ナマリとお金の話ナマリは龍水が嫌いだ。
初対面で「ハンコを作れ」と命令され、形や大きさどころか、細かいデザインまでいちいち指示通りに作るよう求められた。沢山の数字、ヘビのような謎の生き物、龍水の似顔絵。それらの組み合わさったハンコが、一体何だというのか、ナマリにはサッパリ分からなかった。金の糸をこよるなどという作業とは訳が違う、だってこれは絵なのだ。目的不明のものをモチベーション無く制作するのは、まだ幼いナマリには耐え難いほど辛い。それを龍水は、首根っこを押さえて、完璧に仕上げさせたのだ。こんな非道い仕打ちは、生まれて初めてだった。
ご褒美さえ最悪だった。ナマリが作ったハンコを、ピッタリ同じサイズの紙に押しただけのもの。それを山ほど。ただの紙束だったら嬉しかっただろうに、これは絵を描くのには使えない。両面に既に描いてある。こんなものを、山ほど!
鋭い目と力強い眉の依頼人が、真面目な顔で言う。
「――これには契約料も含まれている。俺以外の依頼で、あの類のハンコを作ってはならない。良いな?」
頼まれたって、二度とあんなもの作らない。ナマリは、腕から零れ落ちた束を拾おうともせず、三白眼で龍水を睨んだ。
龍水は片膝をついて束を拾い、ナマリの腕に乗せ直す。そんな奇跡的なバランスで積まれたら、ナマリは一歩も歩けない。
「取っておけ。いずれ分かる」
いずれ、はすぐに訪れた。
石化から復活した大人達、特に千空とゲンが、えらい勢いでそれを集めだしたのだ。何の役にも立たない紙っぺらを「ドラコ」と呼んで、焚火の焚き付けにもせず、大事にしまい込んでいる。
村に、ドラコは、どんなときでも、何とでも交換できる、というルールが生まれた。大昔にはこれが普通だったらしい。
復活者達は上を下への大騒ぎだったが、ナマリにはどうもピンと来なかった。
何故なら、ナマリには絵の才能がある。ナマリの絵は、どんなときも何にでも交換できた。御前試合のときなどは、村長から直々に依頼を受けて、参加者の似顔絵を描いたものだ。
仮にドラコが便利だとして、普段の暮らしには必要無い。村は相変わらず狩猟と収集と分配で成り立っていて、わたあめを買うのに必要なのはほんの数枚。住まいに山ほど積んだドラコは、正直言って、邪魔なばかりだ。
暮らしは助け合いでできている。必要なものを、必要なとき、必要な人へ。それが、今の持ち主にとって不要なら、なおさらだ。ナマリは決心した。
造船に忙しい千空を捕まえるのは、難しい。
造船の現場で測量したり、誰かと話し込んでいたり。ラボに居るときは、じっと独りで図面を書いているので捕まえやすいのだが、ナマリとしては、それは一番邪魔したくない時間である。ナマリには、ものを描いている時間が一番大切だからだ。
だから、千空が五知将会議に向かう途中を捕まえることにした。船出に必要らしいので、そのための会議の直前なら丁度良いだろう、とも思った。
両手に抱えきれるだけのドラコを持って、千空に駆け寄る。あげる、と差し出したのを、現村長はしばらく理解してくれなかった。
「あ゛あ? 何が欲しいんだ? 絵具か?」
エノグ、というものが何か、ナマリは知らない。千空が提示するものなら、ラーメンのような良い物なんだろうか。まあ、それはまたの機会で良い。運びきれなかったドラコは、まだまだある。
地面に棒切れで似顔絵を描く。紙束を欲しがる千空と、紙束が要らないナマリ。ナマリから千空への矢印。
「ナマリ、そんな要らねえほど持ってんのかよ」
ぞろぞろと連れ立って歩いていた五人の中で、笑ったのはクロムだけだった。あとの四人はそれぞれの表情で固まって、咄嗟に言葉も出ないようだった。
「取っておけと!!!! 言っただろう!!!!!!」
最も立ち直りが早かったのは龍水だった。なぜか怒鳴られた。だが、龍水にだけは、何か言われる筋合いはない。非道な労働のご褒美に邪魔なものを押し付けておいて、それをどうするかまで指示しようとする。全く、とんでもない人だ。
「あ゛~……。ナマリ。ドラコを人に渡すときはな、何か要求しろ。とりあえず今回は持って帰れ。何か、テメーが欲しがりそうなもん、作っとくから……」
「タダより高いものは無いからね~。貰う方も困っちゃうんだな~。ドラコは大事にしようね???」
ナマリと龍水が火花を散らして睨み合うのを、千空とゲンが割って入る。千空は頭痛をこらえるような、ゲンは困らされたような顔をしていた。ナマリは、二人が喜ぶだろうと思っていたのに。
「何で……ナマリがそんなに、持ってるのかな?」
青ざめた羽京に問いただされて、龍水は堂々と腕を組む。
「紙幣の版元だぞ。当然の報酬だ」
「子供に大金を持たせるときは、もっと考えて欲しかったな」
羽京は苦笑して空を仰ぐ。
「小遣いには多いかも知れんが、仕事の対価ならば、このくらい普通の範囲内だろう?」
「龍水にはそうだったかも知れないけど、ナマリの状況にはそぐわないよ」
「フゥン、そのようだな」
一体これはどうしたことだろう。まるで、ナマリがいけないことをして、大人を心配させているかのようだ。
「なんだよ、そんなにマズいかよ? ナマリが千空に親切にしたいってんだから、受け取ってやれよな」
分かってくれるのはクロムだけだ。
ゲンは腕を組んで唸る。
「いや~、うーん、そうしたいところなんだけどね。全部分かった上でこうしてくれるなら、有難く頂くんだけどね。さすがの俺でも良心が咎めるな~」
「経済の授業を、しておくべきだったね……」
「ハッハー、ならば今、学べば良い! ナマリ、後で俺と遊びに行くぞ。金の力というものを教えてやる!」
「俺らはナマリ様に売りつける画材のクラフトだ。クロムコレクションの出番だぜ。まずは藍銅鉱と孔雀石な」
「売り買いでなきゃダメなのかよ。しょうがねえな」
付き合ってやるしかなさそうだぜ、と、クロムはナマリの頭を撫でた。その言い方は、ナマリの心を少し慰めた。
わがままを言っているのは千空達だ。しょうがない、付き合ってやろう。
「いいか、ナマリ。金の使い方というのを、よく見ておけよ!!」
会議を終わらせた龍水は、ナマリの手を引いて、大股に歩く。ナマリは小走りにならなければ、ついていけなかった。
行先は、レストラン・フランソワである。朝食を摂ってから、まだいくらも経っていないというのに、まだ食べるのか、と驚いたが、龍水は手短に弁当作りを頼むだけだった。
「人数が増えるかも知れん。何人までなら対応できる?」
「五名様まででございますが、追加の食料を頂けるならば、この限りではありません」
「素晴らしい。料金設定は?」
「一名様につき二百ドラコとなります」
「うむ。ナマリも覚えておけよ」
次に向かったのは、ラボだった。
「クロム!! 貴様をガイドとして雇いたい!!」
ラボの戸にかかったむしろを、バッサァとめくり上げて言うことには、これからナマリと一緒に遊ぼう、貴様の力が必要だ、ついてはドラコでクロムの時間を買いたい、急なことなので値は弾むぞ、とのことだ。
「俺は千空と科学クラフトで忙しいんだよ。ナマリの絵具も作んなきゃだしよお」
クロムは鬱陶しそうに顔を歪めたが、千空は耳をほじりながら、龍水の後押しをする。
「あ゛ー、絵具のことなんだがな、クロムには、ちっと出かけてもらいてーんだ。村のとは質の違う土を掘ってきてほしい」
「クソっ、探索屋の俺と科学使いの俺、二人欲しい!」
「唆る作業は、なるたけ取っといてやるから。テメーも金の使い方を勉強して来い」
「分かったよ……。で、どこに連れてけって?」
「弁当を食べるに相応しい、景色の良い場所へ案内しろ。ガイド料は、弁当付きで六百ドラコ。どうだ?」
ぷらぷらとやって来たゲンが、その台詞を聞きつけ、愉快そうに首を突っ込んできた。
「龍水ちゃんがクロムちゃんを雇うの? 今? わざわざ作業を中止させて? それで六百は無いんじゃないの~?」
手を両袖に隠して、ニタニタと笑う。クロム本人を置き去りに、ゲンと龍水はやんややんやと言い合って、結局、クロムのガイド料は八百ドラコに値上がりした。
「これが、価格交渉ってやつよ~。時間の価値は、物に比べてハッキリしないからね。交渉次第では、どこまでも価値が吊り上がるのよ♪」
「ハッハー、これも金の使い方の一つだ! 良い授業になったぞ、ゲン」
「任せてよ♪ 授業料取って良い?」
「本来なら俺とクロムだけの取引に、貴様が勝手に首を突っ込んだこと。対価を払う謂れは無いな」
「そうそう~こうやって取りっぱぐれるのも、お金の難しいところよね~」
めそめそ、と泣き真似をして見せて、ゲンはまたぷらぷらと去っていった。
むむ、とクロムは顎に手を当てた。受け取った八百ドラコを見つめている。頭の良いクロムには、金の使い方の勉強は、よく頭に響くのかもしれない。ナマリはただ、嵐のように去っていく「価格交渉」を見送るだけだ。
「よし、決めたぜ。俺は、ガイド料のうちの四百ドラコで、スイカを雇うぜ。龍水、良いよな?」
「ほう、従業員の雇用ときたか。やるな。追加分の弁当はサービスしてやろう」
スイカは、他の子供達と一緒に、ロープを綯っていた。クロムに呼ばれて、すぐさまコロコロと転がって来る。
「スイカにお仕事なんだよ?! お役に立つんだよ~!」
「おう、今日は金の使い方の勉強だぜ。四百ドラコと弁当で、スイカの知識と時間を買いてーんだ」
「ドラコなんか無くても、クロムのお役に立つんだよ?」
「これも勉強だ。受け取っておけ」
龍水の後押しを受けて、スイカはためらいがちに、ドラコを受け取った。
「俺とスイカで、龍水達のピクニックをガイドするんだ。南の山と西の斜面で迷ってるんだけどよ、今、ユリとツツジはどっちの方が咲いてっかな?」
「今年はツツジが早いんだよ。ツツジの方が咲いてるんだよ!」
「ありがとよ。じゃ、西の斜面な」
花の見頃を教えてもらうのに、ドラコなんか無くたって、スイカは教えてくれる。遊びに行くのだって、そうだ。でもこれが、ドラコの正しい使い方らしい。ナマリは首をひねるばかりだ。
ピクニックの参加者は四人に増えた。フランソワに、弁当を増やすよう頼まなければならない。
ぞろぞろとレストランに向かっていくと、羽京に呼び止められる。会議から今までの短時間の間に、雌のキジを一羽、仕留めていた。
「聞いたよ、面白い勉強の仕方をしているね」
「金の魅力は、実際に使ってみなければ分からないようだからな」
「俺、スイカを雇ったぜ!」
「雇われたんだよ~」
「楽しそうだね。科学学園でも、こういう学び方から始めた方がいいかな」
「外部講師を請け負ってやっても良いぞ」
「そう、それなんだけど」
にこやかに話していた羽京が、すっと真顔になる。
「僕、ドラコ持ってないんだよね」
「なんだと」
龍水は絶句した。
ドラコを持っていないことは、そんな表情になるほどのことだろうか。ナマリには分からない。
「なんでだよ、俺でもちょっとは持ってるぜ?」
「スイカも、未来とお店をしているから、持ってるんだよ?」
「僕の仕事では、手に入れる機会が無くて。まだ、生活には必要無いから、欲しいとも思わなかったんだけど……龍水に講師を頼むなら、やっぱり、ドラコが要るよね?」
「貴様……。貴様、科学学園の教師がそんなことで、どうする……」
龍水のこの表情、後で絵に描こう。ナマリはこの光景をじいっと目に焼き付ける。
「今、反省しているところだよ。というわけで、どうかな。これ買わない? おいしいよ」
ぱっと笑顔を浮かべて、羽京は、携えたキジを揺らしてみせる。血抜きも、内臓の処理も済んでいて、確かにおいしそうだ。
おいしそうなキジ一羽が、ドラコと交換すると、何枚になるのか。ナマリには想像もつかないが、龍水は何も考えないような早さで値段を出す。
「二十ドラコといったところだな。だがレストランの食材の仕入れは、フランソワの仕事だ。フランソワと直接話せ」
「分かった。二十ドラコか……。ううーん、やっぱり、僕が今から貯めるのは、時間がかかりそうだな。お金の勉強は早めが良いと思うんだけど、……ツケで良い?」
「良い訳があるか!」
龍水はとうとう、頭を抱えた。
「ツケってなんだ?」
「物を売った記録を帳面につけて、料金の回収は、買い手の都合の良いときに行う、信用販売のことだ」
「ツケがダメってことは、龍水は羽京を信用してないんだよ?」
「そうではない。それ以前の問題だ。まず! 羽京は呑気過ぎる! この世界の経済は遠からず資本主義に戻ろうというのに、初期からの復活者のアドバンテージを得てなお、ドラコを入手していないだと?! 勤勉に働いておいて、何だそのザマは?! ゲンを見習え! 請求しろ!! 貴様が取るべきところから取れば、まとまった額が手に入るはずだ。よってツケ払いは却下だ。というか、科学学園で外部講師を雇う財源が、羽京のポケットマネー一択という発想もおかしい。教師全員で出し合う、村の共益費用として計上する、村長である千空に相談する、色々あるだろう?! 金の勉強が必要なのは貴様の方だ!!!」
「ご、ごめん」
力強い長台詞を一息で吐き切った龍水は、ぜえぜえと肩を上下させた。描きたい表情が増えていく。
ナマリは目を輝かせて龍水を見つめていたが、クロムとスイカはその剣幕にドン引きだった。
「はあ……。それから、金の使い方を教えるのに講師料は取らん。それは、貨幣経済を持ち込んだ俺の務めるべき責任だ。何度でも無料で教える」
「ありがとう。じゃあこのキジは用済みだね。皆のお昼ご飯にでも回そうかな」
「馬鹿者。フランソワに売っていけ。――そうだ、面白い趣向を思いついた。そいつは俺が買おう」
龍水は、余裕の笑みを取り戻して、バッシイーン、と指を弾いた。
フランソワが弁当を包む間、龍水の「面白い趣向」が始まった。ナマリは、クロム、スイカ、羽京と共に、レストランの椅子に座って、テーブルの上のキジを眺める。
「ここに、羽京から二十ドラコで買ったキジ肉がある。これをフランソワに二十ドラコ以上で売れば、俺はその分、儲けが出る」
「おう、値段交渉だな」
「そんなこと、できるんだよ?」
ゲンは、クロムの値段を、六百ドラコから八百ドラコに吊り上げた。キジ肉にも同じことができるのだろうか?
「キジ肉がキジ肉というだけで、ある程度の、今回は二十ドラコ分の価値はある。だが、もしこれが、特別なキジ肉だとしたら、どうだ?」
特別なキジ肉とはどういうものだろうか。
「例えば、だ。羽京は、このキジ肉を俺に見せたとき、何と言った?」
「おいしいよ、と言ったよ」
「そう。これはただのキジ肉ではない。羽京お墨付きの、おいしいキジ肉だ」
なんだ、そんなことで良いのか。ナマリとクロムとスイカは、目を瞬かせる。
「そういった付加価値を積み上げて、このキジ肉をより特別なものだとアピールすれば、フランソワは二十ドラコ以上の値をつけるだろう」
「値段交渉も、一歩一歩……だな!」
「その通り」
クロムは、科学との共通点を見つけて、俄然、やる気を出した。
さあ、どんなアピールができる? 促されて、改めてキジを観察する。
「ついさっき獲った、新鮮なキジだよ」
「うむ、重要だな」
「鳥にも色々いるけど、キジは鳥の中でも特に美味いぜ!」
「ああ。俺も好きだ」
「渡りのカモがもう行っちゃったから、大きな鳥はあんまり獲れない季節なんだよ。だからキジが食べられるのは、嬉しいことなんだよ」
「貴重さのアピールか。良い目の付け所だ」
ナマリは一番最後になってしまった。うんうん唸りながら、キジを眺める。綺麗なキジだ、と思った。頭を一撃で射抜かれて、血抜きのために首を切ったのと、尻から内臓を抜いた以外は、他に傷ついたところが無い。羽毛の乱れ一つ無く、断末魔に苦しむことは無かっただろう。ああ、そうだ、翼もすごく綺麗だ。
翼を広げて、指差す。クロムとスイカはすぐに、何が言いたいか分かってくれた。
「おう、風切り羽が全部綺麗に揃ってんな」
「飾りに使えるんだよ!」
「なるほど。俺には無い発想だ。素晴らしいぞ、ナマリ!」
五人で作戦会議をしていると、フランソワが、弁当を引き渡しに現れる。
「お待たせしました。ご注文の品でございます」
「ご苦労」
「フランソワに、売りたいものがあるんだよ」
スイカが、一生懸命に、これが特別なキジであることを説明し始めた。ナマリも、キジの翼を広げて、風切り羽が綺麗に揃っているのをアピールする。スイカとナマリが前面に出るのも策略の内だ。子供とペットは否応なく人の心を動かすものだ、とは、龍水の言である。
フランソワは、一通り聞いた後、失礼、と断って、キジを手に取った。
「二十五ドラコでどうだ?」
クロムの先制に、フランソワは首を振った。
「……やや小柄ですね。二十二ドラコならば買いましょう」
「フゥン、良いだろう。交渉成立だ」
龍水が、実践の終了を告げる。
二ドラコの儲けだ! ナマリとスイカは手を取って飛び跳ねた。二十五ドラコにはならなかった。でも二十二ドラコにはなった!
ナマリは、訳も分からず与えられた、山ほどのドラコを持て余しているというのに、この二ドラコが妙に嬉しかった。
「ご苦労、ご苦労、貴様らのおかげで儲けたぞ」
龍水がしれっと二十二ドラコを懐にしまうので、皆で「えーっ」と声を上げた。ナマリだって口の形で参加した。
「俺が羽京から買ったキジだぞ。俺の儲けになって何が悪い? 授業料としては格安だぞ」
「おうおう、さっき、金の勉強は授業料を取らねえって言ってただろ」
「ハッハー、ばれたか。ならばこの二ドラコは、わざわざ反面教師になりに来た羽京につけておこう。心構えも物の売り方も、実に悪い見本だ。精進しろ」
羽京は、うっと声を詰まらせ、帽子のつばに触れた。
ナマリにとって、ガッコウノベンキョウというのは、突然降って湧いた退屈なものであったから、それを押し付ける側の羽京が「勉強」でけちょんけちょんにされるのは、胸がすいた。
「さあ、これが、売り買い、というものだ。売り手は商品に価値を見出してアピールし、買い手はそれを見極め、お互いに納得のいく金額で取引する。それが、商売の本質だと、俺は考えている。一ドラコずつ価値を刻み付けていけるのが、物々交換とは違う、金の魅力だ」
龍水は、ぴたりとナマリを見据えた。
「分かるな? ものの価値が分からんまま、金を動かすのは、金も商品も貶める行為だ」
だから龍水は怒鳴ったのか。だから千空は「要求しろ」と言ったのか。ゲンは受け取らなかったのか。羽京は「ナマリにそぐわない」と言ったのか。
ナマリは小さく頷いた。龍水の大きな手が、頭を撫でる。
「では、ピクニックに出発だ。買う、というのがどんなものか、教えてやる!」
クロムに案内された場所は、村の西の山肌だった。東に向かって大きく開けて、適度な風が通るので、虫が少なく、お昼を食べるのに絶好の場所だ。ところどころにツツジの木があって、派手なピンクの花を咲かせている。
「どうだよ、俺とスイカが組めば、こんなもんだぜ?」
「龍水、気に入ったんだよ?」
「ああ、見事だ! 刈り込まないツツジの姿というのも、良いものだな」
龍水は指を鳴らして満足げだ。
フランソワが作ってくれた弁当は、四角い箱に色んな味付けの料理が詰め込まれていた。マスの焼いたの、鹿の焼いたの、エビの茹でたの、山菜の和えたの。それぞれの彩りが、箱の中に整然と並べられている。多種のものがそれぞれの固まりになっている様は、クロムの科学倉庫の中に似ていた。
龍水に言わせれば、これこそが「弁当」というもので、ナマリ達がよく持ち歩く干し肉やナッツの類は、「携行食」という類のものらしい。
西の斜面からは、木立の向こうに海が見えた。そちらに体を向けて座ると、勾配がちょうど椅子のようで、居心地が良い。全員で横一列になって、弁当を食べた。フランソワの料理は全部美味しかった。
それから、ツツジの花を摘んで、花の付け根から蜜を吸った。
「スイカ、ツツジのお味が大好きなんだよ!」
スイカの被り物にツツジの花が咲いた。明るい黄緑の被り物に、濃いピンクの花がよく似合ったので、頭頂の葉っぱのところにも花を飾ってやった。
「あははは、スイカのスイカも蜜吸ってるぜ」
クロムが面白がって、二個、三個と花を乗せていく。
「スイカのスイカ、美味いか?」
「きっと喜んでいるんだよ」
綺麗だ。とても綺麗だ。スイカの皮の黄緑も、花のピンクも、絵には残せないけれど、でもきっと描こう。スイカと、スイカのスイカと、クロム。ここに龍水も描きたいな、と、ナマリは後ろにいる彼を振り向いた。
龍水は目を細めて、静かに見守っていた。スイカとクロムだけではない、ナマリも一緒に。龍水の心の中の絵に、ナマリも描かれているのだ。
「どうだ、ナマリ。この光景は俺が買った、俺のものだ」
心に絵を描き終わったらしい龍水が、ナマリを抱き上げる。龍水と同じ目線で見る、西の斜面の景色は、ナマリの目線よりも海がよく見えた。
「俺は貴様のようには絵が描けん。だが、こうやって美しいものを手に入れることができる。これが、金の力だ。――そして、もちろん、絵も手に入れる。貴様が今日のことを絵に描けば、俺はきっと買うだろう!」
「じゃあ俺、土掘って帰るから」
クロムと帰路を分かれて、それから更に数日。ナマリは千空に呼ばれて、ラボへ向かった。
「土を水に溶いて、水中に浮き上がるもんと、底に沈むもんに分ける。それを繰り返して粒子の大きさごとに選別すっと、土の色を構成していた、赤から黄色までの泥が分別できる。これを乾かして砕けば、暖色系が一揃い。青と緑と白は、藍銅鉱と孔雀石と貝殻を砕いた。これで、水彩画セットの出来上がりだ」
それは、小瓶に分けられた、色とりどりの粉だった。それらを膠で溶いて、紙に塗り付けるやり方を、千空が教えてくれた。これが、絵具。絵を描くためだけの、科学の道具。
「絵具を混ぜ合わせれば、無限に色が作れるぜ。色々試してみろ。テメーには唆りまくるトライ&エラーだろうよ」
赤は血のように赤く、黄は朝焼けのように明るく、緑は新緑のように瑞々しく、青はよく凪いだ海のように深い。これが、一日で移り変わるものではなく、ずっと紙の上に留まってくれるのだという。
ナマリは、絵具を塗り付けた紙から顔を上げて、千空を見上げる。二本の前髪が垂れるその顔が、大層悪辣に歪んだ。
「お金持ち様には、いくらでも売りつけてやる。試しまくって、描きまくれ。筆も紙も順次、開発すんぞ」
言われるまでもない。ドラコを沢山渡そう。買い手は物の価値を見極めて、買い手の納得する金額を渡すものだ。ああ、どのくらい渡せば良いだろうか。ナマリには想像もつかない。この喜びは何百ドラコで表せる?
ナマリは、とりあえず、千空の言い値を支払った。絵具はナマリのものになった。
今日のことを絵に描こう。それを龍水に見てもらって、この喜びに値段をつけてもらうのだ。たくさん描いて、絵と一緒に、千空への支払いに上乗せしよう。いつもは鈍い千空にだって、ナマリがどんなに嬉しいか、すぐに分かってもらえるだろう。
これも、金の力、と呼んで構わないだろうか。