千空先生の保健体育スイカが、太腿の内側を、ぬるりとしたものが伝うのに気が付いたのは、薪にする枯れ枝を拾おうとしたときだった。
ナメクジか、ヒルかと思った。南米のジャングルで、一人ぼっちの『人間』として生きて四年。虫対策には気を使っていたけれど、そういうことも、たまにはある。
ナメクジなら手でつまんで取れるけれど、ヒルならば火で取らなければいけない。目で見て確かめられないのは困ったなと、悩む間もなく、滑らかな異物感は足先へ向かって滑り下りていく。それが膝近くまで来たので、服の裾をたくし上げて覗き込んだ。
ナメクジでもヒルでもなかった。
それは鮮血だった。どこにも痛みの無いまま、ほんの小枝程度の細い線を引いて、出血している。
ヒルそのものでは無かったが、ヒルに噛まれた傷かもしれない。圧迫して止血するために、まずは患部がどこにあるか知らなくては。
スイカは、薪集めをそこそこに、かつて砦だった拠点に戻り、貯めておいた雨水で手を洗うと、服を脱ぐ。下履きはもう真っ赤に染まっていた。
お尻から順に、血の出所を手探りする。右のお尻、手に血は付かない。左のお尻、問題無し。
こんなところ噛まれたかな、嫌だな、と思いながら、股に指を伸ばす。ぬるぬるしたものに出会う。その場所は、背面と前面のちょうど中間。
そこに女性だけの器官があるのを、知っている。
遠い昔のようでほんの五年前、千空から習ったのだ。
科学王国が世界に漕ぎ出すための、大型船の造船が始まって数週間。
未だ慣れない『教師役』を全うするために、ゲン、羽京、ルリは、今後の授業内容を相談していた。科学王国学園の学習指導要領の制定、と言うのは大げさか。
そこへ千空が現れた。造船に科学クラフトにドラコ稼ぎにと多忙な筈の彼が、反論を許さない口調で宣言する。
「保健体育やんぞ。ひとコマ寄越せ」
「どうしたの。早くない? もうちょっと、文字を覚えてからじゃないの?」
ゲンがやんわりとした口調で押し留める。
勉強の基礎として文字の習得、いわゆる『教科』のレベルはその後に教える、というのが、教師陣の認識だった。生徒たちはまだ、知らない単語の読み書きに耐えられない。
「むしろ遅えわ。未来はいま十二歳だぞ。いつ初潮が始まってもおかしくねえ」
保健体育。十二歳の女児。つまりそういうことだ。現状唯一の血縁者は年の離れた兄、しかも彼は今コールドスリープ状態で話をすることができない。未来の成長をサポートするのは、確かに教師の役目である、が。
ゲンと羽京は、妙に後ろめたく目を逸らした。きょうだいでも娘でもない女子の、そういう具体的な話は、正視できない……してはいけない気がする。否、きょうだいであっても初潮の心配などするだろうか。絶対しない。
「初潮について、科学のお話があるのですね? 村の伝え方とは違うのでしょうか」
女性故だろうか、ルリは動じない。前向きに保健体育の授業を検討する。
「さあな。だが未来には、三千七百年前のやり方で自分の身体を理解する権利がある。村の子供らもな。俺達には、教える、義務がある」
三千七百前の大人の男は、帽子の鍔に手を添えて逃げようとした。
「……そのへんのフォローは、南ちゃんに頼もうかな、と思っていたんだけど」
「千空ちゃんがやるのは、ちょっとアレかな~。お兄ちゃんと歳が近すぎるよね~」
「アレってなんだ、はっきり言えメンタリスト」
「デリカシーが無いって言ってんの。未来ちゃんと司ちゃんの気持ちを考えて?」
ハッ、と千空は鼻で笑う。
「現状、医者の真似事ができんのは俺だけだぞ。必要なら裸に引ん剝くってのに、余分なこと考えんのは非合理的だ」
「うんうんそうね。非合理的。千空ちゃんでなきゃいけない、ってこだわるのも、非合理的だよね~?」
「あ゛あ? 適任が居りゃ、な」
合理主義を引き合いに出せば、千空は弱い。ゲンは内心でガッツポーズを決める。
「南ちゃんの意見を聞こう」
羽京が力強く提案する。
呼びつけられた南は、あっさり「良いんじゃない、千空で」と答えた。
「「良いの?!」」
羽京とゲンは声を揃えた。てっきり、繊細な問題だから男は口を出すな、と怒られるものだと思っていた。
「私、科学的に教えれられるほど詳しくないもの。それに、女子と男子で指導者を分ける方が問題よ。千空が両方自信あるって言うなら、千空で良いわ」
「合理的でおありがてえわ」
「むしろ、千空はそれで良いの?」
「何がだ?」
年若い男が女の子の生理に言及することで、生じるかもしれない嫌悪感。それは未来や司を傷付けるというよりは、千空個人へ嫌悪が向けられる、というリスクだ。先ほどから渋面のゲンは、リーダーの立場を慮っているのだ。南にもその懸念は分かる。
だが、常軌を逸した科学少年が、女の子に嫌われることを恐れるわけがなかった。
「聞くだけ無駄だったわね。良いなら良いのよ」
南は肩をすくめるしかなかった。
その授業には、あえて年齢制限は設けなかった。八歳以上十五歳未満の子供は参加必須、それ以外の勉強したい奴も好きに来させる、というのが、千空の方針だ。上限は無く下限も無い。
その結果、受講者はまさに老若男女が出揃った。暇だから来たという態の老夫婦、あからさまに興味津々の若いカップル、真面目に膝を揃える少年少女、五歳児を脇に抱えた母親の姿まであった。
ゲンと羽京は慄いたが、南は「これを教える年齢、国によって違うのよね」などと、しれっとしている。千空は当然、五歳児の生徒に頓着しない。
「おし、始めんぞ。今日のテーマは『二次性徴』だ。二次性徴ってのは、性差の少ねえ子供の身体から、男女それぞれの姿に変化していくことを指す。これが完了すると、大人として子供を作る準備が整うわけだ。早ければ八歳から、徐々に始まっていく」
科学学園の青空教室は、黒板や、そのへんの木にまで手書きのイラストを張り出され、いつもの文字の手習いよりぐっと華やかだ。
簡潔に描かれた男女の裸体画を指して、続ける。
「見た目の変化は、周り見りゃ分かるな。脇と股間に毛が生える、ニキビができやすくなる、男根と乳房がそれぞれ大きくなる。男は声変わりする。だがそれ以上に、内臓が成長する。男子は精巣、女子は卵巣と子宮な」
裸体画とは打って変わって、詳しく書き込まれた内臓の模式図。主題の臓器以外の、心臓やら肝臓までが妙にリアルだ。明らかに千空の趣味である。
「まず女子。卵巣は、赤ん坊の大元になる卵子を作る臓器、子宮はそれを赤ん坊の姿になるまで育てる臓器だ。この二つが成長すると、生理が始まる。特に、初めての生理を初潮と呼ぶ。
第一段階として、『おりもの』が出る。子宮と、その出口の膣などから分泌される粘液だ。周期によって薄茶色・透明・白色に変わる」
膣ってここな、と、また別のイラストを指す。尿道口・膣・肛門、股間の三種類の穴の位置を示したもの。見守る復活者達はハラハラしたが、生徒達の反応は薄い。日常的に獲物の腹を裂いている狩猟・採取の民には、おおむね知っている穴だった。
「第二段階、生理。子宮内膜がクリーニングされて、膣から排出される。見た目は百パー、出血だが、それで正常だ。怪我じゃねえ。色は鮮紅色から徐々に褐色に変わり、三日から七日で自然に止まる。三千七百年前は、この血をナプキンで受け止めるのがスタンダードだ。これが無いときゃ、……どうすれば良い?」
布と紙を重ねて縫った、杠謹製のナプキンを見せながら、千空は生徒側に座るルリに訊ねる。
「紐に使う繊維を、ほぐして膣に詰めます。それで間に合わないときは、産屋に籠りますね」
ルリは、繊維の実物を用意していた。みんな、産屋は分かりますね、と彼女に問われて、良い子達は張り切って、集落の中の一軒を指差した。
千空は説明を再開する。
「で、この生理の十日前あたりから徐々に、ホルモンの影響でイライラしやすくなる精神的不調、あるいは腹痛、頭痛、吐き気なんかの身体的不調が起こる。これも正常な反応だ。子宮のクリーニングってのは、身体にとってひと仕事になるから避けられねえんだよな。子宮付近を温めれば改善する。文明復興すりゃ、薬で軽減できっから待ってろ。
第三段階、排卵準備からの、子宮の調整期。クリーニングし終えた子宮の状態が、再び整う。
そしてまた第一段階が始まる。個人差はあるが、だいたい二十八日周期でこれを繰り返す。
ざっくりこんなもんだ。ここまでで質問あるか?」
はい、とお行儀よく小さな手が上げられる。スイカだ。
「結婚して子供を作るのは、十五歳になってからなんだよ。八歳じゃないんだよ」
「あ゛ーそうだな。その通りだ。ただ、身体の準備は一足先に進んでることもある。こればっかりは個人差だ」
別の手が上がる。
「身体の準備ができたら、子供を作っても良い?」
「可能であることと、適していることは違う。身体の他の部分……骨とか、筋肉だな。それらの成長が不完全なうちの妊娠や出産は、母体の負担が大きい。十五歳でもまだ早いくらいだな。できれば、身長の伸びが止まるまで待て」
年若いカップルが、そうなの? どうしよう? と囁き合った。
「とりあえず次に進むぞ。また疑問ができたら、後のタイミングで聞け。
今度は男子の話だ。男子の身体で成長する内臓、これは外から見える。これな。この睾丸の中に入ってる、精巣だ」
千空は再び裸体画を指す。
「二次性徴が始まって精巣が成熟すると、精巣で作られた精子が尿道を通って外に出る、射精っつー行動ができるようになる。特に初めての射精を精通と呼ぶ。
射精の切っ掛けは性的な興奮。色は白。寝ながら夢ん中で興奮して、射精することもある。これを夢精という。
第一段階、興奮によって陰茎が硬直・肥大する。第二段階、尿道から射精。指などで刺激するとスムーズだ。
周期は特に無し。数分から数十日以上、個人差と体調による。
陰茎の硬直・肥大は、特に興奮が無い場合に起こることもあるな。その場合、数分で硬直が解ける。
以上、質問あるか?」
男の子の話もうおわり? と、幼い声が上がる。
「おわりだ。他には?」
「痛くないの?」
「射精に痛みは無い。むしろ気持ち良いもんだ」
幼い子供を連れた女性が、手を上げる。
「あの、女子のことの質問なのですが。痛みを和らげる薬があると言っていましたね。血も止められますか?」
「薬ができりゃ、周期を遅らせることは可能。生理を無くすのは無理だ。歳をとって、自然に閉経するまでな」
女性は、残念そうに手を下ろした。
「――いいか、この仕組みは、哺乳類の強みだ。コストは高いが、それだけの利点がある」
千空は、卵巣と子宮のイラストを改めて示す。
「卵巣から、赤ん坊の大元になる卵子を作る。これは、鳥やトカゲや魚でも一緒だ。ここに精子が受精して、新しい命になる。それは共通だ。だがな、卵を産む連中は、この時点で『卵』として産む。哺乳類は子宮でキャッチして、赤ん坊の姿になるまで育ててから、産む。生き物として一番弱い姿の間は、母親の身体の中に匿うわけだ。妊娠している間は、手ぶらで歩いたって子供がついてくる。手も口も塞がらねえ。卵じゃこうはいかねえぞ。卵胎生っつってな、サメなんかが似たような手を使うが」
黒板に、より詳細な子宮、そして胎児のイラストが描かれる。千空は活き活きと科学少年の顔をしていた。
「哺乳類だけが、へその緒を使って、子供に直接栄養を供給し続ける。そして妊娠している間、胎児の成長に合わせて、子宮も拡大。母親の腹は大きくなる。出産後、広がったスペースは収縮して、子宮が回復する。そして再び、妊娠に備える。こんな複雑なことをしてんのは、哺乳類のメスだけだ。超絶唆んだろうが」
もはや何の気遣いも無く、生物学的にメスと呼んでいたが、誰も千空に突っ込めなかった。それだけの勢いだった。チョークで黒板をガツガツと強調した後、スンッとテンションが落ちる。
「そこいくと、オスのやることは、哺乳類鳥トカゲ魚、全部代わり映えしねえ。生殖行動に関して、オスが進化できる余地は無えってこった。メスからすりゃ、色々と不都合もあるだろうが、オスの機能じゃカバーできねえ。社会的に支えるのが限界だ。悪いな」
「いえ、あの、分かりました。ありがとうございます」
質問者は、一人で盛り上がった千空に困惑しながら、礼を述べた。
温度差の広がった質疑応答を、なんのその、と、と元気な少年が手を上げる。
「あのさあのさ、女と男の仕組みが違うならさ、身体の準備ができたらさ、男は十五歳より前に子供作っても良い?」
「あ゛あ゛? あ゛ー、科学屋の立場からは特に言うことは無えが、この部分は村のルールを変えるつもりは無え」
「えー、科学で良いなら良いじゃん、合理的じゃなーい」
千空の目が、オーディエンスの復活者を捉える。おいペラペラ男、仕事だ。人を頼れる村長様の無言の要請を受けて、ゲンは、んん、と唸った。
まず観察。問題提起した少年のあだ名はイタチ。歳は十三才。活発な性格で声が大きい。朝に夕に、棒切れを使って、せっせと刀の自主練をしている。戦闘力は既にクロム以上だろう。口癖は「あのさあのさ、俺ね俺ね」。承認欲求の強いタイプだ。つまるところ、一歩早く大人の仲間入りをしたいのだろう。
「石神村では、十五歳から大人。大人になったら、結婚して子供を作れる。だよね?」
「うん」
「大人でなければ、子供を作れない。それは分かる? 親は、子供を守れる大人でなくっちゃね」
「んー、うん。でも大丈夫だよ、強ければ良いんだろ?」
「そうだね~。強ければ、敵からは子供を守れるね。でも、自分自身から、子供を守ることはできるかな?」
少年は目を瞬かせる。
「この間、タケノコ掘りに行ったとき、イタチちゃんは竹を揺すって遊んで、周りの子を跳ね飛ばしちゃったでしょ」
「わざとじゃねーよ! 避けられると思って……」
今更怒られるのかと、少年は反発心を露わにした。ゲンは柔らかく受け止める。
「そうだよね。イタチちゃんは避けられるから、他の子も避けられると思ったんだよね。子供のうちは、そういううっかり、あるよね~。でも、大人になったら、子供にそんなことして、『うっかり』じゃ許されない。分かるよね」
少年は、少し考えて、不承不承、返事をした。自分自身から子供を守れない、子供であることを認めた。
「それにね~。『まだ十五歳じゃないけど大人になりたい』なんて、子供っぽいこと言う男、相手の女の子が認めてくれるかな~?」
「うぐ」
「ね、ルールって、けっこう合理的に使われるのよ」
科学的じゃなくても合理的なものもある。千空の授業は、意外な結論で幕を閉じた。
生まれ育った石神村、賑やかな科学王国の思い出。動いて、喋って、笑う、仲間達の姿。細かな仕草、声の調子、風の匂いが、崩れるように記憶から去っている。それでも、学んだことは頭の中に確かに在った。
腰のあたりが、重く痛んできた。筋を痛めたのは違う、深い内側からの痛み。温めれば改善する、と千空は言っていた。服を脱いで体が冷えたのだろうか。
お友達のサルが、心配そうに血の匂いを嗅いでいる。
赤ちゃんを産む準備ができた証。一人ぼっちの『人間』には、あまりにも無用な。
「諦めて、ないんだよ」
一度の復活液を試すために、一年の時間を要する。気の遠くなるトライ&エラー。それでもまだ、心は折れていない。
石になった仲間達ともう一度と言葉を交わす日を、心は諦めていない。きっと身体も、もう一度人間に囲まれて暮らす日を、諦めていない。
さあ、汚れたままの下履きをまた身に着けて、とりあえずの手当てをする材料を探しに行こう。あのとき習った村の伝統的な方法が、きっと役に立つだろうから。