彼女の人生で最も美しい花々 今日は母の日ですから。その言葉に甘えて定時きっかりに上がったフレデリカは、課外活動に参加していたため帰宅時間が近い娘を迎えに、地上車を学校に走らせた。
学校の車寄せにフレデリカが地上車を付けて約三分後、バックパックを背負った少女がゆるく波打つ黒髪をなびかせて車内に駆け込んだ。
「お母さんお待たせ!」
母にとっては早い帰宅時間だが、娘にとっては遅い時間帯になる。疲れているんじゃないかしらという予想に反して元気いっぱいだ。
「じゃあ行きましょうか」
フレデリカは娘の学校経由で地上車のナビに入力しておいた勤め先からの帰宅ルートを再開させようと、パネルに人差し指を向ける。
「待って! ねえ、帰りにマーケット行きたい」
マーケットとはハイネセン郊外に数年前にできた大型のショッピングセンターの略称である。フレモント街からも休日に少し張り切る程度で行ける距離にあり、娘お気に入りの服や雑貨の店がいくつか入居している。
「あまり時間がないから……三十分だけよ。それと文房具と小説と、」
「参考書以外の本は自分で買ってね、でしょう?」
大丈夫よぅ。娘の声は絶対に大丈夫だという確信に満ちている。後ろめたさもなにかを企んでいるということもなさそうだ。フレデリカは帰宅ルートに経由地を一つ入力した。
地上車が立体駐車場に入庫し終わった途端、娘はお母さんそこで待っててね! と車の中では十分すぎるほどの音量で声をかけて車を飛び出そうとした。だが娘が車を降りるより速くフレデリカの腕は娘の腕を掴んだ。退役して何年も経っているが、その瞬発力と反射神経は娘を軽く上回る。
「だめよ。お母さんも行くから」
「えー?! それじゃ意味ないのに!」
「貴女一人じゃ危ないでしょう? お母さんに来てほしくないならお父さんかユリアンお兄ちゃんたちに頼みなさい」
年齢から見ても、活動的な性格からも娘を一人で行動させるにはまだ心許ない。
「それじゃあ違う日になっちゃうじゃない!」
「お母さんが付いていって今日買うか、お父さんたちに別の日に頼むかよ」
娘はうーッと唸りながらかかとをバタバタと自分の座席の足に打ち付けている。手がかからないとは言いがたい弟たちに熱心に世話を焼いていて頼もしい時もあるが、こうしてみるとまだまだ幼くて、今の状況にもかかわらず可愛らしいとフレデリカは思った。
「いいよ。仕方ないから、お母さん付いてきて」
結局折れた娘は頬を膨らませている。申し訳なさを感じつつフレデリカは自分の側にあるドアを開けた。
前進する娘は文房具屋も本屋も、いつもは必ず覗くお気に入りの雑貨屋も服屋も、彼女にしては早足で素通りしている。三十分と区切ったのが効いたのか、それらよりよほど大事な大切な用事なのか。店内の配置図が頭の中にあるフレデリカにさえ目的地の見当がつかない。
ようやく止まった娘はフレデリカを振り返ると、これからショーを始めるマジシャンのように腕を広げてある店舗を手で示す。
「サプラーイズ」
照れ臭さと計画変更を余儀なくされたことで少々投げやりだ。娘の小さな手の先の店を認識した途端、フレデリカは娘の不可解な行動の理由全てを理解した。
フレデリカが娘に連れてこられたのは花屋だった。色とりどりの花や草木が陳列されている木製のワゴンを模した什器に「母の日おめでとう」と飾りがつけられている。
「いつもありがとう。好きなお花選んで」
わたしが買うから。あっ、十ディナールまでね。いつもは饒舌な娘が小さな声で言葉を探し探し話す様は、照れたときのフレデリカの夫を思わせる。
フレデリカは店内に進む。白や薄桃色のバラ、カーネーション、銀色がかった緑のオリーブの葉。少女時代から今まで人より花を贈られることが多い人生を送ってきたフレデリカだが、目の前にある花や植物は今までで一番どれも生命力に溢れていて美しく感じられた。
フレデリカが選んだ花を購入する際、店に着いたときとは打って変わってラッピングの依頼と支払いを堂々とこなした娘と、彼女から贈られたばかりの花束を抱えたフレデリカは幸福で満たされた表情で店を出た。
「ありがとう。本当に嬉しいわ。こんなに素敵なサプライズがあるとは思ってなかった」
花束を大事に抱えて微笑む母を目にした娘は耳と顔の境目を軽く掻いた。
「よろこんでいただけてなにより」
早く帰ろう。お父さんたちお夕飯準備して待ってるよ。そう早口で続ける。
「あの人が?」
あの人というのは夫たるヤンのことだ。家庭生活を始めて十年以上、協力的だが家事の腕の上達速度はのんびりとしている。そして今だに料理の腕はよいとは言えない
「料理自体はユリアンお兄ちゃんたちと多分弟ども。お父さんはお酒よ」
そうだろうなとフレデリカはほんのり笑った。三人の息子たちとカリンと孫が用意してくれた宇宙一美味しい夕食。そして最愛の夫が経験を生かして選んだであろう美酒。想像しただけで心が躍る。
「今日から少なくとも一週間は幸せだわ」
「一週間?! お母さんそれはちょっと安上がりだと思うわ」
花束を抱きしめながら軽い足取りで家族が待つ家へ帰る母娘を、美しいショーウィンドウとキラキラと光る照明が祝福するように照らしていた。