彼らは青の中に 二月の雪がちらつきそうな曇り空の日の午後のことだった。
アンネローゼはシュワルツェンの館で食品を扱う商社の外商と会っていた。製菓材料を仕入れるためである。ここで購入した材料は、アンネローゼの玄人はだしの腕前によって、弟ラインハルトと、ときどき幼馴染のキルヒアイスの口に入る菓子になる。
外商の担当者たちとアンネローゼとお付きの侍女たちの間で、ピスタチオの鮮やかな黄緑色や、干しぶどうの濃い紫に、柳色、薄煉瓦色が応接間のシャンデリアの光を受けて輝いていた。本来アンネローゼは他人にかしずかれながら優雅に買い物をするより、市場で自分の足で品物を見繕う方が好きだったが、情勢がそれを許さなかった。
「ご令弟様は甘いものがお好きとうかがっておりましたので、果物やドライフルーツ、ミルクチョコレートを中心に持ってまいりました。特に今年は青いチョコレートが流行っておりまして。こちらの薄い青色のものはご令弟様の瞳のお色によく似ていますでしょう」
商品への愛情と、アンネローゼへの親しみがにじみ出た微笑みで、初老の担当者はアンネローゼが目に止めた品物を説明する。アンネローゼが王宮に召し上げられてからずっと担当しており、最初は顧客の一人とただの出入りの一商人だったが、今では職域を超えた親しみをお互い抱いていた。
「本当に真っ青なチョコレートね。こんなに青い食材なんて見たことなかったけど、どうやってこの色を出しているのかしら」
アンネローゼも彼女に付き添う侍女たちも首を傾げて青いチョコレートを見つめている。最新流行のものが手に入る宮廷にいたとはいえ、彼女自身社交の場に出ることを控えていたのと、とくにここ一年は皇帝の不調を慮って流行との数少ない接点だった宮廷の友人たちの足が遠のいたこともあり、アンネローゼが浮世の流行に触れたのは久方ぶりだった。
「チョウマメというマメ科の植物の花から採った色素を使用しております。この花の効能は老化防止や抗炎症作用などが知られています」
植物から採った色素なら安心して口に入れられる。アンネローゼは愁眉を開くと、柔和な表情のまま瞳だけ好奇心で輝かせてチョコレートを見つめた。外商が持ってきた青いチョコレートは、担当者と同行した助手によって、アンネローゼの正面に冬の空のような薄い青から夜空のような濃い青まで、いくつか違う濃さのチョコレートが並べられていた。他の着色料と同じく色素の量で色合いを変えることができるとアンネローゼはにらんだ。
「その着色料自体も御社では扱っていまして?」
担当者は澄まして、もちろんでございます。と応えを返した。
アンネローゼは結局アーモンドやクルミなどのナッツ類と、酸味の強いリンゴ、無農薬栽培の柑橘類、ココナッツパウダーにアラザン、製菓用チョコレート数種、そしてチョウマメ花の着色料を買った。
支払いを済ませた後、担当者は記録媒体を侍女の一人が持っている細工が施された銀の盆に乗せた。
「こちらに本日お買い上げいただきました着色料の使い方の動画が入っております。他にわからないことがございましたら、いつでもお申し付けください」
「ありがとうございます」
「叛徒どもに捕らわれていた兵隊さんたちが帰ってくるそうで。私の知り合いにも息子が捕らわれていた者がいまして。帰ってくると喜んでおります。これも新帝陛下とローエングラム侯のお陰でございます」
「愚弟にまでお気遣いいただき誠にありがとうございます」
「私どもの商品がローエングラム侯が臣民の務めを果たす一助になれば幸いでございます」
「新鮮な果物やナッツをいただいたお陰で、あの子に体にいいものを食べさせられます」
今とても忙しいみたいだから。心配なの。
家族を心配する仕草さえ、アンネローゼは優雅である。
外商の者たちは、今度は体にいい新鮮な果物が入ったらご連絡申し上げようと思った。
外商が下がった応接間のソファに身を預けたアンネローゼは深呼吸を一つした。
これほど買い物が楽しかったことはあっただろうか。彼女は充足感を伴った疲労を感じつつふと考えた。
宮廷にいたころも、毎年同じ時期に似たような材料を彼らから購入していた。だが、それは彼女が仕えていた先帝・フリードリヒ四世のためであった。
地球時代の名残のバレンタインデーは帝国内では多少内容に差はあれど、身分関わりない行事であり、至高の存在である皇帝も例外ではなかった。寵姫として皇帝に仕えていたアンネローゼは、非公式ながら賜った皇帝自ら育てられたバラの返礼に、陛下の御前で菓子を作り献上していた。最初は購入していたが、何者かに開けられたのを女官が見つけて以来、フリードリヒ四世もお気に召したこともあり、以来、崩御するまで年中行事となっていた。
今までこの時期の製菓材料の購入は、大切な人のことを思い浮かべることだけではなく、常に皇帝の不興を買わないよう、細心の注意を払っていた。
今までバレンタインデーまでのお菓子作りは、好きな人に美味しいものを食べさせたいというだけでなく、いかに失敗せず効率よく作るか確認する、さながら舞台稽古のようなものだった。
でも、もう何もおそれなくていい、顔色をうかがわなくていい。
それだけでこんなに楽しいなんて思ってもみなかった。アンネローゼは今回買った品物を思い出す。アラザンや着色料なんて、オーディンの下町で暮らしてた頃は手が届かなかった。宮廷で先帝陛下に献上したときは、失敗するのが怖くて飾り付けをすることすら思いつかなかった。金銭的にも精神的にも余裕が出てきたからだろうか。かわいらしい飾りを買ってしまった。
アンネローゼはたった今自覚した開放感に、途方に暮れていた。フリードリヒ四世は彼なりにアンネローゼに優しかったし、大切な弟や幼馴染を庇護してくれた。彼に対する感情の整理はいまだにつけられていないが、感謝はしていると思っていた。思っていたはずだった。
どんなに恩があっても、負担を感じていたということを突きつけられた。あれほどよくしてくれた人を重荷に感じるなんてとんだ薄情者ではないか。
アンネローゼはソファから身を起こすと、今しがた考えていた諸々を全て心の奥にしまい込んだ。きっとこの先も罪悪感を伴う開放感は前触れなく彼女の元を訪れることを知っていた。そして、どんなに辛いことがあっても、時間は止まってくれないことも。
「いつもの料理用の服とエプロンを用意してちょうだい」
アンネローゼは控えていた侍女に指示を出し、着替えるために私室に向かった。
二月末の凍てつく空気が肌を刺す宵に、アンネローゼの弟は幼馴染で親友のキルヒアイスを伴って帰宅した。ここ最近、帰宅するとしたら日付が変わる頃だったが、定時に上がったらしい。
「おかえりなさい、ラインハルト。いらっしゃい、ジーク。今日は早かったのね」
「ただいま帰りました、姉上。仕事が早く片付きましたので」
親友とともに愛する姉の元へ帰宅できた嬉しさを懸命に澄ました大人の顔の下に隠そうとするラインハルトは、オーディンの下町に住んでいた頃と変わらないと、アンネローゼとキルヒアイスは懐かしく感じた。
「突然お訪ねして申し訳ありません、アンネローゼ様」
「いいのよジーク。貴方ならいつでも大歓迎よ」
「昔もこんなやり取りをしたような気がするな」
ラインハルトはその美貌に見合った美しい声で笑う。釣られて二人も笑い声をもらした。こんなに無邪気に笑ったのはいつぶりだろう。アンネローゼは胸の奥底が暖かくなったような気がした。
「アンネローゼ様、実は先日ラインハルト様から貴女様お手製のヌガーを分けていただきまして。とても美味しかったです」
玉ねぎの皮を剥きながらキルヒアイスは隣で副菜に使うニンジンを切るアンネローゼに話を振った。いきなり来訪した上、夕食までご馳走すると姉弟に気軽に誘われて、何もせずのうのうと食事ができるまで待っていられるほどキルヒアイスは厚顔にはなれなかった。一飯の恩になるかはわからないが何か手伝わせてほしいと申し出たら、本日の夕食の料理長であるアンネローゼの助手を拝命したのだった。
「お口に合ったようで嬉しいわ」
「アンネローゼ様の作るものはなんでも美味しいです。ヌガーは仕事の合間にいただきましたがいい栄養補給になりました」
「ふふ、狙いどおりね。忙しくても栄養が取れるおやつになればと思っていたから」
「アンネローゼ様も優れた戦略家でいらっしゃる」
アンネローゼは憂いのない様子で笑った。穏やかで澄んだ笑い声の上に、キルヒアイスの穏やかで低い笑い声が重なって、美しい調べを奏でた。
今日は姉上がよく笑っておられる。もう訪ねてくる者はいないだろうと、食堂にほど近い応接間で持ち帰りの仕事をこなしていたラインハルトは嬉しくなった。宮廷を下がってから一緒に暮らせるようになったとはいえ、時相柄ラインハルトの元にある仕事は彼の能力を以ってしても一向に減らなかった。今日だって帰港するキルヒアイスの報告を受けた後、直帰する彼とともにシュワルツェンの館に帰るため、一週間前から前倒しで案件を捌いていたのだ。それでも持ち帰ってやらなければならない仕事がいくつか残っている。
アンネローゼとキルヒアイスの笑い声が耳に届いたとき、ラインハルトはキルヒアイスの家に休日に遊びに行ったときのことを思い出した。その日はキルヒアイスの両親が揃って家におり、母親は家事を、父親はランの雑誌を読みながら、仲睦まじい様子で楽しげに会話していた。
現在のアンネローゼとキルヒアイスは将来、あのときのキルヒアイスの両親のようになるのではないかと、ラインハルトの脳裏に唐突に閃いた。三人ともオーディンの下町に暮らしていた頃と違い、新たな家庭を築くには丁度良い年齢になった。
だが、アンネローゼとキルヒアイスが一緒になったら、アンネローゼの元に帰るのはキルヒアイスのみになる。そうしたら、ラインハルトはどこへ帰ればいいのだろう。
ラインハルトは自分の足元に、暗く、底のない闇が広がったような気がした。
まだ、あともう少しだけ、キルヒアイスと一緒に姉上の元に帰りたい。
二人が食器を持って食堂へ移動する音が聞こえた。あと数分で夕食が食べれるだろう。
ラインハルトは応接間の机に広げていた資料とコンピューターを片付け始めた。
あと数時間で日付が変わるという時刻に帰宅したキルヒアイスは、外套や手袋をハンガーラックに吊るし、軍服から部屋着に着替えると、シュワルツェンの館から辞去する際、アンネローゼから手渡された土産の中に入っていたこげ茶の四角い箱を取り出した。
「ジーク、お口に合うかわからないけど、もしよかったら持って行ってちょうだいな」
帰り支度をしたキルヒアイスにアンネローゼは瓶詰めされたリンゴのコンポートや、マーマレード、夕食の支度中に話題に上ったナッツのヌガーなどを包んで持たせた。
「あとこれ、今流行りのお菓子らしいのだけど」
アンネローゼはそう言って一緒に手のひらより少し大きめの正方形の紙箱を慎重に包みの中に滑り込ませた。つや消しの高級感のあるこげ茶の厚紙に、金が混じった深い青のリボンが掛けられている。色の取り合わせもリボンの結び方も美しいが、店名がどこにも入っていないことから、彼女の手作りだということがうかがえた。
「ありがとうございます。中身はなんですか」
好奇心が赴くままキルヒアイスが尋ねると、アンネローゼは茶目っ気のある笑みを満面に浮かべた。
「それは開けてからのお楽しみよ」
ラインハルトも後で出すから楽しみにしていてね。
姉と親友のやり取りをうかがっていたラインハルトは口角が下がっていた。むくれた表情は幼いころを彷彿とさせるものだった。
「姉上、私はもう大人ですよ。そんな子どもみたいに言わなくても大丈夫です」
どうやら無意識だったらしい。それすらも可笑しくてアンネローゼは笑った。
リボンを解き、上箱を持ち上げると、顔を出したのは宵闇のような深い青と澄んだ水のような薄青のブロックチェックだった。艶のある滑らかな深い青の上には銀の粒が散りばめられているものと普通のダークチョコとのマーブルになったもの、薄青の方は水面のように波打った表面のものと、パン粉くらいの大きさの白い粉が乗ったものと、各二種類入っている。
キルヒアイスは美しい装飾が施された菓子に目を奪われた。青い菓子など見たことなかったし、アンネローゼの美意識が十二分に発揮された一種の芸術と言ってもよいくらいの美しい作品だった。
早く食べたい。衝動に任せてつまんで口に運ぼうとしたが、指が菓子の表面に触れる寸前、思い直して滅多に使わない食器棚からなんの変哲も無い白い小皿と、果物用のフォークを取り出した。
表面をなるべく傷つけないよう、慎重に銀の粒が散りばめられた深い青のタイルの一つを皿にとる。陶器の白と、艶のある深い青のコントラストが美しい。
皿にとるとき、力を入れて刺さないとフォークが滑る程度には表面が硬かったので、美しいまま口に運べないことが悔やまれたが、キルヒアイスは菓子の端の方にフォークを刺して、三分の一ほど齧った。チョコレートの風味が口内に広がり、下の上に溶け出していく。菓子の青の正体はチョコレートだったらしい。チョコレートは生成色のあっさりとした甘味のスポンジ生地を包んでおり、それぞれの食感が調和して、これを食べた後眠ったらいい夢を見れそうだとキルヒアイスは半ば本気で思った。
夢。そういえばもう真夜中だった。こんな時間にお菓子を食べるなんて。キルヒアイスは一気に現実に引き戻された。
もらった他の土産を冷蔵庫に仕舞い、最後にチョコレート菓子を仕舞うために改めて眺めた。深い青と、薄い青。キルヒアイスと、アンネローゼの瞳と同じだとこの時初めて気が付いた。
どういう意味なのだろう。キルヒアイスは謎をかけられた気分だった。相手の瞳の色の菓子を作ったり、自分の瞳の色の菓子を贈るというのは、深い間柄の者がすることだろう。
彼女の弟とはいくつもの戦場を共に乗り越えてきた、命を預け合い、絶対の忠誠を誓うべき王朝を滅亡させるという重大な秘密を共有し合った仲だ。
だがアンネローゼと、キルヒアイスは。ラインハルトさえ間に入れずに考えたとき、少なくともキルヒアイスには二人の間にあるものが途端にわからなくなる。
いや、わからなくなるというより知ってしまうのが恐ろしかった。知ってしまえば行動が変わるだろう。行動が変わったら、二人の、離れることも近づくこともできない距離が、ラインハルトとの仲が、下手をすると崩れかけた均衡の上でかろうじて成り立っている権力構造が、自分たちに不利な方向に変わってしまうかもしれない。
ただただ彼女を好いていられた時期はとうに過ぎてしまったのだ。
それでも、アンネローゼがキルヒアイスのために、お互いの瞳の色の菓子を作ってくれたこと、それだけで天にも昇れる心地になれた。