ボーダーライン⇅ララバイ あんな人混みの中で、どうして目が合ってしまったんだろう。
どうしてお互いを、群衆に紛れさせる事が出来なかったんだろう。
蠱毒を内包しつつ涼しい顔で聳え立つビルの壁面を、能面の有象無象の歩みを阻害する信号機の林を、あるいは排ガスの散布機が行儀よく並ぶ停止線を。平等主義を気取った太陽が、何食わぬ顔で焼きながら沈んでいく、そんな景色の中に、その男はいた。
名残惜しそうに空気を焦がす夕焼けを、そのまま溶かし込んだような懐かしい色。髪の長さも背丈も、あの頃とさして変わらないだろうか。
何より少し見開かれこちらを捉えた、燻んでしまった金色。即座に眇められ少し隠れた、金色。あの瞳の色を、鮮明に覚えている。
何せまさしく、正しく、あれこそあの時のままだ。種火は俺だったのだから、どう見間違えよう。きっと彼の心の裡には、未だ怒りの炎が音を立てて燃え盛っている。焚べ続けられている薪は憎悪だろうか、それとも嫌悪だろうか、今となっては知るよしもない。
一歩、一歩、決して走ってくる訳ではなかったというのに。件の男が目の前に到着してもなお、足はその場から動かなかった。動かなかった……?恐怖などではなく、むしろ待ち構えてしまっていたような気さえする。
「冬弥」
強引に掴まれた手首が圧迫されて、途端に血流が遮られるのを感じる。睨み上げてくる視線の強さに静かに息を詰めるが、こちらとしてもあの時の己が選んだ正しさを、曲げるつもりはなかった。
何の感慨も無いと言わんばかりに、温度を込めずに見下せば、てめぇ……という低い唸り声の後に、大きな舌打ちをひとつ寄越される。
「来い……ッ」
感動の再会などでは勿論なかったし、そんな指図に返事をしてやる道理もない。しかし離されない腕を引かれるがままに、その時は大人しく連れて行かれる事にした。
何故だったのかは、分からない。
先程まではなんでもなかった土曜日、シブヤのスクランブル交差点にて。
とっくに通り過ぎて来たはずの、俺たちの終わりが始まった。
煩わしそうに尻ポケットの鍵を取り出し、鍵穴周辺にガチガチと2、3回滑らせては更に苛立ちを露わにする。そうしてやっと男は角のペンキが剥げた藤色のドアを開けた。
中に引き摺り込まれたかと思うと、訪問の挨拶すら場違いだと言わんばかりに、すぐさま玄関口脇の壁に胸ぐらを掴んで叩きつけられる。
「ふざけやがって……!」
巫山戯る、とはどういう了見だろうか。床に放られ上手く受け身を取る暇もなく、倒れ込みながら考える。交差点の向かいの歩道に立っていただけだろう、お互いに。何だかぼやっと靄がかった頭では、どうにも思い当たる節がない。
強かにぶつけた肩口からジンとした痛みが拡がるが、お互いの今の状況への解答を求めて、形だけでも対話を試みる。
「……巫山戯ているのはお前だろう、何のつもりだ」
「はっ、ノコノコ付いて来といてよく言えたもんだな」
しゃがみ込んで視線を合わせた男は、あの頃と比べると歪んでしまった、わざとらしい気味の悪い笑顔を浮かべてみせた。随分と深い隈は、皮下の窪んだ眼孔を思わせて、まるで悪党の様相だ。
「だんまりかよ。まぁ……どうでもいいか。活躍は聞いてるぜ、青柳センセ」
「……煩い」
俺という存在がさぞかし気に食わないのだろう。皮肉混じりで投げやりにつけられた、己には到底ふさわしくない敬称がやけに耳障りだった。
「学校行きながらコンクールだけじゃなくて、この前は親父さんのリサイタルの前座だったか?さぞかしお忙しいこって」
そう言いながら踝に指先を這わされ、するりと厭に艶かしい手付きで、よく磨かれた革靴を脱がされたかと思うと、ドアに向かって後ろ手に投げ捨てられる。
ガァンと盛大に音を響かせながら、理不尽な暴力に扉は震え、その予期していなかった音量に思わず肩が竦んだ。
「ははっ相変わらず耳は良いってか」
「……誰でも驚くだろう」
平静を装うがやはり己の知らない顔に、酷く動揺してしまう。俺のよく知る並んで歌っていた頃の彼ならば、外野からどんな心無い言葉を浴びせられた時であれ、納得のいくまで牙を研ぎ続けて、ささくれ立った表情の裏で、頼もしい程にギラギラとした野心に燃えていたはずだ。
こんな剥き出しの錆びた刃物みたいな男は知らない。
そしてこれ以上はきっと、見たくもない。
「何故ついて来たのかは……分からない。だが確かに、あの場で拒むべきだったな。帰らせてくれ」
「靴まで脱いどいて、冗談だろ」
脱がせたんだろう、と理不尽さに反発する言葉が喉元まで込み上げてきたが、退路を断つように玄関から動いてくれない様子を見るに、どうやらこのまま帰らせては貰えないらしい。
「ゆっくりしていけよ、なぁ」
——相棒。
そう続くのかと思った言葉は、当然投げかけられるはずもなく。ただ空気を飲んだ、発達した喉仏が上下するのを眺めていた。返答は特に待っていないのか、何故か靴下も奪われて腹の上に投げられる。
「それともここで身包み剥がして、出歩けないようにされてぇのか」
男は胡散臭い笑みをすっかりと潜ませて、冷ややかな眼光だけを顕にした。言う通りにしなければ、何をされるのか分からない——この状況だ、そう脅されているように感じてもおかしくない所だろうが、おそらく彼と己の関係というものは、他の知人たちとの交友関係とは少し事情が異なる。
どうやら状況で外面を使い分けるのは、未だにこの男の常套手段らしい。
そのあまりの横柄さに嘆息し、諦めて丸まった靴下を持って立ち上がる。
「……なら、茶くらい出して貰おうか」
抵抗らしい抵抗は殆どしなかった。
すると意外にも驚いた顔をしてみせたので、ここまでしておいて何だその顔はと言いたくなった。
「それで?」
リビングに入った時点で、飲みたきゃ勝手にしろと言い捨てられたので。戸棚から勝手に拝借したコップに、冷蔵庫から勝手に取り出したパックのアイスコーヒーを注ぎ、ひとつしかない椅子に勝手に腰掛けて一息ついた所で問いかける。
今更、俺たちの間に何の用があるのだと。
「冷たいこと言うなよ、用事なんて無くてもつるんでたろ」
用意していたかのような、そんな流暢なセリフを吐く男の顔は僅かに引き攣っており……ブランクがあっても流石に分かる。これは「マジで好き勝手にしやがった」の顔だ。こちらも散々身勝手に巻き込まれているし、何より先程ぶつけた肩が痛い。これくらい安いものだろう。
「茶化すな。あの頃ならともかく、もうそんな道理が通用する仲ではない筈だ」
「じゃあ昔馴染みが懐かしかったんだよ」
「あの剣幕でか」
「……うるせぇな」
達者な口先を器用に笑みの形に留めていたが、機嫌がずっと床より下を這っているのは分かっている。もう少し突けばそろそろ藪蛇にでもなりそうなので、口をつぐむ。
「明日なんか予定あんのか」
まるで、いつかのような質問事項。
きっと数年前の己ならば、駅前のカフェだ、新しくオープンしたアパレルショップだと、どこそこに行きたいという彼の続きの言葉を、少し心を躍らせながら待った事だろう。
あの頃の俺たちときたら飽きもせず、休日まで当たり前のように一緒に居た。
そしてそれらは、あくまで過去の話だ。この状況で、そんな苦々しい声音で吐き出された言葉に、一体何の意味があるというのだろう。
「……関係ないだろう」
いま返せる言葉はこんな所だろうか。反芻しても意味はなく、取り返しなど付かないというのに、つい過去の眩しさに照らされて、拡がりすぎた心の虚を直視しそうになる。
「そんじゃ、出さねえわ」
「…………………は?」
何を言われたのか分からなかった。半端に開いた声帯を震わせながら、呼気に母音が何とか押し出された所で、繰り返して念を押される。
「外に出さねえ、つったんだよ」
あまりに非現実的な宣言に何がしたいのか分からず、咄嗟にレッスンや課題といった、家に置きっぱなしの現実が、つらつらと頭を過ぎる。
だって急に、困るはずだろう。普通は。
「ただ別にお前を養いたい訳じゃねえから、明日になったら適当に帰っていい」
ますます分からない。これは軟禁……になる、のだろうか。それにしては短過ぎる拘束時間に、一体何の意味があるというのか。
ただ被害者ぶるのは可笑しいかと思い始める。何故なら彼の言っていたように、拘束されていた訳でも、明確に脅されていた訳でもなく、歩いてついてきたのだから。
どんな返事が出来たのかは覚えていない。ただどこか他人事のように受け入れられるくらいには、考える事を少しの間だけでも、辞めてしまいたかったのかもしれない。
暇なら好きに読んでいろと、木製キャビネットの一角を指差され、数冊並んだ文庫本の背を視線でなぞる。ここ数年で漫画だけでなく、小説も嗜むようになったのだろうか。また新たに知る一面だが、先程笑みを向けられた時のような、焦燥感に似た感覚は抱かなかった。
ひとつ手にとり、ページを捲る。
俺は閉じ込められてしまっている。だから外のことを気にしても仕方がない。
そう前向きに、言わば開き直っているだけであって、諸々を投げ出した事にはならないはずだ。
しかし後の予定を気にせずに本と向き合うのは、いつぶりだろうか。
ローテーブルに肘をつく男の気配が色濃い、息の詰まる部屋のはずだった。しかし紙上の世界へのめり込むうちに、箱に閉じ込められているような感覚は薄れて、肩から力が抜けていく。不思議と抱き始めた安心感に、いつの間にか身を委ねていた。
「おい、いい加減に飯食え」
「…………あ」
見開きのページに人差し指を差し込みながら本が取り上げられ、近くにあったボールペンを栞代わりに挟まれたかと思うと、そのまま机に置かれてしまう。
そこで初めて己の近くでコンビニの袋が形を崩して、中身を露わにしているのが目に入った。
「これは?」
「……お前以外、誰が食うんだよ。オレはさっき目の前で食ってたろうが」
至極面倒だと言わんばかりの物言いだが、どうやら手元の物語に相当夢中になってしまっていたようで、そんな覚えが全くない。
とりあえず食事は提供されるようだという、見たままの情報だけを素直に受け取る。夕食の入った袋とは別に、替えの下着と歯ブラシセットの入った袋まで用意されていたので、至れり尽くせりだ。
時計を見れば短針は日の変わる直前を指していて、ロクに身動きしていなかったのか、腰や背中が相当に固まってしまっていた。
特に空腹感は感じていないので気は進まないが、これ以上放っておいて機嫌を損ねてもきっと得はないので、袋の中に手を入れる。
二つのサンドイッチの片方の封をぺりぺりと破り始めると、疲れた目をしたこの部屋の主はようやく俺から視線を外し、再び机上の紙へと目を落とした。
いま広げられているのは何かの勉強だろうか。とうの昔に飲み干したコーヒーのおかわりを求めて立ち上がり、通り過ぎ様に盗み見る。
熱心に視線が落とされていたのは、よく書き込まれ使い古された、自身にも見覚えのある楽譜だった。
食後にまた読書に戻ろうと、取り上げられていた本に手を伸ばす。すると無言で風呂場に連れて行かれ、扉を閉められたので、見慣れないパッケージのボトル群と格闘しつつも、なんとか入浴を済ませた。
風呂上がりに今度こそ本を広げようとすると、大きなため息を吐きながらベッドに押し込まれ、呆気なくお目当ての紙の束は遠ざけられてしまった。
こうなってくると、場所は違えど通常の生活を送っているようで、知り合いの家に泊まりに来ただけかの様な錯覚に陥る。
しかし、どうしたって非日常だった。
ベッド脇に座り込んだ男は、数時間前の玄関で見せた一面をどこで削ぎ落としたのだろうか。
不気味なまでの静けさを纏って、俺が目を瞑って動かなくなるのを、じっとそこで待っている。
今日の昼から見ているこれは、長くて悪い夢なのかもしれない。だとするのなら、これはきっと彼に癒えない傷を残して去った、中途半端な俺への罰だ。
この部屋に居ては、憔悴した彰人の重く深い息遣いを、感じ続けなければならない。
それでも——彰人が夢を、追い続けている。
そのひとつの事実に、酷く安堵した。
叶うのなら、あの時と随分色の変わってしまったこの景色でも良いから。もう少しの間、近くで見ていられないだろうか。
もうこれ以上は近寄らない、もう手を伸ばして触れようとはしないから。
接する態度が変わろうと、見間違える訳もない、根底にある鮮烈な光。駆け続ける為の、衰え知らずの炎だ。
側に居ると目を眩まされ続けた、俺の知っているお前がそこに居る。
どうかそのまま突き進んで、絶やさぬその輝きを以って、いつか俺の後悔すら焼き切ってくれないだろうか。
際限なく願ってしまうのも、未だに彼の隣を求める、未練がましい自身の揺らぎの証左だ。
甘えるのは辞めるんじゃなかったのかと、余りの利己主義ぶりに自嘲した。
会話らしい会話など殆どなく、人間が二人いるというのに異様に音のないこの部屋は、昼間立っていたあの交差点と本当に地続きになっているのだろうか。
アパートの前を誰かが鼻歌まじりに自転車を転がしていく音と、枕元にある時計のコチコチという秒針の駆動音だけが、かろうじて現実と判別出来る材料だった。
瞬きの回数が増えてきて、煩わしく視界に映り込む睫毛。わざとらしくてお粗末なフィルム映画の加工が施され始めたかのようだ。
そんなB級にも満たない物語のエンドロールの代役は、誰かのおやすみという声だった。
瞼を持ち上げると鼻先をくすぐる様な位置に、目の覚めるような橙色がある。どうやらこの部屋の主人はマットレスに頭を預け、あぐらをかいた姿勢で眠っているらしい。
ずっとこの体制であったのなら、それは眉間にシワも寄るだろう。それに日曜日になり、もう……解放されたはずだ。
寝苦しそうな男にそろそろ寝床を返そうと、身を起こす為に体重を腕に乗せる。
すると、振動で弾ける様に起き上がった男が、鋭い眼光でこちらを睨め付けながら、寝起きとは思えない俊敏な動きで俺の肩を押さえつけた。
「っどこ…………行、く」
「……俺はもう、出る」
そういう約束だっただろうと、視線で訴えると事態を把握したのか、腕に込められていた力はふと抜かれ、肩に触れていた掌はそろりと離れてゆく。
何か思い詰めている様相が、言葉を忘れてしまった様な、どこか諦めた表情になっていく。
暫し無言になって、その姿を目に焼き付けた。
しかし……もう、行かなくては。
そのままゆっくりと腰を床に下ろし直したのを見届けて、今度こそ身を起こす。
「待て…………やる」
俯いた男がぼうっとした声音でそう言うと、いつの間にかベッド近くの床に転がっていた、昨夜の読みかけの本を指でトントンと叩いてみせた。
「……なら、貰って行こう」
今なら始発の電車も動いている時間だと確認をする。荷物をまとめて立ち上がっても本当に帰宅は阻まれず、そのまま一人玄関口まで歩みを進めて、打ち捨てられたままになっていた革靴を手に取った。
ロックを解除して、ドアノブに手をかける。
後ろ髪が引かれる感覚には、目を瞑る。
扉を開けば朝焼けが眩しく、どこまでも清涼感のある冷たい空気が鼻腔から滑り込んでくるというのに。
息をするのが煩わしく感じられた。
寝起きの彰人の、縋るような形相が脳裏に焼き付いている。
はく、と水槽の中の金魚が水ごと餌を取り込むように、酸素を取り込もうとしてみるが、肺胞のひとつひとつが呼吸を拒絶するかの様に、浅くしか取り込めない空気。
自ら閉ざした片開きの扉の前で、そのまま振り返ることも出来ず、しばらく動けずにいた。
前髪をわしゃわしゃと混ぜられる感触があまりにも心地よく、なかなか微睡みから抜け出せない。
「冬弥。おい、とーや」
それでも輪郭をなくしてしまったような相棒の声を導に、なんとか重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
「お、やっと起き……た、か」
茜染めの教室がひどく歪んでみえる。前の席に腰掛けた男は、いつの間に部活動の助っ人を終えていたのだろうか。ぼやけた視界をクリアにしようと、少し痺れる腕枕の上でとにかく瞬きを繰り返す。
あ、きと
「……ん、どうした」
伸ばされてきた腕からはふわりと制汗スプレーの匂いがした。頬に走った水滴を拭う手つきは壊れ物を扱うようだったが、優しすぎるその動作が、何故か。
涙痕を念入りに、皮膚へ刻み込む行為にも感じられた。
「前髪、目に入ったんじゃねえの」
伸びてきたもんなぁと、誤魔化すように笑う気配がする。
——同時に、黒板を爪先で引っ掻く様な不快感に包まれる。
違うんだ、とこれ以上は小さくとも嘘を重ねたくない一心で口を開くが、何故か声は出てこない。
「なぁ、もうさ。帰ろうぜ」
相棒の声に一昔前のラジオみたいなノイズが混じり始める。ゴワゴワとした雑音混じりの音圧に、鼓膜が痛むような錯覚を起こす。
身体は動かず、西日が異様に射し込むこの教室で、いつまでも目の前の彼の輪郭だけが不明瞭だ。
「イっ——に、—えル—。と——」
ザリザリザリザリと、ついに男の声が、直接マイクに砂礫を浴びせているかの様な音に切り替わる。
思い出した。これはもう何度も見ている夢じゃないか。袂を分かったあの日から何度も何度も見ている、かつての相棒との優しい時間を繰り返すだけの悪夢。
いつだって彰人の顔が見えなくて、俺の言葉は音にすらならない。
ハウリング音が加わり、不快な音数はどんどん増していく。脂汗が滲むのを感じながら、ぎゅっと目を瞑って音の波にひたすら耐える。終われ、はやく終わってくれと祈りながら、かつての相棒の幻影を前に頭を垂れて、終わりの見えない金縛りの如く、動けないままでいる。
今日も不協和音に蝕まれながら夜明けを待つ、
はずだった。
『冬弥!来いッ』
突如、力強い声が唯一、脳内で明瞭に響く。
霧雨の中を真っ直ぐとこちらへ向かって来たかのような、その響き。
容赦なく引き上げられるような、急速な浮遊感。
しかし不思議と恐れはなく、迷わずにバチリと目を開けた。
ベッドから跳ね上がると、視界には見慣れた自室が飛び込んでくる。
吸って、吐いて、肩で息をしながら、深呼吸をする。
……初めてあの場所から、飛び出せた。
安堵感に顔を手で覆ってもう一度、丁寧に肺から空気を出す。ぬるい呼気が掌から跳ね返って、寝汗の滲む顔中を余計にじっとりとさせた。
曖昧な形をしている夢の出口を振り返るまでもなく、声の主は明らかだ。
現実の彼に持たされた本を見やると、あれから1ページも進まず、ヘッドボードの上で大人しく手に取られる時を待っている。
あの不思議な軟禁生活からは、もう1週間が経過しようとしていた。