創作SNS GALLERIA[ギャレリア] 創作SNS GALLERIA[ギャレリア]
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  • しじま🥃 Link
    2023/05/10 21:59:18

    ボーダーライン⇅ララバイ

    ⚠️ユニスト19話がなかった解散if軸
    捏造過多、暴力描写、年齢操作

    ◆ネタ提供者さま
    Twitter( @___88v )
    赤身 さん

    ◆提供ネタ
    エ/ゴ/イ/ス/ト - 大/沼/パ/セ/リ

    #彰冬

    more...
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    しおり
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    しおり
    ボーダーライン⇅ララバイ あんな人混みの中で、どうして目が合ってしまったんだろう。
     どうしてお互いを、群衆に紛れさせる事が出来なかったんだろう。
     
     蠱毒を内包しつつ涼しい顔で聳え立つビルの壁面を、能面の有象無象の歩みを阻害する信号機の林を、あるいは排ガスの散布機が行儀よく並ぶ停止線を。平等主義を気取った太陽が、何食わぬ顔で焼きながら沈んでいく、そんな景色の中に、その男はいた。
     
     名残惜しそうに空気を焦がす夕焼けを、そのまま溶かし込んだような懐かしい色。髪の長さも背丈も、あの頃とさして変わらないだろうか。
     何より少し見開かれこちらを捉えた、燻んでしまった金色。即座に眇められ少し隠れた、金色。あの瞳の色を、鮮明に覚えている。
     何せまさしく、正しく、あれこそあの時のままだ。種火は俺だったのだから、どう見間違えよう。きっと彼の心の裡には、未だ怒りの炎が音を立てて燃え盛っている。焚べ続けられている薪は憎悪だろうか、それとも嫌悪だろうか、今となっては知るよしもない。
     
     一歩、一歩、決して走ってくる訳ではなかったというのに。件の男が目の前に到着してもなお、足はその場から動かなかった。動かなかった……?恐怖などではなく、むしろ待ち構えてしまっていたような気さえする。
     
    「冬弥」
     
     強引に掴まれた手首が圧迫されて、途端に血流が遮られるのを感じる。睨み上げてくる視線の強さに静かに息を詰めるが、こちらとしてもあの時の己が選んだ正しさを、曲げるつもりはなかった。
     何の感慨も無いと言わんばかりに、温度を込めずに見下せば、てめぇ……という低い唸り声の後に、大きな舌打ちをひとつ寄越される。
     
    「来い……ッ」
     
     感動の再会などでは勿論なかったし、そんな指図に返事をしてやる道理もない。しかし離されない腕を引かれるがままに、その時は大人しく連れて行かれる事にした。
     何故だったのかは、分からない。
     


     先程まではなんでもなかった土曜日、シブヤのスクランブル交差点にて。
     とっくに通り過ぎて来たはずの、俺たちの終わりが始まった。
     
     
     
     煩わしそうに尻ポケットの鍵を取り出し、鍵穴周辺にガチガチと2、3回滑らせては更に苛立ちを露わにする。そうしてやっと男は角のペンキが剥げた藤色のドアを開けた。
     中に引き摺り込まれたかと思うと、訪問の挨拶すら場違いだと言わんばかりに、すぐさま玄関口脇の壁に胸ぐらを掴んで叩きつけられる。
     
    「ふざけやがって……!」
     
     巫山戯る、とはどういう了見だろうか。床に放られ上手く受け身を取る暇もなく、倒れ込みながら考える。交差点の向かいの歩道に立っていただけだろう、お互いに。何だかぼやっと靄がかった頭では、どうにも思い当たる節がない。
     強かにぶつけた肩口からジンとした痛みが拡がるが、お互いの今の状況への解答を求めて、形だけでも対話を試みる。
     
    「……巫山戯ているのはお前だろう、何のつもりだ」
    「はっ、ノコノコ付いて来といてよく言えたもんだな」

     しゃがみ込んで視線を合わせた男は、あの頃と比べると歪んでしまった、わざとらしい気味の悪い笑顔を浮かべてみせた。随分と深い隈は、皮下の窪んだ眼孔を思わせて、まるで悪党の様相だ。
     
    「だんまりかよ。まぁ……どうでもいいか。活躍は聞いてるぜ、青柳センセ」
    「……煩い」
     
     俺という存在がさぞかし気に食わないのだろう。皮肉混じりで投げやりにつけられた、己には到底ふさわしくない敬称がやけに耳障りだった。
     
    「学校行きながらコンクールだけじゃなくて、この前は親父さんのリサイタルの前座だったか?さぞかしお忙しいこって」
     
     そう言いながら踝に指先を這わされ、するりと厭に艶かしい手付きで、よく磨かれた革靴を脱がされたかと思うと、ドアに向かって後ろ手に投げ捨てられる。
     ガァンと盛大に音を響かせながら、理不尽な暴力に扉は震え、その予期していなかった音量に思わず肩が竦んだ。
     
    「ははっ相変わらず耳は良いってか」
    「……誰でも驚くだろう」
     
     平静を装うがやはり己の知らない顔に、酷く動揺してしまう。俺のよく知る並んで歌っていた頃の彼ならば、外野からどんな心無い言葉を浴びせられた時であれ、納得のいくまで牙を研ぎ続けて、ささくれ立った表情の裏で、頼もしい程にギラギラとした野心に燃えていたはずだ。
     こんな剥き出しの錆びた刃物みたいな男は知らない。
     そしてこれ以上はきっと、見たくもない。
     
    「何故ついて来たのかは……分からない。だが確かに、あの場で拒むべきだったな。帰らせてくれ」
    「靴まで脱いどいて、冗談だろ」
     
     脱がせたんだろう、と理不尽さに反発する言葉が喉元まで込み上げてきたが、退路を断つように玄関から動いてくれない様子を見るに、どうやらこのまま帰らせては貰えないらしい。
     
    「ゆっくりしていけよ、なぁ」
     
     ——相棒。
     
     そう続くのかと思った言葉は、当然投げかけられるはずもなく。ただ空気を飲んだ、発達した喉仏が上下するのを眺めていた。返答は特に待っていないのか、何故か靴下も奪われて腹の上に投げられる。
     
    「それともここで身包み剥がして、出歩けないようにされてぇのか」
     
     男は胡散臭い笑みをすっかりと潜ませて、冷ややかな眼光だけを顕にした。言う通りにしなければ、何をされるのか分からない——この状況だ、そう脅されているように感じてもおかしくない所だろうが、おそらく彼と己の関係というものは、他の知人たちとの交友関係とは少し事情が異なる。
     どうやら状況で外面を使い分けるのは、未だにこの男の常套手段らしい。
     そのあまりの横柄さに嘆息し、諦めて丸まった靴下を持って立ち上がる。
     
    「……なら、茶くらい出して貰おうか」

     抵抗らしい抵抗は殆どしなかった。
     すると意外にも驚いた顔をしてみせたので、ここまでしておいて何だその顔はと言いたくなった。
     
     
     
    「それで?」
     
     リビングに入った時点で、飲みたきゃ勝手にしろと言い捨てられたので。戸棚から勝手に拝借したコップに、冷蔵庫から勝手に取り出したパックのアイスコーヒーを注ぎ、ひとつしかない椅子に勝手に腰掛けて一息ついた所で問いかける。
     今更、俺たちの間に何の用があるのだと。
     
    「冷たいこと言うなよ、用事なんて無くてもつるんでたろ」
     
     用意していたかのような、そんな流暢なセリフを吐く男の顔は僅かに引き攣っており……ブランクがあっても流石に分かる。これは「マジで好き勝手にしやがった」の顔だ。こちらも散々身勝手に巻き込まれているし、何より先程ぶつけた肩が痛い。これくらい安いものだろう。
     
    「茶化すな。あの頃ならともかく、もうそんな道理が通用する仲ではない筈だ」
    「じゃあ昔馴染みが懐かしかったんだよ」
    「あの剣幕でか」
    「……うるせぇな」
     
     達者な口先を器用に笑みの形に留めていたが、機嫌がずっと床より下を這っているのは分かっている。もう少し突けばそろそろ藪蛇にでもなりそうなので、口をつぐむ。
      
    「明日なんか予定あんのか」
     
     まるで、いつかのような質問事項。
     きっと数年前の己ならば、駅前のカフェだ、新しくオープンしたアパレルショップだと、どこそこに行きたいという彼の続きの言葉を、少し心を躍らせながら待った事だろう。
     あの頃の俺たちときたら飽きもせず、休日まで当たり前のように一緒に居た。 
     そしてそれらは、あくまで過去の話だ。この状況で、そんな苦々しい声音で吐き出された言葉に、一体何の意味があるというのだろう。
     
    「……関係ないだろう」
     
     いま返せる言葉はこんな所だろうか。反芻しても意味はなく、取り返しなど付かないというのに、つい過去の眩しさに照らされて、拡がりすぎた心の虚を直視しそうになる。
     
    「そんじゃ、出さねえわ」
    「…………………は?」
     
     何を言われたのか分からなかった。半端に開いた声帯を震わせながら、呼気に母音が何とか押し出された所で、繰り返して念を押される。
     
    「外に出さねえ、つったんだよ」
     
     あまりに非現実的な宣言に何がしたいのか分からず、咄嗟にレッスンや課題といった、家に置きっぱなしの現実が、つらつらと頭を過ぎる。
     だって急に、困るはずだろう。普通は。
     
    「ただ別にお前を養いたい訳じゃねえから、明日になったら適当に帰っていい」
     
     ますます分からない。これは軟禁……になる、のだろうか。それにしては短過ぎる拘束時間に、一体何の意味があるというのか。
     ただ被害者ぶるのは可笑しいかと思い始める。何故なら彼の言っていたように、拘束されていた訳でも、明確に脅されていた訳でもなく、歩いてついてきたのだから。
     どんな返事が出来たのかは覚えていない。ただどこか他人事のように受け入れられるくらいには、考える事を少しの間だけでも、辞めてしまいたかったのかもしれない。



     暇なら好きに読んでいろと、木製キャビネットの一角を指差され、数冊並んだ文庫本の背を視線でなぞる。ここ数年で漫画だけでなく、小説も嗜むようになったのだろうか。また新たに知る一面だが、先程笑みを向けられた時のような、焦燥感に似た感覚は抱かなかった。
     
     ひとつ手にとり、ページを捲る。
     俺は閉じ込められてしまっている。だから外のことを気にしても仕方がない。
     そう前向きに、言わば開き直っているだけであって、諸々を投げ出した事にはならないはずだ。
     
     しかし後の予定を気にせずに本と向き合うのは、いつぶりだろうか。
     ローテーブルに肘をつく男の気配が色濃い、息の詰まる部屋のはずだった。しかし紙上の世界へのめり込むうちに、箱に閉じ込められているような感覚は薄れて、肩から力が抜けていく。不思議と抱き始めた安心感に、いつの間にか身を委ねていた。
     


    「おい、いい加減に飯食え」
    「…………あ」
     
     見開きのページに人差し指を差し込みながら本が取り上げられ、近くにあったボールペンを栞代わりに挟まれたかと思うと、そのまま机に置かれてしまう。
     そこで初めて己の近くでコンビニの袋が形を崩して、中身を露わにしているのが目に入った。
     
    「これは?」
    「……お前以外、誰が食うんだよ。オレはさっき目の前で食ってたろうが」
     
     至極面倒だと言わんばかりの物言いだが、どうやら手元の物語に相当夢中になってしまっていたようで、そんな覚えが全くない。
     とりあえず食事は提供されるようだという、見たままの情報だけを素直に受け取る。夕食の入った袋とは別に、替えの下着と歯ブラシセットの入った袋まで用意されていたので、至れり尽くせりだ。
     時計を見れば短針は日の変わる直前を指していて、ロクに身動きしていなかったのか、腰や背中が相当に固まってしまっていた。

     特に空腹感は感じていないので気は進まないが、これ以上放っておいて機嫌を損ねてもきっと得はないので、袋の中に手を入れる。
     二つのサンドイッチの片方の封をぺりぺりと破り始めると、疲れた目をしたこの部屋の主はようやく俺から視線を外し、再び机上の紙へと目を落とした。
     いま広げられているのは何かの勉強だろうか。とうの昔に飲み干したコーヒーのおかわりを求めて立ち上がり、通り過ぎ様に盗み見る。
     
     熱心に視線が落とされていたのは、よく書き込まれ使い古された、自身にも見覚えのある楽譜だった。
     
     
     
     食後にまた読書に戻ろうと、取り上げられていた本に手を伸ばす。すると無言で風呂場に連れて行かれ、扉を閉められたので、見慣れないパッケージのボトル群と格闘しつつも、なんとか入浴を済ませた。
     風呂上がりに今度こそ本を広げようとすると、大きなため息を吐きながらベッドに押し込まれ、呆気なくお目当ての紙の束は遠ざけられてしまった。
     こうなってくると、場所は違えど通常の生活を送っているようで、知り合いの家に泊まりに来ただけかの様な錯覚に陥る。
     
     しかし、どうしたって非日常だった。
     ベッド脇に座り込んだ男は、数時間前の玄関で見せた一面をどこで削ぎ落としたのだろうか。
     不気味なまでの静けさを纏って、俺が目を瞑って動かなくなるのを、じっとそこで待っている。
     
     今日の昼から見ているこれは、長くて悪い夢なのかもしれない。だとするのなら、これはきっと彼に癒えない傷を残して去った、中途半端な俺への罰だ。
     この部屋に居ては、憔悴した彰人の重く深い息遣いを、感じ続けなければならない。
     
     それでも——彰人が夢を、追い続けている。
     
     そのひとつの事実に、酷く安堵した。
     叶うのなら、あの時と随分色の変わってしまったこの景色でも良いから。もう少しの間、近くで見ていられないだろうか。
     もうこれ以上は近寄らない、もう手を伸ばして触れようとはしないから。
     
     接する態度が変わろうと、見間違える訳もない、根底にある鮮烈な光。駆け続ける為の、衰え知らずの炎だ。
     側に居ると目を眩まされ続けた、俺の知っているお前がそこに居る。
     
     どうかそのまま突き進んで、絶やさぬその輝きを以って、いつか俺の後悔すら焼き切ってくれないだろうか。
     
     際限なく願ってしまうのも、未だに彼の隣を求める、未練がましい自身の揺らぎの証左だ。
     甘えるのは辞めるんじゃなかったのかと、余りの利己主義ぶりに自嘲した。
     
     会話らしい会話など殆どなく、人間が二人いるというのに異様に音のないこの部屋は、昼間立っていたあの交差点と本当に地続きになっているのだろうか。
     アパートの前を誰かが鼻歌まじりに自転車を転がしていく音と、枕元にある時計のコチコチという秒針の駆動音だけが、かろうじて現実と判別出来る材料だった。 
      
     瞬きの回数が増えてきて、煩わしく視界に映り込む睫毛。わざとらしくてお粗末なフィルム映画の加工が施され始めたかのようだ。
     そんなB級にも満たない物語のエンドロールの代役は、誰かのおやすみという声だった。
     
     
     
     瞼を持ち上げると鼻先をくすぐる様な位置に、目の覚めるような橙色がある。どうやらこの部屋の主人はマットレスに頭を預け、あぐらをかいた姿勢で眠っているらしい。
     ずっとこの体制であったのなら、それは眉間にシワも寄るだろう。それに日曜日になり、もう……解放されたはずだ。
     寝苦しそうな男にそろそろ寝床を返そうと、身を起こす為に体重を腕に乗せる。
     すると、振動で弾ける様に起き上がった男が、鋭い眼光でこちらを睨め付けながら、寝起きとは思えない俊敏な動きで俺の肩を押さえつけた。

    「っどこ…………行、く」
    「……俺はもう、出る」
     
     そういう約束だっただろうと、視線で訴えると事態を把握したのか、腕に込められていた力はふと抜かれ、肩に触れていた掌はそろりと離れてゆく。
     
     何か思い詰めている様相が、言葉を忘れてしまった様な、どこか諦めた表情になっていく。
     暫し無言になって、その姿を目に焼き付けた。
     
     しかし……もう、行かなくては。

     そのままゆっくりと腰を床に下ろし直したのを見届けて、今度こそ身を起こす。
     
    「待て…………やる」 
     
     俯いた男がぼうっとした声音でそう言うと、いつの間にかベッド近くの床に転がっていた、昨夜の読みかけの本を指でトントンと叩いてみせた。

    「……なら、貰って行こう」
     
     
     
     今なら始発の電車も動いている時間だと確認をする。荷物をまとめて立ち上がっても本当に帰宅は阻まれず、そのまま一人玄関口まで歩みを進めて、打ち捨てられたままになっていた革靴を手に取った。
     
     ロックを解除して、ドアノブに手をかける。
     後ろ髪が引かれる感覚には、目を瞑る。
     
     扉を開けば朝焼けが眩しく、どこまでも清涼感のある冷たい空気が鼻腔から滑り込んでくるというのに。
     息をするのが煩わしく感じられた。
     寝起きの彰人の、縋るような形相が脳裏に焼き付いている。
     はく、と水槽の中の金魚が水ごと餌を取り込むように、酸素を取り込もうとしてみるが、肺胞のひとつひとつが呼吸を拒絶するかの様に、浅くしか取り込めない空気。
     自ら閉ざした片開きの扉の前で、そのまま振り返ることも出来ず、しばらく動けずにいた。 
     
     
     
     前髪をわしゃわしゃと混ぜられる感触があまりにも心地よく、なかなか微睡みから抜け出せない。
     
    「冬弥。おい、とーや」
     
     それでも輪郭をなくしてしまったような相棒の声を導に、なんとか重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
     
    「お、やっと起き……た、か」
     
     茜染めの教室がひどく歪んでみえる。前の席に腰掛けた男は、いつの間に部活動の助っ人を終えていたのだろうか。ぼやけた視界をクリアにしようと、少し痺れる腕枕の上でとにかく瞬きを繰り返す。
     
     あ、きと
     
    「……ん、どうした」

     伸ばされてきた腕からはふわりと制汗スプレーの匂いがした。頬に走った水滴を拭う手つきは壊れ物を扱うようだったが、優しすぎるその動作が、何故か。
     涙痕を念入りに、皮膚へ刻み込む行為にも感じられた。
     
    「前髪、目に入ったんじゃねえの」
     
     伸びてきたもんなぁと、誤魔化すように笑う気配がする。
     
     ——同時に、黒板を爪先で引っ掻く様な不快感に包まれる。
     
     違うんだ、とこれ以上は小さくとも嘘を重ねたくない一心で口を開くが、何故か声は出てこない。
     
    「なぁ、もうさ。帰ろうぜ」
     
     相棒の声に一昔前のラジオみたいなノイズが混じり始める。ゴワゴワとした雑音混じりの音圧に、鼓膜が痛むような錯覚を起こす。
     身体は動かず、西日が異様に射し込むこの教室で、いつまでも目の前の彼の輪郭だけが不明瞭だ。

    「イっ——に、—えル—。と——」
     
     ザリザリザリザリと、ついに男の声が、直接マイクに砂礫を浴びせているかの様な音に切り替わる。
     
     思い出した。これはもう何度も見ている夢じゃないか。袂を分かったあの日から何度も何度も見ている、かつての相棒との優しい時間を繰り返すだけの悪夢。
     いつだって彰人の顔が見えなくて、俺の言葉は音にすらならない。
     
     ハウリング音が加わり、不快な音数はどんどん増していく。脂汗が滲むのを感じながら、ぎゅっと目を瞑って音の波にひたすら耐える。終われ、はやく終わってくれと祈りながら、かつての相棒の幻影を前に頭を垂れて、終わりの見えない金縛りの如く、動けないままでいる。
     今日も不協和音に蝕まれながら夜明けを待つ、
     
     はずだった。
     
    『冬弥!来いッ』
     
     突如、力強い声が唯一、脳内で明瞭に響く。
     霧雨の中を真っ直ぐとこちらへ向かって来たかのような、その響き。
     容赦なく引き上げられるような、急速な浮遊感。
     
     しかし不思議と恐れはなく、迷わずにバチリと目を開けた。
     
     
     
     ベッドから跳ね上がると、視界には見慣れた自室が飛び込んでくる。
     吸って、吐いて、肩で息をしながら、深呼吸をする。
     
     ……初めてあの場所から、飛び出せた。
     
     安堵感に顔を手で覆ってもう一度、丁寧に肺から空気を出す。ぬるい呼気が掌から跳ね返って、寝汗の滲む顔中を余計にじっとりとさせた。
     曖昧な形をしている夢の出口を振り返るまでもなく、声の主は明らかだ。
     現実の彼に持たされた本を見やると、あれから1ページも進まず、ヘッドボードの上で大人しく手に取られる時を待っている。
     あの不思議な軟禁生活からは、もう1週間が経過しようとしていた。
     
     
     
     録音を聴きながら、譜面に赤を入れていく。
     何度も何度も繰り返してきたこの作業だが、こうして1人だけの歌声を聴く度に「足りていない」という感覚を、より顕著に確かめる羽目になる。
     幅を広げようとも重みを出そうとも、元から無い土台の上には乗せられやしない。小さな器に液体を注ぎ続けても、すぐに溢れてしまうように。馬鹿にでも分かる、痛烈で絶対的な限界というものが、いつだってそこにある。こんなものでは、到底——
     
     <ピンポーン——……>
     
     古くてやけにボケた音のするチャイムが来訪者を告げる。あいにく何か注文した覚えも、知り合いから何かを送ると言われた覚えもない。
     しかし無視する訳にもいかないので、煮詰まる頭をガシガシとかいて、一区切りにするかと立ち上がった。そのまま玄関に向かい、癖付けるようにと口酸っぱく言われた、ドアの魚眼レンズを覗き込む動作を慣行する。
     
    「………………」
     
     一度扉から離れて、もう一度確認する。
     
     やはり見間違いなどではなく……居る。
     あの再会から1週間、もう会う事はないと思っていた男が、相変わらずの無表情で扉の前に立って——
     
     <ピンポーン——ピンポーン——……ピンピンピンピンポーン——>

     扉を急いで開いて、躊躇いなくチャイムを連打するそいつを引き摺り込み、殆ど息だけの声で凄む。

    「うるせえっ近所迷惑になんだろうが!」
    「出てくるのが遅いからだろう」

     反省した様子のない男は「お邪魔します」とだけ言うとそれ以外の説明もなしに、靴をキチンと揃えて部屋の奥に進んでいく。あまりに突飛な出来事にしばらくポカンとして、今日はスニーカーなんだなと筋違いな事を考える。家主であるはずなのに、玄関に取り残された。
     
     おそらく忘れ物か何かで、きっとすぐに出て行くだろうと気を立て直して、ドア付近で腕組み待ち構えていること数分。しかし一向に出てくる気配がない。
     流石に何事かとリビングに戻ると、思い掛けないアポなし訪問を遂げた珍客は、先週与えた本を優雅に広げる男へと様変わりしていた。
     まるで先週の映像でも再生しているかのような、強烈な既視感の中に今日のオレたちが居る。
     
    「……何しに来たんだよ」

     持参したのであろう広げられた荷物と、机の上に置かれている見覚えのないドリップタイプのコーヒーが、以前との分かり易い違いだろうか。18パックも入ったコーヒーには、しばらく居座るぞという気概を感じる。
     
    「本を、読みに」
     
     ちらりとこちらを一瞥だけして答えが返される。図々しい態度とは裏腹に、その声に相変わらず覇気はなかった。そしてそれ以降はまた熱心に活字を追い始めて、部屋にはページを捲る音だけとなった。
     
     
     
     ぱたり、と閉じられた本が机に置かれる音で、飛びかけていた意識が少し覚醒する。支えていた頭を持ち上げて、広げた紙面に踊るミミズの様な文字を認めると、あまりの集中力の無さに舌打ちをしたくなった。
     
    「きちんと、眠れているのか」
     
     興味の対象を、本からオレに移した向かいの人間に問いかけられ、言葉に詰まる。
     どうやら思いがけず零れてしまったのだろう、暗黙の了解であった筈の沈黙を破った気まずさで、少し視線を下げた。
     
     お前が言うのか、それを。
     青白い肌と深く刻まれた隈のコントラストが痛々しい青年。分かりやすくそんな風体だ。
     ——本当のこいつはこんな為体ではないんだと、衝動的に隠してしまう程には。
     
    「実の所、俺はあまり眠れていなくて」
    「……へぇ」
      
     そうだろうな。貼り付いた疲労の色は、どう見ても一朝一夕では取り除けそうにない。
     
     あの日、交差点で感情を思うままにぶつけていたら、きっと怒鳴り散らしたんじゃないだろうか。ただ実際に噴き出した怒りに捻り出された言葉は、殆ど呻き声に近かった。
     数年前に子供騙しとオレ達の音楽を吐き捨てて、正しい選択をしたはずのお前が、なんでそんな全部を諦め切った死人みたいな面構えなのかと、責める事すら出来ないほどに。
     
     こちらの気も知らずに、返事があった事で許しを得た気になったのか、目の前の男は言葉を続けていく。
     
    「夢を見るんだ、何度も。ここ数年間、同じ夢を」
    「どんな」
    「夕方の教室で、不快な音に苛まれながら……朝を待つ、という内容だ」

     いきなり何を言い出すんだと考えたが、確かコイツはこんな奴だったなと思い直す。
     さもそこまでの興味はないと言わんばかりの、なるべくスタッカートな相槌を挟みながら耳を傾ける。
     
    「んで?」
    「いつもは耐えて待つ事しかできなかったんだ、だが」
     
     訥々とした語り口調と落ち着いた声色の心地良さに、眠気を誘われる。大きな欠伸を噛み殺しながら「へぇ」だか「はぁ」だか、よく分からない音で続きを促す。
     
    「今回は先週のお前が、俺を夢から連れ出してくれた」
    「……オレ?」
     
     新しい登場人物に目を白黒させていると、仏頂面の表情筋を少し動かして言葉が続けられた。
     
    「あぁ、お前の声に起こされた。だからお前も眠れていないのなら、何か俺に出来ないだろうかと、思ったんだが」
    「………………はぁ」
     
     突拍子もないよな、とか。それ別に現実のオレには関係ないだろ、とか。色々言いたい事はあったが、久々にぐっすりと眠れたのは、先週のあの日が最期で。
     そもそも抗い難い三大欲求のひとつ、解決とは言わずとも改善の緒とするのならば……そもそも己の場合、原因は分かりきっている。
     つまりこの男だけが、アリアドネの糸と成り得る。
     
    「明日、なんか」
    「用事はない」
    「……泊まってけ」
    「それだけで良いのか」
    「…………これ以上ごちゃごちゃ言うなら、帰れ」
     
     話は終いだと言わんばかりにもう一度譜面に視線を落とすと、前から「分かった。もし夢見が悪そうなら、俺が起こそう」と少し弾んだ声が返ってきて、思わず上がりそうになった口角を掌で隠す。
     ここに居るのがさも当たり前であるように、次に読む本を選別する後ろ姿を、目に焼き付けた。
     
     ——なぁ。お前は夢の中だけかもしれないけど、オレは寝ても覚めても、音楽に向き合っている間は……向き合っていない時間も、お前の事ばっかなんだ。
     苦いブラックコーヒーの味も、寝落ちながら読み進める文庫本も。
     空白を埋めるのに、いつまでも慣れないで。
     
     
     
     腑に落ちない感覚を引き摺りながら帰路に就く。なにも今宵の勝者に己が相応しくなかった、そうは言わない。自身の実力は正しく評価できている方だとも思う。 
     夜風に吹かれてステージの火照りはすっかり冷め切ってしまった。余韻に浸る余裕もなくなったのは、いつからだったろうか。考えても答えの出ない問答を、回らない頭に浮かべては消していく。
     
     物足りなさが、いつも頭を支配している。
     
     周りにはそう見えてはいないらしい事が、幸いなはずなのに。お前らには何が見えているんだと問い詰めたくなるくらいには、無性に孤独だった。
     
     
     
     いつの間にか辿り着いた我が家を前に、少しの緊張が走る。まだ、居るだろうか。
     
     ドアノブに手を引っ掛けると鍵はかかっておらず、簡単に回った。
     玄関に滑り込み、廊下側に漏れる光を目にして、ようやく詰めていた息を吐く。
     なるべく音を立てないように後ろ手で扉を閉めて、いやにゆっくりと施錠する。まるで物音一つで逃げられてしまうと言わんばかりの動作に、笑えもしなかった。
     
     リビングにはただ視線も上げずに読書を続ける男が居て、たまに生き物である事を思い出したようにページをめくったり、カップを持ち上げて傾ける。
     それだけの事で簡単に、先程まで感じていたはずの焦燥感が霧散していくのを感じた。
      
    「疲れたか」
    「…………別に」
     
     そうか、と相変わらずの無表情でそこに居る。
     
     土曜日に留守番を任せるのはもう2、3回目になるが、その度に「帰ればもう居ないのではないか」という考えが行き帰りの頭を占める。
     
     ただいまとおかえりはなくても、交わす言葉が増えた。
     笑い合う事はなくても、視線が交わる時間は伸びた。
     そうなってくると、もう求めても仕方ないと分かっているのに、更に絆されていく心は止められなかった。
     
     
     
     週末だけの不思議な生活は、明確に来週を約束する訳でもないのに続いていく。綺麗な声で鳴くはずの青い鳥は、自分用の手土産を持って籠に飛び込んできては、好きに羽根を休めて、また飛んでいく。
     
     認める訳にはいかなかったのに、一度は諦めてしまった男が、自らの意思で隣に居座り続ける安心感というのは、どうしようもなく心地が良かった。
     お互い年単位でこさえた目の下にある黒い沼が、如実に浅くなっていく。
     
     しかし机に楽譜を広げるたびに見せる、どこか落ち着かない素振りは、未だに捨て切れない期待を押し殺す為にも、見て見ぬふりをし続けた。
     
     本当は分かっている。オレもコイツもこのぬるま湯みたいな時間を享受する暇があるなら、この部屋から一歩目で既に分岐している、それぞれの道を見つめる時間を持つべきだ。
     浪費したものは簡単には取り返せない事はお互いに痛いほど知っているはずで、事実を突きつけ合う事自体は簡単なはずだ。
     それでも既に、この居心地の良さを手放すのに躊躇っている。週末が来るたびに、無風状態といえる巣箱の撤去を渋って、また来週の己に任せてしまっていた。
     
     
     
    「なぁ」
    「なんだよ」
     
     いつからか置きっぱなしにしている寝袋から顔を覗かせて、ベッドに転がり背中を向けているオレに声をかけてくる。
     
    「今は、何の練習なんだ?」
    「来週の…………」

     音楽の話はタブーになっているものだと、そう思っていたのに。ある日あまりにもあっさりと、その境界を跨ごうとしたので、さも通常の会話の延長線上のように答えてしまいそうになった。

    「いや関係ねぇだろ、さっさと寝ろ」
    「………………歌が聞きたいと言ったら、怒るか」

     振り返り息を潜めて、視線を絡め合う。

     まだのっぺらぼうの方が表情があるんじゃないかという顔つきと、真っ直ぐな声。それでも心なしかいつもより緊張して、喉から絞り出された言葉に感じた。
     
     なにより、月明かりを浴びた双眸がどこまでも真剣で。
     
     そろそろ突きつけ、曝け出し、確かめ合おうというのだ、この男は。
     お互いの本来はもう交わらないはずの道筋を、歌を通して。
     
     ——それはまさに、毎週思い描いては言い出せずにいた、終わりの形に相応しい様に思えた。
     
     いつまでも週末に場所を借りにくるだけの、ただの読書好きの男であれば良いものを。そう頭の片隅で思ってしまうのは、もう誤魔化しようがない。
     
     心が休まるんだ、どうしようもなく。
     いつまでも感じる1人分の余白を、どこまでも重ならないひとりぽっちの音を。ステージで埋められないのならば、せめてこの部屋で。
     ここで求める事は、逃げている事になるのだろうか。
     ゆっくり感覚を麻痺させて、輪郭をぬるくふやかしていって、閉ざした部屋の中で、このまま。

     ……自答してしまえる。最初から分かっている。
     むしろ続いてるこの現状、この週末こそが幻である事くらい、あの交差点で手を引いた時点から。
     全部知っていたんだオレも、お前も。
     
     オレ達はこれだけじゃ——このままじゃ、やっぱり駄目なんだ。
      
    「明日、練習にスタジオ予約してるから、」
     
     来るか、という短い誘いの言葉が、枯れた喉の奥で絡まって、酷く上擦った音に感じた。
     楽しみだという、どこまでも平坦な短い声には、逃げるように背を向ける。
     選んで打った終止符を前に、たっぷりと息を吸い込んで、目を閉じた。
     
     
     
     翌朝の日曜日は、共に朝食を摂った。
     向かい合って、コーヒーとパンをモソモソと取り込んでいく。少しだけ開けた明るい窓から、ぬるい風が入り込んで、互いの前髪がふわふわと遊んでいたのをやけに覚えている。
     
     狭い洗面台を前に身支度を整えた。
     キャップで寝癖を誤魔化そうとする横着を発見し、お前も気合を入れろと言わんばかりにスタイリングを施す。されるがままにしては、嫌がらない様子が酷く懐かしかった。
     
     
     
     1人の聞き手の為に歌うなんて、本当に駆け出しだった頃みたいだ。
     しっかりと開いた喉と、セットした機材に、握った愛用のマイク。
     そして目の前で三角座りをして、始まるのを待ち続ける、元相棒。
     こいつがステージに立つ側ではない歯痒さに、苦虫を噛み潰した表情になっていやしないだろうか、今更。
     
     音楽を再生をする。
     イントロに耳を澄ませて、神経を出だしの一音に集中させていく。
     
     こいつの知らない時間を見定められる。そんな考えが頭をよぎって、柄にもなく緊張しているのが分かる。けれど——
     
     お前があの日、なんの意味もない、ただの子供の遊びだと吐き捨てた音楽を、オレがひとりで突き進んできた年月を、滑稽に映させやしない。
     
     腹の底から吠える様に始まった歌を聞く唯一の観客は、まるで初めて夢に触れたあの時のオレみたいに、瞬きも忘れてそこに居た。
     
     

     口元からゆっくりと集音部を遠ざけ、たっぷりと酸素を吸い込んで呼吸を整える。じっとりとした掌からマイクを手離せないまま、セットが崩れた前髪に視界を遮られるのに安心して、そのまま顔をあげられずにいる。
     
     あまりにも露骨に。
     何かを欲している声音だったと思う。
     
     歌っている時は歌い手と聞き手に徹して簡単に見つめ合えたというのに。曲が終わってしまえば、そこに居るのはただの剥き出しのオレで、どうしても視線がかち合うのを憚ってしまう。
     
     ぱちぱち、と控えめな拍手に誘われて、髪の隙間から相手を盗み見ると、満足そうに……久々に目元を綻ばせた姿が目に入って。
     
     歯を食いしばる。
     もういいかと、客席との線引きに納得が出来れば、どんなに良かったろうか。
     
    「とても迫力のある、良い歌だった……成長、したんだな」
     
     素直に紡ぎ出された台詞には、とても喜べなかった。
     お前もこっち側に、隣に、立ってたはずじゃないのかよ。

     ——そうだった。今日のメインは、オレじゃない。
      
    「……次、お前な」
     
     差し出したマイクに、視線が落とされる。
     こうなる事を覚悟して来ていたのか、突然の事にも関わらず狼狽える様子はない。
     ただ、頬を少し翳らせながら震える睫毛が、これまでの空白を如実に表している。
     
     しかしここで引いて、いつまでも己を誤魔化し続ける事など、もう出来ない。
     
    「俺はもう、歌は」
    「諦めさせてくれ」
     
     瞳が見開かれる。
     
    「オレに、お前を」
    「…………」
    「もう諦めさせて、くれよ」
     
     発声の為にどんなに入念に準備をしていたって、今この時になってしまえば、望んだ音は綺麗に出てきてくれなかった。
     それでも縋る様な、願う様な、祈る様な想いを込めて。
     
    「歌ってくれ、冬弥」
     
     オレは別に俳優じゃないし、欲しいモノの前で自分を取り繕えない。冷静であろうと努めたはずの表情が、悔しさに歪んでいくのを感じる。
     
     掌から、慣れたステンレスの重みが離れていく。
     
     なぜいま、お前のこの手は。
     オレの隣で、マイクを握るためにあるモノじゃあないんだろう。

     焦がれる視線の先、両手で大切そうに受け取られたそいつは、しばらく白い指先に形を確かめられ、労わる様に撫でられていた。
     
     ふいに、ぐっと喉奥で嗚咽を殺す気配がする。
      
    「こ、わい」
     
     ぽたり、ぽたりとマイクの持ち手が小さな雨粒に晒されて、細かく付いた傷痕が歪に拡大されていく様子を、ぼんやりと見つめていた。
     いつもは心地よく掠れている低音をひどく揺らしながら、それでも途切れ途切れで何かを紡ごうとする。
     
    「っ……あの時は、あれしか、思いつかなかった」
    「……あぁ」
    「お前の夢のために何もしてやれないと、あれ以上隣で居座り続ける訳にはいかないと……っあの日々から逃げて、苦しまなかった日はない」
    「そう、か」
     
     両手で包んだマイクを額に押し当てた、その影で。
     
    「日常から色が、ひとつずつ、欠けていくようだった……っ」

     惜しまず流され続ける感情の濁流は、ずっと堰き止められていたはずなのに、まるで不純物というものを知らない、どこまでも透明な雫に変わっていく。
     
    「歌ってる時のお前……楽しそうだったもんなぁ」
     
     オレの掠れた言葉に、何度も首肯を繰り返す。
     あの時はそうとは知らずに、大切だったからこそ、手離してみせたという。
     
     お互い、こうして言葉にしないと何も見えなかったんだ。
     なんて不器用で直向きな愛を、向けられていたんだろう。 
     
     目が合うと、今度こそは全て聞き届けなければという思いに駆られる。
     
    「よく眠れないのも、全部、ぜんぶ中途半端な、俺自身のせいだ、分かっていたのに。いっそ全て忘れてしまえば、楽になれるのに」
    「…………」
    「それでもあの日、ついて行ってしまった……今なら分かる。お前とまた会えて、心の底で喜んだ。身勝手にも、期待をしてしまった……っ!」
     
     視線を逸らさずに行われる告白は、まるで懺悔の様で、どこまでも清廉に思えた。

    「歌えば、もう……終わってしまうんだろう」
     
     そう零してまた律儀に己を責めて。シルバーグレイに新たな水を差して、ゆらゆらと溶いていく。
     
     今日は諦めにきたんだ。お前を、本当の意味で。
     オレの中でいつまでも相棒として居座り続けるお前を、終わらせにきたんだ。
     
     なのに。
     どうして今更そんな風に、宝物を取り上げられる子供みたいに。
     手離したくないと、ぐずって見せるんだ。

    「冬弥」 
    「すまな、い」

     離れていようがいつまでも憎くて、どうしようもなく特別なひとだった。
     だからこそ、傷まみれの姿を見ていられなくて、これ以上は誰にも見られたくなくて、テリトリーに囲った。
     了承も得ず、どこまでもオレのエゴだけで。
     
     たまらず額を寄せ合うと更にパラパラと、床に水滴が落ちていくのが見える。
     
    「ぁ……っあきと、彰人、すま、な………っ」

     血の気を失ってまで縋り付く指先が、離れてしまわない様に。
     目を瞑ってしまっても、近くにいる事が分かる様に。
     濡れた鼻先を擦り合わせる。

     後悔なら気が済むまでさせてやる、
     付き合って、やるから。だから。
     
    「泣くな冬弥……ッ」
     
     ふたり分の涙が空中で混じり合って、重力に逆らえず落ちていく。
     すまないと繰り返す冬弥が、ついに漏らした嗚咽。
     喉奥で殺す声すら聞き逃さない様に、その場でじっと、足元に水溜まりを作り続けた。

     
     
     いつの間にか大の男が2人してへたり込んで、涙に暮れていた。お互い目が充血して酷い有様だったが、年単位で蓄えた心の膿を流し出せて、すっきりとした心持ちだった。
     
    「彰人、ありがとう」

     背筋を伸ばして立ち上がった冬弥が、こちらを見据える。どうやら、もう気持ちは決まってしまったらしい。
     
    「何を、歌おうか」
     
     鼻声で紡ぎ出される言葉は、憑き物が落ちた様に軽やかだった。



     リクエストしたのは、出会った日にあの通りで歌っていた楽曲。
     喉は開いてないかもしれない。さっきまであの有様だったのだから、むしろ歌い辛いだろう。それにあの頃から技術的な進歩はないのかもしれない。
     それでもただ、リズムも音程もえらく正確で——。
     
    「ずりぃよ、お前……」
     
     気付けば……いや、必然的に。声を重ねていた。
     冬弥の声が少しだけ怯んで震えたが、負けじとまた張り直される。
     追いついて、追い越して、抜かされて、また追いついて。後戻りは考えない、そんないたちごっこを繰り返して、アドレナリンが噴き出す。
     求め続けたこの音を逃さない様に、身体に刻み込む。
     
     そうだ、久しいこの感覚だ。
     
     お前の隣に立つ感覚。
     お前が隣に立つ感覚。
     
     どんなに観客に囲まれていても、どのチームに誘われても。
     埋まらなかったオレの銀色。
     
     ずっと忘れずに、探してたんだ。
     
     
     
     歌い終わっても暫く、互いの息遣いだけを聴いていた。
     揃って紅潮した頬と、抑えきれずにギラギラとした瞳。そして、
     
    「まだっ歌いたい……!」
     
     お互いの耳に届いた瞬間に、冬弥の表情が驚きに染まる。
     自分で言い出したクセに、なんだそれは。
     
    「ふは……っ」
     
     衝動に感情が追いついていない様子に、込み上げてきた笑いは抑えきれなかった。キョトンと静止していた冬弥も、つられて控えめに笑い始める。
     ここ最近で、1番良い顔しやがって。
     
     ……後先はないのかもしれない。それでも。
     ずっと奥にしまい込まれていた笑顔を前に、自然と言葉が飛び出した。
     
    「なぁお前さ、オレと——」
     
     
     
     オレ達は今、やっと同じ景色が見えている。
     だってそうだろ。
     滲んだ世界を背景に、相棒しか見えちゃいないんだから。
     ようやく同じ場所で、呼吸が出来る。なら———
     
     このまま誰よりも速く、遠くへ。
     今度こそあの夜を、越えに行こう。
     
     
     
     ボーダーライン⇅ララバイ
     
     
     
     どこかで歌が生まれた。
     随分遠回りをして、迷って、それでも求め続けた歌が。
      
    「ふふっ、やっとだね」
    「これからここも賑やかになると良いわね」
    「うんっ!も〜〜〜待ちくたびれたよ!はやく来てくれないかなぁ〜っ楽しみなんだよね!」
     
     昼下がりのcrase cafeには、マスターとお手伝いの少女と、常連の少年のみ。
     いま現在、表の看板は”close”にされており、密かに行われているのは恒例となったスイーツの試食会だ。

    「こはねと杏、今日も来るかな」
    「うふふ。ミクったら、はやく歌いたいのね」
    「あ〜良いよなぁ……」
    「レンもたまには一緒に、どう?」
    「んー……」
     
     少年は考える素振りを見せる。しかしこれが建前だけの問答である事は、少女も少年も互いに分かっている。
     答えはいつも決まっていたし、例に漏れず今日だって返答は同じだ。
     
    「オレは……いいやっ!そっっっれにしても、ほんとさぁ!どこ行っちゃったんだよ、リンのやつ!」

     頬を膨らませる少年は、わざと明るく振る舞ってはいるものの、もう数年ものあいだ片割れの存在を待ち続けている。
     ある日忽然と姿を消した少女は、どこを探しても見当たらず。その後しばらくの間、この少年の意気消沈ぶりといったら、見ていられるものではなかった。
     
    「よしっご馳走様!じゃあオレ、今日も行ってくるっ」
     
     それでも歌い続けていればまた、会えると信じて。ずっと通りに立ち、1人の音色を響かせ続けている。
     
     少年は2人に手を振り、勢いよく扉を開いた。
     カランコロン、と小気味良くドアベルが鳴る。
     いつもの落書きだらけのストリート、天気は何故だかずっと晴れ。見慣れたコンクリートの壁を前に今日も、今日こそ……今日は——、
     
     真っ先に少年の視界に入り込んできたのは、大きな2色のリボン。
     突然開いた扉に目を白黒させて、リボンのカチューシャをした少女は両腕を少し引っ込めた。そして扉を開けた片割れの存在を認めると、満面の笑みを浮かべようとする。
     しかし少女の意に反した目尻からは、パラパラといくつも雫が落ち始めた。
     
     扉口で静止して、そんな百面相を見守っていた少年は。
     それまでの空元気を捨てて、顔をしわくちゃに歪める。
     
    「ッ……どこ、行ってたんだよ!」
     
     泣き顔の少年は今度こそ飛び出し、相棒の少女を大切に腕の中へと捕らえた。
     
     
     
    「レン、良かったね」
     
     手伝いを終えた少女が大人びた笑みを浮かべながら、独り言とも話題とも取れる様な言葉を溢す。聞き届けたマスターは赤い爪先でカップを撫でながら、この上なく嬉しそうに微笑んだ。
     
    「じゃあそろそろ、バー営業の準備でも始めましょうか」
     
     まだ見ぬ喧騒に想いを馳せて。
     ストリートのセカイはまた、動き始めた。
     
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