菜の海 お客さんえぇときに来らいましたねぇ、今は花の盛りでさぁ、こげな田舎だけどそれだけは自慢なんですわ。
柔らかく響く土地の言葉で、年配の女将はそういってくしゃりと笑った。普段は畑にも出ているという彼女の皮膚は日に焼け固くなり、手にも顔にも深い皺が刻まれている。その一本一本が彼女の経験と知恵の証だ。美白だダイエットだ、と騒ぐ都会の女性にはどうやっても身に付けられないお天道さまの品が、そこには間違いなくあった。人生辛いこともあったろうし、これからもあるだろうが、それでも彼女の笑顔は暖かい。
小さい町の小さい宿の、これまた小さい部屋に通された飛び込みの客は、やはりお国言葉を丸出しにして、ほうじ茶を注ぐ女将に話し掛けた。
「花というと、早咲きの桜やったりするんです?」
「いんや、桜じゃなくて、菜の花ですよ、お客さん。まあこげん田舎やから桜もあるけんど、お客さんがいらした京都あたりとは比べ物にならんです。でも菜の花はね、そりゃぁ一面菜種に染まっとってね、あげんだけは胸はって自慢出来るってみんなでいっちょりますわ」
菜の花、と有栖は香ばしいほうじ茶を口にしながら女将に返した。
自慢できるほどの菜の花、とはいかほどのものなのだろう。
脳裏に浮かぶのは、ほのぼのとした絵に描いたような菜の花畑だ。よく写真などで見る、丘一面黄色と黄緑に染まった、そんな感じなのだろうかと有栖はぼんやりと思う。
「ほら、こげん山の中ですから特になんもらかんしょ。山越えたら海はあるけど、菜種からは油が取れますからねぇ。だから広まったゆう話なんですわ。私の婆さまが子供ん時にはもう一面そうだっといっちょりましたから、明治か……、江戸の頃にはもうこうだったんかも知れませんねぇ」
「それはまた昔から」
「でしょう。私らがまだ小さかった時分には、春になると菜の花の下で転げまわっちょったもんです。今はもう子供もいねからそんなことも無くなったけど、菜の花だけはかいしき変わりませんわ」
「かいしき?」
「あ、全然変わらない、ってことです」
「そうなんですか、ありがとうございます」
この西の国では、言葉は大阪とかけ離れている。ましてや標準語には程遠い。先ほども古いバス停のベンチに腰掛けて荷物を整理していたら、突然「たばこしとりますか」と問われて面食らったものだ。聞いてみれば休憩という意味らしい。
有栖は国言葉を聞くのが好きだ。自分が普段大阪弁で喋っているのもあるが、言葉が土地に息づいている感覚が、耳伝いに感じられるのがその理由だろう。喋るその口から、その土地の精神が無意識に語りかけてくる気がするのだ。東北や沖縄の方に行くと、さらに言葉は変わる。東北の言葉は母音を標準語よりも多く使用するから、身に付けている人はフランス語などの発音が非常によくなるらしい、と聞いたことがある。これを教えてくれた友人は札幌生まれのあちこち育ちだからどこの方言にも染まっていないというが、それでいてしっかりべらんめえ調だ。
「ところでお客さんは、作家先生なんですよね」
「ええ、まあ」
この町唯一の旅館の宿帳には、職業欄もしっかり完備されていた。プロになったばかりのころは、そういう機会があるたびに気恥ずかしさを感じたものだが、この年になるとさすがに慣れてくる。が、それでも作家「先生」と呼ばれるにはまだ遠いことも自覚しているから、自然と有栖は曖昧に微笑んでしまった。
「するとなんですか、この辺が舞台になるとか」
「あー、そう出来たら、とも考えてるんですわ」
「こげななんもらんところですからね、おどろいたでしょう。電話もよう入らんしね」
女将は自分の住む場所をそう評して、明るくからからと笑う。
確かにここはなにもなかった。逆にそれが新鮮に映るぐらいだ。JRの駅から、明らかに赤字であろう単線の私鉄に乗って揺られること一時間のこの町は、典型的な過疎の地だ。周りにちらほらと観光名所があるおかげでここも成り立ってるのだろうが、しかし町の歴史が黄昏に入っているのは間違いない。そんな消えようとしているこの町の名はすばり『鬼頭村』といい、その名前に惹かれて有栖はふらふらと足を延ばしたのだ。
一応自分への名目は取材旅行だが、実際は大きな締め切りを終えた自分へのちょっとしたご褒美の旅である。期限だけ八日と決めて、後は目に付いたところ気の向いたところに行くという、一人旅だからこその贅沢を有栖は楽しんでいるのだ。帰ったらまた新たな締め切りと先日終えた連載分を単行本に作り上げる作業が彼を待っている。女将が言うように取材ということも多少は兼ねているが(事実、この町に足を踏み入れたとき、有栖は最初に「この列車が止まったら閉鎖的空間になるな」と考えたりもしたものだ)、今はそういったことを抜きにして何も無いを楽しもうという算段だった。
「その菜の花畑っていうのはここから遠いんですか?」
「そげな遠くもねですよ。散歩がてらには丁度えぇかもしれんですね」
「何分ぐらいです?」
「そうさね……、まあ二十分かかりませんわ。なんたって狭い村ですから」
有栖がここに宿を求めたのは、四時を過ぎた頃だった。今は五時前になろうとしているが、まだ外は明るい。冬と共に、夜もまた場を追われつつある。春は好きだが夜型であるところの自分は、それが少し悲しい。夜が白む前にベッドに入ったときの勝利感――それが誰に宛てたものかは判らないが――を味わうのがなかなか難しくなっていくからだ。
日が長くなったといっても、それでも淡い日の名残に包まれた外をなにもなしに見ていた有栖は、やがて女将に「夕飯は何時頃です?」と訊ねた。
「基本は六時ですが、お客さんの都合があるなら、そちらに合わせますよ。今日も客はお客さんを入れて二人だけですから、融通さはいくらでも利かせられますからねえ。で、花をと思っちょります?」
「ええ、実は」
「なら、地図書きますわ。初めて行く人にはちょっとややこしいかもしれねし、もう夜も近いですから」
「あ、すいません」
「気にせんでえぇですよ、本当になんもねところですからね、せっかくなんで見ていってくださいよ」
女将が人柄そのものの暖かい声でそういうものだから、有栖も遠慮はよして地図を書いてもらうことにする。といっても道は複雑なものではなく、曲がり角の目印さえ間違えなければ迷うこともなさそうだった。
「ただ、この道はばんとしちょって……、あれですね、いま通れませんから気をつけて下さい。まあいってもすぐ行き止まっとりますけどね」
帰ってこられたら、ご夕飯にしますからという女将の声に送られて、有栖は宿から出掛けていった。
鬼頭村自体は女将がいったとおりとても小さな村だった。東西南北ではなく、通りと店の名前で方角が示された地図を片手に、有栖は逢魔ヶ時の村をゆっくりと歩いていく。
それこそおりんさんとすれ違いそうな道を何度か曲がり、骨董的価値が高そうなオロナミンCの看板やらもうお目にかかれ無そうな形のポストにいちいち目を奪われながら、やがて有栖は町外れへと出ていた。農業が生活の中心だからだろうか、世界はしんと静まり返っていて、そのくせ密度は濃厚だ。風が吹けば道端の風車が勢いよく周り、まるで小声で囁くように音が響き渡っていった。
空五倍子色の地蔵堂の前で立ち止まり、もう一度地図を見る。
「で、ここを左……と」
お地蔵さんに手を合わせ、ついでに何年も前にやっていた戦隊ものの柄が描かれた前掛けを真っ直ぐに整えた後、ついでにポケットに入っていたチョコをお供えしてからくるりと回って、地蔵堂を後ろに有栖は山間へと足を向けた。
道はすでに舗装もしてなく、乾燥した土の感触がスニーカーに心地よい。自分の足音を随分と久しぶりに聞いた、と思いながら更に有栖は山道を進んだ。女将がいうには先ほどの場所を曲がれば、程なくして菜の花畑が見えてくるという。
空は今や梔子色に染まりはじめ、山の向こうには星もちらほら見えている。低い位置に見える月は朧げで、山間にふと熔けてしまいそうな輝きを放っている。
はじめは昔の記憶を掘り返して唱歌などを歌いながら歩いていた有栖だが、それも気が付けば止んでしまい、日頃の運動不足がたたったかの如き足取りになった辺りでついに地図を引っ張りだすことにした。
ひょっとしたら右、だったかもしれない。
火村がいなくてよかった、と思いながら道を確認する。彼がいたら息が切れそうな自分の状態も、道を間違えたかもしれないことも、いちいち笑い飛ばすに違いない。彼に土産として話をするときも、この部分だけは省くことはもう決定済みだ。
そんなことを思い出しながら見た地図だが、残念ながら役には立たなかった。それは地図のせいではなくて、周りが暗くなっていよいよ良く見えなくなってきたからだ。
仕方ない、と有栖はもう一度歩き出した。あと少しだけ歩いてみて、それでもなかったら引き返そう。幸いにもここまでは一本道だ。帰り迷う心配がないことは心強い。
ひょう、と風が吹いた。
その音以外聞こえてくるものもなく、薫るのは木と土のものだけだ……、とやがて有栖はそれ以外の香りも鼻が捉えていることに気が付いて、そしてふと横を向いて思わず足を止めた。
菜種に染まる。女将の言葉を思い出す。
山の裾野まで、間に何本かの老木を抱え込みながら、黄色い花は静かに咲き誇っていた。
ところどころに混じっている雑草たちと共に、ただ圧倒的にそこにある。
自然と、有栖は道を外れた。少し急な堤を駆け足で降りて、そっと菜の花達の前に立つ。
遠くに薄ぼんやりと見える明かりは、町外れの街灯だろうか。ノカンゾウのような暖かな灯りが、淡くその辺りだけを照らしている。
この土地がどれほどの広さなのか、有栖には正直言って見当もつかなかった。ただ、途方もなく広いことだけは確かだ。その場所を埋め尽くす菜の花は圧倒的な存在感を誇示していながら、しかし圧迫感は全く感じられない。
有栖が想像していたような、テレビでよく見る何百万本もの菜の花が人工的に植えられた畑とは全く異なっている風景だ。自然と時間をかけて広がっていったようで、ばらばらとある他のものが、黄色以外の彩りを添えている。
不揃いだからこそ、目を奪われる。そして、どこか得体が知れない。
一歩、足を踏み出す。
周りを植物特有のしなやかな感触が囲む。腰よりも低いくらいの位置に黄色い花々が来て、空へと控えめにその香りを振りまいていた。
名も知らない、それ程高くは無い木は枯れた枝に闇を抱え込もうとしている。
空はいよいよ山藍摺に染まろうとして、大阪では考えられないほど星が見えている。
――別世界や。
有栖は思った。ここではないどこか、そんな場所はないと知っているはずなのに、この空間だけ時間から切り離されている。そんな錯覚を覚える。
なにかがぱっくりと口を開けている。そんな感覚すら覚えた。
ざ。
ざざ。
ざ。
どこからともなく聞こえてくる潮騒が、ふと空間を埋めた。
目を瞑れば波も見えるかもしれない。
腰の辺りを、そっと過ぎていくなにかを感じる。
そう思ったとき、有栖は初めてぞっとする感覚を覚えた。
山を越えたところに海はあるという。
地図上では確かにそうだ。ただ、車で三十分はかかる距離のところに。
気がつけば風が吹いている。
その風に合わせるかのように、菜の花は寄せては返し、返しては寄せ、何度も何度も、その波の姿を見せていた。
ざ。
ざ。
ざ。
風が吹くたびに、潮騒は大きくなってくる。
後ろを振り返る。
そこには菜の花の海がある。
横を見る。
山まで続く海が見える。
反対側に目をやる。
菜の花がどこまでもどこまでも広がっていく。
朧月はしずしずと昇ってきて、淡いヴェールを静かに広げている。
そして潮騒。
吹く風が菜の花を煽り、ついに波が高くなる。
入ってはいけない。
そう思うほどに、有栖は自然と足を前に運ぶ。
向こう側に見えていた街灯は、本当に街灯なのだろうか。仄かに光るそれが手招きしているように見えて、虫たちのように有栖はゆっくりと菜の花の中を歩いていった。
もしたどり着いたら、果たしてまたこの海を越えられるのだろうか。
一歩進むごとに、大阪での日常が、波にさらわれていくようだ。
ざ
ざ
寄せる波の中、静かに色々なものが思い出されていく。両親と出かけた潮干狩りの砂の感触だとか、大学時代、肌が真っ赤になるまで泳いだ名も知らぬ海岸。作家仲間と談笑した、湾岸のホテルでの忘年会。社員旅行で行った白浜での一コマ。
普段は記憶の底にしかないはずのものが、ふと出てきて洗われて、そしてまたどこかへ捨てられていくような、そんな理不尽な感覚を有栖は覚える。
あの街灯までいけたなら。
この理不尽さすらも、うたたかと消えてしまうのだろうか。
――高校時代の夏。
ふと足が止まった。
紡がれる繭、綴られる文。
「まあ、お前と小説はどうやっても切り離せないんだろうさ。――だから、書き続けろよ」
耳に蘇った、今よりも幾分若い声に、有栖はどこともなくさまよわせていた視線を、意識下に戻す。
自分がいなくなったら、彼は探すだろうか。
彼がいなくなったら。自分は探すだろうか。
書くことは繭だった。蚕のごとく出てくるものは、人の手元を覗き込む変わった男が受け止めた、そのときに初めて形となった。
なぜこの風景にこうも囚われるのか、有栖はようやく合点がいく。
あの男なら、この海が目に入ったくらいでは全く気にも留めないに違いない。しかし、万が一にもこのような境目が曖昧な場所に来たならば、立ったならば、そのときは躊躇いもなくどこかへと渡るのではないだろうか。
自分がいなくなったら、その時に、誰があいつを止めるというのだ。
そうだ、なんでこの風景に囚われるのか。なぜならこの寂しさはまるで――
その時、空間にけたたましく電子音が鳴り響いた。
「あっ、わっ、もしもし?」
『……アリスか? なにそんなに慌ててるんだよ』
「なにって別に……」
『ひょっとして忙しいか?』
「忙しいっていうか、ちょっと旅行中でな」
『そうなのか、そりゃ悪かった』
「いや、全然悪くない。っていうかどうした」
『いや、資料を見に兵庫に出てきたんだが、どうも京都に着ける時間には出られそうもないから、と思ったんだが』
「だったら勝手に泊まってけばええやん。置き鍵はいつものところに」
『お前、まだあそこに置き鍵してたのか』火村が苦笑する声が受話器から響く。『もう少し防犯意識ってものを高めとけよ』
「そのおかげでカプセルホテル行きを免れたんやから、今日あたりは感謝しとけ」
『まあ、次回作の構想ノートが盗まれないよう頑張って見張ってておいてやるよ』
「そりゃ心強い」
『だろ。……で、いまどのへんなんだ?』
有栖はふと力を抜いて、そっと周りを見渡した。
「んー、菜の花の真ん中」
『菜の花?』
「そや」
『美味そうだな、とかどうせ思ってたんだろ?』
「思うか、大体食べれる種類ちゃうし、これ」
『見て判るっていうのがすごいよ』
「誉め言葉ってことにしとくわ。でも、そういうこともなんも考えてなくて……。いま月が低くあってな、そんで向こう側に山が見えとるんやけど、その先までずっとな」
『へぇ、菜の花畑に、って奴だな』
火村が小さく歌う声に、有栖は、
「見渡す山の端、は霞深くないんやけどな。でも……」
『でも?』
「いや……、すごいで。そりゃ蕪村も一句となるわけやな。こう……、どこまでもどこまでも花があって」
『うん』
「まるで……」
『まるで?』
穏やかに聞き返してくる火村の声に、有栖はふと柔らかい微笑を漏らした。
向こう側からは、時折放送のようなものが聞こえてくる。兵庫のどこかの署の待合室にでもいるのだろう。
「……なあ、火村。君明日ヒマか? 週末やし元々春休み中やろ」
『まあ、春休みだからってなんもないわけじゃないが、明日はヒマだ。……お前、まさか』
「来い」
さすがに向こうで絶句する気配がした。それはそうだろう、と有栖はどこか楽しい気持ちで思う。
『……アリス、お前なあ』
「火村、……この菜の花を君に見せたい」
『……』
「なぁ、ええやろ?」
やがて向こう側で深いため息をつく音が聞こえた。
『つまり大作家先生におかれましては、一研究者に迎えに来いとおっしゃってる、そういうわけですか』
「うわあ嫌味な言い方やな、じゃあええ、そういうことにしたる」
『他にどういう言い方が出来るんだよ』
「俺はな、単純に、この風景を君と見れたら、と思った」有栖は携帯を片手に空を見た。天鵞の光沢の上には、名もわからない星々が控えめに瞬いている。「君だったら、今見えてる星がなんなのかもわかるんやろうな。その下に黄色い絨毯が延々と続いとるんや。……ロマンチストと笑ってもええけどな」
『……ああ、そうだな』
言いながら、なにかを捲る音がする。声色はどこか穏やかになっていた。
『場所はどこだっけ。昼過ぎに着くよう出向いてやるよ。ただ、車じゃねえぜ』
「みたいやな。とうとうお陀仏か」
『まさか。ただワイパーの調子が悪いから修理に出しただけだ』
「なんやつまらん」
『少なくとも、お前のブルーバードよりかは長持ちする予定だからな』
「いっとけ」
言いながら、二人ほぼ同時に笑ってしまう。まあどちらもいいボロ具合だから、壊れるのは多分同じぐらいだろう。
有栖は大体の町の位置と名前を告げる。『えらく推理作家向けなおどろおどろしい町名だな』という火村の言葉に頷きながら、そっと体をきた道の方に向けた。
「……すまんな、無理言って」
『気にするな、慣れてるから』
「慣れてる、ってそんなに呼び出しとらんだろう」
『自覚がねえ、っていうのは恐ろしいな。いつだったか俺は東北まで出向いたはずだが』
「あはははは……、まあ埋め合わせはするし」
『まあせいぜい期待しておくさ。それに……』
「それに?」
『なあ、かわすの鳴くねも鐘の音も霞むほどの風景なんだろ? なんとなく目には浮かぶな』
「霞んでるのは月の光に照らされてるからやろ、その場合は」思わず突っ込んでしまってから、有栖はぐるりと周りの金糸雀色を確かめて「……うん、でも霞んどるよ。野郎二人で、っていうのは我ながら寒いけどな。あ、でも一人で見たらあかんで、君は」
『なんでだよ』
「いや、そういうもんなんやって」
土手をよいしょ、と言いながら登っていくと、『このオヤジめ』と案の定笑う声がした。
オジンで結構、と返しながら、有栖は改めて菜の花たちを眺めた。
山の端まで続くその向こうに、ぽつりと灯る街灯。
春の風を受けて、ただ静かに揺れる景色に心穏やかになりながら、「ほな明日駅まではいくから」と返して電話を切る。
聞こえるのは、草々が触れ合う、少し乾いたさらさらとした音だけだ。
西の空の赤の名残はいよいよ消え去り、夜の訪れが静かに始まっている。
明日もまた、地蔵堂を左に曲がったなら、あの風景が見られるだろうか。
見られるのではないか、と有栖は根拠なく思う。
火村はあの風景を見てなにを思うだろうか。今度はあの街灯の下まで行ってみるのも良いかもしれない。今日のように、ただ流されるだけではないだろう。
いつか一人きりで何かの境界に向き合った火村にとって、自分が錨であることを、あるいは錨となるものを見つけることを、有栖はそっと願った。自分にとって、小説と彼が確実に錨であることと同じように。
「さて」とそっと呟いて、有栖は携帯の液晶を見る。その表示が間違いなく「圏外」となっていることを確かめると、先ほど鳴り響いた懐かしい戦隊もののテーマを口ずさみながら、のんびりと山を下り始めたのであった。