二〇一五年十月三十一日 女がひとり座っていた。そこは自宅の居間であり、女はそこで手紙の入った封筒と向き合っている。西日は床をまっすぐ照らしている。秋も終わりかけの夕方のことである。
その日彼女は元夫と会ったのだった。別れてから既に十余年。しかし毎年この日だけは会うことに決めていた。彼らの間にいた息子の墓参りをするために。
「けどそれも今年で終わりになる」
女は手にした封筒を眺める。
元夫は再婚するのだと言った。彼女はそこに何の感傷も持たなかった。むしろ、別れてからしばらく経っていたのに、息子が亡くなったときのさまざまな手続きをしてくれ、ともに悼んでくれたことに感謝していた。ひとりではあの日からずっと立てなかっただろう。
女の顔は晴れない。まだ手紙は開かれていない。
「乗り越えなくてはいけないのか、私も」
彼女の元夫は強かった。彼は新たな人生を始めようとしている。息子は彼によく似ていた。転んだとしても、すぐにまた前に進もうと模索する力を持っていた。しかし彼女は、立ち上がりはしたものの、依然あの日のなかにいた。
息子の訃報を聞いた日。彼女はあの日に囚われていたが、その実そこから動きたくないような気がした。前に進むのは忘れることではない、と頭では理解していた。しかし、息子への深い愛情と後悔が、彼女に動くことを許さなかったのである。
先程までまっすぐ射し込んでいた西日は、部屋に並んだ家具をなぞってギザギザとしている。空気が冷えてきた。
その手紙は息子の親友からのものである。毎年、命日に届く手紙は、いつも息子とその母親である彼女を気遣う言葉が並んでいた。しかしそれも十回目。節目の今年が最後となるかもしれないと彼女は考えた。
彼女は息子の命日に、元夫と揃って行く以外にも、月命日にも一人で墓参りをしていた。大抵はまだ日が昇りきっていない午前中に行っていた。
そのとき、きまって自分より早く花が供えてある。初めは元夫が彼女が来る前に供えたものだと思っていた。しかし彼に聞いても自分は午後から行くのが習慣であるから知らないと言う。その後、この手紙の贈り主が毎月詣でているのだとわかった。
彼女はついに手紙の封を切った。それまで難儀そうに扱っていたのが、突如なにか拘束が解かれたかのような手つきで開く。
丁寧に書かれた字が並んでいた。「拝啓」と始まる手紙には、恐れていた言葉は書かれていなかった。
そこには、経営している店で近ごろ新しく人を雇ったので忙しくしており、落ち着いたら改めて仏壇に手を合わせに来ると綴られていた。また、親族ではない自分がこれからも墓参りすることを詫びる旨が書いてあった。
十年経っても、自分以外にも忘れないでいる人がいることに、彼女は安堵した。
日はいよいよ沈む頃である。部屋は薄暗くなっていた。女は明かりを点け、温かいお茶を淹れた。
寒さが深まってきた時分。枯れ葉さえも少なく、吸い込む空気が冷たい。
息子の死から十年とちょっと。女はまた月命日に墓を訪れた。寒々とした墓地では、供花の色が際立って見える。その日彼女が来る前からすでに供えられていた花はいつもよりもすこし多かった。
その月から、前よりすこし多く花が供えられるようになった。
(了)