サマータイムブルース ケーブルカーを降りて坂をもう少し上がり、角を曲がるとモスグリーンの小さなアパートメントが見えてくる。そこの三階が現在の住処だ。期間限定とはいえルームシェアに申し込んだ甲斐はある、見渡しの良い心地良い部屋だった。
以前住んでいた町も坂が多い土地だったが、この町には負ける。海から一気に駆け上がる坂の急勾配、潮の香り、降り注ぐ日差し。木目のボディーが可愛らしいケーブルカーはそこそこのスピードでメインストリートを走りあがる。どこにいくにも坂、坂、坂。そして陽気な笑い声。上に上がる七色の旗も示す通り、懐の深い町だと思う。同じカルフォルニアでもLAの飢えを含んだ渇きとは違う。頭が良くて野心がない街、と評したのは一体だれだったか。
手にもった紙袋がすしりと重い。食事は順番に作るのが、同居人のフレッドの申し出だった。……同居人、微妙なところだ。先日まだ恋をするつもりはない、と言ったら、真顔で「君が日本に帰る前までに口説き落としてみせる」と手を握られた。しかし思わず身構えるほどの猛烈なアタックをしかけてくることもなく、気さくに今までどおりに接してくれる。おかげで毎日は健やかで平穏だ。
青空を見ながら伸び上がるような気持ちになる度、思い切って日本を飛び出してきて良かったと思う。二十代のうちに学問の最先端に触れられるのも大きいが、なによりもこの開放感はなんだろう。誰も自分を知らない町、これまでの経歴や評判、あらゆる種類の噂、そういった付加価値が全て殺ぎ落とされて、ただの異邦人、なにも持ち得ない小さく孤独な一介の学生としてのみが存在出来るこの町。
好奇心も好意も、悪意でさえも純粋な形で示される、そんなことがこれほどまでに心地よいとは思ってもいなかった。下駄を履かせられることもなく背伸びをする必要もない場所で、様々なことに挑戦する日々はすべてにおいて刺激的だ。この感覚ははじめてではない。昔、実家を飛び出して大学に入ったときもまた同じような気持ちに浸っていた。それが重くなったのはいつの頃だろうか。
自分は最後、逃げてばかりだ。思えば、自宅からは到底通えない見知らぬ土地の大学ばかり選んで受験したのも、その時とその場から逃避するためだ。そして、今も。
それのなにが悪い? そうして英気を養って、また現実にアッパーを喰らわせる力を蓄えればいいじゃないか。
珍しく霧が腫れた夜に、窓越し、月に照らされた金門橋の影をつまみに、クアーズで喉を潤しながら自嘲気味に少しだけ愚痴をこぼしてしまったとき、フレッドはそういって豪快に笑ったものだ。それを言うなら俺がここにいるのも立派な逃亡だ、カルフォルニアの海の開放感に憧れて、ゲイというだけで魂が押しつぶされそうな南部の田舎町を、家族ごと高校の卒業式に出たその足で捨ててきたのだから。魂が安息を求めているならその声に従うのも大事だろうさ、アーメン、なんたって全ては主の導きだから。
陽気にそう力づけてくれる友人の、まあ最後の一言には残念ながら同意しかねるとしても、そんな温かな心遣いがとてもありがたい。時々貪られるような濃いキスを仕掛けられるのは差し引くとしても、元々負の方向に向かいやすい自分の気質をなんとかフラットに保っている、何割かの理由は間違いなく彼だろう。あとは充実した日々と、これでもか、と照りつける太陽。そして、日本での日々を思い出さないこと。
背後をシボレーが低く唸りながら走り去っていく。そろそろ国際免許を取って安く車を手に入れようと、買い物をする度考える。こちらは何もかもビックサイズだ、ソーセージもレンズ豆の瓶詰めも量り売りの二枚貝も日本以上の重量が詰っている。車だってそうだ、あんな無駄に排気を撒き散らすものなんて、こちらの広い道ならともかく日本の路地では迷惑なだけだろう。物も人も、善意も悪意も度量もお節介も犯罪もなにもかも大きいのは国土が広い故の土地柄なのだろうか。
そんなばかげたことを思いながらアパートの扉を開けた。日差しと荷物で使い物にならなくなった頭も、もう少しで通常に戻るだろう。部屋で冷えたペプシを飲んで、そして一息つけば、多分。
アパートの古く汚れたチェス板模様の玄関ホールで家の鍵を探しながらエレベーターのボタンを押す。旧式のこの乗り物は階段の方が早く移動できるのではないかと思うほどに、カタカタと音を立てながらのんびりと動く。黒ずんだ階数表示は三階を指していたが、それがラルゴのテンポで移り変わり、最後に一階を指した。
フレッドは今日は指導を受けている教授の手伝いをするとかでいつもより遅くなるという。今日のチェリーストーンクラムは物がいい、とマーケットの親父が言っていたから、手間と時間をかけてとびきりのクラムチャウダーにするとして、もう一品、以前フレッドに教わったガンボでも作ろうと思う。
故郷は捨てた、と明るくいう割に、ケイジャン料理を食す彼の目には仄かな影がよく射している。それは悲しげなようでいて、とても優しげなそれだ。以前そんなことを指摘したら、お前も日本食を食べてると神妙な顔をしてるぜ、と返された。食べ物は人の記憶を遠慮なく揺さぶるときがある。本能に沿った行動だからかもしれない。
ともかく、クラムチャウダーに鶏のガンボに、グリーンサラダ。ドレッシングはグリーンゴッデスがいいだろう。のんびりとそれらを味わって、念のために寝室に鍵をかけて明日は存分に寝坊をするのだ。休みの日には休むのもまた、ここにきて身に付いた習慣である。もう共に過ごそうと思う人がいないのが一つ、メリハリがついたこの町の人の生活に感化されたのが一つ。そんな風に日を過ごせば、詰り気味な論文の突破口も見つかるかもしれない。
チン、と小気味良いベルの音とともに、エレベーターがフロアに到着する。ガラガラと扉を開けて部屋へと向かい、袋を抱えたまま鍵を差し込もうとしたそのときに、タイミングを計ったかのように黒いドアが開いた。反射的に身を引いた拍子に、袋から玉ねぎがことりと落ちる。それは拾う前に出てきた人間に拾われて、袋にそっと戻された。
「まだいたのか」
「これから出るところさ」
フレッドはそう言ってにやりと笑う。日本では長身の部類に入った自分の、更に頭一つ大きい男は何故か一度振り返ったあと、いきなり頭を下げると、頬に掠めるようなキスをした。
「ったく油断も隙もねえな」
呆れながらも笑って頭を軽く押すと、フレッドは小さく笑って火村を見る。いつもの思いやりに溢れた、でもいたずらに輝く目だ。
「いいじゃないか、俺だって焼餅くらい妬くし、妬かせたいと思うこともある」
「なんの話だ?」
「俺は今日外で食べてくるから、二人でゆっくり過ごしてくれよ」
「二人?」
フレッドはその場を収拾することないままに、ひらひらと手を振りながらエレベーターに向かう。彼らしからぬ行動に首をかしげながら改めて部屋に入ろうとしたとき、やっと中央に立ち尽くす男の顔が目に飛び込んできた。
また玉ねぎがごとりと落ちる。
「……えらく、久しぶり」
数ヶ月ぶりに聞く日本語は、苦い感情を瞬時に呼び起こした。同時に、微かな甘い感情さえも。
「本当、久しいな、……アリス」
声は思った以上に震えることもなく、頭は瞬時に冴えた。部屋に入り、彼を見ることもなくキッチンへと移動する。有栖はついてくることもなく、そこに立ち尽くしているようだった。
無骨なフォルムの冷蔵庫に食材を詰めながら、改めて今日の予定を組み立て直す。ああいったからには、フレッドは今晩本当に帰ってこないだろう。一人分の自炊をする気には今はもうなれなかった。貝の鮮度は惜しいが、クラムチャウダーは明日へ持ち越しだ。
彼は。
居間にいるであろう知人のことを思う。彼がなんでここにいるのか、とかそんな根源的な疑問はさておいて、彼が自分とサシで食事をするとは思えなかった。自分も、そして彼もそんな茶番には堪えられまい。それでも食事をしていくというのなら、University Avenueにでも連れて行くのがいいかもしれない。アメリカ料理はまずい、という偏見をある程度までは払拭してくれたレストランがあの通りには多い。台所とまで称される大阪育ちの男が同じ見解を持つに至るかはわからないが。それに外でならみっともない修羅場を演じることもないだろう。
どうやっても穏健に全てが運ぶとは思えず、思わずため息をつきながら居間に戻る。日本からの客は、いまだ立っていた。どことなく居心地が悪そうなその様子に、だったらこなきゃよかっただろう、と思わず大声で言い渡したくなる。
それでも客には違いないから、と「コーヒーか水だが、コーヒーでいいだろ?」と尋ねると、有栖はああともうんとも言わず、ただこちらを見詰めてきた。そして、二、三歩火村に近付いて、おずおずと手にずっと持っていたらしい物を火村へと差し出す。
「……やったな」
それがなにか認識した瞬間。するり、と心の底のほうから祝いの言葉が飛び出した。ハードカバーの表紙にはこの世に二つとない珍名が記されている。有栖がこれを得るためにどれほど努力をし、心血を注いできたか、火村は良く知っていた。そんな彼を、ずっと見詰めていた。
「ありがとう」
どこか強張っていた顔からふと力が抜け、見慣れた笑顔で有栖がそう返す。そして「君に」と改めて差し出してきた。火村も笑顔でそれを受け取り、「ありがたく頂戴するよ、作家先生」と柔らかく礼をいう。作家先生、の辺りで有栖がくすぐったそうにはにかむのを、どこか懐かしい感覚で火村は眺めた。
そうしてどれほど互いに向かい合っていたのか。先に動いたのは火村だった。
「改めて問うがコーヒーでいいだろ? いつまでも立たれたままなのは気持ち悪いからさっさと座れ」
「あ、うん」
同じく我に返ったように有栖が頷いて、火村は本を居間の机に置いて、二たび台所に舞い戻った。そしてインスタントで手早くホットを二杯入れる。なにか茶請けを、と思いオレオのパックを持って戻ると、有栖は大きいソファの端のほうでちんまりと座っていた。頭を何度も動かしては、「へぇ」とか「ほー」とか呟くのが聞こえる。素直に好奇心を満たしているその様子に小さく笑いながら、火村はマグカップを彼の前に差し出す。有栖が小さく礼を言ってそれを嚥下するのを見ながら、火村は改めて有栖の処女作に目を落とした。
果たして、どんな物語が綴られているのか。有栖の書き物を最後に読んだのは、ここに来る更に半年前だ。そっと指で表紙をなぞったとき、有栖がか細い声で「火村」と呼んだ。
「……なんだ?」
「フレッドさん、だっけ。彼は……」
「同居人だよ。あいつ、フレンチキスまでは会話の一部だと思ってやがる。まあ確かに上手いのは認めるが、だからといって慣れるもんじゃねえな」
言うと有栖の顔が微かに曇った。なんでそんな顔するんだ、そう問い詰める代わりに火村はもう少し現実的で場に沿った質問で会話を返した。
「お前こそ、そろそろ式なんじゃないか。いいのか、こんな遠くで油売ってて。そうやってるとあとで泣くぜ」
「……式は挙げん」
有栖は顔を少しだけ伏せて、小声でそう、呟いた。
「へぇ。よく彼女が許したもんだな」
マグを一旦口まで運んだもの、まだ熱そうだと口もつけず元に戻しながら火村は返した。女性なら、一生に恐らくは一度の晴れ舞台は思う存分飾り立てたいものだろうに。
「そうじゃなくて……」
そこで言い淀んだあと、有栖もまたコーヒーを口に運んで、そろそろと顔を上げた。
「別れた」
「は?」
それが予想外の答えだったために、火村は言葉に詰る。窓から射す太陽が翳った気すらした。
場をつくろうために飲んだコーヒーはまだ自分には熱く、一瞬だけ顔をしかめた。じん、と舌が痺れる。
「振ったんか振られたんか。プロポーズしに行った筈なのに、帰るときは私物袋に詰めてな、幸せに、って言ったら遠慮なく殴られたわ」
話している内容にそぐわないほどに、有栖の口調は淡々としている。
その様子に呑まれるように、何か言おうとして何度か口を開き、それを閉じ、を繰り返した火村は、最後やり場なく頭を軽く掻いた。そんな様子を見て、有栖が少しだけ口の端を上げる。何かを嘲るような、気持ちの良い表情ではなかった。
「……つまりは有給とって傷心旅行がてら、知人の顔でも見ておこう、って思ったわけか」
「色々と違うな。まず有給やない。辞めたから」
「へぇ、随分と思い切ったな」
「まあな、それに……」
また有栖は言葉を失ったように、はたと黙り込む。昔ならすぐに肩を抱き寄せたくなるような風情だと、ただぼんやりと感じた。今は無音のまま時が過ぎるだけだ。
「作家になって」
有栖がそう口を開いたのは、重いだけの沈黙に火村がいい加減飽いたころだ。
「作家になって、嫁さん貰って、親に孫見せて」
「お前の夢のプランだっけ?」
そう言うと、有栖はまた瞳を揺らした。それが俺にとって一番望ましいことだと最後に告げて来た、そのことを棚に上げて随分と非道い表情じゃないか。少しだけ興奮していた心がすぅ、と醒めていく、そんな感じすら覚え始めた。まったくもって、どちらも勝手で醜悪が過ぎる、と。
「――嫁さん貰って、子供とキャッチボールして。なのに、……なのに、出版社から連絡があったとき、真っ先に君の顔が浮かんで、君に誰よりも先に伝えたいって、そう思って。そう思ったらあかん、なにやってるんや、って何度も思ったけど、でも。――でも」
「でもなんだ?」
「でも、いや……」
「俺はあのままで一向に構わなかったぜ。なのに選んだのは有栖、お前だ」
「わかっとるわ、そんなん」
感情を一切出さないままに有栖は尚も話しつづける。その分、目が全てを代弁しているようで、火村はいつしか目を逸らしていた。自分の目もまた、相手に同じくらいの重さを与えいるかもしれず、その両方に耐えられないと感じたのだ。
有栖はまた顔を下げた。テーブルに映る自分の不確かな影を見詰めながら、
「わかっとる。でも……、もう自分でもわからん。君がこっちに渡ったって聞いて、俺もあいつと幸せになろうと思って。……なのに勝手に混乱して、自分で選んだはずなのに結局散々駄々捏ねて、色々伝えようにも君はいなくて、そいで来て見たらあちこちの窓に虹の旗が立ってて、あの旗はなんなん、って聞いたらご丁寧に説明して貰えて、そこの住人たる君はあんな楽しそうにキスして笑う相手がいて」
火村はまた有栖の方を見た。彼の言葉についた色がそうさせたのだ。
後悔でも嫉妬でも哀愁でもなく、なにかを吹っ切った、耳に届いたのはそんな響きだった。
「……そしたら、それ見たらなんか気が抜けて、……安心した」
「アリス」
「ほんまは本渡したらすぐお暇しよう思っとったんやけど」
有栖は火村の顔を見て、くりゃりと顔をゆがめる。泣くのか、と瞬時見まがえたが、彼はすぐにまたいつもの顔に戻って、そして一言、
「火村……、勝ったのは君やな」
有栖はそっと席を立った。つられるように火村も席を立つ。
大分傾いた日差しが長く部屋に射して、影が濃くなった顔の表情は曖昧にしか窺えない。なのに彼がどんな顔をしているか、目にはっきりと映るのをとても不思議に思う。
「間違っとるか間違っとらんか、じゃなくて、誰にどんな嘘をつくのが一番堪えるか、だったのにな。まがいもんはいつかばれるって、判っとったのに」
「アリス……」
「……でも、君が笑ってて、よかった」
本当によかった。有栖はそう繰り返して、そしてそっと笑った。
その笑顔は初めて見る繊細さと寂しさと、一抹の幸福感がごちゃ混ぜになっている。それでいてあっけらかんとした、いい笑顔だった。
ああ、有栖だ、と火村は思う。複雑なくせに単純な面があって、基本的に笑える強さがある。そんな男だ、彼は。そして気がつけば、なにかにつられるように、火村もまたひそやかに口を開いていた。
「……俺は、小説を書いているお前がいて、それだけでよかったんだ」
「うん」
「でも莫迦だから、ときどき忘れちまうんだよ。……互いにしょうがねえな」
「……ああ、全くやな」
莫迦と阿呆が揃ったらもう手がつけられんな、ほんま。そう呟いてから、そっと有栖が手を差し出した。
「ありがとな、火村。……ありがとう」
火村も、そっとその手を握り返す。
「こっちこそ、……ありがとうな」
砂時計がまた、ひっくり返った気がした。さらさらと音を立てて時間が流れていく。ねじ式のそれではないから針のように突然戻ったりはしない。ただ、滞っていた何かが動いた、それだけだ。
それだけだけどしても。
「なあ、日本に帰ってくるときは連絡、くれるか?」
握ったときと同じように静かに手を戻しながら、有栖がふと聞いてくる。
「なんだ、迎えにでも来てくれるのか」
「当たり前やん。帰りのほうが荷物も重いやろうし。レンタカー借りて駆けつけてやるから、感謝せえ」
「相変わらず押し付けがましいな」
「なに、遠慮するなって」
まったく図々しいな、と火村がいうと。どちらともなく小さく笑う声が部屋に響いた。永く見失ったと思ったものの欠片ぐらいは、また戻ってくるのかもしれない、なんて都合のよいことが頭にちらりと掠めるほどには、今、心地よさがある。
いや、もう間に合わないという声と、終っているものに間に合うもなにもない、という声が同時に心に響いて、どちらも本当だと思いながら、火村は有栖とくすくす笑いつづけた。
やがて笑いも収まると、有栖はそれじゃあ、と壁掛け時計へと視線を動かして。
「……したら行くな。夕飯の場所も探さなあかんし」
「ああ。……大学通りに行くといい。あそこなら美味しいアメリカ料理が食えるぞ」
「アメリカ料理か? そうやなあ、アメリカ料理が美味いとは、たぶん思えんやろうな」
そんな有栖の反応が想像していた通りで、火村はまた拭き出してしまう。なんやそれ、意味なく人のこと笑うなんて失礼やんか、という有栖の声を手で制して、それでなければ、と火村は有栖を見た。
「それでなければ?」
「うんと手抜きのクラムチャウダーなら出してやるぜ。店に行ったほうが絶対美味いと思うけどな」
そう告げると有栖は今度は懐かしい笑顔で、それは魅力的な選択肢やな、と言いながら落ちていた玉ねぎを拾った。