今は未成のカノープス「走るぞ!冬弥!」
しっかりついてこいよと言わんばかりの、やんちゃな笑みを浮かべる相棒に、何を言い出すんだと抗議する暇は与えて貰えなかった。
強く掴まれた右手を引かれるがまま、つられて走り出す。唖然と見開いた目の前では、湿って心なしか平素より色味の濃い橙色の髪が、束になって重たそうに揺れていた。
足が縺れそうになりながらも、屋根の下から引っ張り出されると突如、容赦なく顔じゅうが雨に打ち付けられて、その勢いに思わず目を瞑ってしまう。
しかし不思議と不快さを感じるどころか、段々とおかしくなってくるのが堪らない。
「なぁに笑ってんだよ!」
「だって、せっかく着替えたのに……っ」
そう言いつつも喜色満面になってしまう表情には、自分でも説明が付けられない。感情に見えないストッパーがあるのなら、まるで壊れてしまったみたいだ。
堪えきれなくなってきた笑い声を漏らし、今にも身を屈めてしまいそうになりながらも、それなりに懸命に足を動かす。
そんな俺が物珍しかったのか、全力疾走には程遠いであろう速力すら落として、少しだけ振り返った彰人もつられて笑いだす。
「こっこんな馬鹿をやるのは初めてだ……!」
「そーかよ、良かったなっ」
遠く見える水色の晴れ間と直上の灰色の雲を背景に、水に濡れようが眩しい、されど困り眉の笑顔を惜しみなく晒した相棒。なんだか世界がスローモーションで再生されていく感覚に陥り、彰人の周りの雨粒がキラキラと、不思議といつもより輝いて見える。
睫毛の雫を払う様に瞬きをひとつふたつとしてそんな一瞬を切り取っている内に、手を引く男は既に進路に向き直っていて、もう後ろを振り返る素振りは見せてくれない。
「あ、彰人!別に、先に行ってくれてもっ、良いんだぞ!」
雨粒の吸い込みきれなくなり始めた、普段目にする物より幾分白っぽいアスファルトに、いつだって俺のモノより力強く聞こえる足音を、これでもかと響かせながら往く。
「それじゃ意味ねえだろ、ばーか!」
前方を見据えて足は止めないまま、しかし俺にしっかりと届く様に彰人は吼えた。
言葉通りの行動を示す様に力を込めて握り直された手首は、目的地に辿り着くまでの間、ついぞ離される事はなかった。
真昼間の海水浴帰り、季節柄まだ大丈夫だろうと油断していたスコールに、見事に降られてしまった。
更衣室と簡易なシャワールームを借りて、この日の為に揃いで購入し、無事に活躍の場を得た長袖のタッパーに名残惜しさを感じつつも、ようやく着替えられたというのに。肌に貼り付いて、もはや濡れて変色していない範囲が見当たらないシャツが、はやくも多めに持って来ていた衣服の出番を物語っていた。
三月中旬、場所は沖縄県那覇市。
卒業旅行、初日の出来事だ。
「間に合って良かったな」
「まぁ酷い目にはあったけどな」
そう言って苦笑を浮かべる彰人も、先程の出来事を強く非難する色は見せていない。新鮮な体験に随分とはしゃいでしまった気はするが、そこに敢えてなのか触れてこないのに、むず痒い心地にさせられる。
始発電車とリムジンバスを乗り継ぎ、寝惚け眼で辿り着いた成田空港を出発したのが、朝の8時前頃。3時間と少しのフライトに耐えて、那覇空港に到着したのが11時を少し過ぎた頃だった。
そんな早朝からの長時間移動があったというのに、まさか二人揃って昼食の時間が頭からすっぽ抜けるほど、移動疲れも感じずに海で浮かれるとは思わなかった。
しかし本土ではなかなかお目にかかれないであろう、澄んだターコイズブルーのグラデーションがまるで呼吸を行なうかの如き様相を呈していた海原と、その熱に触れるまでは雪原かと見紛う程しろき砂浜の、あのコントラストの美しさ。あれほどの非日常に突然晒されてしまっては、時間の感覚など失ってしまっても致し方ないなと、脳裏に刻んだ波の音を繰り返し再生しながら、ひとり納得する。
それと同時に時間が迫っている事に気付いてすぐに、濡れながらもホテルに戻ったのは正解だったなとひっそり胸を撫で下ろした。あの驟雨に晒された後は急ぎ戻った部屋で、肌にへばりついてすっかり脱ぎにくくなったシャツをお互いにひっぺがし合いながら、慌てて着替える事になったのだが。
せっかく予約までしてくれていたランチをすっぽかす羽目になってしまっていたら、この旅が終わった後も小さな後悔がずっと尾を引いてしまっていただろうから。
使ったおしぼりを畳んで、向かいの相棒の前にも箸を配り終えると、束の間の手持ち無沙汰になる。なんとなしに水を注いでくれているのを見守り始めるが、先程まで時間に追われていた事もあり、つい頭を傾けながら彰人の手首に鎮座する黒いG-SHOCKに目をやってしまう。いつだったか説明された、太陽光による充電で動く便利なそれは、きっと愛用なのだろう。少なくとも使用している所を見かけたのは、今回が一度目や二度目ではない。
「流石にまだ時間あるだろ」
視線に気付かれ呆れ顔でお冷を差し出されたので、礼を言って受け取る。せっかくの旅行なのに急かした様で悪かったかという思いが一寸頭を過ったが、そういう彰人もコップを手渡した腕を手前に戻すついでに、チラリと文字盤に目をやっていたのでお互い様だろう。
朝からの移動と昼間の海水浴では飽き足らず、スコールにまで体力を奪われ、何よりつい先程までかなり時間に追われていた事もあり、流石に現時点でお互いに疲労の色が見え始めている。
学生という身分で発生しやすい金銭面の問題よりも、せっかくの春休みでチーム揃っての練習時間が確保しやすいというのに、穴を空け続ける訳にはいかない——そんな当然の理由で選んだ1泊2日の弾丸旅行に特段不服はない。しかしその分、散々あぁでもないこうでもないと膝を突き合わせて厳選した予定を、この後もしっかりと入れているのだ。
白石たちに頼まれていた写真を撮るのも忘れて、続々と運ばれてくるコース料理の数々を、腹が減ってはなんとやらと言わんばかりに勢いよく堪能していく。
メインのしゃぶしゃぶでは、アグー豚特有の甘味のある脂肪が鍋全体に溶け出して、水面に油分を揺蕩わせている。じんわりとした柔らかな旨味が、野菜にもとろりと纏わりついて、口に含めば上品な風味が鼻先にほわりと抜けてゆき、なるほど、これは。
「うまいな……」
「ずっと食べていられそうだ……」
鍋用についてきた人参を全てこちらに押し付けようとする彰人に、一欠片だけ食べさせようと善戦してみたりしながら、次々と食べ進めていく。
レビューではかなりの量だという意見が散見されていたはずなのに、こういう時はやはり自分たちの胃袋が若い男の物なのだと実感する。運動後ともなれば尚の事、気付けば跡形も残さずにぺろりと平らげてしまっていた。
『やっほー!楽しんでる?』
『そっちはやっぱりあったかいのかな』
彰人がコース最後のデザートに舌鼓をうっているのを、いつも通りコーヒーを片手に眺めていると、ちょうど良くチームのグループチャットに小豆沢たちから連絡が入った。
「彰人」
「んあ?」
——パシャ
嬉しそうに次々と別腹に甘味を収めていく相棒を激写して、文句を言う間も与えずしてやったりの気持ちで東京のチームメイト達へ写真を共有する。
『こちらはなかなか暖かいぞ。海にも入れた』
『へぇー良かったじゃん!っていうか彰人、そっちでもチーズケーキ食べてんの?ウケるんですけど笑』
『もう杏ちゃんったら……。ふたりとも楽しそうで良かったよ!』
そこからせっかくなのだから楽しんで来い、そういえばお土産は何々が良い、などという賑やかな言葉を矢継ぎ早に受け取った後、二人が最近よく使っている、どうやら女子の間で人気のキャラクターらしいスタンプが送られてくる。とりあえず会話の終了を察したので、視線をチャットアプリの画面から甘味に夢中だった男に戻す。
「冬弥ぁ……お前な…………」
すると今度はスイーツにばかり伸ばしていた手を休めた彰人が、スマホ画面に苦々しい顔を向けている光景が目に入った。
「渾身の一枚だろう」
「……おー。まさか写真の才能まであるとはな」
俺は可愛らしく思っているのだが、未だに好物を前にすると表情が緩み切ってしまう事を恥じている彰人が、恨みがましそうにジトッとした目を向けてくるので、したり顔をお見舞いする。
いやなんだよその顔、と正面で吹き出したかと思うと、少し立ち上がってこちらに手を伸ばしてくる。そのまま大人しく避けずにいると、前髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜられるという、ささやかな反撃を享受する羽目になった。
美味しい食事と気の緩んだ戯れあいに、かなり気力が回復したところで、気付けば良い時間帯になっていた。
この短時間で身体から水泳後特有の倦怠感が抜ける事はなかったが、俺としては次がはやくもこの旅行の目玉だ。久々の未体験を前にして、昨晩は楽しみでいつぞやの夜の様に寝付くのに時間がかかってしまった。
はやる気持ちを精一杯抑えた遅めの昼食の会計を済ます頃には、一足先に心が海に戻ってしまっていた。
「鯨の歌を、聞いたことはあるか」
この時は確か、昼食を摂っていた気がする。
卒業旅行をしようと提案したのはいつだったか。日取りと場所は早々に決めてしまって、では実際に向こうで何をしようかと、空き時間はガイドブックを片手に、着々と計画を練る毎日。この日もそわそわと浮き足だった気持ちがずっと続いていくかの様な、そんな他では得難い時間が穏やかに過ぎていた。
「くじら?ねぇけど、何だよいきなり」
お互い受験も終えて、大学は別々になるのがもう決まっていたから。そのタイムリミットが見え始めた残りの少しでも、割ける時間は共有して、同じ景色を見たい。そんな本音を包み込んだ、小さなわがままだった。
「ホエールウォッチングがあるらしい。俺たちといえば、やはり歌だろう」
「……日程譲らなかったオレが言うのもなんだけどよ。一応卒業旅行なんだし、普通に楽しんでもいいんだぞ。今回くらい、歌抜きで」
なかなか取れないオフの予定ですら、長々と音楽活動から離れて楽しむ事を良しとしないこの男は、相棒である俺に息抜きまで歩幅を合わせさせる事になってしまったと、今更ながら少し負い目に感じているらしい。ホテルの予約であったり、スケジュールの確認であったり、決まったプランを組み立てていく事には積極的だが、あまり自分からどこに行きたいとは言いたがらないのがその証左な気がして、俺としてはそれが少し、面白くなかった。
「最大級の哺乳類がどんな声を発するのか、彰人は気にならないか?」
「いや、お前が本当に行きたいなら行くけど……そこで水族館じゃねえのが、お前らしいというか、何というか」
せっかく彰人と行くのなら、鯨がガラス越しに泳ぐ姿よりも、自由を謳歌する雄大な姿を直接この目で確かめに行きたい。求める景色から得られる感覚を少しでも、叶うなら全て、共有したい。俺たちは隣に並び立つ相棒なのだから。
「見に行こう、鯨」
少し前のめりになってのその提案は、こちらの思惑を知ってか知らずか、案外すんなりと受け入れられた。
平日だった事もあり、夕方のホエールウォッチングは人も疎らだった。
船底がトンネルの様な形状の、双胴船と呼ばれるこの船は、水の抵抗が少なく揺れにくい構造になっていると、事前準備で調べていたのだが。出発前にお前は絶対に飲んでおけと酔い止めを渡されたので、大人しく渡されたペットボトルの水を頼りに錠剤を飲み込む。
その後は添乗員さんに手渡された、磯の香りがするオレンジ色のライフジャケットを着用し、いざ小型船にかかる短い渡しの板の上を歩こうと思ったが、下を見るとやはり少しだけ腰が引けて、結局苦笑いの彰人に手を引かれて乗り込んだ。
いよいよ出発した船が徐々に速度を上げてゆき、みるみる内に遠ざかっていく岸辺をしげしげと眺めていると、後ろ向いてると酔うぞと、膝を軽く小突かれた。
——クジラは呼吸の為に水面に必ず顔を出し……
——ブローと呼ばれる3、4メートルほどの水しぶきが……
——深く潜る時には尾鰭を高く上げるのでそれを目印に……
添乗員さんが次々と船内で、クジラの生体に関する興味深いアナウンスをしていくが、彰人にはイマイチ響かないらしく、大きな欠伸をひとつ、銀色の手すりに肩肘をついて揺れる青を眺めている。まるで授業中だなと、とりとめのない事を考えていると、
「おにいちゃんっ、おっきなあくびだねえ!」
「あ……?」
突然投げかけられた声の発生源に目をやると、前の席から振り向いた……おそらく5歳くらいの女の子が、黒い瞳を爛々とさせながら、今にも背もたれを超えて、後方座席のこちらへ身を乗り出してきそうになっていた。
「こらこの子ったら!すみませんっ」
「い、いえ」
「……お転婆さんだね。後ろを向いてると危ないよ」
他所行きの顔を急遽取り繕った隣の男が、やんわりとその子に着席を促すと、母親らしき人物が申し訳なさそうに、我が子をなんとか落ち着かせようと奮闘する。
「もう!ちゃんと座りなさい!」
「やだっっっ!!!」
だがそんな母君の苦労も露知らず、背もたれに全力でしがみつき我が道をゆくお嬢さんは、どうやらブレーキが効かないお年頃の様だ。
「おにいちゃん!そっち行ってもいーい?」
「?」
鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をしながらも、彰人が無言で「ここか?」と俺たちの間に空いていた1つの席を指差す。
「うんっっ!!」
「オレたちは別に良いけど……あのお母さん、大丈夫ですか?」
「本当にすみません……ご迷惑かと思うのですが、その……よろしいんでしょうか」
申し訳なさそうな表情と、目の下の隈からも伺える明らかな疲労の色には、母親の苦労というものが察するに余りある。
「もちろん、お元気な娘さんですね」
「ありがとうございます。この子ったらそれだけが取り柄で……」
真ん中の席へ通す為に一度通路に出ようと、席から立ち上がろうとする。しかしその前に既にスタンバイしていた女の子は、席に腰掛けたままの俺の上をよじよじと四つん這いで通過したかと思うと、彰人の腿の上に飛び込んでみせたので、ヒヤリとしながら二人して手を伸ばす様に身構える事になった。
「っと……こぉら」
「へへー」
「もう!!ダメでしょ!!」
先程から我が子に振り回され続ける母親像に、ふと自分の幼少期はどの様なものだったのだろうかと思い浮かんだが、深く思考が巡らせる前にアナウンスに掻き消されてしまった。
——クジラを発見いたしました。船体の速度を上げて参りますので……
「くじらさん!!?」
「まだだから。ほら、ここ」
「はぁーーーい!!」
苦笑する彰人が興奮気味の女の子に隣の座席をトントンと叩きながら声をかけると、比較的おとなしく席に着いてみせた。
どうしてもワクワクを抑えきれないその子が、椅子の上でも小刻みに体を揺らしているので、待ちきれないという心情を見事に体現するものだと感心する。忙しなく辺りを見渡していたかと思うと、
「ああ〜〜〜っっ!!これ!!ぴやすでしょお!!」
「おー……いてぇ」
「コラッ!!!!すみません!!!もうっ離しなさい!!」
どうやら幼いとはいえ既に光物に目がないらしい。相棒が耳たぶをぐいぐいと引っ張られ、腕を組んだ状態で身体を傾けて、されるがままになっている様子を微笑ましく見守っていると、やがて舟は速度を落とし始めた。
「お兄ちゃん!!しっぽみて!!!」
次々と興味の移り変わる幼子が、またも突然声を張り上げて力一杯指差す彼方、全員の視線がそちらへ奪われる。
そこには黒々とした巨大な尾鰭。重力すら感じさせない様子で、水面から悠々と垂直姿勢のその存在を示す。遠方ですら目を見張らざるを得ない情景が、ゆっくりと水の中に消えていく。
「鯨……」
「……こんな居んのかよ」
既に別の何か所からか水しぶきも上がり、他の乗客があれがブローだホエールリングだと、アナウンスから得た情報を元に盛り上がりを見せ始める。遠景ばかりに気を取られていると船の近くでも尾鰭が出現し、接待でも受けているかの様な錯覚を覚えた。
「おかあさん!!!!見た!!!?」
「見たよ、おっきかったね」
「しゃしんとらなきゃ!おとうさんにもみせるっ」
「……そうだね、いっぱい見せようね」
嬉々として渡されたスマホのカメラを器用に起動して、水際の席を譲れとばかりに彰人を三脚がわりにする、元気いっぱいの幼子。そんな我が子に躊躇うようにスマホを手渡した母親の指先は、少し震えていた。
あれだけ水面に姿を見せていた鯨たちは潜水してしまったのだろうか。仲睦まじい番らしき姿を最後に見かけてから、10分程はもう経過したかと少し残念に思っているとまたアナウンスが入る。
——これより、クジラの歌を聞いていただきます
「くじらさんのおうた?」
「そうだよ、だからしぃー……っね」
「わかった!しぃー……」
海中になにやら大きな機材が投げ入れられた。きっとあれがマイクの役割を担うものだろうと見当をつける。
乗客全員が耳をすませて、未だ見ぬ彼らの声を待ち焦がれる。
——近くにいれば大きく、遠くにいれば小さく聞こえます
珍しかったのであろう乗船体験そのものにはしゃいでいた幼い女の子も、ただ波の揺蕩うのを眺めているかに見えた相棒も、この時ばかりは熱心にスピーカーを見つめていた。
コポコポと気泡が通り過ぎていく音だけを届けるスピーカーに聴神経を集中させる。
——クジラの歌はコミュケーションの一種で主に、
例えば暗い海の中に、光は届いているのだろうか。
微弱な視力を頼りに漂う事に、孤独は感じないのだろうか。
——求愛行動だと言われています
目をつむる。
海底へ沈みゆく身体を脳裏に思い描く。
すると船上で浴びているはずの波風が気配を消す。
その青さを深くし始めたばかりの、夕刻の海で。
日に焼けた頬を、
音を発する喉を、
切り揃えた爪を、
進み続ける脚を。
春先のまだ冷たい海水が撫でていくイメージ。
そしてやがて、その時はきた。
『————…………ふぉぉん……————ぶぉぉぉぉぉん……——ふぉぉぉん………………————』
歌が、聞こえる。
小さいもの、大きいもの。
短いもの、長いもの。
低いもの、高いもの。
——流行の歌もあり、いくら良くても去年の歌をだと相手にされない事もあり——
あちらこちらから、様々な歌が聞こえる。
水底からの、人智を超えたうつくしい歌声たちは、まるで恐ろしいものであるかの様な。
でも何より、
「……寂しいもんだな」
全て見透かされた心地になって、潜り込んでいた意識が急浮上し、隣を見やる。しかしぽつりとこぼした男の視線はもうスピーカーを捉えてはおらず、珍しく惚けた顔で、ただ水平線に落ち始めた光を追いかけていた。
歌が聞こえた。
斜陽を跳ね返す水面下、轟く流行り廃れのラブソング。
届けたい愛は、届いたのだろうか。
無事船酔いはしなかったが、ゆらゆらと波の上に居る感覚は抜けないまま、陸地をしっかりと踏みしめる。数時間の舟の旅路を共にしただけとはいえ、懐いたその分全力で別れを惜しんで彰人にしがみついていた女の子は、どうやら少し前に泣き疲れて眠ってしまったらしい。
母の腕の中とはいえ涙の痕がなんとも痛々しいが、もうお別れの時間だ。
「実はここ最近、あまり元気がなくて……きっと寂しかったんだと思います。でも今日はずっと楽しそうで。本当に、ありがとう」
「いえ、こちらこそお陰で楽しい時間でした…………またな」
彰人はそう言って、眠る子の頭をそっと撫でた。
「お、とうさん……いかないで……」
確かに閉じられた瞼の間から、ホロホロと新しい涙がこぼれていく。きっと夢を見ているんだろう、そんな事はこの場の誰もが分かり切っている。
しかし優しい男が動きを止めるには十分だった。
「っ……あなたの声が、夫に、とても似ていて」
すみません、その一言を皮切りに母親が堪えきれなくなった涙をついにこぼしてしまった。
今日まで何を思って歩んできたのだろう。一体どんな気持ちで海に居たのだろう。娘に打ち明ける事の出来ない、この人が積み重ねてきた今までの孤独は、きっと計り知れない。そんな目を背けられない痛々しさだった。
「ごめん、冬弥」
「……分かった」
一礼して、3人に背を向けて、ゆっくりと歩き始める。
彰人はあの母娘にしてやれる事などないと、きっと分かっている。そういう聡い男だ。でも同時に酷く優しい人だから。幼い夢の伴、涙の後の束の間、まがい物の虹をかけるくらいは、見逃そう。
風に紛れてかすかに聴こえる、ちちと母の子守唄。
夜の帳は残酷なまでにいつも通り、1日の終わりが近付いている事を告げてくる。時間も幼い少女の成長も、止まってはくれない。生きているのだから。
しばらく夜空を眺めて歩み続けていると、良く知る足音が追いかけてくる。
「済んだのか」
「ん」
そう残すと、彰人は振り返りもせず前を行ったので、慌てて追いかける。
角を曲がる時にチラリと視界に収まったのは、眠る娘を大切に抱きしめながら、いつまでもお辞儀を続ける母親の姿だった。
ホテルで夕飯を食べ終えた後、部屋に戻って椅子に腰掛けながら、明日の予定を再確認する。初日がハードスケジュールだった分、せめてチェックアウト時刻まではのんびりするつもりだが、たった二日間の弾丸旅行だ。明日の夕方、帰りの便までに彰人と楽しみたい事は沢山ある。
今回の旅行の最終目的地は、那覇市国際通り商店街。昭和20年——沖縄戦の焼け野原から目覚しい発展を遂げ「奇跡の1マイル」とも呼ばれる、同市最大の繁華街だ。
……だが、その前に。