、側近達が後ろでわくわくとした表情を見せている。促されるままに向かい合う形で演奏用の椅子に腰掛け、軽くフェシュピールに触れて音階を確かめた。やがてどちらともなく視線を交わすと、お互いの爪弾く音が部屋の中に響き出す。
    「フェアフューレメーアの腕の中、月は昇りて日は沈む……」
     ローゼマインの伸びやかな歌声と主旋律に合わせて、フェルディナンドは慎重にフェシュピールを奏でる。二重奏の下の役は、海の深さを感じさせる和音を担っているのだと、弾きながらに理解する。
    「フェアフューレメーアの腕の中、優しき波が寄せ来ては……」
     女神の腕の中、満々と水が掬ばれていた。寄せては返す波の音が聞こえる。夕暮れ時にあって、水平線の西には熟れた太陽が沈みつつある。だが夜闇の気配を帯びた東の空、既にまた冴え冴えとした光の女神が姿を現していた。海は二つの光を身に受けながら、ゆらゆらと絶えずその水面を動かし、顫わせ、光を複雑に照り返す。夜空の深い青にも、夕暮れの鮮やかな赤にも見える水の色。重なり合う旋律は、そんな複雑な色彩を表しているようにも思える。
    「フェアフューレメーアの腕の中、船は波間を進み行く……」
     港から一艘の船が沖へと向かうのが見えた。幽けき燈を一つ伴うだけの、頼りない船だ。だがフェアフューレメーアは寛大な女神。航海の無事を祈る人間の心を汲んで、波よ穏やかであれと、水を湛える腕の力を緩めてくれる。
     日が没し、いよいよ世界は闇に染まる。星の瞬きを頼りに進む船。光の女神は闇の神を招きながら、中天へと至った。海はまるで青黒いインクのように月光を反射する。沈んでしまえば、二度と陸には戻れぬような深い暗黒。夜空に闇があるように、夜の海にも底知れぬ闇があった。だが、それでも船は躊躇うことなく進んでゆく。真摯な祈りであれば女神に必ず通じるのだと、人間達は分かっているのだ。
     繊細な和音が響いた。わざと少しだけずらして掻き鳴らされる音は抒情的で、フェルディナンドもそれに合わせ、少しだけこちらの和音に装飾を足してゆく。
    「フェアフューレメーアの腕の中、我らが御身に捧ぐるは、熱の鎮めを祈る歌……」
     しらしらと夜明けが近づく。青みがかった早朝の風景に、海の水だけが夜を映したように濃い。それを割り進む船が一艘。やがて舳先の向こうに、人々の目指す新たな土地が見えてきた。フェアフューレメーアは穏やかに笑むと、シュツェーリアの力を借り、船に追い風をつけて送り出す。
     再び太陽が東から顔を出した。インクのようだった海の水が、朝日を浴びて透き通る。水底には明るい青の世界が広がっていた。複雑な形の珊瑚がなだらかに棚を作り、煌めく鱗を帯びた魚がそこかしこを泳ぎ回る。
     ――女神の腕の中。
     そこは温かく、穏やかで、美しい世界だった。女神に望まれるものは何もかも幸せだった。
     ――君に望まれるものは何もかも……。
     無数の本に備わった知恵も、輝く海に湛えられた命も、この土地に住まう数多の者も。
     あるいは、自分も。躊躇いながらもそっとそう付け加える。彼は今幸せだった。こうしてただ生きて夜に日を継ぐこと、彼女の腕の中にいることを、女神は彼に望んだ。それが彼をこれほどに幸せにするのだと、きっとローゼマインは知らない。
    「我らが御身に捧ぐるは、妙なる海を讃う歌……」
     ぽろん、と最後の音が響いた。一拍の後、ふっとお互いに息を緩める。かち合った視線にあるものは優しい。
    「――美しいな」
     何が、とは言わなかった。女神の腕にあるものは、海も、月も、太陽も、人も、何もかも女神その人を映して、美しかった。
    「フェルディナンドも、とても綺麗でしたよ」
     温かい声が聞こえる。美しい世界に住まう喜びが胸に寄せてきた。その喜びを幸せと言うのだと、既に彼は知っている。
     これ以上言葉は要らない、と思った。だから何も言わず、彼はただゆっくりと微笑んだ。
    ほしなみ Link Message Mute
    2022/11/24 9:36:00

    麗しの海

    フェルマイ・星結び後
    Twitterに上げたものをこちらにも。引き続き居場所探し中……。
    #フェルマイ #本好きの下剋上

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    • 少女革命ウテナ考察既に小説ではない方でも上げてますが、試験。
      #考察
      #少女革命ウテナ
      ほしなみ
    • 2SS名刺SS名刺メーカーさんで作った短文画像から、気に入っているものを。

      #創作 #オリジナル #詩歌
      ほしなみ
    • 怖いもの知らずを愛する方法 #本好きの下剋上 #フェルマイ

      アナスタージウスとフェルディナンドがゲヴィンネンをしながらローゼマインの話をしていたら、おや?様子が……。
      アナスタージウスのコレジャナイ感には目をつぶって頂けると。

      (こちらを久しぶりに動かします。pixivとバイバイしたくて居場所を探し中……。)
      ほしなみ
    • 男と影と影に殺される夢を見た。
      毎日毎日、繰り返し見た。
      段々とそれが本当なのではないかと
      現実よりも真実なのではないかと思って
      汗みどろになって考えた。
      「殺されたくない」
      「殺されたくない」
      必死になって助かる方法を考えた。
      それで、そんな夢見がちで臆病な彼は
      いっそ影を自分から殺してしまえ、と思ったらしい。
      それで、ある秋の夕暮れ時に長く長く伸びた影に、ぐさりとナイフを突き立てた。
      影ば悶え苦しみながら小さく言った。
      お前が俺を殺したその時から、俺はお前でなくなった。俺は殺されて初めて俺になったよ。
      お前が世界の客になる日も、そう遠くは無いぜ。
      そして次の日から、彼に影は無くなった。
      彼は影の最期の言葉を不安に思いながらも、それ以外は心安らかに暮らしていた。
      なあに、あんなのは末期の強がりさ。
      そう思って、幸福をこれでもかと享受していた。
      不安も薄れ、平和が続いたとある日の事、夕暮れ時に影を殺した道を通った時だった。
      前から歩いて来る、真っ黒な奴が居る。
      彼とそっくりの背格好をした、陰鬱で凶暴な気配のする男だ。
      「やあこんにちは、俺を俺にした者よ」
      男は笑ってそう言った。彼はその男の正体に気付いて震え上がった。
      「お前は俺を世界の主にしてくれた。だからお前は世界の客になる。今までと入れ替えさ。さあ、お客人は世界にあれこれ口出ししちゃ失礼だろう」
      そうやって、彼は胸にぐさりとナイフを刺された。どばどばと溢れる血は、地面を真っ黒に染め上げた。男はにやにやと笑いながら、そのまま凝っと血を見つめていた。
      やがて、そろりと歩き出すと、血は影になって彼の足元にへばりついた。

      #創作 #オリジナル

      ***
      Tumblrから。
      影に殺される夢を見た。
      毎日毎日、繰り返し見た。
      段々とそれが本当なのではないかと
      現実よりも真実なのではないかと思って
      汗みどろになって考えた。
      「殺されたくない」
      「殺されたくない」
      必死になって助かる方法を考えた。
      それで、そんな夢見がちで臆病な彼は
      いっそ影を自分から殺してしまえ、と思ったらしい。
      それで、ある秋の夕暮れ時に長く長く伸びた影に、ぐさりとナイフを突き立てた。
      影ば悶え苦しみながら小さく言った。
      お前が俺を殺したその時から、俺はお前でなくなった。俺は殺されて初めて俺になったよ。
      お前が世界の客になる日も、そう遠くは無いぜ。
      そして次の日から、彼に影は無くなった。
      彼は影の最期の言葉を不安に思いながらも、それ以外は心安らかに暮らしていた。
      なあに、あんなのは末期の強がりさ。
      そう思って、幸福をこれでもかと享受していた。
      不安も薄れ、平和が続いたとある日の事、夕暮れ時に影を殺した道を通った時だった。
      前から歩いて来る、真っ黒な奴が居る。
      彼とそっくりの背格好をした、陰鬱で凶暴な気配のする男だ。
      「やあこんにちは、俺を俺にした者よ」
      男は笑ってそう言った。彼はその男の正体に気付いて震え上がった。
      「お前は俺を世界の主にしてくれた。だからお前は世界の客になる。今までと入れ替えさ。さあ、お客人は世界にあれこれ口出ししちゃ失礼だろう」
      そうやって、彼は胸にぐさりとナイフを刺された。どばどばと溢れる血は、地面を真っ黒に染め上げた。男はにやにやと笑いながら、そのまま凝っと血を見つめていた。
      やがて、そろりと歩き出すと、血は影になって彼の足元にへばりついた。

      #創作 #オリジナル

      ***
      Tumblrから。
      ほしなみ
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