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    2024/04/16 11:45:55

    【Web再録】春に眠るきみのこと④

    #みかさに #女審神者 #刀剣乱夢

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    【Web再録】春に眠るきみのこと④

     その日の朝は随分騒がしかった。もちろん、それは日付のせいでもある。何せ今日は元旦だったのだ。
    「ああ待って鶴さん! 餅をつくならこっちで準備があるから!」
    「ねえ! ボクの晴れ着どこ? 去年どこにしまったっけいち兄!」
     様々な刀剣があちらこちらで走り回る。ばたばたとせわしない。そっと襖を開けてその様を見た審神者は、自分も何か手伝うかと腰を上げかけた。しかしそれはすぐに三日月に引き戻される。
    「いかんぞ、主。そなたはそなたで支度があるだろう?」
    「いえ、私の支度なんてさっとで大丈夫ですよ。それよりお正月の準備をしないと。ただでさえ慌しくて、大晦日に間に合わなかったんですから」
    「何を言う、今日はそなたが主役ではないか」
     三日月の言うとおりであった。なんと今日は元旦でもあり、審神者と三日月の祝言の日だったのだ。
     思えば三日月の提案はいつも突拍子がなく、その度に審神者は慌てふためいて振り回されたものだが、今回もその例には漏れない。秋の夜長に「年が明けたら祝言を挙げよう」と言い出した三日月の行動は素早かった。翌朝には清光に報告し、燭台切やらの厨を取り仕切りや乱なんかのそういう現世の事柄に詳しい刀剣なんかに根回しをさせた。
     「どうせ結婚するのなら、年明けを待たずにもっと早いほうがいいのでは?」という声は当然上がったけれど、結局は当初の予定通りに収まる。……残された時間が短いのも事実かもしれないが、とりあえず年明けとしてしまって、審神者の気力を持たせたかったのだ。何か楽しいことがあれば、それまで元気でいてくれるかもしれない。
    「そうと決まれば準備しなくっちゃ! 花嫁さんには立派な衣装を用意しなくちゃね。ドレス? それとも白無垢?」
    「カタログ取ってくるばい!」
    「主君に似合うものをお選びしましょう」
     乱を始めとし、一気に食卓で話し合っていた刀剣たちが立ち上がったのを見て、審神者は目を白黒とさせた。そこまで大掛かりなものをするつもりはない。いや本当に、簡単にごっこ遊びのようなものでいいのだ。
    「いいんです、いいんですよ、そんなに張り切らなくて!」
    「なーに言ってんの。結婚式って、女の子の憧れでしょ」
     止めに入った審神者の額を、清光がピシリと弾く。思わず彼女はそこを押さえた。結構痛い。
    「清光」
    「主の晴れ舞台だもん。俺たちだって精一杯準備するよ! さあほら皆! 役割決めるからさっさと並んで」
     この一年、涙脆くなってよくない。彼女は今度は慌てて顔を隠す羽目になった。
     一陽来復とはよく言ったもので、審神者の体調は秋頃と打って変わってましになった。無論、全てがいいほうへ向かったわけではない。まだ審神者には常に眠気がついて回るし、きっとこれからもっと酷くなる。しかしその自覚が彼女にできたことで、コントロールしようと前向きになれた。今はもう、暦をずらしてめくることもない。
     体力温存のため、支度をするぎりぎりまで三日月と休んでいるよう言われた彼女は、仕方なしに大人しく三日月の腕の中に納まる。本当は色々手伝いたいのだけれど、清光たちは当日のお楽しみにとどんな準備をしているのかさえ教えてくれなかった。
    「私は幸せ者ですね」
    「うん?」
    「皆さんにとても大切にしていただいて。とても幸せな主です」
     ふふ、と微笑んで彼女は体を起こした。今日はひとつ節目だから、三日月に頼んでおこう。文机の引き出しを開いて、いつもの交換日記を取り出す。
    「三日月さんにお願いがありまして」
    「うん? なんだ、何でも聞こう」
    「私が死んだら、このノートの最後のページを開いてください」
     そう言うと、先程までのんびりと寛いでいた三日月が表情を硬くする。居住まいを正して首を振った。
    「そのような話をするには早いぞ、主」
    「いいえ、今日ですから、聞いてほしいんです。遺言って、配偶者に残すものでしょう? 今日からは三日月さんが、一応私の配偶者なわけですし」
     できるだけ湿っぽくならないように、彼女は笑顔でそう言い切った。一方の三日月はなんとも言えない表情で差し出されたノートを見下ろす。
    「普段は見ちゃだめですよ。とはいっても見られないように綴じてあるんですけど。ちゃんと私が死んでから見てください」
    「しかし」
    「お願いです、三日月さん」
     語気を少し強めれば、三日月は諦めて柳眉を下げ「わかった」と返事をしてくれる。そのことに彼女は安堵した。三日月はそういう刀だ。自分にとって少しばかりつらいことでも、それが相手のためであれば必ず成し遂げてくれる。それに付け入ったような形になるのが少し心苦しいが、それでも言い残しておかなければならないことは確かにある。
    「しかしだな、ひとつ条件があるぞ」
    「えっ? うわっ」
     三日月は受け取ったノートを文机に置きなおすと、彼女の腕を掴んで自分の膝に座らせた。すぐに着替えられるように脱ぎやすい服でいてくれといわれた彼女は、まだ寝巻の単衣である。冷えないよう厚手の生地で作られているものだが、それでも抱きしめられるには心もとない。
    「条件って、なんです?」
    「何かひとつ、願いを俺にくれまいか」
    「願いですか?」
     うむと三日月はひとつ頷いた。当然三日月もこの後着替えて支度をしなければならないので、お互いに単衣をまとったままである。柔かな生地が、肌に触れて暖かい。
    「何でもいいぞ、何かひとつしたいことを俺におくれ」
    「ええー? 急に言われても難しいですねえ」
     三日月に抱きしめられて、なんとなく居場所をなくした腕をその首に回して、うーんと彼女は考え込んだ。これまでに、かなりしたいことを叶えてもらったのでなかなか浮かんでこない。
     困って三日月にもたれかかる。その体温は、酷く心地よかった。だから彼女は思わずその肩口に顔を埋めてふふふと笑う。
    「どうした?」
    「いいえ、なんだか気持ちがいいなと」
    「んー? 何がだ?」
    「こうしてると体温がですね、暖かくて」
    「どれ、ならばこうしたらもっと暖かいか?」
     三日月はそう言うと、彼女を抱えたまま敷きっぱなしだった布団の上に倒れこんだ。ぼすりと音を立ててふかふかのそれに沈み込む。
    「あはは、昨夜寝てるときも思いましたが、ふかふかですねえ、布団」
    「先日そなたが寝入っているときになあ、歌仙が干していた。暖かい布団のほうが主にいいだろうとな」
    「なるほど、ふふ、暖かいです」
     くすくすと笑っている審神者の足に、三日月の足が絡みつく。布団からは日向の匂いがした。
     本丸は様々な時間軸から切り離された異次元ではあるけれども、しっかり四季は過ぎる。だからもちろん、今この部屋の向こうは雪化粧だ。それでも歌仙はきっと日のよく照っている日に布団を干していてくれたのだろう。冷たく澄んだ冬の香りに混じって、暖かな太陽のものもする。
     そこでふと、彼女は呟いた。
    「……桜が、見たいです」
    「桜?」
     三日月が腕をついて半身を起こし、尋ねる。天井を見上げながら、彼女は頷いた。
    「桜が見たいです、もう一度」
     もうあと一年も持たないといわれたころ、ちょうど、桜が咲いていた。ともすればこれが最後の桜だと、彼女は思っていたのだが。
    「無理でしょうかねえ……」
    「いいや」
     三日月は審神者の前髪を撫でて微笑む。うっとりと優しい表情に、彼女はほっとした。たとえ無理だったとしても、そう一蹴せずに笑ってくれるのが三日月の優しさであり、強さだ。
    「そうさな、春がくるのが待ち遠しいのなら俺たちが春の元まで向かえばよいだけのこと。きっと、そなたにもう一度桜を見せてやろう」
    「あはは、本当ですか?」
    「ああ、だからそれまで息災でいるんだぞ」
     祝言が終わったら、桜を見るまで。彼女にとっては気が遠くなるような願いであり、約束だった。けれど今なら、やれそうな気がする。本当に、次の桜を見られそうな気がする。
     くすくすと笑いながら、彼女は三日月の首に腕を回す。
    「お花見、何が食べたいですか? せっかくですから旦那様の好きなものを作って差し上げましょうね」
    「うむ、そうさなあ。せっかくの花見だ、甘いものが食いたい」
    「またですか? いつも食べてません?」
    「甘いものはいつ食ってもうまいだろう?」
     別に、構わない。たとえ刹那的な夫婦ごっこだったとしても、それは今確かに彼女を生かしてここに繋ぎ止めている。
    「花より団子とはいくまいが、美しい奥方に目を奪われることはあろう。花見のときは俺がそなたに着物を見立てような」
    「ええー、お洒落は苦手なんですよね?」
    「む、そなたに似合うものは選べるぞ」
    「どうでしょうねえ」
    「減らず口を聞くのはこの口か」
     三日月がむにいと審神者の両頬を引っ張る。布団の上で圧し掛かられた彼女はあははと笑い声をあげて足をバタバタとさせた。柔らかな掛布団がぼすぼすと音を立てる。日なたの匂いがあたりに広がった。
     賑やかに二人が笑っていると、すっと部屋の襖が開いて逆さの清光の顔が覗く。二人が布団の上で暴れているのを見て取り、呆れたような、しかしどこか嬉しそうな笑顔を浮かべた。
    「なーにいちゃついてんの。さあ主も三日月も支度だよ! 起きて起きて!」
    「はい、わかりました」
    「あいわかった」
     今度は清光の手を取って、審神者は起き上がる。寒くないように羽織を着せられ、マフラーをぐるぐる巻きにされて外に出た。
     真っ白な冬景色。何もかも、新しく塗り替えるような、そんな光景。



     いつもは狩衣なので和服には慣れているものの、紋付き袴というのはやはり背筋が伸びる。きゅっと三日月の羽織の紐を結んでくれた燭台切が、満足げにうんうんと頷いた。
    「やっぱり元がいいと違うね、かっこよく決まってる」
    「はっはっは、光栄だなあ」
     三日月の支度は燭台切が、審神者のほうは前田と乱が整えている。三日月も彼女同様、彼らがどんな準備をしてくれているのか知らない。三日月はすぐに顔に出るからと清光が教えてくれなかったのだ。
    「主も楽しみにしていた。お主たちが年末にかけて随分念入りに準備をしていただろう?」
    「そりゃあ、そうだよ。僕たちの主の結婚式なんだからね。衣装だってかなり迷ったんだよ? ドレス姿も見たいし。でもやっぱり、僕たち刀剣男士の主だからね。白無垢かなって。緊張してる?」
    「はは、うーん、そうさな。緊張とはまた、異なる心地がする」
     緊張というほど、三日月の心は強張っていなかった。確かにどこかしら胸はどきどきとしているのだけれど、不快なものではない。むしろなんだか、嬉しささえ感じる。
     やはり祝言を年明けにしたのは間違いではなかった。そのために今日まで審神者は元気でいてくれた。そして新年が明けたことで、皆が何かが変わったような、そんな明るい心持ちでいられる。もしかしたら、こんな日々がこれから春を越えても続いていくような気さえして。
     まだ外は一面の銀景色だが、心のうちだけはどこかぽかぽかとしている。そういう細やかな一つ一つの気持ちの変化で、三日月は自分が抱いている感情を確認できた。
     唇を緩めて、三日月が胸の辺りを押さえると、燭台切が目を細めながら微笑む。
    「いいなあ」
    「うん?」
    「僕もそんな風に主と一緒にいたかったなって」
    「む、祝言のその日に横恋慕か?」
    「あはは、違う違う。ただ、ちょっぴり寂しくなっただけだよ。だって僕たちは、どうしたってきっと、主のことを置いていかないといけないからね」
     三日月はその言に首を傾げた。置いていく? 置いていくのは、審神者のほうである。どうあがいても、やはり彼女や三日月たちの主となるヒトの子は、モノである刀剣たちを残して死んでいく。だから、置いていかれるのは自分たちだ。しかしそう言っても、燭台切は首を振った。
    「ううん、違うよ。置いていくのは僕らのほう。だって僕たちは、この身がある限り生きていかなきゃいけない。戦い続けなきゃならない。だから、主がいなくなってその時間が本当に止まってしまったら……僕たちだけが進んでいっちゃうんだ」
    「……進む」
    「そうだよ。主がいなくなったら、次の主の元で。その主もいなくなったら、また次へ。……でもそれでも、僕たちの初めての主はあの子なんだ」
     こんにちは、初めまして。
     緊張で冷えた指先を差し出してきた日を、きっとこの鋼の身は忘れない。三日月は自分の手のひらを見つめて、それから握った。
    「だからちょっとだけ! ちょっとだけだよ? 三日月さんが羨ましい。だってきっと、一番あの子の記憶に、あの子の記憶が、残っていくのは……三日月さんだから」
     三日月は何も言わずにただ微笑んだ。
     今まで見送ってきた主は、数知れない。物言わぬ鉄であったとしても、何人もの主を三日月は見送ってきた。出会いと別れを繰り返して、千年。千年だ。もう人の生き死には、三日月にとって時の流れと同じくらい当たり前のものである。
     だが、今は? ヒトの身を持ってしまった、今は?
    「わあ、主やっぱりよく似合ってるね。見立てた甲斐があったよ」
     はっとして顔を上げる。するとそこには前田に手を引かれて立つ、白無垢姿があった。小さな手が角隠しを持ち上げると、こちらと目が合う。それから審神者はいつものようににこりと笑顔を浮かべた。
    「流石、似合いますねえ」
    「……そなたも、とても美しいぞ」
     思わず、三日月はそう呟いた。白い着物に、白い糸で月が刺繍がしてある。雪の光に反射されて、それはきらきらと輝いた。
    「では、主君。恐れ多いですが」
    「いいえ、こちらこそ。お借りします」
     前田から差し出された本体を、彼女は帯に挿す。花嫁の懐刀は初鍛刀の前田藤四郎が務めるようだった。待ちきれなくなり、三日月が一歩歩み寄ろうとすると前田がにこりとそれを制し、笑ってもうひとつ何か取り出す。
    「主君、どうかこちらも身につけていただけたら」
    「なんでしょう? 帯の飾りですか?」
    「いいえ、下げ緒です。ほら、加州さん!」
     すると皆の奥から背を押されるようにして、きちんと正装した清光が出てくる。「だからいいって」とか何とか言いながら下がろうとするのを、大和守や陸奥守がそうはさせまいとしていた。首を審神者が、清光のほうを覗き込む。
    「どうしたんです?」
    「い、いや、俺もこんなの知らなかったから、ねっ? いいじゃん。俺はいいよ」
    「何言ってるの清光」
    「そうじゃ、せっかくやき」
     ぐいぐいと前に出された清光は、困ったような、だがどこか決意した表情で口を開いた。
    「俺も、今日まで知らなかったんだよ。だからあの、俺重いし、全然いいんだけど」
    「なんですか? 清光」
     ほらっと勢いよく押され、清光はかくんと倒れこむようにもう一歩前に出る。その拍子に手にしていた本体を前に突き出した。
    「お、れのこと、も、佩いてもらえない、かな」
    「え?」
     審神者が尋ね返したものだから、清光は慌てて両手を振って「今のなし!」と後ずさろうとした。しかし再びそれはさせまいと押し返される。どうやら何のことだかわからないらしい彼女、三日月は微笑んで囁いた。
    「言うとおりにしてやれ。前田の持つ下げ緒で、清光を腰に提げておやり。清光はな、そなたの嫁入り道具になりたいんだ」
     それは予想外のことだったようで、彼女は目を丸くして清光を振り返った。耳を真っ赤に染めて、所在なさげに清光はあちらこちらを見る。あの様子では恐らく、本当に今の今まで前田や他の刀剣たちの目論見を知らされていなかったのだろう。
    「主君の大切な日は、僕たちの大切な日でもあります」
    「ならそういう日に、最初から主と歩んできた加州君が一番傍にいないなんて、かっこよくないよね」
    「だからこの半年と少し、主のために頑張ってきた加州さんのために、ボク達からの贈り物だよ!」
     刀剣男士は、元来モノである。ヒトの身を得て、その手で主に触れたり、言葉を話したりすることは勿論この上ない幸せだった。けれどもしも、自分自身でその主の晴れ舞台を飾ることができるとしたら、どれほどの喜びか。
     清光は目の縁を染めながら、小さな声で「だめかな」と呟く。審神者はそれにぶんぶんと首を振って、一度は下ろしかけたその手を掴んで引いた。
    「いいえ、一緒に行きましょう。清光」
     赤い拵えの一振を、彼女は前田に提げてもらう。真っ白な花嫁衣装に、それはよく映えていた。少し重たそうではあるけれど、彼女は笑って大切そうに清光を撫でる。仲人や長持ちなんかもないため、正式なものではないけれど。賑やかな花嫁行列は広間へと進んで行った。
     前田と清光の二振は正装をして、他の皆は晴着を纏い、手を繋いだ白無垢の審神者と紋付き袴の三日月。久方ぶりに本丸中が、大層明るい雰囲気だ。
    「式の取り仕切りはわたくしっ! 主さまの有能なサポート管狐っ! こんのすけめが勝ち取りましてございますう」
     高らかにかつ得意げに宣言したこんのすけに、「神事であるなら衣装から見て俺が」だの「では私でもよいのでは」だの、「動物枠ならば私めがおりますぅ! 主どのぉ」だの様々な声が飛び交う。その一つ一つに彼女はくすくすと笑った。
     こんのすけの前に立った二人の前に、赤い杯を持った石切丸が立つ。三々九度をするのに、一応彼女は未成年であるので日本酒は控えたらしい。それでもよく清められ澄んだ水が注がれた。
    「私は縁結びは専門外だけどね。ここに、我らが三条の三日月宗近と我が主との縁が末永く続くことを祈るよ。幾久しく、君たちが共にあるように」
     三日月は杯を受け取ると、それを掲げてよく通る声で誓う。
    「そなたが、これよりもっと笑うことのできるよう。これからの日々に幸多からんことを願って。俺は最後まで、そなたの傍を片時も離れぬことを誓おう」
     彼女は三日月が口を付けた杯を受け取ると、いくらか悩んだようだった。小さな指先が僅かに震えているのがわかる。水面に波紋が広がった。
    「皆さんのこれからの日々が、楽しいものでありますように。それから……少しでも長く、一緒にいられますように」
     今は、一秒でも惜しい。ぐいと審神者が杯の中身を空にしたのを確認して、三日月は目を閉じた。
     いつも通りのお正月もきちんと迎えてくださいね、と言った審神者の希望通りに、結婚式の宴会と並行して餅つきをし、雑煮を食べた。彼女が白無垢のまま、お年玉だと一人一人に何かを配って歩いているのを、三日月は縁側からじっと見つめていた。小さな手が懐に差し込まれて、封筒を取り出して、袖が汚れないよう押さえながら、渡す。そんな一連の動作が、どうにも愛おしい。
     息をして、動いて、ただ生きているだけなのに。
    「三日月さん、三日月さんにもお年玉ですよ」
     審神者が三日月の元に戻ってきて、同じように封筒を差し出す。やっと帰ってきたかとその手を取りながら、三日月は封筒を受け取った。
    「じじいにもくれるのか?」
    「はい、まあ皆さんにお渡ししないと」
     今年は、という一言は彼女は飲み込んだようだった。
    ここで開けるのも無粋かと、三日月はその封筒を懐にしまう。彼女は黙って三日月の隣に正座すると、三日月と同じように外を眺める。寒いのではないかと気になって、三日月は羽織を彼女に掛けてやった。
    「優しい旦那様ですね」
    「はっはっは、そうだろう?」
    「ええ、とても。ああそうだ、この間受けた政府の検査の結果が返ってきましたよ」
    「おお、どうだった」
     三日月の問いに、審神者は笑顔で指で丸を作る。
    「特に悪い箇所はないそうなので、養生していれば春まで持つかと。それと、気力の問題なんでしょうかね。いい数値が出ていたそうですよ。皆さんが楽しいことをたくさん用意してくれるからですね」
    「そうか……そうか!」
     素直に嬉しかった三日月は顔を綻ばせる。春まで、ということならば先ほど言っていた花見も不可能ではないかもしれない。そうか、と繰り返しながら笑う三日月を、審神者のほうも目を細めて見つめていた。それから笑みをこぼしつつ、口を開く。
    「三日月さん」
    「うん? 何だ」
    「……ふふ、いいえ、口にするのは野暮なのでやめておきます」
    「む、なんだ? 言われねばわからんぞ」
     三日月は彼女の顔を覗き込んだけれども、審神者は笑いながら首を振るのみで何も言ってくれない。むぅと三日月は口を尖らせる。それを愉快げに見た審神者が何度か口を小さく開けて、言葉を選びながら何か言おうとしたそのときだった。
     けたたましいサイレンが鳴り響いて、ハッと審神者が顔を上げる。咄嗟に三日月はその音に反応して腰に提げた自身に手を掛け、空いた手で審神者を背中に庇った。
    「なんだ?」
    「敵襲か?」
     それまで宴会騒ぎをしていた刀剣たちも、さっと目の色を変えて廊下に顔を出した。三日月もあたりを見渡すが、特に嫌な気配はない。ではこの警鐘は何なのだ。その元を辿るべく三日月が腰を浮かせるよりも先に、審神者のほうが立ち上がった。
    「大丈夫です、これは敵襲じゃありません」
    「主?」
    「主さまあっ!」
     小狐丸や鳴狐と稲荷寿司に舌鼓を打っていたこんのすけが駆けて来る。審神者はたたっとそちらに走りより、屈んで視線を合わせた。
    「大丈夫、大丈夫だよこんのすけ。わかるからとりあえず、サイレンを切って。指示も出せない。それから入電を確認して。私が端末を取りに行くより、こんのすけが直接言ってくれたほうが早いから」
    「は、はいっ、サポート管狐の権限を持ちまして、本丸内の警戒サイレンをオフに。政府からの入電を確認いたしました!」
     こんのすけが甲高くそう叫んだ途端に、ピタリとサイレンは止まった。今までがうるさかった分だけ、いっそ不気味なほどの静けさが広がる。先ほどまで明るく賑やかだった本丸が、スッと二三度気温が下がったような気さえした。
     審神者の持つ通信端末にも当然政府からの連絡は入るのだけれど、こんのすけはこんのすけとして、別に政府との連絡ネットワークを持っていた。そこから直接入電を確認することも当然できる。こんのすけは口を開き、若干躊躇して、だが結局言うしかなくて、入電をそのまま口にする。
    「出陣要請です。当本丸の刀剣男士は三部隊を出陣、一部隊を本丸警備に残して直ちに戦場へ向かわれたし」
     三日月はハッと審神者の背中を見つめた。こんのすけに視線を合わせているために、三日月から彼女の表情は見えなかった。だが声をかけるよりも先に、審神者は立ち上がってくるりと振り返る。
     その顔は、笑っていた。
    「皆さん申し訳ありません。お正月のお祝いは、帰ってから続きにしましょうね」
    「あ、主!」
     清光が飛び出してきて、白無垢の両肩を掴む。
    「だめだよそんな、一度に三部隊も出陣させたら! 今の主の体には負担になりすぎるよ! ねえ、断って? 正月祝いだって、祝言だって途中じゃん!」
    「何言ってるんですか清光、政府からの出陣要請ですよ? 政府から見ても、うちの本丸は精鋭部隊だということです。選ばれた本丸しかそんなの来ないんですから、皆さんは胸を張って、行ってきて下さい。皆さんならきっと大丈夫ですよ」
    「そうじゃないよ!」
     そういうことを、言っているのではない。
     彼らの出陣には、審神者の霊力の消費が伴う。怪我をすれば手入れもいる。戦場で刀剣男士が顕現し続けるために、よりその力を発揮させるために、審神者は霊力を送り続けなくてはならない。健康体の審神者であっても、短期間に何度も出陣させればかなり疲労するというのに、今の彼女がそんなことをしたら、どうなるか火を見るより明らかだった。
     下手をすれば、寿命を縮めかねない。
    「こんのすけ! 政府は俺たちの主を捨て駒にするつもりだろ! もう寿命もないからって、好きにするつもりなんだな!」
    「め、滅相もございません、加州さま、そんな」
    「だったらなんでうちなんだよ! どうして今なんだよ!」
     ものすごい剣幕で、清光が審神者の両肩を掴んだままこんのすけに噛み付く。こんのすけもたじたじとして後ずさった。他の刀剣男士たちも、戸惑ってざわつき始める。
     言うことを聞くことはないと、三日月も思った。そんな、あえて自分から寿命を削りにいくことなどない。けれど痛いほど、彼女が何と答えるかわかってしまう。おそらく彼女は、ここで拒否をすることを是とは決してしない。
    「清光」
     静かな声で審神者はそう呼びかけると、自分の肩を掴んでいる手に触れた。
    「普通の女の子でいることも、もちろんそうでしたが。皆さんが誇れるような主でいることも、私のしたいことの一つです」
     ね、と宥めるように清光の頭を撫でて、ぽんぽんと肩も叩く。清光はもう、何も言えなかった。三日月も、ただ何もできずに柄を握り締めるだけだった。
     清光、前田、それから宗三をそれぞれ隊長に三部隊の編成を彼女は組んだ。白無垢を丁寧に畳んでいつものジャージに袖を通し、一人一人に刀装を渡す。
     いってらっしゃい、気をつけて。お年玉を持ちましたか?
     どこか冗談じみた口調で、審神者は支度をさせてやった。三日月は、紋付袴を脱ぐ際にお年玉の封を切った。中身は、彼らを破壊から守るお守りだった。
     本当ならば三日月も第一部隊に編隊されるはずだったのだけれど、清光がそれはだめだと外した。
    「三日月は主の傍にいて」
     篭手にしっかりとお守りを括り付けながら、清光が武装をした三日月に言った。先ほどまで自分の本体と主とを結んでいた下げ緒を大切そうに撫でて、清光はそれも懐にしまう。
    「俺たちに何かあったとき、困る。それに三日月に万が一のことがあっても困る。いい? 絶対に、主に無理をさせないでよね」
     真っ赤な瞳で、清光は念を押した。三日月はそれに頷いた。「自分たちが三日月の分も働くから、これからは主の恋人として傍にいてやってほしい」と、清光はかつて三日月に言った。それを果たすべきときが、今なのだ。
     全員を見送り、審神者は戦いを見守るために執務室の文机の前に正座した。
     ピシリと伸びた、背筋。華奢な首筋に、ほっそりとした背中。もう何度も見た、「審神者」の背中。だが幾分か、いつもよりもずっとそれは薄く見えた。三日月はそのことにぞくりとする。彼女を生かすための力が、生命力が、どんどん弱まっている。
    「主や」
     声をかければ、審神者は振り返る。それから首を傾げた。
    「あれ? 三日月さんが残ってくださったんですか?」
    「まあなんだ、新婚だからな。代わってくれたぞ」
    「ああ、そうですか」
     くすくすと笑いながら、審神者は通信端末を操作する。それで戦況を確認するのだ。
    「結構大きな捕り物のようですから、気を引き締めなくてはいけませんね」
    「無理はいかんぞ」
    「わかってますよ」
     前線は安定しているようだった。本丸にも一部隊が控えて、万が一の際に備えていたけれど何の変化もない。時折陣形や進軍の指示をして、審神者はじっと通信端末を見つめる。
    「この間ね、こんのすけと話をしたんですよ」
     戦場を見つめながら、審神者は藪から棒にそう言い出した。
    「話?」
    「ええ、ここの引継ぎの件なんですけど。前田君、前進してください」
     本当に、本当に何気なく審神者は話す。戦の指図をしながら、自分の死後のことを。まるでいい天気ですねえなんて言っているような調子だ。
    「できるだけ、ここを引き継いでもらおうと思うんです。それなら皆さんもばらばらにならないで済みますし、新しい方に来ていただければと」
    「……主」
    「でもやっぱり難しいらしいんですよね。どうしても中古扱いになってしまいますから。宗三さん、前へ。構いませんから、進軍してください」
     なぜ今、そんな話をする。だが審神者は一切端末から目をそらすことなく、ただ進軍の指示をしていた。今のところ誰も負傷していない。だが過度の進軍は、審神者の負担になる。それを思いやって、今日の部隊はできるだけ後方にいるはずなのだ。だがそれを、審神者は前へ前へと押し出していた。
     練度は問題ない。無理な進軍でもない。けれど今は、刀剣たちより審神者のほうに支障がある。
    「主、だめだ。部隊を後方へ戻せ」
    「いい機会だと思うんです。ここで戦績を上げておけば、扱いは中古でもいい本丸だという証明になるでしょう? そうしたらきっと、皆さんを引き取ってくれる新しい主も見つかる、はず、です」
    「主!」
     今までしゃんとしていた背筋が、ぐらりと揺らぐ。三日月は慌ててその背を支えた。寝かせようとしたのだが、審神者は首を振って体を起こす。ざり、と爪が畳を引っかく音がした。
    「ならん、これ以上は」
    「いいえ、進軍してください。問題はありません、どうぞ前へ」
    「主! 俺の言うことが聞けないのか!」
     キッと顔を上げ、審神者が三日月を見つめる。もう顔色は酷いものになっていた。審神者は畳に立てていた爪を引き剥がし、三日月の狩衣を掴む。
    「お願いです、このまま」
    「ならん、約束だったろう、無理はせんと」
    「今しかないんです!」
     縋り付くようにして、三日月に審神者は乞うた。この少女の小さな体のどこにそんな力があるのかと不思議になるほど、審神者は凄まじい力で三日月の服を掴んでいた。月の瞳を一心に見つめ、青白い顔を興奮で紅潮させて、ただ頼む。
    「皆さんに何かしてあげられるのも、私が主らしいことをできるのも、もう今しかないんです!」
    「主」
    「お願いします、このまま、最後まで審神者でいさせてください」
     三日月は唇を噛み締めた。一瞬だけ、後悔する。
     あんな約束、しなければよかった。思い残すことのないように、したいことをさせてやるなんて。願いを叶えるなんて。

     そんなの、死ぬ準備をさせているだけだ。

     縋られた手を取り、重ねて指を絡め握る。
    「決してこの手を離すでないぞ」
    「……はい!」
     手を繋いでいたからと言って、どうにかなるわけではない。だがこの体温を、出来るだけ長く感じていたい。
     通信端末を取り上げ、清光に聞こえるよう高らかに指示を出す。
    「清光、聞こえているか。前進だ。誰よりも多く敵を屠れ。名を上げよ、主の御前だ、ぬかるでない」
     前へ、前へ、ただ進め。指先が白くなるほどに、審神者は三日月の手を握りしめた。三日月も同じくらい強くそれを握り返した。
     取り返しのつかないことをしている自覚はある。今、確実に彼女の寿命を縮めている。だがもう、前に進むしかない。ただひたすらに、進んだ先に何かがあると信じて。三日月の知るヒトの子は、いつだってそうして生きてきたのだ。
    『敵の消滅を確認! 帰城、帰城でございますう!』
     こんのすけの甲高い声が聞こえた瞬間、ハッと短く息を吐いた審神者が崩れ落ちる。すかさず三日月はその体を支え、抱え上げた。一刻も早く寝かせなくては。
    「みか、づきさ」
    「うん? 目が覚めたら、話を聞こう。だから今はゆっくりお休み」
    「さっき、言いかけ、あの、ノート」
     そっと三日月の耳元で、一言二言彼女は囁いた。それからもういい加減限界が来たのか、スッと眠りに落ちていく。ピタリと足を止めてしまった三日月は、もう聞こえていないだろうが「あいわかった」と返事をした。
    「……新婚初夜に、夫より先に寝入るとは。つれない妻だ」
     痛くないように、それでもしっかりと抱きしめる。いっそそれで苦しくなって目が覚めてくれればいい。
    「私が眠っていても、あのノートを書き進めていてくれませんか」
     なんて狡い娘だと、三日月は内心で呟いた。二人で買って、二人で書こうと言った手帖なのに、三日月だけに、書かせるだなんて。一人きりで日々を留めろだなんて。
     体温も、呼吸も、柔らかい手の感触も、無邪気な声さえも。どれもこれも遺していかないくせに。思い出までも、彼女は持っていってしまうらしい。





     こんのすけ、曰く。彼女は睡眠によって緩やかに霊力、すなわち生命力を回復し、一定量を超えると目を覚ますらしい。その回復と消費とのバランスが狂い、回復が追い付かなくなったとき、彼女は死に至る。
     今はまだ、微量ずつでも回復をしているのだとか。しかし、それでも彼女はほとんど目を覚まさなくなった。正月の出陣から半月、まだ眠ったままである。
     帰城した刀剣たちは酷く悲しんだ。けれど、誰も責められやしなかった。審神者自身の決断だったのだ。それにとやかく言えるはずもない。ただ三日月は、あとたった一つだけ願いを叶えてやりたくて、清光に伝えた。「主は桜を見たがっていた」、と。
    「桜なんてどうしたらいいんだよ、咲くにはまだ、時間がかかりすぎる」
     清光は呟いて頭を抱えた。庭はまだ、雪に覆われている。桜はまだ蕾さえ見せていない。春の景趣に変えればいいだとか、そういう問題ではないのは皆百も承知していた。そんなんじゃ意味がない。
     審神者がもう、春までもたないことなど明白だった。誰も口にはしなかったけれど、彼女の眠る様を見ていればそんなことはわかる。もう、時間がない。彼女を春には連れていけない。
     全員が黙りこくって俯きかけたとき、ひらりと小さな桃色の花弁が舞う。目を見開いた三日月が、それを視線で追った。
    「久しぶりに戻ってきた」
     視線を辿った先にいたのは、遠征帰りの鶯丸だった。春告げ鳥の名を冠した刀が、桜の花びらを纏わせて立っている。全員に目を丸くして見つめられたものだから、鶯丸はきょとんとして首を傾げる。
    「どうかしたのか?」
    「う、鶯丸様、その桜はどこで!」
     平野藤四郎が声を上げる。鶯丸は「ん?」とそれを取り上げて微笑んだ。
    「俺からだが?」
     盲点だった。そういえば彼らは、戦で誉を上げたり気分が高揚すると桜が舞う!
     今まで静まり、冷え切っていた広間が活気付いた。
    「俺たちの桜で、主を春に連れて行こう!」
    「でもあんまり出陣すると主君の負担になります」
    「一番難易度の低い合場に、一人ずつ……」
     皆が話し合いを始めたので、三日月はそっと広間から席を外した。賑やかな場所から遠ざかり、廊下を進む。板張りの床は冷たく、履いている足袋からそれはじわりじわりと三日月の体に伝わった。
    「どちらへ?」
     背後から声をかけられて、振り返る。そこに立っていたのは数珠丸恒次だった。ふわりと長い髪を靡かせて、静かな面持ちの彼は三日月のほうを向いている。三日月はやんわり微笑んで、その問いに答えた。
    「なに、主の様子を見に行くだけだ」
     踵を返し、再び歩き始める。二、三歩進んだとき「三日月殿」と再び言葉が投げかけられた。
    「ヒトの子の、魂は」
    「……」
    「ヒトの子の魂は、輪廻の理に導かれると言います」
     数珠丸の、低く穏やかな声が廊下に響く。
    「主も、いずれはそこへ。そして巡るのでしょう」
     魂が、巡る。だが一体どこへ行くというのか。どこに行ってしまうと、いうのか。数珠丸なりの慰めに礼を言って、三日月は足を進めた。
     締め切られた襖を開けて、後ろ手に閉める。今日も審神者は、静かに眠っている。三日月は本体を彼女の枕上に置くと、自分は隣に横たわった。ふわりと狩衣が広がる。
     胸が小さく、上下している。彼女が息をしているのだ。三日月はじっとそれを傍らで眺めた。吸って、吐いて、微かに寝息も聞こえる。それをぼんやりと見つめながら、三日月はゆっくりと瞬きをした。この部屋は、彼女が寒くないようにと暖めてあったのだけれど、先ほどの広間よりずっとずっと寒く、静かだった。胸の上においてあった手をとって、握った。
    「……ややを仕込んでおくべきだったなあ」
     ぽつりと呟いた。きっと彼女が聞いていたら、真っ赤になって「何をふざけているんですか!」とでも言っていただろうが、その返事もない。もういっそ、照れた彼女に叩かれたいくらいだったのに。
     だがそれにしても、三日月は空笑いをしてしまった。千年も生きた刀の自分が、子どもがほしいだなどと笑わせる。春のころにもそんなことは考えたけれど、あれはほぼ冗談だ。それに、彼女が通り一遍の女性が体験することをしてみたいといっていたから、連想しただけのこと。
     しかし今の三日月は、確かに自発的にそう思ってしまった。それは本当に、彼女に何かを遺して行ってほしかったから。自分の慰めに、何かひとつだけでいいから置いて行ってほしかった。
     両手で彼女の手を握り締める。こんな気持ち、知りたくなかった。何故今になって、こんなに悲しいのだ。三日月にとってヒトの生き死には時の流れと同じ。ただ目の前を流れ去っていく出来事。それは抗いようがなく、ただ単なる事実にしか過ぎない。どうして今になって、こんなに苦しく、切ないのか。何かを縁に残してくれと、祈ってしまうくらいに。
     部屋はとても、冷たい。火鉢は煌々と燃えているのに。広間では、皆が春を連れてくる方法を必死に考えているのに。
    春なんて来なくていい。ずっとこのまま、冬でいい。何もかもが凍てついてしまって、全て動かなくなればいい。そうしたらこの真冬の部屋で、ずっと二人で眠っていられる。三日月は彼女の手を握り締めたまま、とろりとろりと睡眠へ落ちていった。



     元々、冬の空気は嫌いではなかった。冷たくて、肺に入れると刺すように痛むけれど、それでも澄んでいてとても綺麗で。空だって、夏のころとは違った薄い青でも、高く遠い空。彼女はそれが、そこまで嫌いではなかった。
     うっすらと瞼を開ける。まだ体は酷く重い。つんと冷たい空気が鼻を抜けて肺を満たしていく。何度か瞬きをしていると、視界がはっきりとした。そこでふと、右手がやたらと温かいことに気づく。彼女がゆっくり首をそちらに向けると、三日月がそこで彼女の手を握って寝入っていた。
     思わず驚いて声を上げそうになり、慌てて押さえる。そろそろと手を伸ばしてみると、三日月の頬は随分冷たかった。いつからここで眠っているのか知らないが、このままだと風邪を引いてしまいそうだ。自分の掛け布団を引っ張って、三日月に被せる。肩先までしっかり布団で覆ってやってから、狩衣がしわにならないかなんてそんな心配をした。
     右手は三日月の両手にしっかり握られている。彼女は体ごとそちらを向いて、じっとその顔を見つめた。最後に話をしたのは、あのお正月。あれから何日たったかわからない。だが気温から推測するに、冬には間違いなさそうだ。三日月の手に、自分のものを重ねる。まだ眠たくて、起き上がれるにはもう少しかかりそうだ。ゆっくり瞬きを繰り返していると、何度目かで三日月も目を開ける。とろんとした月の瞳が、彼女を認めるとやんわり和んだ。
    「やあ……目が覚めたか」
    「はい、おはようございます。三日月さん」
    「はっはっは、随分と長い眠りであったな。待ちくたびれたぞ」
     すりと三日月が彼女の手に頬を摺り寄せた。すべらかな肌が手の甲に触れてこそばゆい。くすくすと彼女は笑った。
    「変わったことはありましたか?」
    「いいや、特にはないぞ」
    「今日のおやつは」
    「む、まだ食べておらんな。持ってきて共に食べよう」
     月日の流れを感じさせない三日月の受け答えは、ほんの少しだけ彼女を安堵させた。三日月が手を離してくれないので、彼女は握られたそれを開いたり閉じたりしてみる。三日月はじっとその指の動きを見ていた。あの瞳が、指先にあわせてあっちに行ったりこっちにいったりするのが面白い。
    「なんだか猫みたいですねえ」
    「んー?」
    「いいえ、目の動きが」
    「ああ、そなたの指を見ていたんでな」
     クスクスとしながら、彼女はそれを繰り返す。すると三日月がぼんやり、呟いた。
    「やはり俺は、動いているそなたが好きだなあ」
    「……え?」
    「なあ、主や」
     ぎゅうと指を絡めて手を繋がれて、気づいたらあの目は彼女のほうをまっすぐと見ていた。
    「俺も一緒に連れて行っておくれ」
     瞳の中で、冬の月が冴え冴えと輝いている。
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