夏色「こーゆーとだけきは、職場が辺鄙な場所でよかったと思うな」
「こーゆーときだけ?」
「他にあるか?」
「……あんまりない」
「だろ?」
遊馬はそう言って、アリスブルー色をしたラムネバーを一口頬張った。野明は野明で、最近あまり見かけなくなったパピコのコーヒー味をちゅーちゅーと吸っている。
都会の熱帯夜特有の、あのむせかえるような昼の名残はここにはなく、替わりに様々な匂いが空気に満ちている。
草の青臭さ。
舗装されていない地面の、埃と微生物の匂い。
海からくる潮の香り。
機械を扱う場所特有の、工業油のクセのある匂い。
トタン屋根に積もった土埃。
そして、毎年一度だけ漂ってくる、かすかな火薬。
ヒュ~……、というか細い音がして、夜空を大きな華が彩る。それから一瞬遅れてドン、という腹に直接響く景気のよい破裂音。
普段薄暗い、いや、はっきりといえば、二課棟の明かりが届かないところはほぼ漆黒といってもいいこの埋立地も、今日だけは色とりどりの光に照らされている。
一発、また一発と上がるたびに、のんびりと見物としゃれ込んでいる当直の整備班員なとから、歓声と「たまやー」「かーぎやー」という掛け声が上がった。
東京23区の端の端、海に限りなく近い埋立地に存在する特車二課。
警察の所有地につき関係者以外立ち入り禁止。
目を凝らさなくても、視線の先には東京名所、レインボーブリッジがその姿を誇示している。
つまり、計らずとも東京湾を舞台に毎年行われる花火大会を見るには、とっておきの特等席というわけだ。
しかも、ものが上を見上げる花火大会であるゆえ、いつもこの手のイベントにひっぱりだこの二課も出番がない。
一度だけ、二課創設元年に南雲率いる第一小隊が警備に出動したのだが、見物客からでかいじゃまだ見えないすぐにどけ税金泥棒、という苦情が殺到したため、それ以後花火大会だけはお声が掛からなくなった。
もちろん、準が上につくとはいえ待機中なのだから派手に花火を楽しむわけにはいかない。
しかし、こうしてアイスを食しながら、屋根の上でのんびりと夏の風物詩を楽しむことぐらいならば許されるのであった。
あるいは、上司が上司であるが故かもしれないが。
「それにしてもさ、せっかくまだいるのに、太田さん本当に見ないのかな、もったいない」
「大田はあれで、生真面目な性格をしてるからなあ」
「うわぁ!」
にゅっという効果音以外は思いつかないような得体の知れない現れ方をした後藤に、二人は文字通り飛び上がった。普段からだが、この人は存在感は半端ない癖に、本当に気配がない。
「なに驚いてるの。ほら、差し入れ」
突き出されたコンビニの袋の中には、汗をかいたお茶の缶が無造作に入れられている。
「……いいんですか?」
「部屋に残ってる組には、先に渡してきてあるから」
いや、そういう意味で言ったわけじゃないんですが、と遊馬は口に出そうと思ったが、寸でのところで止めた。後藤のことだ、それを承知で、その上ですっとぼけてるに違いない。
そんな遊馬と対照的に野明は、
「わぁ! 隊長、ありがとうございます!」
と素直に喜んで烏龍茶を手にとった。そんな自然体の野明に倣って、ま、いいかと心の中でつぶやきながら、遊馬も「ごちそうになります」、と礼を述べながらビニールの中を探る。しかし、花火、せっかくだから見たら? と言ってくるだけにとどまらず、加えていくらなんでも差し入れまで持ってくるとは思わなかった。相変わらず何を考えているのか分からない人である。
後藤は二人が自分の分を取ったのを見て袋を引っ込めた。残る缶はあと二つ。一つは彼の分だとしてもう一つは、言うまでもないだろう。南雲がどんな顔をして後藤にはしゃいでいる部下のことで苦言を述べるのか、それを後藤がこのお茶一つでどう言いくるめるのか、遊馬はほんの少しだけ、想像してしまった。
「しっかし、本当に良く見えるねー」
後藤が腰に手を当てて、低く口笛もどきをふきながら感心した声を出すと、遊馬もまた、目を海上へと向けた。
また、大きな一発が空に上がった。一瞬だけ大気が淡い紅に染まる。
「まあ、遮蔽物が全くないですからね、その内開発が始まったら事情も変わってくるんでしょうが」
「で、始まると思う?」
「それはないでしょう」
遊馬は夜空に咲きつづける華を見ながらあっさりといった。同じ東京湾岸地域でも、ここはウォーターフロント、なんて響きから最も遠い場所の一つだ。よほど土地が足りなくなるか、ある日突然経済的な付加価値がつくかしない限り、このあたりは永遠にぺんぺん草とセイダカアワダチソウの楽園でありつづけるだろう。そして、それらの経済的商業的条件が満たされることが恐らくあるまい。
「まあほどほどにしときなさいよ、お前さん達、準待機とはいえここにいる以上仕事中なんだから。メリハリははっきりと、な」
最後の最後に上司らしいことを言って、後藤はまた下へと降りていった。
「これ飲み終わったら、下降りよっか」
「そうだな」
頬に当たるそよ風は生ぬるい。
ドン、という重い音と共に、空気は色をめまぐるしく変えていく。
青、黄色、緑……、少し間を置いて、赤と青に。
その彩りが、耳元で今は日常に非ず、と囁いているようにも思える。
「……前さ」
「ん?」
「高校ん時、理系の友達がいてね」
烏龍茶を一口飲んで、野明は続ける。
「あがるたんびに化学変化を言うんだよね。あの色ならなにだ、緑は何色で、って」
「へぇ」
「聞いてるうちにさ、花火が化学式に見えてきて、きれいなんだかなんなんだか」
「そういやあ形も似てるかもな」
いいながら、さっそく花火がベンゼン環に見えてきて、遊馬は思わず苦笑した。
「だからさ、今でも花火見ると、その子のこと思いだすんだよね」
「つまり、いい友達だった、ってことじゃねえか」
「うん、そう」
真面目な子だったんだよ、すごく、と野明は自分の自慢でもするようににこやかに話す。そんなところにも野明の育ってきた環境が、うっすらとにじみ出ていた。
まっすぐ、どこまでも真っ直ぐに。
捻くれている自分とは、本当正反対だ。もっとも、自分は思っているほど捻くれているわけでもなかった、とここに来てから思い直したりもしたが。そういうところも含めてウマがあっているのだろうな、と遊馬はぼんやりと、それでいて醒めた目で分析する。
「遊馬はさ、そういう思い出とかないの?」
「花火にか?」
「そう、例えばデートしてるとき、うっかり相手の足を踏んじゃった、とか」
「そうだったとしたら、絶対野明には教えない」
「なに、図星?」
「なわけないだろ。……そうだな、思い出、ねぇ」
遊馬はしばし記憶を廻らせてみた。毎年旧盆のあたりに大きな大会があったことは覚えている。利根川沿いに住んでいる友人が、音と煙がすごいからありがたみもなにもない、と愚痴っていたからだ。何度か見にもいったが、大抵は気の置けない友人達とで、それも中学ぐらいまでだったか。それでなくても暑い時期にわざわざ人ごみの中に行くのは苦行に近いと思う。
今日みたいなシチュエーションなら大歓迎なのだが。
「……ないな」
「ほんと?」
「だから、なんで嘘をつかにゃあかんってんだ」
「それもそうだね」
そうか、なんかつまんないのー、と勝手な感想を述べて、野明はパピコをちゅーっと吸った。先ほどまで凍っていたそれも、今は溶けきる寸前のシェイクのように、ぐにゃぐにゃになっている。
自分が手にしているお茶の缶も、急激に温くなりつつあった。
「ねえ」
「あんだ」
また、野明が口を開く。
「花火ってさ、なんかこう、潔いよね」
「潔い?」
「うん、ぱっと咲いて、ぱっと散る。こう、一瞬に掛ける、っていうのが気持ちいいかも」
「ふーん」
匠達が試行錯誤し、長い時間を掛けて精魂込めて火薬を詰めた結晶は、わずか数秒で残像を残して消えていく。その儚さが、一層人の心を打つ理由なのかもしれない。それでなくても日本人は儚いものや潔いものが昔から大好きだ。
しかし、それと野明の言った潔さは、微妙に意味が違っているようにも、遊馬は感じた。それはきっと。
そっと野明の方に視線を向けてみた。彼女の大きな瞳に、いくつもの大輪が映っては消えていく。ここのところ連日の出動で、両小隊とも疲労が慢性的に蓄積している。思えばこの花火鑑賞も、後藤なりの慰労なのかもしれなかった。
ふと、イングラムに乗り込むときの野明の顔を思い出す。唇がきりりとしまり、目に宿る光は警察官のそれだ。コンビを組んで早一年近くが経とうとしているが、ここまでで一番感じるのは、彼女のこの仕事への適性だ。第一小隊と違いミスもするし、スムーズにとは行かない場合が多い。でも、いつだって瞬時に一番良い判断をする。それは天性のものだ。自分にはない、天性のカン。
野明は、花火を見て素直に喜んでいる。こうやって肩の力を抜いて、また戦場へと戻っていくのだ。そして、また一瞬に掛け、見事キメる。そこにいる誰かのために。
「ちょっと、似てるかもな」
思わず口に出していた。
「似てる、ってなにが」
「ん、いや、花火と……」
「と?」
そこで遊馬は口篭もった。すらりと続きがいえる素直さがあったら、人生もうちょっと楽になるのかもしれない。しかし、今回は特にこっ恥ずかしいことを考えていた、と感じているだけに、出来れば口に出したくない。
「いや、なんでもない」
「またまた、相棒にも言えないことなんだ?」
「そうじゃない」
「あ、ひょっとして昔のなにかをやっぱり思い出したとか」
「だから、なんの思い出もない、っていっとろーが」
「じゃあ、なにさ?」
少しの間だけ、沈黙が訪れた。ドン……、ドン……、という音が自分達の周りを包む。
「……なんだっていいだろ」
「あー、やっぱなんかあるんだ」
「だー、しつこいぞ、野明!」
「だって遊馬、顔赤いぞ」
「これは暑いのと花火に照らされてるからだ!」
一際大きな音と共に、空に三尺玉が鮮やかに咲いた。