百足の夢/壺法師巷談百足の夢
一
頼まれ事は断れない、というより断らないのが、坂田金時という男のポリシーだった。
常日頃より可愛がっている後輩の頼みともなれば尚の事である。迎えに来てほしいという電話を受けた七分後には、後輩の分のヘルメットもしっかり持って、自慢のモンスターマシンを団地の前に乗り付けていた。夜なので、音には気をつけた。団地には赤ん坊だって住んでいるのだ。
ついたぜ、のワン切りをして、ヌリカベみたいにそびえ立つ団地を見上げしばし待つ。手持ち無沙汰になり、小遣いを貯めて買ったライダースジャケットのポケットを探る。ハイチュウが二粒出てきた。一つは後輩にやることにしてもう一つを口に放り込む。グレープだった。
ハイチュウを二粒ポケットに入れていた過去の自分に対して、なかなかやるジャン?と満足していた金時は、階段を降りてきた後輩を見て少し戸惑った。彼がハイチュウの配当のないもう一人の人物を背負っていたからだ。小柄な後輩に覆い被さるようにして運ばれているのはおそらく大人の男で、意識がないのか、足を引きずられているのに無反応だった。引きずられた足が段差を落ちるたび、ちりん、と小さな鈴の音がどこか遠くで鳴った。
重たげな足取りで一段ずつ階段を降りてきた小太郎に思わず駆け寄ると、バイクのライトに照らされた猫みたいにぎゅっと固まった。
「……すみません、先輩、金時先輩しか、僕、いなくて」
男にしては長すぎる前髪の下に、意外に鋭く光る目が隠れていることは知っているけれど、今その目がどこを見ているのかは金時には分からなかった。
「ちょっと、この……これを、お山に、埋めに行きたくて」
これ、というのが何を指すのかも、すぐには分からなかった。小太郎の出で立ちをとっくりと見て、彼が背中の男を除いては全くの手ぶらであることを確認し、そんじゃあこの男のことなのかよお、と消去法でようやく理解する。 改めて見るとかなりの大男のようで、引きずられている足はほとんど膝が地につきそうになっていた。自分も相当に体格に恵まれた方だが、立ち上がればあるいは見上げるほどの身の丈があるのかもしれない。
誰なんだよソイツ、と聞くまでもなく、何となく察しはついた。最近たまに話に出てきていた、お袋さんの彼氏ってのがコイツなんだろう。変な男だとは聞いていたが、今となっては変なのかどうかもよく分からなかった。異様な長駆とぞろりと流れる長髪だけでも、変わっていると言えばその通りなのだが。
「…………死んじゃったのかよォ」
「…………死んじゃいました」
後輩は変にスカスカした声でそう言うと、居心地悪そうに身じろぎをした。背中の男が少し、ずり下がって、またちりんと鈴の音がした。
◆
小太郎が行きたがったのは寺の裏山だった。そんな近くでいいのか、とも思ったが、朝までに帰らねばならないことを考えると、どのみちあまり遠くまでは行けない。金時の母は毎朝六時きっかりに起きてくるのだ。それまでは幼児のように熟睡して、何をしたって目を覚まさないのだけれど。
幸いなことに、移動中に人とエンカウントすることはなかった。築四十年以上が経つここらの団地は空き部屋が増え、残る住人の多くも高齢で、夜が早いのだ。自慢のマシンとテクニックは初めての三人乗りを難なくやってのけたが、人に見られたら確実に怪しまれていただろう。クルマは母が使うもので、自分にはバイクがあればいいと思っていたけれど、誕生日が来たら大型二輪より先に普通免許を取った方がいいかもしれないと金時は考えを改めた。これほど切実にトランクを必要とする機会は二度とないような気もするが。
バイクを停めて山へ入る。ハイキングコースともいえないような申し訳程度の山道を外れ、獣道を行く。夏にはカブトムシも獲れるスポットだが、冷え込み始めたこの時期にこの山に入る人間は自分達くらいのものだろう。スマホのライトで足元を照らしながら進む。がさがさと草を踏み分ける音に混じって、時折背後から微かな鈴の音がする。ストラップか何かなのだろうか。ちりちりという音が耳に届くたび、死んだ人間が何か喋りかけようとしているかのようで気味が悪く、どこから出ている音なのかはっきりさせたいような、知りたくないような嫌な気持ちになった。いっそ自分が運べば気にならないかもしれないと、代わろうと何度も提案したが、頑固な後輩は首を横に振るばかりだった。仕方なしに、そっちをお願いしますと渡された灯油入りのペットボトルをわざとちゃぽちゃぽ言わせて歩いた。
しばらく進むと、少し開けた場所に出る。小太郎と秘密基地代わりに使っている場所だ。夜に来たのは初めてだった。木立が切れて夜空が見える。地上には知らない男の死体があって、今から燃やされるというのに、空は澄みきって星がたくさん浮かんでいた。
不法投棄のボロっちいドラム缶に通気孔を開け、男を押し込んだ。首にはくっきりと太い紐の跡が
百足のように張り付いているのに、苦しんだようには見えない、安らかな顔をしていた。整った顔立ちだ。まるで眠っているだけのような、を通り越して、本当は起きていると言われた方がしっくりくるような、いつ目を開けて驚かせてやろうかと笑いを堪えているようにさえ見える顔だった。それでも息はしてないし、心臓も動いていなかった。
灯油をぶっかけて、火をつけた木の枝を何本か投げ込むと、ドラム缶は元気に燃えだした。小太郎が持ち出したのは夏に花火をやった時に買ったライターだった。お前まだそれ持ってたのかよ、と言うと、またやりたかったのでと蚊の鳴くような声で答えた。花火よかだいぶ豪快な様子の火を眺めながら、またやろうじゃんと頭を撫でた。
もうもうと煙が上がる。ぱち、と木の枝のはぜる音がする。灯油臭に混じって、焼き肉の焼けるにおいがうっすら漂ってきた。どれくらいで焼き終わるもんなんだろうかと不安が頭をもたげた頃、ちょうど同じことを考えていたらしき小太郎が口を開いた。
「あの、いろいろありがとうございました。後は一人でもできると思うので、帰ってくださって大丈夫です」
礼儀正しい後輩は、そう言って卒業式みたいな角度で頭を下げた。スマホを見ると日付が変わっていた。確かに良い子は帰って寝た方がいいんだろうが、二つも年下の弟分を夜の山に一人で置いて帰るなんてことはできるわけがない。死体を焼いている最中ともなれば尚更だ。
「そりゃないぜ小太郎。帰りも一緒に来てくれよ」
わざと乱雑な動作で地べたに座り込む。ポケットを探ると、ハイチュウが一粒だけ出てきた。おずおずと隣に腰を下ろした弟分に手渡す。礼を言うばかりで一向に食べようとしないので、取り返して個包装を剥き、無理やり口を開かせて放り込んだ。普段は見えない八重歯がちらりと覗いた。
◆
隣から小さなくしゃみが聞こえた。もっとくっつこうぜと呼ぶと、膝を抱えたままにじにじと尻を動かして肩をつけてきた。寒い時は火の方を向いてないで背中を火で温めるのがいいって、ガキの頃一瞬だけ入ってたボーイスカウトで習った気もするが、あの火に背を向けるのは何となく嫌な感じがした。細っちい体を捕まえて、あぐらをかいた膝の上に抱え込み、背中と尻が冷えないようにする。小さい生き物はフクロウにでも攫われたみたいに身を固くしていたが、この方があったけえじゃん、湯たんぽになってくれよと頼むと少し柔らかくなった。この方があったかいです、と言って薄く笑った。
炎はまだゆらゆらと揺れていた。鼻は慣れてしまって、もうあまり臭いとは思わなかった。ただ時たま風向きのいたずらで煙が流れてきて、その時だけは煙たかった。
ふわりとハイチュウグレープの香りがした。小太郎が手を擦り合わせて息を吹きかけていた。手、冷てえの。ひとまわり大きい手で挟んでやる。手袋貸してやってもいいが、オープンフィンガーだからあんまり意味ないかもしれない。こね回して、手の温度を分け合って同じにする。腹に抱えた湯たんぽがいい感じにぬくいせいか、そうこうしているうちにさすがに少しばかり眠たくなってきて、冷たい赤毛の頭に額をぶつける。髪からは嗅ぎ慣れない、どこか違う国の線香みたいなにおいがした。意識の糸がほつれていく────
────ちりん、
腕の中の湯たんぽがびくりと跳ねた。聞こえたのが自分だけでないということは、寝ぼけて聞いた幻聴の類ではないらしい。どくどくと一気に心拍数を上げたのは自分の心臓か、小太郎の心臓か。
ざあっと急な風が吹いて、炎が激しく揺らめき、端がちぎれて、それからふっと消えてしまった。ドラム缶の上に立つ炎が風で消えたとしても、下に開けた穴からは赤い
熾火が見えるはずなのに、それすらも見えなくなり真っ暗闇に包まれる。オレの手をぎちぎち掴んでいるこの手は小太郎の手でいいんだよな? それを確かめるための声が出せない。小太郎も息を殺して何の音も出さない。たぶん二人とも同じことを考えている────またあの鈴の音が鳴るんじゃないか。
凍りついたままでどれくらい時間が経ったろう。暗闇に目が慣れ、星明かりだけで周囲がある程度確認できるようになった。風の音、葉の擦れ合う音、遠くフクロウか何かの鳴き声。鈴の音は聞こえなかった。何となく、もう大丈夫なんじゃないかと思った。口に出してしまうとその瞬間に鳴りそうで、言葉にはしなかったけれど。
それよりも、ドラム缶の中が気になった。火葬場みたいに骨だけになったりはしないだろうが、とりあえず服と面の皮までは燃えて身元の割れない焼死体になっていてほしかった。そうでなければもう一度火を付け直した方がいい。中途半端に焼けた死体がどうなっているかは想像したくもなかったが、もちろん完全にこんがり焼けてりゃ見たいってわけでは全くないが、確認しないわけにもいかない。小太郎、と声をかける。口の中がひどく渇いていて声がかすれた。はい、と返った声もかすれていた。
スマホのライトをつける。ほんの少し痺れた足で立ち上がる。一歩ずつ、前へ踏み出すたびに嫌な予感が膨らんでいく。だって、ライトの先に。照らす先に。ほんの五歩。心の準備をするのには全く足りない距離だった。手袋の中にズルズルに汗が溜まっている。小太郎が腕を掴んだ。掴んでくれなかったらこっちが掴んでいただろう。
真っ直ぐな光で照らし出されたドラム缶の底には、焚き付けに投げた小枝が転がっているだけだった。
二
生まれて初めて無断外泊をした。
体は痛いし疲れているのにとても眠れなくて、二人でずっとマリカーをやっていた。日が昇ってから、あたかも早起きをしてひっそり遊びに出たかのような雰囲気のメッセージを母には送った。金時先輩のお母さんはちょっとどうかしている量の朝ごはんを出してくれた。うちと同じ二人家族なのに五倍くらいお米を炊いていそうな気がする。
お腹がぱんぱんになると、すごく眠くなってしまって、金時先輩の部屋に戻って二人で眠った。目が覚めると昼過ぎだった。何だか全部、悪い夢だったような気がした。母に送ったメッセージは既読になっていて、かわいいのかどうかよくわからないキャラクターのスタンプが返ってきている。先輩はまだぐっすり眠っていて起きそうにない。眠たいのに夜通し付き合ってくれたのだと思うと、申し訳なかった。
足音を立てないように部屋を出て、居間を通り抜け、玄関を後にした。先輩のお母さんが作っておいてくれた炒飯の山が気になったけれど、先輩はきっと一人で何とかできるだろう。
表はよく晴れて空が高かった。木枯しが木の葉を巻き上げていた。ポケットに手を突っ込んで、家まで二十分少々の距離をふらふら歩いた。暖かくて、途中で上着を脱いだ。団地の中の公園では半袖の小学生も遊んでいた。もう絶対に昨夜のことは夢だったんだと思って、なんて最悪な夢を見ているんだろうとちょっと笑ってしまった。せっかく夢を見るなら、もっと良い思いをしたらいいのに。上手いことあいつの息の根を止められたところまでは、ある意味、良い夢だったかもしれないけれど。
階段にも日が差し込んでいた。ベランダが東向きだから階段は西向きなのだ。四階まで上ると少し汗ばむくらいだった。鍵を回す。古ぼけて端のメッキがところどころ剥がれた鉄の扉が、かすかに軋んで開く。この数ヶ月でついた癖で、まずは狭い
三和土を見る。見慣れた母の小さな靴の他に、あいつの靴がないかどうか、確認するために。
あった。田舎暮らしの子供の目にはセンスが良いのか悪いのか見当もつかない、他所であまり見かけない形をした大きな靴────しかし服飾にこだわる奴らしくもなく、どういうわけか両方の爪先にひどく擦れた傷がある。なぜだか山道でも散策してきたかのように真新しい泥がへばりついている。思わず自分の履いているスニーカーに目をやる。全く同じような、いや、あの大きな靴よりも少し乾いた泥汚れが両足に、ついている。
全身の血液が逆流し始める。足が震える。心臓の音がうるさい。奥の部屋から談笑する声──母の声はいつも控えめなので、ほとんど男が一人で喋っているような声──が聞こえる。手のひらを何か大きな虫が這ったような感覚がして、とっさに振り払う。それでも気持ちの悪い感触が消えなくて、広げて目視する。
ちりん、と鈴の音が、耳の中で鳴った。
両手のひらの真ん中に、百足のように張り付いている赤い跡は、夢の中で力の限り引っ張った炬燵のコードと同じ太さだった。