彰冬まとめ②嘘つきたちの恋(ちょこっとモブが喋る)
告白をされた。人気のない校舎裏に俺を呼び出したのは知らない先輩で、でもその人はたまたまビビッドストリートで歌う俺を見たことがあって俺のことを知っていて、付き合って欲しいと頭を下げられた。
「…………ごめんなさい」
もう付き合っている人がいるから、と付け足すべきなのか悩んで、それから、貴方も知っての通り俺は夢を追うので精一杯だから気持ちには応えられない、とだけ伝えた。先輩はいつか絶対叶えてねと言って、その場を去った。先輩がどんな気持ちでそれを言ったのか、表情からじゃ分からなかったけど胸がチクリと痛んだ。何に対して? 先輩の気持ちに応えられないことか、いや違う。
「俺は彰人が好きだから、」
真実を偽らないといけないことが、悲しい。でももし、本当のことを言って、俺だけならまだしも彰人の周囲から人が消えてしまったらどうしようと怖くなる。だから、言えない。
重たい気持ちを引きずったまま、教室に戻る。こんなことになると思わなくて、用事があるから少しだけ待ってくれと伝えたら勝手に図書委員の仕事だと思われていたらしくさっさと終わらせろよと返された。告白されたと、彰人に伝えるべきなのだろうか。もし自分が彰人の立場で、彰人が告白されたことを知らずにいたら少し凹むと思ったから、直接話そうと決めて彰人のクラスの教室を目指す。ガランとしていた俺の教室と違って、彰人のところはまだ数人残っているのか騒がしいのが廊下にいても分かった。これは話しかけるタイミングが難しいなと、立ち止まって耳をすませて様子を伺う。
「冬弥遅せぇな……オレ、図書室まで迎えに行ってくるわ」
「毎日お熱いこった、付き合ってんのか?」
「ばーか、そんなんじゃねえよ」
じゃあな、と級友に挨拶する彰人の声を感知しているけど、それどころじゃなかった。分かっていたけど、さっき自分も同じようなことをしたけれど、彰人の声で聞きたくなかったと思った。
「うわっ……お前、用事終わったのか」
「彰人……」
「すぐ声かけてくれりゃ……どうした冬弥、なんかあったのか」
今の感情がどんな風に表情に出ているのか、そもそも一切出ていないのか分からないけれど、彰人は俺の顔を見るなりギョッとして、それから優しい声色で様子を伺ってきた。それが余計に辛くて、呼吸が苦しい。
「あきと、」
名前を呼ぶので精一杯で、それ以上言葉を紡げない俺の腕を彰人が優しく引いてくれる。そのまま連れ出された、今の時間は殆ど人気のない視聴覚室の前で、もう一度彰人がどうしたんだよと聞いてきた。
「自分でも、よく分からないんだ」
「じゃあ分かるところだけでいいから話してみろ、ゆっくりで大丈夫だから」
「俺……さっき、先輩に告白されて……」
「……それで?」
「勿論断った、でも、なんて言って断るべきか迷って、結局お前と付き合っているからとは言い出せなかった……」
こんなに好きなのに、どうして胸を張って彰人が好きだと言ってはいけないんだろう。
「そしたらさっき、彰人が友達に似たようなことを言っていたのを聞いて、すごく……すごく、寂しかった」
俺達の思いは、そんなに歪なのだろうか。醜いのだろうか。まだ上手く呼吸が出来なくて、触れたままの彰人の体温がやけに熱く感じて、苦しい。
「……ヤな思いさせて、悪かった」
「別に、彰人は悪くないだろう……あの場はああやって返すのが、正解だったと俺も思う」
「でも、もっと言い方あったかもしんねーだろ」
すぐには思い付けねえけど、と言いながら彰人は、俺の身体を包むように腕を回してきた。背中を擦られて、少しづつ息をするのが楽になる。ひどく冷えきっていた自分の身体に血が巡り出すのが分かって、そっと一つ息を吐いた。
「好きだ、冬弥」
今はお前に向かってしか言えないのが、オレも歯痒いときがあるけど。
「いつか他の誰かの前でも言える時が来たら、誰よりも大きな声で同じこと言ってやるよ」
待ってくれるよな? と尋ねられて、抱きしめられたまま何度も頷けば彰人が嬉しそうに笑った。いつかが来るのはいつだろう、もしかしたら夢を叶える日のほうが先かもしれない。だとしても、いつか来るその日のために生きるのは幸せな事だと思わせて貰えたから。
「……俺も好きだ、彰人」
零れ落ちた言葉に、知ってると笑って応えてくれる君と共にその日を迎えたいと願った。
(210403)
いつかのかえるばしょ(少し未来の話)
「はい、大丈夫です……はい、分かりました、帰る時にまた連絡します……はい、父さんも気をつけて……失礼します」
父さん、という呼称が出てくるには中々に堅苦しい電話を終えた冬弥が、待たせたなとまだ少し湿っている頭を下げた。
「なんか言われたのか?」
「くれぐれも東雲くんに迷惑かけるなって」
高校を卒業してすぐ実家を出たオレと違い、冬弥は未だあの家から大学へ通っていた。しばらくは実家住まいだと一年前のこの時期に聞かされたとき、過保護だなあと思ったけどこの箱入りボンボンを一人暮らしさせるのが怖いのもなんとなく分かったので追及出来なかった。そんな彼が何故オレのための城にいるかというと、冬に逆戻りしたかのような寒波による大雪の影響で交通機関が軒並み使えなくなってしまったからだった。雪は明日からの予報だったから四人で集まって練習していたのだが、大幅に早まってしまったらしい。電車で来ていたため帰る足をなくした冬弥に、少し距離はあるが歩けない距離に暮らしていたオレの家で一晩過ごすことを提案すればいいのかと顔を綻ばせた。肩を並べて帰ったのは、高校生の時以来だなと感傷に浸っていたら家に着く頃にはお互い頭にうっすら雪が積もっていて、一先ず風呂に入ろうという流れになったわけだ。
「もうすぐ風呂沸くし、ちゃんと温まってこいよ」
「いや、家主から入るべきだろう」
「その家主が言ってんだから先に入れって」
「しかし、」
「じゃあ一緒に入るか?」
「……俺は別に、構わないが」
彰人も温まるならそっちがいい、とまで言われてしまい、降参のポーズを取る。そうだ、コイツはそういう奴だった、簡単に言い負かされてくれない。大学生の借りれるアパートの風呂場なんてたかが知れている、二人で入るのは逆に身体を冷やしてしまいそうだったからオレから先に入ることにした。せめてもと、インスタントのコーヒーを淹れてやって、それからベッドにあった毛布をかけてやる。
「炬燵でもあればよかったな」
「そしたらきっと、彰人はそこで寝るだろう。風邪をひいてしまうぞ」
「憶測で叱るなよ」
「ふふ、悪い」
冬弥が順番待ちしているのだからと、出来るだけ素早く風呂を済ませる。とはいえ早すぎれば冬弥のことだから追い返されそうだし、一応湯船に肩まで浸かって30秒は数えておいた。これなら多分、文句は言われないだろう。
「早かったな、ちゃんと温まったのか」
「温まったっつーの……ほら、早く入ってこいよ」
訝しげな顔をしている相棒を、帰ってくる途中のコンビニで買った下着と一緒に風呂場へと押し込む。クローゼットからアイツの背丈でも着れそうな服を探そうと踵を返した瞬間、彰人と磨りガラスのついたドアの向こうから呼ばれた。
「どうした」
「これは、どっちがシャンプーでどっちがボディソープだろうか……?」
「白いほうがシャンプー、隣の黒がコンディショナー、緑のおっきいやつがボディソープ、洗顔はチューブ式のやつな」
「分かった、ありがとう」
ぼやけた肌色が、ガラス越しに動くのが見えるのがなんだか気恥ずかしくて、目を逸らす。
「悪いな、狭くて」
「一人暮らしのお風呂はこういうものじゃないのか?」
「お前、誰かん家の風呂入ったことあるわけ?」
「前に一度、司先輩が一人で暮らされている家に行ったことがあるんだが、そのとき家の中を案内してもらった」
「……へえ」
「でも、普段ここで彰人が過ごしていると思うとソワソワするな……それに彰人の匂いがたくさんする」
お前からするいい匂いは、このシャンプーだったんだな。
反響している上にドア越しだから余計に篭って聞こえる声から、心做しかテンションが高いのが伝わってきて今度はこちらが落ち着かない。お前今、どんな顔でその匂い嗅いでんだよ。
「……服持ってくるから、ちゃんと温まっとけよ」
「ああ、そうさせてもらう」
髪を洗い始めたらしい冬弥に一言告げ、今度こそウォークインクローゼットを開けてオーバーサイズのトレーナーとジャージを用意して脱衣所に戻る。ついでに洗濯機を回そうと洗剤を選んでいれば、徐にドアが引かれて大袈裟に肩が跳ねた。
「すまない、驚かせたな」
「別に、誰かがいるって感覚がないだけだから……んで、今度はどうした?」
「あの……洗顔が泡じゃないから、何か泡立てるものがないかと思って」
「ああ、そういやそうだったな……そこにかかってるネット、濡らしてから水気切ってその上に洗顔料のっけて、こんな風に擦れば泡立つから」
「なるほど……」
ありがとう、と言って引っ込んだ冬弥がまたバシャバシャと音を立てるのが聞こえてきた。洗顔とかしたことないと言ってきた高校生のアイツに、いくつかオススメのやつを教えてやって最終的に選んだのは確か泡で出てくるやつだった。あれから変えずに使ってんのかとちょっと驚きはしたけど、気に入ってくれてるならよかった。洗濯機の稼働ボタンを押そうとして、すごい、と思わず零れましたみたいな素直な感想が聞こえてきて笑ってしまった。
「いい湯だった、ありがとう」
「はいはい。タオル、それ使っていいから髪の毛よく乾かせよ、暖房付けないから湯冷めするかもしんねーし」
「つけないのか?」
「勿体ないだろ、電気代。喉にもよくねえし……寒いなら羽織物貸すけど」
「いや、まだ大丈夫だ」
いつもは白い頬がほんのり紅く色づいているし、しっかり温まって来たんだろう。温まりすぎて眠いのか、ちょっとぼんやりしてるし髪を乾かす手つきも緩慢といった感じで、だんだん心配になってきた。
「冬弥、眠いのか」
「少しだけ……でもまだ、お弁当を食べていない」
「ちょっと寝てから食うか?」
「彰人は先に食べるか……?」
「30分くらいなら待っといてやる、起こすからベッド使えよ」
「ありがとう……思った以上にリラックスしているみたいだ、人の家なのに」
オレに言われるまま横になった冬弥が、枕を抱き抱えるようにして寝やすい体勢を探し始めた。マジで眠いんだな、と近寄ってちゃんと布団を掛け直してやる。
「家に呼んでくれてありがとう、彰人」
「気にすんなって」
「……大学の友達が、恋人の家に泊まりに行くという話を嬉しそうにしていた気持ちが、ようやく分かった気がする」
「今嬉しいってことか?」
「嬉しいというか……うん、嬉しいが一番しっくり来るな。今まで誘ってくれなくて、実は寂しかったんだということも実感している」
「別に、お前を家に上げるのが嫌だったわけじゃねーよ……がっついてるって思われたくないとは思ってたし、単純に手狭だからもてなせるか分かんなかったし」
「ふふ……彰人になら、丁重にもてなされても、がっつかれても、嬉しいから大丈夫なのに」
「……は?」
もう一度ふふと上品に笑った冬弥が、寝返りを打つようにしてオレに背を向ける。一方オレは、起こして問い質そうとしたけど微かに寝息が聞こえてきたから諦めるしかなかった。
「……敵わねえな、マジで」
一つ溜息をついて、部屋の電気の明るさを少し絞ってやる。本当はご飯食べながらでも、こうやって一緒に過ごすのも悪くないなとか言ってやろうと思ってたのに。カッコつけさせてくれない冬弥が好きで、でもやっぱり出鼻を挫かれたのは悔しいからなんか気の利いた事言ってやりてえなと頭を回転させる。スンと香った匂いは嗅ぎなれたもののはずなのに少しだけ甘く感じて、ああ好きだなと思った。
(210412)
きみときみのすきなもの
困ったなと思った。進級してすぐの委員会の集まりで、ボランティアの一環として近くの幼稚園で朗読会を開くことが決まった。ボランティアだから有志のみの参加のはずだが意外と参加者が多いのは、内申点が稼げるからだと隣のクラスの男子が言っていた。自分が絵本を読んでもらった機会がなかったし、練習のため本番までほぼ毎日放課後に集まると聞いて俺は参加する気はほとんどなかった。それなのにどうして俺の腕の中に絵本が入っているかといえば、俺が音楽活動をしていると知っていたらしい三年生の先輩に頼まれたからだ。人前で何かをやる度胸は申し分ないし何より声がいいから是非、と懇願された俺は、少し悩んで差し出された絵本を受け取ってしまった。練習に参加するのは都合のつくときだけでいいと言われたのも引き受けた理由の一つだが、一番の理由は。
「冬弥、戻ってたのかよ……なんだそれ、絵本か?」
「ああ、くまさんがホットケーキを作るお話らしい」
「結構有名なやつだぜ、それ」
「そうなのか……実は今日、初めて見た」
やはり断るべきかと一人教室で悩んでいた俺を、彰人はわざわざ迎えに来てくれたようだった。どうして俺が絵本を持っているのかを簡単に説明すれば、お人好しだなと言われた。
「彰人は読み聞かせをしてもらったことがあるのか?」
「どうだったかな……でも、ひらがな読めるようになった姉貴がオレに読ませてやろうとしてる写真は見た覚えがある」
「それは微笑ましいな」
「お前はないのか?」
「ない、な……ことばの練習よりもスコアを読む練習を先にしていたと思う」
「……それ、冗談だとしても笑えないから、他のやつに言わない方がいいぞ」
「分かった、気をつける」
でも、両親に絵本を読み聞かせてもらったことは本当にないと思う。幼い頃、司先輩の家に預けられていた時たくさんの絵本や児童書を見て感動したのを覚えている。自宅にはああいった類の本は一切置かれていなかったから、普通の家の子供はこういうものを読んで楽しむということをあのとき知った。その経験がなければきっと、俺は読書の楽しさを知ることがなかったかもしれない。
「読書は楽しいのだと知ってもらう手伝いが出来ると言うなら、やってみたいと、思った」
「なるほどねえ……いいんじゃねーの? お前のやりたいようにやれよ、しばらくデカいイベントは控えてないから時間作れるだろうし」
「ありがとう彰人……実はもう一つ、お願いしたいことがあるんだが」
ん? と俺の言葉の続きを促すように首を傾げる彰人に、俺は表紙の文字をなぞる。
「ホットケーキとパンケーキはどう違うのか教えて欲しい」
「いや、オレも知らねえけど」
しょうもないお願いだなと喉を鳴らして笑う彰人は、制服のポケットからスマホを取り出して、調べ物を始める。しかしどれもピンとくる回答ではなく、せいぜい甘さを重視しているかどうかの違い程度のものだった。一応ホットケーキミックスとパンケーキミックスは別物として売られているらしいが、彰人はどっちも美味いからいいだろと一言で片付けてしまったからそれでいいんだろう。
「本当にこんな風にふくふく焼けるのだろうか」
「気になるなら作るか? MEIKOさんとこのカフェなら道具は一通り揃ってるだろうし、キッチン貸して貰えないか聞いてみようぜ」
「ああ、作ってみたい」
実際に自分で作ってみたら読み聞かせに臨場感が生まれるかもしれないから、と言えば、いるのかそれとまた笑われた。正方形の絵本は学校指定のカバンに上手く収まらなくて、図書室から来た時と同じように腕に抱えるようにして持ち帰ることにした。本当は他にも候補の絵本はあったのだけど、この表紙が彰人っぽいから選んだと言えばまた彼は笑うだろうか。
(210418)
いとしいせなか・Side A(事後の話)
青柳冬弥は、東雲彰人の背中が好きだ。彼は、常に真っ直ぐと自分を導いてくれるから。そんな愛しい背中がシーツの海のなかで剥き出しになっているのを眺める朝も、冬弥はまたいっとう好きだった。まずは人差し指で、浮き出た肩甲骨をなぞる。それから背骨の方へ指を動かせば、半月形の小さな傷が三つ並んでいた。まだ赤みの引かないそれは、昨日の夜冬弥がつけたものだった。自覚があるから、冬弥は懺悔の意を込めてそこに口付ける。記憶は定かではないけれど、快楽の波に溺れそうになったとき彰人の背に腕を回してなんとか意識を保とうとした覚えが冬弥には微かにあった。きっとそのときにつけたのだろうと、冬弥は心配そうにその傷を眺める。
「あきと、」
思っていたより掠れた声に返事はない。冬弥とて起こすつもりで呼びかけたわけではなかったから、それでよかった。今度は少し冷たくなっている背中に、己の額を押し付けるようにして寄り添う。自分の身体に籠っている熱を分け与えるように、自分が隣にいると気づいてもらえるようにくっつきながら、冬弥は昨夜のことを考えた。
彰人は昨日確かに言った、このまま融け合ってひとつになれればいいのにと。あやふやな記憶の中、それだけ冬弥はしっかりと覚えていた。冬弥はそうは思わない、どんなに彰人のことを愛していても、ひとつになりたいとは思えなかった。だってもしもひとつになってしまったら、こんな風に二人で抱き合って朝を迎えることが出来なくなるから。傷すらもカッコよく見えるような程よく鍛えられた背中に、愛を囁くことが出来なくなるから。
「俺は……彰人と二人でいたいな」
これからも彰人に導かれて、たまに導いて、そんな風に過ごしたい。そしていつか、彰人も同じように願ってくれたら冬弥にとってこれ以上の幸せはなかった。そのささやかな願いが届いたのか、目の前の背中が僅かに身じろぐ。
「ん……冬、弥? 起きたのか?」
「ああ、目が覚めた……おはよう、彰人」
「はよ……つってもまだ6時だろ、二度寝しようぜ……」
「お腹空いてないか?」
「空いたのか?」
「俺は空いてないが……でも、何か食べたい気もする」
「なんだよそれ……まあ、オレも喉渇いたし、ちょっと起きるか」
「ちょっとってなんだ」
「なんか軽く食って、もっかい寝る」
「牛になるぞ」
「じゃあ運動するか、ベッドの上で」
「ああ、望むところだ」
「んだよ、お前足りなかったのか?」
そこで漸く冬弥の視界から広い背中が消えて、代わりに愛しい人の顔がよく見えるようになった。此方を挑発するような『悪い顔』をする彰人を、冬弥はこれまで何度も隣で見てきたしこれからも隣で見たいと思った。
いとしいせなか・Side S(事後の話)
東雲彰人は、青柳冬弥の背中が嫌いだ。縮まないその距離に思わず手を伸ばしそうになるから。伸ばしたところで届かないのに、そう分かっていても伸ばしてしまいたくなる魅力が彼にはあった。だから身体を重ねるとき、彰人は無防備に眼前に晒されるその白い背中に噛み付いてしまう。そのとき冬弥がどんな顔で、何を言っているのかお構い無しに、噛み付いて痕を残そうと本能が動く。こんな俺でも届くのだと征服欲を満たすためなのか、それともそのまま彼のことを食いちぎって己の身体の一部にしてしまいたいという幼稚な願いによるものなのか、彰人には分からない。
「あっちい……冬弥、大丈夫か?」
久々だからかいつも以上に盛り上がってしまい、ふと冷静になったときには彰人自身の身体も、肩を大きく上下させて呼吸する目の前の背中も汗だくだった。雪原のような白い肌に飛び散る鬱血痕に汗は染みないのだろうかと、付けたのは自分なのにどこか他人事のように彰人は眺めていた。問いかけに冬弥からの返事はなく、飛ばしすぎたことを反省しながら彰人は予め用意していたタオルで冬弥の身体を拭いていく。意識が飛んではいないようだがされるがままの冬弥を見て、彰人はどこか落ち着かなくなってきた。
「ごめんな、冬弥」
全身を拭き終えて、部屋に籠った独特の熱気が冷める頃にはさっきまでなんとか開いていた冬弥の瞼が完全に下りていた。無理をさせてしまったと彼を労わるように頭を撫でてやり、それから彰人はその隣に寝転がる。今日は自分でもおかしかったと、彰人は十数分前までベッドの上で繰り広げられていた光景を思い返した。ライブの直後で興奮していたのもあるけれど、今日はどうにも熱を持て余していた。ずっとああやってくっついていれば、そのまま離れられなくなるようなそんな予感がしていた。有り得ないのに。
「……このまま融け合って、ひとつになれればいいのにな」
冬弥になりたいとは思わない、だけど冬弥と共に在りたいと彰人は強く思う。永遠に追いつけないその背に情けなく追い縋るくらいならいっそ、ひとつの個体になってしまいたい。追いかけたいだなんて、愚かな思いを抱かずに済むように。
「なんでオレ達、ひとつになれないんだろうな」
もしもひとつになれたら、憎らしい程に美しいこの背中を見ることは二度とないだろう。もしそうなっても、自分は冬弥に思い焦がれるのだろうか。
「……好き、だろうなあ」
東雲彰人はきっと本当の意味で、青柳冬弥を嫌いになんてなれない。それは彰人自身が一番よく分かっていた。まだ少し汗ばむ手で、すっかり傷だらけになってしまったその背に触れる。冬弥の身体は見た目に反して温かく、彰人は少し泣きそうになった。
「……どこにも行くなよ、冬弥」
まるで天使の羽を思わせる、綺麗に浮き出た肩甲骨をそっとなぞる。きっとこれは、冬弥を好きな所へ連れ出すことが出来る翼だ。それを毟ってしまいたいだなんて、そんな感情を抱いていると知られたらきっと軽蔑されるだろう。この醜い気持ちごと融かしてくれと、穏やかな寝息を立てる相棒に彰人は祈る。
「……いかないぞ、どこにも」
「冬弥? 悪い、起こしたか」
「ん……俺、気をうしなっていたのか」
「そのまま寝落ちしてたんだよ……風呂、入りたいなら準備するけど」
「いや、はいらない……彰人が言ったから」
「俺?」
「どこにも、いくなって」
「……別に、風呂くらいいいよ」
「いかない……彰人のとなりが、俺のいばしょ、だから」
冬弥は寝惚けていただけなのか、彰人の耳にはまた寝息が聞こえてきた。冬弥は気付いていないのだろう、たった一言で彰人の心を救ったなんて。そういうところが嫌いなのだと、彰人はほんの少しだけ涙ぐんで冬弥に背を向けるように体勢を変えて目を瞑った。
(210425)
おまじない代わりの熱
ここだけの話だが。今でこそ小豆沢に緊張しないなんて凄いと言われているが、初めて彰人とBADDOGSとしてステージに立つと言う時、それはそれは緊張していた。幼少期から参加していたコンクールとは違う異質な緊張感は、確実に当時の俺の調子を狂わせていた。例えば、聴衆は声を出さずに演奏に聞き入るのが作法であるクラシックに対してストリートミュージックはフロアの観客に声を上げさせなければならないことであるだとか。例えば、きっちりとしたスーツに身を包んで挑まなければならないコンクールとは異なり、今日の自分の服装はまだ着こなせていない少しやんちゃでルーズなものであることだとか。
例えば、コンクールは父親にお小言を貰わないようにと必死だったけど、今日は隣に立つ彰人の評価も背負って立っているということであるだとか。
「冬弥、何ボーッとしてんだよ」
「すまない……やはり、俺には似合っていない気がして」
ストリート音楽も、この格好も、そして夢を真っ直ぐに語る彰人の隣に立つことも。もう次は俺たちの出番だと言うのに後ろ向きなことを言ってしまった俺を、彰人はジーッと見つめてきて、それから徐に自分の羽織っていたデニムシャツを脱ぎ始めた。
「彰人……?」
「これ、お前が羽織っとけ。そのロンT薄手だからイケるだろ」
「い、いいのか」
「だから、似合うから堂々としとけって言ってんの!」
モタモタすんなと差し出してきたシャツを受け取り、言われた通りに袖を通せば何故か笑われた。もう少し着崩せとアドバイスされても、さっきの彰人の着方と何が違うのかよく分からない。
「これでいいだろ……つーかお前、手ぇ冷たくね? 意外と緊張してんのか?」
「するに決まっているだろう……二人で立つ以上、俺が失敗すればそれは彰人の失敗とも看做されるのだから」
「そこまで気負わなくてもいいけどよ……ほら、手出せよ冬弥」
「ん……彰人の手は温いな」
「さっき軽くストレッチしたしな。今度から冬弥も一緒にやろうぜ、こんな冷えた身体じゃ会場の熱気に置いてかれるだろうから」
「分かった……ありがとう彰人、少し気が紛れた」
「オレも、始まる前にお前も緊張してるんだなって知れたからよかった」
「していないように見えていたのか?」
「お前、自分が思ってる以上に無表情だからな? 愛想良くしろとは言えねえ、でも涼しい顔のまま終わるのは許さねえから」
全力でぶつかってこうぜ、相棒。その言葉と共に、彰人は俺の手をさらに力を込めて握った。彰人の身体を駆け巡る熱が、触れられているところから伝わるようで自分がつられて高揚していくのが分かる。
「行くぞ、冬弥」
離された手はそのまま拳として突き出され、真似をして同じようにすればガツンと力任せにぶつけられる。父さんの言いなりになっていたらきっとずっと知ることのなかったものだろう、そう思うと拳に少し残った痛みも愛おしく感じられた。
***
「あれ? 冬弥のその服初めて見る気がする」
「これか、彰人が似合うからと見繕ってくれたものだ」
「えー……私も似合ってるって思うけど、遠回しに彰人を褒めるみたいでヤダなあ……」
「嫌なのか?」
「だって絶対ドヤ顔でこっち見てくるのが想像出来るもん! なんかムカつく!」
彰人と小豆沢よりも早くWEEKEND GARAGEに着いた俺は、手伝いを終えたという白石とコーヒーを飲みながら暇を潰していた。
「でもさ、冬弥がこの街に馴染めたのって絶対彰人のおかげだもんね。冬弥のことだからきっと一人でも頭角を現してたんじゃないかなって思うけど、馴染めてたかどうかは分かんないかも」
「そうだな、そう考えると俺は彰人に救われてばかりだ」
「冬弥はいちいち大袈裟だなあ……彰人のことだし、冬弥が自分のものだって見せびらかすために着飾ってるのもあると思うけど」
「それでも、彰人が俺のことを気にかけてくれたおかげで今の俺があるんだから、彰人には感謝してもしきれないくらいだ」
俺の言葉に白石は、私もこはねには感謝してばっかりだなあと笑う。小豆沢のことを一方的に守ろうとしていた頃の白石ではないのだと、その言葉を聞いて実感した。
「でもたまには、私も冬弥のことコーディネートしてみたいなあ……そうだ、今度みんなでネイルお揃いにするとかどう? 冬弥指綺麗だし、絶対似合うと思うんだけど!」
「そうか? 自分ではよく分からないが……」
「見せて見せて……ほら、爪の形も整ってるし、いいと思うんだけど、」
「おいコラ、何してんだよ」
白石に右手を取られてマジマジと観察されるのが少し照れ臭くなってきたところで、後ろから腕を引かれる。振り返れば少し不機嫌そうな彰人が、俺の腕を掴んで白石に威嚇するような顔を見せていた。
「彰人、痛い」
「あ、悪い。で、何してたんだよ」
「みんなでネイルお揃いにしたいねって話してただけなんですけどぉ……彰人ってば余裕無さすぎじゃないの」
「うっせえ、そういうのはこはねと二人だけでやっとけ」
ノリが悪いと怒る白石の声は届いてないのか、彰人も俺の手をじっと見つめる。ただ見られているだけなのに気恥ずかしくて、段々体温が上がっていることにきっと彰人も気づいているだろう。手汗も酷いかもしれない、そう思うとさらにいたたまれなくなる。
「あ、きと……」
「ふっ、なんつー顔してんだよ冬弥」
熱いならアイスコーヒー頼むか? と分かっててからかってくる彰人を睨めば、悪い顔のまま余計に笑われただけだった。
(210501)
スカートの裾に初恋(幼少期・天馬家捏造)
(女装描写有)
(たくさんモブが喋る)
「もう文化祭の出し物の話し合いすんのかよ」
「飲食系の模擬店は出店数が決まってるから早いんだって、先輩が言ってた」
「衛生なんちゃら法の関係で厳しいらしいよ」
「かと言ってクラス展示は味気ないよなあ」
「お化け屋敷も競合するからくじ引きに回されるってよ」
「去年も来たけど、お化け屋敷クオリティやばかったぜ……あれ超えるには金がかかると思う」
「模擬店やるなら衣装凝りたいなあ、メイド喫茶とか」
「いやキツいでしょ、お前がやるんだろ?」
「みんなでやれば怖くないって言うじゃん」
「いっそ男女逆転喫茶なんてどう? ジェンダーの壁を取っ払いました~って言えるし」
「逆転って言ってる時点で型にハマってるってことになるでしょそれ」
「えー手厳しい! じゃあ異性装喫茶って名前にしよう!」
次の時間がホームルームであることは知っていたものの、文化祭について話し合うということまでは知らなかった。近くの席に集まって好き勝手話しているクラスメイト達の会話をBGMに読書を続けていたのだが、気になる単語を拾ってしまい目の動きが停止してしまった。
(異性装、か)
昔一度だけ、経験したことがある。それはトラウマとかではなくて、寧ろ人の役に立ったのだから喜ばしいことなのだが、貰ってしまった写真を当時一度見たっきり親にも誰にも見せずにどこに仕舞ったのかすぐに思い出せなかった。
***
「ごめんねえ冬弥くん、本当は嫌でしょうけど……でも引き受けてくれてありがとう、これできっと咲希も喜ぶわぁ」
「いえ、ぼくでよければおてつだいさせてください」
七五三というのは、三つと七つの女の子と五つの男の子をお祝いするのが主流で、そのとき五歳になった俺も当日神社にお参りに行く予定になっていた(実際に行ったかどうかは覚えてない)。しかし、家族ぐるみで付き合いのある天馬家の長女であり俺と同い年である咲希さんも五歳のその年にお祝いに行くのだと司先輩から聞かされていた。というのも三歳の咲希さんはもっともっと身体が弱く、半日の外出どころかベッドから出ることすら難しい状態だったという。だから咲希さんにとっては、その年が初めての七五三祝いとなるわけだ。
「うんうん、とっても似合うわ冬弥くん! って、男の子なのにドレスが似合うって言われても困っちゃうわよねえ」
「でも、ぼくもすてきなドレスだとおもいます。咲希さんも、きっとよろこびます」
その日も天馬家に預けられていた俺は、突然おばさんに身長を尋ねられた。残念ながら覚えていなかった俺は、次に天馬家の脱衣場に貼られたキリンさんのステッカーの前に立たされた。するとおばさんは、やっぱり同じくらいだわあと言って、それから俺にこんな話をしてきた。お参りに行く許可はおりなかったものの、病院と写真スタジオと協力してもらって病院の一角を借りてお祝いの撮影だけして貰えるようになったこと。その衣装を手縫いで用意したけれどどうせならサプライズで見せたくて試着が出来ていないこと。そして、俺さえ良ければ咲希さんの代わりに試着してくれないかとお願いしてきたのだ。天馬家は当時の俺にとって唯一のシェルターのような存在で、そして家族みんな咲希さんを愛していることも部外者である俺にも十分伝わっていた。そんな彼らのために俺に出来ることはなんでもしてあげたかった、だから俺は迷わず頷いた。というわけで、その時の俺は天馬家のリビングでピンク色のドレスと揃いの髪飾りを付けられて、おばさんがああでもないこうでもないと丈や裾の調整のお手伝いをしていた。
「ふふ、ありがとう冬弥くん。そうだ、ついでにこれとこれも着てもらっていいかしら? 咲希もたまにはパジャマじゃない服を着たいでしょうから、一緒に用意したの」
一頻り弄って満足したらしいおばさんは、ドレスを取り出した袋から今度は白いワンピースやセーラー服のようなトップスを取り出した。今着ている服と大差なかろうと、俺はまた頷いた。
「ただいまあ……って、だれだそのこは! おれのしらないあいだに、いもうとがふえたのか!」
「いやあねえ司ってば、冬弥くんじゃない」
「なに! スカートをはいているから、おんなのこかとおもったぞ!」
「咲希へのプレゼントの準備を手伝ってもらってたの。でも本当によく似合ってるわあ、冬弥くん。そうだ、せっかくだから司と一緒に写真を撮りましょうか」
写真はさすがに恥ずかしかったけど、でもおばさんも司先輩も乗り気だったから言い出せなくて、黙って頷いた。おばさんはどこから取り出したのかデジカメを構えて、俺と司先輩はレンズを向けられるがままピースサインを作った。貰ったのはそのときの写真の筈で、その場ですぐプリントアウトして持たせてくれた。それで終わればよかったのだが、先輩は何故か俺と公園に行きたいと言い出した。天馬家に預けられるときも基本的には外遊びはさせないでくれと父さんが頼んでいたようで、二人で遊ぶ時は専ら絵本を読むかピアノで連弾もどきをしていた。
「いまから冬弥はおれのいもうとやくだ! 咲希といつかこうえんであそぶときの、れんしゅうあいてになってくれ!」
先輩もそのことを知っていたのかもしれないし、本当に咲希さんと遊ぶ練習がしたかっただけなのかもしれない。咲希さんのために用意された服で遊んでいいのかおばさんに聞いたら、一緒に行きましょうと言われてしまったから、俺は逸る気持ちのまま司先輩の手を取った。
「冬弥はこうえんでなにがしたい?」
「えっと……すべりだいがしたい、このまええほんでみてたのしそうだったから……」
「よし、じゃあすべりだいはぜったいにやろうな! おれのおすすめはブランコだが……やはりスカートだとブランコはむずかしいかもしれないな」
「ブランコ、だめですか?」
「うーむ、ヒラヒラしてしまうとたいへんだからな、さそわないようにしなければ。冬弥のおかげで咲希のめのまえでしっぱいせずにすみそうだ! ありがとうな、冬弥!」
先輩はそう言って、にっこり笑った。大好きな先輩の役に立てたのが嬉しかった。
公園は俺たちの他にも何人もの子供がいて、先輩は真っ先に俺の手を引いて滑り台へと案内してくれた。前に並んでいる友達がいたら、その後ろに並んで自分の順番を待つ。自分の番が来たら階段を上って、前の友達が滑り台から離れたタイミングで滑り出す。いまだ! という先輩の声に合わせて、俺は手すりに掛けていた手を離してスルスルと滑った。たった二秒くらいの出来事だったのに、とっても楽しかったし、ドキドキした。立ち上がれずにいたら、先輩があぶないぞと後ろから声を掛けてくれたから、慌てて退いて脇で待ってくれていたおばさんの元へ駆け寄った。
「公園ってこんなに楽しいのよ、いつか咲希と三人でまた来ましょうね」
「はい!」
おばさんが日焼けするといけないからと帽子を被せてくれた上に、日陰にある砂場へ連れ出してくれた。先輩は最初は俺と一緒に穴を掘ったり泥団子を作ったりしてくれていたけど、途中近所の子に誘われてサッカーの輪へと加わってしまった。冬弥もいくかと聞かれたけど、さすがに頷けなかった。もしもそれで怪我をしてしまえば、責められるのは天馬家だと分かっていたから。スカートだからと付け足せば、それはあぶないなと言ってそれからあとでまたあそぼうなと指切りしてから日向へと出ていった。先輩がいなくなってしまうと砂遊びも味気なくなってしまって、俺は砂場を離れて少し離れたところで様子を見ていたおばさんの隣に座った。
「あらあら、手が汚れてるわ冬弥くん。あそこの水道で洗ってから、こっちにいらっしゃい。そしたらジュースを買いに行きましょうね」
「あ……わかりました」
全然気づかなかったけど、白のワンピースの裾にも砂がついていて、先におばさんが払ってくれた。ごめんなさいといえば、子供は汚れるまで遊ぶのが仕事だからいいのよと笑ってくれた。普段はそんなことが許されていない俺は、どう返していいか分からなかった。
そのままおばさんに見送られて、近くの水場への向かえば先客がいた。司先輩よりも大きい男の子たちは喉が渇いていたようで、俺に気づかないままずっと水道を占領していた。早く手を洗って戻らないと、おばさんが心配してしまう。だけど大勢で遊んだ経験がない俺は、なんと声をかければその人たちが怒らずに自分に場所を譲ってくれるのかなんて思いつくはずがなかった。
「いつまでのんでんだよ、つぎのチームわけできないだろ」
「え、もうおわったのかよ」
「おまえたちがここでだらけてるうちにまけたぞ、そっちチーム」
「まじかよーつぎはまけねえからな!」
後ろから聞こえた声にビクついているうちに、水道を使っていた人達はいなくなってしまった。どうしようか迷っていたら、背中をポンと押された。声をかけてくれた男の子だろう、その子も司先輩より大きかった。
「つかうんじゃないの?」
「あ、つかいます……」
「はやくしろよ、おれもみずのみたいんだから」
急かされるまま蛇口を捻ったら、思いのほか水量があって服を濡らしてしまった。またおばさんを困らせてしまうとさらに焦る俺に、男の子は溜息をつくと水量を調整してくれた。
「あ、りがとう……」
「べつに……おんなのこにはやさしくしないとてんばつがくだるらしいから」
「てんばつ?」
「ねえちゃんがいつもいってる、エナにやさしくしないとおっきくなれないんだからーって」
「ふーん……?」
「……またびちゃびちゃになるぞ、はやくあらわないと」
「ん、わかった」
石鹸が見当たらなかったからとにかく両の手のひらをゴシゴシ擦り合わせていたら、男の子がヘタクソと言ってきた。
「ちゃんとつめのあいだもあらわなきゃ、バイキンがのこっちゃうんだぞ」
「バイキン……」
「こうやるんだってば、みとけよ」
男の子は自分の手を濡らして、見本を見せてくれた。確かに自分の爪には砂が入っていて、その真似をして爪の間も洗えばピカピカに戻った。
「ありがとう、おにいさん」
「どーいたしまして。あれ、おかあさんじゃないの」
濡れた手で男の子が指さした方向に、おばさんがいた。多分、時間がかかったから心配してこっちに来てくれたんだろう。男の子にもう一度お礼を言うと、はやくいけよとまた背中を押された。もしかしたらあのとき大きな声であの男の子たちに声を掛けてくれたのは、俺が困っていることにいち早く気付いてくれたからなのかもしれない。そう思い至ったのは、ワンピースからいつもの服に着替えて家に帰った後に手を洗っているときのことだった。
***
「冬弥、お前今日いつにも増してボーッとしてんな」
「いつもボーッとしているみたいに言わないでくれ」
「いや、結構反応悪いこと多いからなお前」
文化祭の出し物はわたあめ屋さんで仮決定した。これから他のクラスと擦り合わせた上で、本決定するかどうか決まるらしい。結構白熱した会議になっていたから、振り出しに戻ると大変だろうなと少し他人事のように思いながら教室を出て彰人と合流した。
「ちょっと昔のことを思い出していたせいかもしれない」
「昔?」
「ああ、昔撮ってもらった写真の行方が思い出せなくてな……とてもいい思い出というわけじゃないんだが、ふと気になってしまって」
「ピアノのコンクールの写真とか?」
「いや、司先輩の家で遊んだ時の写真だ。ちょっと色々あって、あまり人に見せられるようなものじゃないんだが」
「そう言われると気になるだろ……手伝ってやろうか、探すの」
「いらない……彰人が見たら、絶対に笑うから」
「そんな失礼なことしねぇよ……冬弥の子供の頃って想像つかねえけど、やっぱ無表情だったのか?」
「自分じゃ分からないな……家にあるアルバムの写真も、それこそコンクールの授賞式のものがほとんどで、笑うようなものではなかったし」
「ならますますその写真探した方がいいんじゃねーの」
「探すにしても自分一人で探す」
「見つけたら見せてくれよ」
「……考えとく」
約束だからな、と言われたけど、絶対に頷かなかった。黒歴史、とまでは言わないしあの日公園で遊ばせて貰えたのは自分の中で大切な思い出として仕舞われているけれど、でも内情を知らない人から見れば女装させられている男の子の写真なんて扱いに困るだろう。恥ずかしいし、見せたくはなかった。そんな話をしているうちにWEEKENDGARAGEに辿り着いた俺達は、店のカウンターで二人盛り上がる小豆沢と白石に声をかけた。
「遅かったじゃん」
「二人して六時限目のホームルームが長引いたんだよ……それで、何をそんなにはしゃいでんだよお前らは」
「んーとねえ……こはね、言ってもいい?」
「え! ダメだよ杏ちゃん、恥ずかしいよお!」
「あはは! こはね可愛い!」
顔を真っ赤にした小豆沢が見せてくれたのは、心理テストと書かれた本だった。女子ってそういうの好きだよなあと呟いた彰人に、ノリが悪いと憤慨した白石が小豆沢から本を奪って適当にページをめくっていく。
「あ、これなんてどう? 『パティスリーを訪れたあなた。「初恋」というショーカードがついたスイーツはどんなお菓子でしょうか?』」
「選択肢はないのか?」
「あるよ、①透き通ったゼリー ②シュワっと溶ける砂糖菓子 ③素朴な見た目の焼き菓子 ④フィリング入りのショコラ の四つだって」
くだらねえ、と吐き捨てるかと思った彰人は、意外にも二番とちゃんと答えてやっていた。俺は少し悩んで、三番と答える。小豆沢と白石は既にやったテストだったのか、訳知り顔で俺たちを見てくるから落ち着かない。彰人も同じだったのか、早く言えよと苛立ちを隠せていなかった。
「えーっと……『このテストでは、あなたの初恋があなたの恋愛観に与えた影響を教えてくれます』」
「初恋……」
果たして俺の初恋とはいつなのか。焼き菓子を選んだのだって、ただ単にハートの形を作りやすそうだなと思っただけで、なにか特定の出来事に当てはめて選んだわけではない。昔に思いを馳せ首を傾げる俺とは異なり、彰人は思い当たる節があるのかちょっとだけ苦い顔を浮かべている。勿論白石もそれに気づいたようで、ニヤニヤしていた。
「じゃあ冬弥から答え合わせしよっかな~」
「順番的にオレが先だろ」
「細かいことは気にしないの! 『焼き菓子を選んだあなたにとっての初恋は、ノスタルジックな思い出です。いい思い出として振り返ることはあっても、あくまで思い出であり甘い恋の記憶と言うよりは幼い頃の憧憬でしかありません』……だって、当たってる?」
「さっきから初恋に当てはまりそうな出来事が思い浮かばないから、なんとも言えないな」
「そっかあ、残念。それじゃあ今度は彰人の番だね」
「早く言えよ」
「さっきまでバカにしてたくせに……『砂糖菓子を選んだあなたにとっての初恋は、今もなお強い余韻を残しているようです。今まで好きになった人に、どこか初恋の人の面影を求めてはいませんか? 当時未熟だった自分への後悔が微かな未練となって、実はあなたの初恋はまだ続いているのです』」
「東雲くん、当たってた?」
「……さあな、オレもあんまり詳しく思い出せねえし」
謙さんが出してくれたコーヒーに口をつけながら、彰人が苦々しく言い放つ。俺もちょっと、彰人の初恋に興味があったのだがこれは教えてくれないかもしれない。
「あんまりってことは、ちょっとは覚えてるの?」
遠慮して何も聞けない俺と違い、白石はグイグイと攻めていく。小豆沢もやはりこういう話が好きなのか、止めもせず期待の眼差しを彰人に向けていた。彰人は小さく舌打ちをすると、観念したように口を開く。
「……幼稚園通ってた時期に近所の公園で見かけた、金持ちぽくて、ちょっと浮世離れしてたっつーか……」
「幽霊だったんじゃない?」
「触れたから幽霊じゃねえ……白い服着てたし、オレも一瞬疑ったけど」
「ふーん……可愛かった?」
「……」
「へえ~そうなんだぁ~」
「おい、なんも答えてねえだろ」
「えへへ、東雲くんのこういう話聞くの新鮮でドキドキしちゃうね」
小豆沢にまでイジられてすっかり意気消沈してしまったらしい彰人になんと声をかけようか迷っていたら、暗い顔のままの彰人に肩を掴まれた。
「どうした彰人、ビックリするだろう」
「いや……お前、いつからそのホクロある?」
「目尻のこれか? よく覚えてないが……小学生になる頃にはあったと思う」
「あ、そう……」
「それがどうかしたのか?」
「別に、ちょっと気になっただけ」
「そうか……」
脈絡のない質問に困惑する俺は、彰人がいやいやまさかそんなわけ、と唱えていたことに終ぞ気が付かなかった。
(210513)
愛のゆりかご
やりたいことが多すぎて、気がつけば日付を跨いでいるということはザラにある。最近は冬弥から宿題のチェックを受けることもあるから、出来るだけその日のうちに済ませるよう習慣づけようとしたら益々寝るのが遅くなってきた。とはいえ、(冬弥に褒められるために)勉強も頑張らないといけないからといって、今までこの時間にやっていた筋トレやらレッスンの準備やらを怠る訳にもいかず。一日があと3時間くらい増えればいいのに、なんて夢みたいなことを考えながら英語の和訳の宿題を終えたときだった。視界に入れないようベッドの上に放り投げていたスマホが、普段あまり鳴らない音楽を響かせる。オレはシャーペンを置くのも忘れてベッドに駆け寄り、通話ボタンをタップした。
「もしもし、冬弥? どうしたんだよ、こんな時間に」
『……すまない、もう寝ていたんじゃないか?』
「平気、英語の宿題終わらせてたから寝てねえよ」
『そうか、偉いな彰人』
「お前は? いつもなら寝てんだろこの時間」
『そう、なんだが……』
普段は表情から読み取れる情報が少ない冬弥だが、電話だと案外分かりやすい。声に諸々出てしまっているんだなと分かってからは、対面で話す時も声に着目すれば何を考えているのかすぐ伝わってくるようになってきた。明らかに何かあったということを隠しもしない恋人が、迷惑かもしれないと分かってて真っ先に自分へ電話をかけてきてくれたことが嬉しくて照れくさくて、ちょっとむず痒い。
「ただ単に寝れないとかなら、それでいいけど」
『そんな感じ、だろうか……さっきまで寝てたんだ、ただちょっと夢見が悪かったというか』
「嫌な夢見たってこと?」
『……彰人に、嫌われる夢を見た』
俺が呼びかけても返事をしてくれなくて、それでも俺が彰人の腕を掴んだら睨みつけてくるんだ。お前なんか知らない、関わるなと一方的に言われて腕を払われて、どうしていいか分からなくなってその場に立ち竦む俺に、大嫌いなんだよって吐き捨てるように言ってきて、
『そこで、目が覚めた』
「……オレ、お前のこと睨んだことないのによく夢で見れたな」
『俺にじゃなくても、ライブハウスなんかで色んな人を睨むところなら何度も見てきたから、多分そのせいかもしれない』
「ふーん……それで、怖くて眠れなくなったわけ?」
『怖い、というか……確かめたくなって、電話した』
「確かめる?」
『彰人が俺を好きであるということが、本当に現実なのかどうか』
親にバレないように極力声を潜めて喋っているのだろう、いつもより掠れて聞こえる声がなんだか泣く寸前のように聞こえてきて、居てもたってもいられなくなる。だけどこんな時間に会いに行けるわけもなくて、俺はただ、スマホを握る手に力を入れることしか出来ない。
「好きだ、冬弥」
『……ああ』
「だからそんな夢なんか気にしないで、寝ろよ」
『ん……ありがとう、彰人』
別に彰人の気持ちを疑っているつもりはないんだ、と呟いた声の後にゴソゴソと布擦れの音が聞こえてくる。多分、布団にくるまった状態で電話をかけてきていたんだろう。元々早寝の奴がたまたま起きただけなのだから、話していれば直に寝付くはずだからと、子守唄の代わりに彼の話に相槌を打つ。
『彰人がこんな言葉を俺に言うわけがないと分かったから、夢だと思ってすぐに目が覚めたんだと思うし』
「そりゃ大した自信だな」
『ああ、お前がたくさん愛してくれているおかげだ……』
「……まあ、な」
『彰人に好きと言われる度に、俺も俺のことが好きになれる……彰人に好きでいてもらえる自分でいようと、思える』
「お前、いつもそんな大層なこと考えてんのかよ」
『それだけ彰人の言葉に、すくわれている、と、いうことだ』
ありがとう、という言葉尻がやや溶けてきていて、どうやら本格的に眠気に襲われているらしいということは伝わってきた。だけどなんだかこのまま通話を切ってしまうのが勿体なくて、なあ冬弥と微睡みの縁にいる彼に呼びかける。どうした、という返事がもうふわふわで、少し笑ってしまった。
「オレももう寝るからさ、今度はお前がオレの夢に出てこいよ」
『ん……いく……』
「約束だからな」
『わか、た……やくそく、す……ん……』
何かむにゃむにゃ言っているのが数秒聞こえてきて、すこし間が空いてから聞こえてきたのは完全に寝息だった。部屋の電気消したのかとか、明日いつも通り起きれんのかとか、色々気にはなったけど。今度こそ素敵な夢を見れますように、そして夢の中で会えますように、だなんて柄にもないことを祈りながら今度こそ通話終了の赤いボタンをタップした。
(210523)
すき、いや、きす
姉貴におつかいと言う名のパシリをさせられた、彰人は想像の中のお姉さんを睨みつけるような顔で俺にそう言った。そういう経緯で連れてこられたドラッグストアの、化粧品売り場で彰人は自分で探すよりも手っ取り早いとすぐに店員さんを捕まえに行った。キラキラとしたパッケージに、カラフルな試供品、嗅ぎ慣れない独特の香りもあってか、なんだか気分が落ち着かない。外で待っていようかと迷っていた俺の視界に入ったのは、他の商品に比べれば落ち着いた色味のデザインのものだった。
「これいっぽんでしっとりふわふわのあいされくちびるに……」
丸っこい文字で書かれた説明文を、思わず口に出して読んでしまった。そしてそのまま、その商品を手に取る。ふわふわな唇というものが想像できないけれど、これがあれば魅力的な唇になれるだろうか。そうすれば、
「……彰人は、喜んでくれるだろうか」
遡ること一週間前、俺と彰人ははじめてキスをした。放課後の、誰もいない二人きりの教室で、目を瞑れと言われるがままに瞼を閉じた瞬間、唇同士が触れ合っていた。キスをしているのだと分かった瞬間、頭がぼーっとして、でも重なっている唇だけが少し冷たく感じていた。どれくらいそうしていたかなんて考える余裕もない俺に、彰人はなんてことないように笑って、冬弥の唇ってやっぱ薄いんだなと言った。自分の唇の厚さなんて気にしたこともなかったけれど、妙に引っかかってしまって帰ってから調べてみた。一般的に唇は肉厚なほうが魅力的と言われるらしい、だけど俺が恋人から掛けられたのは薄いという真逆の表現だった……つまり、魅力的でないと判断されたというわけだ。このタイミングでこれを見つけられたのは、幸運かもしれない。少し値は張るが買えなくはないなと、もう一度パッケージを見てみる。あいされくちびる、になれば彰人はまたキスしてくれるかもしれないから。
「冬弥お前、コスメとか興味あったのかよ」
「っ……ビックリした……」
「全然ビックリしたって顔してねえけどな……てかそれ、リップグロスだぞ? お前使うことないだろ」
「リップ、グロス……?」
「ツヤを出すために口紅の上にのせて使うんだよ、これはそのままでも使えるやつっぽいけど……そんなことも知らないのに買おうとすんなよ、しかも結構高いやつだし」
「そうか……これをつければ、彰人が喜んでくれると思ったんだが……」
俺からリップグロスとやらを奪って棚に戻そうとしていた彰人の動きが、突然止まった。その様子を見て、また何かおかしなことを言ってしまったんだと察する。彰人は大体、俺が突拍子もないことを言うとこういう反応をするのだ。俺はどうやら、色んなことを端折ってしゃべってしまうらしくよく彰人を困らせてしまう。しっかり順序立てて話さなければ大切なことも伝わらなくなってしまうから、俺はちゃんと説明しようと口を開いた。
「えっと……俺は彰人にもう一度キスしてほしいと思ってて、でも薄い唇というのはあまり魅力的でないらしいから、少しでも魅力的な唇に近づければ彰人が喜んでくれると思って、」
「分かった、分かったから一旦黙ってくれ」
「んぐ……」
説明してやろうとしていたのに、何故か口を手で塞がれた。彰人の掌はこの前触れた唇よりずっと熱くて、やっぱりもう一度キスがしてみたいと強く思った。
「オレ、お前の唇が魅力的じゃないとは言ってねえだろ」
「……」
「まあ、言葉足らずだったのは謝るけど」
「……」
「つーか、唇が薄いくらいでキスしたくなくなるとかありえねえし」
そこで漸く手が離されて、呼吸が楽になった。二回小さく深呼吸して、それから彰人の蜂蜜を溶かしたみたいなみたいな目を見て問いただす。そういえばさっきのリップグロスのパッケージも、こんな色をしていた。
「……じゃあ、なんでキスしてくれないんだ?」
「それは……押してダメなら引いてみろ、的な?」
「……つまり?」
「だから……冬弥からしてきてくんねえかな、みたいな?」
「それは……思いつかなかったな」
「マジかよ……で、どうするよ?」
挑発するような、でもどこか優しい目線がじっと俺を射抜く。
「下手だと思うが、嫌にならないか?」
「なんねーよ、絶対」
「……彰人は上手だったな、キス」
「なんだよ、嫌だったのか?」
「……誰かとしたことあるのかと、ちょっと勘ぐってしまった」
白状すれば、彰人が鼻で笑った。それにムッとすれば、今度は俺の鼻を摘んでくる。
「お前に気持ちよくなって欲しいって思ってたから、上手く感じただけだろ」
「……つまり?」
「ちょっとは自分で考えろよ、バーカ」
結局しねーのかよ、と笑われ、ここじゃ緊張するから嫌だと返せば今度こそ彰人は口を開けて笑った。
(210523)
Sweetie Addition(未来の話)
「彰人、遠回りして帰ろう」
「雨降るかもしんねえのに?」
「折り畳み傘はある、心配するな」
まだ出会ったばかりの頃、冬弥は家に帰りたくないときよく遠回りしようと言っていた。帰りたくない、と言ってもあの頃の自分達にはどうしようも出来ないと分かっていたからこその誘い文句だったんだと思う。だからオレも、あそこのコンビニの新商品が美味いから食いに行こうとかなんとか適当な理由をつけて、その腕を引いて歩いていた。あれからもう何年も経って、俺たちは物理的な意味でずっと一緒にいられるようになった。でもたまに冬弥は、こんな風に俺に甘えてくる。そんな冬弥が可愛いから、オレはめんどくさいなあなんて顔をしながら、その指に自分のを絡めて並んで歩くのだ。
「今日の店、どうだった?」
「そうだな……彰人が好きそうな店だと思った、適度に騒がしくてでも卑しくない騒音だった」
「飯の感想が聞きたかったんだけど」
「美味しかったぞ、お酒の種類も多かったからだいぶ飲んでしまったな」
「お前、こんなときじゃなきゃ飲まねえからな」
「当たり前だろう、彰人を介抱するのは俺の仕事だからな」
しゃんと喋っているようで、冬弥は時折ふらふらと目線を彷徨わせる。対するオレは乾杯のビール一杯しか飲んでないから、殆ど酔ってない。今日の主役を差し置いて酔いつぶれる訳にはいかないから、仕方ない。頬を上気させた冬弥は、なあ彰人、と繋いだ手にちょっとだけ力を込めて呟いた。
「今日もあれが飲みたい、自販機は無いのか?」
「あー、はいはい……と言っても、この辺あんまり来ない通りだからなあ、あるといいけど」
「あれを飲まなきゃ、俺の誕生日はおわらないんだ」
「分かったから手ぇ揺すんなって、肩外れるだろ」
「ふふ、彰人は人形じゃないから大丈夫だ」
「人形じゃねえから肩外れたらヤバいんだって……ほら、そこの公園入るぞ。なかったら俺が家で淹れてやるから大人しく帰るからな、いいな?」
「ん、わかった」
入口から少し進んだところに、休憩スペースなのかベンチが一つと自販機が二つ並んでいて、愉しそうにニコニコしている冬弥を先に座らせる。酔い覚ましの水と、それから冬弥が飲みたがっている無糖の缶コーヒーとオレの分の缶入りの炭酸飲料を買って戻れば、冬弥はいつも凛とした光を携えている目をとろりとさせて俺を見つめていた。
「置いてかれたかと思った」
「お前が飲みたいって言ったんだろ」
「自分で買いに行けた」
「去年間違ってカフェラテ買ってすげえ顔してただろーが、お金の無駄」
「むう……ありがとう、彰人」
「どーいたしまして。開けてやろうか?」
「……開けてくれ」
高校生になって、謙さんやチームメイトたちと協力して冬弥の誕生日パーティをやった帰り道。なんだか名残惜しいと呟いた冬弥と、一缶飲み終わるまでと決めて公園で寄り道したことがあった。あれ以来、冬弥は誕生日パーティの帰りに必ず缶コーヒーを飲みたがる。特別でもなんでもない、つい一年くらい前にデザインが一新された歴史のあるありふれたブラックコーヒーを、冬弥はオレに奢ってくれと毎年強請るのだ。プルタブを引いてすぐ飲める状態にして冬弥に返し、今度は自分の方を開ける。去年噴き出すアクシデントが起きたことを覚えていたのか、今年は派手さに欠けたなと冬弥が笑った。
「じゃあ改めて……誕生日おめでと、冬弥」
「ありがとう彰人、今年も一年よろしく頼む」
「今年もよろしく頼まれてやるよ」
肩が触れ合うくらいの距離に並んで座ったオレ達はお互いの缶をぶつけて、一口煽る。あの頃は時計を気にしながら飲んでいたけれど、今は自分たちの気の向くままのんびりと雑談していられる。家でやっていることと同じだと言われればそれまでだけど、気づけば冬弥の誕生日の夜はいつもこんな風に過ごすようになっていた。
「美味しいな」
「毎年言ってんな、それ」
「ああ、俺は誕生日にしかこれを飲まないようにしているからな……これを飲むと一気に懐かしい気持ちになる」
あのときと何も変わってない、と冬弥はあの日々を慈しむように目を細めて呟く。
「お前が隣にいるということが変わらないまま今日を迎えられることが出来て、俺はとても幸せだ」
「……お前はもう少し欲張りになれよ、冬弥」
「はは、これ以上欲張ったら罰が降りそうだ」
「そんなことねえよ……それに、そのときはオレも一緒に受けてやるし」
「そうか……そんなに頼もしいことはないな」
「だろ? だからさ、もっと欲しがっていいんだから」
眠たいのか、俺に凭れるような姿勢になった冬弥が欲しいもの、と難しい顔で悩み始めた。初めて誕生日を祝った年、プレゼントに何が欲しいんだと尋ねた時もこんな顔をしていたような気がする。そんな質問は初めてされた、なんて続けられたから、今度はこっちが眉をひそめてしまったのだ。
「……明日、」
「明日?」
「彰人の作ったパンケーキを、朝ごはんにしてほしい」
「それでいいのか?」
「それが、いい……たまには彰人に、起こしてもらいたい」
「ああ、そういうこと」
「今日も隣にいてくれたなと、朝から思わせてほしい」
「……毎日起こしてくれってか?」
「たまにだから、プレゼントになるんだろ」
「そんなもんかね……じゃあ明日早起きしなきゃだし、セックスはお預けか?」
「それは……彰人が頑張ればいいだけだろう」
「へーへー頑張りますよ」
「ふふ……楽しみにしているぞ、色々」
「お前なあ……」
生意気言う口を自分の口で塞いでやる。毎年この日に味わっているほろ苦さと毎日感じている生温さが、いつもより一層愛しく感じた。
(210525)
草薙寧々の散々な昼休み(CP感薄め)
草薙寧々は騒々しい人間が苦手だ。あと、自分のペースを乱してくる人間も苦手だ。そして、今廊下から聞こえてくる歌声の主はその両方に当てはまる人物であり、寧々はそちらを見ないようにしながら持参したお弁当をつつく。彼──天馬司のおかげで寧々の世界が拓けたのは間違いないが、あんなのが知り合いだなんて思われたくない! と叫びたくなるくらいには乙女心は複雑だった。
「ハッピーバースデー、冬弥!」
最初、あの無駄に響く声が誰に呼びかけられたものなのか寧々はすぐに分からなかった。だけど数秒して、よく来る隣のクラスのオレンジ色の髪の男子が口にしている名前だと気がついて、そういえばあのクラスメイトをこの前のバースデー公演でも見かけたことを思い出し、仲が良かったのかと納得する。ちなみにそのクラスメイトは、騒々しくはないけどなんの前触れもなく話しかけてくるなどして寧々のペースを乱してくるので苦手なタイプに分類される。皆もその名前に聞き覚えがあったからか、あの寡黙で真面目なクラスメイトの姿を探し始めた、だけど見当たらない。数秒もしないうちに勇気ある誰かが廊下に立つ司に、青柳ならさっき東雲と購買に行ったきり戻ってきてませんよ、と告げる。ああそうだ東雲だ、と寧々はさっき思い浮かべたオレンジ頭の名前を思い出してスッキリした。どうか司から声を掛けられないようにと、教室の後ろの席で出来る限り空気と同化しようと試みていた寧々は、だが次の瞬間出直すと思っていた知り合いが突然廊下で歌い始めたのだからぎょっとした。しかも歌っているのは、幼い子供でも知っているに違いない、それこそつい数週間前に司本人が皆に歌われていた祝福の歌だった。いやでも本人いないんじゃないの、と寧々はもう一度教室を見渡す。しかし、丁度司が『ディア冬弥~』と歌ったタイミングで、かのクラスメイトは司が立っているのと反対側の出入り口から教室に入ってきたのだから、寧々を含むその場にいた生徒全員が驚きと感心から拍手を贈ってしまう。ぽかんとする張本人に対し、隣のオレンジ頭は歌声の主に気付いたのかお手本レベルの苦虫を噛み潰したような顔をしていたから、寧々は多分自分も同じような顔をしてるだろうなとこっそり思った。ノリのいいクラスメイトなんかは、司と一緒になっておめでとうと未だに状況が飲み込めてなさげな彼に声をかけている。そんな風景を他人事と思い込もうとしながら視界の端で捉えていた寧々はここで漸く思い出した、彼の席は自分の目の前であるということを。そして彼が入ってきた出入り口から席に戻るとしたら、確実に自分の横を通るということを。今から教室を出ようにも二箇所の出入り口は塞がれているような状況で、完全に詰んだと寧々はゲームで味わうよりも深い絶望に打ちひしがれた。そうこうしているうちに彼はどんどんこちらへ来る、当たり前だ、彼は今から自分の席で昼食を摂るつもりなのだから。そうは分かっていても慌ててしまった寧々は、持っていた箸を手放してしまった。カラカラ、と小気味いい音を立ててワックスのかけられた床を転がった箸を拾ったのは、今日が誕生日だということをクラス中に知られてしまった青柳冬弥その人だった。
「洗ってこようか?」
「じ、自分で行くから、いい……」
「そうか」
「えっと、ありがと……」
「どういたしまして」
「あの……お、めで、とう……」
「ああ、ありがとう」
「ど、どういたしまして……じゃ、じゃあ……」
冬弥の手から箸を奪うように取って廊下の蛇口へ向かった寧々の顔は真っ赤で、しかしながらそんな自覚のない寧々は廊下に司がいることをすっかり忘れていたので顔が赤いが体調が悪いのかと話しかけられてしまい、散々な昼休みとなってしまったのだった。
(210527)
Marry U(未来捏造)(がっつり杏こは)
友人が、結婚式を挙げた。理解を示してくれた郊外の教会で執り行われた式は、参列者はそれぞれの両親と彰人と俺だけというとてもこじんまりしたものだったけど、同じデザインのウェディングドレスに身を包みお互いの好きな色をメインにした花束を抱えて永遠を誓い合う二人の表情は、これまでそれなりに長い付き合いだった筈なのに知らないものだった。
「ちょっと待ったー! って入ってくれてもよかったのに」
「なんの話だ?」
「昔やったじゃん、神代先輩が指揮した結婚式のフラッシュモブ」
披露宴代わりに馴染み深いあの店で四人で集まって、乾杯する。謙さんが貸切にしてくれたから、お祝いになればと俺達で料理を作って振舞った。ドレスからいつものカジュアルな服装に戻った白石たちは、美味しい美味しいと褒めてくれる。
「懐かしいな。確か、高校一年生のときだから……何年前だ?」
「ギリギリ10年経ってないくらいだな」
「え~、私達もうそんなに歳取っちゃったのかあ……こはね、私がおばあちゃんになっても嫌いにならないでね?」
「勿論だよ杏ちゃん! 杏ちゃんがおばあちゃんになっても、私ずっと杏ちゃんのこと大好きだから!」
さっきそういう約束をしたんだから、と擽ったそうに笑う小豆沢に抱きつく白石の図はもうずっと見てきていたのに、揃いの指輪がそれぞれの左手薬指で輝いているだけでより一層距離が近いように見えた。
「あ、そうだ。せっかくだし、お祝いになんか歌ってよ!」
テーブルの上のお皿がほとんど空になり、酔いも程よく回り始めたとき、突然白石がそんな提案をしてきた。
「はあ? んだよ急に……オレ達の歌は安くねえぞ」
「だからお祝いってことでさ、こはねも聞きたいよね?」
「う、うん! あんまり二人の歌を観客席で聴くことってないから、是非聞きたいな」
「……どうする、彰人?」
「はあ……喉温まってねえし、あんま期待すんなよ」
「やった! え、リクエストってあり?」
「好きにしろよ……冬弥、イケるよな」
「ああ、大丈夫だ」
彰人の言う通り声出しをしたわけじゃないから普段より見劣りするかもしれないけれど、こういうのは何より気持ちが大切だと俺はもう知っている。リクエストされる曲が知らないものだったら少しだけ打ち合わせの時間が欲しいなどと思いながら、アンプやマイクの調整をし始めた彰人を手伝う。当然だが、マイクを差し出す彰人の左手にもそれを受け取る俺の左手にも指輪は光っていない。揃いのアクセサリーはいくつか持っているが、彰人が指輪を選んだことは無かった。白石たちから結婚式の招待状を貰ってから今日まで、終ぞこのことについてどう思っているのか彰人に聞き出せていない。今日着ているスーツを選んでくれたのも髪型をセットしてくれたのも当たり前のように彰人だったけど、それでも支度の途中ですら話題に上げられなかった。
「冬弥、この歌分かるか?」
「あ……すまない、もう一度聞かせてくれ」
「なんだよ、酔って眠たくなってんじゃねーの?」
「そう、かもしれないな」
「ったくしょーがねえな……歌ったらちょっと横になっとけよ、片付けは俺がやるから」
「いや、そこまでじゃ……」
「いいから、とりあえず曲一回聞けって」
「ん、分かった……ああ、これなら歌えるぞ」
「サビのハモリ、どっちがいく?」
「そうだな……俺がいこう」
「了解、そんじゃやってやるか」
渋ったような態度を見せていたくせに、本当は随分と乗り気だったらしい。なんだかんだ二人に優しい彰人に笑えば、なんだよと小突かれた。そこでようやく、彰人の顔が少し強ばっていることに気が付く。いくら俺たちが歌に真剣でいるとはいえ、これは余興に近いのだからそこまで緊張しなくてもいいのにと思った。何かリラックス出来るような気の利く言葉がすぐに思いつけないのがもどかしく、そうこうしているうちに小豆沢がじゃあ曲流すねと声をかけてきた。
「……ん?」
流れてきたイントロは、明らかに先程彰人から聞かせてもらったメロディーと異なっていた。どういうことか分からない俺を他所に、曲はどんどん進んでいく。さっきの曲は俺でも知っているような有名な曲だったけど、これは一体なんの曲だろう。彰人は知っていたようで、持っていたマイクに向かって大きく息を吸い込んだ。
「……小豆沢と白石も、グルだったのか?」
「そういうこと! どうどう? ビックリした?」
「ビックリした、というか……」
「えっ、青柳くん、泣いちゃってるよ杏ちゃん! ティッシュどこだっけ!」
「あ、バックヤードかも! 取りに行こ、こはね!」
慌ただしくカウンターの裏へと向かった二人に指摘されて、初めて自分が泣いていたのだと知った。それを指の腹で拭おうとして、手首を掴まれる。
「彰人……」
「泣かれるとは思わなかったけど……それ、どういう意味の涙か聞いてもいいか」
「……感動したんだと、思う」
知らない曲だったけど、それを歌う彰人は最後まで今日の主役である二人じゃなくて俺を真っ直ぐ見ていた。歌詞の中で何度も繰り返されるフレーズと、その視線を受けて何も察せられないほど俺も鈍くはない。
「他人事みたいな感想だな、おい」
「今まで一度も、そんな話してこなかっただろう……受け止めきれてないんだ、キャパオーバーしている」
「それで泣いてんのか」
「多分……そんな悪い顔で見るな、恥ずかしい」
「まあサプライズが成功したんだからな、ちょっとくらい喜んだっていいだろ」
それで、くんねえのかよ返事。
少しだけ熱っぽい声で、マイク越しではなく耳元で催促される。もう分かっているくせにとは思うけど、俺達は一度言葉を尽くさなかったせいで離れるところだったのだから、そうは言っていられない。だから俺も覚悟を決めて、思いの丈を伝えるために大きく息を吸う。目を瞑ろうとした瞬間差し込んだスポットライトの光が、さっき見た指輪の輝きと重なって見えた。
「彰人、俺もお前と──」
(210605)
やさしいはむずかしい(軽度の自傷描写有)
歳がギリギリ二桁になっていないくらいのときの話だ、読んでいた本に『悔しくて爪を噛む』人が出てきた。悔しいと泣きたくなるのは分かるけど、どうして爪を噛みたくなるのか。分からなくて、自分の親指の爪を噛んでみた。父親とのピアノのレッスンの前に伸びてないか毎度確認されるから殆ど白い部分のないそれに、ガリガリと歯型をつけるも特に悔しさが発散される感覚はない。じゃあ何故この人は爪を噛んだのだろう、そんな俺の疑問は、買い物から帰ってきた母親が悲鳴を上げるように俺の名前を呼んだことで霧散してしまった。
昼休み、購買に行こうとしていたはずなのに突然保健室行くぞなんて言って俺の腕を引っ張るから、持っていた財布とスマホを落とさないようにしながらついていくのに必死だった。
「冬弥、お前また噛んだな」
「う……すまない、あまり覚えてなくて……」
「こことか血ぃ固まってるし……そろそろジャージ着れなくなるんだし、体育のとき誤魔化せなくなるぞ」
「……そうなのか?」
「そういうもんだろ、中学は衣替えのタイミングでジャージの着用禁止になってたな」
今思えばあれってブラック校則だったのか? とかなんとか言いながら、彰人は養護教諭が席を外していた保健室から勝手に持ちだしてきた救急箱から取り出した消毒液とガーゼを、俺の手首と肘の中間くらいにある傷口に慣れた手つきで宛てる。擦り傷でも切り傷でもないそれは、俺が自分でつけた傷だった。
爪を噛んだ時、母親は「お父さんに見つかったらまた怒られるから」とまるで宝物を扱うかのように丁寧に親指の爪を処理してくれた。実際、父親の期待を一心に背負い日々クラシックに没頭していた息子に、母親はそれくらいの価値を見出していたのだと思う。思えば後にも先にも母親にあんなに優しくされたのは、誕生日やクリスマスといった特別な日を除けばあのときくらいだったかもしれない。それに仄かな擽ったさを覚えてしまったのが、よくなかった。気がつけば俺は、爪ではなく自分の腕や肩に歯を立てるようになっていた。
「染みるか?」
「ちょっと……彰人、悪かったからそんな怖い顔をしないでくれ」
「するに決まってんだろ、普通に痛そうだし」
「そうでもないぞ?」
「馬鹿、そういうことじゃねーんだよ」
初めて自分の腕を噛んだ時、力加減が分からなくて結構血が滲んだ。母親にどうしようと相談したら、怒られてしまった。あのときみたいに優しくされなくて、何が違ったんだろうと考えた。あのとき母親は、父親にバレないようにと言っていた、つまり母親自身に非難が及ぶことを恐れていたのかもしれない。腕を噛んでも母親は優しくしてくれない、そう分かったはずなのにやめられなかった。でも、母親に相談したのは最初の一度きりだった。
「……お前さ、まだオレに言えてないことでもあんのか?」
「言えてないこと?」
「俺、お前のこの癖って父親との不仲が原因だと思ってたんだよ、でもまだ治んねえし……だから他になんか原因があるんだろ」
彰人にこの行為がバレたのは、出会って割とすぐのことだった。その日も朝から父親と喧嘩して約束の時間より随分早く待ち合わせ場所に着いてしまって、初めは喉を温めて時間を潰していたのに突然このまま彰人が来なかったらどうしようなんて不安に襲われて、気がつけば服の上から自分の腕を噛んでいた。そこを彰人に見られて、それから度々彰人が手当てをしてくれるようになった。彰人は俺の身体に痕が残るのを見る度に、一瞬悲しそうに眉を下げて、それからすぐ吊り上げて俺を怒る。怒っているはずなのに手当てしてくれるし、その手つきは優しい。
「……彰人が優しくしてくれるから、治らないのかもしれない」
「あ? どういう意味だ、それ」
「多分、彰人に優しくされたいから俺のこの癖は治らないのかもしれない、と思って……」
そこまで言って、言い方を間違えたなと気づいた。案の定彰人は怒っているような悲しんでいるような曖昧な表情を浮かべていて、俺は必死に頭の中で言葉を選び直す。
「昔、爪を噛んだことがあったんだ。そのとき、母さんがすごく優しく手入れしてくれて……だから、こういうことをしたら優しくして貰えると脳が覚えてしまっているんだと思う」
「……で、今度はオレが優しくしてくれるからつい噛んじゃうってか?」
「多分……すまない、彰人の優しさを利用していたなんて最低だな」
「なんか、お前らしいっちゃらしいけど」
「俺らしい?」
「ちょっと図太い感じが」
「図太い……」
「褒めてんだよ、一応」
「そうか……?」
「でもまあ、納得はしてねえけど。こういうことしねえと、オレが優しくしてくんないって思ってるってことだろ?」
ぺたりとガーゼを貼り終えた彰人が、腹いせのようにそこを軽く叩いてきたから初めてそこが痛いと思った。
「冬弥、ほら」
ガーゼが剥がれないように捲っていた袖を慎重に下ろしていると、彰人が徐に俺の名前を呼んで両腕を広げた。それが一体何を意味するのか分からずに首を傾げれば、もう一度、今度はほんの少し苛立ちを混ぜた声で呼びかけてくる。
「こっち来いって!」
「え、わっ……」
噛み跡のなかったほうの腕を引っ張られて、彰人の肩口に額がぶつかる。抗議しようとして、そのまま彰人の両腕で身体をがっちり捕らえられてしまった。それから、手当てしてくれているときよりさらに優しい手つきで頭を撫で背中を摩ってくれる。
「彰人……?」
「お前が求めてる優しさってやつがどんなもんか、まだオレも分かんねえけど……この口は伝えるために使えよ、噛むためじゃなくて」
そう言いながら、彰人は今度は片手で俺の両の頬を潰すように触る。無理やり尖らせられた口じゃ、何も伝えようがないと睨めば彰人はやっと眉を下げて力の抜けた顔をした。そういえば今日、傷がバレてからずっと彰人の笑った顔を見ていなかった。そこで漸く悪いことをしてしまったとバツが悪くなってすまなかったと口にするも、当然上手く喋れるはずがない。俺のそんな様子に満足したらしい彰人は、ニヤニヤと笑って頬から手を離すとすりすりと人差し指で右の頬を撫でてきた。
「言いたいのはそれだけか?」
「……もう少し、このままがいい。けど、お腹が空いている」
「それはオレもだわ……5限、サボるか?」
「彰人……」
「冗談だっつーの……じゃあこの続きは放課後、な?」
頷けば、彰人がまた頭を撫でてくれた。あんな回りくどいことをしなくても彰人は優しくしてくれる、分かっていたはずなのにどうやら身体はなかなか覚えてくれないらしい。その撫でてくれる優しい手を噛んでみたいと言ったら、また彰人は哀しむだろうか。
(210608)
チーズケーキと弟(東雲母捏造)
「アンタ、最近どうしちゃったワケ?」
夕飯後に出てきたレアチーズケーキ、てっきりお母さんが買ってきたのかと思いながら味わってたのに、彰人がわざわざ買ってきてくれたのよとお母さんも嬉しそうに食べ始めたからうっかり噎せてしまった。ここ最近、デザートやらお茶菓子やらやたら出てくることが増えて、しかもそれが大体出処が彰人なのがちょっと気味悪くなってきた。そういえば最近は私がパシリに使っても、練習のあとでよければ買ってきてやるとか無駄に寛大な態度で来るから逆に頼みづらい。別に、弟の嫌がる顔が見たかったわけじゃないけど、私が意地悪なお姉さんみたいでなんか嫌。というわけで、事の真相を知るためにお風呂上がりに隣の部屋へ突撃した。
「ノックしろよマジで……てか、まずはケーキご馳走様でしたが先だろうが」
「それよ、それ。アンタ、バイト始めたからって急にどうしちゃったのよ……なんか企んでる? 私のこと、取り入ろうとしてる?」
「なんでお前のこと取り入らなきゃなんねーんだよ……別に、どっかの誰かに横取りされたらたまんないから人数分買ってきてるだけだ」
「何よ! 人を食いしん坊みたいに!」
「誰もお前のこととは言ってないだろ?」
ニヤニヤとする顔にムカついて、持っていたタオルを投げつける。セットされていない、へなへなのオレンジ頭にヒットしたタオルは即座に投げ返された。
「てか、オレがケーキとか買って帰ってきて困ることないだろ。黙って感謝して食っとけよ、いらないなら買ってこないけど」
「そうは言ってないでしょ……でも、なーんか彰人変わったなあと思って」
「はあ? 元から家族思いで優しいよく出来た弟だっただろーが」
「アンタ、よくそんな出任せがスルスルと言えるわね……」
思い返せど何も当てはまらなくて鳥肌が立つ腕を摩っていれば、用がないなら出てけよと猫にするみたいにシッシッてされた。ムカついたから、勢い任せに悪態ついて思い切り音を立ててドアを閉めて、そこで漸くお礼を言ってなければ最近お土産が多い理由も聞けてないことに気付く。あの感じだと簡単に口を割ってくれないだろうけど、美味しかったよどこのお店で買ったの? くらい聞けば教えてくれたかも……いや、そんな穏便にアイツと話せる気がしないから無理だ。代わりにお母さんに探りを入れてもらおうと、リビングに顔を出して話を聞いてみれば何故かお母さんは機嫌良さそうになった。
「恋ね、きっと」
「……は?」
「だから、好きな子が出来たのよきっと!」
もしかしたらもう彼女かも、なんて暴走するお母さんを引き止めて根拠を聞くと、息子の恋バナがそんなに嬉しいのか随分うっとりした顔で話し始めた。
「彰人が買ってきてくれるお店、大体テレビとか雑誌とかで女子に人気って紹介されてるようなお店なのよ。でも彰人ってちょ~っと難儀なところがあるから、一人でそんなお店行けないと思わない?」
「それは、まあ……基本的にカッコつけだもんねぇ」
昔はデザートに喜んで食いついていたくせに、いつの間にか腐れると勿体ないから仕方なく食べますーみたいな態度で、でも嬉しいのが隠しきれない感じで食べるようになっていた。家ですらそんな感じなのに一人で女子ばかりの行列に並べるわけが無い、というお母さんの指摘はかなり鋭いと思う。
「でももしかしたら友達と行ってるだけかもしれないでしょ、恋とは限らないんじゃないの」
まさか母親の勘とでも言い出すんじゃないかと思っていたら、絵名は聞かれたことないんだと言われた。
「これ美味い? とか、甘すぎない? とか、とにかくすごいリサーチしてくるのよ。だから誰かにプレゼントするのって聞いたら、顔真っ赤にしてそんなんじゃねーしって」
「認めてるようなもんじゃない、それ……」
漫画でもそんなに分かりやすいツンデレっていないでしょ、と笑いそうになるのを堪える。つまり、好きな人(仮)または恋人(仮)のために私たちの舌を使ってるってわけね、アイツ。
「彰人に恋人、ねえ……どんな子だろ、年下ぽい気がする」
「あら、彰人の年下ってことは中学生よ? ちょっと犯罪臭いから、それだったらお母さんは反対するわ」
「それは確かに、アウトだわ……」
私のおつかいに簡単に応じるようになったのも、もしかしてその子とのデートの口実だったりして。それはすっごいムカつく、私のことをなんだと思ってるんだ。もう一度部屋に突撃してやろうか企む私に、お母さんはやっぱり嬉しそうな顔のまま早く孫の顔が見たいわーなんて宣ったので、それはさすがに気が早すぎでしょと突っ込んでおいた。中学生相手はないとして学校の同級生や先輩の可能性はあるだろう、それなら瑞希のほうが詳しいかもしれない。あとでチャットか何かで聞いてみようと考えていたら、ドタドタと階段を誰かが下りてくる音が聞こえてくる。
「ちょっと出てくる、一時間もしないで帰ってくるから」
「どうしたのよ急に、コンビニ?」
「ちげーよ。冬弥……オレの相棒がちょっとトラブったみたいだから様子見てくるだけ」
「気をつけなさいよ、子供じゃどうしようも出来ないことならお母さん呼んでもいいから」
「そういうんじゃねーと思うから大丈夫」
遅くなりそうならまた連絡する、と言って、彰人は慌ただしく出ていった。相棒といえば、一回だけ会ったことあるあのやたら顔が綺麗で今までの彰人の交友関係にはいなさそうなタイプの、あの子だろうか。
「トラブったって大丈夫なの、それ」
「たまにこういうことあるのよ。ご家庭が複雑みたいで、親御さんと喧嘩してプチ家出じゃないけど外で時間潰してることがあるみたい」
「ふーん……だからって、わざわざ彰人が行く必要ある? 女の子じゃないんだし」
「それだけ大切なんじゃない?」
なるほど、相棒ですらこんだけ過保護なんだから彼女には相当甘いのかもしれない。うーん、ますます真相が気になる。部屋に戻って早速『ナイトコード』に繋いで作業していた瑞希に尋ねてみると、変な間が空いてからえななんにはまだ早いんじゃない? と明らかな訳知り感を出されたので、今度会ったら何がなんでも口を割らせてやると心に誓ったのだった。
(210614)
さしも知らじなもゆる思ひを
梅雨にしては珍しくカラリと晴れた日の放課後、冬弥は他の図書委員と一緒に古い蔵書の点検を行っていた。雨が続くと湿気のせいで本が傷んだり最悪黴が生えたりするケースもあり、晴れた日を見計らってそういう本がないかをチェックするのが衣替えをした辺りから図書委員の仕事に付け加えられていた。冬弥が任せられていたのは日本史か古文の授業で使うために購入されたのであろう、少し古めかしい言い回しの多い読み物が多く保管されている棚だった。近所の高校の廃校の際に神山高校が引き取ってやってきたらしいそこ一帯の蔵書は、既に日焼けしているものも多く仮に今年一年は持ったとしても来年には破棄することになるかもしれない、そんな状態の本ばかりだった。水気を含んでいないか、ページ同士がくっついてはいないかなど、チェックリストに従って本の状態を確認していた冬弥が持っていた本のページをパラパラと捲ったとき、何か違和感があった。数ページ戻してその正体をすぐ突き止めることができた、落書きがされてあったのだ。
「これは……なんだろう」
冬弥には借り物に落書きをする人の気が知れなかったが、鉛筆で書かれているその落書きの意味もまた、知らなかった。てっぺんにハートマークのついた恐らく傘を模した記号の中に、丸みを帯びた癖のある字で誰かの名前が二つ並んで書かれていた──所謂『相合い傘』と呼ばれる、おまじないの類のようなものである。恋愛成就を意味するものだと知らない冬弥は、取り憑かれたようにそれを見つめていた。だから、他の棚をやっていた先輩から雲行きが怪しいから今日は止めとこうと声を掛けられるまで、外が暗くなっていたことに気が付かなかった。
『悪い、夕立に降られたから図書室まで迎えに行けない』
『よければ靴箱で落ち合おうぜ』
『教室にあるリュックも持ってきてくれると助かる』
先輩の予感は的中して、窓の向こうはすっかり土砂降りだった。傘がないと騒ぐ生徒たちの輪から外れて一人、冬弥は彰人に言われた通り靴箱に凭れて彼が来るのを待っていた。その手には持ってきていた折り畳み傘と、それから結局借りてきてしまったあの落書きが残された蔵書があった。裏表紙に拠ればそれは恋にまつわる和歌をまとめた本であって、冬弥もなんとなくあの落書きが誰かの恋に関係しているのだということを察した。
「待たせたな、冬弥」
「すっかり濡れ鼠だな、俺のタオルも貸そうか」
「あー……じゃあ借りるわ、もうオレの使いもんになりそうにないから」
首にかかったタオルを指さしながら苦笑いを見せた彰人に、同じく苦笑しつつ冬弥が鞄からタオルを差し出す。
「てか早かったんだな、オレが先に着くと思ったのに」
「一緒に当番だった先輩が電車通学らしくて、大雨で運行が止まる前に帰りたいと先生に打診した結果、すぐ閉めることになった」
「へえ、よかったな」
ゲリラ豪雨というにはまだ止みそうにない空を一瞥してから、彰人が借りたタオルで荒々しく頭を拭く。傘は、と冬弥が問えば、あんな晴れてたのに持ってくるかよ、と手つき同様乱暴な返事がきた。
「靴の中が気持ちわりぃ……」
「靴下だけでも脱ぐか?」
「こんな汚れたの、鞄に入れたくねえんだけど」
「そうだ、お前のリュック軽すぎないか? これ、教科書とか入ってるのか?」
「……雨だから持って帰らない方がいいだろ」
「雨が降るって知らなかったんだろう?」
「……お前の本、濡れるんじゃねえのそれ」
彰人が話を逸らすためにその本を指さしたことを冬弥はすぐに見抜いていたけれど、ちょうどこれについて話がしたかったからまあいいかと栞を挟んでいた件のページを開いた。鉛筆で書かれた落書きを、冬弥は指さす。
「彰人はこれが何か分かるか?」
「『相合い傘』だろ、小学生の時女子がよく書いてた」
「あいあいがさ……」
「好きな人と自分の名前をその傘のマークの下に書いたら、片想いが成就するとかなんとかってやつだよ。こはねとかのが詳しいと思うけどな、そういうの」
「……そうか」
まだまだ濡れ鼠の彰人は、冬弥がやたらそのただのおまじないに心奪われているのがどうにも気に食わなかった。だって冬弥は自分と付き合っていて、つまり想いは成就しているのだからおまじないになんて頼る必要は無いはずなのに。
「なんだか、悪いことをしてしまった気分だ」
「悪いこと?」
「ああ……このページに書かれている句は、誰にもこの思いを打ち明けるつもりは無いという意味なんだ。それを分かっていてここに書いたんだとしたら、きっと秘密にしていたかったんだということだろう……なのに、俺が見つけてしまったから」
「だから、悪いことした気分だって?」
彰人の問いかけに、冬弥は小さく頷く。誰かの心の内を暴いてしまったみたいで、ずっと居心地が悪かった。暗い表情を浮かべる冬弥の視界に、ふっと影が落ちる。彰人が湿ったタオルをその二色の頭に掛けたからだった。
「彰人……?」
「ホントに悪いのは図書室の本に落書きしたそいつだろ、お前が気に病む必要はねえよ」
「それはそう、なんだが……」
「そんなことより、ちょっと小降りになったし今のうちに帰るぞ。早くその本仕舞えよ」
急かされるまま、冬弥は自分の通学鞄に蔵書を仕舞い込む。狭いけど入るか、と冬弥が折り畳み傘を持ち上げながら聞けば、元からそのつもりだったと彰人は得意げに笑った。その笑顔が冬弥には、今は見えない太陽よりもよっぽど眩しくて暖かくて、愛しかった。
(210619)
オトナ味のキッス(年齢操作/成人済)
初めてお酒を口にしたのは、彰人の二十歳の誕生日の夜だった。俺が先に成人になったとき彰人に飲まないのかと聞かれたが、一緒に棲んでいる相手が楽しめないものを一人で飲んでも味気ないだろうと説明すればすごく嬉しそうに笑ってその日はすごく甘やかされた記憶がある。そういう経緯で半年越しに飲んだはじめてのアルコールは、意外と口にあった。司先輩にオススメされたハイボールが特に美味しかったから、それから彰人と家で飲む時は大体缶のハイボールを選ぶようにしていた。彰人はアルコール度数のあまり高くない缶チューハイやカクテルを好んでいるようで、だけどそれを飲みながら冷蔵庫にあるもので簡単なおつまみをササッと作ってくれる彰人を見るのが、俺の宅飲みの密かな楽しみだった。
「コーヒーの、リキュール?」
「おお、バイト先の先輩が美味いからってくれたんだよ」
お前コーヒー好きだし喜ぶかと思って、と彰人がリュックから取り出したのは、丸っこいシルエットの瓶だった。彰人の言う通り、貼られたラベルには『coffee』という印字がされていて、中は黒に近い茶色の液体がなみなみと入っている。
「レシピも聞いてきたから作ってやるよ」
「いいのか?」
「この前介抱してもらったお礼ってことで。ちょっと待っとけ、すぐ作るから」
「ありがとう……?」
バイトから帰ってきたばかりで疲れているだろうに、いいのだろうか。冷蔵庫を漁る背中を見ながら、手持ち無沙汰な俺はソファーの上にあったクッションを手繰り寄せて膝の上に乗せる。だけど、コーヒー味のお酒があるなんて知らなかったから、ちょっとワクワクしていた。程なくして、キッチンから彰人が色んなものを載せたトレイと共にやってきた。
「これが、コーヒーのお酒か」
「正確にはさっきのリキュールを牛乳で割った、カルアミルクって名前のカクテルな」
「カルア、ミルク」
「匂いは結構苦いけど、牛乳だから飲みやすくなってるとは思うぞ」
「味見してないのか」
「そこはお前が先に飲むべきだろ」
「なるほど」
お皿に盛ったナッツやらジャーキーやらを並べた彰人が、一緒に買ってきたらしい自分の分の缶チューハイを開けたから俺も慌ててカルアミルクとやらが入っているグラスを手に取る。結構冷たかった。
「じゃあ今日もお疲れ」
「ああ、お疲れ様彰人」
こつんと缶とグラスをぶつけ合って、それからお互いに一口飲む。口に入れた瞬間アルコール独特の辛さが広がったが、すぐにスッキリとしたコーヒーの苦味と牛乳のまろやかさで中和された。すごく飲みやすい、ハイボールと違って彰人の作る晩ご飯やおつまみには合わないかもしれないけど、今日出されたナッツ類との相性はとてもよさそうだ。
「はは、気に入ったみたいだな」
「ああ、いい貰い物をした」
「まだ飲むならおかわり作るぞ、牛乳もちゃんと買ってきたし」
「悪いな」
「気にすんなって、どうせ明日大学休みだろ」
彰人に勧められるまま、二杯目を作ってもらう。慣れた手つきでステアする彰人を見て、そういえば少し前まで居酒屋でバイトしていたなあとぼんやり思い出す。いつも缶のお酒ばかり買っていたけど、たまにはこうやって作ってもらうのもいいかもしれない。
「ん、美味しい」
「そりゃよかった。本当は生クリームとか入れても美味いらしいけど、お前には甘すぎるだろ」
「そうだな……ふふ、彰人は俺のことなんでも知ってるな」
「当たり前だろ」
「そうだな、彰人は俺のこと大好きだから、なんでも知ってくれているんだな」
そこまで言ってまたグラスが空になっていたことに気がついたから、彰人におかわりを作って欲しくてグラスを差し出す。
「彰人? 顔が赤いがもう酔ったのか?」
こちらに目を合わせようとせずに、グラスを受け取った彰人の顔が耳まで真っ赤だから、心配になって声をかけたのに彰人はこっちを見ずにあーとかうんとか、言うだけだった。
「彰人、なんでこっちを見てくれないんだ」
また、カルアミルクで満たされたグラスを渡してくれたけれど、彰人はやっぱり、こっちを見てくれない。さっきまでは普通に話していたはずなのに、どうして急に。
「彰人、俺を見てくれなきゃ、さみしい」
さみしいのだと自覚した途端、さっきまで美味しかったはずのお酒が、味気なく思えてきた。彰人がせっかく作ってくれたのに、さみしくて仕方ない。だけど勿体ないから、口をつける。美味しいのに味気ないのはきっと、もっと美味しいものを知っているからだ。
「彰人、キスしてくれ」
「は?」
「お酒より、彰人とのキスのがおいしいから」
グラスを置いて、彰人に近づけばやっと目が合った。やっぱり顔が赤い、そんなに度数の高いお酒を、飲んでいたのだろうか。
「キスしたい、ダメだろうか」
「あー……こんなに酔わせるつもりじゃなかったんだけど……」
「なんの話だ?」
「据え膳を食うかどうか悩んでんだよ」
「食べてくれないのか」
「お前、据え膳の自覚はあるのかよ」
「キスは?」
「……後から怒んなよ」
「ん、明日休みだからだいじょうぶだ」
「そうじゃなくて……いっそ記憶なくすくらい抱いてやったほうがいいのか、これ……」
ごにょごにょ繰り返す彰人に、男らしくないぞと言えば、そんな可愛い酒飲んでるお前もだろと返された。可愛いのか、これ。
「それで、キスは?」
「はいはい、マジで明日怒んないでくれよ……」
そう言って、彰人がやっとキスをしてくれた。彰人が飲んでいたチューハイの、レモンの味がコーヒーを上書きしていく。初めて交わしたキスも、こんな風だったなと思うと懐かしくて、もっとしたいと思った。
(210627)
季節遅れのぬくもり
七月に入り、真夏日と呼ばれる日が観測される機会が増えた。神山高校では各教室冷暖房が完備されているが、使用権限は教師が持っている。寒がりな先生の授業の時は環境に配慮した温度のままか或いは付けないという選択肢もあるため、猛暑日が続くような時期になると生徒から不評を買うこともあるようだ。そして今、冬弥がいる一年B組の教室で教鞭を執っている男性教師は、授業のために入室したらまず冷房のタッチパネルを操作した。数分もしないうちに、冷たい強風が教室に吹き付ける。冬弥の席は真ん中の列の後ろから二番目、そこはちょうど冷房の真下であった。これでは涼しいと言うより、寒いの域だった。とはいえ授業中にジャージを羽織るわけにもいかず、冬弥は時折半袖のシャツから露出した白く細い二の腕を擦り暖を取ろうとしたが、勿論大した効果は得られない。結局授業開始から十五分後、冬弥の斜め後ろの席の女子生徒が先生寒すぎますと提言したことにより、男性教師は漸く温度設定を元に戻してくれた。直後彼女は冬弥のほうを見て大丈夫? と聞いてきたから、きっと自分を気遣って発言してくれたのだと冬弥は悟る。数回頷いて口パクでありがとうと伝えれば彼女は満足そうに笑った、そういえば彼女は学級委員だったなと穏やかになった風に前髪を揺らされながら冬弥は思い出していた。
「冬弥、昼飯……って、お前唇の色悪いな」
多少マシになったとはいえ一時間近く冷風を浴び続けた冬弥の身体は、すっかり表面上の熱をなくしていたらしい。昼休憩に入り隣のクラスからやって来た彰人はクラスメイトの女子に話しかけるその横顔を見るなり、目を見開いた。ただでさえ白く血色がいいと言えない冬弥の肌から、血の気がすっかり感じられなくなっていたのだ。慌ててその頬に触れれば、自販機から出てきたばかりのペットボトルにも劣らない冷たさで、彰人は少し考えるとちょっと待っとけと教室を飛び出した。残された冬弥は、自分の手の甲をついさっき彰人に触られたところに当てる、言われてみればだいぶ冷たいような気がした。
「それ着とけよ」
「これは……彰人のパーカーか」
「ちゃんと洗濯してるから、安心しろ」
「そこは心配してないが……いいのか、借りても」
「いいから持ってきてんだろ、そんな寒そうなの無視出来ねえよ」
彰人は冬弥の机の上に出されたままになっていた英語の教科書を見て、ああアイツかと一人納得した。C組の英語も受け持っている彼は、確かに冷房をがんがんに効かせるタイプだと彰人も記憶していた。夏季の昼休憩中の冷房は集中管理で全教室一律28度の弱風になるよう設定されているため、飯を食ってパーカーを羽織らせておけば少しは体温も回復するだろうと考えながら、彰人はいそいそとグレーのパーカーを羽織る冬弥を見守る。冬服期間はブレザーの下に着込んでいたそれを今日持ってきていたのは、本当にたまたまだった。放課後にあるサッカー部の他校との練習試合に助っ人として誘われていたから着替えを一式入れたのだが、何故か一緒に入れてしまっていただけのことだった。登校してからそのことに気がついた時、どうりでやたらリュックの中身が嵩張ると思ったと彰人は自分のうっかりに溜息を零したのだが、まさか役立つとは。
「ありがとう、汚さないように気をつける」
「いいよ別に、安いやつだし」
「そういうわけにもいかないだろう」
冬弥はやたら丁寧な手つきで、少しだけ腕を捲る。暖を取るために羽織らせたのにそれじゃ意味ないだろうと彰人は言いそうになったが、多分譲らないのでやめておいた。出遅れたが二人揃って購買へと向かう、廊下には冷房設備がないからムワッとした熱気が立ち込めていた。暑くないかと彰人が冬弥に聞くと、冬弥は小さく首を横に振る。冬弥には寧ろ、ちょうどいいくらいだった。
「あれ、青柳がパーカーとか珍しいな」
「暑くないのかそれ、もしかして体調悪いとか?」
「いや、俺が寒がっていたから彰人が貸してくれたんだ」
声をかけてきたクラスメイトに冬弥が、心配してくれてありがとうと続けて返せば、彼らの視線はその隣の彰人へと移っていた。そこに好奇の色が含まれていることを察した冬弥は、自分が変なことを言っただろうかと不安になる。
「どうしたんだ、一体」
「なんでもねーよ、いくぞ冬弥」
捲ったことで見えている手首を掴み、彰人は廊下をずんずんと歩く。何が何だか分からない冬弥の背中に、誰も取ったりしないから安心しろよー! と、クラスメイトの声が届いた。
(210710)
ボクらのありきたりでちょっとだけ特別なある日の話。(未来捏造)
大学の用事で郵便局に寄らないと行けなくなった帰り道のことだった。この辺りに住み始めてそろそろ半年になるけどちょっとした商店街のようになっているこの通りを通るのは初めてのことで、明らかにこの空気に馴染めていない余所者の俺にも威勢のいい声で声を掛けてくるお店の人たちに擽ったい気持ちになりながら、興味本意でふらふらと店先を見て回る。もうすぐ商店街の終着点のゲートが見えてきた辺りに、花屋さんがあった。他の、よく言えばレトロで趣のあるお店とは違い、そこは現代的な見た目をしていて周りより浮いて見えた。ショーウィンドーのような、ガラス張りのケースの中に飾られていた花のうち一際俺の目を惹いたのは、大ぶりではないものの鮮やかなオレンジ色の花びらがフリルのようになっている花だった。彰人の髪の色みたいだと眺めていれば、ふと彰人に花を贈ってみたいと思い付いた。思えば息苦しさを感じていた実家にも、たまに食卓や玄関に花が飾られていることがあって、そういうのを見るとほんのちょっとだけ心が安らいだ記憶がある。彰人との二人暮らしに息苦しさなんて無縁だけど、でもたまにはこういうのを飾るのもいいかもしれない。彰人が気に入らないのなら、俺の部屋にでも飾ればいいのだし。そこまで考えてタイミングで、奥から出てきた若い女性の店員さんに声を掛けられた。家に飾れるくらいの小さなブーケが欲しいと言えば、何かお祝い事ですかと尋ねられた。そういうわけじゃないのだと首を横に振れば、店員さんは一層笑みを深くした。
「なんでもない日にお花を贈りたくなるなんて、素敵なご関係なんですね」
そう言われて、照れ臭くなった。俺を中に案内してくれた店員さんは、物腰は物腰は柔らかなのに俺の抽象的な注文に合わせててきぱきと店中を動き回る。数分後には、さっき目を惹いたオレンジ色の花――マリーゴールドと言うらしい、聞いたことはあった――を中心とした大きすぎない花束を作ってくれた。これなら片手で持てそうだし、たとえ俺の部屋に飾ることになっても存在感がありすぎるということもなさそうだった。料金を払うと、これはサービスですと花束と大きさの変わらない箱を貰った。その花束を生けるのにちょうどいい大きさの花瓶ですよ、と付け加えられ有り難くいただくことにした。彰人と俺の家には花瓶なんてことを、俺は今ここで思い出したのだ。
***
遠回りをした上に買い物までしたから、俺がマンションに着いたときには三階の真ん中の窓にはもう明かりがついていた。慌ててトートバッグからスマホと持ち出せば、夕飯作ってるからなんも買ってくるなよ、とメッセージが入っていた。確かに今朝大学に行く前に、今日は早上がりだから夜は一緒に飯食えるからと声を掛けられた、こんなに早い帰りだとは思っていなかったけど。いつもなら今から帰ると連絡するのに、お花を買ってしまったことに浮かれていたのかその事をすっかり忘れていた。小言を言われるだろうなと思いながら、花瓶の入った箱を落とさないよう慎重に階段を上っていく。持ったままだったスマホを仕舞い、代わりにデニムのポケットに入れていた鍵を取り出した。彰人とお揃いの鍵を、俺はこの六ヶ月間見る度に心がむずむずしている。大切な彰人と一緒の家で暮らしているだなんて、実はまだどこか夢のようだと思っていた。
「ただいま、彰人」
鍵を開けて入った玄関にはもう、いい匂いが漂っていて今日の夕飯がお肉のメニューだとすぐに分かった。焼いているところなのか、いつもなら聞こえてくるおかえりが今日はなくて、少し寂しい。彰人のも一緒に靴を端に並べてから、廊下を歩いて自分の部屋に荷物を置いて、手に持っているのが花束だけになったとき、なんだか急に緊張してきた。浮かれて勢いのまま買ったはいいけれど、本当に彰人が喜んでくれるだろうか。花なんて興味ないと言われたら、いくら俺でも多少は傷ついた気持ちが顔に出るかもしれない。廊下で立ち尽くす俺の耳に、ドアの向こうのリビングから足音が聞こえてくる。
「悪い、気付かなくて……どうしたんだ、それ」
「えっと……買ったんだ、俺が」
「わざわざ?」
「ああ……おかしいか?」
「いや、考え被ったなと思って」
「被った?」
彰人の言わんとすることが分からず聞き返せば、彰人はくくくと喉を鳴らして笑う。そのまま花束を持っていない方の腕を引かれて、リビングへ連行される。いつも俺が腰かける席に、薔薇の花束が置かれていた。俺は自分が買ってきた花束をテーブルに置き、先客を観察する。作り物ではない、瑞々しい薔薇だった。
「これは……確かに被ってしまったな」
「大きさは全然違うけどな」
「そうだな……俺は今日どこでご飯を食べればいい?」
「ああ、一旦退かすから待っとけ」
こんな偶然が重なることなんてあるんだなと思っていれば、彰人がほら、とその薔薇の花束を差し出してくる。
「なんだ?」
「お前へのプレゼントだから、これ」
「……俺に」
「お前にやらねぇもん、持って帰って来るわけないだろ」
「それもそうだな……ありがとう、彰人」
「おー……似合うな」
「そうだろうか? さっきの彰人も、似合っていたぞ」
「それは流石にあり得ねえだろ」
さっきも花屋の人に笑われたし、と自嘲ぎみに言った彰人はキッチンに戻っていく。お洒落なシャツの上に、俺のあげたシンプルな黒のエプロンを身に付けている姿は俺から見れば世界で一番カッコいいのだから、薔薇が似合ってもおかしくないのだが。花が散っては大変だから、少し距離をとってキッチンの中を覗き見る。メインディッシュはチキンステーキ、ローストビーフのサラダとここからだとなんの魚か分からないがカルパッチョもあるらしい。
「随分豪華だな」
「デザートもある、前にお前がここのなら甘くないっつってた店のケーキ」
あまりにも豪華すぎると思った。彰人は気まぐれにケーキを買ってくることは多々あるけれど、夕飯が豪華なことなんてそれこそ数ヵ月前の俺の誕生日くらいだった。壁掛けの電波時計についているデジタル文字盤に表示された日付は間違いなく今日だけど、俺はこの日付に思い入れは一切ない。腕の中の豪勢な薔薇の花束と、愉しげに料理を盛り付ける彰人の横顔。温かで嬉しい光景の筈なのに、今日と言う日に対する認識のズレが明らかに存在していて、それがどこか俺をその光景から遠ざけようとしているように感じた。
「……彰人」
「ん? どうしたんだよ?」
「こんなことを言うと彰人を傷付けてしまうかもしれないが……今日は一体、何の日だろうか?」
彰人の顔一杯に広がっていた喜色が、一瞬で弾けてしまったのが分かった。ああやっぱり、言わずに彰人に合わせておくべきだっただろうか。いや、それではいずれ彰人にバレていた、こんな顔にさせるのが早いか遅いかだけの違いだっただろう。
「……おかしいと思ったんだよな」
「え?」
「誕生日にみんなでパーティー開いてやっただけでも戸惑ってたような奴が、わざわざ気を利かせて花買ってくるわけないって」
彰人はそこまで言うと、持っていた菜箸を置いて冷蔵庫の扉に手をかけた。さっき言っていたケーキを取り出すのかと思いきやそうではなくて、何か小さな板のようなものだった。
「これは……ホワイトチョコか?」
「そ。売ってたの買ってきて、その文字は俺が自分で描いた」
『HALF ANNIVERSARY』と書かれた文字をそのまま音読して、もう一度電波時計を見る。確かに俺たちがこの決して実家より広いとは言えない2DKに越してきたのは、六ヵ月前の今日だった。なんとなく、何ヵ月過ぎたなと思うことはあったけど、言われるまで日付単位で意識したことはなかった。
「すまない、覚えていなくて……」
「いいよ別に、オレもサプライズのつもりで黙ってたんだし」
「……俺は本当にお祝いのつもりでもなんでもなくて、たまたま通りがかった花屋さんで彰人みたいな花だなと思って、それで」
「オレみたい?」
「ああ、綺麗なオレンジで華やかで、ちょっとかわいい」
「おい、最後の一言は聞き捨てならねえんだけど」
不機嫌そうにそう言い放った彰人は、だけど怒っているようには見えなかった。俺がしたことは、記念日をお祝いするつもりだった彰人にとっては裏切りに等しい筈なのに。もう少し怒られるかと思っていた俺は、拍子抜けする。そんな気持ちが顔に出ていたのか、彰人が吹き出して笑う。
「いいんだって、オレが勝手に浮かれてやったことなんだから冬弥が凹む必要はねえよ」
「だが、」
「オレが喜んでんだから、それでいいだろ」
「本当か?」
「まあ、かわいいって言われたのは癪だけど……お前がオレのこと想って選んだもの貰って、嬉しくないわけねえだろ」
少しぶっきらぼうにそう言ってくれた彰人は、優しい顔で俺の買ってきた花束を見つめていた。さっき花屋さんで店員さんに言われた言葉を思い出す、プレゼントのタイミングに正解はない、相手が喜んでくれるかどうかが大切なのだろう。俺も、彰人が俺を想って選んでくれた薔薇に視線をやる。二十四本の薔薇を見て、いつか聞いた逸話を朧気に思い出した。
「薔薇の花束は本数に意味があると聞いたことあるが、これはどういう意味なんだ?」
「あー……まあ、あとで教える」
先に飯食おうぜ、と呼び掛けられこの花束をどうすればいいのか聞けば、彰人はまたあー……と唸る。もしかして花瓶がないのかと尋ねれば、とうとう彰人は押し黙ってしまった。
「彰人、明日の仕事は早いのか?」
「いや、特別早いってことはねえけど……」
「じゃあ夕飯を食べたら花瓶を買いに出掛けよう、すぐそこのホームセンターは遅い時間まで開いていたはずだ」
「そうだな、そうするか……全然そんなこと、考えてなかった」
「そういうのは俺が考えるから、大丈夫だ」
音楽以外の趣味はあまり被っていないし、得意なことも苦手なこともちぐはぐな俺たちだけど、だからこそ一緒にいる意味があるのだと思う。豪華な料理、シンプルなインテリアの中で少し浮いて見える赤とオレンジの大小異なる花束、そして彰人の笑顔と優しい声。些細な特別と大切な当たり前に囲まれながら、俺は彰人にあわせていただきますと口にした。
(210719)