うちのかわいい太鼓鐘 なにをやっても、その日はうまくいかなかった。
朝から苦手な野菜が出ていて、歌仙さんにちくりと釘を刺され見かねたみっちゃんに「あ~ん」なんてされて、変な汗が出た。喧嘩じゃないけど、ギクシャクした空気で跳び出した戦闘では、運悪く敵からの総攻撃は全部俺。矢も銃も槍も、どんと来いと思うものの、避けても走っても、次から次へと戦闘のたびにこっちに飛んでくるおかげでお気に入りの服はボロボロ。オマケに雨で泥まみれ。戦なんだから当たり前だが、それにしたってひどい有様で髪の毛なんかもぐしゃぐしゃだ。
平野と前田に慰められながら出陣から戻って、風呂に入れば、誰が残していったかわからない石鹸に滑って頭を打つ。堀川が慌てて脱衣所に運んで介抱してくれたし、特に何事もなかったけど、情けないところを見られて気持ちは落ち込む一方だ。誰もかれもがいい奴らで、言いふらしたりなんてしないからよかったものの、自分のみっともない姿をさらした事実は変わらないので、ただただへこむ。
そんな日に限って、いつも話を聞いてくれるみっちゃんも、鶴さんも伽羅もいない。
短刀の仲間たちはおやつの菓子に夢中で、薬研や後藤や不動も、他の連中の世話を焼いていたり、内番中だったりで手が空いていないようで、たまにみっちゃんや鶴さんに言われた「君はいつも誰かの中にいるなぁ」という言葉を思い出してたった一人ぼっちの今を思う。
とぼとぼと行くあてもなく本丸内を歩いていたら、廊下の角でなにかにぶつかった。身体が吹っ飛ばなかったので、打刀より小さい刀だろうと思うものの、どしんと尻もちをついてしまって、やっぱり情けなさに思わず涙ぐんでしまった。
「あ、わ、わりい。よそ見してた」
相手の顔も見ずに、立ち上がってその場を離れようとしたら、思ったよりもしっかりと腕を掴まれた。
「太鼓鐘。すみません。どうか、しましたか? けがは?」
ぶつかったのは、物吉だった。
「そうですか。それは、大変でしたね」
そういう物吉の声は優しく、自分とあまり変わらないと思える細い指先は俺の乾かしたばかりの髪の毛をゆっくりと梳いていく。あまりの心地よさにうとうととしかけたものの、この状況を思い出して、目をしっかりと開けた。
「寝てもいいんですよ」
「い、嫌だよ! こんなところ、誰かに見られたら……!」
「おや、来ていたのかい、太鼓鐘」
「ぎゃっ!!」
ガラッと勢いよく入ってきたのは亀甲だ。当然だ。ここは物吉と亀甲の部屋なのだから。
「おやおや、今日は珍しいね。太鼓鐘。珍しくお疲れかな」
「い、いや、これは、その……」
物吉の膝枕から慌てて起き上がろうとしたのに、しっかりと両肩を物吉に掴まれて身体を起こすことが出来ない。
どちらも修行済なのだからそうなるとあとは体力勝負だ。脇差とはいえ、自分より身体が大きいということは、それだけで不利である。
「そうなんです。今日の太鼓鐘は、大層お疲れのようなので、甘やかしているんですよ」
普段から穏やかな刀だが、それでもいつも以上に喜色溢れる声と表情を見てしまって、思わず反発しかけた身体から力を抜いた。
そんな物吉と自分を、脇差と同じような穏やかな表情のまま、こちらを「らしくない」と笑うことをせずに静かに隣へ座った亀甲は、その柔らかい笑みをまさに白菊のごとく綻ばせながら、俺のほっぺたをむにりとつまんだ。
「ふふふ、いつかじっくりと、君のこのほっぺを触ってみたかったんだ」
「ほんなの、ひふでもはわらへてひゃるほひ」
「あはは、なに言ってるか全然わからないよ」
この二振りはともかく、「伊達」の気質の強くて雰囲気がガラリと違う自分が同じ「貞宗」を名乗るのにどことなくあと一歩距離を感じていたのだが、この「兄」位置にいる二振りは、そんなでもないらしい。
自分を見れば甘やかに微笑みかけ、伊達の刀たちとはまた違う空気の中に取り込まれてこうしてドロドロに甘やかされてしまう。
あっちにいる時は、かっこいい仲間たちに負けない気持ちで、自分だって「政宗様」の元にあった刀なのだ、という強い自負が自分を奮い立たせているのに、ここにいると、この空気に抗えない。
自分の顔面を両腕で覆って赤面しているだろう表情を隠した。
「はあ……、俺、ダメになりそう……」
「いいじゃないですか、たまには」
優しい手が、そっと両腕をどかした。自分を覗き込む二振りは、本当に、嬉しそうな顔をしている。
「かっこつけるばかりでは、息も詰まるものですよ」
「そうさ、同じ刀派のよしみじゃないか。疲れたら、いつでもここにおいで。
僕たちだって、君を助けたいし、甘えてもらいたいんだよ」
「カッコ悪い、俺でも?」
「太鼓鐘は、いつでもかっこいいですよ」
「どんな時でもね」
本心なのだろうが、二振りして、こちらのほっぺたを触っている状況では説得力がない。
それに反抗するように両頬を膨らますと、ますます二振りは嬉しくて仕方ない、という風に笑った。
これが、俺が、たまに、そして、唯一自分から甘えに行く、「貞宗」の話のはじまり。
*
「それじゃあ、少し休憩を兼ねよう。半刻ほどでまたここに集合だ。解散」
遠征帰りに、買い物休憩を取るようになったのは、いつの頃からか。
それぞれ短い時間だが自由を時間を各々好きなように過ごす。買い食いをするもの、土産物を買うものが多いが、ただ突っ立ってるだけの奴だっているし、短い時間ですら休息として瞳を閉じるものだっている。
ふと、自分と同じように全身真っ白い奴が目について声をかけた。
「亀甲。珍しいな。そんな上菓子なんて吟味して。物吉と約束でもしていたか?」
「ふふ、今日は三振りなんだ」
「おっと、俺としたことが。今日は貞坊がお泊りの日だったか」
「ああ。ちょうど遠征があったから、物吉からなにかいいものがあればと頼まれていてね」
「そうか」
普段は俺と、光坊、伽羅坊、貞坊と伊達にゆかりのある四振りで使っている部屋だが、伽羅坊は打刀連中になんやかんやと騒ぎに巻き込まれて部屋を空けることが度々あるが、なにも本丸内で危険なことがあるわけでもない。しかし、貞坊については光坊がいろいろと心配するので、貞坊は時折短刀の部屋に遊びに行ったりしていたがいつも行先は伝えてくるのだ。
いつからか、そこに「貞宗派」が加わった。
その時の貞坊の顔を、今でも覚えてる。どこか少し照れくさそうに頬を赤らめて、しかしこちらを伺うように少しおどおどとした様子は珍しいもので。なんとなく、いつも少し距離のあった貞宗派三振りの様子を、光坊とよく心配していたが、その言葉を聞いて、少しの安堵と一緒に一抹の寂しさを覚えたのも少し前の話だ。
三振りでどんな話をしているのかはよく知らないが、貞坊が元気いっぱいになって帰ってくる姿を見ると安心するし、心底良かったと思える。
上物の練り菓子を選んでいる亀甲を見て、貞坊は大切にされているなぁ、としみじみした。こんなにもどちらにしようかと悩んでいる姿も微笑ましい。打刀の姿でも少しぽやんとしたところのある亀甲だが、少し変わった気質は主にしか発揮されないし、こうして刀剣同士でいる分には安心できる相手だ。
「悩むのなら、どちらも買えばいいだろう」
「いや、あまり多く買っていくと、太鼓鐘が怒るんだ。以前にも張り切って用意したら、こんなにいらないと怒鳴られてしまったよ」
「ははは、そいつは貞坊のよくやる照れ隠しだな」
「だから、それからは必ずどれか一種類に絞ってるんだよね。物吉にも釘を刺されてしまったし」
「よし、ならばこちらは俺が買おう」
「え?」
「君は迷っているもう一つのほうを買うといい。俺も自分の部屋の連中への土産を買おうと思っていたんだ。ちょうどいい」
「いや、鶴丸。しかし……」
「貞坊に、俺も土産を買ってやりたいのは同じ気持ちだ。受け取ってくれ。
ついでに俺の名前を出せばアイツも少しは黙るだろう?」
強引に押し切って購入してしまうと、もう気持ちは切り替えたらしい亀甲はこちらの分の包みまで持ってくれている。そろそろ集合場所に戻る時間なので、二振りで元来た道をたどる。
「羨ましいな。俺たちの知ることのない貞坊の顔を知る君たちが」
思わずこぼれ出た本音を、亀甲は朗らかに笑った。
「それは、お互いさまだよ」
それも、そうかもしれない。いや、そうか。君たちも、そういう気持ちだったのだなぁ、とわかって、俺と光坊の心配だった過去が、杞憂だったことをハッキリと突き付けられて、思いっきり、スッキリしたのだった。
**
「物吉ー!」
「どうしました? 後藤くん」
厨当番の時間にはずいぶん早いけれど、脇差の子たちはいつも早く来て手伝ってくれることが多いが、物吉くんもそのタイプで、僕の姿を見かけたからという理由で一緒に厨まで来て少し早めの用意をしているところに大きな声でお呼びがかかった。ひょっこりと入口を覗いたのは後藤くんと、少し不機嫌そうな貞ちゃんだ。今朝は大層ご機嫌がよかったのに、今はずいぶんとその気持ちを隠すことなく全面に押し出している。これは、後で少し注意しておこう。
「こないだ貸してくれた本のさ」
「それ、どこにあんの? 俺が確認する」
「ああ、あの歴史書ですか? でも、ただの一説ですからね」
おそらく二振りで言い合いになって、それならば根拠となるものを探そう、となったのだろう。
物吉くんの部屋の位置をハッキリと知っている貞ちゃんに本の場所を丁寧に教えて、二振りで駆け出していった。
「こら! 廊下は走らない」
「どうもすみません。二振りとも大慌てですね」
「ああやって全身で感情を出すのは良くないってまた注意しないと……。いっつも当たりが強くなっちゃうのはなぁ……」
「ふふふ、そうやっていつも太鼓鐘を注意してくれてるんですか? 恐縮です」
「いやいや、僕より鶴さんのほうが細かいよ。伽羅ちゃんも細かくはないけど、目でしつけはしているみたいだし」
「そうなんですね。本当に、大切に、されてるなぁ」
そうやって、まるで自分のことのように、ほんわりとした笑顔を浮かべて穏やかな声を出す。
しかし、いつからか、貞ちゃんと物吉くんの距離が縮まったのを、僕たちは知っていた。
先ほどの会話の時もそうだ。
今まで、貞ちゃんは長い間、貞宗派二振りとの距離を測りかねていた。
どこまで近づいていいのか、短刀ならではのするりと懐に入り込む素早さもあるのに、なかなか奥まで入り込めなくて子猫みたいにビクビクおどおどしている姿は珍しくて三振りでせっついてみたり、放っておいてみたり、宥めてみたいしていたのが遠い昔のことのようだ。
それが、いつからか、時折お泊り会をするようになって、三振りで楽しそうに並んで話すことが普段から見られるようになって、彼のぴょこんと跳ねる髪を乾かしているのが自分だけではないと知った時に広がった胸の痛みのようなものは、寂しさとして僕の中にも残っている。
物吉くんが来た時から後藤くんとはそれなりに顔見知りだったおかげか二振りの仲は良かったが、そこに最近は貞ちゃんが物吉くんのそばにくっついていることが増えたように思う。かわいらしいとは思うが、まさに「お兄ちゃんを取られた末っ子」の顔なのだ。きっと下の兄弟が多い後藤くんは気付いていて、貞ちゃんとも普段通り一緒にいてくれてるのだろうと思うと、そちらの健気さにも涙が出る思いだ。
「昨日のお泊り会も楽しかったみたいで、すごいいい顔でこっちの部屋に戻ってきてたのに、あんな怖い顔してたら友達なくしちゃうよ……」
「後藤くんはそんな小さい男じゃないですよ。
それに、昨日も特別なことはなにも。いつも通り、少しだけ夜更かしして三振りで寝ただけですよ。朝なんて、僕と亀甲さんは太鼓鐘に叩き起こされるんですから」
くすくすと笑う彼の手が止まって、ころりと向いていたジャガイモが落ちた。床に落ちる前になんとかそれを受け止める。
「すみません」
「なんてことないよ」
ああ、やっぱり、この想いはこらえきれないなぁ。
「羨ましいな」
「え?」
「貞ちゃんは、僕たちにはかっこつけたがるから、そんな甘えた姿もいつか見てみたいね」
僕たちの服が乱れてればそれをサッと直してくれるよく気の付く彼。
一番小さいのに、その心は大海のように広くて、僕たちを支えてくれる。
彼が前を向いている限り、僕たちはまだ前に進めると信じることが出来る。
戦う戦場が違っても、同じようにきっと夜の中で、彼の切っ先が敵をまた屠っていると思えばこそ、僕たちもまた陽の元でこの刀身を血塗れにしてなお戦い立ち上がることが出来る。彼の小さいけれど、大きな存在が、僕たち同じ主の元にいた縁が繋げた希望の形だからこそ。
だからこそ、どんな姿でも見たいと思うのは、やっぱりワガママなのかなぁ。
そんな僕を、物吉くんが、大きな声で笑い飛ばした。
それは、とても珍しい笑い方で、まるで、貞ちゃんみたいに、豪快で、声も姿も服の色以外ほとんど似ていないと思っていたのに、まるで一瞬貞ちゃんが笑っているのかと思ったくらいに、よく似ていた。
ああ、やっぱり、彼らは、「兄弟」なのだなぁ、と胃の腑に落ちた。
「それは、お互いさまでしょう?」
うちの、かわいい、太鼓鐘。
その言葉は、確かに貞宗派の二振りにしか、発せない。