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    2022/06/25 16:01:33

    彰冬まとめ③

    Pixivから移植
    21.8~21.12


    #彰冬

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    彰冬まとめ③メインディッシュはプラチナ色消えないで、夏。今日からぼくらはアメフリ幸福論我慢は蜜か毒かオネダリ上手かな?おててつないでうたおうか魔法使いさんのはじめての呪文namelessname of LOVE約束のベゴニア見ざる聞かざる言わざる熱がこもって仕方ない挑発したのはどっち?バグ、獏、はく鬼も微笑む幸せメインディッシュはプラチナ色(やることやってる雰囲気はあるけど全年齢)


     ちょっとした賭けのつもりだった。
    「今日中に英語の課題を全て終わらせられたら、ご褒美を用意している」
    「珍しいな、そういうこと言うの。ちなみにご褒美って?」
    「……俺、でどうだ」
    「ふーん……いいぜ、土壇場でやっぱナシは許さねえからな」
    「勿論だ」
     夏休みも半分過ぎたというのに手付かずの課題のほうが多いという彰人と白石を見かねて、今日の練習は中止にして朝から近所の図書館にやってきている。聞けば、どうやら先週確認した時からほとんど進捗が見られないからさすがに溜息をついてしまった。苦笑いする彰人に、俺は形ばかりのグーパンチをお見舞いしてからどうするべきか考える。やれば出来る奴だからやる気にさせればいいんだろうけど、そのやる気が持続しない。一度あまりにもテスト勉強に身が入っていない彰人を叱ったことがあるが、その後しばらく二人の間の空気が悪くなって小豆沢にすごく心配されたから出来ればそういうことは避けたい。残っている課題のうち、苦手だと自負しているらしい英語だけでもなんとか自分が見てあげられるうちに終わらせたいと更に悩み続けること数分、これ以上の案はないだろうと使いたくなかった切り札を使うことにした。
    『こはね~このテスト頑張ったらなんかご褒美くれない? そしたら私、ちゃんと頑張るから!』
    『ご褒美? うーん……例えば、一緒にラムレーズンアイス食べに行くとか?』
    『そーいうのでいいから!』
    『じゃあ杏ちゃんが古典のテストで80点以上取れたら、一緒に行こうね』
    『ありがとうこはね! 地味にハードル高いけど……頑張る!』
    『うん! 私も一緒に頑張るね杏ちゃん!』
     夏休み前の期末考査、相変わらず崖っぷちだという白石が小豆沢にこんなお願いをしていた。それを傍から聞いていた時は小豆沢になんのメリットもないんじゃと口を挟もうとしたが、そのあと白石はとても真剣にテスト勉強に取り組んでいたし、その結果あんなに苦手だと嘆いていた古典のテストで90点以上を取れたと語っていた。つまり、必要以上に練習時間を削らずに済んだため小豆沢にも一定のメリットがあったというわけだ。ただ、一回限りしか効果がないかもしれないということと、彰人が喜びそうな『ご褒美』がいくつも思いつかなかったことが理由でそう何度も使える手ではないと思っている。そして俺に対するメリットも最大限にしたくて、自分を褒美に位置づけてしまった。彰人の食いつきは白石ほどではなかったが、さっきまでしていためんどくさいですって顔ではなくなった。俺がご褒美でも頑張れるってことなのか、それはちょっと嬉しいかもしれない。彰人が俺にどんなことを強請るのか、それはほぼ俺にとっても嬉しいことの筈だからと俺も教えるのに精が出る。
    「あー疲れた……もうアルファベット見たくねえ……」
    「お疲れ、彰人」
    「お前も悪かったな、付き合わせて」
    「俺は好きでやっているから、気にしなくていい。自分の分も進められたしな」
     途中で昼食を食べに離席した時間もあったが、閉館時間までに英語の課題一式と途中で投げ出したという地理の調べ学習まで終わらせることが出来た。へとへとになっている彰人を労いつつ、日頃から少しでいいから着手すればまとめてやる必要は無いと説けば、へーへーと覇気のない返事をされる。
    「彰人はやれば出来るんだから、勿体ないぞ」
    「そりゃどーも……ところで今朝の約束、忘れてないよな」
    「わ、すれてない、ぞ」
    「ならよかった。早速だけど明日、お前の一日貰っていいか」
    「……そのために頑張った、のか」
    「当たり前だろ、お前滅多にそんなこと言わねえし」
    「しょっちゅう使ったら、切り札にならないだろう」
    「なんだよ切り札って……まあいいや、明日なんも食べないで来いよ、約束だからな冬弥」
    「わ、分かった」
     彰人はそれだけ言うと、さっさと机の上のプリント類を集め始めたので俺も自分の参考書やノートをまとめる。だけど内心ドキドキしていて、きっと顔が真っ赤だろうなという自覚があった。何も食べてくるなと言われたら、期待してしまう。彰人とそういうことをするとき、彰人は優しいから事前にいつなら空いてると教えてくれる。それに合わせて俺はご飯を食べないようにして、前準備に時間がかからないようにしていた。そのことを彰人は知っているから、多分さっきのはそういう意味なんだと思う。ご褒美は自分なんて軽々しく言ってはいけないと反省したいのに、こういうおねだりを期待していたのも事実だから結局それ以上何も言えず、夕飯も食べる量を減らしておこうとだけ騒がしい胸のうちに留めておいた。
     それなのに。
    「……ここは?」
    「見て分かるだろ、スイーツバイキングの店」
     だから何も食べてくるなと言ったのかと、理解はしたけど納得は出来なかった。あれだけ思わせぶりなこと言っておいて、なんてお前が勝手に思い込んでいただけだろうと返されればその通りなので何も言えないまま入店する。なんでもこのお店の割引券を持っていたお姉さんが、『修羅場』と重なってどうにも期間内に行けそうにないからと譲ってもらったらしい。修羅場、と聞きなれない表現に一瞬驚いたが、確か彰人のお姉さんは絵を描かれていると言っていたから多分それに関することなんだと思う。外見もなかなかだったが、中はもっと女の子が好きそうな雰囲気でちょっと落ち着かない……いや、落ち着かない原因は他にあるが。
    「彰人、こんなに可愛らしいお店に男二人で入っていいのだろうか……白石や小豆沢のほうが、」
    「甘いもん食いたいのに性別は関係ねえし、オレはお前と来たかったから連れてきたんだよ」
     猫の耳が象られた椅子に腰掛けた彰人は早速店員さんを呼び、バイキングのコースを注文していく。あの爽やかな好青年スマイルで対応するところはいつ見てもいつもの様子とちぐはぐで、いつもなら可笑しくて笑ってしまうのに今日の俺にはそんな余裕がなかった。
    「冬弥、ケーキ選びに行くぞ」
    「あ、ああ……というか、甘いのがあまり好きじゃない俺を連れてきても楽しくないだろう、なんで俺なんだ」
    「さっきも言っただろ、割引券がペアじゃないと使えないのとただ単にお前と来たかっただけなんだって」
    「そうは言われても……」
    「やっぱナシはナシって約束だろ」
    「ま、まあそうだが」
    「ここ、コーヒーもかなり種類あるから色々飲んでみろよ。オレ、あっちのコーナー行くから」
    「ああ、分かった……」
     勧められるがままドリンクバーにやってきたけれど、正直彰人の真意が分からなくてどれも美味しそうに見えない。もしかして彰人は、俺がご褒美っていうのを本当は気に入らなかったんじゃないだろうか。だから俺が絶対に喜ばないお店にわざわざ連れ出したのかもしれない。そもそも彰人へのご褒美なんだから、俺が喜ぶ必要はないのにすごく厚かましいことを考えていたのだと気付かされた。彰人の課題がだいぶ片付いた、それだけで充分俺にとってもメリットがあったじゃないかと言い聞かせてマグカップを二つ手に取る。先に注いだスッキリした苦味が特徴だと書かれたコーヒーにはシュガーを一本入れて、自分の分は強い酸味が癖になると説明されているものをブラックで淹れた。零さないよう慎重に歩いて戻ってきたテーブルの上には、たくさんのケーキが所狭しと並んでいるお皿が一つ取り残されている。多分、一度彰人がいっぱいになったお皿を置きに戻ってきたんだろうと想像出来た。ここからだと少し遠いフルーツコーナーにいる欲張りな彰人の姿にくすりと笑って、帰ってくるのを待つ。色とりどりでキラキラしているケーキたちは、俺とは違って彰人のご褒美になれたのだから心底羨ましい。
    「……どれか気になるのあるなら、食っていいけど」
    「っ、おかえり彰人」
    「気づかねえくらい気になってたのかよ」
     食べれそうなの探しに行くか? と気を使ってもらったけど断って持ってきたコーヒーに口をつける。まさか、ケーキが羨ましくて怨みがましい気持ちで眺めてましたなんて、言えない。向かいの席に座った彰人は俺の返事を予想していたのか気にした様子もなく、手を合わせてからフォークに手を伸ばす。
    「フルーツくらいなら食えるだろ、好きなの取れよ」
    「ああ、ありがとう」
     バイキングだからか小さめのケーキが多いようで、彰人はパクっと一口で食べては満足そうに頬を緩ませて次のケーキを悩むのかお皿の上で目線が泳ぐ。甘いものが好きということを初め恥ずかしがっていたのに、こんなにも堂々と食べるようになった彰人を見るとそれだけ長い時間を過ごしてきたんだと感慨深くなる。
    「彰人は、イチゴを最後に食べるほうなんだな」
     正方形のミニケーキを五つ平らげた彰人が次に選んだのは、よくお店で見るような三角形のショートケーキだった。真っ白な生クリームの上に飾られた眩しい赤色のイチゴを、彰人は真っ先にお皿に下ろしてからスポンジにフォークを差し込む。
    「まあな、好きな物は最後まで取っておく方なんだよオレは」
    「そう、なのか」
    「覚えとけよ」
    「ん、分かった……?」
     ここまで念押しされることかはさておき、彰人のことを知りたいというのは確かなのでしっかりと記憶しておく。俺が頷いたのを見た彰人は、一口大に切り分けたスポンジを俺に差し出した。
    「そんなに甘くないから、一口だけ」
    「……もしかして退屈そうに見えているだろうか」
    「別にそういうわけじゃねえけど、共有したいだろこういうのって」
    「それも覚えてるほうがいいことか?」
    「だな。ちなみにお前が好きな物も共有したいとも思ってる」
    「勉強って言ったら?」
    「あー……まあ、考える」
    「そこは頑張ると言い切ってほしかったんだが」
    「……やっと笑ったな、冬弥」
     自分はそこまでつまらなさそうだったかと謝ろうと開いた口に、無理やりスポンジを押し込まれる。彰人の言う通りさっぱりとした甘さのクリームは、間に挟まれたイチゴの甘酸っぱさとよく調和が取れていた。
    「悪いな、オレの我儘に付き合わせて」
    「いや、ご褒美をやると言ったのは俺のほうだからそこは別に構わないんだが……」
    「あっちに軽食っぽいパンケーキもあるし、これ食べ終わったら取りに行くか」
    「そう、だな……うん、そうしよう」
     よく考えれば、バイキングに連れ出すから朝食を抜けと言われたのだから食べたっていいだろう。実は朝のうちに少し準備をしてはいたけれど、言わなければ彰人は分からない筈だから。お腹が空いて調子が悪かったのだと説明すれば、きっと彰人に気を遣わせることもない。スポンジを全て食べきった彰人は漸くイチゴを食べる、その動作がやけにゆっくりに見えた。
    「……冬弥、最近頑張ったことってあるか?」
    「頑張ったこと?」
     フォークを一旦置いた彰人は、後から持ってきたお皿に盛られたフルーツの山からオレンジを一切れ選んで皮を剥きながら唐突に質問してきた。
    「テストとか、宿題とか、色々あんだろ」
    「テストも宿題も頑張ってやることではないだろう、学生の本分なんだから」
    「う……じゃあ他は?」
    「頑張ったこと、か……」
     強いて言うならば、ご褒美は自分だと宣言する時はすごく緊張していたから頑張っていたのかもしれない。それを直接本人に言うのは憚られたから、他に何かないか考える。考えている間に彰人はさっきのオレンジに加えて、さくらんぼを一房とブドウを三粒くらい食べていた。
    「……早起きくらいしか思いつかないな」
    「意外と寝汚いもんな、お前」
    「む……否定は出来ないな」
    「それでいいか、頑張ったこと」
    「……?」
     そういえば、彰人はどうしてこんなことを聞いてきたのだろう。分からないままじゃあそれでと返せば、彰人は脇に置かれていた紙ナプキンで軽く手を拭いてから俺の髪をかき混ぜるように頭を撫でてきた。
    「あ、きと?」
    「頑張ってるとーやくんには、ご褒美やんねーとな」
    「……何をくれるんだ?」
    「お前が望むもんならなんでも用意してやるよ」
     何がいい? と尋ねられ、言っていいのか悩む。なんでも、とオウム返しすると、なんでもいいぞともう一度言われたから、意を決した。
    「彰人、が、ほしい……」
     素直にそう口にした瞬間、彰人はケーキを食べていたときよりもにんまりと笑みを深くしてまた俺の頭を乱暴に撫でてきた。どうしていいか分からず大人しく撫でられていれば、でもなと急に真顔に戻るから少し身構える。
    「オレもまだご褒美貰いきってねえから、それはまた今度な」
    「それは、どういう意味だ」
    「さっき言っただろ、好きな物は最後に食うタイプなんだよオレは」
     するりと、彰人の人差し指がこめかみを伝って俺の顎をなぞる。そのあと向けられた、あの悪い顔を見て全てを察した。
    「お、……」
    「お?」
    「おいしく、食べてくれるか……?」
     期待を込めて一言喰らわせれば、彰人はちょっと歯軋りしてから帰ったら覚悟しとけよと呟いたからああパンケーキはお預けだなと思った。


    (210810)

    消えないで、夏。

    「そういえば、この前の夏祭りは花火が上がらなかったな」
    「立地的な問題だろ、あんな街中でやる祭りじゃ花火の打ち上げ台も近くにセット出来ないだろうし」
    「確かに、彰人の言う通りだな」
     何かの本を読んだのか、冬弥は唐突に先日二人だけで参加した夏祭りの話を持ち出してきた。あの日は絵名に貸しを作る羽目になったり暁山や桃井さんたちに振り回されたりして散々だったが、夏祭りに行くのが初めてだと話していた冬弥が終始楽しそうだったから全部許した。
    「……ちなみに花火大会に行ったことは」
    「実際にはないな、テレビのニュースで特集しているのを見たことがあるから存在は知っているが」
    「まあ、だよなあ……」
    「夏祭りといえば花火というイメージがあったからこの前見れなかったのは少し残念だったが、理由が分かってスッキリした」
    「じゃあ、さ、今度は花火も上がる祭り、調べといてやるよ」
     時間が合えば行かないかと誘えば、冬弥はあのときみたいにキラリと目を輝かせて、それから行きたいと言いながら二回大きく頷いた。最近の冬弥はリンとレンに感化されたのか、やたら好奇心が旺盛な気がする。こういうちょっと無防備にも思える表情を見ることが出来る奴が増えるのはちょっと癪だが、冬弥が楽しそうなら俺も嬉しい。この前二人きりで回れなかったということもあるし、何より打ち上げ花火をこのキラキラした目で見つめる冬弥を隣で見つめる権利を誰にも渡したくなくて、オレは早速その手の情報サイトを検索することにした。
     のだが。
    「……悪ぃ、冬弥」
    「彰人は悪くないだろう、たまたま今年はタイミングが合わなかっただけだ」
     夏休みということで普段よりも多くのイベントにエントリーしていたから、近隣で花火大会のある日はほぼこちらのスケジュールが押さえられている状況だった。それでも偶然予定のない日が二日ほどあったが、天候に恵まれず両日とも中止になってしまったのだ。情けねえと肩を落とすオレを慰める冬弥も、やはり心做しか残念がっているように見えた。今日も少し先の海水浴場があるところで花火大会があるようだったが、イベント終わりの今から向かっても電車を乗り継ぎしている間に終わってしまうだろう。アンコールさえ無ければ、とは思わない、あの熱狂の渦に呼ばれているのに飛び込まないなんてパフォーマーとして失格だということはお互いの共通認識だから。だけどやっぱり、冬弥に夜空を埋めつくさんとする大輪の花々を見せてやりたかったと思ってしまう。
    「実は、俺は手持ちの花火というのもやったことがないんだ」
    「……火傷したら、不味いから?」
    「その通りだ、だから彰人さえよければ今から、」
    「やろうぜ冬弥、ちょっと電車乗れば花火出来るところ、オレ知ってるから!」
    「あ、彰人!」
     冬弥の右の手首を掴んで、走り出す。まだ小学生の頃に所属していたサッカークラブの合宿で、最終日の前夜に監督とコーチが思い出作りにとみんなで近所の河原で花火をしたことがあった。あれ以来行ったことはないけれど、ルールが変わっていないことを願って必死に一番早く着く路線を考える。途中後ろを振り返れば、冬弥は息を弾ませながら困ったように笑ってオレと目を合わせた。その顔をもっともっと笑わせてやりたいと、オレは踏み込む足にさらに力を込める。冬弥のはじめてを知る機会は、オレが作りたい。そんなエゴを抱えながら、夏の生ぬるい空気を切りながら駅を目指した。
    「彰人、九時までは大丈夫らしい」
    「じゃああと三十分くらいか……先に水道に行くぞ」
    「ん、分かった」
     公園の目と鼻の先にあるコンビニは気が利いていて、花火とバケツとチャッカマンのセットが売られていた。電車に揺られながらロウソクとかバケツとかないとやばいよなと考えていたオレにとって、嬉しい誤算だった。蛇口を全開まで捻って、素早くバケツの三分の二を水で満たす。川がすぐ近くにあるからか、駅周辺よりは若干涼しいけれどほぼ無風だから汗臭さは誤魔化せそうにない。火が着けにくいよりはマシかと言い聞かせて、隣の涼し気な顔でだけど目だけはしっかりと輝かせて一番安かった花火セットの中身を眺める冬弥に声をかける。
    「好きなの出せよ、火ぃつけるから」
    「えっと……じゃあ、これで」
    「その紙縒りになってる方こっち向けろ……もうちょっと上の方持てって、マジで火傷するからな」
    「ふふ、彰人は過保護だな」
    「茶化すなよ……よし、着いたな」
     先端を少し燃やされた花火は、みるみるうちにホースから出てくる水のように火花を散らし始める。赤から青に変わるそれが、冬弥の真っ白な肌とキラキラ光る瞳に反射して、走った甲斐があったなあと思わせてくれた。一分もしないで燃え尽きたそれをバケツの中へ放るように言えば、冬弥は名残惜しそうに眉を下げるもんだからまだ残ってるだろうと顎で後ろの花火の山を指す。
    「でも、やっぱり寂しいな」
    「そういう感想は線香花火するときに言うんだよ」
    「そうか、気をつける……俺も、彰人の花火に火をつけて構わないだろうか」
    「お前、チャッカマンの使い方とか知ってんの」
    「さっき彰人が着けるところを見ていたから、分かる」
     じゃあと持っていたチャッカマンを手渡して、俺も適当に一本選びとって冬弥が火をつけやすい位置に差し出す。テストで数回カチャカチャと火をつけた冬弥は、ようやく着火口をこちらへ向けた。その姿がどうにも似合わなくて、俺は笑いを噛み殺す。
    「……おお、着いた」
    「上手いじゃん、冬弥」
    「少し怖かったが、上手くいってよかった」
    「今度はここから火ぃ貰えよ、そっちのが手間が省ける」
     もう一本手に取った花火を、冬弥に着火してもらった花火に近づけて火を移してみせれば、意味を理解したらしい冬弥が新しい花火を持ってオレに近づく。
    「綺麗だな、彰人」
    「……そーだな」
     お前の方が、なんてあまりにベタすぎて口に出せないけど、でも花火に照らされて満足そうに口角を上げて笑う冬弥以上に綺麗なものをオレは知らない。多分、オレが冬弥のことを好きな限りそんなものは見つけられないと思う。
    「ありがとう彰人、俺の我儘に付き合ってくれて」
    「別に、こんなの我儘でもなんでもないだろ。オレも楽しいし、気にすんなよ」
    「そうか……来年こそは、打ち上げ花火が見てみたい」
    「早めに探しとくか、いつやるのか」
    「そうだな、今度は俺も探すのを手伝おう」
     当たり前のように来年の約束を交わして、オレたちはしばし童心に返って──冬弥の場合は初体験だから、少し違うかもしれないけど──花火遊びに興じた。さっきまで反響のすごいライブハウスやら人口密度の高い電車の中にいたせいか、花火の立てる音はすごく大人しく聞こえて、だけどチカチカと明滅する火花はライブハウスの照明に負けないくらい眩しくて。
    「彰人、楽しいな」
    「そりゃよかった」
     冬弥が傍に居るだけでなんでもないようなことが特別に思えるなんて、ちょっと恥ずかしいけれど、だけど最高に幸せだと思ったから、手元の火が消えた瞬間オレも少し寂しくなった。

    (210814)

    今日からぼくらは(高校卒業後進路捏造)


     実は、彰人に手伝ってもらいたいことがあるんだ。
     オレの作ったカレーを平らげたあとそう言ってきた冬弥に、なんの躊躇いもなく頷いたのはもうすぐ冬弥が二十歳の誕生日を迎える初夏の晴れの日のことだった。断られるとも想像してないくせに、オレが頷いたのを見た途端嬉しそうな顔をする冬弥は重たそうなキャンバス地のトートバッグからクリアファイルを持ち出した。いつも冬弥がスコアを持ち運ぶのに使っているものとは違う、色もついていない透明なファイルから覗くのは『駅から徒歩十分』『家具家電完備』といった二年くらい前に自分がいやというほど検索した言葉たちだ。探した結果手に入れた自分だけの城が、この1DKだった。
    「冬弥、お前もしかして」
    「ああ、父さんから許可が下りたから一人暮らしを始めようと思う」
     そう言って微笑んでみせる冬弥は今、音大に通っている。進路調査票の配布機会が増え始めた高校二年の夏頃、冬弥は四人全員で集まったミーティングの場で進学したいという考えを教えてくれた。そのための勉強を始めるために年明けからはイベントや練習時間を削ることになるかもしれないと謝る冬弥に、こはねと杏は頑張ってほしいと笑顔でエールを送った。それを受けて、冬弥もはにかみながら頑張ると返す。その場で笑っていなかったのは、オレだけだった。
    「なんで先に相談してくんなかったんだよ、オレたち相棒じゃなかったのかよ」
     その日のミーティングを終え二人きりになった帰り道に立ち寄った公園で、思わずそう冬弥に訴えてしまった。恋人なのに、という言葉はさすがに飲み込んだ。その言葉はきっと今の場面にそぐわないし、それを言い出すのはちょっと情けない気がしたから。冬弥は驚いた顔をしたあと、すまなかったと小さく呟いた。
    「彰人に反対されたら、多分俺は進学を諦めると思ったんだ」
    「だから、アイツらのいる前で言ったわけか」
    「ああ、狡いとは分かっていたが……父さんに認めてもらってからもずっと、大学だけはここにしないかと勧められていたんだ」
     オレのと違っていつでもパンパンに膨れ上がっているスクールバッグの中から出てきたのは、いかにも高貴そうな雰囲気を醸し出しているパンフレットだった。表紙にでかでかと書かれているのが、冬弥の志望する大学の名前なのだろう。冬弥は付箋の貼られたページを捲ると、そこには何度かだけ見かけたことがあるあの厳格そうな冬弥の父親の顔が出てきた。
    「ふーん、自分の母校だからってことか」
    「ああ、そうらしい。兄たちは初めから海外の音楽学校を受けて留学したから、ここの卒業生ではないんだ」
    「それで、今まで父親に反抗してたくせになんで今更従う気になったんだよ」
    「……今日はやけに刺がある言い方をするな」
    「そんだけ怒ってんだよ、分かれよ」
    「ああ、なるほど」
     怒ってるんだと言っても、冬弥は呑気に頷いてから百パーセント従うわけじゃないと前置きしてもう一冊パンフレットを取り出した。さっきのものとは雰囲気の違う写真が使われているものの、書かれている学校名には同じように大学とついていた。
    「父さんはそんなことをする学校じゃないと言っていたし俺もそう信じているが、パンフレットに載るような有名な卒業生の息子が入学すると知ってみなが皆純粋な気持ちでいられるかと言われれば俺はそうじゃないと思う。特に俺は一度クラシックを辞めていて、小学生のときに同じコンクールに出ていた人達はみんなそのことを知っている。そんな奴が急に大学からこんな有名な音大に通い始めたと知ったら、コネとかなんだとか言われる可能性だってある……勿論そういう声には負けたくないとは思うが、でも本当に負けずにいられるかはそのときにならないと分からないから」
     その言葉を聞いて、今必死で芸大に合格するために努力し続けている姉の姿を思い出した。冬弥の父親同様、ウチの父親も本名で画家として活躍している。今でこそ姉はネットの世界で匿名で作品をあげているようだが、入試やそれ以降の作品はそうもいかないはずだ。東雲だなんてそうそうある苗字でもないし、姉が今後越えないといけない『父親』の壁はオレの想像より遥かに高いのだと思うと、正直もう頑張らなければいいのにとすら思う。でも姉はきっとオレが何を言ったって止めない、そして今目の前でオレの顔をじっと見つめながら話す頼もしい相棒も。
    「父親もこの大学なら母校と大きなレベルの差があるわけではないし自宅から通える距離だからと納得してくれた、入試までのレッスンはあの人が直々につけてくれるらしいから少し怖いがな」
    「でもいくらプロが教えてくれるったって、三年以上ブランクある奴が合格出来るような学校なのか?」
    「……彰人、もしかしたら勘違いしているかもしれないが」
    「な、なんだよ」
    「俺が進むのは、作曲家を育成するコースなんだ」
    「は? ピアノとか、バイオリンをやるんじゃなくてか?」
    「ああ、今更その勉強をしたってみんなの役には立てないだろう」
     でも作曲なら、大いに役立つはずだ。冬弥は確信を持っているのか、パンフレットを持つ手に力を込めてそう宣言した。
    「さっき父さんが音大に進学することを勧めてきたと言ったが、さすがの父さんもこの一年くらいで俺をクラシックの道に戻すことは諦めているんだ……どんな形でも音楽をやってくれるならそれでいい、ただどうせやるならそこに立つのが『青柳冬弥』でなければならない、それだけの価値を持てるようになりなさいと、そう言ってくれた」
     そういった経緯でこのパンフレットを渡されたのだと、冬弥は教えてくれた。そして冬弥が選んだ道は作曲、確かに今のオレ達には足りない能力だった。誰かのコピーではなく、自分たちにしか歌えない曲を作り出せればそれはきっとオレ達全員の武器になる、冬弥はそう考えたのだろう。そこまで言われてしまったのに、オレは何をどう反対すればいいんだ。真っ直ぐ、だけど時折不安そうにオレを見る冬弥の肩を抱いてやる。
    「冬弥ならぜってえ大丈夫、オレが保証する」
    「そうか……それは世界で一番、頼もしい言葉だ……相談せずにいて、悪かった」
    「もういいって……まあちょっと、悔しかったけど」
    「ふふ、拗ねていたのか?」
    「うるせ……」
     それから冬弥は勉強や練習は勿論手を抜かず、自宅では父親から色々とレッスンを受けていたようで三年の夏にはなんなく志望校への入学を決めていた。こはねは都内の女子大に、杏は謙さんの店の手伝いが出来るようにと調理の専門学校に、そしてオレは進学せずいくつかのバイトをかけ持ちして、夜は全員で時間の許す限り練習していた。時間の許す限り、といってもオレを除いて全員実家住まいのままだったし特に冬弥とこはねはやはりその日のうちに帰さないといけなかったから、時期によっては高校生の頃よりずっと練習時間の確保が難しくなっていた。ある時冬弥に一人暮らししないのかと持ちかけたことがある、ウチで昼飯の素麺を食べていた時だったから夏だったはずだ。みんなでやりたい曲が出来上がったから先に聴いて欲しいと言われて、だったらと冬弥をウチに招いたのだ。オレは帰る時間がバラバラになるだろうし、何より姉の画材が増え続けて部屋が大変なことになっていたからオレの部屋を使ってもらえればもう少し人間が住める部屋になると気を使って……というのは建前で、こんな風に気軽に冬弥を家に誘えるようにしたくて高校を卒業する頃には一人暮らしの部屋を借りていた。
    「一人暮らしは……そうだな、こうして彰人の家に遊びに来る度に憧れは抱くが、俺は生活能力があまり高くないから向いていないと思う」
    「あー……それはまあ、そうだな」
    「今ちょっと笑っただろう、卵を割るくらいはもう出来るぞ」
    「お前なあ、それくらいで威張るなよ」
     冬弥は高校に進学するまで、家では勿論学校の家庭科の調理実習は父親の指示により不参加だったようで包丁を持ったことがないしコンロに近付くと怒られたとも語っていた。一年の時はクラスが違ったため共通の友人たちからは心配過ぎて全く作業が進まなかったと伝えられるだけだったが、運良く二年はクラスが一緒だったため初めて調理実習に一緒に参加出来た。そこでオレは、友人たちの言葉が大袈裟ではなかったことを思い知った。やはり家ではまだキッチンに立たせてもらえないらしく、一年の時以来だという包丁捌きは危なっかしいなんて生易しいものではなかったし卵すら上手く割れず三つダメにしたときはあの冬弥が目に見えて凹んでいた。
    「実は一度、ダメ元で父さんに相談したことがある」
    「一人暮らししてみたいって?」
    「ああ、ただでさえ大学の課題の進捗次第では練習に参加する時間を削っているのに実家だとより制限がかかってしまうと思って」
     そこまで話した冬弥がオレの目前に、二本指を立ててきた。それが何を表すのか分からずにいれば、二十歳だそうだと付け加えられる。
    「何が?」
    「だから、二十歳になれば考えてやらんこともないと言われた」
    「……意外とあと少しだな」
    「でもそのときが来た時、何も出来ないと困ると思って今は時間を見つけて簡単な料理に取り組んでいる」
     ちなみに冬弥は几帳面なので掃除はほぼ問題ない、たまにオレの部屋を見て片付けを手伝ってくれるくらいだから。洗濯は洗剤と柔軟剤の違いがよく分からないなんて言われたことがあったけど、基本的に機械がすることだから覚えれば問題は無いだろう。だからあとは自炊だけなのだと、本人も意気込んでいるようだった。
    「でも彰人のご飯を食べると、まだまだだなと実感させられてしまうな」
    「別に、素麺湯掻いてネギ切っただけだけどな」
    「俺のネギは、多分こんなに綺麗に切れないと思う」
    「金もらうわけじゃないし、胃に入れば一緒だろ」
     一緒に暮らせば自炊出来なくてもいいだろ、とはまだそのときは言えなかった。実はその調理実習のときから、いつか一緒に暮らせたらこんな風に毎日料理をして後片付けをしてって出来るのになと漠然と考えていた。いざ自分が一人暮らしを始めるとその思いはむくむくと大きくなって、冬弥がこうして家に来てくれる度に一緒に住もうと言いたくなる。だけどまだお互い新しい生活にちゃんと慣れたとは言い難いし、冬弥に至ってはどうやら二十歳までは絶対に自立できそうにないようだった。だけど逆に考えれば、冬弥が二十歳になるまでにオレの覚悟さえ決まっていれば冬弥と一緒に暮らせるってことだ。
    「……彰人、箸が止まっているが具合が悪いのか?」
    「なんでもねーよ、ちょっといいこと思いついただけだ」
    「そうか、だから悪い顔をしていたんだな」
     してねえだろ、と返せばどうだろうなと言って冬弥は小さな口で素麺を啜った。
    「冬弥、先にちょっとだけオレの話からしていいか」
    「ああ、構わないぞ」
     あれから約一年、ずっとこの言葉を言うタイミングを探っていた。二十歳になれば家を出てもいいと言われていたからといって、学業に専念するためにはまだしばらくは実家のままがいいと心変わりしているかもしれない、だからなかなか踏み出せずにいた。でも今日こうして、冬弥は一人暮らしを始めるつもりなのだと打ち明けてくれた。正直、一緒に暮らしたとしてその生活がずっと続けられる保障はない。だってオレたちはもう大人に守られないといけない子供じゃないし、オレと冬弥は家族という縛りがあるわけではないから家を飛び出すなんてあまりにも容易いことなのだ。でも、それでもオレは、冬弥と四六時中一緒にいたいし冬弥が遭遇するはじめてを一緒に体験したい。
    「オレも近々、引っ越そうと思ってんだけど」
    「そうだったのか? まだ住んで一年とかだろう、何か不満があるのか?」
    「あー……ちょっと手狭になる予定があるというか」
    「何か大きな買い物でもするのか?」
    「……あのさ、冬弥」
     回りくどいアプローチは効かないんだと分かっているけど、ストレートに伝えるのはどうも苦手だ。だけどこれ以上緊張した状態を続けたら、多分言いたいことも言えなくなりそうだった。オレはもう一度冬弥の名前を呼んで、困ったように首を傾けてオレの様子を伺う冬弥に見られながら大きく深呼吸をする。
    「オレは、お前と二人で暮らせるくらいの部屋に住みたいんだけど……どう思う?」
    「どう、と言われても……もしも俺が断ったら、彰人は引っ越さないのか?」
    「いや、お前が一緒に住みたいって思ったときのために引っ越す」
    「それだと家賃を払うのが大変そうだな、部屋数が増えると結構高かった覚えがある」
     冬弥は困った顔のまま、オレを試すような意地悪な発言を繰り返す。わざと怒らせたいのかと思いきや、冬弥らしくなく目を泳がせて次の言葉を探しているようだった。
    「なあ、彰人」
    「どうした」
    「その、俺は俺の家が特殊な教育方針だったのは充分理解してるから、あんまり誰かと暮らすのに向いているとは自分でも思えないんだ……でも」
    「でも?」
    「……彰人と暮らしてみたいから、上手く断る理由が思いつけない」
    「そんなの、一生思い付けなくていいだろ」
     口下手なんだから、と今度はこちらが鼻で笑ってからかえば、不服そうに唇を尖らせるのでいよいよ我慢できずにその身体を抱きしめた。一緒に暮らそう冬弥、そう伝えれば抱きつきながらすっかり見慣れた青と蒼の綺麗な形をした頭が何度も縦に振られる。今から決めないといけないことがたくさんあるし、別々の家で暮らしていた者同士が同じ屋根の下で暮らすことが簡単じゃないことは分かっているけど、今はただ冬弥が一緒に暮らしたいと思ってくれた幸せに浸っていたい、そう思った。

    (210826)


    アメフリ幸福論(高校卒業後進路捏造)
    (夜のお誘いの話だけど誘って終わるので全年齢)


    「彰人、俺の傘は開かないんだがお前はそれで満足か?」
    「……なんて言った今?」


     春から一人で暮らすようになったけど、冬弥を家に招いたのは今日が初めてだった。色々あって卒業目前で付き合うようになってから早い段階で、オレは冬弥とそういうことがしたいと思っているということは伝えていた。普段は真っ白な肌をほんのり赤く染めた冬弥が、それは俺も同じ気持ちだと頷いてくれたときは夜の公園で叫びそうになった。とはいえお互いに男性同士の行為に知識があるわけでもなかったし、がっつけばそのために付き合っていると勘違いされるんじゃないかと内心ビビっていたのもあって、新生活が落ち着いて気持ちに余裕ができた時改めてそういう話を進めようと決めた。そしてそのタイミングが、今日だったというわけだ。今日明日と練習の予定がなく、オレのバイトがなければ冬弥も大学が休みだった。そういうつもりで会う約束したとお互い分かっているはずなのに白昼堂々そんな話をするのは憚られて、外が暗くなるまで二人がけのソファーにわざわざくっついて座って、配信サービスの映画を好きに選んで流しては好き勝手批評をつけて過ごしていた。先にシャワーを浴びたいと冬弥が唐突に立ち上がったのは、四本目の映画の感想を言い尽くした頃だった。なんのために、なんて聞けなかった。代わりに着替えは持ってきてんだよなと聞けば、大丈夫だと午前中来た時に部屋の隅に置いたまま放置していたカバンから着替えの一式らしきものを持ち出す冬弥をバスルームへ送り出す。一人になってしまった部屋で空っぽであることを訴えてくる腹をさすりながらカップ麺をストックしている棚を開くも、そのラインナップを見て食べるのは断念した。今から何をするとも分からないのに、ニンニクがっつりな焼きそばとか背脂マシマシの醤油ラーメンとかを食べるほど考え無しじゃない。
    「……いやまあ、ただの泊まりだって思われてる可能性も否定出来ねえけど」
     テレビに陽の光が反射して見えづらいからと閉めたカーテンをレールの右に寄せてタッセルで纏めてやれば、窓の向こうには夏の星空が広がっていた。クーラーがついていることは分かっていたけど、ちょっと冷静になりたくて窓を開けベランダに出る。好きだと伝えて、頷いてもらって。そういうことがしたいと伝えても、同意してくれて。アイツからのアクションも欲しくないと言ったら嘘になる、無理強いさせているんじゃないかという不安と我儘を言ってもらいたいという欲があるから。夏の生ぬるい風はむしろ思考をぐるぐる深める手助けをしてきて、これじゃあなんのために外に出たのか分からないとまた空を見上げる。ここで流れ星でも流れればいいのに、そんな奇跡はタイミングよく訪れなかった。
    「彰人、せっかくクーラーをつけているのに勿体ないぞ」
    「あ……わりぃ、洗濯物取り込んでなかったのさっき思い出して」
    「そうだったのか、俺も手伝う」
    「大丈夫、そんな量ないし。冷蔵庫の麦茶、好きに飲んでいいからな」
    「ありがとう、じゃあ一杯いただく」
     窓を開けっ放しにしてベランダにいたのを冬弥に咎められて、こいつの口からこんな所帯染みた発言を聞くなんてと変な気持ちになった。いつかおそろいで買ったシンプルな黒のTシャツと、高校のときの修学旅行のときに一緒に買いに行ったグレーのスウェットを身につけた冬弥が、どのコップを使えばいいんだと聞いてくる。慌てて洗濯物を取り込んで窓をきっちり閉めてから近寄れば、マグカップとグラスを持って首を傾げられた。
    「どっちでもいいけど」
    「じゃあグラスを借りる」
    「使ったら水で濯いで、シンクに出しっぱなしでいい。オレも後で飲むから」
    「分かった、そうする」
     いつも通りのように見える冬弥に、やっぱり期待しない方がいいかと心に何重も保険をかける。別にオレだって、雰囲気を作る努力とかしてるわけじゃないからおあいこかもしんねーけど、それでも冬弥はいつも通りすぎた。
    「シャワー、案外長いんだな」
    「そうか? 平均がよく分からないが……そういえば、勝手にシャンプーとか借りてしまったがよかったか?」
    「嫌だったら持ってこいって先に言ってる。てか、どれがシャンプーとかちゃんと分かったのか?」
    「ドラッグストアで見たことあったから、なんとなく分かった」
    「あ、そう……」
     じゃあオレも入ってくるから、妙な沈黙に耐えかねてそう言おうとしたとき突然外からバタバタと騒がしい音が聞こえてきた。驚いて二人揃って窓際に向かえば、さっきは星で埋め尽くされていた空は一転雨雲が広がっていて、ほんの数分前までオレが立っていたベランダには雨粒のシミが広がってすっかり色が変わっていた。
    「そういえば彰人、今のうちに一つ確認しておきたいことがある」
    「なんだよ急に」
    「彰人、俺の傘は開かないんだがお前はそれで満足か?」
    「……なんて言った今?」
     確かに外は土砂降りだけど、今朝のニュースでは雨予報なんて出てなかったし、冬弥も家に来た時傘なんか持ってなかったはずだ。それなのに突然傘の話題を持ち出されて困る。窓ガラスに写るオレの顔もまさしくそういった表情を浮かべていて、冬弥にもそれが分かったのかキョトンとしたあと、唐突に肩を震わせて静かに笑い始めた。そんな笑い方をする冬弥は珍しくて呆気に取られたが、徐々に馬鹿にされているような気がして冬弥の名前をやや強めに呼んでみる。それでも冬弥は気にした様子もなく一頻り笑って、それから意味がわからないよなこれと呟いた。
    「は?」
    「彰人と付き合うようになって、いずれキスとかそれ以上のことがしたいと話したとき、俺も色々と調べたんだ。なんでも昔の人達は、夫婦で初めて過ごす夜に女性の身体を柿の木や傘に例えた問答をしてから床に入ったんだそうだ」
    「なんでそんなめんどくせぇこと……」
    「調べてもあまりそれらしい説は見つからなかった、だからこれは俺の憶測に過ぎないが……恥ずかしかったんじゃないだろうか、これから自分たちはセックスをするんだと直接口にするのが」
     例えば、今の俺たちのように。
     そう指摘され言葉に詰まれば、冬弥はそのオレの顔がまたおかしいと言わんばかりに笑う。
    「冬弥、笑いすぎだろ」
    「ふふ、悪い……今まで彰人にばかり託してしまって、たまには俺から誘ってみようと思ったんだが、あんまり上手くいかなかったな」
    「誘ってるつもりなら、もう少しオレのレベルに合わせろよ」
    「ふ、分かった気をつける」
     何がそんなに面白かったのか、目尻に涙を浮かべるほど笑っていたらしい冬弥が不意にオレの手を掴んだ。さっきシャワーを浴びたはずなのに、冬弥の指先は冷たいし震えている。ちゃんと温まらずに出てきたのかと声を掛けようとして、その割に顔が真っ赤だからそれがちぐはぐで心をざわつかせるから掴まれた手を引いて抱きしめた。あきと、と呼ぶ声は、まだ誰かを名前で呼ぶことに慣れていなくてやけに緊張した面持ちだったあの日のことを想起させて、自分たちはもう随分長いこと一緒にいるのだと実感させられる。
    「彰人、俺たちが今からすることは教科書通りではないし、もしかしたらお互いいつか後悔する日が来るかもしれない」
    「……そんな寂しいこと言うな」
    「俺だって、そうはなってほしくない。でも、綺麗な思い出に出来るかも分からないだろう、失敗するかもしれないし」
    「それはまあ、そうならないように頑張る、けど」
    「正直、彰人とこういうことをするかもしれないと考える度にずっと怖かった。これがきっかけで別れてしまうかもしれない、だったら最初からしたくないと断った方がいいのかもしれないと考えたこともある」
     でも、とそこで冬弥の声は一度途切れる。絶対にそんなことは有り得ないと、今すぐにでも声をかけて安心させてやりたかった。だけど冬弥がこんなに自分のことを話す機会はそうそうなくて、だったらオレの役目は冬弥の言葉を遮るんじゃなくて最後まで聞いて受け止めてやることだと自分に言い聞かせて、続きを待つ。少し落ち着いた雨音と冬弥の心音に支配されているこの沈黙は、さっきと違って心地よかった。
    「でも、彰人が俺とそういうことがしたいと言ってくれたのが本当に嬉しかったから……そんな自分の気持ちを、大事にしたい」
     それからもう一度、なあ彰人、と今度はしっかりとオレの名を呼んだ冬弥の髪を指で梳きながらどーしたと返す。
    「俺のはじめて、もらってくれるか?」
     耳元で囁かれた誘い文句は、オレにも一発で理解できるほど単純で、それ故に効果も抜群だった。
    「オレでいいのか?」
    「彰人がいい、彰人じゃなきゃ嫌だ」
    「オレも、オレ以外の誰かになんか絶対くれてやんねえから」
    「そうか、嬉しいな」
     嬉しい、と噛み締めるように言われて、たまらず見えていたこめかみにキスをする。雨の音はもう、聞こえなかった。


    (210828)


    我慢は蜜か毒か(露骨な単語は出てきますが具体的なシーンはないので全年齢)


     はじめてのセックスはすごかった。三日くらいはそのことばかり考えてしまって、練習さえままならなくなってしまったから『距離を置かせてくれ』と伝えたら彰人に誤解されてそのままもつれ込んだ二度目のセックスは、はじめてより少し手荒くて、でもそれも悪くなかった。俺たちは結構、相性がいい者同士だったのかもしれない。だからこそ、ルールを決めないといけないと思った。
    「禁、欲?」
    「そうだ。彰人と恋人でいることも、相棒でいることも両立させるためには必要だと俺は思う」
    「……具体的には?」
    「イベントの一週間前からセックスはしない」
    「じゃあキスは?」
    「出来れば避けたい」
    「なんでだよ、今までだってしてただろ」
    「駄目だ。キスをされるとそれ以上を期待するようにされてしまったから、ルールを破りかねない。だからキスも禁止だ」
    「ええ……まあ、分かんなくもないけど」
     結局彰人が折れてくれて、俺の立てた禁欲ルールは晴れて施行される運びとなった。イベントは大体月に二回、多ければ三回ほど参加しているから、逆算すると月に二週間は禁欲している期間があるということだ。つまり、それ以外は……
    「彰人、一度俺を殴ってくれないか」
    「やだよ、ぜってえやんねーからな」
    「でも、こんなことじゃ練習をする意味がない」
    「ちなみに何考えたんだよ」
    「……ここと、ここと、上手く行けばこの日もヤれるんじゃないかと、考えてしまった」
    「……そんなによかった?」
    「彰人はよくなかったのか?」
    「その返しはズルいだろ……」
     超よかったに決まってんだろ、と少し耳を赤くして、でも俺を挑発するように囁いた彰人の身体を無理やり引き離す。次のイベントは六日後、ルールが施行された以上今日から過度な接触は避けるべきだ。自分はこんなに我慢が出来ない人間だっただろうかと情けなくなるも、時間は待ってはくれない。彰人の拳を受けることが叶わなかった自分の頬に自分の張り手を食らわせて、集中する。彰人も本気だと分かってくれたのか、じゃあ練習するかと態度を切り替えてくれたから大きく頷いた。

    ***

     禁欲ルールは非常に功を奏した、オンとオフの切り替えが上手くいくようになったのだ。練習期間中は相棒として適切な距離を保てるようになったし、そのあとの恋人同士として過ごす時間はさらに濃密で盛り上がるようになった。次のその時間を大切にするために、そして自分たちの大きな夢を叶えるために、また練習に集中する……実にいいサイクルになったと自画自賛したくなるほどだ。
    「今日はすまなかった、どうにも走り気味だった」
    「調子悪いってほどじゃなかったけど、寝不足か?」
    「ああ……勉強をしていたらついのめり込んでしまって、寝るつもりだった時間を一時間過ぎていた」
    「それはなんというか……今日は早く寝ろよ」
    「そのつもりだ。イベントもテストも近いからな、体調を崩している場合ではない」
    「……そーだな」
    「彰人のテスト勉強は順調か?」
    「ま、まあまあ、だな……」
    「明日は練習の前に少し勉強会をしようか」
    「大丈夫だって! この前の単語テストも、三分の二は当たってたからイケる」
    「ヤマ勘がか?」
    「ちゃんと復習してたっての!」
    「ふふ、それはすまなかった」
     あと三日後に控えたイベントは、実は定期テストを控えているのもあって参加を見送るつもりだった。だが先週のイベントを見に来ていた先方から是非ウチのイベントにも出て貰えないかも直々に交渉されてしまって、急遽参加することになったというわけだ。
    「なあ、冬弥」
    「どうした?」
    「……いや、なんでもねえ。オレ、今日こっちに用あるから」
    「そうか、じゃあまた明日」
    「気をつけて帰れよ」
     いつもは駅までついてきてくれる彰人と、少し早めに分かれる。本当はなんでもなくはないんだろうと見当はついているものの、何が言いたかったのかまでは分からないから今日は大人しく引き下がることにした。何歩か歩いてからなんとなく気になって、周りの人に迷惑にならない程度にスピードを落として振り返る。彰人は溜息をついて大きく肩を落とした後、カッコよくセットされた髪の毛をがしがしと随分荒々しく掻きむしりながら俺に説明してくれたのとは違う方向へ歩き出した。
    「何故嘘をついたんだ、彰人……?」
     胸がモヤモヤとして、落ち着かない。もしかしたらそもそもこっちと指さした方向に意味はなくて、はじめからあっちに用事があったのかもしれない。だがさっきの件といい、隠し事をされているような気がして仕方なかった。そしてこのモヤモヤが、相棒としての感情なのか恋人としての感情なのか、自分では理解できないのも悔しかった。どちらにせよ帰ってからも上手く消化出来ずにいた結果、その日の晩もあまり寝付けなかったのだった。

    ***

    「『BADDOGS』でした! ありがとうございました!」
     彰人の呼び掛けに合わせて頭を下げれば、割れんばかりの拍手や歓声が俺たちの鼓膜を揺らす。ゲストとして呼ばれただけあって待遇もかなりよかったし、オーディエンスを沸かせることも出来た。だけど一向に晴れやかな気持ちになれないのは何故だろう、マイクを脇に控えていたスタッフさんに返しながら何かがずっとつかえているような胸を押さえていれば、後ろから肩を抱かれた。
    「彰人、」
    「控え室、戻るぞ」
    「あ、ああ……」
     彰人はかなり息が上がっているようだった。まるで本人が苦手にしている犬が走り回った後のように浅い呼吸を繰り返す彰人を気遣いたいのに、ギラギラとしている金色の瞳を見ると上手く言葉が紡げなかった。出演者やスタッフさんが出入りする裏口に一番近い、このライブハウスのなかで一番広い控え室が俺たち二人に宛てがわれた部屋だった。半ば押し込まれるように入室した俺は、その押し込んできた張本人が後ろ手で鍵をかけたのに気付いて驚いた。このあと恐らく、俺たちを招待してくれた主催の人が顔を見せに来ることなんて彰人も分かっているはずなのに。
    「どうしたんだ、彰人」
    「……」
    「もしかして具合が悪かったのか? 気付いてやれなくてすまなかった、すぐに誰かを呼んで、」
    「……とーや」
    「ッ!」
     慌てる俺を制したのは、どろりとした熱っぽい甘さを含んだ彰人の声だった。この声に聞き覚えがないわけじゃない、でもこんな明るいところで聞いたのは初めてだったから動揺する。あきと、そう呼びたいのにさっきの声に負けないくらいどろどろとして情けない声になってしまう気がして、彰人に後ろから抱きしめられても何も言えなかった。彰人の吐息が繰り返し耳を擽るから、その熱が今にも伝染してしまいそうで思わず喉が鳴る。
    「とーや、なあ、同じ気持ちだよな……?」
    「あ、きと……っン……」
     もう片方の耳には手を這わされた結果、彰人の声が直接脳を揺さぶってきているような感覚に陥る。さらにお尻に当てられている熱に気付いてしまって、もう我慢出来そうになかった。
    「とーや、」
     彰人、早く。
    「……お前のこと、早く抱きてぇ」
     抱いて、めちゃくちゃにしてくれ。

    (210911)


    オネダリ上手かな?

     いつからだろう、彰人の遠回しなおねだりを察知できるようになったのは。
     彰人は甘いものが好きで、でもそれを人に知られるのをやたら嫌がるから、例えばメイコさんのカフェでパンケーキを頼むときですら言い訳のようなワンクッションが挟まれる。今日は頭を使ったから糖分が欲しい気分なんだ、とか、メイコさんが試食を勧めてきたから仕方なく食べるんだ、とかそんな感じだ。俺には本音で話せと言ってくるのに、自分はどこまでも天邪鬼な彰人を微笑ましく思う。そんな彰人は、二人で出かける時たまに立ち止まることがある。出来たばかりのカフェの前だったり、季節限定を謳った商品のディスプレイの前だったり、ほんの一瞬だけ足を止めてはそれらを見つめてそれから何事もなかったかのように歩き出すのだ。
    「彰人、この店に入らないか? 少し休憩がしたい」
     そんな彰人を見る度に、俺はこの魔法の言葉を口にするようにしていた。彰人は存外世話焼きで、それは俺にも遺憾無く発揮される。俺が入りたいから入る、という体であれば彰人は断れないのだ。
    「まあ、ちょっと歩き回ったしな……」
     今だって、俺と話しながらもチラチラと横目で入口近くのメニューを気にしている。一番上にある、和栗とメープルのパンケーキが気になっているんだろうか。生クリームがたっぷりトッピングされている時点で俺は食べられそうにないけれど、彰人には朝飯前なのかもしれない。
    「じゃあ入るか」
    「そうしてもらえると助かる」
     案内された席に着くと、彰人は真っ先に限定と書かれたメニューを確認し始めた。三段に積み重なったパンケーキの間にはマロンペーストが挟まっているらしく、一番上の生クリームの上からさらにメープルシロップもこれでもかと掛けられている写真を見て、ちょっと胸焼けがしてくる。対照的にその写真を眺める彰人は分かりやすく嬉しそうで、やっぱり食べたかったんだなとこちらまで嬉しくなってきた。
    「冬弥、決まったのか?」
    「俺はコーヒーだけでいい、夕飯が入らなくなるといけないから」
    「あ、そ……オレ普通に頼むから、時間かかるかもしんねーけど」
    「構わない、彰人が食べているところを見るのは好きだから」
    「なんだよそれ……コーヒーはアイスでいいか?」
    「ああ、よろしく頼む」
     ベルを鳴らして店員さんを呼んだ彰人が、俺のアイスコーヒーと一緒にあのパンケーキとアイスココアを注文する。ココアも甘いのに平気なのだろうか、とわざわざ聞くのは野暮だろうから先に出されたお冷と一緒に飲み込んだ。パンケーキがやってきたのはそれから数分後だった。同時に運ばれてきた飲み物のうちコーヒーはおかわり自由だという説明に俺が頷いている間も彰人の視線はパンケーキに釘付けで、いつもだったらこういう役目は彰人が請け負うのにそれが妙におかしくて笑いそうになる。
    「ふふ、美味しそうだな」
    「そーだな……じゃ、イタダキマス」
     俺の前でくらいその態度をやめればいいのにと思わなくもないが、いじらしいのでやめなくてもいいかとも思う。ナイフを器用に動かして一口大に切ったパンケーキは、彰人の大きな口に吸い込まれた。閉じたまま口を数回動かすうちに、彰人のはちみつ色の目がどんどん煌めいていく。お気に召した味だったことに何故か俺まで安心して、ようやく自分のコーヒーに口をつけた。鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌な彰人を眺めながら飲むコーヒーは、いつもより甘く感じるから不思議だ。
    「ん、口開けろ」
    「……俺は特にお腹は空いていないんだが」
     唐突に差し出されたそれは、ついさっき俺の目の前で彰人が切り分けた何口目かのパンケーキだ。生クリームがほとんどついていない部分とはいえ、彰人のお眼鏡に適うくらいの甘さということは恐らく俺には甘すぎるだろう。そしてそのことを、きっと彰人は分かっているはずだ。
    「お前今すげえ見てたじゃん、だから食いたいのかと思ったんだけど」
    「そういうつもりじゃなかった、俺はただ彰人が美味しそうに食べているのを見ていたかっただけだから」
    「それは……恥ずいだろ」
    「嫌な思いをさせたならすまない、とにかく俺は食べなくても平気だ」
     首を動かしてパンケーキと少し距離を取ろうとしたのに、俺の話を聞いていないのか彰人はずいとこちらへ更に近づけてきた。再度いらないという意思を示すために首を横に振るも、彰人の腕は引っ込められない。パンケーキからメープルシロップが垂れそうになっているのに気がついたから声を掛けようと口を開けた瞬間、そこを目掛けたようにパンケーキが押し込められた。思えば彰人と二人で出かけるときにこういうお店に立ち寄ると、いつも何かしら一口シェアしてくれる気がする。それでもこんなに無理やりなことは稀だが、何かあったのだろうか。
    「美味いか?」
    「ん……っ、甘いな」
    「こんなもんだろ、パンケーキって」
    「さすが、甘いもの好きなだけあって知識があるんだな」
    「んだよ、悪いか」
    「いや、全く。寧ろ、もっと堂々と食べればいいのにと思う」
    「そこは色々あんだよ……これはまあ、お礼だから」
    「お礼? なんのことだ?」
     今日の記憶を遡るも、礼をされるようなことをした記憶が無い。首を捻るしかない俺に彰人は満足そうに分かんなくてもいいけどと言ってくるから、逆にますます答えが気になってしまった。

    (210918)


    おててつないでうたおうか

     テストを週明けに控えているため、今日を含めた週末はチーム練習は休みになっている。部活も委員会活動もいつもより前倒しで終わらせるようになっていたから、今日はいつもよりだいぶ明るい時間に帰ることになった。校門をくぐり、駅までの道のりは人通りが多い。角を曲がった瞬間腿のあたりに衝撃が走って、よろめく。状況を確かめる前に聞こえたのは、慌てたようなごめんなさいだった。
    「おい、だいじょうぶかよ」
    「うわ、カミコーのせいふくじゃん! ヤンキーだぜコイツ、にげろー!」
    「ちょ、ちょっとまってよみんな!」
     ランドセルが三つ、二つは黒で残りは紺色だった。黒の一人が俺にぶつかったらしい、だがこちらが謝る暇もなく三人は俺が来た道を駆けて行く。ぶつかった黒は、こっちを見ないままごめんなさいとまた叫んだ。走りながらにしてはいい発声だった、一番ひ弱そうに見えたがそんなことはないのだろうか。
    「俺はヤンキーじゃない、のだが」
     神高の制服を着ていると、そう見られるのか。俺は割と、きちんと着こなしているほうだと思うが。上げた目線の先にカーブミラー、なるほど髪色のせいかもしれない。とはいえこれは地毛だから、どうしようもないのだが。思い返せばあの子たちくらいの歳の頃、よくいじめられたり怖がられたりしなかったものだと思う。いじめられるほど関わっている人もいなかったし、怖がられているということを教えてくれるような人もいなかった、と言われればそれまでだろう。俺は浮きすぎて、触れられもしなかっただけだ。
    「ゆうやけこやけで、ひがくれて……」
     この時間帯は、すぐに家に帰ってピアノの練習をしていた。学年が上がって帰る時間が遅くなってからはわざわざ迎えが来るようになった。友達と楽しそうに話しながら帰る同級生たちを窓ガラス越しに眺めながら、膝の上でその日のレッスンの譜面を再現するように指を動かす。今日は怒られませんように、指が動かなくなりませんように……嗚呼昔は俺もあんな風に笑いながらピアノを弾けていたはずなのに、いつから自分は父親の顔色を伺いながらしかピアノが弾けなくなったのだろう。
    「おーててつないで、みなかえろ……」
     みんなが遊び疲れて帰る時間の空を、友達と一緒に見たことは殆どなかった。ウチの防音室は窓がなかったから空の経過で時間を察することもなかったし、ストリートで歌うようになるまで目に染みそうなほどの夕空の鮮やかさも空を埋めつくさんとする満天の星空の明るさも知らなかった。
    「あ……しまった」
     ぼんやりしながら歩いていたら、気付いたらいつもの公園に着いていた。帰って勉強しないと行けないと分かっているのに、自然とベンチに座ってしまう。自分の掌がオレンジ色に染まる、そういえば彰人に声を掛けられた時も綺麗な夕日が見えていたなと思い出す。彰人の髪と背にある空の境目が分からなくなるような錯覚に陥って、キラキラと輝いて見えた。
    「夕焼けは、彰人の色だな……」
    「オレがなんだって?」
    「っ、なんで……」
    「お前こそなんでここにいるんだよ、勉強するから練習はしばらく中止ってお前が決めたんだろ」
    「それは、そうなんだが……」
     どうしてここにいるんだと聞かれると、正直分からない。いつもの癖でここに来てしまった、その通りだがでもそれは満点の答えではない。あの日みたいに夕空を背にして俺の少し先に立つ彰人が、眩しくて仕方がない。
    「……彰人に、会いたかったのかもしれない」
    「はあ?」
    「子供の頃のことを思い出したんだ、そうしたら夕焼けが見たくなって、夕焼けは彰人の色だから、きっと俺は彰人に会いたかったんだと思う」
    「あー……悪い、全然分かんねえ」
     でも、とそこで区切った彰人が、何かを下手で放り投げる。ゆっくりと放物線を描いてこちらへやってきたのは、いつもここで休憩する時に俺が飲んでいる缶コーヒーだった。
    「お前に会いたいって言われるのは、悪くねえな」
    「彰人……」
    「なあ、オレと一緒に歌おうぜ、冬弥」
     テスト勉強は帰ってからちゃんとやるから、と先手を打たれたので俺は頷く他ない。声出しもちゃんとしてないのにいつものように歌ったから、一曲全力で歌えば息が上がってしまって思わず二人で笑った。彰人は歌いたくてここに来たのかと尋ねれば、それもあるけどと前置きされた後、頭に手を置かれる。
    「寂しがってるような気がしたから」
    「……俺が?」
    「オレもちょっとだけ、な」
    「それは……少しばかり嬉しい気がする」
     そう言えば、彰人も目を細めて笑う。空が段々、俺の頭の片側の色に支配されてゆくけれどひどく満たされた気持ちでいられた。

    (211017)


    魔法使いさんのはじめての呪文

    【お疲れさま!バイト上がったら一回私に連絡ちょーだい!】
     タイムカードを切ってからロッカーに仕舞っていたスマホを経ちあげると、やたらテンション高く動くハムスターのスタンプと一緒にこれまたテンションの高いメッセージが届いていた。今日は日曜だから朝に一度集まって練習してから、オレだけバイトで抜けて残りの三人は公園に残って続けると聞いている。送信時間は二時間前だが何か買ってきて欲しいものでもあったのだろうか、と考えながらメッセージで返事をするか迷って結局直接電話をかけた。
    『あ、もしもし彰人? バイト終わった?』
    「まあ……わざわざメッセージ寄越してくるなんて、なんかあったのか?」
    『一旦父さんの店で腹ごしらえしようって話になったから、彰人の食べたいメニュー先に聞いとこうかと思って。着く頃にはすぐ食べられるようにしとくからさ』
    「おお、悪いな……サンドイッチでいい、パンは焼いてるやつで」
    『はいはーい、了解です。飲み物は、カフェラテでいい?』
    「ん、アイスで頼んだ」
    『じゃあ父さんに伝えとくから! 寄り道しないで来てよ!』
     随分と手厚い待遇に何かウラがあるんじゃないかと勘来るが腹が減っているのは事実、ここは素直に甘えておくことにする。ロッカールームを出ると、事務所にいた店長が恨めしそうな顔で待ち構えていた。
    「結局最後まで被ってくれなかったね、これ」
    「ぜってえ嫌っス」
    「ちなみにウチ、クリスマスはサンタ帽被ってもらうんだけど」
    「当日のシフト、休み希望出しておきます」
    「まあそう言わずにさ……勿体ないし、もう持って帰ってよ」
     今度のイベントにでも使えるでしょ、と半ば強引に押し付けられたそれは、魔女が被るような形をした小さな帽子がくっついたカチューシャだ。今フロアに出ている女性スタッフは店長命令でみんなこれをつけているが、オレはこの四時間最後まで首を縦に振らなかった。次のイベントの時にはハロウィンなんて時期外れなんだけどとは思ったものの、受け取らなかったら帰れなさそうだったから仕方なく鞄に入れて店を出る。はじめのうちは絵名にでも渡せば自撮りのネタになって無駄にはならないだろうと考えていたはずなのに、ハロウィン一色のストリートを歩いている間についこれを身につける相棒兼恋人を想像してしまってカチューシャの行き先は決定してしまった。
    「お、いらっしゃい彰人。お前もよく働くなあ」
    「こんちは、日曜の朝って誰も入りたがらないんで仕方ないっすよ」
    「サンドイッチは先にテーブルに運んでるから。カフェラテはこっちな」
    「ありがとうございます、謙さん」
    「あとこれは、俺からのプレゼントだ。すぐ役立つから持っとけ」
    「は……?」
     渡されたのはこの数週間コンビニやスーパーでやたら目にしたカボチャの形をしたプラスチック製のバスケットで、中には個包装されたチョコチップクッキーがぱんぱんに詰め込まれている。そういえば冬弥たちはどこにいるんだ、今更ながら抱いた疑問に突き動かされ店内を見回すと入口から一番遠い奥の席に杏とこはねの姿があった。ただし、その服装は朝練の時に見たものとはだいぶ異なっている。
    「あー……なるほど」
    「お前から連絡来たら大急ぎで仕上げだなんだって騒いでたんだよ、すまないが付き合ってやってくれ」
    「このくらい、別にいいっすけど……」
     オレが貰ったのとは違い、ちゃんと被れるサイズの魔女の帽子を被ってそれに合わせたような黒のワンピースを着ている杏がこっちに手を振っている。その隣のこはねは反対に白一色のコーディネートで、頭には輪っかがそして背中には羽がついていた。バスケットの中のクッキーを一つだけこっそりズボンのポケットに入れてから、店内でやたら浮いているその席に近付く。
    「何してんだよお前ら……」
    「ふふーん、天使のこはねも可愛いでしょ!」
    「わあ! 杏ちゃん、抱きついたら羽が取れちゃうよお……せ、せっかくだから仮装しようって前から杏ちゃんと話してたんだけど、外でやるのは恥ずかしいからWEEKEND GARAGEの中でやろうってことになったの」
    「ってことで……トリックオアトリート!」
    「おらよ、クッキーだ」
    「やったー! 準備いいじゃん、彰人!」
    「ありがとう、東雲くん……!」
     受け取って喜ぶ二人を見てカウンターを振り返れば、謙さんがサムズアップして笑っていた。なんだかんだこの人も、娘には甘いんだよな。二人の向かいに座って様子を見守っていたらしい冬弥は、隣の席に座ったオレにお疲れ様とはにかむ。ひと仕事、いやふた仕事こなしたオレにとって、その笑顔は何よりも癒しだった。
    「中身クッキーだから、お前も貰っとけよ」
    「しかし俺は二人と違って仮装をしていないだろう、貰うわけには……」
    「じゃあ仮装させればいいんだな?」
    「え?」
     オレはカバンの中からさっき押し付けられたそれを取り出し、いつもと違い同じ高さにある冬弥の頭にささっとつけてやる。乱れた髪を軽く手直ししてやっている間冬弥は口を挟むこともなければ全く動く様子もなかったから、日頃から慣れさせていてよかったなんて思わなくもない。
    「ほら、出来たぞ」
    「ん……これ、は?」
    「え〜可愛いじゃん冬弥!」
    「うん、すごく似合ってるよ青柳くん」
    「そう、なのか? 自分ではよく分からないが……これも仮装なのだろうか」
    「立派な仮装だろ、ハロウィンで魔法使いとか王道だしな」
     重みを感じているのか手で小さな帽子を触ろうとする冬弥を制して、スマホのカメラを使って見せてやる。ようやく頭を飾る正体を知った冬弥が照れくさそうにこれは似合っていると言えるのかと聞いてくるから大きく頷いて見せれば、彰人が言うならそうなんだろうなとまた嬉しいことを言ってきた。
    「なんて言わないといけないか、さすがのお前も知ってるだろ」
    「ああ、ここに来るまでも何度も見かけたからな」
     コホン、と咳払いをして姿勢まで正す冬弥に、こちらまでつられる。ハロウィンってもっと気軽な催し物じゃねえの、と思うけど、知識として知っていても実際に口にするのは初めてなのかもと考えれば悪い気はしない。
    「彰人、お菓子をくれなきゃイタズラするぞ……?」
     帽子がついているほうに小首を傾けて、いつも通りの無表情のようで心做しか声が弾んでいる冬弥に、堪えきれず先にこちらが笑顔になってしまった。気を取り直して先程くすねたクッキーの個包装を破って、冬弥の口許に持っていけばこれまた当たり前のようにちっちゃな口を開いて待つ。魔法使いというよりは雛鳥のようなその姿にまた笑いそうになりながら、大きくはないクッキーを唇の隙間に押し込むようにして食べさせると数回咀嚼して冬弥は今度こそ頬を緩めた。


    Happy Halloween 2021!!
    (211030)


    nameless(高校卒業後進路捏造)


     冬弥はオレのことが好き、という確信があった。相棒だから、とかじゃなくて、オレもアイツのことが好きだったから、なんとなく察することが出来てしまったんだと思う。そして、冬弥がそれをオレに伝える気がないということも分かったから、冬弥がそのつもりならオレも伝えないでいようと決めた。だからといって冬弥が誰かのものになるのも気に食わないから、ずっと一緒にいた。セットだなんだと言われるのを口では否定しながらも、利用して極力離れずにいるようにしていた。冬弥もからかわれても満更じゃなさそうだったし──冬弥もオレのことが好きなんだから、当然だろうけど──、いっそオレ達が隣り合っていないと周囲が違和感を覚えるようにした。そして卒業してからは、今度は冬弥を独り暮らしの家に招くようにして少しずつ冬弥の私物を置くようにした。スリッパに始まり、マグカップなんかの食器とかも揃えたし最終的にはパジャマも置いてやるようにした。冬弥は初めは遠慮していたけど、最終的にはクッションの柄に物申すくらいにはオレの家に馴染んでしまっていた。気が付けば冬弥は大学に近いからと週の半分くらいをオレの家で寝泊まりするようになって、卒業する頃には二人で暮らせるくらいのまあまあ広い家に引っ越すことにした。


    「……なのにまだ告白はしてないわけね」
    「別にオレは現状で満足してるから、いい」
    「してるんだったら私にこんな相談してないでしょ」
    「相談っつーか、お前が最近どうなんだとか聞くから答えてやっただけだろ」
    「だっていつまで経っても進展しないからもどかしいんだもん」
     仕事が休みになったからランチに行こうと連行された、最近駅の近くに出来たカフェ。ローストチキンと野菜がたくさん挟まったバケットサンドを食べ終わってから杏の話に相槌打ったり振られるままに答えていたりしていれば、いつの間にか冬弥の話になっていた。片想い何年目なの、と杏に聞かれたから指折り数えてみせれば、右手から左手にカウントを移したところで止められる。お前が聞いたんだろと睨むも、気にすることなく店のおすすめと書かれていたフルーツティーを啜る杏を見てしばらく会っていない姉のことを思い出した。結局ずるずると一緒に暮らし始めてもう三年目に突入、もう意地とか見栄とかじゃなくて今のままの関係で安心しきっている自分がいる。付き合ってなくても一緒にいられるならこれでいいんじゃないかと、別に諦めたわけではないけどここのところ思う。もし好きだと言って付き合ったとして年齢的にどうしたって将来のことを見据えてしまう、冬弥なんてリアリストなところがあるから尚更だろう。伝えたいのに言えなくて苦しい、なんて時期はもうとっくに過ぎていて、どちらかと言えばこの感情が自分のなかにあるのは当たり前になってしまった。これからもこんな風に冬弥への気持ちを抱えたまま、冬弥と生きていくんだと漠然とした想像が出来る。
    「アンタがどう考えていようか勝手だし、こうやってたまに話を聞いてやるのも私は構わないんだけどさ……冬弥も同じ気持ちでいてくれてるかなんて、分かんないからね?」
    「急に説教するとこまでそっくりかよ……」
    「なんか言った?」
    「なんでもねーよ……って、冬弥?」
    「え? あ、ホントだ。おーい、冬弥ぁー!」
     テラス席にいたせいで、杏の声はこちらへ向かって歩いてきていた冬弥にばっちり届いていた。この前オレが選んでプレゼントしたブルーライトカットの眼鏡を掛けた冬弥は、目の前の通りを歩く誰よりも美人だと思う。
    「仕事中?」
    「ああ、外に出る予定があったからそのまま昼食を取ってから職場に戻ろうと思っていたんだが」
     冬弥は今、都立の図書館で司書として働いている。肩に提げているキャンバス地のトートバッグから丸めた画用紙が頭を少し覗かせていて、文具などの買い出しに駆り出されたのだとなんとなく想像する。職場は女性が多く、体力を伴う仕事は極力引き受けるようにしていると前に話されたことがあった。さぞモテているのだろうとからかい混じりに言ったら、そうだとしても俺には関係ないと返されたことまで覚えている。
    「じゃあここで食べていきなよ、私はお暇するからさ」
    「なにか二人で話があったんじゃなかったのか?」
    「もう終わったからへーき。それとも家でも顔を合わせる人とわざわざ外食とか、味気なくてイヤ?」
    「俺は構わないが……」
    「イヤなわけねーだろ、だからそんな顔でこっち見んな」
    「あはは、仲良くしなよ」
     じゃあね、とその場を後にした杏を手を振って見送る冬弥に、とりあえず注文してくるように促す。
    「彰人は何食べたんだ?」
    「バケットサンド、美味かった」
    「じゃあ俺もそれにしよう、あとはコーヒーでいいか」
    「バッグ持っとくから行ってこいよ」
    「ああ、すまない。彰人は飲み物のおかわりはいいのか?」
    「まだあるから大丈夫」
     オレの返事を聞いて頷いた冬弥が、バッグから財布を持ち出して店内に入っていく。オレは予想以上に重たいバッグを、三つある椅子のうちさっきまで杏が座っていたのに置いて、自分のカフェラテの前の椅子に戻る。そういえばアイツ、フルーツティーのポットとかカップとか置いたまま帰ってったな……。それを端に退かして、冬弥のトレイを置けるだけのスペースを作っておく。ガラス越しにレジに並ぶ冬弥を眺める、昼時だから割と込み合っているけどそれに対して冬弥がかったるいと思っているのかお腹が空いていると思っているのか分からない。でもこのままずっと見ていれば、冬弥もこっちを見てくれるという確信があった。
    「……ふふ、手ぇ振んなくていいっつーの」
     予想通りこちらを見た冬弥が、目が合ったことに気付いたのか照れ臭そうに笑いながら手に持った財布をちょこちょこと振ってくるからこちらも小さく振り返す。その後ろに並んでいた、オレらと然程歳の変わらなさそうな女性二人組が、このやりとりに気付いて何やら言っているようだけど冬弥は聞こえていないのかまた前の人の後頭部を見つめだした。付き合ってない、このくらいの距離感が心地いいのは本心だ。オレがすぐ隣にいれば、滅多なことでもない限り冬弥が他所の奴に興味を惹かれることもないだろう。これは怠慢なのか、それとも驕りなのか。だけど今更他の誰かを好きになるなんて、あり得ない。それはきっと、お互いにそうだろう。レジが冬弥の番になる、昔は無表情のまま淡々と話す姿がかっこいいだなんてクラスの女子に噂されていたのに、それが改善されあんな風に自然にはにかんでみせるから徐々に普段のクールな顔とのギャップがいいだなんて言われるようになっていた。好きだと伝えれば、冬弥のそういう表情も何もかも全部オレのものに出来るのか、そんなわけない。オレも冬弥ももう立派な大人で、冬弥がそうやって笑えるようになったのも一種の処世術みたいなものなのだからそれを独占できるわけなんてないのだ。だったら、このままで、無理してこの関係をカテゴライズしなければいい、そうすればこうあるべきなんてものに縛られず、好きなように冬弥を愛せるはずだから。
    「お待たせ、彰人」
    「混んでたな、休憩時間大丈夫なのか?」
    「大丈夫だ、今日は人もいるし午後の会議に間に合うなら遠出してきてもいいと館長に言われている」
    「じゃあゆっくり食えよ、バケット結構固めだからお前噎せるかも」
    「分かった、気を付けよう」
     相変わらず小さな口で少しずつバケットサンドを食べ進める冬弥が気にしないように、スマホを触って暇を潰す。同じものを頼んでもいっつもオレのほうが食べ終わるのは早くて、その度に冬弥は待たせてすまないと謝って慌てて詰め込んで食べて頬をパンパンに膨らませていた。家だとそういうことはないけど、外食だとどうしても気になるらしい。だからこうして、暇を潰す手段はあるのだとアピールしてやるのが一番手っ取り早い。
    「白石とは、元から約束していたのか?」
    「いや、今朝急に連絡来た、火曜だから暇でしょって」
    「その誘い方、彰人のお姉さんにそっくりだな」
    「言うな、それ以外にも色々共通点見つけてんだよ」
     そこまで話して、冬弥は数秒止まると何かを誤魔化すようにアイスコーヒーのストローに口を付ける。白石と何を話していたんだ、と聞きたかったのかもしれない。でも聞かれたところで恥をかく可能性があるから、気付かないふりをした。
    「夕飯、どうしようか」
    「昼飯食いながらよく晩飯のこと考えられるな」
    「ふと思い付いたから、聞いておこうと思って……何も決めてなければ、帰り道でお総菜とか買ってくるが」
    「あー……いいや、オレ作るから」
    「そうか、じゃあお願いしてもいいか?」
    「任せろ、久々に酒飲みたいな……」
    「軽いものならいいんじゃないか? 俺は生ハムの載ったサラダがおつまみでほしい」
    「お前、あれ好きだよな」
    「彰人の作るおつまみでも一番のお気に入りだな、ワインによく合う」
     だから好きなんだ、と教えてくれる冬弥に、じゃあ気合い入れて作るかと返す。こういう「好き」は簡単に言い合えるのに、いざというときだけ喉に貼り付いてしまったように上手く声に出せないのは何故なのか。嬉しそうに見える表情のままバケットにかぶりつく冬弥も多分、このオレの疑問には答えられないんだろう。

    (211002)

    name of LOVE(↑の続き)

    「ただいま、頼まれていたもの買ってきたぞ」
    「おかえり、悪かったなパシって」
    「俺も食べるものなんだから、パシリではないだろう。これで足りそうか?」
    「おー、十分十分。ありがとな、冬弥」
    「どういたしまして。夕飯、楽しみにしている」
     近所のスーパーのレジ袋をオレに託した冬弥は、手を洗ってくると言ってまたリビングを出ていこうと身を翻す。オレは無意識に、その細い手首を掴んでいた。
    「彰人?」
    「あのさ、今日飯食ったあと話があんだけど」
    「……今じゃダメなのか?」
    「え、」
    「いや、改まって言われたから何か急ぎの用なのかと思ってな。彰人の話なんだから、彰人のタイミングで構わないぞ」
    「ああ、引き留めて悪い」
     謝ってばかりだなと困ったように笑って、冬弥は今度こそリビングからいなくなる。廊下へ続くドアが閉まった瞬間、思ったより重々しい溜息をついてしまった。あのあと一人で買い物している最中ずっと杏の言葉が頭から離れなくて、一度冬弥の本心を聞いておくことにした。とはいえ、どう聞けば上手いことアイツの本音を引き出せるのかまでは思い付けなくて、酒を飲みながらなら冬弥も多少警戒心が薄い状態で話してくれるかもと思い至った。万一聞かなくてもいいやと考えが変わっても、酒に酔って忘れたということにすれば冬弥も合わせてくれる……なんて、打算的な自分に呆れている。杏にはあんなこと言っておいて、結局のところこの名前のない曖昧な関係に甘えきっているだけなんだろう。自分でもそう思うのだから、第三者から見たらもっとそう見えるものなのか。
    「なっさけねー……」
     もう一度肩を落として溜息をついた瞬間、手の力が緩んだのか持っていた袋がフローリングめがけて落ちる。べちゃ、という嫌な音で我に返った、冬弥に頼んでいたのはトマトと六個入りパックの卵だったのだ。
    「なにか手伝うか?」
    「盛り付けたらもう食えるから、グラスとか箸とか出しててもらっていいか?」
    「ああ、任せろ」
     かっちりとした仕事用の格好から部屋着に着替えた冬弥は、何故だか機嫌が良さそうだった。最近一緒に飲んでなかったし、冬弥もそういう気分だったのかもしれない。オレは無事だった卵を使ってメインのカルボナーラを仕上げながら、ずっとどう話を切り出そうか考えていた。こんなんじゃ上手く酔えないかもしれない、冬弥はオレよりも酔いにくいから、オレが酔ってないと不自然に感じるだろうにこんなんで大丈夫なんだろうか。右手にオレが贈った冬弥用のワイングラスとオレのよく使うグラスをまとめて持っている冬弥が、左手で冷蔵庫の扉を開ける。
    「彰人、どれを飲むんだ?」
    「……ストロング」
    「明日仕事だろう、それはやめといたほうがいいぞ」
    「酔いたい気分なんだよ」
    「そう、なのか……でも、せっかくなら彰人のご飯は二人で話しながら楽しく食べたい」
    「……その言い方はズルいだろ」
     じゃあビールでいいと言えば、分かったと言って冬弥が冷蔵庫のなかに腕を伸ばすのを視界の端に捉えた。なんのビール買ってたっけと考えながら黒胡椒を振りかけて、カルボナーラを完成させる。美味そうに出来たと思っていれば、片手でビール缶を二本器用に持っているせいで両手の塞がった冬弥も美味しそうだなと呟いてから行儀悪く足で冷蔵庫を閉めた。
    「サラダも作ってくれたんだな、冷蔵庫にあった」
    「あんだけ言われて作らないわけねーだろ」
    「このサラダがあれば、安いワインでもいい気分になれるからな」
    「そりゃどーも。腹減ったろ、さっさと食おうぜ」
    「そうだな、温かいうちに食べよう」
     冬弥と初めて会ったとき、まさか酒を飲めるような年齢になっても付き合いが続くとは思っていなかった。それどころか、こんなに好きになるとか想像すらしたことなかったのに。自分はつくづく冬弥に人生を変えられているのだと、実感する。これからもそうなんだろう、今オレが余計なことを言ってしまわなければ。お互いのグラスにアルコールを注ぎあって、乾杯する。キン、という涼やかな音が、オレにはゴングのように聞こえた。
    「彰人、トマトとチーズを一緒に食べるとなんでこんなに美味しいんだ?」
    「さあな……それ、三回目の質問だからな」
    「そうだったか?」
     でも本当に美味しいんだと、赤く染まった頬をゆるゆると緩めて冬弥はモッツァレラチーズとトマトのカプレーゼにまた一口かぶりつく。そんなに誉められると調子に乗ってしまうからやめてほしい、そう内心悪態つきながら二杯目のビールを煽る。明日仕事のオレと違って丸一日休みである冬弥の今日のペースは、少し早いように感じた……それでもここまでご機嫌な酔い方をするタイプではないのだが。一方のオレはどうも上手く酔えなくて、でもこれ以上飲んだら明日キツいよなあと思ってなかなか手が進まない。
    「なあ、彰人」
    「どうした、さすがに新しい瓶は開けねえぞ」
    「そうじゃなくて……なにか、話があるんじゃなかったのか?」
     これだけ酔ってて覚えていやがった、と一気に変な汗をかく。さらに楽しみにしていたんだぞと続けられて、ご機嫌だったのがそのせいだったということまで分かってしまって逃げられないことを悟った。予告しなきゃよかったと後悔するも、わくわくが隠しきれていない目を向けられてしまえば逃げるという選択肢が消える。
    「……なんで楽しみにしてたんだよ」
    「マイナスな話ならすぐするだろう、だがわざわざ酒の席で言おうとしているということはいい話だと思ったんだ」
    「……そんな、大した話じゃねえんだけど」
    「でも、彰人が俺に話したいと思ってくれたことならなんでも聞きたい」
     こういうところ、やっぱオレのこと好きなんだなって思い知らされる。こんだけのこと言われてて、玉砕するかもとかビビってる自分が情けなくなってきた。なんて言えばいいんだろう、冬弥はこの笑顔のまま頷いてくれるんだろう、そもそもオレはなんて答えてくれたら嬉しいんだろう、付き合いたい、それともこのまま一緒にいられるという確約がほしいだけなのか、存外アルコールにやられていたらしい脳みそが思考の海に引き摺られようとしている。そこから掬い上げてくれたのは、ゴンという鈍い音だった。数秒遅れて、冬弥がワイングラスをテーブルに勢いよく置いた音だと気がつく。飛び散った赤ワインが冬弥の血かと思って息が詰まったけど、次の瞬間大袈裟すぎるくらいの溜息が聞こえたからつられて息を吐いた。
    「早く言ってくれないか、彰人」
    「は……?」
    「お前が、こっちから言いたいからってお願いしてきたからずっと我慢してきたのに、いつまで経っても言ってくれないから……今日やっと言ってくれるんだと思って、嬉しかったのに……」
    「ちょ、何泣いてんだよ……つーかお前、なんの話してんだ?」
    「お前が、俺のことが好きだと告白してくれないから、怒ってるんだ」
     涙目で睨まれても迫力ないっていうか、むしろちょっとそそるというか。というか今、なんて言った? お願いしてきたとか、我慢してきたとか、身に覚えのない話をされているのはよく分かった。冬弥はオレの反応で色々察したのか咳払いをしたから、自然とオレの姿勢が正される。
    「彰人、俺は今すごく怒っている」
    「お、おお……それはすげえ、伝わってるんだが……」
    「一緒に住み始めてすぐ、こんな風に飲んでいたとき彰人が自分から告白したいから冬弥は待っているだけでいいと言ってきただろう」
    「そ、うだった、か……?」
    「……正直酔っていて覚えてないかもとは思っていたが、俺は一生彰人のことを好きでいる自信があるからいつかが来るまで待つくらいなんともないって思っていた」
     でもさすがに我慢できそうにないんだが。
     酔っぱらいとの約束を律儀に守ってくれていたらしい現在進行形で酔っぱらい中の冬弥の話が合っているのなら、どうやら三年前にオレから告白してやると宣言していたらしい。まあつまり、好きだと既に言っていたようなものだろう……なんでそんな宣言をしたんだ、オレ。考えられるのは、恐らく先に冬弥が告白してくることに気付いて口封じにそんなことを言った、とかだろう、オレならやりかねないとオレ自身が思うので多分それだ。こんな曖昧な関係に冬弥が付き合ってくれていたのは酔っぱらったオレの宣言のおかげだと考えれば、逆に感謝したほうがいいのかもしれない。
    「なんでこのタイミングで我慢できなくなったのかは、聞いてもいいやつ?」
    「……今日、白石と出掛けていただろう」
    「まあ、無理矢理だけどな」
    「一緒に並んでいるのを見て、不安になった」
    「好きでいられる自信があるのに?」
    「俺に自信があっても、彰人がそうだとは限らないじゃないか」
     オレが嫌いになる可能性を思いつきながらよく待てたな、と言いたくなるのを堪える。杏の言う通りだ、オレは冬弥の気持ちを理解できていると思い込むばかりで本当は何も分かってなかった。冬弥からの好意に胡座をかいて、何もしなくてもずっと一緒にいられるものだと思い込んで、肝心なことを何もしていなかった。オレが何も言わないことで、冬弥のためになると思っていたけど実際はそんなことはなくて、冬弥はいつだってオレからの言葉を求めていたのかもしれない。
    「彰人、俺の用意している答えとお前が欲しいと思っている答えは同じだと思っている。だから早く、彰人の声で、言葉で、言ってくれないか」
    「……それに乗せられて言うの、めちゃめちゃ恥ずかしくないか?」
    「三年も待たせた罰だ、早く言え」
    「分かったから睨むなって……」
     どう転んだってオレが圧倒的に不利だった。テーブルの下で、急かすように冬弥の足がオレのふくらはぎを何度もつついてくる。なんだかんだ言って、やはりご機嫌らしい。
    「冬弥、大事な話がある」
    「ああ、どうしたんだ彰人」
     いつか見た冬弥の尊敬する先輩の劇よろしくわざとかしこまった言い方をすれば、冬弥もしゃんと背筋を伸ばして待ち構えた。その口角は僅かに持ち上がっていて、なんだかカッコつかない。劇のように台本はないけれど結末は決まっている、それを見て見ぬふりをしていたのはなんとも形容しがたい今この瞬間のためだったのか。
    「オレは今までも、これからもずっと、冬弥のことだけが好きだ」
    「……そうか」
    「冬弥の気持ちも、聞きたいんだ、けど?」
    「それはさっきも言っただろう、お前の望む答えが俺の答えだ」
    「……お前、言わねえつもりだな冬弥」
    「ずっと言わせてくれなかったのはお前だろう?」
     俺はずっと言いたかったのに、と言って拗ねた顔をして見せる冬弥に、とうとう堪えきれず吹き出す。
    「じゃあ今まで言えなかった分、言い合うか?」
    「いいな、夜が明けるかもしれないが」
    「……なーんで明日仕事なんだろうな」
    「やり直すか、二人の休みの日を合わせて」
    「いや、今日言う、言いたい」
    「そうか、俺も同じ意見だ」
     冬弥も真面目な顔を崩して、嬉しそうにワインを煽った。いつもよりその顔が赤いのは酔っているせいだと分かっているのに、適度にアルコールにやられている脳みそはどうしようもなく自惚れて桃色に染まっていく。
    「冬弥、先にキスしてもいいか?」
    「ふふ、もちろん」
     冬弥は長い睫毛を伏せて、ワインのせいで真っ赤になっている唇を少しだけ突き出しておとなしく待ってくれるから、オレは迷わず立ち上がってテーブルに手をついた。冬弥の顔にオレの影が落ちる、こんなに長いこと一緒にいるのに初めて見た光景だった。


    (211014)

    約束のベゴニア

     two years ago

    「急で悪いんだが、明日の練習ナシでいいか」
    「そうか、分かった」
    「……お前、こういうときなんも聞かないんだな」
    「聞いた方がいいのか?」
    「普通気になるだろ、理由も分からず勝手に予定変えられてなんとも思わねえの?」
    「いつもなら学校の用事があるとか部活の助っ人を頼まれたとか自発的に話してくれるが今回は違ったから、寧ろ詮索されたくないのかと思ったんだが」
    「いやまあ、そうなんだけど……明日ウチで誕生日パーティやるから、真っ直ぐ帰ってこいって母親に言われてて……なんか恥ずいだろ、そういうの」
    「パーティ……もしかして、彰人は明日誕生日なのか?」
    「まあ、うん……」
    「そうか、おめでとう」
    「おお、サンキュ……ま、明日だけどな」
    「だが、明日は練習がないから会えないだろう」
    「メッセ送ればよくね?」
    「……そういうものなのか」
    「そういうもんだろ」
    「家でパーティをしてもらうのが恥ずかしいのも、そういうものなのか?」
    「だってもう中学生だぜ? ケーキが食えるのはまあまあ嬉しいけど、そんなわざわざパーティとか……しかも今年姉貴が受験生で毎日戦争みたいなのに」
    「戦争……?」
    「ああいや、なんでもねえ……お前ん家ってそういうこともやんねーの?」
    「ああ、やらないな。クッキーを食べて、おしまいだ」
    「クッキー?」
    「毎年誕生日になると、母親が焼いてくれるんだ。だからずっと、誕生日にはケーキじゃなくてクッキーを食べるものだと思っていた」
    「へえ……」
    「パーティを開いてくれる家族でよかったな、彰人」
    「……どうせ父親と姉貴が喧嘩になってすぐにお開きになると思うけどな」
    「そうならないことを祈っておく」
    「……来年はさ、ちゃんと予定空けとくから」
    「いつのだ?」
    「お前の誕生日。パーティとかはしてやれねえけど、面と向かっておめでとうって言いてえし」
    「メッセージでいいんじゃなかったのか?」
    「それはそれ、オレは冬弥に言ってもらえて嬉しかったから」
    「そうか……では俺も毎年11月12日は空けておこう、彰人に毎年おめでとうを言いたいから」
    「お前、急にそういうとこあるよな……」
    「何かおかしいことを言ってしまったか?」
    「おかしくはねえけど……恥ずかしい奴だなと思っただけだよ」
    「彰人の恥ずかしいの基準がよく分からないが」
    「それはまあ、今から知ってけばいいだろ」
    「そうか、ではそうしよう」


    ***

    a week ago

    「クッキーの作り方?」
    「教えて貰えませんか、メイコさん」
    「それは全然構わないけど……冬弥くんが珍しく緊張した様子で来たから、何かあったんじゃないかって心配して損しちゃったわ」
    「すみません……」
    「ふふ、誰に作るの?」
    「……彰人がもうすぐ誕生日なので、プレゼントにあげたいんです」
    「あら、素敵じゃない。彰人くん、きっと喜ぶわね」
    「本当はケーキのほうが嬉しいとは思うんですけど、でも家でも食べるかもしれないので」
    「確かクッキーって、冬弥くんの好きな食べ物よね」
    「はい、ウチでは誕生日にはケーキではなく母の手作りのクッキーを食べてました」
    「冬弥くんにとって特別なクッキーを、彰人くんに作ってあげたいのね」
    「母に作り方を教わってもよかったんですが……気恥ずかしくて、ついメイコさんを頼ってしまいました」
    「頼られるのは大歓迎よ、嬉しいくらいだわ。うん、材料も問題ないから早速お試しで作ってみましょうか」
    「ありがとうございます、よろしくお願いします」
    「今日彰人くんは来ないのかしら?」
    「今日はずっとバイトだって言ってました、朝練だけ一緒にしてそのまま行くのを見送ってきたので」
    「じゃあゆっくり時間をかけて教えても大丈夫そうね」
    「はい、初心者なのでそうしてもらえると助かります」
    「当日は一人で作るの?」
    「そのつもりです、自宅にオーブンがあるので問題ないかと」
    「あらいいわね、もしおうちが難しいなら前日にここで作ってもいいからまた声掛けて」
    「分かりました」
    「それで……彰人くんへのプレゼントだからうーんと甘くしてもいいけど、冬弥くんはどうしたい?」
    「俺、ですか?」
    「そうよ、だってあげるのは冬弥くんだもの、冬弥くんの気持ちが一番大事でしょ?」
    「そう、ですね……俺は俺が子供の頃に食べたあのクッキーを食べてもらいたいです、甘すぎなくてバターがふわっと香るクッキーを」
    「彰人くんは甘党なのに?」
    「俺のエゴかもしれないけど、でも彰人にはあのクッキーの味を知ってもらいたいから……ダメ、でしょうか?」
    「そんなことないわ、素敵よ。冬弥くんの気持ちが伝わるように、私も精一杯お手伝いするわね」
    「すごく心強いです、ありがとうございます」


    「うん、初めてにしては上出来だわ。じゃあ焼き上がるまで一旦休憩にしましょう、コーヒー淹れるわね」
    「ありがとうございます」
    「結構たくさん作っちゃったけど、余った分はミクやレンたちに食べさせても大丈夫?」
    「それは構いませんが……」
    「あ、でも彰人くんに嫉妬されちゃうかしら」
    「嫉妬、ですか?」
    「だって冬弥くんが初めて作ったクッキーでしょ? それを先に私たちが食べたって知ったら、彰人くん嫉妬しそうじゃない?」
    「ほとんどメイコさんが作ったようなものですし、それに今日中に食べて秘密にしておけば大丈夫だと思います」
    「秘密、ねえ……うっかりリンかレンが口を滑らせるのが想像出来ちゃうんだけど」
    「それは……俺にも出来ましたね」
    「でしょう? でも冬弥くんが一人で初めて作るクッキーは彰人くんだけのものだろうから、これは私たちに譲ってもらうことにするわ」
    「はい、みんなで食べてください」
    「上手く作れるよう、応援してるから」
    「ありがとうございます、頑張ります」
    「それと、一つだけアドバイスしておくわ」
    「なんですか?」
    「オーブンってね、それぞれ個性があるの。例えばウチのオーブンだったらこれくらいの時間で焼けるけど、冬弥くんのおうちのオーブンが全く同じ時間で焼けるとは限らないのよね」
    「……つまり?」
    「よければお母さんに、ちょうどいい焼き加減だけでも教わったほうがいいと思うわ。恥ずかしいかもしれないけど、そのほうがきっと美味しく出来るはずよ」
    「そう、ですか……分かりました、聞いてみます。誕生日は恥ずかしい思いをするものだって彰人から学んだので」


    ***

    a few minutes ago


    『もしもし冬弥? こんな時間にどうしたんだよ……って、これはさすがにわざとらしいか』
    「帰り際まで白石たちに明日の話をされていたのに、それはあんまりだな」
    『お前はあんまり話の輪に入って来なかったけどな』
    「そうだったか?」
    『興味ねえのかと思っただろ』
    「そんなわけないだろう。俺もたくさん準備を手伝ったぞ、なんたって彰人の誕生日なんだから」
    『自分の誕生日のほうがよっぽど興味無さそうだったもんな』
    「そうだっただろうか」
    『そーだったよ、なのにオレの誕生日には張り切るんだからお前ってホント変わってる』
    「大切な人の誕生日を祝う楽しさを教えてくれたのはお前だ、彰人。だから俺は、彰人の誕生日が来るのが待ち遠しかった」
    『へえ、そっか』
    「明日はご家族とパーティの予定はあるのか?」
    『どうだろうな、ケーキは買うから何がいいか決めろって母親に言われたけど』
    「チーズケーキにしたのか?」
    『んだよ、悪いかよ』
    「いや、俺たちが用意したのはチーズケーキじゃないからホッとした。被ったらよくないと思っていたんだ」
    『チーズケーキなら二つくらい食ってもどうってことないけどな』
    「ふふ、すごいな」
    『まあお前らが何用意してくれたかは明日の楽しみしたいから、今は聞かないでおくわ』
    「ああ、楽しみにしていてくれ」
    『……冬弥さ、今日手ぇ怪我してたろ、左の中指』
    「え?」
    『なんも言わねえし、無理に隠す様子もなかったから聞かなかったけどさ、珍しいと思って』
    「大したものじゃないんだ、ただ母さんがどうしても手の怪我に敏感だから大袈裟に治療されただけで……普通に過ごす分には影響ない程度の怪我だ」
    『それならまあ……そういうことにしとくか』
    「そういうことも何も、それが真実なんだが……」
    『でも今、怪我した理由は伏せただろ?』
    「それは……明日、ちゃんと話す」
    『もう来たけどな、明日』
    「え……あ、」
    『ふっ、慌てすぎだろ』
    「こんな雰囲気で迎えるつもりじゃなかったんだ……彰人、笑いすぎだぞ」
    『いや、冬弥がどんな感じで祝ってくれるつもりだったのか、気になってさ』
    「ちょうどの時間におめでとうって言いたかったんだ、だが彰人が意地悪を言うから」
    『意地悪じゃねーだろ、オレも心配してたんだけど?』
    「そ、れは……悪かった……」
    『で? なんでそんなとこ怪我したんだよ』
    「……彰人へのプレゼントを用意していたんだ、それはまだ内緒なんだが。そのときに、切ってしまった」
    『そんな危ないことすんなよ』
    「俺が不慣れなだけで、危険なことではないはずだ。それに、ちゃんと作り終えることも出来た」
    『楽しみだな、冬弥がそこまでして準備してくれたプレゼント』
    「あまりハードルを上げないでくれ、すごいものというわけではないから」
    『冬弥がオレのために慣れてないことに挑戦してでも渡したいって思ってくれたものなんだから、期待して当然だろ』
    「そう、なのか……じゃあ、ワクワクしていてくれ」
    『おお、そうする……んで、オレまだちゃんと言ってもらえてないんだが、このまま切っていいか?』
    「あ……もう3分も過ぎてしまった、すまない」
    『別にいいけど』
    「だが、彰人は友人や知り合いも多いだろう、俺ばかりが独り占めしてはいけない……お誕生日おめでとう、彰人。今年も一緒に頑張っていこう、よろしく頼む」
    『ありがとな。こっちこそ、今年も頼りにしてるぜ相棒』
    「ああ、任せてくれ」
    『あと……オレは悪い気しねえよ、お前に独り占めされても』
    「え?」
    『じゃあそろそろ寝るわ、明日も学校だしな』
    「あ、ああ……彰人、その、おやすみなさい」
    『おー、また明日な』
    「……彰人の誕生日なのに、俺が恥ずかしくなってはいけないな」

    ***


    a few minutes until ×××

    「今日のパーティ、楽しかっただろうか?」
    「ああ、まだ気分が高揚してんのが自分でも分かる程度には」
    「そうか、それなら準備した甲斐があった」
    「あと……ありがとな、プレゼント。まさか料理して出来た怪我だとは、オレもさすがに思ってなかった」
    「俺はそんなに料理とは無縁そうに見えるだろうか?」
    「無縁っつーか……まあ、キッチンに立ってる姿はあんまり想像できねえかも」
    「そうか……でも、上手に出来たと思うから味わって食べてくれたら嬉しい」
    「ならせっかくだし、今食うか」
    「それは構わないが……まだ帰らなくても大丈夫なのか?」
    「元から遅くなるって連絡は入れてるから平気、あそこの公園でいいか」
    「彰人がそれでいいなら……何か飲み物を買ってこよう、今日は俺に奢らせてほしい」
    「なら、あったかいココアで。ありがとな」
    「気にするな、では待っていてくれ」
    「おー……」


    「これでよかっただろうか」
    「ありがとな、冬弥。早速食っていいか?」
    「あ、ああ……口に合うといいが」
    「んな不安そうな顔すんなよ、味見してねえの?」
    「しなかったわけではないが……彰人は甘いものが好きだろう、俺の好きな味を彰人が好きとは限らないと思って」
    「ふーん……このラッピングも冬弥が用意したのか?」
    「それは小豆沢や白石にお店を聞いて買ってきた」
    「結構いいセンスしてる、中身のクッキーが花の形なのは可愛すぎると思うけど」
    「それは、その……俺の家にある型抜きが、それしかなかったんだ」
    「そういえばお前ん家、誕生日はクッキー食べるんだったっけ?」
    「ああ、そのときもこの形をしたクッキーを食べていた……彰人の誕生日にも同じようにクッキーを食べたいと思って、メイコさんにレシピを教わって作ってみたんだ」
    「なるほどな……じゃあさっそく一枚貰うわ」
    「一思いに食べてやってくれ、それで美味しくないなら返してくれても構わない」
    「落ち着けよ、なんか変なこと言ってるぞ」
    「だが……初めてなんだ、自分が作ったものを誰かに食べてもらうのは」
    「なら、尚更大事に食わねえとな……いただきます」
    「め、召し上がれ……」
    「ん……おお、美味いぞこれ」
    「本当か?」
    「確かに甘くはないが、バターの風味がめちゃめちゃするし焼き加減もちょうどいい。あとは……シナモンか、これ」
    「よく分かったな、母さんが入れていると教えてくれたんだ」
    「じゃあ、これが冬弥の実家の味ってことか」
    「そういうことになるな」
    「誕生日とかじゃなくてもさ、また作ってくれよ。結構好きかも」
    「そうか、気に入ってもらえてよかった」
    「オレさ、お前がこうやって普通に家族の話をしてくれるようになったの、嬉しいっつーかよかったなって思うよ」
    「……前は気を遣わせていただろうか?」
    「そうじゃなくて……上手く言えねえけど、でもお前のいい変化を近くで見続けられてよかったって感じがする」
    「俺が変わったのだとすれば、それは彰人のおかげだ。改めてありがとう、彰人」
    「いちいち大袈裟だな……まあ、お前らしいか」
    「次はクリスマスに焼こう。オーナメントクッキーというものに挑戦したい、そうしたらみんなに配れるから……どうだろうか?」
    「あー……それは困るって言ったら、どーする?」
    「困る、のか?」
    「お前の作ったクッキーはオレだけが食べたいっていうか……」
    「それは……夜に電話で言っていたのと、関係あるのだろうか?」
    「まあ、あるな」
    「そうか……俺は彰人の困ることはしたくない、し、彰人を独り占め出来るのは悪くないと俺も思っている。これは、相棒という関係だけでも成立することだろうか?」
    「例えそうだとしても、オレはそれ以上の名前をつけてえよ……冬弥、オレはお前が好きだ。お前はどうだ?」
    「お、れは……彰人に一番最初にお誕生日おめでとうと伝えたいと望むほどに、彰人に俺の好きな味を覚えて欲しいと願うほどに、彰人が大好きだ」
    「お前、めっちゃオレのこと好きじゃん」
    「ああ、そうみたいだな」
    「……フラれたらどうしようってオレ結構緊張してたんだけど」
    「俺には落ち着けと言っていたのにか」
    「それはそれだろ、てかお前の緊張がうつったのかも」
    「それは悪いことをしたな……お詫びにハグでもしようか」
    「お前ってタチ悪いよなマジで……お前から言ったんだからな、冬弥」
    「ああ、いつでも来い」
    「あーーもう、ちょっとはカッコつかせろよっ!」
    「心配するな、彰人はいつでもカッコいいぞ」
    「頭撫でられながら言われてもな……」
    「ふふ……大好きだ彰人」
    「オレも、好きだ」
    「少し恥ずかしいかもしれない」
    「全然そんな風に見えねえけど」
    「主役より恥ずかしがってちゃいけないからな」
    「なんだよそれ」
    「誕生日とはそういうものだと、教えてくれたのはお前だろう彰人」


    (211112)

    見ざる聞かざる言わざる(若干背後注意)



    「本当に俺が貰ってしまってもいいのか?」
    「ああ……捨てるのもなんか気味悪ぃし、気に入ったんなら持って帰れよ」
    「ありがとう、彰人……しかし本当によく出来た人形だな、司先輩の愛嬌のよさが完璧に表現されている」
     恐らく誰が見ても機嫌がいいと判断出来るくらい珍しくテンションが上がっている冬弥が持っているのは、さっき謙さんの店で開けたびっくり箱に入っていた司センパイを模した人形だ。ぬいぐるみのようだがしっかりとした造りになっていて、冬弥が両掌を広げてちょうど乗るくらいのサイズ感のそれはさっきまでひたすらオレへの祝いのセリフを叫び続けていたのだが神代センパイからの助言により無事に止ませることに成功した。そうしてびっくり箱から引っこ抜いたはいいものの、やり場に困っていたオレは冬弥に押し付け……基、いらないかと声をかけたらこの反応だったというわけだ。実物の司センパイを目にした途端にニコニコする冬弥を見ているようでモヤっとする、こんなことならこはねに勧めればよかったと後悔するも冬弥は優しい手つきでグラデーションまで再現された司センパイの頭を撫でるものだから、もう何も言えなかった。
    「そうだ、今日はこのまま泊まりに来るで間違いなかったよな?」
    「ああ……マジで泊まりに行って大丈夫なのかよ?」
    「問題ない、海外に行くともなれば急に帰ってくることはないだろうからな」
    「まあ、お前がいいならいいんだけど……」
    「彰人の誕生日なのに、俺のお願いばかり叶えてもらってしまってすまない。でも精一杯おもてなしはするから、期待していてくれ」
     冬弥の両親が一週間ほど、海外留学している兄貴のところへ滞在しているらしい。オレの誕生日と被っているからよければ泊まりに来て欲しいとお願いされたのだが、そのとき二人きりでしかできないことをしようと少し頬を赤らめて言われたものだからオレとしてはそういう期待しかしてない。勿論、冬弥が最近作れるようになったというミートソースパスタも楽しみだけど。そういうことをするときは基本的にオレの家だったから冬弥の自室に果たしてゴムやらローションやらあるのかが些か不安で、荷物の準備をする時にまずそれを外泊用のボストンバッグに突っ込んだのは内緒だ。
     そんな感じでイベントのときや初めて冬弥を抱いたときとはまた違う緊張感を持って冬弥の家にお呼ばれされ、パスタは明日の昼飯にして今日はもうお風呂に入ってしまおうなんてそれっぽいことを言い合ってそれはそれは丁寧に身体を洗ってバスルームを出れば、ちょうど目の前に位置しているお手洗いから先に風呂を済ませていた冬弥が出てきた。
    「えっと……ちゃんと温まったか?」
    「おかげさまで……このあと、まだなんか用意してるか?」
    「し、してないことはない、のだが……」
     それは部屋がいい、とねだるような視線と萎んだ声を寄越されたオレは、じゃあそうしようと大きく二回頷いた。元より人様のウチのどこかで致すつもりなんかなかったし、何より冬弥からこんな風に言われるのなんて初めてだから同意しないわけがなかった。リビングに置きっぱなしにしていたボストンバッグは無事に回収、そうして案内された冬弥の部屋……基、ベッドの上は少々異質なことになっていた。
    「……おい冬弥、なんであれあそこにあるんだ」
    「あ……すまない、帰ってきてからどこに飾ろうか決められずそのままにしていた」
     数時間前、元気よくオレの誕生日を祝ってくれていた司センパイの人形が先に鎮座していたのだ。どうやら収納ではなく飾る気だったらしい冬弥は慌ててそれを回収すると、少し悩んで部屋の隅にあったピアノの上に結構丁寧な手つきで座らせた。ドヤ顔でこっち見てくるのがムカつくけど、冬弥もちょっと緊張が解れたのかさっきよりは表情が柔らかくなったようなので何も言わないでおいた……司センパイのおかげみたいだから、やっぱちょっと腹立つけど。
    「客用の布団なんかがなくて、同じベッドで寝ることになるんだが構わないか?」
    「それは全然いいけど……シーツの替えとか、あんの?」
    「……そこまでやるつもりなのか?」
    「何を?」
    「……彰人がそのつもりなら、俺はすぐ寝てもいいんだからな」
    「もてなしてくれるんじゃなかったのかよ」
    「明日、手料理を振る舞うと言っただろう?」
    「あー悪かったって……」
     今のところ拗ねてはいないと思うが、空気が悪いし正直ここでお預けはオレがしんどい。ご機嫌取りのつもり二割、あとはほとんど我慢できなくてその唇にキスをする。何度か繰り返せばちょっとつり上がっていた目尻もとろんとなって、準備万端といった感じだ。元より敏感だったという耳も今では随分快楽を拾えるようになって、キスしながら触ってやればそれだけで腰砕けになるほど。一緒に身体を預けたマットレスは程よい反発力で、いつかお小遣い貯めたら自分の部屋のもこれくらいいいやつに変えてやろうとこっそり誓ってまた目の前のふにゃふにゃになってきた冬弥に集中する。着古したスウェットをパジャマ代わりに着ているオレと違って、冬弥は正真正銘ボタン留めの正統派なパジャマを着ていた。触り心地のいいそれの上から身体をなぞれば、いつも弱い箇所を通る度にぴくんと小さく反応を示してくれる。普段は私服か、たまに制服のままってことはあるけど、パジャマでスるのは初めてだから冬弥がどれくらい感じられるのかが分からない。もういっそ手っ取り早く脱がしてしまおうかと、一番上のボタンに手をかけたところで冬弥の手が力なく重ねられた。興奮しているのかいつもより体温の高い触れ合いの意味が分からず手を止めて目で促せば、オレの後ろの方を見つめるのでそれに倣う。あのドヤ顔が、視界に入った。
    「なんだか、見られているようで、恥ずかしくないか……?」
    「お前があそこに置いたんだろ……」
    「そうなんだが……」
     一度気になると落ち着かなくなってしまったらしい冬弥に、これ以上進む前に隠してこいと言えばよろよろと覚束無い足取りでぬいぐるみの元へ向かう。大事に抱き抱えたそれの新しい居場所は、オレのボストンバッグの影だった。
    「ごめんなさい先輩、しばらくここにいてください」
    「普通に話しかけるなよ、また声上げそうで怖いっての」
    「だが、よく出来ているのでなんだか無下に出来ないというか……」
     行きよりはしっかりとした足取りで戻ってきた冬弥は、座るなり目を閉じて所謂キス待ち顔ってやつでオレの次の動きを待つ。どうやら誘いはしてくれたけどそれ以上はノープランらしい、だったら誕生日権限で好きなようにさせてもらおう。
    「あ、やべゴムカバンの中だ……」
    「司先輩に持ってきてもらうか?」
    「おい、マジでヤメロって」
    「ふふ、冗談だ。ちゃんと準備してあるから安心して欲しい、ただ……その、彰人がいつも使っているものが分からなくて、オススメと書いてあったものを買ったんだが……」
     枕の下に手を伸ばした冬弥が持ち出したのは、オレが普段持ち歩いているものとサイズは一緒だが僅かに薄いヤツだった。一瞬迷って、それを受け取る。カモがネギを背負ってやってくるってこういう感じなのかと、シンプルな緑の外箱を見て数日前の現代文の小テストを思い出していた。


    (211120)
    熱がこもって仕方ない


     目が覚めた瞬間、嗚呼これは絶対に発熱しているなという確信を得た。ここのところ寒暖差が激しくて、身体が追いつかなかったんだろう。上半身だけ起こして、部屋の外に漏れないくらいのボリュームで発声をする……これは特に問題なさそうだった。気になるのは全身の倦怠感と多少の頭痛、立ち上がった時に平衡感覚までおかしくなっている感じはしなかったから高熱ではなさそうだ。何か軽く胃に入れたら風邪薬でも飲んで学校に行ってしまおう、そう決めて着替えてからリビングに顔を出してようやく思い出した。昨日から父さんも母さんも出払っていたのだ、行き先は確か福岡だったか。そんなことも思い出せないくらいにはやはり鈍っているようで嫌になる、昨日のうちにハウスキーパーさんがおかずを数日分作り置きしてくれていて昨夜はそのうちの一つをいただいたというのに。冷蔵庫を開けて残りのおかずを確認するも、食欲がないせいかどれも美味しそうに見えてこなくて申し訳なくなりながら扉を閉める。
    「……休もうか」
     先週テストが終わり、どの授業も学期の総仕上げのような内容に切り替わっている。だから手を抜いていいとは思わないが、最悪自習すれば十分追いつけるのも確かで。休んでしまおう、その言葉を思い浮かべた途端脚に上手く力が入らなくなってキッチンにしゃがみこんでしまった。おかしい、さっきまではここまでなかったはずなのに。もしかするとなんとしても学校に行かないといけないという気持ちで動けていただけで、本当はもう結構限界だったのかもしれない。制服が皺になるといけないからなんとか立ち上がって、薬と水だけ手に取って壁伝いに部屋へと戻る。自分の身体なのに上手くコントロール出来ないから、風邪をひくのはあまり好きではない。同じ箇所でずっと躓いて、叱責されて、それがプレッシャーでまた間違えて、といったピアノのレッスンを思い出してしまう。今は熱のせいで震えている指でなんとか錠剤を二錠口に運び、水で一気に流し込む。冷たい感覚が喉から食道へ移動していくのがなんとなく気持ちよくて、そのままベッドではなくカーペットの敷かれていない剥き出しのフローリングへと横になった。制服の下の身体全部がどくどくしていて、しんどい。学校に連絡しないといけないのに、こんなんで上手く説明できるだろうか。
    「あきと……待っているかも、しれないのに……」
     そうだ、今日はサッカー部の朝練がないから駅の近くの公園で待っていると約束した。無断で破るのだけは勘弁したくて、床を四つん這いで移動してなんとか枕元に置きっぱなしだったスマホを回収する。メッセージなんて入力できるほどの気力もなくて、通話のボタンを押した。耳に当てることで聞こえてきた着信音すら、頭が割れそうなくらい響く。
    『もしもし、どうした?』
    「彰人……」
    『冬弥お前、体調悪いのか?』
    「た、ぶん……熱が、あるのか、しんどい……」
    『親御さん……はいないって昨日言ってたな、タイミング悪すぎんだろ……今どこだ? まだ家か?』
    「まだ、着替えただけだ……すまない、一緒にいこうと、いってくれたのに……」
    『それはいつでも行ってやるから。着替え直してから寝とけよ、今から行くから』
    「え……だが彰人、学校は……」
    『サボんねえよ、コンビニで食えそうなものとか冷たいものとか買って持って行ったらちゃんと学校行く、これでいいだろ』
    「……すまない、そんなつもりで電話したわけじゃ、なかったんだが……」
    『謝んなって。いいから横になっとけ、すぐ……は難しいかもだけど、極力早く着くようにする。冬弥は欲しいもんないか、食べ物でも飲み物でも買ってくるから』
    「……あきと」
    『ん?』
    「彰人が、きてくれるなら、それでいい……」
    『今そういうこと言うなって……親に車出してもらって行くから、近くなったらまた連絡する』
     ありがとう、と最後に言った声が自分でも驚くくらい覇気がなくて、聞こえていたのか心配になった。また迷惑をかけてしまったというのに、彰人が来てくれるのが嬉しいなんて。先に行ってくれと言うだけでよかったのに、彰人が名前を呼んだだけで気づいてくれたのが嬉しいなんて……自分がすごくいやになる。熱い頬の上を転がる涙はさっきの水と違ってこちらも熱を帯びているのか、流れたあとがそのまま焼けているように火照っていく。言われた通りに着替えて、横になって、彰人からもう一度電話が来たらなんでもないように振る舞わないと、これ以上心配かけるわけにいかないから。
    「彰人……ごめんなさい」
     彰人には頼ってばかりで、申し訳ない。罪悪感でいっぱいの頭はおかしくなったのか、着替えている間もずっと涙が止まらなくて、ただでさえ皺がついたシャツにはところどころまだら模様までついてしまっている。それでもなんとか朝着ていたパジャマに袖を通し直して、ベッドに横たわるところまでは出来た。彰人が来たら、まずは謝って、すぐに学校へ向かってもらって、日を改めて親御さんにもお礼をしよう、俺にもそれくらいは出来るはず。
    「……早く、会いたい」
     ぐわんぐわんと痛む頭のせいで、そんな醜い俺の願いが頭まで被った布団の中を反響しているように感じさせて余計に胸が痛んだ。

    (211127)
    挑発したのはどっち?

     冬弥はあれからずっと、オレが片付けをしている隣で自分の指を見ていた。よれたら困るからじっとしておけと言ったから、それくらいしかやる事がないといえばそうなんだろう。『最後の仕上げはしない』と伝えた時、そうかと簡単に引き下がってはくれたものの、オレはその目が残念そうに伏せられたのを見逃しはしなかった。とはいえ、あんなものを杏たちがいる前でやりたくはなかった――恐らく杏は、オレたちがやるかやらないか試したくてわざわざ見せつけるようにやったんじゃないかと思うが。そんなアイツらは、先にリンたちに見せてくるとカフェへ出向いて行った。
    「……俺も彰人に塗ってやりたかった」
    「んだよ急に」
    「彰人に塗ってもらうのが楽しみで言ってなかったが、実は俺は何度か自分で自分の爪に塗ったことがある」
    「マニキュアを?」
    「こんなオシャレなものじゃないぞ、演奏中に爪が割れないようにするための補強剤だと母さんが言っていた」
    「ああ、そういうやつ」
     なんでそれを今このタイミングで言おうと思ったのか、多分自分ばかりやられる側なのがこんなにつまらないものだとは思ってなかったんだろう。無自覚なんだろうけど、言葉の端々に拗ねているような感じが見え隠れしていてちょっと可愛い。
    「じゃあやるか、最後の仕上げ」
    「……やらないんじゃなかったのか?」
    「アイツらのは正しくねえの、これが本当の仕上げだろ」
     そう言ってオレは、姉貴から借りてきたトップコートをテーブルの上に出す。代償として帰りにコンビニの高めのロールケーキを買わないといけないが、冬弥の爪をより綺麗に見せるためなら必要経費だろう。
    「ほら、塗れるんだろ」
    「お、俺からやるのか……」
    「やりたいんじゃねえの?」
    「……やりたい」
     そう言って冬弥はトップコートを手に取って、キャップを外してボトルの口でハケについた余分な量を丁寧に落としていく。塗ったことがあるというのは本当なんだろう、ピアノってマジで爪が割れるんだと荒れたのを見たことがない冬弥の指先を思い出した。
    「彰人、手を貸してくれ」
    「あ、悪ぃ……」
    「要領は普通のマニキュアと変わらないのだろうか」
    「そうだな、凹凸が出来ないように塗った場所が極力重ならないようにしたら見栄えがいいって姉貴から聞いた」
    「ふふ、やっぱり仲がいいんだな」
    「そういうんじゃねえっつーの」
     もしかしたら冬弥は、オレがアイツにパシられて塗らされたと思っているのかもしれないが実は一回だけそうじゃない時があった。今回こうやってネイルをして歌ってみると決まったあと、オレから頼んでやらせてもらったことがある。人を練習台にするなんて、とかなんとかかんとか言われたけど、今回買ったこの黄色のネイルの残りをあげることでなんとか権利を得たのだった――店員さんに勧められるがままに買っただけだが、まあまあいいやつだったらしい。
    「なんだか緊張してきた」
    「別に、失敗したっていいけどな」
    「だが、これも衣装のうちだろう? 彰人が選んでくれた衣装を、俺が台無しにするわけにはいかない」
    「真面目だな、お前……」
     冬弥は真剣な顔でまずはオレの右の小指にハケを載せる。すっと根元から爪先にかけてハケが滑った後の爪は、確かに先程よりも随分発色がよく見えた。感覚を取り戻したのか、冬弥はテンポよく残りの爪も塗ってゆく。右手全てを塗り終えるのも、始まってしまえばあっという間だった。
    「どう、だろうか?」
    「オレもネイルには詳しくねえけど、悪くないんじゃないのか?」
    「では、左も俺がやってもいいだろうか」
    「ん、よろしく」
     合格点が貰えて嬉しいのか、さっきよりもリラックスした感じでオレの左手を取る。分かりやすく機嫌がいい、右手が動かせていれば頭を撫でて楽しそうだななんて言ってしまいそうなくらい、冬弥は笑顔だった。
    「これはすぐに乾くのか?」
    「確か速乾性が売りとかなんとか言ってたし、そうなんじゃねえの?」
    「なら、俺の分は彰人がやってくれるだろうか?」
    「言われなくてもそのつもりだったけどな」
    「そうか、では速く乾くようにおまじないをかけよう」
    「おまじない?」
     左手まで全て塗り終えた冬弥が唐突にそんなことを言い出すので、聞き返す。当の本人は至って大真面目な顔でトップコートの蓋を閉めると、塗られたばかりのオレの左手を恭しく取ってその甲にキスをされた……は? キス?
    「おまっ、何やってんだよ……!」
    「さっきの白石達に倣ってみたんだが」
    「あれは正しくねえってさっき説明しただろ」
    「すまない……たまには俺も彰人を照れさせてみたかっただけなんだ」
     そんなに怒ると思わなかったと見るからにしょんぼりしている相棒を見て、これ以上何か言える奴がいるだろうか。少なくともオレには無理だったので、キスされた方の手を静かに引っ込めて見つめてみる。グロスとかをつけているわけではないから、冬弥がどこに唇を押し当てたのか傍から見ても分からないだろう。だがオレは知っている、柔らかくてほんのり温もりのある冬弥の唇の形を。
    「なあ、冬弥」
    「っ、ああ」
    「手だけじゃ物足りないんだけど」
    「それは……」
    「オレ今手ぇ使えないから、冬弥からしてくれるよな?」
    「……目を瞑って、ほしい」
     ちゃんとやるから、と呟いた冬弥の顔は真っ赤で、してやったりとオレは機嫌よく言われるがままに目を閉じた。

    (211226)
    バグ、獏、はく

     セカイを形作っているのは俺達自身の想いだというが、だとしてもどうしてよりによってこの想いを汲み取ったのだろうか。


    「うーん……私達にもよく分からないな、ごめんね」
     適当に匙を投げたようにも聞こえるミクの台詞だが、本人の顔は至って真剣だからそれ以上何も言えない。それに、正直仕組みは分からずともこうなってしまったきっかけに思い当たる節があるから、寧ろこの場で解明されなくてホッとしている自分がいた。もしかしたらミクのことだから分かった上でこんな態度を取っているのかもしれない、それならば後でこっそり礼を言わなければ。
    「他にどっかおかしいところはねえんだよな」
    「そうだな、特には」
    「じゃあ練習しようぜ、歌ってればそのうちなんとも思わなくなるだろ」
    「ああ、分かった」
     俺はマグカップに残っていたコーヒーを飲みきってから、席を立つ。同じくらいのタイミングで立ち上がった彰人の目線と上手くかち合わなくて、戸惑う。
    「それにしても、身長が低くなってしまうだなんて本当に不思議なこともあるものね」
     メイコさんの言葉に苦笑いを返す他ない、俺はさっきこのセカイに来てから何故か背丈が縮んでしまっていた。一緒に来た彰人には特に何も変化はなく、俺だけがだいぶ低くなってしまっていて今はここにいないが小豆沢や白石とそんなに変わらないくらいな気がする。
    「ご馳走様でした、メイコさん」
    「お粗末様でした、また何か異変があったらすぐに戻ってくるのよ」
    「そうします……じゃあ行くぞ、冬弥」
    「っ、ああ、行こうか」
     普段僅かに下にある彰人の顔を見るには、意識的に見上げないといけない。そうすることでようやくかち合った目線は、ぶっきらぼうな物言いとは違い心配していることがありありと伝わってきていたたまれなくなる。
    「……本当に大丈夫なんだよな、ミク達の前だから無理してたとかそういうのはないんだな?」
    「問題ない、背が小さくなったのに合わせて声も変わっていたら練習どころではなかっただろうが」
     カフェを出ていつもの練習場所に向かいながら、やはり彰人はそんなことを聞いてきた。ミク達の前だからと態度を変えていたのは自分の方ではないかと笑いそうになるが、心配させているのは自分なのだからと気持ちを改める。
    「心配してくれてありがとう彰人、相変わらずお前は優しいな」
    「茶化すなよ……冬弥がオレより小さいと落ち着かねえだけだ」
    「そんなに違うか?」
    「靴でどうにかなる差じゃないだろこれ」
    「そうだな……10センチほど違うだろうか」
    「それ以上じゃねえか、これ」
     服の袖や裾が余るということはないから、きっとセカイの何かしらの因果が働いて見た目そのものが小さくなってしまっているらしい俺からすると、見慣れた色んなものが大きく見える。俺が話す度にこちらを覗き込むようにしてくる彰人も、当然随分と大きく見えていた。
    「……確かに落ち着かないな」
    「今更だな」
     だって俺は、今まで彰人にこんなことをしてもらったことがない。彰人はあの子と話す時もこんな風に話しかけていたのだろうか、話しかけられたあの子は今の俺と同じような気分になっていたのだろうか。
    「……いいな」
     練習用の譜面を探していたらしい彰人には届かなかった独り言が、風に乗って空へ飛んでゆく。こんなことを口にするからこうして異変が起きているかもしれないのに、己の身勝手さに腹が立ってきた。だけど隣に立つ彰人を見る度に、どうしても朝見かけた光景が脳内をチラついて胸が苦しくなる。こうして抱く憧れが、今もこのセカイに吸収されているのかもしれない。
    「とーや」
    「っ、どうした彰人、譜面が足りないのか」
    「そうじゃなくて……どうしたはこっちの台詞だ、やっぱどっか具合悪いんじゃねえの? さっきからずっと、ぼーっとしてる」
    「大丈夫だ……見えているものの大きさが違うように感じて、圧倒されていただけだから」
     すまないと口にして誤魔化せば、彰人は全く納得していなさそうな顔であっそと返してきてまた譜面を見始める。俺の背が低くなってから、彰人は一度も笑ってくれていない。落ち着かないと言っていたしあれだけ心配してくれているのだから笑うどころではないのだろう、だがあの子が見たであろう彰人の笑顔を俺も見たいと願うのはあまりにも我儘が過ぎるだろうか。
    「誤魔化すならちゃんと誤魔化せよ、顔がずっと辛そうなのに無視できねえだろ」
    「え……そんな顔をしていた、だろうか」
    「言いたいことがあるけど上手くまとまらないって感じの顔してる」
    「あ……すごいな彰人は、エスパーみたいだ」
    「別にそんなじゃねーよ……で? 話せそうかよ」
    「……友達の話、なんだが」
     背が平均よりも高いことを、彼は今まで一度も気にしたことがなかった。寧ろ色んな服が似合っていいと褒められた経験から、そのことを誇らしく思っていたくらいだった。だが彼の考えはある朝一変した、彼のスタイルを褒めてくれた大切な人が自分の知らない誰かと歩いていたのを見たからだった。そのこと自体は別におかしなことではない、いつでもセットなんて周囲から呼ばれていてもお互い知らない人間関係があることくらい彼も理解していた。彼が動揺したのは、彼の大切な人よりだいぶ背の低い女子生徒と並んで歩くその人とがいい雰囲気に見えたからだった。どうして自分は背が高いのだろうと彼はそのとき生まれて初めて疑問に思った、大切なあの人よりも背が低ければ自分だってあんな風に優しく笑いかけてもらえるのではないだろうかと羨ましく思った、そしてそんな自分を彼はひどく嫌悪した。
    「なんでそこで嫌悪したんだ?」
    「だって、それは……」
    「まあ分かんねーよな、友達の話なわけだし」
    「あ、そ、そう、だな……」
    「今実際小さくなってみたお前なら、アドバイス出来るんじゃねえの」
     現実世界の、どう頑張ったって彰人より小さくならない俺に、今の俺はなんと声をかけるだろうか。思い出すのは、いつもの自分が見ている風景だった。
    「……あまり、オススメはしないと思う」
    「なんでだ?」
    「『普通』が恋しくなってしまうからだ」
     何もしなくても彰人と目線が交わることを俺は当たり前だと思っていた、だけど今は意識しないと彰人の顔を見ることが出来ない。それはすごく不安なことだった、当たり前であることに俺はすっかり甘えていたのだと気がついた。
    「それに、小さくなっただけでは笑ってくれるとは限らないから」
    「へえ」
     興味があるのか無いのか分からない塩梅の彰人の返事を聞いて、つまらない愚痴を聞かせてしまっていたと反省する。早く練習をしようと仕切り直そうとした俺より先に、彰人がオレも友達の話なんだけどと口にした。
    「ああ、どうかしたのか?」
    「……見上げられるよりも、同じくらいの位置で見つめられる方が好きな奴もいるってさ」
    「な、るほど……?」
    「無理しなくていいって話だよ。というかマジで落ち着かねえな、寒いけどいつもの公園に戻るか」
    「そうしよう、練習に集中出来ないのではこちらへ来た意味がないからな」
     彰人の友達の話を聞いて、少しだけ胸が軽くなった。逸る気持ちを抑えて、俺はスマホから流れていたあの音楽を止める。白い光に包まれる自分の身体がどうか、彰人の隣に見合うものになりますようにと思いどおりにはいかない世界に願った。


    (211230)
    鬼も微笑む幸せ(同棲設定)


    「そんなにじっと見てなくてもいいんだぞ」
    「だが3分で食べないとのびてしまうんじゃないか?」
    「……実は10分ほっといたほうが美味いんだぜ」
    「そうなのか!」
    「うどんだったら、だけどな」
    「……揶揄らないでくれ、彰人」
     さっきまで年末恒例の歌番組に興味津々であったのに、年越し蕎麦を作ると言った途端すっかり目の前の赤いパッケージに夢中になってしまった冬弥の目はキラキラしている。一緒に住んで初めて二人きりの年越し、彼の実家の大晦日は第九の演奏会を観に行って初詣にも行かず除夜の鐘を聞く前に眠っていたらしいから、全く真逆のことをしてやろうと前々から画策していた。年を越すギリギリまでテレビを見ながら蕎麦を啜ってダラダラ過ごして、時間になったら杏達と合流して除夜の鐘を鳴らしに行こうという約束をしている。
    「夕飯少なめにしといたけど、逆に足りない気がするな」
    「俺はちょうどいいと思うが……初詣の出店に期待しようか」
    「そーだな……よし、食うぞ」
    「ではこの、あとのせサクサク天ぷらをのせてもいいのか?」
    「のせる前に軽く麺解しとけよ」
    「分かった……おお、いい香りがするな」
     高校生になってから二人で初詣に行くことはあったけど、オレの中で年越し蕎麦は家族で食うものだという認識があったから、これはオレにとっても『はじめて』家族以外と食べる年越し蕎麦だ。ちなみに冬弥にとっては、初カップ麺だし初年越し蕎麦にあたる。
    「サクサクして食べたいが、そうすると麺がのびてしまうか……?」
    「いや、それ一つ食うのにそんなに時間かかんねーだろ」
    「結構大きいだろう、これ」
    「そう、か……まあ半分だけ先に食えばいいんじゃね?」
    「ではそうしよう、カップ麺の先輩の言うことは絶対だからな」
    「なんだよそれ」
     自分の割箸に手をつける前に、少しだけつゆに浸したえびのかき揚げにかぶりつく冬弥を見守る。テレビも消してしまったから、サク、と彼念願の食感がオレの耳にも届いた。
    「どうだ?」
    「本当にサクサクだな、美味しい」
    「そりゃよかった、時間余裕あるしのびない程度にのんびり食えよ」
    「ああ、そうさせてもらう」
     隣がスローテンポで食べているからどうにもこちらのペースまで落ちてしまうが、冬弥に伝えた通り時間にはまだ余裕がある。仮にのびた蕎麦を食べることになってしまったとしても、それはまた冬弥にとっていい経験になるだろう……あまりオススメはしたくないが。
    「ふふ、美味しいな彰人」
    「そーだな……」
    「年が明けたらお餅も食べよう、海苔を巻いて食べてみたい」
    「おいもう来年の話かよ」
    「あと数時間後の話だがな」
    「来年の話したらなんとかって言うだろ」
    「鬼が笑う、だな。だがあれは予測できないことをあれこれ話しても無駄だということわざであって、お餅を食べることは確定していることだから大丈夫だ」
     蕎麦を啜りながら餅を食べる話をしていることをツッコめばよかったなと後悔しながら、オレも自分の蕎麦を食べ進めることに専念する。
    「……今年も彰人と色々なことを経験できて、幸せだった」
    「そりゃよかった」
    「彰人は、俺といられて幸せだったか?」
     何を言い出すんだと隣の冬弥を見れば、質問とは裏腹に満面の笑みを浮かべていたからオレも思わず笑った。そんなに自信満々なくせに、変な質問をしてくるので参ってしまう。
    「オレとお前の気持ちが違えたことなんか、あの日以来なかっただろ」
    「そうか、そうだな……ふふ、幸せだな彰人」
     美味しいって幸せだなと繰り返す冬弥の頬に、堪えきれずキスをする。ああ外に出たくないなあと今年最後の煩悩を生み出してしまった。


    (211231)

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    • 彰冬まとめ①Pixivからの移植
      20.11~21.3

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      くぅにこ
    • アイコトバ #彰冬

      2Microphonesにて公開していた展示作品です。
      騎士×王子パロです。
      くぅにこ
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      0612OurUntitledにて公開していた展示作品です。
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    • 彰冬まとめ②Pixivから移植
      21.4~21.7

      #彰冬
      くぅにこ
    • ぼくらの三重奏 #彰冬

      Pixivから移植

      ──俺の声を、覚えていてください。

      あの日あのイベントに出会えなかった彼と、あの日路上で歌うことを選べなかった彼が、『彼ら』になるための可能性の話、つまりかなり特殊設定なパラレルです。ハッピーエンドです。
      話に沿って関係性が変わっている他キャラやモブも出てくるのでご注意ください、作者はロボット工学や医学に精通していないため設定に関してはふわっと読んでいただけると幸いです。


      アイデア使用の許可をくださったフォロワー様と、ついった掲載時に評価をくださった皆様へ最大限の感謝を。
      くぅにこ
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