春の潮騒
日差しがじりじりと背を焼いていく。
手に持って歩いているジャケットもただ暑く邪魔苦しい。白い煉瓦敷きの道に歩く人影は少なく、まるでがらんとしたこの街に自分たちの足跡が響き渡り、何度も反響しているような錯覚すらしてくる。全面ガラス張りの建物たちは陽光を遠慮なく乱反射させ、せめてもの言い訳のように植えられた、細く頼りない街路樹を黒く浮き上がらせていた。しかし、影はそれ程濃くはない。まだ夏には遠いからだ。
「暑いな」
横を歩く男が、足を止めて呟いた。Yシャツの袖はとうに捲くられ、少し皺が寄ったハンカチで首筋を拭う。
「殆ど風が無いからな」
有栖は返して、隣に立ち止まった。歩道は煉瓦と青いガラスによる洒落たデザインが施されている。しかし、ガラスが嵌っていただろう場所は大抵ぽっこりと穴が開いていた。確かにガラス製の煉瓦はオブジェとしても美しいだろうが、だからといって歩道に埋まっているものをわざわざ外して持って帰るのは酔狂としか言い様がないだろう。
その、時々穴が空いている道路と、白と青とガラスで構成されたビルが聳え立つ人が居ない街は、とても釣り合いが取れているように感じられた。
火村がひとつ息を吐いて、再び歩き始めると、有栖もそれに習う。
やっと、力ない風が前方から吹いてきた。二人とも無意識にその香りを嗅ぐ。
「……海が近いな」
確かめるように火村が呟いた。目的地まではあと少しのようだ。
『東京に居る、って言ってたよな。仕事はどれくらい進んでいて、あと何日ぐらいこっちにいるんだ?』
と名乗りもしないぶしつけな電話を貰ったのは二日前の夕方、神田をうろうろしていたときのことだ。
火村のフィールドワークに助手という名目で付いて行く事は多いが、それが京阪神ではなく関東圏、となると殆どないと言っていい。その物珍しさと、その日の午前中に東京での打ち合わせが終わっていたこと、そしてなによりも個人的信条のもと、有栖は品川のシティホテルに宿を取った。ペットも植物も帰宅を待っていないやもめ男の一人暮らしならではの気軽さが、こういうときにはありがたい。
東京の桜は、既に見頃を過ぎているようで、ただ歩いているだけでも至る所で花吹雪に出会った。珀友社から歩けなくはない場所には日本武道館があり、周りを囲む堀は薄紅に染まっていて、その朽ち果てる姿の鮮やかさが春の姿を感じさせる。
しかし、十五階のツインルームから見える風景からは、季節感がまるっきり抜けていた。東京だけではない、都会と言われる街は大抵そうだ。身びいきから大阪は違うといいたいところだが、梅田のど真ん中で自然の春を感じることはやはり難しい。
暮れなずむ街を眺めながらそんなセンチメンタリズムに浸っているところに、有栖を東京に留めた張本人が現れた。彼も用事が終わり次第、さっさと京都に帰還するつもりだったが、たまたま馴染みの刑事に挨拶をしようと顔を出した警視庁で新たなフィールドに出会ってしまったらしい。
東京は葛飾と千葉は幕張で見つかった二つの死体の話は、有栖も聞き覚えがあった。昨夜、ホテルの小さなテレビ画面の向こうで、顰め面をした四角い顔のアナウンサーが全国に伝えていたのだ。死体に残された傷跡から凶器に使われた刃物が同じである、との結論を受け発足した警視庁及び千葉県警の合同捜査本部は、そこにちりばめられたいくつかの証拠に振り回されているらしい。
火村がそれらの破片を合理的なひとつの形として組み立てられるかはまだ判らない。が、力になっているかどうかはともかくそれを手伝い、見守るのが助手の役目だ、と助手たる有栖は思っている。今回も、その役目を誠実にこなすだけだ。
「資料を見た限りでは判ることは限られるな」
ビール缶のプルトップを引き上げながら、火村は事件の大体の概要を話した。そしてベットに座って美味そうにビールを呷る。
「さすがの先生もまだ五里霧中、ってところなわけやな」
「いや、細かい点がどうしても詰められないんだ。死体がばらばらに発見された理由と凶器の行き先については、大体の見当はついた、と思う」
「……ほんまか」
「こんなことでウソついてどうするんだよ。でもまあ、所詮机上の論理から出ていない。現場で見たものですべてがひっくり返る可能性も大きいしな」
だからなにも断定は出来ないわけだが、と火村は肩を回しながら言った。
謙虚とも尊大とも取れる態度である。
「で、まずはどうする?」
自分もまた、つまみにと買ってきた柿の種をぽりぽりと齧りながら訊ねる。とすぐに答えは返ってきた。
「散歩だな」
なるほど散歩だ。
朝早くに品川を出て、総武線快速に揺られること云十分。さらに並走する黄色い電車に乗り換えて、降り立った駅は半端に寂れた町だった。目の前に広がるのは駅前商店街なのだろうが、賑わいからはほど遠い。それが土曜の朝という時間のせいなのか、普段からのことなのかは有栖には判別出来なかった。
しかし、そんな変哲もない地方都市にも関わらず、有栖は有栖らしい理由で、駅に降りたとき少しだけ気分が高揚していた。
『幕張』
と書かれた駅名を見て、つい顔がほころんでしまう。そんな有栖を火村は不思議そうに眺めてから、ほらいくぞ、と有栖を引っ張って改札へと向かった。
駅から歩いて数分のところにある被害者宅をスタート地点に、その散歩は始まった。犬のか細い鳴き声に送られながら、とある意図の元、すこし早足で二人は町を歩いていく。
ただ黙々と、淡々と。
住宅街はすぐに姿を変えた。その街の端、おなざりに手入れをされた木々に囲まれた、遊具が黒く錆びた公園の向こうには太い国道が走り、その向こうはがらりと周辺の様子が変わっているのが見て取れる。
大型のスーパーマーケットに低い県営住宅、名前は聞いたことがあっても見たことはなかったかの放送大学や並んで建つ高校を過ぎ高速道路の下を潜った途端、普通の田舎町はウォーターフロントに広がるオフィス街へと変貌していた。
僅か二、三十分ほどのうちにがらりと変わる街の様子に、有栖はなんともいえぬ感慨を抱く。
一言で言うならへんな街だ。
京葉線側の幕張の玄関である海浜幕張まで続く道は、まだ大型ショッピングモールやらシネマコンプレックスといった大型施設のおかげか人で賑わっていたが、それも京葉線の高架を潜った途端にぱたりと途絶えた。
車もあまり通らない道路に沿って、ただ人工的に清潔感を出した街が先に続いているだけである。
本当にへんな街だ。
「ほんま、人がいないところやな」
一時だけ吹いた浜風によって元気を取り戻した有栖が、ぽつりと呟いた。
「オフィス街、っていうのはこんなもんじゃないか」
「まあ、そうなんやろうけど、あれやな、落差が激しすぎる」
「それはそうかもな」
「ほんのちょっと離れただけなのにな」
火村は器用にも歩きながらひょいと肩をすくめた。
「しょうがない、日本は狭いんだ」
「そうやな」
高い双子のビルを抜けると、急に視界が広くなる。幕張新都心は狭い日本の狭い街だ。京葉線沿いにはデザイナースマンションなどが立ち並んでいるのだが、海までの距離が短い分、縦に移動するとあっという間に切れ目がくる。
すぐ前には幕張メッセが見えていた。有明に東京ビックサイトが出来るまで、関東で一番大きかった催事場だったらしい。最近は赤字らしいがいかんせん交通の便が悪すぎる。尤も関西の大きな催事場であるインデックス大阪は輪をかけて不便な場所にあるようだが。
その先にはなにもないようだ。がらんとしたくすんだ空だけが、どこまでも広がっている。
「ここまで何分だ?」
火村が歩きながら聞いてきた。自分の時計を見ればいいだろうに、と思いながらも有栖は素直に答えてやった。
「えっと、まだ三十分経っとらん」
「よし」
半端にスタイリッシュな歩道橋を渡り、横目にメッセを見ながら歩いていけば、もう意識して息を吸わなくても、周り中に潮の薫りが満ちている。吹き始めた風は穏やかに、歩く二人の脇を絶えず通り過ぎていった。
ふと右手を見ると野球場が目に入ってきた。たなびく旗を見るに、千葉ロッテは本日ホームゲームのようだ。
甲子園も海に近いが、さすがにこのスタジアムには負けるだろう。
催事場を過ぎると、そこには公園が広がっていた。手入れされた、洒落た形の遊具の向こうにこんもりとある松林を抜け、ぽかりと広がった視界の先が、本日の目的地だった。
ざざ、ざざ……、と絶え間なく鳴く声。
澄んだ青い色、からは程遠い濁ったそれであっても、空と混ざりそうな曖昧な水平線までの眺めは、心をすとんと落ち着かせる。
砂浜に足を下ろすと、スニーカーから柔らかいものを踏んだくしゃりという感触が頼りないものながらも気持ち良い。
海は灰色に輝き、潮騒とともに浜辺を黒く濡らしていた。
「……急ぎ足で四十分強、往復しても、発見時間に間に合うには充分だな」
同じく浜辺に下りてきた火村が、腕時計を見ながら満足げに呟くのが聞こえる。彼の推理を裏打ちする一つのピースが、ここに提示されたわけだ。
「犬の散歩のついでに、ここで凶器を投げ捨てたわけか」
「多分な。今ごろ包丁は」火村はひょいと海の向こうを指差して続けた。「それはいい感じに洗われてることだろうさ」
「しかしよく気付いたな」
「犬の毛に砂が付着してるのに、普段どおり幕張駅の向こうまで散歩しましたなんていうからあからさまなんだよ」
だからたいした事はないんだと態度で示して、火村は大きく伸びをした。
「さすがに疲れたな」
「年やな、先生」
そうちゃちゃを入れると、
「そういうお前はきっと明日か明後日には筋肉痛だぜ? 普段からっきし運動してないんだから」
「まさか、これくらい歩いたくらいでなるかい」
「ほう、本当だな」
「……多分な」
その返答に満足したのか、火村はふ、と力を抜いたように笑って、徐に砂浜に腰を下ろした。昨日はスーツ姿だったが今日は随分とラフな格好だ。有栖も同じように気兼ねしない服装だったから、その横に腰を下ろした。
ざざ
ざざ
鳴る潮騒は大きい音ではないのに、耳に確実に響いてくる。
ふと、海の音は母親の胎内で聞く音によく似ている、という話を有栖は思い出した。だからだろうか、どんな海にいこうが初めに湧いてくる感情は物珍しさより郷愁だ。
少し離れた場所では、近所に住んでいるであろう家族連れが波と戯れている。小さい子供が裸足になり、濡れた砂の感触を全身で味わっていた。小さな足元に来る海水の冷たさに驚いては陸へと逃げ、波が引くのを見るとまた懲りずに濡れた砂へと降りていく。軽い体重で付いた浅い足跡は、すぐにかき消され、また付けられてはかき消され、を繰り返していた。子供は或いは、その永久性が面白いと感じているのかもしれない。
「……しかし」
ふと火村が呟いて、同時にライターをする軽い音が聞こえる。この大海原を見ながらの一服は、確かに美味しく感じることだろう。ましてや今日のように歩きつづけたあとなら尚更だ。
火村はゆっくりと肺の奥まで煙を吸い込んで、満足そうに吐き出し、のんびりとした口調で続けた。
「海っていうのはどこでみても同じだな」
「また変わった意見やな」
「そうか?」
「ああ、俺と大体おんなじ、っていうんがまた面白い」
そういって有栖が笑うと、火村も唇の端を軽く上げて、
「つまり、俺もお前も変人だってことか」
「それには賛同しかねる。君ほどには変わっとらんよ、俺は」
「自分のことが一番わからないもんだな、人っていうのは」
「君の場合は、そうやって言い訳しとるだけやろ」
「違うね、悟ったふりをして棚上げしてるんだよ」
高等なテクニックだろ、と楽しげに言いながら、キャメルを呑気な風情でふかす。
相変わらず天気はよく、真っ直ぐ日光が注ぐ浜辺の気温はどこまでも上がるばかりだ。そこに時折吹く涼しげな風が、先走りそうな季節を正しい場所に留めている。
何もせずにただ座り、引いては満ち、満ちては引く波打ち際を眺めていると、波が引く毎に自分が空になっていくような錯覚を覚える。
有栖は軽く頭を振って夢想を払い、携帯灰皿に吸殻を入れている火村に話し掛けた。
「……ここから、その捨てられたエモノを見つけるのは難しいちゃうか?」
「どう考えても、無理だろうな」
「厳しいな」
「ああ」
海を眺めながら火村は頷いた。「散歩に出るのはいつも早朝だ、目撃者も難しい」
深刻な内容を、それくらいなんともありません、という口調で話してくる。その調子につられるように、重ねて有栖は訊ねた。
「なら、次の手は?」
「そうだな。とりあえず少し休んで、運動不足の推理作家が歩けるようになったら昼飯を食う」
「やから歩けるって」
「本当か?」
「まあ、休むっていうのは魅力的なプランではある」
「ほらみろ。まあ少しはのんびりとしようぜ」
そう笑いながら、唇を指で軽く撫でて、火村はもう一本キャメルを取り出した。
飄然とした顔をしているが、恐らくはこれからのことを真剣に考えているのだろう。
次に何をすべきか。
そもそも自分が描いた仮定は正しいのか。
予めシナリオを書きながらも、それでも真っ更なまますべてを見、判断するために、持っているものを何度も何度も整理し、検討していく。
それが火村の役割だ。
有栖は改めて海を眺めた。
鉛色の温かな下地にきらきらと光る水面はどこまでも穏やかで、眠っているようなまどろんでいるような、そんな印象を受ける。温んだ水の下には濁った世界が広がり、必死に生える海草の中魚たちが慌しく泳いでいることだろう。海水汚染などで水揚げが減ったとはいえ、東京湾はそれでも魚介が豊富な海だ。蝦蛄は何かの死体をはみ、その蝦蛄の死骸を他の魚が食べ、その魚を人が釣って、撒かれたえさに小さい魚が寄っていき、めまぐるしく世界は回っている。
そんな世界を下に収めながら、海はどこまでも穏やかなままだ。
「……さっき」
有栖は声の主の方を向いた。火村はまだ海を見たまま、
「駅でなにわくわくしてたんだ、お前」
「ああ、さっきか」
有栖もまた海に視線を戻して、質問に答える。
「鮎川哲也の短編にな、出てくるんや」
確か初めて読んだのは中学の頃だ。普段は全く忘れていても、記憶というのは面白いもので、ちょっとしたきっかけでそういえば、と思い出す。
「その話でな、主人公が幕張の駅を降りると松林があって、その向こうには海が広がってる、そんなシーンがあってな」
確かあれは夜のシーンだ。当時の有栖には千葉は幕張といわれても、地名を聞きなれていない分、そこは札幌や大宰府よりも遠い場所でしかなかった。
そして今、幕張の空の下、有栖は座っている。
「やっぱ感慨深いわけか」
「ま、そうやね。君もあるやろ、例えばアメリカに行ったときなんか、ああ、ここがあのサンセット大通りか、とか」
「残念ながらサンセット大通りは未踏だな。……そうだな、あの看板を見たらふーん、ぐらいは思うかもな」
「な、やろ?」
振り向いて笑うと、火村は目を細めて、
「まあお前らしいよ」
と陽光に似合わない笑顔で言った。
「そうか?」
「誉めてないぜ?」
「けなしてもないやろ?」
「まあな」
ふふん、とまた笑って、有栖は少し伸びをした。
氏は有栖にとって憧れであり、永遠に届かないであろう道しるべであるが、作品すべてを名作とは思っていないし、その短編が特に好きかといわれればまた違う。ただ、尊敬する氏がかつて見たであろう海を見てる、ということが何よりも感慨深かった。
「その小説の」
「うん?」
火村が、今度は静かに、呟くように口を開いた。
「駅、って総武線の幕張だろ」
「ああ」
「いつ頃の話なんだ」
「そうやな……、まだ三十年は経っとらんはずや」
「へぇ」
有栖はそっと後ろへと顔を上げ、そびえる白いビル群に目をやった。
たった三十年前、ここはすべて水の底だった。松林の向こうは海であり、黄色い電車から幕張の駅に降り立つと、豊潤な潮の香りが肺を満たしたことだろう。
先程降りた駅の様子を、ふと思い起こしてみる。商店街の向こう、高層ビル群が見える駅前は平凡な印象しかなかった。
名残といえるものは地名のみだ。
「院に上がったばかりのころ、来たことあったぜ、確か」
ポケットからまた携帯灰皿を取り出した火村は、二本目の吸殻を入れながら、ふと思い出すように口を開く。
「へぇ、学会か何かか?」
「ああ、さっき横通ってきたところで発表会があってな。なのに宿は東京だったから、朝早く電車に揺られながら、なんでこんな不便なところで、って思ったな」
「確かに不便やろうな、ここ」
「それでさ」
ふ、と一瞬だけ遠くを見たような顔つきになって、
「海浜幕張の駅に降りたらまたなんもないところでさ。なんともアンバランスな街だと思ったね」
「へぇ」
「駅から今ショッピングモールが入ってる場所まで、ずっと空き地で草が生え放題なんだぜ。道路挟んだ反対側はきれいなビルが立ち並んでいるっていうのに」
「じゃあ、今日来てみて、また驚いたやろ」
「いや、驚きはしなかった。多分前がイレギュラーだったんだろうな、とは思ったが」
それでも十年ぐらい前の話だな、と火村は呟いた。
有栖は、今歩いてきた街並みが空き地だったころを想像してみた。雑草が生い茂り、草が靡き、羽虫が戯れる。
それは、この場所がかつて海だったことと同じぐらいに現実味がないように思えた。僅か十年前の名残も、この場所からは消え去っているのだと思った。
そうやって、時を巻き込みながら、砂浜は前へ前へと進んできたのだ。自然がなしえない早さで海が埋まり陸が出来、松林はその度に引越しを繰り返す。
この砂浜も恐らくは人工的に作られたものなのだろう。しかし、これもいつまでこのラインにあるのかは判らない。
また、視線を前に向けた。
目に映るのは、ただ一つ、この街で変わっていないであろうもの。
海はただ、春の光を受けてたゆんでいる。
「……なんか、すごいなあ」
つるりとそんな言葉が漏れた。それが人に向けたものなのか、それとも他に向けたものなのかは判らない。
ただ、なんともいえぬめまぐるしさを感じたのだ。
陸がせり出してきて建物が建ち、やがて松林を残して全てが去っても、海はここで淀んでいることだろう。
もう海岸線は前の場所には戻るまい。でも、そんなことは人の感傷にのみ関わることで、海は海でしかない。
世界が果てへ向け広がる、そんな感じを覚えながら、突然、思い出した。
この世界は、とてつもなく途方もないものなのだと。
永遠は外に存在するものなのだと。
そして人はその中に放り出されたままだ。
「……ああ、本当だな」
だから、火村がそう返してきたとき、有栖はつい彼の目を覗き込んでしまった。
その中にひょっとしたら自分と同じ光があるのではないかと、深く探すように。
火村はそんな有栖に優しげに微笑んで、す、と立ち上がった。
「だから」
いたずら坊主のように、にやりと笑う。
「過客たる俺たちはせいぜい悪あがきをするさ」
ああ、火村だ。
また唐突に思った。途方も無いものにも平気で挑戦をする、そんな男なのだ、こいつは。
等身大で、ありのままで。
広がった世界は急速に収縮し、見知った広さで視界に収まる。
「ああ、せやな」
悪あがき。心の中で呟いて、差し出された手を素直に取り、有栖もまた立ち上がった。
悪あがきとは。これはまた、全くもって悪くない。
南中に近い太陽は容赦なく砂を焼いている。明日辺り、顔が焼けているかもしれない。日焼け止めを塗っておけばよかった、と顔を撫でながら、また有栖は予定を聞いた。
「で、どうする?」
「そうだな、まずは現場百遍、基本に忠実にいこう」
「……また歩くんか?」
言葉に滲む疲労に、有栖自身も思わず苦笑してしまう。火村も笑って、
「お疲れの助手を労わって、タクシーで行くことにするか」
「それはありがたい」
「なんだ、えらく素直だな」
「こんなことで見栄張ってもしゃあないしな」
火村はそんな有栖の肩をぽんと叩くと、「じゃあまずは昼食べに行くか」と小休止の終りを宣言してさっさと歩き出す。
その火村の後を追いながら、有栖は一度だけ後ろを振り返った。
海はただまどろんでいる。眠るように、今日も明日も。
「春の海 終日のたり のたりかな」
思わずつぶやいた句を聞いて、火村は「根っからの作家だな」といつものように笑った。