いちがみむらのアルミ あの夜。――夜だったはずなのに。灯火の陰に沈んでいたはずの、両親の表情を鮮明に覚えている。
家族みんなで眠る、その前の安らかなひと時。村長の父、巫女の母、巫女を継ぐ予定の妹。重い責任を負った彼らと、ただの家族になれる大切な時間。
物覚えの良い妹が、言ったのだ。
『お兄ちゃんの『桃太郎』も、覚えたの』
『お兄ちゃんの?』
母親が問いかける。
『お兄ちゃんが、一人の時、ぶつぶつ言ってた』
妹はそう答えた。兄が語るときの桃太郎、を覚えたのだと。
桃太郎の話は、一等好きだったから。いつでも好きな時に聞けるように、自分に聞かせるために、覚えようとしていた。
それを、賢い妹が聞き覚えてしまうなんて、まだ幼い兄には予想できなかった。
青い顔で見つめ合う両親をよそに、妹は、『聞いて聞いて』と得意げだ。
『むかちむかち、あるところに、おでぃいたんとおばあたんがおりまちた――』
あの夜、妹はもう5つになっていた。
梢が風に揺れる囁きに、槍が空を切る音が重なる。
ちょうど、村の様子が見えなくなる程度の、森の中。ここはもう獣達の住む世界ではあったけれど、アルミが毎日の槍の練習に使うことは、鳥も獣もすっかり承知していた。いちいち逃げ出すような無駄を省いて、スズメはすぐ傍で砂浴びに勤しみ、野ネズミは草を分けて虫を捕まえる。
無関心なそれらに加えて、今日は、アルミが槍を素振りするのを、じっと見ている子供らがいた。この間7つになったクリソベリル、まだ6つのリチウム、その弟のシンシャ。キイチゴを採りに行った帰りだろう。足元に籠を転がして、三者三様に青洟を垂らして、アルミの動きに見惚れている。
無理もない。アルミの素振りはとても美しい。
突きは鋭く。穂先を返すときも、油断無く。見えない敵を――アルミの目にだけありありと見える敵を前に、石突を繰り出し、柄で受け、また突く。急所を狙うにはどうするか。足払いを仕掛けてきたらどうするか。今年19になったアルミは、手隙の時間にはそんなことばかり考えてきた。他の村人が、食事の後に家族と語らったり、木の実を拾いながら仲間と笑ったり、そういうときにも、アルミは黙って槍のことを考えてきた。まだ若いアルミだが、歳が倍の相手に対してだって、言える。実力は俺の方が上だ、と。実際に言うことは無いけれど。
だから、子供らが我を忘れて素振りに見入る様は、気分が良い。声を掛ける代わりに、適当な枝切れを3本拾って、投げてやる。
「教えてくれるの?」
それぞれ、覚束ない手つきで握るのを、一人ずつ直してやって、普段よりゆっくりと槍を突いて見せた。クリソベリル達は、ぎこちなく真似をする。シンシャはどうも脇が開くので、腕を押して、直そうとしたが、「やだ、やだ」とくすぐったがって、とうとう笑い転げてしまう。もう早速、飽きたと見えて、若木によじ登って枝を揺すり始めた。
「いけないんだ、枝が折れちゃう」
リチウムは自分の”槍”を放り出して、弟の足首を掴んで抑える。クリソベリルはキイチゴをつまみ食いし始めた。
こんなものだ、幼いうちは。
アルミは、シンシャを木から降ろしてやって、また素振りを再開する。子供らはすっかり集中力を無くし、朽ち木を”槍”で崩して、中の芋虫を見物した後、ぷらぷらと村に戻っていた。
明日も来いよ、と言えたなら、どんなに良かっただろう。
アルミは始終、黙っていた。村長である父から、10を過ぎない子供とは、口を利くことを禁じられているから。
その日の夕飯時、村中が「御前試合」の話で持ち切りだった。誰も彼も、夜の挨拶の後には「御前試合に出るかどうか、誰か勝つと思うか」などと唾を飛ばしている。アルミが村の外で槍の稽古に励んでいるうちに、次代の巫女、つまりアルミの妹の結婚相手を決める「御前試合」の御触れを出したらしい。
アルミは耳をそばだてた。曰く、14歳以上なら立場に関わらず誰でも出られる。出場者は槍の腕を競う。勝ち上がり式で、最も強い者を決める。優勝者は次代の巫女と結婚する。
槍を競う。それなら黙っていられない。
アルミは、審判役を務めるという、セキエイのもとに駆けていった。彼は、興奮して話し合う村人たちを満足そうに眺めつつ、夕飯を摂っていた。アルミはその耳元へ寄って行った。かがり火の反対側、夜の闇が影を落とす、暗い耳へ、誰にも聞かれないように訴える。
「俺も出る」
「ふぉ前が?」
口いっぱいに頬張って、もごもご言ったあと、セキエイはしっかり肉を飲み下して、言い直した。
「お前が御前試合に出るって? 馬鹿言うな。御前試合に優勝したら、巫女様と結婚して、村長になって、共に百物語を守っていくんだぞ?」
「分かってる」
「分かってない。優勝はできるかも知れんが、百物語を守っていくのは、お前には無理だ」
アルミは腹の底に怒りが凝るのを感じた。優勝を狙えるだけの腕前があるのは、セキエイも認めているのだ。だというのに、アルミには無理だと決めつける。
「とれがどうちた」
「ほら、それだ」
セキエイは口の端で笑った。イライラと串焼き肉を振って見せる。
「百物語を継ぐ巫女様の伴侶が、それじゃあな」
「でゅうよんたいいどうなら誰でも出られるはづだろ」
「まともな人間ならな! 第一お前は――」
セキエイは怒鳴りかけて、急にやる気を無くし、串で村の奥を指した。
「お前と長話なんかしたくない。俺の決定に不満があるなら、俺の上役、村長に直談判してみろ。お前の父親がなんて言うか、分からないほど馬鹿だってんならな」
セキエイはアルミが耳元で喋れないように、そっぽを向いてしまった。
アルミは唇を嚙んだ。口の中では舌も噛んでいた。セキエイの指示した方角には背を向けて、ずんずんと歩いていく。
アルミは、生まれつき「さ」と「し」と「す」と「せ」と「そ」の音が、喋れなかった。いや、誰だって生まれたばかりは喋られない。そんなものだ、幼いうちは。ただ、アルミは、いくつになっても、喋れないまま、いまとうとう19歳だ。自分が喋る音がどんなか、他人が喋っている音がどんなか、聞き分けることはできる。でも、どうすれば、「さ」と言えるのか、分からない。槍のことだったら滑らかに体が動くのに、口の中のこととなると、どうすれば良いのかさっぱり分からないのだ。
お前の父親がなんて言うかだって? 何にも言わないに決まっている。アルミを妹から引き離して以降、まともに会話を交わしていないのだ。言うとすれば、ただ一言、「失せろ」と――アルミが言い返すことの出来ない言葉を発するだろう。
この村は、湖に浮かぶ2つの小島と、その近くの岸辺からなっている。奥の島は巫女様が住まい、手前の島には隠居や子供やその家族。若者は島に入りきらないので、近くの岸辺で寝起きする。それぞれをいかだで行き来するのだが、ちょっと手間なので、食事時など決まった時間以外ではあまり往来が無い。
アルミは本当に幼い頃には、奥の島で両親と共に暮らしていた。妹が生まれても、戯れに槍を握り始めても、まだ奥の島に暮らしていた。本当はもう少しだけ家族と暮らせるはずだった。父親である村長に「失せろ」と言われるまでは。
妹を抱いて百物語を聞かせる母、その膝にすがって、自分が妹を守るのだと、そう思っていた、あの頃はもう遠い。
アルミは、御前試合に向けて語らう村人の声を聞きながら、早々と寝床に潜り込んだ。
翌日。御前試合に出る者達を鼓舞するため、次代の巫女が百物語を語るという。
アルミは、岸辺の船着き場を守る門番に、「代わるよ」と交代を申し出ようとしたが、「これが僕の仕事だ」と断られた。
百物語は皆大好き。村の魂。尊ぶべきもの。用も無いのに百物語を聞きに行かないとなれば、いよいよ「人間」扱いされなくなるだろう。アルミは仕方なく、奥の島に向かう。
久しぶりに見た妹は、美しい女性に成長していた。もう10年以上、言葉を交わしていない。彼女は滑らかに芯のある発音で、先祖代々に口伝えられてきた百物語を、語る。遥か昔から一言一句違わずに伝えらえたものを、伝えられた通りの発音で。
今夜の話は『桃太郎』。老いも若いも新しい巫女の前に座って、その語るものに聞き入っている。
「昔昔、あるところに、お爺さんとお婆さんがおりました。お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に」
『むかちむかち、あるところに、おでぃいたんとおばあたんがおりまちた。おでぃいたんはやまへちばかりに、おばあたんはかわへてんたくに』
妹が懸命に唱える物語。アルミが戯れに口ずさむ物語。槍を握り始める歳になっても、アルミのそれは舌足らずに拙いままで。
あの夜、両親は気付いてしまった。将来の巫女が、アルミの語る戯れをも、じっと真剣に聴いていることを。
「妹まで舌足らずが直らなかったら、どうしよう」
村長と巫女の恐怖はいかばかりか。アルミには分からない。ただ漠然と、深い深い谷のようなものだと感じている。両親の気持ちをきちんと分かる前に、奥の島を追い出されて、幼い子供と口を利くのを禁じられた。
百物語を語る妹は、責任を全うする喜びに溢れていた。大勢の村人を前にして、ゆっくりと視線を移しているが、自信なく目を逸らせるのとは違う、堂々とした仕草だ。
村人達は、我らが次代の巫女様にうっとりしている。あのシンシャが、きちんと両手を束ねて座り、食い入るように話を聞いている。百物語は飽きないのだ。
「そうして、桃太郎一行は、鬼ヶ島に向かったのでした」
『とうちて、桃太郎一行は、おにがちまに向かったのでちた』
今よりもっと声が高かった頃の、妹の声が、耳の奥にこびり付いていた。
朗々と桃太郎の旅は続く。アルミは決して語ってはいけない、物語が。
村人は百物語を愛している。遥か昔から寸分違わず伝えられてきた百物語を。
アルミはどうだ。どうしたって百物語を違えてしまう、アルミはどうだ。
目を逸らした先に村長が居た。次代の巫女の傍に控えていた彼は、アルミの視線に気づいて、忌々し気に顔をしかめた。その後ろには今上の巫女が居た。アルミから目を逸らしたまま、一度もこちらを見ようとしない。
「宝物を鬼ヶ島から持ち帰り、皆で幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
『宝物をおにがちまから持ち帰り、皆でちあわてに暮らちまちたとた。おちまい』
いま、妹は正しい音で喋っている。他の子供と同じく、ごく自然に喋られるようになったのだろうか。引き離されて育ったアルミには、知る術もない。いいや、無理矢理に直す方法があったなら、きっとアルミにも試させただろうから、やっぱり妹は自然に直ったのだろう。
『桃太郎』の物語が終わった。結婚という大きな節目を迎える妹に、兄として声を掛けられたら、どんなに良かっただろう。呼びかけられたら、どんなに良かっただろう。
「ちトリン――」
村人の命名は、全て、百物語に出てくる石の名前からつけられる。百物語を違えてはならない。石の名前、一つ、とっても。
誰にもばれないように、小さな声で妹を呼んだ。当然、彼女の耳には入らない。
村の風習は、百物語は、アルミを愛さない。アルミはどうだ。どうしたって違えてしまう、アルミはどうだ。
槍自慢が競う御前試合には出られない、槍自慢のアルミはどうだ。
御前試合の当日は、夜明け頃まで小雨が降っていた。アルミは、どうあっても事が上手く運ぶように、何日も前から枯葉を用意して、革袋の中に詰めておいた。
湖に浮かぶ小島は見通しが良く、アルミの立つ湖の岸辺からは、御前試合の様子がよく見えた。村中の人が奥の島に詰めかけている。船着き場の門番は出場している。奥の島では喝采と野次が飛び交う大賑わいで、岸辺はもぬけの殻だ。
アルミは人生で初めて、石神村の姿を美しいと思った。
青い湖の中に浮かぶ二つの島。全体的に、風雨に擦り切れて白っぽく、水面の照り返しを受けて、自ずから発光しているようにも見える。所狭しと並ぶ草ぶき屋根の家々。島から滲み出すように立ち並ぶ、岸辺の住処。奥の島の家は手の平くらいの大きさに見え、手前の島の家は腰の高さくらい、そして岸辺の家は近づくに従って徐々に大きく見え、アルミが腕を伸ばして触れた一棟は、人間4人分の高さにもなった。この高床式の建物を建てるのには、最低でも3人必要だ。柱を立てるのに2人、家を建てている間の衣食を支えるのに1人。村ではそういう風に家を建てている。いま村に建てられた柱の数を数えたら、一体いくつになるだろう。何人分もの労力が集まって、何十人いや百人あまりもの、村人たちを守っている。
この村が、アルミにとって世界の全てだった。これから失う、美しい、全てだったもの。
奥の島で準決勝が行われている最中、アルミは枯葉を引っ張り出す。家の陰で火を起こし、枯葉をくべ、隠し味に動物のフンを少々。真っ白い煙が立ち上り、初夏の深い青空に一本の線が引かれる。別の家の陰に移って、焚火をもう一つ、焚く。更にもう一つ、更にもう一つ。更にもう一つ。
家々を燃してしまう必要はない。これは、どうしても欲しい一言を引き出すためだけの、作戦なのだから。
いつしか、歓声も野次も止んでいた。代わりに、悲鳴と、怒号と、慌ただしく櫂を漕ぐ音が、アルミの元へ押し寄せる。
普段の通行に使ういかだだけでなく、漁の小舟まで、アルミの居る岸辺に漕ぎ付けた。人々は手に手に桶を持って、湖の水で火を消し止めようとしていた。これがただの狼煙であるとも知らず、暮らしを守ろうと必死だ。煙を背に悠々と立つアルミを、気味悪そうに避けて駆ける。
消火に駆け付けた人の中に、村長である父も居た。村を守るために率先して行動する、村長なら当然のことだ。でなければ困る。アルミは父に見せたくて、こんなことをしたのだから。
その愕然とした表情を、痛快だと思えた。あの夜、父と母が青い顔をして見つめ合っていたあの夜は、あんなに恐ろしかったのに。
「だまあ見ろ! だまあ見ろ!」
アルミは、父を指差して笑ってやった。
「お前がやったのか……」
父はまだ突っ立っている。さあ見ろ。どんなに素早く火を点けても、嘲りさえまともにできない、この姿を見ろ。
まだ準決勝の試合を残している門番が、煙を吸って激しく咳き込んでいる。試合の出場者の中には、火事を遠巻きに見守っている輩も居るようだ。御前試合は、これで無事に、滅茶苦茶になった。
「ごでんでぃあいなんかくとくらえだ! 俺が出られないごでんでぃあいなんか! 俺だって強いのに!!!」
「黙れ、黙れ! 大声を出すな! 子供が真似したらどうするんだ!?」
消火のことは他の者に任せてしまうことにしたらしい。父は、アルミが声を張り上げるのに被せて、激しく両手を振った。
何人かの村人が、消火の手を止めて、アルミと村長を振り返る。けれど彼等は、事態を理解する前に、アルミが何を言っているのか、言葉を置き換えてみなければならなかった。
「ちった事か! 俺はもう黙らない! でぃゆうにたゃべってやる!!」
煙がアルミの喉を刺した。父もきっと同じ痛みを覚えているだろう。だから二人で黙ってしまえばいいのに、二人ともそうしなかった。
「百物語だって覚えてるんだ。妹といっとょに覚えたんだ。聞かててやる、『むかちむかち、あるところに――』」
「追放だ、追放だ、追放だ、アルミを追い出せ。皆! 追い出すんだ!!」
違えられた『桃太郎』を遮って、父が叫んだ。村人達が一斉に振り返る。火事が大した被害にならなそうだと、彼等も気付いたようだった。煙の為か怒りの為か、一様に目を血走らせていた。
その言葉を待っていた。
「いいとも、出てってやる」
アルミは、村の一員の証として、太い縄を左腕に巻いていた。それをむしり取って地面に叩きつけると、傍に隠しておいた槍を引っ掴んで、全速力で駆け出す。村とは逆、森の奥へ奥へと。村人達が追ってくる。一番に追い縋るのは、あの門番だ。真面目に、村長の命に従っているのだ。
御前試合はやり直しだろうか。門番が優勝すれば良いと願う。百物語を守るという役目を、真面目に勤めていくだろう。桃太郎を石の名前を、違えてしまう異分子を排除して、百物語が永久に続いていけば良いと願う。
滅茶苦茶に壊したのと同じ心で、そう思う。
アルミは笑いたくなった。走るのに一生懸命で、そんな余裕なんかなかったけれど。
槍の練習をしていた、いつもの場所を通り過ぎた。キイチゴの茂みを飛び越えた。繰り返し薪を取られた4股の木々の林を抜け、斧に打たれることを知らない巨木の深森へ。追手が足を止めても、息を切らせた喉に血の味が滲んでも。さらに走る。一歩でも遠くへ。
石神村の外には人はいない、と言われている。もしかしたら、過去に追放された罪人達が、どこかで細々と生きているかもしれないが、どちらにせよ、アルミは人里を探すつもりは無かった。どこから来た、と問われたら、アルミには答えることができないのだから。どうしたって違えてしまうアルミには。
アルミはまだ愛しているのだろうか。百物語を、村を、父を、母を、妹を。
愛している、と言えないアルミは。