荒波渡る街へその日、男は「今から二人で出かけるぞ」と声を発した。
俺は自分が男の"一応"の、固定所在として存在してるマンションに来てから・・厳密に言えば現れてしまってから。任されっぱなしである、洗濯やら掃除を片づけていた最中だった。
今までどうしてたのか不思議で尋ねた時には、そもそもこのマンションに俺は帰ってきた試しが無かったのだという。
呆れるほど自由で、そして相も変わらず他人に投げていたのだろう事は予想できる。
洗い切った皿二度振って、水気を拭きながら後ろを振り向けば、白昼の光の中に男の姿を見る。いつもと変わりもしない、自分とよく似たスーツ姿。
白地に、ストライプ柄。その中には派手な獣柄のシャツを着て。煙草を銜えながら、羽織ったスーツを正した後は手首の周りを直していた。その少し俯いて、影になる様子が目に入る。
少しだけ自分のよく見知ったかつての男の、赤木しげると知り合ったその時の姿は一瞬重なった幻を見る。
赤木が発した言葉に、遅れて俺は「どこに」と自然な疑問を浮かべた。
赤木の予定を全て知っている訳ではないが、この男を待っている連中は今日だっているはずなのを知っている。
「海、見に行きたくねえか?」
影の中で笑う男の、手元で白く細い煙が揺らぐ。
年齢を刻む顔の隅々にやはり俺はいつまでも慣れそうにないなと思う。
そんなに子供みたいに笑うお前を、俺はまだ未だによく知らないのだから。
誰にも言わないで出てきた事を、俺は散々大丈夫なのかだとか、いいのかだとか訊いたと思う。
その度に"気にするな"を二回口にして躱す赤木に、やはりこれは駄目なやつじゃないのかと思ったが、どうしたってもう連絡は取れそうにも無いのだから諦めるしかないだろう。
せめて天たちの連絡先でも知っていれば、公衆電話でも使って伝えられただろうと思う。だが、海を見に行くと口にしてから半ば強制的に手を引かれ、外に連れ出されたのだからあれは無理だろう。
何も準備する時間なんて貰えなかった。だからアカギはスーツの上着は着ているけれど、俺は着ていないし、上はシャツだけの妙な格好になっている。
どちらにしてもスーツを羽織った所で、赤木と似た格好で悪目立ちするというのは、もう経験上覚えがあったからこれはこれで良かったのかも知れないと、不格好にも納得させるしかなかった。
暫くタクシーに揺られながらビルの合間を掻い潜る。どこへ向かうかと思えばそこは駅で、運賃を払い終わった後はそのまま人の流れに乗る。
赤木を見失わない様に。二歩ほど距離を置きながらその姿を追ってゆく。
駅の中に入っていった赤木は「ここに行こうと思ってる」と駅構内、入ってすぐ中央を陣取る柱に掲げられた崖と海の観光宣伝の写真を指差した。
絶対今適当に決めたんじゃないのかと言いたくなったが、もうここは考えるのは止めたくてそうかよ。としか返さなかった。
写真を見上げたまま何も言わない赤木から次の言葉を待っていたが、
「さて、どの切符買えば・・ここに着くと思う?」
「切符に博打するのはやめろ!ちゃんと人に訊けよっ!!」
やっぱりどこまでも適当だろうと思う。
切符売り場なんて此処に来てから初めて来たし、駅も初めて来たけれどこの時代の駅員は一層親切だなという印象だった。丁寧すぎる位の案内を、窓口で受けれて俺は心底ほっとする。覚えるのは難しくない。
しかし行くといった当人が欠伸しながら傍らで話を全く聴いてない様子なのには、本当に解せなくて途中で怒りたくなった事に関しては俺は正しいと思っている。
「好きな駅弁買って良いから機嫌直せよ」
俺よりも物覚え良いお前だから任せたんだ。と、いう言葉の嘘臭さは拭えないし良い様に誤魔化された気もしなくはなかった。
一番高い駅弁買ってやると口にした俺に、赤木は一番高い物が一番美味いとも限らないぞ。と、口にして来た。結局陳列されるサンプルの中で一番自分が好きな食べ物が詰まってる物を選んでしまう。
その後は確実に、そして思ったよりずっと時間は早く過ぎた。待っていた新幹線が到着するまでの時間は、本当にホームに立ち並んで直ぐだと思う。
ただ着の身着のまま、そして買った駅弁と緑茶と金。それ以外を持たずして俺たちは新幹線に乗り込む。
指定の席に着いて暫くして、発車する為の電子音が鳴る。
新幹線がホームから離れて行く瞬間、本当にこの先大丈夫なのだろうかと心配が漠然と出てくる。
しかしそれでも。窓外を見るのを止めた途端に、それまで何も言わずに居たはずの隣の男は「お前は何にも心配しなくていいぞ」と、まるで意図を読んだようなタイミングの言葉を言うのだから質が悪いと思う。
ただただ楽しそうな赤木の横顔を見る。目が合って「それとも、俺と居るのは不安だらけか?」と、悪戯に笑う顔に言葉も詰まって閉口する。
お前と一緒だから不安で。お前と一緒だから、安心している部分も確かにあるのは本当だからだ。
そしてお前と一緒だから、一人取り残されたこの世界にいてもいいと思っている。そんな自分を俺は嫌と言う程、本当は知っていた。
「・・嫌な、奴だな。やっぱりお前って」
「そうだな・・お前に好かれた記憶ってないもんな」
だけど俺は嫌いな奴と二人で内緒で出掛けてやる程、御人好しでもねえよ。と、赤木は背凭れに身体を預けて目を閉じながら話す。
知ってる。お前は気に入った奴ならある程度傍に居るのを許容する。いつだったか、お前に付いて歩いていた奴も居たものな。
目を閉じてくれて心底安心する自分は、何も映らない暗いトンネルの中に入った窓外に顔を向ける。
自分の奥に赤木が映る。このまま寝るつもりなのか。起きる様子が見えない。まさか現地に着くまで寝たりしないだろうと思いたい。買った駅弁もいつお前は食べるつもりなんだよ。
沢山の、どうしようも無い事を考える。
そうして、赤木が言った言葉が頭に残るのを防いで、知らない振りをしたい自分を隠した。
***
駅からタクシーを捕まえて問えば、その海と断崖は然程離れてない距離にあるという。
赤木は躊躇いもせず「そこまで」と口に出していて、俺も黙って乗り込んだ。
運転手は観光なのか、親子なのか、あの観光地に行くにしても他にもいい観光地があるだとか。そんな話を振ってきて、悉く赤木は全てを適当に答えていた。
話をあれこれ勝手にしてくれるタイプの運転手らしく、目的地が近づく頃に一つ気がかりな事を言った。
「あそこはあんな断崖だからね~・・自殺者も多いんだよ。お客さんたち、間違っても落ちたりしないでくれよ」
まさか心中しに来たとかだったら、俺も困っちまうよ。と、ふざけた調子で言う運転手の話に赤木と俺は顔を合わせてしまう。
赤木は耳打ちで「やめとくか?」と口にしたのに、バックミラー越しで運転手の目が此方に向いたのにぎょっとする。
このタイミングでの耳打ちは運転手から見れば不安だろう。渋々俺は
「今日!あの土地観光したいって言ったんだから!今更行かないのは無しだろ!?」
阿呆らしい程声を大きくして赤木に通せば、目を瞬かせて驚く。これは本気で分かってないのだろう。
運転手の安堵めいた肩で息する音も聞こえて、なんでこんな事で気を遣わなきゃならないんだろうと額を抑えるしか出来なかった。
タクシーは待たせなかった。年季と潮風で黒くなったコンクリートの塀沿いの先は緩やかにカーブして、向かい側も同じような形で口を広げて合流している。塀の向こうはどこまでも海だ。
そして塀が入り口の役目を果たした後は、広場がずっと続いていてる。見る限り先も無い様に見える事から、それが俺たちの目的の場所なのだろうと知る。
帰りはバスになるだろうと、目的地に着くまでの徒歩で悟った。通りすがったバス停には、この後一本だけバスが来る事が潮風で傷み気味の看板に記載されている。
コンクリートの塀沿いの向こう、今見る限りは穏やかな海は広がっている。直に夕刻も近いせいもあるだろう、鱗雲の空は少し彩度を欠いて青が薄まっていた。
やがて足は音と、風の強さを受けながら辿り着く。
駅構内にあった写真のパノラマ、そのままが目の前に広がる。
その時は分かりもしなかった崖下の、海の波打つ音は岩にぶつかり何度も砕けている。優しさなんか其処には無い。只管に厳しいだけの、波が遠い足元で白くなって散る怪物だった。
風も強く、観光客も殆ど居ない所を見るとこの日は、どう考えてもハズレなのだろう事は明らかだ。
強い物だけで構成されている。そんな世界の中に取り残された気分になった。耳に残る音も、肌に残る風圧も。
決して暴風までは届かなくても、この地はよそ者を歓迎してない。何故かその気持ちだけが、明確に浮かんで自分を納得させる。
ジャケットを。着てくれば良かったと思った。
まだ夏も去って行ったばかりでそれまで体感には寒さを感じなかったが、この場所ではそうはいかない。シャツをすり抜ける風は、完全に次の季節の温度と手荒い仕打ちを、俺に寄越してくる。
思わず自分の腕を抱き、擦りながら、勝手に一人断崖傍をふらふらとゆっくり歩く赤木に気づく。傍から見たら本当に自殺願望者に見えかねない男が、俺は心底嫌だった。
『まあ、元より自殺願望者みたいな部分が・・ある奴だとは思う、けど』
風でシャツがはためいて音が煩い。
殺風景な中に居る白い影は目立つ。新幹線の中でも見た筈の横顔は、全く違うこの世界に溶け込んだ顔を見せて存在している。
遠かった。
風なんか強いばかりで何も見せてくれやしないのに。赤木が一瞬海に向けた目は遠く、何もない海の先に在ったのを俺は見た。
そうして更に強い風が吹き込んで来て、俺は思わず目を閉じた。閉じた中で断片的に笑いながらだろう「煙草が吸えやしない」という言葉だろうが聞こえる。
風の勢いが衰えたのを見計らって目を開ければ案の定、赤木は笑っていた。
「そういや、お前に言ってなかったが・・昔な・・車で・・」
風の音、海の音。
それらが時折自分たちの間を遮りながら、それでも赤木の言う話を少しずつ拾い上げる。
『海に』
『突っ込んだ事が確かあった』
『あの時は算段立てて』
『生きながらえたが、今は』
どうだろうな。平山。
多分、そうアイツは話したと思う。理解した途端怖くなって、身体はずかずか赤木に向かって進みその腕を掴んだ。
こんな事で捕まえても全く意味をなさない男だと分かって居ても。今手放すよりは数百数千倍はマシに思えた。
何をするのか。し出すのか。
何もしないなら一番それがいいけれど、この男はそう簡単に止まったりしない。だからここまで今、俺たちは来てしまっているのだから。
遠くで波が砕けている。耳の直ぐそばで風音は煩いのに、頭に入ってくるのは赤木を掴んだ感触と向かい合う人に最後まで笑って掴ませようとしない目線だった。
指に力が入ってしまう。
気づく事も無く口の中が、乾いていく。
「冗談でも、今のは話は最悪だって・・お前分かってるだろ!?」
「何もやりやしないのにな・・随分心配するんだな」
「悪いかよ!」
「いいや・・やっぱりお前が傍に居るのは、丁度いいかもな」
お前だから、丁度いいんだろうな。と、続く言葉を正面から受ける。
変わらず風と海は言葉を阻み、音はずっと止まない。赤木も俺も聞こえた言葉はきっと、途中途中で途切れている。
頭の中にさっきまで見た白波が岩場に叩きつけられ散る様を思い出すと、ただ強く瞼を閉じる事しかできなくなる。
想像したくも無い事を、考えさせないで欲しいのに。
俺はお前と一緒に、ここで死んだり出来ないぞ。そんな最初から分かり切ってるだろう、とても下らない事を赤木に伝えると、お前らしいな。と、返ってくる。
過去で亡くなっているはずの俺が、この世界で俺が死んだらどうなるか。それは分かるわけも無い。
そしてただ今は、赤木が変わったなと思う。一歩死へ踏み込めば変わる事もあるという話をしない。
未だに死へ踏み込む事を躊躇う俺を。置いていこうとはしないこの男の言葉を。俺は素直に喜ぶ事も出来なかった。ただ胸の内に沈み込む。
変われない俺に対し、変わりゆくお前に在る時間の流れを、羨ましいと思う。だからこそまだ、生きるお前であって欲しいと身勝手に願うんだ。
***
寒いから帰りたいと言った俺の言葉はあっさりと通り、バスには悠々と間に合った。
その間もただ何もない海だけの景色を見たりしたが、あの断崖周辺だけは異様な程物寂しく、別の世界だったと思う。今目の前に広がる海は、穏やかさしか持ち合わせていなかった。
バスに乗り込んでからは、タクシーの運転手の言っていた事を思い出す。
自殺者が出るような場所なのだと言う話。赤木のせいで過った、一瞬の嫌な想像も思い出してしまう。
どうしてあんな場所を。そしてそんな恐ろしい選択をするのか。俺には全く理解出来ない世界でしかない。
するしかなかったのか。それとも、
『魔が、差したのか』
その時浮かんだのは、あの闇の帝王である男と勝負を選んだ俺自身だった。
今更なんでそれを思い出すんだと自分が馬鹿らしくなるのを、窓に頭を預けて忘れようと努めた。
道路の舗装が歪だったんだろう、車体が大きく揺れて頭と窓の間に大きな音がごんと鳴る。
「やっぱりお前、向いてねえな・・」
赤木の声が座席の後ろから聞こえて来るのを無視する。赤木は一体俺の中のどれを指して言ったのだろうと思うが、どれにしたって良い意味で口にした訳じゃない。
ギャンブルの事なのか。死に触れる事なのか。多分、どちらかを後ろのシートで男は口にしている。
でも今更だろう。俺はもうどちらにも首を突っ込んでしまった後だ。向いている、向いていないなんて話を出された所で何も変わる事は出来ない。
だから赤木に俺から言えるのは一つだけだ。
「いいだろ。もう」
「・・そうか」
お前が思っているよりは、自分を今なら分かって居ると思いたい。
海を引きずる中で、たったこれだけのやり取りが俺をどうしようもない世界から迎えに来る。
後悔はもうあの時、薄れた意識の中で散々してきた事だ。
それでもまだ死に直面する事から逃げたいと思う自分がいる事に、自覚無く根本的な部分からそれを嫌う質が強く在ったのだろうと知る。
赤木は。
いつだってそんな場面に居ても、その影響を怖がりもしないし、自分から踏み込んでいってばかりだと思う。
だから俺はこの男の、そんな部分を苦手とするのだろう。俺は赤木が死へ何も躊躇わない事を、正しいとも未だに思っていない。
死ぬ事は、畏れる事だと思う。それを手放す事自体を怖がらない赤木は、やはり異常だろう。
聞こえた言葉は、きっと俺たちにしか聞こえない。バスは停まり、子供を連れた女が一人が車内から運賃を払い降りる。
降りてから間を少し開けた後、扉は閉ざされてより人数の少なくなったバスは、俺たちがタクシーで辿った道とは違う方向から帰路を辿るべくゆっくりと停留所を離れ行く。
貫いた無言を赤木は何言う事も無く、そのままにした。
そこから次の停留所へ向かうまでの間、俺たちは何も話さなかった。
***
次の停留所で降りたがそこは駅ではなかったし、なんでここで降りたんだと赤木に尋ねれば今日はマンションに帰るつもりが無いと言い出し、俺はやはり一度確認してから降りるべきだったのを知る。
既に海の見えない土地の内側には居るのだけは確かで、辺りは道路を挟んで民家と並列し、旅館や寂れた商店がぽつりと何件か目についた。
泊まる宛ては割とすぐ見つかるだろうからまだマシかも知れない等思っている間に、黄色や緑がそれぞれ半球を彩る街灯が点滅して灯りを灯す。
気付けば陽もとっくに暮れていて、橙色は燃え残りの様に小さくなっていて、空の大半は濃紺になりつつあった。
"お前はどの宿がいいと思う?"
人に話を振りながら、赤木が煙草に火を付ける動作をし始めてそれまで吸えてなかったことを思い出す。
こちらで赤木と居るようになってから初めて見た、あの赤と白のパッケージに収まる煙草が、辺りに薄らと揺らぐ。
バスの中で一度も合わせようとしなかった顔を、陽が消え入る直前の世界で漸くまともに捉え、目を合わせる。
不思議と長く、その顔を見ていない様な気がした。時間の流れもここだけ妙に遅い気がする程、今の赤木はこの陽の消え入りかけた世界に収まっているのに、目は離せずとも口は言葉を出すのを嫌がった。
上手く隠せた試しも無い癖に、それを赤木に知られない様に努めようとする自分がそこには居た。
「ここから歩いて、一番近くでいいだろ・・」
どれもきっと似たものに決まっている。
俺が付け加え、言った言葉に赤木の"そうだったらいいな"と言う言葉は歩き始めた足取りの中、空中に溶け込んだ。
入った宿はとても小さな民宿だった。造られて間もないのか、内装も真新しく畳も藺草の匂いが薫っていた。
俺たち以外に今日は利用客も居ないらしく、通された二階には当然人の気配が存在しない。
風呂も飯も早々に済ませ、振り回されてばかりだったなと、今日一日を振り返る。
まだ誰も癖を付けていない真っ白な布団の上に身体を預ければ、あっと言う間に自分の形へと沈み込んでいった。隣のまだ綺麗なまま無人の布団を見やる。
風呂から上がった後、煙草が切れたと言ってそのまま外へふらりと出て行った赤木を思い出す。自販機がこの宿から少し歩いた場所にあったのは俺も見ていたので多分其処に行ったのだろう。
風邪引いても知らないぞ。と、声を掛けた後。浴衣姿の赤木はただ何も言わず手を振って出て行った。
あの距離からしてもう戻っても不思議じゃないが、来ない事を考えると宿の一階の喫煙所で一本吸っているのかもしれない。
『まあ・・今日殆ど碌に吸ってなかったから』
自分も赤木同様に煙草を生活の一部にしている癖に、生憎煙草を俺はあのマンションの中に置き忘れている。
そしてそれに気づいた赤木に、あいつの吸う銘柄を勧められたのも断った。あいつの煙草を吸う事に慣れてしまうのは、
『いやなんだよ、なあ・・』
湯から上がって引けて行く熱は、自分の意識しない所で睡魔を呼び込んでくる。
うつらうつらと視界が狭くなることも分からないまま、まだ部屋に戻らない男の事を待つ。
暗くなる意識の中でぼんやりと「お前の方がよっぽど風邪引きそうじゃねえか」と聞こえた。
***
「お前に言ったらきっと、知らない事だって言うだろうな」
「俺な、お前と会わなくなった後、一度お前の事見たんだよ・・まああれは、三途の川みたいな所だろうな」
「お前面白くなさそうに人にこっち側に来いって面してたけどよ・・結果、俺はそれは出来ないって蹴り上げて生き返ったんだが」
「でも、今日のお前見て思ったが・・お前は他人の死も"畏れ"なんだろうな・・」
「つくづく向いてねえと、あの時思ったよ」
「お前と同じ目と頭を持って考えてやれねえが・・それでいいと思ってる。必要を拒めないのがお前の良い所で、ダメな所だとは思うが」
「お前が離れるその時まで。お前が見える物を俺の傍に置いて行け・・俺がまだ、覚えていられる内は、な」
「平山」
「安心しろ。お前はきっと、俺が死ぬ場面は見ねえよ・・まだ遠いはずだ」
不確かな声と感覚に、意識が半透明の中覚める。自分の傍に、赤木がよく吸う煙草の匂いを感じ取る。
恐らく隣に座り込む人の気配は赤木なのだろう。好き勝手言っていた気もしなくはないが、同時に意味を理解し切れない事も含まれていたなとぼんやり思う。
手は布団の中から自然と伸びて、気配を探す。指先が自分以外の体温を見つけだし、掴んだ。
自分と異なる年月を刻む手に触れている。確かめるように握れば、男の視線は自分の様子を確かめた気がした。
こちらをどんな顔で見ているのだろうか。今の俺にはそれははっきりと分かりはしない。
「ひえてる・・」
曖昧な意識で口にした言葉は意味も考えずに感覚を言う。
既に目は再び閉じてしまい、また俺の世界は黒く塗り潰されてゆく。
赤木が少しだけ笑った気配を感じながらも、言葉が出て来ることはもうない。
「そうだな・・少し、お前から体温でも貰っておくか」
自分に触れる赤木の感覚が急速に増えて行くのを分かって居たが、それでも意識は眠気を優先する。
冷えた腕が身体を覆ったのに抗わず、ただその中に収まっていく。確かにそこに赤木が居るのを感覚だけが感じ取った。
じわじわと布団の中の温度に自分も赤木も変わらず染まりゆくのも、気づかぬ内にやがて互いの呼吸しか存在しなくなる。
この確かな感覚が、互いに今マボロシだとしても。いつか来るその日まで覚えていたいと願うのは、俺だけだろうか。
出来るならお前に覚えていて欲しい。そんな願いはきっと口に出来そうにもない。
慣れたくない匂いに包まれながら、明日はどんな日を迎えるだろうか。
出来るなら今日よりずっと波の無い日を夢見ながら、俺は変わらず迎える明日を信じた。