TO麺×$ 番外編2 差し出された缶ジュースに顔を上げると、その先で爽やかな顔が爽やかな笑顔を浮かべていた。陽に透ける青い髪は、ドラマのための役作りだ。背後に青々と茂った大きな木と、その木漏れ日を背負って登場した演出は見事としか言いようがない。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
どうあっても爽やかな労いにどうにか笑顔を貼り付け、缶ジュースを素直に受け取り、隣のディレクターチェアに腰を下ろす青年を眺める。
最近人気急上昇中の若手俳優。今回、アズールが出演する事になった深夜ドラマの主演だ。アニメ原作の舞台を主戦場として若い女性の人気があると聞く。引き換え、アズールはヴィルのバーターで出演が決まった程度の立場で、彼と二人きりで話すには少し気後れしてしまう。現に、彼はディレクターチェアに悠々と足を組んでいるけれど、アズールは木陰にしゃがんで陽の光から逃げていた所だ。
いつかそこまで上り詰めてやると心の中で拳を握りながらも、この場はにこやかにやり過ごさなくてはならない。現場でトラブルなんて真っ平だ。
「俺、アイドルのライブとか結構行くんだよね~。君のライブも見た事あるよ」
爽やかな笑顔に目が潰れそうだ。けれどここで負ける訳には行かない。
「え~ホントですかぁ。嬉しいです~」
彼の狙いがよく分からなくて、当たり障りのない駆け出しアイドルを気取った。媚びた話し方に満更でもない顔をした彼に、俳優のくせに演技も見抜けないのかと呆れる。
「うん、この前のステージバトル、友達に呼ばれて行ったんだけどこっそり君達のユニットに投票しちゃった」
ぱちんと閉じた右目に長袖の下で鳥肌が立つけれど、精一杯の可愛い笑顔で、えー、と答えて身をよじる。
「お友達に悪いです」
「うん、だから秘密にしておいて?」
ね、と笑いかけながら人差し指を唇に当てた仕草にいっそ感心した。何から何まで計算され尽くした男だ。完璧な角度と、女が好きそうな言葉を心得ている。この甘いマスクで『秘密』などと言われたら、その気になってしまう女も少なくはないだろう。けれど、残念ながらアズールはそういうタイプの男はどちらかと言うと苦手な方であったがゆえに、引き攣りそうになる頬をどうにか励まして、にっこりと頷いた。
「ね、今度食事でもどう?」
「えー、二人きりはまずいですよー」
「んー、じゃあ何人かで。ホームパーティでもしようよ」
いやいや。ホームパーティだなんてそんな閉鎖空間、連れ込んで何されるか分かったものじゃない。純粋にパーティという名の飲み会に誘ってくれているのだとしても、家に行くのは流石に無理だ。
頑張れ表情筋。ここで引いてしまっては確実に機嫌を損ねて今後に影響が出る。こういうタイプは思い通りにならないと子供のような癇癪を起こして、下手したら降板させられかねない。
「じゃあメンバー集めないとですね!」
取り敢えずこの場は乗り切って、後でヴィルに相談だなと判断した。けれどもそんなアズールの回答を、彼はポジティブに受け取ったらしい。しめたとばかりに目を輝かせた彼がポケットに手をやる。
「じゃあ連絡先交換しよ」
「……喜んで」
取っておきの笑顔の裏に浮かんだのは、彼と似たような、いや、もっと鮮やかな蒼い髪だった。
都内の大きい公園でのロケは更衣室が用意できず、着替えとメイク直しは移動車を使用している。アズールが衣装から私服への着替えの手を進める中で、前の方の座席に座ってメイクを直していたヴィルが事のあらましを聞いてふんと鼻を鳴らした。
「あいつはダメよ」
「でしょうね」
「適当なこと言ってごまかしなさい。パーティなんてとんでもない」
吐き捨てるような言い方に何か引っかかるものを感じる。アズールが知らないだけで、何か前科がある人なのかも知れない。刺々しいヴィルの声に、ですよね、と頷いて衣装を畳んだ。
「困ったら言って。アタシからガツンと言ってあげる」
「仕事が無くなるのは困ります」
「アタシのバーターなんて幾らでもあるわよ」
「チリツモってやつですよ」
今は小さな仕事でも取り零す訳にはいかない。そもそも、いつまでもヴィルのバーターなどという立場で収まるつもりもないのだ。いずれは大きな会場をツアーで回るサイズのアイドルになるという野望がある。この仕事だって、そのための足がかりのひとつだ。そう言うと、俳優が本業のヴィルが気を悪くするだろうから口には出さず、小さめのバックパックを背負ってバンの出口に向かう。
「まあ、適当にします」
「そうしなさい」
手鏡を下ろした彼女に頷いて、短いタラップを降りて車を出た。この後も出番があるヴィルとはそこで別れ、この後一度事務所に戻る予定になっている。
現場に戻って一足早い上がりに頭を下げた。お疲れ様でしたと告げた先で、彼がにこにこと手を振っていたのには、軽く会釈するだけに留めておいた。
**********
「はー??? 死ねばいいのに」
話を聞き終えた後の開口一番がこれだ。不快感を思い切り前面に出して、とてもではないけれどファンには見せられないような顰めっ面で吐き捨てた恋人に肩を竦めた。
「仕方ないんですよ」
「ねえちょっと、そんな事言って、仕方ないって済ませて食事とかダメだからね」
「二人きりではしませんよ」
「ホームパーティ()もダメだよ。ぜったい何か盛られるよ」
「そんなに悪そうですか」
「ああいう爽やかなのは絶対腹に一物抱えてんのJK」
「じゃあ見るからに何か抱えてそうなイデアさんは?」
「抱えてんじゃん、キミへのクソデカ感情。同担拒否過激派ゆえ」
「じゃあどの道なんか抱えてるんじゃないですか」
「ていうか待って、さり気なく拙者のこと見るから陰キャって言った? ぴえん」
膝の上で雑誌をめくりながら、脳を経由しない軽口での会話を楽しむ。膝を立てた姿勢のアズールの背中はイデアにがっちりとホールドされていて、鳴き声(ぴえん、というやつだ。ちょっと可愛い)と共に背中に額がぐりぐりと押し付けられる。
「食事にはヴィル氏を必ず連れて行ってくだされ」
「あの人は用心棒かなんかですか」
「威圧感で人を殺せる」
「ふふ、言いつけてやろ」
「あっやめて、拙者の命が危険」
「冗談です」
「うん、でもアズール」
笑ったアズールの顎を後ろから伸びて来た指先が撫でて振り向かされる。見上げた先ではきいろの瞳が思いのほか鋭くアズールを見下ろしていて、どきりと心臓が跳ねた。
「僕は冗談で言ってないよ」
「……わかってます」
ワントーン低くなったイデアの声に思わず息を飲む。
二人きりにならないこと、食事にはヴィルを連れて行くこと、それから、何だろう。あとは何に気を付けたらいいかな、と考えてみるけれど、被さるように塞がれた唇の熱さに溶かされて、もう何も考えたくなくなる。
もう全部後でいいかとあの俳優の姿を頭の中から追い出して、視界も思考も目の前の蒼一色に染め上げた。
ふうんと鼻を鳴らしたケイトが面白そうに猫目をきゅうと細めるものだから、やはり碌でもない話なのだと肩を落とす。
「ま~、ヴィルちゃんがそういうのも頷けるね~。逆に、アズールちゃんが知らないのがちょっと意外だったかも」
「一応クランクインの前に調べたんですけどね」
「深度が足りなかったって感じ~? とにかく要注意だね」
「連絡先交換しちゃったんですけど」
「そのくらいはいいんじゃない? 釣れないと思ったらその内勝手に切られるよ」
それはそれで何となくプライドが許さないのだけれど、とはいえ変に付き纏われ続けるよりはマシだ。適当にあしらい続ければその内飽きて、ドラマの撮影が終わって少しする頃にはもう、向こうからは『誰だっけ』と言われるくらいに昇華されることだろう。そうなってくれるなら逃げ回る労力も少なくて済むし、万々歳かと先刻受信したばかりの彼からのメッセージに、当たり障りのない返信をしておいた。
食事の機会は案外すぐにやって来て、目の前でヴィルと彼を含む数人が交流会を企画するのを何となく眺める。正直、できれば参加したくない。彼と関わるのも面倒だし、そもそも人の多い所は好きじゃない。若者の集いなど、羽目を外す一歩手前まで賑々しい時間となるのは想像に難くなかった。
「じゃあ、日程は追って。ね、アズールちゃんも来てね」
「は、はい……」
ちらと送られたヴィルからの視線は、無理するなというそれだったように感じたけれど、他の共演者やスタッフもいる中で、座長からのお誘いを断るなどという事はできるはずがなく、愛想笑いで頷いたアズールに満足そうに笑った彼が、また別の若いスタッフに声を掛けるため輪から外れるのを見送る。
「ま、アタシもいるし、大丈夫よ」
「頼りになります」
立場というものがなければ多少は負けない自信があったけれど、流石にそうもいかないこの状況下では、芸歴も知名度も彼よりも上のヴィルに頼る以外の選択肢はありそうになかった。
『日付決まったら教えて』
若手だけの打ち上げをやる事になりそうだと休憩の間にイデアにメールを送ると、即座に返事が返って来る。今日は作曲をすると言っていたから、恐らく部屋に篭り切りで時間の融通が利くのだろう。レコーディングや打合せがあると中々返事が返ってこない事もあったけれど、編集や作曲のような、一人作業の時のレスは驚くくらいに早かった。
『わかりました』
『ヴィル氏も一緒なんだよね? 何人?』
『今の所6人くらいです』
『男女比』
『女4:男2』
『ハーレムかよ』
『羨ましいですか?』
『キミをその中に入れたくないだけ』
末尾に付けられたのは緑色の吐しゃ物を吐き出した絵文字。どういう感情なのかよく分からなかったけれど、とにかく行かせたくないというのだけは伝わって来る。けれど、これも付き合いのひとつだし、コネクション作りのために仕方のない事だ。それを分かっているから、イデアも無理に引き留めはしない。もしもこれが逆の立場だったとしても、アズールは唇を噛みながらもイデアを送り出すしかないのだから、難儀な商売だなと思う。
休憩終わりですという掛け声に立ち上がり、ふと思い立つ。ポケットにしまう前にひとつだけ、手早くメッセージを作ってイデアに飛ばした。
作曲の作業は基本朝から晩まで一人だ。いや、正確には晩から朝までだ。トレイは作曲期間中も決まった時間に起きて決まった時間に寝るらしいので、人間らしい生活を送っているそうだが、残念ながらイデアには元々時間と言う概念があまりないせいで一人作業の期間に入ると見事に昼夜が逆転してしまう。
パソコンに表示された作曲ソフトと対面しているくせに、目だけはメインディスプレイの左側を追いかける。サブディスプレイに表示されているのは、所謂アングラ掲示板だ。
「クソか」
呟いて、加えていた棒付きキャンディをがりりと噛み砕く。例の俳優のスレッドを洗っていると、嘘か真か分からない情報が次から次へと出て来た。全てを鵜呑みにするのは危険だけれど、全てが真実という前提で防御策を講じておかなくては、アズールに何かあってからでは遅いのだ。
暴力に二股、風俗通いにセックスドラッグ。ここまで来ると強姦も余裕でありそうだ。
あれほどの爽やかな笑顔の裏にどれだけの闇を抱えているのやら。それでもこれらが表に出て来ないのは、証拠が掴めないからか、事務所の力か。ヴィルが一緒だからと言っても、もしかしたら安心できないかも知れない。どんなに言っても、彼女も女性だ。まして薬なんてものが登場してしまったら性別関係なくジ・エンドになりかねない。
最後にイデアがメッセージを送ってから少しだけ間があって、スマホにもうひとつ、アズールからのメッセージが舞い込んだ。
『キスがしたいけどこれで我慢』
現場の片隅、人の少ない所でこっそりイデアのために写してくれたのだろう自撮りのライブフォトは、僅か一秒の投げキッスと直後の照れ笑いをイデアにだけきっちりと届けてくれた。
「~~~~~天使……」
机に突っ伏して呟いて、素早く同じデータを十回保存した。
**********
血の気が引くという事はこの事かと、アズールは迎えられた状況に顔を引き攣らせる。もう、取り繕うような余裕はなかった。爽やかに笑っている彼はどう見てもいつも現場で会っていた爽やか青年であるのに、今はどうやってもその顔が人間のそれにすら見えず、ただただ醜悪な獣のようにしか思えなかった。
「遠慮しないで」
いいえ、結構です。失礼します、と、ただその短い言葉すら声にならない。開かれたドアの向こうは明らかに男性の一人暮らしの部屋で、事前に聞かされていた情報とは全く違っていた。
「さ、どうぞ」
尻ごみするアズールの肩に男の手が触れ、そこを起点に全身が粟立つ。いっそ恐怖で歯の根が合わなくなるのを彼は笑いながらやや強引に玄関の中へとアズールを引き入れた。
「!!」
「その内みんな来るって~」
せめて玄関のドアを閉めさせないようにしなくては。慌てて身を捻るけれど、男の方は慣れているのかそうはさせず、アズールを上がり框の方へ追いやってから、立ち塞がるように玄関扉を閉ざした。がしゃりと落とされた鍵の音が絶望の合図のようだった。
クランクアップまではまだ少しあるけれど、と企画された若手打ち上げは彼の推進により、非常にスムーズに日付と場所が決められ、思ったよりも実行力のある人なのだなと感心する。飲食物は各自持ち寄り、気楽に行こうをコンセプトに、当日を迎えた。
指定されたのは都内のマンションで、彼の事務所のコネクションでパーティールームを使用できるようになっているらしい。そこそこ名の知れた大きな事務所は資金力が違うなと指定されたマンションのエントランスを潜り、エレベーターに乗り込んだ。
ヴィルと一緒に行こうかと思っていたのだけれど、撮影に入る直前か何かだったようで『後で折り返す』とだけメールが返って来てそのまま。事前に詳細を打ち合わせてはいなかったけれど、あの様子だと今日は別の仕事が入っていて、それをこなしてからこちらに合流するのだろう。それを待ってからの方がいいかとも思ったが、もうこの時間に行きますと言ってしまっていた以上、待ち合わせの時間に遅れるというのも憚られて、どうせ同じ場所に来るのだし、と一足先に彼からのメールで指定されたそこへ来てしまった。
そう、『来てしまった』のだ。
狭い玄関ポーチで彼と対峙し、震える足をどうにか励ます。いつもの爽やかな笑顔で迎えてくれた彼の背後には玄関のドア。アズールの背中には、パーティールームなどとは程遠い、見るからに男性の一人暮らしの部屋が広がっていて、しかもその中には彼以外の気配はなかった。
咄嗟に脳裏に浮かんだのは、騙された、という一言。一瞬の動揺を見抜いた彼が歯をむき出して笑った。その結果が、これだ。
「み……みなさんは……」
「え? だから後から来るってば。そんな警戒しないでよ~、上がって上がって」
一見したら優しい笑顔と仕草であるのに、こんなにも寒気がするのは何故なのか。部屋へ入る事を促されても靴を脱ぐ気にすらならなくてその場に立ち尽くす。買い逃したものがあったから、とか、他の人を迎えに行ってきます、とか、どうにかこの場から逃げ出す言い訳を作らなければ。焦れば焦るほど思考が分散してしまって纏まらない。
「……チッ、」
俯いたアズールの耳に、確かな舌打ちが聞こえた。はっと顔を上げた時には、スリッパのままでポーチに出ていた彼の足がアズールへと踏み出していて、咄嗟に身を引く。靴のままで上がり框に足を掛けてしまったけれど、気にしている余裕などありはしなかった。
自動販売機からジュースを取り出すのに屈めた腰を伸ばした時、ふと窓際で苛立っているような雰囲気のヴィルの姿を見付ける。彼女もレコーディングや撮影によく使っているスタジオであるから、彼女がいるのは決して不思議ではないのだけれど、けれども今日に限っては違和感しかなく、眉を寄せてその背中に駆け寄った。
「ヴィル氏」
「イデア、あんた来てたの」
「うん、まあ、ねえ、今日は? 撮影?」
「ええ、雑誌のね。今さっきスチールは終わったんだけどインタビューが」
「飲み会は?」
ヴィルの回答を全て聞かず、感情の抜け落ちた声で問い掛ける。苛立っていたヴィルの表情がそれを聞いて一気に硬いものへと変わった。嫌な予感が足元から全身を駆け巡って、思わず買ったばかりの缶ジュースを放ってヴィルの両肩を掴んだ。
「ねえ。今日みんなで飲み会するって言ってたでしょ。ヴィル氏は何でこんなとこにいるの? パーティールームで若手の打ち上げするんじゃないの」
鬼気迫るイデアに一瞬反応が遅れたものの、すぐに思考を取り戻したヴィルがイデアの腕を払って再びスマホに耳を当てる。
「あいつ……やりやがったわね……」
「……」
コールをしている先は恐らく、アズールのスマホだ。けれどその様子からして、応答がないのだろう。そんな事をしていても、何の意味もない。電話が繋がったって、スピーカーを通して彼女の元に瞬間移動ができるはずがないのだ。
「ちょっと、イデア!」
背中に掛けられた声を振り切って、非常階段を駆け降りる。大通りに出てすぐタクシーを拾って、GPS検索アプリを立ち上げた。
「急いで向かってください、お願いします」
アズールのスマホの位置を確認し、運転手に低く告げると、焦るイデアに何事かを察してくれたらしい運転手がすぐに車体を発進させてくれる。この後打ち合わせがあったとか、インタビューがあったとか、そんな事はもうイデアの頭からは完全に消え失せていた。
例えば、林檎ひとつくらい軽く握り潰せるくらいの握力があったのなら、アズールの手首を握るその男の手を振り払うか、逆に握り返して痛めつけるか、そのくらいはできたのだろうか。そんな事を考えても詮無きことだと分かっていても、思考がどうしても想像の世界へと流されかける。絶望からの現実逃避だ。
「靴のままだなんて、お行儀悪いなあ」
悲鳴なんて出て来ない。喉の奥が痞えたみたいに声を塞いで、ただ恐怖と悔しさに涙ばかりが落ちて来た。視界が悪くなるから止めたいと思っても、アズールの意思ではコントロールできそうにない。
「俺結構前から狙ってたんだよね~。インディの中でもアズールちゃん可愛かったしさ~」
舌なめずりをする仕草が爬虫類のようで寒気がした。それでも興奮しているらしい男の荒い息遣いは獣のようで、直面した恐怖に思考が上手く働かない。ズールの背中と床の間に挟まれているバックパックの中では、スマホが長い時間アズールを呼んでは切れ、また呼んでは切れるを繰り返している。きっと、ヴィルかイデアだ。何度目かのコールで留守番電話に接続されてしまうせいで、一度切っては掛け直しをしてくれているのだろう。どうか異変に気付いてくれないかと藁にも縋る思いでかちかちと鳴り出しそうな奥歯を噛む。
両手をまとめて床に押し付け、アズールの腰に馬乗りになった彼のポケットでスマホが鳴った。空いていた左手でそれを取り出して、ささっと返信を打つ。
「もうすぐみんな来るからね」
先刻から度々出てくる『みんな』とは、誰の事を指しているのだろう。この状況下で、アズールだけ集合時間をずらして教えられていたという事はあるまいという事だけは分かった。集合時間どころか、日付も場所も、アズールだけ別のものを教えられていたのだ。だとすると、これから来るという『みんな』とは。
「アズールちゃんのファンて俺の周り多くてさ~、いっぱい気持ちよくなろうね~」
くつくつと笑う下卑た男にいよいよ震えが止まらなくなる。押さえつけられたまま一向に何もしようとしないのは、仲間を待っていたせいかと理解して、更に絶望した。『みんな』とやらと合流されてしまってはもう絶対に逃げ出せなくなる。今ですら彼の下から抜け出そうとしても上手く逃げ出せていないのに。
バックパックを背負って仰向けになっているせいで、突き出した形になっている胸元に男の視線が落ちた。
「……ちょっとくらいいいかな?」
男の開いた手のひらが胸元に翳される。止まらない涙の中で浅い呼吸を繰り返し、来るであろうその感触にきつく目を閉じた。
『開けてー』
ドアの向こうから知らない男の声がする。ドアフォンを使わずに唐突に投げかけられた声に、彼は驚く様子もなく、小さく舌打ちをした。仲間内ではドアフォンを使用しないとか、そんなルールがあるのかも知れない。
仲間を迎え入れるために、閉めてしまった鍵を彼が開けに立ち上がる瞬間に、体当たりでもしたら逃げられるだろうか。チャンスは一瞬だ。膝が笑ってしまって上手く動けるか分からないけれど、やるしかない。
「合鍵持ってんだろ、手が離せないんだよ」
決意に唇を引き締めたけれど、肩越しにドアを振り向いた彼が発した言葉に、いよいよ心が砕かれてしまった。にやりと笑った男は、アズールの計画に気付いていたのかも知れない。いや、恐らくこんな事に慣れていて、最初からお見通しなのだろう。どこまでも救えない男だときつく拳を握った。
男の向こうで玄関の鍵が開かれ、見た事のないでっぷりとした若い男がちらりと見える。アズールの位置から確認できたのは二人。一人は横に大きな男の陰になってしまっていてよく見えないけれど、人影だけは確認ができた。
どうにかして鞄の中からスマホを取り出せたら事態は好転するだろうか。こんな事なら防犯ブザーでも持ち歩いておくんだった。後から来た男にも良心なんてものはないだろうと思うけれど、足をばたつかせて抵抗しているように見せれば何かを思ってくれるかも知れない。
「無駄だよ~」
それすらわかっているとでも言わんばかりに笑う男が顔を覗き込む。悔しいけれど整ったその顔に唾を吐きかけてやりたい気分だった。
刹那、足元からどさりと何かが落ちる音がする。
それが何の音なのかアズールからはわからなかったけれど、次の瞬間にアズールの上から男が消え、その身体がそのまま部屋の奥へと頭から転がった。視界が広がり、天井見える。手の拘束が解かれた事を理解して、慌てて身体を起こした。
「……イデアさん」
肩を怒らせて、荒く息を吐いているその人は、見た事がないくらいに激怒していた。男の身体を蹴り飛ばしたのであろう足が床に下ろされ、座り込んだアズールの横を通り過ぎて転がった男の元へと土足のまま近付く。
「いて……なに、」
頭を打ったらしい男が額を押さえながら身体を起こして振り向き、そのまま胸倉を掴まれて無理矢理引っ張り上げられた。イデアの方が身長があるせいで、男のつま先がぎりぎり床に触れる程度でゆらゆらと揺れる。
「な、なんだ……」
「クズが」
吐き捨てると同時に男の身体を投げ捨て、近くにあったローテーブルに突っ込んだのも気にせずそのままイデアの長い足が腹を蹴り上げた。二度、三度、苦しそうな男の声が部屋の中に響き、それから部屋にあったパイプハンガーを掴んで薙ぎ倒し、部屋のものを次々に壊していく。
「やめ、やめろ! 何だてめぇ!」
無表情で片っ端から部屋のものを破壊していくイデアの足に、腹に受けたダメージから咳込みながら縋りつくけれど、物ともせずに目に付くものを片っ端から投げ、倒し、割って行くイデアは怒りで我を忘れているようだった。
流石にアズールもこんな彼を見るのは初めてで、どうしていいかわからない。ふと玄関に目をやると、アズールが見た太めの男は俯せに倒れ気を失い、その後ろにいたもう一人がイデアの凶行に腰を抜かしていた。
「おいやめろ! 殺すぞ!」
爽やかを売りにしていたはずの男が部屋の中で叫んだと同時に、イデアがぴたりと動きを止める。ゆっくりと足元に纏わりつく彼に視線を落とし、右目の下を痙攣させた。
「……こっちのセリフなんだよなあ」
惚けたような言い方とは裏腹に低い声が男に落とされ、イデアの右手が男の前髪を乱暴に掴む。左腕が思い切り後ろに引かれたのを見た瞬間、思わず声を上げた。
「ダメです! 手はダメです!」
本当はしがみついて止めたかったけれど、残念ながら腰が抜けてしまったようで上手く動けない。陸に打ち上げられた人魚のように下肢を廊下に投げ出したまま、どうにか部屋の方まで這い寄ってイデアを見上げた。
「手は、演奏できなくなっちゃう……」
アズールの声にぴたりと動きを止めたイデアが、暫し何かを考えてから腕を下ろすと同時に男を投げ捨てる。床に蹲った男の腹にまた何度かお見舞いしてから踵を返し、アズールの元へとしゃがみ込んだ。
「……かえろ」
「……はい」
ぽつんと告げられた一言がひどく心に沁み渡って、止まったと思っていた涙がまた溢れ出す。抱き上げられるままイデアにしがみついてそのまま彼の肩口に顔を伏せた。荒れた部屋も、蹲った男も、気を失った男も、皆そのままにして、部屋を出る。
「絶対に後悔させてやる」
唯一それらを目撃していた男に、イデアは一言だけ言い捨ててエレベーターに乗り込んだ。ドラマの撮影はまだあと少し残っていたけれど、この先の事は一旦置いておこうとひたすらイデアの腕の中で丸まった。
外で待ってくれていたタクシーの運転手は何も言わずに二人をイデアの部屋まで運んで、待機時間の分は料金を取らずにいてくれた。通報はしなくていいのかという運転手に、イデアは首を振って答えた。
『アタシが確認を怠ったからだわ』
「いや、仕方ないでござるよー。ここまでやると思わなかったでござる」
『ホントよ。この件ケイトに預けて、徹底的にやってやるから』
大型事務所相手に戦えるケイトは一体何者なのかと思いつつ、ソファの上で毛布にくるまり、更にその上からイデアに抱きかかえられたままヴィルとイデアの通話を聞く。
イデアの家に帰って真っ先に全身をくまなく洗われ、そのついでに沢山接吻けて抱き締めてもらって漸く落ち着いた。あちこち確認されたのは恥ずかしくてたまらなかったけれど、縋るような目をして、お願い、と言われてしまったら断る事などできなかった。
「撮影まだあるんでしょ、スケジュールの調整とか」
「大丈夫ですよ。できますよ」
『アンタがよくても事務所的に良くないでしょ』
「でも」
「アズール」
個人的な理由で撮影に穴を開けるだなんてプロとしては許されないのではというアズールの主張は、イデアの強めの制止で引っ込めさせられる。彼がどれだけ心配してくれて、あの現場を見てどれほどの怒りを覚えたのか、想像できるだけに口を噤むしかできなかった。
『まあ、別撮りでも行けるシーンだろうから大丈夫だと思うけど、それよりも作品自体がポシャる可能性あるかも知れないわね』
「えっ?」
『取り敢えずアズール、あんたはちゃんと休みなさい。イデアよろしくね』
「言われずとも~」
『あと、トレイに連絡してあげなさいよ。何か色々やってたわよ』
「忘れてたでござる」
そう言えば、イデアは今日インタビューがあると言っていなかっただろうか。それじゃあと通話を終えたスマホでそのままどこかへメッセージを作っている。十中八九トレイへの謝罪だろう。
「お……ケイト氏仕事が早いでござるなー」
送信した後に表示された受信メッセージにイデアが小さく笑った。何の事かと目で伺うと、それに気付いたイデアがアズールに画面を向ける。
『話ついたよ! 出演5本保障と、アズールちゃんへの接触禁止』
彼の事務所は事務所制作の映画や舞台でもそこそこ規模が大きいものが多く、それを5本出演保障となるとそれなりに知名度を上げるチャンスになるのは間違いなかった。恐らく、ケイト的に金で解決するよりもこちらの方がアズールが喜ぶという判断をしたのだろう。接触禁止が約束されるのであれば、彼との共演は絶対にないだろうし、願ったり叶ったりだ。
「ケイトさんて何者なんですかね」
「さあ。でも味方でいてくれることには間違いないでござるからなあ」
敵に回したくはないなと考えながら、スマホをソファに伏せたイデアの左手がアズールを抱き直してくれるのを眺める。柔らかい抱擁にゆるゆると力を抜いた。
「……もうお外に出したくないでござる」
ほろりと落ちた本心に、アズールの胸がぎゅうと締め付けられる。アイドルをやめて、ずっとここにいると言ったら、イデアは喜ぶのだろうか。いや、きっと、それはそれで複雑な顔をするに違いなかった。
だって彼は、何と言ってもアイドルであるアズールの『トップオタ』なのだ。
「イデアさん、今日はありがとうございました」
「うん、キミが無事でよかった」
「GPS役に立ちましたね」
「まあ、端末を探す設定は色んな意味でしておくに越したことはないでござる」
決着のメールの末尾に、明日は休んでねと一言添えられていて、ケイトの優しさに感謝する。デリケートな話であるから、女性陣の間だけで話を済ませてくれているのだろうけれど、いずれは事務所的に双子にも事情を話さなくてはならない時が来るだろう。抱き締めてくれているイデアの髪を指先で摘まんで、その鼻を擽った。
「双子に知られたら、あの人無事では済まないかも知れないですね」
「いいんじゃないの。あいつの身の上保障は約束してないんでしょ」
毛先から逃げるように笑ったイデアの目の奥にどうも薄暗い光が落ちている気がして、けれどもそれはもう、見ない振りをする。
「ドラマがポシャるのだけは嫌です」
折角ここまで撮影したのに世に出ないまま終わってしまうのは、今回の件も含めて全てが台無しになってしまうから。せめて半年は大人しくしていろと言っておかないとな、と考えながら、ふあと小さく欠伸をする。
「少し寝な。おやすみ」
肩を優しく叩いてくれたイデアの声に頷いて、どこよりも安心するその腕の中でゆっくりと目を閉じた。
絶対に後悔させてやると言い切ったイデアが、この後彼らにどんな制裁を加えるのかなど、アズールが知らなくてもいい事だった。