墓参り晩秋のある日のことである。その時期にしては暖かく、空は澄んで陽光が広がっていた。まだ日が南の空にのぼりきる前の頃である。
男が墓の前に座っていた。男は上等な薄グレーのストライプスーツを着ているが、汚れることなど構わないといった様子で墓の前に胡座をかいている。うつむき加減で垂れた黒髪が目元を隠しているが、その瞼は閉じられていて、眉根に少し皺が入っている。口も固く結んでいて、一見すると痛みに耐えているかのようだ。
しばらくして男が目を開けた。膝の上に置いた自らの掌に鋭い視線を向ける。細身に似合わず節が目立つ手であった。男には掌に何かがべったりと張り付いているものが見えているのだろうか。それを観察するかのように眺めている。もちろん男の手には何も付いてはいない。しかし過去に幾度もあった、掌に付いたものの感覚を男は忘れられずにいる。やがて、その感覚を消すためにスラックスで手を拭い、なにを話そうか思案して手と手を擦り合わせた。
風がゆるやかに供花を揺らした。風は男の髪をも揺らす。
男は顔を上げた。それまでの張り詰めていた表情は解け、穏やかな目である。
「場地さん、お誕生日おめでとうございます」
「今年の誕生日は暖かいですね」
「去年なんて寒くて寒くて」
「そっちはどうですか」
「暖かいといいんですけど」
「今日来たのは誕生祝いだけじゃなくて」
「もうすぐ稀咲の尻尾を掴めそうです」
「トーマンを変えちまったアイツをようやく追い出せるんです」
「そしたら場地さんがいたころのトーマンに戻れるはずです」
「こんなに長く掛かってすみません」
「もっと仲間がいればな」
「実は一虎クンが出所してから協力してて」
「一虎クンとはなんとなく上手くやれてます」
「もっと変なやつかと思ってました」
「まあ場地さんと友達だけあって根はいいやつですね」
「本当は一虎クンと来ようと思ってたんですけど…」
「………」
「また来ます」
「今度はトーマンを取り戻した後に、ふたりで」
男は立ち上がり、墓標に向かって深く一礼する。立ち去ろうとする男の背に風が強く吹いた。ムクドリの声が聞こえる。日の光が柔らかく男を包んでいた。
それから半月ほど経ったころ。ある男が墓の前に立っていた。墓を見つめ、白くなった唇で小さく「ごめん」と繰り返している。
空は重く灰色に濁っていて、空気から湿った土のにおいがした。じきに雨が降るのだろう。冷たい風が葉の落ちたイチョウの枝を揺らす。
「俺、また壊しちまった」
「俺が千冬を運びだせていたら」
「もっと早く電気を落としていたら」
「もっと早く稀咲を追い詰めていれば」
「そもそもあのとき俺が稀咲に騙されなければ」
「………」
耐えかねて男はしゃがみこんだ。膝を抱えて腕を強く組んでいる。組んだ腕の上に額を押し付けているので、とめどなく流れる涙が顎まで伝って、地面にポツポツと落ちている。泣いているためか寒さのためか、男の耳は真っ赤になっていた。
嗚咽を抑え、絞り出すように言葉を発する。
「千冬とここに来たかった」
「俺、アイツがなに考えてんのかわかんないんだ」
「いつもムスッとしてるし。腹の底から笑ってるのなんて見たことねぇ」
「なんで俺の面倒見てくれたのかもよくわからない」
「お前が言い残したとしてもそこまでするか?普通」
「でもアイツは俺を信じてくれたんだ」
「………」
「俺、最後まで千冬とお前の話できなかった」
「千冬も俺もお前の話は出さなかったけど、千冬は毎朝毎晩、お前の写真に手合わせてんだぜ。お前知ってた?」
「それ見てちょっと安心したんだ。この先ずっとお前のこと話せないのかと思ってた。でも千冬のことだから絶対に話したくないなら、写真なんて目につくとこに置かないで上手くやると思うんだ」
「だからいつかお前の話できると思って安心した」
「俺がしちまったことにも、千冬の過去にも、千冬の本心にも、全部と向き合いたかった」
「お前の話はしなかったけどお前のおかげで俺たちは一緒にトーマン取り戻すって道に進めたんだよ」
「だからアイツとここに来たかった。お前の話ができるようになりたかった」
「もうそれも叶わない」
「俺どうすればいいんだよ、場地」
目の前の石に問うも返事は無い。冷たい風が落ち葉を鳴らすばかりである。
空は未だ厚い雲で覆われている。まだ日が沈む前だというのに薄暗い。色褪せた風景だ。墓地にはひとけも無く、鳥の鳴き声さえもしない。墓標が風を切る音、木々が揺すられ落ち葉が擦れる音。そこにかすかに男の啜り泣く声がある。
突如、風が止んだ。世界が静かになった。それまで絶え間なく鳴っていた風鳴りが止んだ。肩を震わせていた男が顔を上げる。向かい合った墓の向こうの空を見た。目を見開いた。
光が見えた。
黄金色の光が、厚い雲の切れ間から漏れ出で、まっすぐに地上に射し込んでいた。灰色の景色にのびた一筋の黄金。泣き腫らした目と頭に沁みるような光。けれどそんな痛みも忘れてしまう景色だった。
呼吸を忘れていた男は息を飲み、そして深く息をした。張り付いていた髪を取り払い、顔を服の袖で拭う。また風が出てきたが、熱い頬にその冷たさは心地よい。
「また来る」
短く言い残して男は寒空をあとにした。
(了)