もっともっと 毎週木曜日。
それは、彼女がオレの家に来る日。一週間の、楽しみの日。
*
大学の空きコマを使って、毎週木曜にヒメノはオレの家に来る。うたかた寮を出て、数駅離れた町に一人で住むようになってまだ一年と経っていないが、だいぶ一人暮らしにも慣れてきた。
時折、土日にはエージやアズミが遊びにきて、師匠も様子を見に来る。最初の頃、あまりにも頻繁だったので喧嘩になり、月に一回まで、という約束を交わした。それとは別に、最近は一ヶ月に一度、弟子たちの集まりも持つようになり、それぞれの活動を報告しあう。といっても、その様子はただの飲み会なのだが。
新しいルーチンが出来上がりつつあるその中でも、ヒメノがやってくる日は今でもソワソワとしてしまう。
昔はそんなつもりなかったのだけど、互いに想いを打ち明け今までの「友人」から「恋人」となってからまだそんなに日は経っていない。
そもそも、誰かと深い仲になることなんて、自分が生きているうちに起こり得ると思っていなかったので、正直、今の状況だって信じられない。どうして、アイツはオレなんかを好いてくれたのか。
何度聞いてもはぐらかされて、オレばかりが浮かれているようで、今でも時折居たたまれない気持ちになる時もある。
それでもヒメノはきちんと毎週木曜の夕方になると、オレの家に来て夕食を作って、オレと一緒に食べて、そしてオレが仕事に出る時に一緒に駅まで送っていく。いつからか、習慣のようにそれが行われるようになった。
アイツの気持ちがオレにあると知っても、触れることが怖くて、なに一つ変化しなかった時期もある。ある時、ヒメノのほうから寄せられた手にひどく驚いた顔をしたオレは叱られた。
「そんな顔するなんて、ひどくない?」
「ごめん」
「またそうやってすぐに謝るんだから」
「うん、ごめん」
それからは、外に出るときにはヒメノの手を取るようになった。死者じゃない、生きている人の手は、つないでいると、自分の体温となじんで一緒くたになっているようで怖かった。なのに、オレがコイツの熱を奪っているような感覚は、それはそれで、甘美な喜びだった。
また、寒さが少し和らいできた春の直前の日。
駅までの道のりを、少し遠回りしようとヒメノが言った。まだ桜には早くて、風も冷たい。寒いね、とわかっていたことをオレにだけ聞こえるような声でつぶやいて身体を寄せて二人で歩いた。頭一個半の身長差はその分、オレの恐怖の差でもあって、これ以上近づいたら、こんな細い彼女を握り潰してしまうんじゃないかと思ってやっぱり怖かった。
あと少しで公園を出るというところで、街灯の明かりでヒメノの少し赤い顔が見えた。熱でもあるのかと思って顔を近づけたら、ほんの一瞬口元が互いをかすめた。
「冬悟くん、もう帰ろっか」
「ヒメノ」
「なに」
「顔、赤い」
もう一度顔を見たくて、顔をのぞきこむ。マフラーに埋もれた顔を引き出して、もう一度、触れるだけの真似をした。
「ごめん」
「謝らないで」
「うん」
自分の顔が赤いのがわかる。全身の熱が顔に集まっているようだった。見下ろすようにヒメノをチラリと見たら、笑顔がほころぶところだった。
「嬉しい」
なんで、お前は、喜んでくれるんだろう。
オレは、自分からはなに一つ先に進めなくて、お前が手を引いてくれなかったら、なにも出来ないのに。情けないって思うけど、でも、ヒメノを自分の手で汚したり、傷つけるようなことをする可能性が微塵でもあるんなら、そんなことはしたくなかった。
もしも、そんなことになってしまったら、オレはもう、生きる喜びを失ってしまう。
こんなにも、君が愛おしい。
こんな気持ちは、生まれて初めてで、君にしか、感じないから。
*
「今日、カレーでいい? 余ったら冷凍しておくから」
「余ったことねーじゃん」
「三合炊いても一度で全部食べるからでしょ」
「だってカレーだし」
一人分にしても小さい冷蔵庫を見ながらヒメノがこちらを睨んだ。そんな短いスカートでしゃがむなよ。何度言ってもコイツは無防備だ。
「あ、やだ、ルーあると思ったらなかった。買ってくるね」
「いいよ、それならオレ行く」
「ダメよ。けが人はゆっくりしてて」
その言葉につい二の句が告げなくなる。つい先日、敵の攻撃によって両腕を負傷した。ちょっと肉が焼けたくらいで骨に異常はなさそうだったから普通に生活していたら、怪我の話を聞いた明神が皇神に連絡を入れたらしい。足代わりのプラチナと一緒にここに来てオレの腕を見て皇神は元々切れ長の目をさらに釣り上げて「この大馬鹿者!」と怒鳴った。
放っておけば肉の腐敗が続いて骨や神経にまで届くらしい。痛みには強いほうなので気にしていなかったが、そう言われてみれば腕を動かすとひきつるような普段の動きとは違う引っかかりがあった。
悪性の霊気が溜まっているというのでそれを取り除いてもらい、表面上の治療はするが、内部の療養は結局安静しかないとのこと。ここら辺でしばらく引き受けていた仕事をプラチナに説明して引き渡すことになってしまった。
「たまには、ゆっくり休みなよ」
そういうプラチナの言葉に曖昧に応えると、皇神は大きなため息をついた。
「ヒメノにも伝えておくからな」
それは死刑宣告のようだった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「それくらいなんの問題もないから、いいって」
玄関に向かうヒメノを引き留め、先に靴を履こうとする。ヒメノの表情が陰った。その顔がオレはとても苦手だった。
「私がいる間くらい、甘えてくれていいのよ」
甘えるって、どういうことなんだろう。
玄関の段差でヒメノときちんと目線が合う。けれどヒメノはオレの両腕を見ているようだった。腕なんか、とれたって梵術があればなんとかなるくらいだし。
痛みは、オレの生きる指針だ。これがなかったら、生きている実感も沸かない。でも、それをオレ以外の奴らが嫌がることも知っている。
ヒメノがオレの腕を取った。
「こんな怪我して、本当は、すごい痛いんだって、澪さん言ってたもの」
「痛くない」
「鈍いから気づかないだけだよ」
「大丈夫」
「冬悟くんが大丈夫でも、私が大丈夫じゃないの。
ねえ、もっとわがまま言っていいんだよ? もっと、甘えていいんだよ? そのために、傍にいるんだから」
そして、見上げてきた顔をみて、また、愛しさがこみ上げてきた。
腕はするりとヒメノの手を抜けて、その背中に回された。ちょうどヒメノの肩にオレの顔が乗る。
「冬悟くん?」
声が出ない。目元を肩に押しつけて、両腕に力を入れた。
腕が痛い。ヒメノの細い身体を抱きしめてオレの腕は余っているのに、ギシギシと鳴ってるみたいに、今腕が折れてるみたいに体中が悲鳴を上げているようだった。
こんなことしちゃいけないって思っているのに。
柔らかいにおいと、甘い身体にピッタリと接着剤でも使われてしまったように離れがたかった。
「なんでも、言っていいんだよ?」
そういうヒメノの声も、震えている。
「ヒメノ」
そうだ、わかっていた。
ずっとずっと思っていたこと。
もっと、もっと、とオレは欲張りだから、生きているだけじゃだんだん飽き足らなくなってきている。
「ヒメノ、抱きたい」
オレは、バカだ。
言ってから、全身の血の気が引いた。
なにを言っているんだ、と脳内の自分をののしる。
心臓の動きを自分で完全に把握しているように血が全身に回っているのがわかった。頸の動きのように自分で動かせるものではないのに、その血はオレを動かしているようだった。
ずっとずっと、触りたかった。
手だけじゃなくて、唇だけじゃなくて、頬だけじゃなくて、そのもっと先まで。オレに微笑みかけるその顔が曇るのが怖くて、ずっとずっと言えなくて、嫌われるのが怖かった。
「え、と、それは、どういう……」
お互い、肩に顔を埋めているので表情が見えない。けれど、声だけでヒメノの表情がわかる。今頃真っ赤になっていることだろう。
だけど、それは、オレも同じだった。顔面の熱さが尋常じゃない。
「ごめん」
「謝らない」
「すみませんでした」
「一緒でしょ」
そういいながらも、回復が早かったのは、ヒメノのほうだった。
顔を離して、身体を起こし、オレの顔を見ようとオレの身体を引き離してその小さな両手でオレの顔を包もうとした。
慌ててその両手首をつかんだら、その細さに驚く。顔は首が痛いくらいに自分の足元だけを見ている。
「ねえ、顔見せてよ」
「無理」
「ねえったら」
「いや、ほんと、無理」
「ねえねえ」
「勘弁してくれ……」
オレに手首を捕まれたまま、ヒメノは自分でしゃがんで、オレの顔をみた。チラリと見えたその顔は、とても綺麗に笑っていた。
*
結局、そのまま外食をすることにした。
あのまま二人であんな小さな部屋に居るなんて、オレが耐えられない。
なにかあってからでは遅いのだ。
近所のカレー屋に入ってからもずっとヒメノはニコニコとしていた。オレにはその訳がわからない。オレはずっと下を向いてた。ヒメノの顔をまともに見れなかった。
「じゃあ、また明日来るからね」
「え、来週じゃないのかよ」
「だって、腕、まだ安静にしてなきゃいけないんでしょ?それとも仕事あるの?」
「いや、ないですけど」
駅の改札前で、ついつい話し込んでしまうこともあるけど、そんな調子でサラリとヒメノはそんなことを言った。仕事はプラチナに明け渡してしまっているので今週は少なくともやることはない。
「待ってるよ」
「は?」
「冬悟君が、いいと思える日まで」
そう言うと、ヒメノは改札を抜けて、階段を上っていった。いつもは振り向くのに、今日は振り返らなかった。
それが、いつになるのか、オレにはわからないけれど、せめて、この両手が治るまで、オレは耐えることを決意した。