トルコストーンのなぞ しのぶは、入り口で思わず立ち止まり、目を何度か瞬かせた。
後藤が手にしているものが、余りにも場違いで、さらに言うなら――とても失礼な言い分だとは思うが――彼と釣り合いが取れていなかったからだ。
頬杖をついて、空いた手でつまんでいるのは、小さな指輪だった。
見るからに女性用に作られている指輪には、リングの大きさに比べるとやや大きい石が乗っている。その上品な青い石の名をしのぶは知っていた。ダイヤやルビーなどと比べて高級でも高くもない石だが、素朴でありながらきりりとした印象をもつその宝石のことは、どちらかといえば嫌いではない。もっとも、宝石類全体にあまり関心が高くないのだが。
後藤は手にしたそれをただぼおっとしたまま眺めている。例えば大事そうにつまんで、見ながら自然とにやけているのなら、同僚にもついにそういう女性が出来たのかとも思うし、逆に持て余し気味に持って思案にくれているようなら、なにか訳ありのものを押し付けられたのかとも思う。しかし、元々何を考えているか解らない顔ではあるが、それでもああもぼおっとしたままでただ指輪を見ているものだから、しのぶは少し困惑したのである。
先程の推測のうち、同僚に女性が出来たとき、という仮定を立てた際に胸に浮かんだ、あまりなじみのない感情はさりげなく無視して、しのぶはいつものように挨拶をした。
「後藤さんおはよう。今日は早いのね」
「ん、ああ。しのぶさんおはよう」
普段と変わらず朝の爽やかさとは無縁そうな微笑みで返される。少し前のぼおっとした様子はもう微塵も残っていない。そのくせ、手には指輪を持ったままだ。
ほんのわずか、しのぶの視線が指輪に向かった。その、眼球のちょっとした変化をしっかりと拾ったらしく、後藤はにやりと笑って、
「気になる?」
といつのも調子で聞いてきた。
「別に。ただ珍しいと思っただけよ」
「やっぱ珍しいと、思う?」
「そうね、自分でもそう思ってるんじゃないの」
「まあね」
しのぶが話題に乗ってきたからだろう、語尾に楽しそうな感情が乗る。
「――トルコ石、よね」
「そう。なんでも魔除けになるらしいよ」
後藤は石をしのぶのほうに向けた。
トルコ石はトルコ地方で取引をされたことから呼び名がついた鉱石で、大体は青空を切り取ったような、つるりとした青色をしている。いま後藤が言った通り、魔除けとして古代エジプト時代から珍重されたと、昔、誰かからか聞いたことがあった。
後藤の持つトルコ石は、鉱石をほぼ球状に加工したものだ。
「貰ったの?」
「うん。まあね。持ち主のお嬢さんと、ちょっと、縁があって」
そこで言葉を切って、後藤はいつもの通り「聞きたい?」と聞いてきた。
だからしのぶもいつもの通り「別に、興味ないわ」と返せばいいのだが、
「――長い話でないのなら」
と口から出たのは、恐らく後藤とトルコ石という取り合わせが物珍しかったからであろう。決して前の持ち主のお嬢さんとやらに興味があるから、ではない。
「大して長くもないよ。ミーティングまでには終わるからさ、じゃ、ちょっと付き合ってよ」
そう言って、後藤はおもむろに口を開いた。
久しぶりの非番、だというのに、他の非番の日に比べれば早く目が覚めた後藤は、昼過ぎにふらりと外出した。買い物があるわけでもなし、特に用があるわけでもない。文学的にいうなら春の陽気と薄く霞む空の色に誘われたからで、要するに気まぐれの散歩である。
その日の入谷には、平日だというのに子供の姿が多く見られる。さて、と一瞬頭をひねったが、よく考えればまだ春休みの真っ最中だ。子供とも、行事とも無縁の生活を長く送っているから、そういう感覚がどうも薄いのだ。
本当に目的のない散歩だから、ちょっと近所をぶらついたらすぐに家へと帰るつもりだった。が、そうそう予定通りに進まないのが世の中である。いくつめかの角を曲がったところで、
「あら、後藤さんおひさしぶり」
とご近所さんに声を掛けられた。
「ああ、乙女さん、久しぶりだねえ」
後藤が挨拶を返したのは、古くからこの町で駄菓子屋を営む萩原乙女という、ハイカラな名を持つ名前だ。やはり古くからこの町に住んでいる後藤は、昔この店に良くお世話になった。その頃の店主は乙女の母親で、乙女はたしか高校ぐらいだったはずだ。学校を卒業した後しばらくどこかへと移っていた乙女は後藤が高校生になる頃にはまた入谷に戻ってきていて、母親の代わりに店の主となっていた。
時代は流れ、乙女はかつて彼女の母親が彼女の店を譲った年に近くなったが、彼女には譲る相手がいない。二人の娘はそれぞれ普通の仕事をもち、遠くの町で暮らしている。だから、この店は自分が出来るだけ長く持たせるのさ。そういって乙女は地上げ屋の攻撃もものともせずに、今日まで店の奥で子供達相手に商いを続けてきた。
乙女の母親も乙女もちゃきちゃきの江戸っ子で、小さめの体からとは思えないほどのパワーをもっている。後藤は子供の頃から顔を知られていて、なおこの町に住みつづけている数少ない人間であるからか、乙女は彼を見るたびににこにこと声を掛けてくる。前も「この前テレビで見たよ。お宅の部下たち、暴れロボット相手に大活躍じゃないかい」とにこやかに言われた。そのとき、その部下たち(正確を期すなら複数ではなく単数だ)が、パトカーを二台と一般車両数台を踏み潰したことを知っている後藤は、ただ曖昧に笑って返したものだった。
「後藤さん、今日は非番かい。じゃあ、茶でも飲んでいきなよ」
乙女はせっせとなにかを拾いながら、後藤を店中へと促す。見ると、福引の球を拾い集めているらしい。
「どうしたの?」
「いやあね、さっきそこの子が引いたときに、他の人が当たっちゃってさ、それでちょっと球がこぼれちゃってね。でも、これでよし」
いいながら、年を感じさせない身のこなしでさっさとすべて集め終えた乙女は、それをすばやく、普通のものよりも小さくあつらえてある、あのがらがらとまわす福引の機械の中へと戻した。三回十円で引けるこのくじは、赤のはずれ三つでも十円、空色の当たりがひとつでも出たら百円相当のお菓子が当たるとあって、まだお小遣いが少ない、将来のギャンブラー候補たちががらがらとまわしていく。後藤がまだ小学生だったときは、確か今の十円ぐらいで五回引けた。
小さなばくち打ちは、どうやら当たりを引いたらしい。手に杏子棒をいくつももってご機嫌である。何度かここで茶をご馳走になっている後藤は、お茶を入れに店の奥へと消えた乙女の後を追うかたちで店に入り、商品の間を縫って、レジの隣にある丸椅子に腰を下ろした。軒先には女子大生と思しき子が、袋を片手になにかを物色してる。その子は乙女が後藤と自分の分のお茶を持って、奥から出てきたのを見計らって、
「おばちゃん、これ」
とビニール袋を出してきた。
中身は赤、緑、黄色、緑、青に水色、蜜柑色……、と色とりどりのゼリービーンズである。
「ゼリービーンズ? 駄菓子屋の中に?」
「そう、変わってるでしょ」
「確かに、変わってるわね」
この駄菓子屋にあまりふさわしくない商品は、乙女が入谷から出て行っていた長くはない期間に、アメリカに少しの間住んでいたことに由来する。現地で向こうの駄菓子とも言うべきこの菓子に出会った乙女はえらくこれを気に入り、自分が駄菓子屋を継ぐとすぐに問屋を探し回り、舶来品を品揃えの中に加えたのであった。
当時高校生だった後藤少年は、突然出てきた、この入谷に似つくわないカラフルな菓子に、面食らったのを覚えている。味など関係なしに、ガラス瓶の中に詰まったそれは、この場所で数少ない日本以外のものだった。ものめずらしく買ってみたら、妙に固くて味も日本に似つくわないものだったので、それ以来食べていない。
女子大生は代金――ひと掬い二百円――を置いて、帰っていった。
入り口では、先程の男の子が、ちゅぱちゅぱと凍った杏子棒を吸っている。
遠くで小さな子達が掛け声を合わせながらなにかではしゃいでいる声が、うっすらと響いてくる。どこか時間が止まったような、そんな空気のよどみが春の日によって心地よいまどろみとなって、店の中に溢れていた。ふ菓子、かりんとう、ラムネにミルク煎餅、さくらんぼ餅にすもものシロップ漬け。安っぽい甘い匂いが溢れる店内で頂くお茶は、家で一人で飲むのとなぜか味が違って感じる。
乙女は大きく欠伸をして、後藤のほうを見た。
「ああ、この年になると疲れるね。どうだい、後藤さん、最近は」
「どうもこうもないよ。乙女さんが知っているとおりだよ」
「そうかい。でも、忙しそうだねえ。ロボット部隊を率いるなんて、私が小さかったころには想像もつかなかったさ」
乙女さんにとって、レイバーもアシモもアイボも、一まとめでロボットである。もっとも、職業柄レイバーには詳しい後藤だが、そのくくりには賛同出来る部分もあるので、別に訂正はしない。
「でも、レイバー使おうが使わまいが、結局は人間相手の職業だからね。外見が変わっただけで、やってることは昔と変わらないさ」
「人間相手、か。そうだよね。でも、そう考えるなら昔に比べるとやっぱり忙しいんじゃないかい。最近は特にたるんでるよ」
乙女はそういって深くため息をついた。コンピューターで商品管理、なんてしていないこういう店は、万引きの対象になりやすい。しかも金額が安いから、罪悪感なんてないに等しい。盗む方に言わせれば十円二十円でけちけちするな、となるかもしれないが、それが続くと店側には何万単位の損害が出る。「しかも現場抑えてしかっても、『返せばいいんでしょ』とか開き直っちゃってさ」と乙女はどこか寂しそうにいう。
せちがらい世の中だ。
後藤が「そんなに被害が大きいなら相談に乗ろうか?」とご近所精神を発揮しようとしたとき、さっきまで杏子棒をしゃぶっていた男の子がのっそりと現れて、
「おばちゃん、これも」
と袋を出してくる。中身は先程と同じ色とりどりのゼリービーンズ。人が買っているのを見て、自分も欲しくなったのだろう。
「はい、二百円ね」
そういって差し出した手の平に、硬貨を二枚出してくる。
「ありがとう」
乙女が言うと、男の子も「ありがとう」といって店の外に出て行った。しかし、そこからは動かずに、今度は袋に手を突っ込んで、丁寧にまず一粒出して、口に放り込む。
「売れてるねえ、あのお菓子」
「おいしいからね。後藤さんも持ってく?」
「いや、俺はいいよ」
心からの断りを入れたとき、
「すいません!」
と、若い女性の声が響いた。
店の前には、先程ビーンズを買っていった女子大生らしき子がひとり。急いで戻ってきたのだろう、少し荒い息のまま、彼女は続けて早口でこういった。
「ここに、石、落ちてませんでした?」
「石?」
「そう、指輪の石、落としちゃったんです」
そういって、乙女と後藤に向けて、右手の甲を見せる。薬指に銀のリングがひとつ。そこの真ん中に何かが嵌っていたらしい後だけが窺える。そこに嵌っていたものをここで落とした、ということらしい。
「どんな石だい?」
「水色のです。ここに来るまではあったんだけど……」
先程見たらもうなかったんです。女性はそう告げた。
「私は特に見てないけど……。後藤さんは」
「いや、俺も」
指輪の大きさから考えて、それほど目立つ大きさではないだろう。仮に道で落としたとしても気付かないのではないか。しかし、女性はここで落としたのは確かだという。道の隅から隅まで見ながら戻ってきたから間違いないと。
のわりには肩で息をしてるのにね。心の中で突っ込んでおいて、後藤は見える範囲で店内を見渡した。薄暗い店内では視界もあまり効かないが、彼女が伝えたような水色の物体は落ちてないように見える。
「間違いなくここなのかい?」
席から立ち上がって、乙女が聞く。女性が力強く頷いたのを受けて、
「あ、丁度良かった、運がいいよお客さん」
「え、なんでですか?」
「ここにそういうことに関する専門家がいるからね、すぐに見つけてもらえるよ」
そういって乙女は後藤の肩をぽんぽんと叩く。
「せんもんか?」
「そう、実はこの人は警官でね。こんなことならすぐに解決してくれるよ。ねえ、後藤さん」
「え?」
後藤は思わず声を上げた。
「後藤さん、こういうのすぐわかるんだろ?」
どうも乙女にとっては名探偵と警察官は同じ入れ物のなかにあるらしい。実際は放射能でもなんでも防げるほどの、分厚い壁が間を仕切っているのだが。警備部じゃなくて刑事部ならまだ近いかな、とか少しだけばかな考えが頭を過ぎる。
大体事件性もなく、ただなくなっただけの宝石、それも特徴もない小さいものを探し出すことは名探偵でも困難だろう。発生から発覚までの時間は短いが、しかし証拠が足りない。
それでも一般市民の期待に応える努力をするのは公務員の役目だからと、不真面目な公務員である後藤はとりあえず質問をしてみた。
「えー、そうだねえ……。あのさ、ここに来るまでは確かに付いてたの?」
「間違いないです。で、店を出てそんなに行かないうちに気付いたから」
「落ちた理由に心当たりは」
「ちょっと台座から外れかかってて、今日か明日には直しにいこうと思ってたんだけど」
「じゃあ、ちょっとした衝撃ですぐ落ちた、と……」
後藤はそういいながらしばし思案する。と、そのとき店に来てからの出来事が頭の中をよぎる。
そのひとつの場面が、後藤に一つの推論をもたらした。
「あ、そうか。きっと間違えたんだ。色が色だから……」
小さな呟きだったが、乙女も女性も聞き逃すはずが無い。
「色が色だから?」
「間違えた?」
「おばちゃん、なんか固いよ、これ」
突如割り込んできたその声に乙女と女子大生は、片方は驚いて、片方は顔を真っ青にして振り向く。
そこには、色とりどりのゼリービーンズを持った少年が立っていた。
「つまり、その女の子がゼリービーンズを取っているときに、はずみで落ちてまぎれた、っていうの?」
「違うよ」
「え?」
「だってさ、ビーンズっていうぐらいだから豆の形をしてるわけじゃない。指輪用に加工した石はあんまり豆の形にはカットしない。同じ形の中にさ、違うものがあったら目立つでしょ」
「それはそうね。……じゃあ、石はどこに?」
「さっきも言ったとおり、俺の目の前ですべては起こってたんだよ」
「まさか――」
石の持ち主が絶句する。
「私の石、食べたの!」
悲鳴にも似た声を上げて、今にも飛びついて揺さぶり始めそうな様子の彼女を、乙女は、
「まあまあ、落ち着いて……」
となだめるが、頭に血が上った彼女の耳にはいかんせん届かない。
「そんな! カレシに貰った指輪なのに! ちょっとどうしてくれるのよ!」
「どうしても、食べちゃったもんはしょうがないじゃないか」
「しょーがないわけないでしょ!! ちょっと、弁償しなさいよ! とりあえず吐いて、ほらすぐに!」
「そんなこと言ったって無理なもんはムリだろうよ」
「そんな、私これからカレシと会うっていうのに! なんていい訳すればいいのよ!」
「あのー」
タイミングを見計らって、後藤がのんびりと声を掛けると、乙女と女性は同時に振り向いた。
「どうしたんだい、後藤さん」
「ちょっと、なによ!」
「まあ、とりあえず落ち着いて。男の子、凍っちゃってるよ」
後藤が言った通り少年は固まっていた。突然年上の女性から肩をつかまれて一方的に怒鳴りつけられたなら当然の結果といえるだろう。泣き出さなかっただけ偉いともいえるが、単にびっくりして泣くタイミングを失っただけかもしれない。
「それに、ビーンズの中にまぎれたんじゃないんですよ」
「え?」
女性と乙女は同時に驚く。その二人の反応を合えて無視して、後藤は確認のために、乙女に質問をした。
「さっき、福引がさ、台に人が当たって落ちた、っていったじゃない。それって、こちらのお嬢さんでしょ?」
「その衝撃で石は床に落ちた。で形が丸かったから乙女さんが福引の球と間違えたんだよ」
「つまり、石が石だったために、プラスチックと混ざっても違和感がなかった、と」
「そう。それに薄暗かったし」
後藤の言う通り、彼女の指輪についていたトルコ石は福引の中から見つかった。他の宝石と違い、不透明な石だからこそそのような勘違いが起こったのである。
「それで、めでたしめでたし、ってことね。だとすると、なんでその石が後藤さんのところにあるのかしら」
「それが奇妙な縁ってやつでさ」
女子大生風のお嬢さんはとても感激した。なんでも、カレシが彼女に不幸が訪れないように、と直々に選んでくれたらしい。
「他のものに当たったから、石に傷が付いてるかもねえ」
と心配する乙女に女性は、
「見つかっただけでも御の字です」
と笑顔で答え、未だ立ち尽くす少年にも丁寧にお詫びをして帰っていった。話はとりあえずここで終りとなる。
しかし、なぜかこの話には後日談がついていた。
先日の帰宅途中、後藤がたまたま店の前を通ったとき、またまた乙女が、
「後藤さん、丁度いいところに来たわね」
と彼を呼び止めたのだ。
「こんばんわ乙女さん。で、どうしたの」
「これ、預かってるんだよ。受け取ってもらえないかい」
そういって差し出されたのは先日の大騒ぎの主役であるトルコ石の指輪であった。ガラにもあわずきょとんとする後藤に、
「あのこがね、あのときのお礼です、って。せっかくだから取っときなよ、探偵っていうのは解決した事件の記念品とかを貰うもんなんだろ?」
だから警察官と探偵はちがうものなんだけどなあ、というコメントはこの際置いておいて、後藤はもう少しピントがあった質問をした。
「どうしたの、これ。お礼って、あのこの大事なもんだったんじゃないの?」
「いやあ、なんでもあれから色々あったらしくってねえ」
乙女はすこし苦笑いをしながら事情を話してくれた。なんでも先日、件の女性が乙女をひょっこり訊ねてきたらしい。あの時は一方的に騒いで悪かった。なので改めてお詫びがしたい、というから、最近の若い者を嘆いていた乙女は偉く感動して、さっそくお茶を振舞って、それほど気にもしなくていい、自分の勘違いもいけないのだから、と言って聞かせた。
「で、あれからいい人とはどうだったんだい?」
話の流れからさりげなく聞いたのだが、乙女のその発言を聞いた途端、彼女の目にじわりと涙が浮かんできた。
どうやら地雷だったらしい。
「あのあと行ったら……、部屋に女がいたんです」
「あらあ」
「しかも、その子にはサファイアなんか送ってるんですよ! 私にはトルコ石だったっていうのに」
当人はそれぞれに誕生月の石をあげたんだ、と必死に言い訳をした。しかし二股を掛けていたことに変わりはない。怒り心頭の彼女は右の頬に一発グーのパンチをお見舞いして、それで恋は終わったとのことだった。
大声でまくし立てるように愚痴をこぼした彼女だったが、それでまた気分が落ち着いたのか、小さく笑って「またやっちゃった……。ごめんなさい」と告げたあと、思い出したようにポケットから指輪を出した。
「これ、よかったらあのお巡りさんに渡して貰えません? あの時、冷静に探してくれてありがとう、って伝えてください」
「つまり、体よく失恋の思い出とやらを押し付けられたってわけ」
「そういうこと」
後藤は指輪をいじりながら答えた。
「そのあとスーツのポケットに入れて帰ったんだけど、家に出してくるの忘れちゃってて、今朝見たらあったから」
「で、どうするの、それ」
「さて、どうしようか」
そのとき、扉が軽くノックされて、遊馬が顔を出す。
「隊長、ミーティングの時間です」
「おう、すぐ行く」
後藤はそう言って席を立って、ふと思い立ったようにしのぶの方にと足を進めた。
「しのぶさん、ちょっと」
「あら、な……!」
次の瞬間、しのぶは今日二度目になることだが、しばし思考が固まった。後藤が何気ない様子で左手を取ると、自然な動作で中指にトルコ石の指輪を嵌めたのだ。
「あ、なっ……、後藤さん!」
「ちょっと預かっておいてよ。すぐ済むからさ」
「ちょっと、ってなに考えてるのよ!」
「ほんと、すぐだから。……それに、やっぱ似合うじゃない」
「似合うって」
思わぬ言葉に絶句したしのぶを見て、後藤はいじめっこのような笑顔を浮かべて、さらに言葉を続けた。
「『開放された心』」
「はい?」
「宝石言葉、だって。いやあ、人間の想像力は底が深いよね。それじゃ」
しのぶが混乱していることをいいことに、後藤は手をひらひらと振りながら出て行ってしまい、隊長室には、顔を微妙に赤くしながら、左手を見つめるしのぶだけが残された。
「――なにを考えているのかしら」
そっとひとりごちる。その思考がわからないのは日常茶飯事だが、それがこういう方面――具体的にどういう方面かと言われればしのぶは困ってしまうのだが――に発揮されると、ただ振り回されるだけになってしまう。
「大体、人から貰った指輪を他の女に嵌めるなんて、常識がないじゃない」
自分でも言っている事がずれているのを承知で、さらにひとりつぶやいた。左手の中指に収まったトルコ石は青く静かに輝いていて、その控えめな存在感は、微笑ましい印象を与えてくる。
シンプルながら指輪の細工も細かく、なかなか上品だ、といつのまにかしげしげと観察していたしのぶは、唐突にあることに気が付いた。
トルコ石がこの指輪から外れたことから始まった騒動のはずだった。しかし、指輪には、直すためになにかしらの手を加えた様子が見受けられなかったのである。
いや、うまい職人に頼めばそれくらいわけないだろうし、素人ではなく玄人が見れば、細工の後など一目瞭然なのかもしれない。
しかし――。
「……本当に、なにを考えているのかしら」
なぜか指輪を外す、ということは考えないままに、しのぶは青空を切り取ったようなその石を、ただただ眺めていた。