僕が大人になるために「全く、いつまでもそんな顔してんじゃないの」
歩きづらいだろうということを見越して、団地の一番近くの床屋に朝から出向いて紋付袴をしつらえたのだが、想像以上の着物の不快さに太一はずっと口をへの字に結んでいるのだ。
「おい、ちょっといじらないでくれよ」
母の手が先ほど太一が自分で一応整え直した髪を再度とかしている。
大学進学に合わせて短く切った髪を、いまだに太一自身が一番違和感を抱いていた。
母のほうはというと、とっくに両親を越えた身長差に含み笑いをしていた。
小学校の頃は幼馴染の女の子よりも低かったのに、成長期に入るとようやく長年続けていたスポーツが功を為してきたのか、それとも逆だったのかはわからないがグングン男性の体になった。父と並んで数センチ追い越した頃、彼は髪を切って、なにかを吹っ切るように家を出た。
その姿が出会った頃の夫のようで、若々しく、猛々しく、雄雄しく、だが、あのとき以上に愛おしく思えるのだ。
「お父さん遅いわね。ヒカリを送っていっただけでしょう?」
「どうせ会場で会うのに。一緒に行けばいいんだよ。別に貸衣装探しに行ったときだって一緒に行ったんだから、わざわざ先回りしなくたっていいのに」
太一は照れくさそうに、いまだ憮然とした顔で鏡を見ている。
しかし、それにも飽きたのか、久しぶりの実家のベッドに腰を下ろした。
「ちょっと、ゆっくり座りなさい。袴がずれたらどうするのよ」
「平気だって。床屋の親父にも散々言われたよ。後ろを少し持ち上げて座るんだろ?ったく、めんどくせえなあ。こんなに大変なら着るなんて冗談でも言わなきゃよかった」
「せっかくの成人式なのよ。秋に写真撮ったときなんて、アンタ時間が合わなくて結局スーツだったじゃない。本番はこれからなのに」
「いいじゃん。ヒカリがいるんだから。あっちのが母さんも嬉しいだろ?」
女の子のほうがなにをするにしても喜ばれることは、太一は実感を伴ってわかっていた。
妹は確かに可愛いと思う。それは見た目の話ではなくて、「妹」という存在がだ。無条件で守ってやりたくて、それが展開して見た目にも「可愛い」と結構仲間内でははばからず口にしていると思う。家族間でだって、やっぱりヒカリは特別で、それは彼女が「女の子」であるからだ、と太一は思っていた。小さくて、弱い。自分は男で、お兄ちゃんだから、強くならねばならない。そう思うことが多かったと思う。
それは、あの夏の日、いつだって太一の「特別」は夏の日から、始まっていた。
「ねえ、太一」
母が、ぽつりと漏らした自分の名前が、さっきまで聞いていたはずなのに、ドキリとした。
「いつも、お兄ちゃんで、ごめんね」
そして頭を抱かれる。
今日、成人の儀をこれから迎えるというのに、最後の最後に、子どものような扱いを受けている。しかし、その感触を振り払えないで、太一は十何年ぶりに母親に大人しく抱きしめられた。
思えば、自分は、いつも、誰かを、抱きしめることはあっても、抱きしめられることは、稀だったかもしれない。
いつも誰かに頼られる。
いつも誰かに慕われて、
いつも、いつも、誰かを、支えたいと思って、支え続けてきた。
それが、自分の使命のように。
「なんだよ、それ」
母親の胸にうずもれて、反抗もせずにそれでも反抗的に声だけはつぶやいて見せた。
「いっつもさあ、男の子だ、お兄ちゃんだ、って、そういって、ヒカリにばっかり、構ってたなあって、母さん思うの」
「気のせいだろ」
「両親独り占めしたことなんて、アンタ無かったわよねえ。3歳までじゃ、記憶もないしね。
いつも、お母さんの代わりみたいに、ヒカリの面倒みさせたわね。
ずっと、お兄ちゃんしてくれてたのよね」
「そりゃあ、俺が、兄貴だし」
「あなたも、子どもだったのに、子ども扱いしてあげなくて、ごめんね」
そんなことない。
否定をしたくて、手を母親に回す。
「いいよ」
出て来たのは、どちらにも取れる言葉で、すごく卑怯だと思った。
だけど、やっぱり、子どもになりきれなかったのは、あの夏の、自分が間違ったことをした、という後悔をした日から、ずっと、続いている気がするのだ。
それは、太一だけではなくて、あのとき、ロビーに響き渡る声で、普段は声を荒げない母親が手を上げたあの瞬間に全ては起因している。
「ただの、子どもだったのに」
「いいんだ、そんなの」
「あの時から、二度と、子どもには手を上げないって、決めたのよ」
いいんだ、そんなこと。
「違うんだ。ごめん、母さん。俺は」
「アンタにね、言いたかったの」
「俺には、十分だよ」
そう。これから、自分は、社会的大人になる。
いつまでも、そんなことに、引きずられない。
夢があるんだ。
無限大の。
「男の子は、本当に勝手に大きくなるのね」
「知らないよ、そんなの」
「そういうものよ」
親子の最後の抱擁は、本当はあっという間だったのだと進んでいない時計を横目で見た太一は感じた。
ヒカリがいたから、自分が邪険にされたわけではない。妹は可愛い。妹が可愛がられているのは嬉しい。だから太一は苦にならなかった。それでも、両親を求める気持ちは確かにあったし、淋しい気持ちもあったんだろう、といまさら人事のように感じるのだ。
そうだ。人事だ。
俺にとって。
もうすでに。
だから、安心してほしい。
「ただいまー」
「「おかえりー」」
父の声が聞こえて、これから式の会場へと太一の足代わりになる車が帰ってきた。さっさと立ち上がって、父を出迎えに行く。母は、微笑んでついてきた。
「なんだ、結構早かったんだな。待たせたか?」
「結構な。おせえよ」
「ったく、久しぶりに帰ってきたと思ったらこの減らず口か。これだから男ってのは」
「あら、いいじゃない。いつか懐かしくなるわよ」
それを聴いて太一は太陽のように微笑んだ。
***
「お兄ちゃーん!」
遠くで妹が手を振っている。身長的に隣にいるのは大輔のようだ。アイツ、こんなとこまで来やがって。
「太一さん!!か、かか、かっこいいっス…!!」
「そうか?」
「いいんじゃない?」
そういってヒカリはデジカメを撮る。恥ずかしくてその手をとった。
「やめろよ、ヒカリ」
「えー。お兄ちゃんの勇姿をしっかり納めなくっちゃ!」
「太一、袴かよ!」
後ろから聞こえた声にギクッとして振り返ると、金髪を逆立てたスーツのヤマトがいた。
「お前は、一体どこのホストなんだ」
「言うな。太一、親友だろ」
おそらく誰かに会うたびに言われるのだろう。顔面を押さえて、自分の格好を自ら悔いている様子に太一はさすがに哀れに思った。隣のタケルにそっと目をやると、太一の視線を受けて肩をすくめた。
「空は?」
「今階段昇ってるところ。さすがにすごいぜ。本家本元の着物はな」
「そりゃあ、なあ」
「あ、光子郎さんたちだ」
大輔が声を出すのとヤマトがそっちを向くのが同時だった。
隣で、ヒカリが太一の袖を引っ張る。小さいときからの癖で、声で呼べ、と何度いっても袖をとって呼んでいる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「なんかいいことでもあったの?」
「んん?」
いいこと、か。
そうだな、と肩をまわす。ごまかさないでよ、と頬を膨らます妹を見下ろしながら、太一は言葉を捜した。
「今までで、一番、子どもらしくいられたことかな」
「は?」
いいんだ、わからなくて。そしてつるつるとしている髪型を撫でようとしたところで、車を置きに行っていた両親が帰ってきた。もうすぐ式が始まるので、彼らはヒカリをつれて食事をして再度着替えのために太一を拾いに来る。
ヒカリが両親を呼んでいるのを、なんだか感慨深くすぐ横にいるのに遠くのものを見るように見ていた。
「ここ! ここ!」
「ヒカリ。聞こえてるわよ」
「あ! 大輔くん。写真撮って!」
「あれ、母さん、さっきの紙袋どこやったっけ?」
「車においてきたんでしょ? やあねえ」
「あ、ヒカリ」
はし、と妹の手を取ったとき、かつて、自分も構ってほしいと妹を泣かせた頃のことを一瞬ノドがつまるような感覚を伴って浮かんできた。
「お兄ちゃん?」
「先に、三人だけで」
最後のわがままだ。
ヤマトが口だけを動かして「ば・あ・か」といっていた。
同じように「あ・ほ」と返す。いつのまにか空がヤマトの隣にいて、そんな二人を見て笑った。
ヒカリがなんだか照れたように笑って、自分でカメラを構えた。
フレームには、真ん中に今は家族で一番大きな太一が立ち、右手に父が、左に母が立っている。まるで、お見合い写真みたいだ。
「父さん、母さん」
目の前に立つヒカリを見ながら、太一は声というより、息を出す。
「ありがと」
聞こえて、いなければいい。