長い別れ その若者はある時、突然又市の前に現れて、するりと懐に入り込んだ。
名前は知らない。
本人が自称するには予備校の講師をしているとの話だが、実際のところは詳しくは知らない。度々又市が気が向いた時だけ働いているバーになんでもないようにやってきて、決まりきってギムレットを頼んでほんのりとした微笑みを浮かべて帰っていく。カウンターしかない小さな店だ。人伝てに誘い誘われやってくる客ばかりの中、珍しく独りでやってきて、そして次第にその頻度が増えた物珍しい客は又市の記憶にも少なからず残るようになった。
それほど年がいっているように見えない若者姿で穏やかそうな佇まいだが、好奇心あふれる瞳は薄暗い店内でも隠し様もなく又市を見ていた。
又市はほぼ客とは話さない。あまり話をするのも好まないし、深入りする気もない。毎日定職で働いているわけでもない。だが、その又市がなんの不快さを得ることなく、彼は又市と言葉を交わす。とても自然に。最初の会話がすでに思い出せないくらいに。その姿を見た林蔵は驚き一瞬言葉を失ったほどだった。
「なんやの、あのお坊ちゃんは」
「先生だ」
「は? あの人のことか?」
「どこぞの予備校の先生だってよ。名前は聞いてねえ。だから先生と呼んでる」
「はは、先公キライのお前がか」
その通り。
権力のような力を持つようなものを極端に嫌う又市が、なんの違和感もなく彼とは様々な話をした。正確には、先生の話を聞くばかりだが。
そもそも先生は「先生」と呼ばれるが、権力的な立場からはとても遠い立ち位置だった。第一に予備校教師は正確な「先生」ではない。それも常勤ではなく非常勤で又市と同じく毎日決まった生活をしているようではなかった。その生活は、どこか根無し草のようにふわふわとしていて、この世の生き方からは遠く感じた。
そんなことを知った頃から、明らかに又市よりも年下だがどこか老成した感のある若者である先生は、最近はバーではなく直接又市の家に来るようになっていた。あまり人の多いところは好きではないらしく、狭いところを好んでいた。そのせいか、狭苦しい又市のボロアパートを気に入ったらしい。
先生は本当に様々な書物、主に昔のことに詳しく、妖怪や怪奇現象などに興味関心を振り切っている。教えているのは古語や古典、国語や歴史が主だというので職業病だとは思うが、本人が心から好きであることがよく伝わってくる。
又市は歴史にも妖怪にも興味はないが、彼の話は強い関心を持って聞いた。理由はわからない。それでも強く引き付けられるものがあったのは事実だ。先生の話は面白かった。
決して話が上手いわけではない。しかし、すらすらと膨大な量の知識を披露する彼は穏やかな熱量を又市に分けてくれた。自慢されているわけでもなく、事実でもない話なのに、バカにされているとも思わず素直に聞くことが出来る。
そんな自分の姿を、又市は今更新鮮な気持ちで知ることになった。
そのうち、林蔵も混ざって三人で飲むようになった。
本当に、バカなことしか話さない。
林蔵も又市も真っ当な人生を歩んでおらず、現在も定職に就いていないので、先生との関わりには常に一線が自然と引かれていたが、その線はいつからかうすぼんやりとして、又市を時に戸惑わせた。
先生は、普通の、当たり前の、人生を歩んできたはずなのだ。又市たちとは接点なんてなんにもあるはずがない。
又市たちは、当たり前に蔑まれて生きてきた。それが当たり前で、バカにされ、八つ当たりをされ、居場所もなく、それでも下等の生き方を強いられた者たちは手を貸し合って、肩を借り合って、時には互いを蹴落としながら、それぞれの理を守りなんとかここまで生きてきたのだ。外れた道をたどって、ここまで。
どんなに優しい人でも、本当に対等な関係などこれまでなかった。そこに騙され、騙し、ここまでやってきたのだ。誰一人として、真の意味で、同じ人間など、いなかった。
だが、先生は違った。
彼は、本当に、なんにもなかった。
ただ、話をした。
話したいから話す。聞きたいから聞く。
ただの、人間として。
それが、又市はうれしかったのかもしれない。
林蔵は腐れ縁で、他にも何人か気心の知れた仲間はいるにはいるが、先生に対して感じた感情は、いままで誰にも抱いたことはない。
なんとなく、心が浮き立つような、ふわふわとしている。
そして、なんとなく、居心地が悪いような、そんな思いも。
それがどこからくるのか、又市はずっとわからないでいる。
*
「本当に狭いところですよ」
「別にいいですよ。こっちが無理頼んでるんだ。断ってくれたってよかったんですぜ」
「いえ、困っているというのならお力になりますよ。私が言いだしたことですし」
別に大した困りごとでもなかった。
又市のかろうじて住んでいるといえるアパートが水道工事のため丸一日断水となってしまったのだ。別に外出をしていれば一日なんてあっという間だと思っていたが、たまたまポロリと又市が言ったのを先生は聞き逃さなかった。時期は夏で、シャワーも浴びれず、近所に銭湯もない場所なので不便だろうという心づもりのようだ。
それなら、うちにいらしてください。いつもお邪魔してばかりで申し訳ないですし。
普段の又市ならそれも断っていただろう。
だが、いつの間にか又市は先生の言葉に即断出来ないだけの情を感じていることを自覚していた。そして、初めて先生の言葉に又市を頷かせようという強い意志があった。それが、又市には意外なことだった。自分がそんな初心な人間であることを、初めて気付いたことに、動揺したのだ。
瞬間、無言になったのを先生はいいように解釈したらしく「せっかくですから、カレーでも作りましょう」と全く関係ないことを言ったのだった。
本当に、狭いですよ、と何度も言われていただけあって、先生の部屋は又市のおんぼろアパートと大した変わりがないほど古く狭かった。四畳ほどの室内に小さな文机、薄い座布団、敷きっぱなしと思われる布団、足の踏み場を迷うほどうず高く積まれた本の山と、雪崩れた書物、とまるで彼をそのまま部屋にしたような場所だった。
「あ、すいません、あはは、出かけてる間に崩れたみたいで……あの、すぐに座れる場所を作りますから!」
「ああ、いや、想像通りとはいえ、大したもんすね」
途中のスーパーで一緒に買い物してきたカレーの材料をとりあえず小さな流し台に置いた。その間せっせと先生は本をまた積みなおしてスペースを空けている。
「ははは……、面目ない。さあ、どうぞ。座ってください。お茶をお入れしますから」
「はあ、すいやせんね」
ここは大人しく甘えさせてもらい、二人座るのも目一杯なところにとりあえず腰を下ろす。冷凍庫のなさそうな小さな冷蔵庫からどうやって出したのかと不思議になるほどほど大きな2Lペットボトルを取り出した。二人分の麦茶を並べてようやく二人は人心地ついた。
酒以外をこうして並んで飲むことは今までなかったような気がするのに、なぜか、この時が初めてではないような気がした。
夕食作りは、ほとんど又市がやった。
あんまりにも、あんまりに先生の手元が覚束なかったからである。又市も自炊はほぼしないが、様々に渡り歩いた仕事の中でも飲食店の経験は多々あるので包丁で野菜を切るくらいは問題なかった。それに、台所が狭すぎて男二人で並ぶことなど想定していない作りだったのだ。
「一体どういう風に暮らしたらそんなふうになるもんですかね」
「はあ、面目無い」
「まあ、泊まらせてもらうんでこれくらいはさせて頂きやすけどね」
二人で食べたカレーは辛かった。間違えて辛口を買っていただけでなく、水分も少なかったようだ。
それでも、全力で頬張っている先生の姿を見て、蒸し暑さや辛さからくる汗だけでなく、胸騒ぎを覚えた。二人きりで、狭い、本の山に囲まれている部屋に入ってから、又市はずっと落ち着かない。
先生の視線が、又市の頭にいく。それは時折今までもあったことだが、彼はよく又市の頭を見た。普通に、なんの変哲もない、長くも短くもない、色も黒い刈り上げた髪の毛だが、視線をよく感じる。
先生は、本人が言うように朴念仁で、又市とは違う意味でだらしのない格好が多いが、特段又市も先生も人より見目が整ってもいるわけではないし、崩れているわけでもない。暑くて額を持参のタオルで拭うと、先生の視線が痛いほどだった。
麦茶のペットボトルを全部飲み干してから、ビールに移る。
「いやあ、すっかりお世話になってしまったようで」
「いやいや、こちらこそ」
そういって時が止まったように二人の動きも止まってしまった。
「又市さんは」
「はい?」
「なんで年下の私なんぞにそんな丁寧な言葉遣いなんですか」
「へえ、なんでって……まあ、元々客ですからね。いや、今でもそうですが」
「先生って呼ばれましても、私は雇われの身、それもちゃんとしたものでもないのです。そんな畏まられても困ります」
まただ。
先生は、酒が入るとよく「先生」ではない、と常々苦言を呈する。
「そんなこと言いましても、もう今更そんな呼び名なんて変えられやしませんよ。それに、」
「それに?」
「俺ァ、先生のお名前を存じあげてませんや」
そういうと、先生の視線が、不自然に自身の手元に落とされた。
「知っていますよ」
「え?」
「又市さんは、きっと、私の名前を、知っています」
「え、聞きましたっけ?」
「いいえ、まだ教えていません」
「おいおい、そんなんでわかるわけないでしょう?」
「いいえ」
「あなたなら、大丈夫」
そういう顔が、少し悲しげに見えた。
*
その夜、又市はなかなか寝付けなかった。ビールが無くなって、テレビがない部屋で、順番にシャワーを浴びて、その後もずっと汗がダラダラと出てくる。しかしすることがないのだから横になるしかなかった。隣の先生の、死んでいるように静かな寝息を、又市は探るように聴き入っていた。
先生の、名前とは、なんなのだろうか。そのことばかり考えていた。
記憶がない。
おそらく、出会ってから今日のまでの間、先生の口から名前を聞いたことはないはずだ。曲がりなりにも客商売を長く続けているため、記憶力には自信がある。絶対に聞いていない。本人も言っていないと言っていた。
どういうことなのだろうか。
先生が時折見せる悲しげな表情は一体なにを意味しているのだろうか。
なぜ、これほどまでに二人きりでいるとおかしな胸騒ぎが止まらないのか。
暑苦しく、蒸した狭い部屋で、すぐ背中の後ろに先生がいる。その状況だけでなく、ざわざわとした心を持て余しながら、又市は薄明るくなっていく空に気付いた頃、意識を手放した。
*
「最近先生、よお来おへんようになったな」
「そうか?」
仕事終わりの夜明けに林蔵がそのまま又市の家に上がり込み、気が付けば昼になってしまった。林蔵は一人でペラペラと喋り続けているが、又市は次の仕事のために仕事仲間の治作から借りた本を読んでいるので返事は少ない。それでも林蔵は気にすることもなく勝手にトイレに行ったり、冷蔵庫を開けてハムを摘んだりしていた。又市も林蔵を気にすることはないが、その時、つい顔を上げた。
「せやろ。わっしはもうかれこれ一ヶ月は会ってないねん」
「たった一ヶ月じゃねえか」
「ケンカでもしたんか? 前に泊まりに行ったんやろ? 自分、なんや先生に手ェでも出したんか」
「んなわけねーだろ、アホ。なんにもねーよ。普通に次の日帰ったよ。
店には先週くらいには来てたぜ。いや、先々週だったかな」
「ふうん」
そう、なにもなかった。
次の日、すっかり寝過ごした又市を咎めることもなく、先生は目玉焼きとトーストを差し出してくれた。目玉焼きは作れるのかと笑うと、恥ずかしそうに「固くなっちゃいましたけど」と言われてなぜか又市も恥ずかしくなった。
コーヒーは、インスタントのはずなのに、なんの味もしなかったが、それについてはなにも言わなかった。
もう一度シャワーを浴びていくかと聞かれたが、又市は予想以上に寝てしまっていたため、人との待ち合わせが近かったので断った。
狭い玄関で先生に見送られながらスニーカーを履く。よれよれのTシャツを着た先生の肌の白さが一瞬眩しかった。
「それじゃ、先生。ありがとうございました」
「とんでもない。特になにもしてないので」
「まあ、また暇があれば店にいらしてください。歓迎しやすぜ」
「ええ。伺います」
そして、又市は背中を向けた。
「又市さん」
声をかけられ、振り返る。
少しだけ開いた扉を支えた先生が、又市を見つめていた。
「ここに人が来たの、実はあなたが初めてだったんです」
「え、そうなんすか」
「私は、ここを、『トウカアン』と呼んでるんですよ」
「とうかあん?」
「ここのアパートの名前は違うんですけどね」
「はあ」
そして、入口にかけられていた名前を見ると「李山荘」と掲げられていた。
アパートの入口には小振りな木がある。これが李なのだろうか。又市にはわからなかった。
「それが、ヒントです」
「は」
「私の、名前の。よく、考えてみてくださいね」
そういうと、そっと、静かに、音もなく、扉は閉じられたのだった。
「なあ、林の字よォ」
「ん? なんや?」
「トウカってどんな意味だ」
「はあ? トウカ?十月十日のトウカか?」
「さあ? それがわかんねーから聞いてんだろ」
「なんや、ヒントはないんかい」
「ヒント、ねえ」
あれから又市はいろいろと頭を捻って考えてみた。
それでも合間には仕事はあるし、日々の生活もある。そればかり考えているわけにはいかない。それでも、注ぎ込めるだけのエネルギーを使って考えている。
考えなければならない気がしたのだ。
そうしなければ、先生に合わせる顔がないような気がしたのだった。
「李山荘っつーアパート名なんだよ、本当は。それをトウカアンって読み換えるんだ。アンは普通に庵のことだろ。どう繋がってると思うよ」
「りざんってどんな字や」
「李に山って書くみたいだな」
「ふうん」
そういうと、林蔵はビールを飲み込んだ。
「すもももももももものうちって言うやろ」
「は」
「は、やないやろ。自分が考えろ言うたんやないか。
李は本当は桃やないんやってな」
「李って、プラムのことか」
「ちっ、カッコ付けよって」
「で、桃と李がなんだよ」
「自分も鈍いやっちゃな〜。トウカって、アレやアレ。
桃の花のことやろ」
桃。
李。
それは、もしかして。
浮かんできた、名前。
頭にあった引っかかりがピンと強い力で外されたように、急激な意識の覚醒が起きている。又市は起きているのに、深い水の底から物凄いスピードで引き上げられていた。自分の意識のほうが追いつかない。
もしかしたら、いや、そんなわけがない。
しかし、想いが又市の身体を離れて狭いアパートを走り飛び出して行っている。追いかけなければならないと思うのに、立ち上がることが出来ない。
気分が悪い。
吐き気がする。
さっきまで読んでた本の文字がチカチカと光の形をして目を潰そうとしているようだった。目が潰れそうだった。
一人の男の姿が、現代ではない姿が強く閉じた瞼に映る。
「おい、又、どないしたんや」
林蔵の声が遠い。
耳鳴りがする。
頭蓋骨が、揺れているようだった。
「おいおい、真っ青やで、おい、どしたん又市」
頭が痛い。
目が霞む。
ギムレットを頼む顔と、老人の顔が重なった。
俺は、なにを、していた。
俺は、
「おい! 又市!」
林蔵の声は、又市には届かなかった。
***
山岡百介は、探し続けていた。
いつからか、物心ついた頃から、ある一人の男の姿と生き方が脳裏にフラッシュのように瞬いていた。
それは百介の心を支配するには十分な影響力を与えた。
幻のように、夢のように、覚えのない記憶の端々に、「又市」という男の声や言葉や動きや表情が、目の前にいるように浮かぶ。
その度に百介の心は千切れそうになったり、張り裂けそうになったり、落ち着いたり、切なくなったりするのだった。
自分がいるのなら、又市もまた、実在しているかもしれない。
そう思ったら行動するのは早かった。
どこの誰かもわからない。
どこにいるのか、本当に存在しているのか。
年も、姿も、職も、住処もわからない。
けれど、百介は歩き出してしまった。
見つけるまでは、止められない歩みと知りながら。
又市はその多くを闇の中にいた。薄暗い、白い服が浮かび上がり、暗闇でもほのかな光となった。
以前の姿が、江戸ならば、現代でも東京にいるかもしれない。そう思い、東京の夜をしらみ潰しに練り歩いた。
飲酒可能年齢になってからは、狭い深いところにある飲み屋やバーを渡り歩く。
闇は、一度引き入れると百介を捉えて排除することはなかった。しかし、百介が再び外に出るときは夜明けの明るさが常だ。
闇のまま入り、闇のまま出ることはほとんど無かった。そこまでは、闇は百介を受け入れてはくれなかった。
ある時、本当に狭いバーで「りん」という音が響いた。コンクリートが打ちっ放しの床に乾いた鈴の音が飛び散ったように、店中に響いたのだ。
目の前にいた短髪の男が、小さく「失礼しました」と言った。
その瞬間、薄暗いカウンターの中の男の顔が、ハッキリと百介の目に入った。
又市だった。
「可愛らしい、鈴ですね」
思わずそう声をかけると、又市は少しだけ頰の筋肉を動かして、口角を片方だけ上げた。それが笑顔のようだった。
「いや、貰いもんでさぁ、付けねぇとうるさくて」
そういいながらどこかの御守りのような鈴のついた携帯をカウンター内に置いた。
「ははぁ、女性ですか」
「腐れ縁ですよ。そんないいもんじゃありやせん」
そして、百介はこの店に定期的に通うようになったのだ。
又市は、無粋な男だった。
かつてのような粋はほぼ皆無で、現実をありのままに受け止めることが美徳とでも思っているように、毎日をただ流れる川を見るように過ごしていた。
言葉の語彙は少なく、林蔵から聞いたことには中学を出てからはアル中の父親からの暴力から逃れるため家を飛び出し、大阪で林蔵と出会ったらしい。そして二人は裏の世界に飛び込んだのだろう。
家に百介が押しかけるようになっても、又市は百介のことを不快とは思わないにしても全く覚えていないようだった。
それでいいと百介は思った。
あれほどの業を抱えて、そして現代でもまたそんな想いを抱えたまま生きてほしくはなかった。
しかし、又市や林蔵から、時折いつも吸っているタバコとは違う匂いや、火炎の臭いがすることがあったり、明らかに殴られた跡や、火傷の跡、怪我をしていることも少なくないことには痛みを感じた。現世でもまた、最底辺の生き方を否応なしに選ばされていると直面したことに、百介はまた自分の想像力の無さに嫌気が差したのだった。
そこにいくまでに、又市は強い覚悟を強いられて、また自らに強いてきたはずた。
そしてそれを百介はやはり共有することが出来ない。
何度生まれ変わっても、何度出会っても、何回死んでも又市に近づくことが出来ないということを改めて突きつけられたような気がした。
もう、いいんじゃないか。
そう思い始めた。
又市が生きている。どんな姿であっても、どんな生き方であっても、生きていることがわかったのだ。
これ以上なにを望むというのだろう。
いや、記憶がないのなら、それは同じ姿名前であっても、違う人なのだろう。だったら、百介の記憶の「又市」とは違うのだ。 もう探し始めて十年以上になる。出会って、共に過ごすようになって数年経つ。それでも、又市は百介を思い出さない。
それなら、もういいんじゃないか。
ギムレットの、頃合いなのだろう。
そう、想ったら、心臓を握り潰されるような、痛みがあって、呻き声と、すっかり枯れ果てたはずの涙が一筋溢れた。
でも、結局、思い切れない。自分の情けなさに泣いたのかもしれない。
こんなことでは、あの「又市」が見たらなんというだろうか。今生の別れとは、あの時のことだけでなく、幾星霜の輪廻の輪に入り込んだ別れを言うのかもしれない。
それこそが百介を百介たらしめる覚悟の無さで、半端者の所以で、今の生きるための希望にすり替わってしまっていた。
*
「ああ、よかった。お目覚めですか。お加減はいかがです?」
そう声をかけると、まだ眼の焦点が合っていない又市は苦しそうに眉間に皺を寄せた。半身を重そうに引き剥がすように起こすが、滲んだ汗がその支えている肘を伝って布団に染みたのが見えた。
三歩も歩かないうちに届く台所でぬるい水道水を汲んでやりながら声をかけた。脱水してないかが心配になったのだ。
「たまたま、伺おうと思って近くに来たところだったんですよ。そうしたら林蔵さんの声が聞こえましてね。なにやら只事ではないと思って失礼ながらお部屋に上がらせてもらいました。
突然苦しみだして、意識を失ったというからよっぽど救急車でも呼ぼうと思ったんですが、林蔵さんに止められましてね。
あ、林蔵さんはあのモグリのお医者様をお呼びに行かれてます。私はその間の留守番兼又市さんの監視なんですけど……」
水のコップを差し出すと、反射のように受け取り一気に飲み干した。
しかし、明確な言葉への返事がないことに不安を抱く。
「又市さん?
聞こえてます?」
そこで、ようやく又市は、驚いたように短く息を吸い、大きく目を見開いて先生を見た。
まるで、初めて会う人のように。
いや、死に別れた親兄弟にでも会ったように。
なんで、ここに先生がいるのだと、想定していなかったことが起きたのだと、その表情は語っていた。
さっきまでの言葉はなに一つ耳に入っていなかったのだろう。
普段と明らかに様子が違う。
林蔵が慌てていたのも分かる気がする。
今迄又市を包んでいた澱んだ気配のようなものが全て取り払われている。
なにも無くなっている。
この現代ではついぞ見た事がない、生と死の境目を、身体と世間を綺麗に切り分けやすいようにするために、なにも身に纏っていないようだった。
ここには、剥き出しの、又市本人が姿を現していた。
周囲を確認するように回された視線が合わさると、恐ろしいほど鋭い眼光が、先生の胸を貫いた。心臓が止まるような痛みが、また思い出される。
この視線を、知っている。
私は、この視線を、見知っているのだ。
それはもう二度と見ることがない、そして私には向けられることがないはずだったものだ。いや、向けられたことがなかった。
何度出会っても、何度生まれ変わっても、その視線は交わることがなかったものだ。住む世界が違うのだから当たり前だ。
罵られたかった。
生意気に、一味の仲間のように振る舞ったことを。
自分にもなにか出来るのではないかと、覚悟を持たない自分が思い上がっていたことを。
でも、又市は、全てを受け入れてくれていたのだと、御守りの中身を見て初めて思った。
それすらも思い上がりと、嘘か真実か、わからないことを、彼本人の口から突きつけられたかった。
「今生の別れ」という言葉が全てだったのに、又市がそんな言葉を残してくれたことが、全てだったのに。
そう言い聞かせても、又市に断罪され、全てを白日の下に晒してほしいという想いは消えさらなかった。そんな汚い気持ちがついに溢れてきた。だが、それを見せるわけにはいかない。
口元を引き締める。
でも、そんなこと、御行の又市の前では無駄なことだった。
「先生」
又市の喉元が動く。
「いや、百介さん」
百介は、呼吸をするのを忘れた。
さっきまでの殺気だった無の気配が消えて、ぼんやりとしていた表情が、見知った口元にじんわりと変わる。
かつて見たいと切に願いながら見ることが叶わなかった複雑な、歪な表情が浮かんでは消えていく。
又市もまた、戸惑っているのがわかった。
もう一度、又市は、今度は百介の瞳を覗き込みながら名前を呼んだ。掴まれた肩が現実だということを思い知る。
「百介、さん」
この世で、再びその名を呼ばれることがあると、百介は信じていなかった。
「また、いちさ、ん」
さっきうまく堰きとめられたと思った醜い感情が目から鼻から指先から、身体中から溢れ出したのがわかった。目の前の又市に縋るように抱きついて、自らの頭を、身体を抱えて、百介は情けない声を上げて泣いた。
「百介さん」
又市は、かつての言葉巧みな姿は結局取り戻せなかったようで、不器用に、言い慣れない言葉のように百介の名を呼びながら蹲るまる百介の背中をさすった。
触れているところが火傷でもしているように痛かった。心臓が、脈打つ音が聴こえる。自分の吐息が、遠くで響く。
「思い出して、くれたのですか」
「ええ」
百介の表情が見えないように、背中から抱きしめられている。
その時、初めて百介は、又市も、泣いているのだと気付いた。
*
「先生は、いつから気が付かれてたんですか」
「又市さんは、本当に勘が鈍くなりましたね」
「へえ、面目無ェ」
中年に差し掛かろうという男二人、目元を泣き腫らし、正座をして膝を突き合わせ向かい合っている。なんて間抜けな姿だろうか。
「私は、ずっとあなたを探していたんですよ」
「そうでしょうね」
痩せた頰をペチンッと叩いて又市は、少しだけ照れ臭そうに百介を見た。
「ずっと、ずっと、探していました」
「はあ」
「あなたが、気付かないのなら、もう、身を引こうと、思っていた矢先だったのですよ」
「かつての、奴のように、ですかい」
「ええ」
そして、また涙が静かに溢れた。
かさついた又市の指が百介の涙を拭う。女のよように扱われているというより、小さな子供に対してあやしているような動きに見えた。
「もう、あなたの前から、消えてしまいたかったです」
「そうですか」
「又市さん、なんで、私があなたを探していたのか、お判りですか?」
「さあ」
「知ってくださいよ」
「奴には、過ぎた心で御座いますよ、先生。そんなにまで、想いを詰めなくていいンですよ」
「又市さん」
だが、百介がその名を力を込めて呼ぶと観念したように、又市は百介の手を握りしめた。温く湿った夏の終わりなのに、その手が冷たくて、やはり死んでいるのかと思ったくらいだった。
すでに又市は死んでいるのに、百介が夢を見ているだけだと教えているのかと思った。
でも、微かに震える指先は、百介も又市も変わらなかった。
もう、夢でも、現でも、どちらでもよかった。
動き出す口は、もう止まらない。
「あなたは、なんにもわかってない」
「彼方立てれば此方が立たず、いずれ並ばぬ双方を、並び立てるがその渡世。
舌先三寸口八丁、上手く丸め込むのがあなたの十八番。
それが、どうしたことです。
八方丸めるどころじゃありません。
どうして、なにも収めてくれなかったのですか」
「なんのことですかい」
「私のことですよ、又市さん」
又市は、視線を百介から逸らした。
「私は、この輪廻の輪の中を、永遠に彷徨う結果になっています。
あなたのせいで。
私は、生きているのか死んでいるのかわからないあなたたちのことを考えて、考えて、考えて、考えるのを、やめようと思っても、やめられなかった。最後まで、私の中にはあなたがいた。
ご存じでしょう。私までもが、生きているのか、死んでいるのかわからないようになってしまいました。
いいえ、あなたがたと別れたあとの私は、死んでいたようなものです。
あなたたちを、あなたのことを考えれば考えるほど、近くにいるような気がして、でも明確に溝を、距離を、時間を感じました。
あなたは、私をどうしたかったのですか。
あなたの言葉を、あなた自身の言葉で、私は聞きたい。
私を生き証人にしたかったのですか。あなたたちが生きていた証拠にしたかったのですか。
又市さん、教えてください」
「先生。
それは全部アンタの希望だ。お前様の願いで御座いやすよ。
それを潰して生きていけるのかい」
「違いますよ。又市さん。
そう思いたいのは、あなたでしょう。
私たちは、互いにちがうものを求めていたんですよ」
「それは」
「私は、あなたたちを、あなたをもっと知りたかった。
一緒にいられないと知りながら、一緒に行くことを夢みていた。
あなたは、私のどこを買ってくださったのかわかりませんが、私を連れて行く気はなかった。
それでも、連れていくことを、諦めきれなかったのではないのですか」
「先生、奴は」
「又市さん」
「生きているか、死んでいるのかわからないがゆえに、私はあなたを一生忘れなかった。
そして私は、あなたの思い出の中だけで生きた。
私は覚悟を持てない代わりに、あなたと共に生き、あなたと共に死にました。
逃げないでください。
私から、あなたという生き方から。
あなたは妖怪でも物の怪でも化け物なんかでもなんでもない。
あなたは、人間です。
天狗でも、烏でもないんだ!
自分を騙すのも出来るでしょう?
それが出来なくて、なにが小股潜りだ。
あなたの心は、どこにあるのですか?」
又市は、黙っていた。
唇を噛み締めて、百介を、冷静に見つめている。
言葉を紡ぎだせない時間を稼ぐようだった。
百介は、目頭が熱くなるのも構わず、しゃべり続けた。
ずっと、ずっと、思い出し続けていた小股潜りのように、それほどまでに上手くしゃべれないけれど、それでも、現世の又市よりもずっとずっと小股潜りのように話している。
どれほどの間、又市の幻想と暮らしていたと思っているのか。
本人よりも、本人のように、そうなりたいと思い続けていた。
そうなれないと知っているから。
「又市さん。
今は、現代なのです。
今までのような理は存在しない。
あなたが現世でどのような過去をお持ちかは詳しくは知らないし、知る気もありませんけどね。
私の願いは、ただ一つ。
あなたが、ただ、悔いのない選択をされることです」
「悔い、ですか?」
「諦めてしまわなくて、いいのです。
時は変わります。変わってしまいました。
かつての頃のように簡単に人は殺せません。
そういう世界もあるでしょうが、この日本では、一歩踏み出せばそんな世界はすぐに露見します。
この科学が基本の世界で、自分の生き方を選べないことなんてこと、ないのですよ。
私は、あなたが、死んでいるのか、生きているのかわからずに、あの別れを迎えて、大変後悔いたしましたが、今、生きているあなたがいるのなら、あなたにお願いがあります。
どうか、あなたの望むままに生きてください。
誰かのためでなく、殺すことも、生かすこともなく、ただ、その生をあなたのために全うしてほしい。
それだけです。
もうギムレットは、十分です」
ぼたぼたと、今まで生きてきた分よりも多い涙を流しながら、百介は又市の膝にすがりつく。
「そして、私を解放してください。
百物語は、もう終わりでございます。
あなたと出会えぬ世界を巡るのはもう疲れました。
ここで出会ったのが、全て。
もうあなたを証明する私の役目はお終いでしょう」
又市が、百介の身体を起こさせた。
そして、拳一つ分を開けて改めて正座をした。
ゆっくりと、綺麗に、深々としたお辞儀だった。
額までをきっちりと畳につけて。
「百介さん。
ありがとうございました」
「私のほうこそ、至らぬばかりに、時を越えてまで、あなたを探し続けてしまった」
「もう、ギムレットは十分ですか」
「ええ、これでもう、十分です」
それ以上、なにも言わなかった。
そして、その日から又市は、姿を消した。
***
あれから何年経ったのだろう。
百介は結局なにも変わらなかったように思う。
又市のことを考えて、又市のように生きたいと憧れ、又市と共に生きられないことだけを理解して、彼と離れたことでまた死んでしまい、そして生き返ることがない。
もう又市や林蔵と会わないことで、余計に人生に張りがなくなった。仕事はかろうじてやっているが、前世と変わらず実家の穀潰しである。
なにも変わらなかった。
生まれ変わっても、なにも。
又市が言う通りだった。
又市という存在を、自分の拠り所にしていたのだ。
その希望を失ってしまったら、もう生きていく糧を失ったのと同義だった。
久しぶりに、又市がいたバーに行ってみた。
とっくに潰れていたようで、人がしばらくいた痕跡もない。後から店も入っていないのだろう。
まるで、かつての又市たちのようだ。
近辺のバーを探す。
夜の散歩は頻度を落としたものの継続しており、怪談奇談を集める以外の現代の百介の趣味ともいえるものだった。
空気感を当てるのは得意だった。
こじんまりとした小さなバーを見つけ、薄暗い店内の壁側のカウンターでジンライムを頼んだ。
あれから、ギムレットは飲んでいない。
一杯飲んで帰ろうとしていたところで、アルバイトらしい店員からギムレットが差し出された。
不思議に思い、顔を上げる。
「マスターからです」
そういって、奥に引っ込んでしまった。
困惑していると、飲みなれた味に、動機が早まった。
「ギムレットには、早すぎると、思いませんか。
百介さん」
百介は、いまさら、又市の「選択」の意味に気がついたのだった。