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    百足の夢/壺法師巷談百足の夢ちゃりちゃりおるすばん百足の夢


    頼まれ事は断れない、というより断らないのが、坂田金時という男のポリシーだった。
    常日頃より可愛がっている後輩の頼みともなれば尚の事である。迎えに来てほしいという電話を受けた七分後には、後輩の分のヘルメットもしっかり持って、自慢のモンスターマシンを団地の前に乗り付けていた。夜なので、音には気をつけた。団地には赤ん坊だって住んでいるのだ。
    ついたぜ、のワン切りをして、ヌリカベみたいにそびえ立つ団地を見上げしばし待つ。手持ち無沙汰になり、小遣いを貯めて買ったライダースジャケットのポケットを探る。ハイチュウが二粒出てきた。一つは後輩にやることにしてもう一つを口に放り込む。グレープだった。
    ハイチュウを二粒ポケットに入れていた過去の自分に対して、なかなかやるジャン?と満足していた金時は、階段を降りてきた後輩を見て少し戸惑った。彼がハイチュウの配当のないもう一人の人物を背負っていたからだ。小柄な後輩に覆い被さるようにして運ばれているのはおそらく大人の男で、意識がないのか、足を引きずられているのに無反応だった。引きずられた足が段差を落ちるたび、ちりん、と小さな鈴の音がどこか遠くで鳴った。
    重たげな足取りで一段ずつ階段を降りてきた小太郎に思わず駆け寄ると、バイクのライトに照らされた猫みたいにぎゅっと固まった。

    「……すみません、先輩、金時先輩しか、僕、いなくて」

    男にしては長すぎる前髪の下に、意外に鋭く光る目が隠れていることは知っているけれど、今その目がどこを見ているのかは金時には分からなかった。

    「ちょっと、この……これを、お山に、埋めに行きたくて」

    これ、というのが何を指すのかも、すぐには分からなかった。小太郎の出で立ちをとっくりと見て、彼が背中の男を除いては全くの手ぶらであることを確認し、そんじゃあこの男のことなのかよお、と消去法でようやく理解する。 改めて見るとかなりの大男のようで、引きずられている足はほとんど膝が地につきそうになっていた。自分も相当に体格に恵まれた方だが、立ち上がればあるいは見上げるほどの身の丈があるのかもしれない。
    誰なんだよソイツ、と聞くまでもなく、何となく察しはついた。最近たまに話に出てきていた、お袋さんの彼氏ってのがコイツなんだろう。変な男だとは聞いていたが、今となっては変なのかどうかもよく分からなかった。異様な長駆とぞろりと流れる長髪だけでも、変わっていると言えばその通りなのだが。

    「…………死んじゃったのかよォ」
    「…………死んじゃいました」

    後輩は変にスカスカした声でそう言うと、居心地悪そうに身じろぎをした。背中の男が少し、ずり下がって、またちりんと鈴の音がした。


      ◆


    小太郎が行きたがったのは寺の裏山だった。そんな近くでいいのか、とも思ったが、朝までに帰らねばならないことを考えると、どのみちあまり遠くまでは行けない。金時の母は毎朝六時きっかりに起きてくるのだ。それまでは幼児のように熟睡して、何をしたって目を覚まさないのだけれど。
    幸いなことに、移動中に人とエンカウントすることはなかった。築四十年以上が経つここらの団地は空き部屋が増え、残る住人の多くも高齢で、夜が早いのだ。自慢のマシンとテクニックは初めての三人乗りを難なくやってのけたが、人に見られたら確実に怪しまれていただろう。クルマは母が使うもので、自分にはバイクがあればいいと思っていたけれど、誕生日が来たら大型二輪より先に普通免許を取った方がいいかもしれないと金時は考えを改めた。これほど切実にトランクを必要とする機会は二度とないような気もするが。
    バイクを停めて山へ入る。ハイキングコースともいえないような申し訳程度の山道を外れ、獣道を行く。夏にはカブトムシも獲れるスポットだが、冷え込み始めたこの時期にこの山に入る人間は自分達くらいのものだろう。スマホのライトで足元を照らしながら進む。がさがさと草を踏み分ける音に混じって、時折背後から微かな鈴の音がする。ストラップか何かなのだろうか。ちりちりという音が耳に届くたび、死んだ人間が何か喋りかけようとしているかのようで気味が悪く、どこから出ている音なのかはっきりさせたいような、知りたくないような嫌な気持ちになった。いっそ自分が運べば気にならないかもしれないと、代わろうと何度も提案したが、頑固な後輩は首を横に振るばかりだった。仕方なしに、そっちをお願いしますと渡された灯油入りのペットボトルをわざとちゃぽちゃぽ言わせて歩いた。
    しばらく進むと、少し開けた場所に出る。小太郎と秘密基地代わりに使っている場所だ。夜に来たのは初めてだった。木立が切れて夜空が見える。地上には知らない男の死体があって、今から燃やされるというのに、空は澄みきって星がたくさん浮かんでいた。
    不法投棄のボロっちいドラム缶に通気孔を開け、男を押し込んだ。首にはくっきりと太い紐の跡が百足むかでのように張り付いているのに、苦しんだようには見えない、安らかな顔をしていた。整った顔立ちだ。まるで眠っているだけのような、を通り越して、本当は起きていると言われた方がしっくりくるような、いつ目を開けて驚かせてやろうかと笑いを堪えているようにさえ見える顔だった。それでも息はしてないし、心臓も動いていなかった。
    灯油をぶっかけて、火をつけた木の枝を何本か投げ込むと、ドラム缶は元気に燃えだした。小太郎が持ち出したのは夏に花火をやった時に買ったライターだった。お前まだそれ持ってたのかよ、と言うと、またやりたかったのでと蚊の鳴くような声で答えた。花火よかだいぶ豪快な様子の火を眺めながら、またやろうじゃんと頭を撫でた。
    もうもうと煙が上がる。ぱち、と木の枝のはぜる音がする。灯油臭に混じって、焼き肉の焼けるにおいがうっすら漂ってきた。どれくらいで焼き終わるもんなんだろうかと不安が頭をもたげた頃、ちょうど同じことを考えていたらしき小太郎が口を開いた。

    「あの、いろいろありがとうございました。後は一人でもできると思うので、帰ってくださって大丈夫です」

    礼儀正しい後輩は、そう言って卒業式みたいな角度で頭を下げた。スマホを見ると日付が変わっていた。確かに良い子は帰って寝た方がいいんだろうが、二つも年下の弟分を夜の山に一人で置いて帰るなんてことはできるわけがない。死体を焼いている最中ともなれば尚更だ。

    「そりゃないぜ小太郎。帰りも一緒に来てくれよ」

    わざと乱雑な動作で地べたに座り込む。ポケットを探ると、ハイチュウが一粒だけ出てきた。おずおずと隣に腰を下ろした弟分に手渡す。礼を言うばかりで一向に食べようとしないので、取り返して個包装を剥き、無理やり口を開かせて放り込んだ。普段は見えない八重歯がちらりと覗いた。


      ◆


    隣から小さなくしゃみが聞こえた。もっとくっつこうぜと呼ぶと、膝を抱えたままにじにじと尻を動かして肩をつけてきた。寒い時は火の方を向いてないで背中を火で温めるのがいいって、ガキの頃一瞬だけ入ってたボーイスカウトで習った気もするが、あの火に背を向けるのは何となく嫌な感じがした。細っちい体を捕まえて、あぐらをかいた膝の上に抱え込み、背中と尻が冷えないようにする。小さい生き物はフクロウにでも攫われたみたいに身を固くしていたが、この方があったけえじゃん、湯たんぽになってくれよと頼むと少し柔らかくなった。この方があったかいです、と言って薄く笑った。
    炎はまだゆらゆらと揺れていた。鼻は慣れてしまって、もうあまり臭いとは思わなかった。ただ時たま風向きのいたずらで煙が流れてきて、その時だけは煙たかった。
    ふわりとハイチュウグレープの香りがした。小太郎が手を擦り合わせて息を吹きかけていた。手、冷てえの。ひとまわり大きい手で挟んでやる。手袋貸してやってもいいが、オープンフィンガーだからあんまり意味ないかもしれない。こね回して、手の温度を分け合って同じにする。腹に抱えた湯たんぽがいい感じにぬくいせいか、そうこうしているうちにさすがに少しばかり眠たくなってきて、冷たい赤毛の頭に額をぶつける。髪からは嗅ぎ慣れない、どこか違う国の線香みたいなにおいがした。意識の糸がほつれていく────

    ────ちりん、

    腕の中の湯たんぽがびくりと跳ねた。聞こえたのが自分だけでないということは、寝ぼけて聞いた幻聴の類ではないらしい。どくどくと一気に心拍数を上げたのは自分の心臓か、小太郎の心臓か。
    ざあっと急な風が吹いて、炎が激しく揺らめき、端がちぎれて、それからふっと消えてしまった。ドラム缶の上に立つ炎が風で消えたとしても、下に開けた穴からは赤い熾火おきびが見えるはずなのに、それすらも見えなくなり真っ暗闇に包まれる。オレの手をぎちぎち掴んでいるこの手は小太郎の手でいいんだよな? それを確かめるための声が出せない。小太郎も息を殺して何の音も出さない。たぶん二人とも同じことを考えている────またあの鈴の音が鳴るんじゃないか。
    凍りついたままでどれくらい時間が経ったろう。暗闇に目が慣れ、星明かりだけで周囲がある程度確認できるようになった。風の音、葉の擦れ合う音、遠くフクロウか何かの鳴き声。鈴の音は聞こえなかった。何となく、もう大丈夫なんじゃないかと思った。口に出してしまうとその瞬間に鳴りそうで、言葉にはしなかったけれど。
    それよりも、ドラム缶の中が気になった。火葬場みたいに骨だけになったりはしないだろうが、とりあえず服と面の皮までは燃えて身元の割れない焼死体になっていてほしかった。そうでなければもう一度火を付け直した方がいい。中途半端に焼けた死体がどうなっているかは想像したくもなかったが、もちろん完全にこんがり焼けてりゃ見たいってわけでは全くないが、確認しないわけにもいかない。小太郎、と声をかける。口の中がひどく渇いていて声がかすれた。はい、と返った声もかすれていた。
    スマホのライトをつける。ほんの少し痺れた足で立ち上がる。一歩ずつ、前へ踏み出すたびに嫌な予感が膨らんでいく。だって、ライトの先に。照らす先に。ほんの五歩。心の準備をするのには全く足りない距離だった。手袋の中にズルズルに汗が溜まっている。小太郎が腕を掴んだ。掴んでくれなかったらこっちが掴んでいただろう。
    真っ直ぐな光で照らし出されたドラム缶の底には、焚き付けに投げた小枝が転がっているだけだった。







    生まれて初めて無断外泊をした。
    体は痛いし疲れているのにとても眠れなくて、二人でずっとマリカーをやっていた。日が昇ってから、あたかも早起きをしてひっそり遊びに出たかのような雰囲気のメッセージを母には送った。金時先輩のお母さんはちょっとどうかしている量の朝ごはんを出してくれた。うちと同じ二人家族なのに五倍くらいお米を炊いていそうな気がする。
    お腹がぱんぱんになると、すごく眠くなってしまって、金時先輩の部屋に戻って二人で眠った。目が覚めると昼過ぎだった。何だか全部、悪い夢だったような気がした。母に送ったメッセージは既読になっていて、かわいいのかどうかよくわからないキャラクターのスタンプが返ってきている。先輩はまだぐっすり眠っていて起きそうにない。眠たいのに夜通し付き合ってくれたのだと思うと、申し訳なかった。
    足音を立てないように部屋を出て、居間を通り抜け、玄関を後にした。先輩のお母さんが作っておいてくれた炒飯の山が気になったけれど、先輩はきっと一人で何とかできるだろう。

    表はよく晴れて空が高かった。木枯しが木の葉を巻き上げていた。ポケットに手を突っ込んで、家まで二十分少々の距離をふらふら歩いた。暖かくて、途中で上着を脱いだ。団地の中の公園では半袖の小学生も遊んでいた。もう絶対に昨夜のことは夢だったんだと思って、なんて最悪な夢を見ているんだろうとちょっと笑ってしまった。せっかく夢を見るなら、もっと良い思いをしたらいいのに。上手いことあいつの息の根を止められたところまでは、ある意味、良い夢だったかもしれないけれど。
    階段にも日が差し込んでいた。ベランダが東向きだから階段は西向きなのだ。四階まで上ると少し汗ばむくらいだった。鍵を回す。古ぼけて端のメッキがところどころ剥がれた鉄の扉が、かすかに軋んで開く。この数ヶ月でついた癖で、まずは狭い三和土たたきを見る。見慣れた母の小さな靴の他に、あいつの靴がないかどうか、確認するために。
    あった。田舎暮らしの子供の目にはセンスが良いのか悪いのか見当もつかない、他所であまり見かけない形をした大きな靴────しかし服飾にこだわる奴らしくもなく、どういうわけか両方の爪先にひどく擦れた傷がある。なぜだか山道でも散策してきたかのように真新しい泥がへばりついている。思わず自分の履いているスニーカーに目をやる。全く同じような、いや、あの大きな靴よりも少し乾いた泥汚れが両足に、ついている。
    全身の血液が逆流し始める。足が震える。心臓の音がうるさい。奥の部屋から談笑する声──母の声はいつも控えめなので、ほとんど男が一人で喋っているような声──が聞こえる。手のひらを何か大きな虫が這ったような感覚がして、とっさに振り払う。それでも気持ちの悪い感触が消えなくて、広げて目視する。

    ちりん、と鈴の音が、耳の中で鳴った。

    両手のひらの真ん中に、百足のように張り付いている赤い跡は、夢の中で力の限り引っ張った炬燵のコードと同じ太さだった。
    ちゃりちゃり
    最終の汽車だった。ボックス席に腰掛けた女は、隣の席の荷物から片時も手を離さなかった。風呂敷に包まれた、丸みを帯びた形の荷物。壺か何かだろうか。揺れの拍子に転がり落ちないように、というよりは、聞き分けなく吠えかかる犬猫を宥めようとしているかのような、そんな手付きに見えるのは何故だろう。風呂敷包みに動物を入れるわけもなかろうに。女が包みに硝子玉のような目を向けたまま、ちらとも視線を外さないからだろうか。
    終点に着くと、女はひとかかえもあるその包みを抱いて立ち上がった。細い腰でよろめきもせずすたすたと歩き出す。意外に軽い荷物であったようだ。女に続いて下車しようとした時、座席の上に切符が残されているのが目に入った。女のものだ。追いかけて手渡す。女はひどく驚いた様子で包みを下ろし、袂、懐、帯の隙間までごそごそと確認し、切符のないのを認めると、きまり悪そうに目を伏せて礼を言った。男と話した経験があまりないのだろうか。切符をつまんだ指は白魚のようだった。
    「家は? 送ろう」
    「いえ、そんな、悪いですから」
    「夜は猪が出るよ」
    「夜道も慣れておりますので……」
    うっすらと漂う警戒の空気。女は強引に話を切り上げ、包みを抱き締めて足早に離れようとした。しかし十歩も行かぬうちにその足取りは泥濘の中のようにのろのろとしたものになった。平気を装ってはいても、やはりあの大荷物は柳腰には重たかたったのだろう。
    「ほら、持とう」
    女は諦めたような顔をして、ありがとうございますと小さく降参の声を上げた。

    女の家は山の上にあるらしい。慣れているというのは本当のようで、ろくに整えられてもいない山道をするすると足音も立てず進んでゆく。ぶら提灯の光がほとんど揺れない。柿色に浮かび上がった女の横顔は、駅の電灯に照らされていた時よりも幾分艶かしく見えた。ちらちらとこちらを窺って歩調を合わせてくれている。躓いて包みを落とされでもしたら困ると思っているのかもしれない。
    「この包み、壺のようだが、何が入っているんだ」
    別段、気になったわけでもなかった。話の種になるかと尋ねてみただけだ。小さな口が動いて、何事か返事を寄越した。しかし丁度その時、強い風が吹いて枝葉がざわめき、女の声を掻き消してしまった。提灯がぐらぐらと揺れ、女は足を止めた。風はすぐに止んだ。女は気にする様子もなく前を向いてまたすいすいと歩き出した。何となく聞き直すことも躊躇われ、黙って追従した。
    しかし不思議な包みである。形と硬い手触りから、風呂敷の中が壺であることは確かであろう。しかし液体の音もしなければ、漬物やらのような匂いもない。勿論、中で猫の仔なんぞが動いているような気配もない。それでも、空ではないのだ。確実に何かが入った壺なのだ。歩を進めるごとに確信がより強くなっていく。明らかに重いのだ。駅前で半ば強引に女から取り上げた時には感じなかったが──それどころか、この程度の荷で足を鈍らせていたのかという細腕のか弱さが微かな興奮とともに印象に残っている──疲れてきたのか、山道を進むごと、ひしひしと重さを増しているようにすら思われた。足の裏が土に沈み込んでいきそうな錯覚。自分から奪い取っておいて音を上げるわけにもいかないが、それにしても。もはや小判でも詰まっていると言われても驚かない──そこまで考えた時だった。

    ────ちゃり

    突然、壺の中から微かな音がした。運ぶうちに中の何かがずれたのか、先刻までうんともすんとも言わなかった壺が一歩ごとにちゃりちゃりと金属質の小さな音を立てるようになった。小判など手に取ったこともなければ音を聞いたこともないが、小判同士が擦れればきっとこんな音が出るに違いないと思われるような、そんな音だった。音に黄金の色がついていた。
    女は音に気づく様子もなく、硝子玉の目で道の先を見ている。送り狼のつもりでついてきたが、これは思わぬ儲け物やもしれぬ。元来た道をちらと振り返れば背後は真暗闇で、もう十分に人里からは離れていることが見て取れた。ちゃり、ちゃり。壺が益々重みを増したような気がする。そればかりかじっとりと人肌の如き温もりまで感じられるかのようだった。呼吸が速くなる。もういいだろう。殺しまではしたくないが、相手の方が山道に慣れているようだし、何よりモノが重い。どうしても足止めは必要だ。ちゃり、ちゃり、ちゃり。歩みを止める。
    「お嬢さん、この包み、────」
    ごう、とまた強風が吹き付けた。山全体が唸るように音を立てた。ぶら提灯が女の手から吹き飛ばされ、中で蝋燭が倒れたのか、ふっと灯りが消えた。落とさぬよう咄嗟に抱え直した包みが、腕の中でがたがたと震え出した。何だと思う間もなく、何かが首にぬたりと巻き付いた。
    「ぎッ……!?」
    猛烈な力で引っ張られる。頭が何か、硬い物にぶつかった。何が起こっているのだ。暗い。何も見えない。ちゃり、あの金属音が耳のすぐそばで鳴った。灯りはまだか。女はどこへ行った。声が出ない。呼吸もままならない。
    「なっ、……がッ、……っ」
    体が折り畳まれていく。本来畳めるようになっていない箇所まで畳まれていく。鼻の先に臍があった。膝が四つに増えていた。ちゃりちゃり、ちゃりちゃり。ふっと遠くに灯りが見えた。女が提灯をつけ直したようだった。早く、早く戻ってきてくれ。おれはどうなっているのだ。なにがどうなったのだ。
    ぼんやりとした灯りが少しずつ近づいてきて、女が身を屈めておれを覗き込んだ。硝子玉の目が提灯の色に光っていた。女は傍に落ちていた蓋を拾うと、俺の上に乗せた。視界は再び闇に包まれた。
    「足しになりましたか」
    女の声が遠くで聞こえた。
    ──量はそれなりに。しかし質は、いやいや文句は言いますまい。可愛いおまえの献身に食わせてもらっている身分なれば。
    やたらと上機嫌な男の声がした。どこから。耳の隣で聞こえたようにも、頭の中から響いてきたようにも思えた。振り向こうにも、もう指の先までみっちりと、型に嵌められてしまったかのように動かすことができなかった。
    「切符、いつお取りになったのですか。段蔵はずっと見ておりましたのに」
    男の声が嗤った。嗤うとまた、ちゃりちゃり、ちゃりちゃり、ちゃりちゃりと、あの小さな音が溢れて、暗闇の中でいつまでも鳴っていた。
    おるすばん
    いつからその壺がそこにあったのか、記憶が定かでない。ここで暮らし始めた時にはもうあったように思う。前の住処でどうだったかはよく覚えていない。物心がつき出す前で、何もかもが曖昧だ。
    とにかくその壺はそこにあった。最小単位の家族が暮らすのに最低限必要な面積の部屋の片隅で、藁編みの円座の上に鎮座していた。持ち物の少ない母の、唯一用途不明な私物。蓋がぴったりと閉じていて、札を貼って開かなくしてある。でも中身はきっと空っぽで、子どもの力でも簡単に持ち上げられる。金品を隠すでも、花を活けるでもなく、何の仕事もせずに壺はただ存在していた。何百年も前からそうしていたかのように、毎日そうしていた。
    見た目はごく普通の、古ぼけた壺だ。しかし実のところ、全く、これっぽっちも、普通の壺ではない。なにしろ生きている壺なのだ。夜行性の、壺なのだ。

    今よりもっと小さい頃から、夜に寝付けないことがよくあった。母が添い寝をしてくれるのだけれど、それでも眠れなくて、困らせてしまうのが分かっていたから、そのうちに狸寝入りを覚えた。目だけ瞑って、耳は起きたまま、そのままずっと、じっとしている。そうして真夜中を過ぎると、聞こえてくるのだ。ことこと、ことん。壺の動く音が。
    ことこと、むずかるようなその音が聞こえると、母は寝床を抜け出して、壺のところへいざり寄る。真っ暗な部屋の中で、灯りもつけず、母はしばらく壺の相手をする。窓あかりに浮かぶのは母の細い背中ばかりで、何をしているのかは見て取れない。ざらざらした音がゆったりとした周期で聞こえることもある。あの音はきっと、壺を撫でてやっている音だと思う。その音を聞いていると不思議とまぶたが重くなって、いつの間にか意識を失っている。朝になると母はもう朝食の支度にかかっていて、壺はぴくりともせずすましているのだ。
    あまり怖いとは思わなかった。あれはそういうもの、というふうに受け止めていた。狸寝入りがバレてしまうといけないから、聞いてみることはしなかったけれど、母も怖がっている様子はないから、別に恐ろしいものではないのだろう。明るいうちは何の変哲もない、本当にただの壺なのだ。夜中になると寂しくなって母を呼ぶ、それだけの壺だった。

    仕事が遅くまでかかるから、ご飯を食べたら自分で布団を敷いて寝るようにと書き置きがあった。一人で夜を過ごすのは初めてだった。少しは成長したと認められたような気がして、誇らしかった。洗濯物を取り込み、シャワーを浴びて、夕食を片付け、宿題も済ませた。卓袱台を寄せて布団を敷いた。母の分もちゃんと敷いた。帰ったらすぐ眠れるようにしてあげたかった。少し考えて、寝間着も出してみた。そうすると早々にやることがなくなってしまって、電気を消していつもより広い布団の上をごろごろ転がるしかなくなった。母の枕からは母の髪の香りがした。正確にいうと、母が髪を乾かすときにつけている化粧品の香りだ。母そのものからは何も匂いはしないのだ。
    母のことをぼんやりと考えた。所作のひとつひとつがとても静かで、ほとんど音を立てずに動く母。匂いのしない母。透き通っていて気配のない母。世界に痕跡を残さない母。もし母がいなくなったら、世間の人はそれに気がつくのだろうか。自分しか気づくことはできないのではないか。もしも、母が帰ってこなかったら? 先生に言っても、警察に言っても、そんな人は知りませんよと言われたら? 一体どうしたらいいのだろう。広すぎる布団の上で、母の枕を抱いて途方に暮れた。初めて、寂しいと思った。早く帰ってきてほしいと思った。でもだめだ、普段ならまだ布団を敷いてもいない時間────

    ────ことん。

    小さな物音。音のした方に顔を向ける。こと、ことこと、かたかた。お湯の沸いたやかんにも似た、微かな音が続く。壺だ。真夜中までにはだいぶ時間があるのに。早く目が覚めてしまったのだろうか。それとも、壺も母がいなくて寂しいのか。あるいは僕が寂しがっているのを感じ取って、一人じゃないよと励ましてくれているのかもしれない。
    母の枕を左腕に抱えたまま、壺のところへ這っていく。ことこと。かたかた。壺は確かに動いていた。そこだけ弱い地震が来ているみたいに、小さく揺れていた。カーテンの隙間から差し込む薄あかりで、壺の輪郭が光っていた。
    母の後ろ姿を思い出しながら、そっと壺に手を当てた。壺はぴたりと動きを止めた。ひんやりしていて、少しざらざらしていた。あの眠気を誘う周期を真似して撫でてやった。ざらざらした音が出た。やっぱり壺を撫でる音だったのだ。ちょっと嬉しくなった。小さい弟をあやしてやるのはこんな気分だろうかと想像しながら、何度も撫でた。
    壺はしばらくの間おとなしくしていた。しかし何分か経つと、再びかたかたと震えた。今度は撫でても止まらなかった。それどころか次第に震えが大きく、ママじゃないとダメなのだと癇癪を起こした赤ん坊みたいに、ごとんごとん、ぐらんぐらんと揺れだした。倒れてしまうと思って両手で横から押さえた。それでもすごい力で身を捩って逃れようとする。僕だから不満なのか。母を探しているのか。ふと膝の隣に落ちている枕が目に入った。母の髪の香りがする枕だ。咄嗟に枕を壺に乗せ、上から押さえつけた。壺はまたぴたりと静止した。反応が早い。壺にも匂いが分かるのだろうか。気味が悪くなってきた。もう小さな弟のようだなどとは思えなかった。壺が静まり返ったので、部屋の中には僕の荒い呼吸の音だけが残った。壺に聞かれたくなくて、弾んだ息を押し殺す。またいつ動きだすかと全神経を壺に集中する。
    壺はもう震えなかった。そのかわり、がりがりと壁をひっかくような嫌な音が枕の下から漏れ始めた。出てこようとしている。空っぽの壺から、何かが──爪のある何かが。ぐい、と枕が押し上げられる。必死で押さえつける。枕越しに、手のひらを押される感触。蓋が浮いてしまっている。封をしていたはずの札は破れてしまったのだろうか。力が、強い。全体重をかけているのに、それでも持ち上げられてしまう。いやだ、出てこないで。見たくない。知りたくない。空っぽの壺の中に、なにがいたのか。
    ひ、と悲鳴になる一歩手前の声が漏れた。
    ──枕の下からぬっと突き出したのは、人間の、大人の男の腕だった。
    手のひらが厚く、指が太く長くて、固そうに伸びた黒い爪は獣のように丸まり、先端が少し削れていた。壺の内側をひっかいていたのだ。壺の中にこれが、確かにいたのだ。とても大人ひとり収まるような大きさではない、あの壺に。この腕一本だって、どうやって入っていたのかわからない。
    手はひたひたと辺りを探るように触れまわり始めた。こちらのことは見えてはいないらしい。じっと息を詰める。枕を放り投げて逃げ出してしまいたいけれど、そうしたら今度は肩より向こうが壺から出てきてしまうかもしれない。そうなるより早くどこかに隠れられるだろうか? トイレの戸は下に隙間がある。浴室は鍵がかからない。ひたひた。ぺたぺた。化け物の手がじわじわこちらに近づいてくる。このままだと足に触られてしまう。足を避けたいのに、体が石になったみたいに動かない。心臓だけがばくばく動き続けている。手が。来る。蛇が鎌首をもたげるように、動かない足に狙いを定めて、黒い爪が持ち上がる。
    それ以上見ていることができなくて、きつく目を瞑った。なぜかまぶただけはちゃんと動いた。けれど、鋭い爪が足首に食い込むことはなかった。かわりに、聞き慣れた細い囁き声が耳に届いた。

    「段蔵は此処におりまする」

    いつの間に帰ってきたのか、母が隣に座っていた。化け物の手に白い指が絡む。母はいつもと変わらぬ静かな所作で枕を持ち上げ、化け物の手を壺の中にそっとしまいこんだ。細い右腕の肘のあたりまでを壺に呑ませて、ゆっくりとかき回しながら、左手で壺をするすると撫でた。壺はもう、うんともすんとも言わなかった。膝の力が抜けて、枕を抱きしめたままその場にへたりこんだ。
    「留守番、御苦労様でございました」
    柔らかな声が聞こえたような、聞こえなかったような。
    ゆったりとした周期のざらざらした音が、パンクしそうな頭を強制的に眠らせていく。目を覚ましたらいつも通りの朝で、母が朝食の支度をしていて、自分はきっと何もかも忘れてしまっているのだと、なぜだかはっきりと理解できた。
    遠ざかっていく意識の中で、この音は海の音に似ているのだとぼんやり思った。ざぶざぶと洗われていく感覚が心地よく、何も考えられなくなって、母の香りの枕に顔を埋めた。

    ハイジロー Link Message Mute
    2024/06/20 15:33:36

    百足の夢/壺法師巷談

    #Fate/GrandOrder #リン段 #金こた #ホラー #怪談 #現パロ #蘆屋道満(Fate) #加藤段蔵(Fate) #風魔小太郎(Fate) #坂田金時(Fate) #キャスター・リンボ

    pixivからサルベージしたリン段(ちょっぴり金こた)の詰め合わせです。全体的にほんのりホラー風味です。

    一.百足の夢
    リンボをドラム缶に詰めて焼く話です。
    小太郎くんと金時先輩が怖い目にあいます。現パロです。

    二.ちゃりちゃり
    リンボが壺に封じられています。
    モブが怖い目にあいます。明治時代くらいのイメージです。

    三.おるすばん
    リンボが壺に封じられています。
    小太郎くん(小3)が怖い目にあいます。現パロです。

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    • 現パロしょたなかくんまとめ① #Fate/GrandOrder #武新 #ショタ #年齢操作 #疑似家族
      しょたなかくん(小1)と保護者の武先と家が燃える岡田の話です!
      かわいそうなことが一切なく、安心してお読みいただけます。
      ※最後のページのみ、しょたなかくんと同じ道場に通うモブ女児視点の話です。
      武新ワンドロ・ワンライ企画へ投稿した4本と、お年賀おみくじSSの9本をまとめました。
      かきおろし3本を追加して本にしました! → https://haijiro.booth.pm/items/5030566
      ハイジロー
    • 明ノブlog①現パロ・全年齢 #Fate/GrandOrder #明ノブ #明智光秀(Fate) #織田信長(Fate) #現パロ #首絞め
      pixivから避難してきた明ノブ現パロ全年齢SS詰め合わせです。2020~2021年の作品です。

      一.この魂に、憐れみを
       …初めて書いた明ノブ 冬木教会で告解をする話
      二.Friday,25:00
       …同棲!イチャイチャ!一緒にお風呂!
      三.祈り
       …合意の首絞めプレイ
      四.明ノブ三景
       …モブ視点で見た短い明ノブ3本立て
      五.クリスマス、それは胃もたれ
       …真面目な顔してビキニサンタと生クリームプレイを!?
      六.はじめての年越し
       …こたつイチャイチャ
      七.二度目の年越し
       …低血圧で朝がクソザコの明智光秀
      八.Pのおしごと
       …アイドルイベの予告だけで興奮して書いた、アイドルノッブとPのミ
      ハイジロー
    • 明ノブ&鬼ノブlog 生前軸&カルデア #Fate/GrandOrder #明ノブ #鬼ノブ #明智光秀(Fate) #織田信長(Fate) #森長可(Fate) #蘆屋道満(Fate) #暴力 #死ネタ
      pixivから避難してきた生前軸&カルデア軸SS詰め合わせです。2020~2021年の作品です。
      明ノブと鬼ノブが含まれますが、全部デキてない話です。デキてなくても接吻くらいはするノッブです。

      一.叡山にて(明ノブ)
       …さくさくノッブ後記の読書感想文
      二.天正十年 夢十夜(明ノブ)
       …本能寺直前期の明智が見た夢10連発の夢十夜パロ。殺人描写あり
      三.藪の中(明ノブ)
       …本能寺後、小栗栖での明智が”汚れた聖杯”を手に入れる話
      四.本能閣、オープン前夜(明ノブ)
       …2021年アイドルイベに登場した、何か燃えてる旅館の話
      五.森可成の次男の初陣(鬼ノブ)
       …生前、鬼ノブの芽生え おねショタ…?
      六.そしたらまた褒めてくれ(鬼ノブ)
       …5周年広告の手筒花火が良すぎて書いた感想文
      ハイジロー
    • 現パロしょたなかくんまとめ② #Fate/GrandOrder #武新 #ショタ #年齢操作 #疑似家族
      しょたなかくん(小2)と保護者の武先と事故物件住みの岡田の話です!
      かわいそうなことが一切なく、安心してお読みいただけます。
      武新ワンドロ・ワンライ企画へ投稿したものが多いですが、勝手に書いたものも一部あります。

      しょたなかくんまとめ本②が出ました! → https://haijiro.booth.pm/items/5128251
      まとめ本②では、ここにまとめた話の他に、
      ワンライに投稿した「雨」「海」の短編にそれぞれ加筆したものと、
      短い書き下ろし(岡田が職質される話)を収録しています。
      ハイジロー
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