明ノブlog①現パロ・全年齢この魂に、憐れみを
骨張った、男にしては細い指だけが小窓から覗いていた。己の罪について少しでも吐き出しやすいよう、告解に訪れた者の顔は神父から見えないようになっている。子羊と神父を隔てる壁には、写真や手紙などをやりとりできる小窓が控えめに口を開けているだけで、声のほかにはそこから見える情報が全てだった。
男は長く沈黙していた。珍しいことではない。男性信者には自らを語る言葉を探すことに慣れていない者が多いということを、神父は長年の経験から理解していた。とりわけ、具体的に刑法に触れるような過去を語ろうとしている者はいつも口が重かった。
「────私は」
沈黙に耐えきれなくなったかのように男が口を開いた。傘もささずに雨の夜道を歩いてきた人間のような、湿った声だった。
神父にはその声だけで、これから始まる懺悔の種類の見当がつく。ヒトが誰かに吐露せずにはいられないほど思い詰め、それでいて誰にも言えないような罪というのは、そうそう多岐に渡るものではないのだ。
「私は、人を……これはもう、ずっと昔の話なのですが、人を、…………してしまったことがあるのです」
昔、とはどれくらいの昔だろう。男の年齢はよく分からなかった。足音から足腰の弱っている感じはしなかったが、樹枝を思わせる手指は年寄りのもののように見えなくもない。
「うまく言えないのですが、……お慕い申し上げていたのだと思います。人格者というわけでは決してないのですが、どうにも抗い難い魅力で人を虜にしてしまうお方だったのです。あ、いや、その、魅力というのは性的な意味ではなく……いえ、違うのです、性的な意味でも、……失敬。忘れていただきたい」
男は神経質そうに指を組み直していたかと思うと、自傷癖の一種なのだろうか、手の甲を抓ったりもした。神父は穏やかに続きを促した。
「兎も角、そのお方の命は、私の手によって潰えたのです」
男は言葉を切り、こちらの反応を待っているようだった。そうでしたか、とだけ神父は言葉を返した。どのような悪であれこの部屋で否定されることはない。人を殺したという懺悔も初めてではない。誰に話すでもないが神父自身も人を手にかけた経験はあり、殺人の吐露に動揺することは全くないが、そのことについて懺悔したいと考える人々は、己の罪について自分とは違う向き合い方をしているのだなといつも思う。神父は殺しを懺悔したいと思ったことは一度たりともなかった。或いは、全てを知った上で神父を赦す者が神の他に既に在るためかもしれないが。
「世間は勝手な憶測を散々言い立てたようです。酒席での無体に対する怨恨だの、地位に目が眩んでだの、中には黒幕が他にあると陰謀論を妄想する者まで、よくもまあこじつけたものだと思います。私のことなど、あのお方のことなど、何も知らぬくせに。赤の他人どうしの間にあったやりとりなどに何故それほど興味を持てるのかとんと理解できませぬ。……いえ、しかし、そのような理由であれば、赤の他人の想像の及ぶような経緯であれば、むしろその方が良かったのかもしれませぬ」
男の息が少し荒くなり、拳を握った手に筋が浮き上がった。それでは、どのような理由がおありだったのでしょう。神父はこれからいわゆる痴情のもつれというジャンルに分類される陳腐な話を聞かされるであろうことを察知し少々うんざりしつつ、しかしそれを男に気取られぬよう優しく言葉を繋げた。
「…………分からぬのです」
饒舌だった男は急に言葉に詰まり、神父の予想を裏切る答えを述べた。
「今なら、と思ったところまでは憶えておるのです。魔が差したまでもいかぬ、単なる事実の確認でした。今なら、今私が動けば、あのお方の命を好きにできるのだな、と。しかし、実際そうしたいなどとは決して、思っても見なかった。思っても見なかったのに…………次の瞬間、頬に火の粉が当たって我に返ったのです。その時には全てが終わっていた。私の全てが目の前で燃えていた。わけがわからぬのに自分がやったことだという事実だけは認識できる。確かにこうなるように体を動かしたという記憶だけはある。それなのに何を考えていたのかは全く残っておらぬのです……いや、全くというのも違う。申し訳ないが、尾籠な話をしても構いませんか?」
構わないと答えると、男は唾を飲み込み、また手の甲を抓りたそうに爪を這わせながら適切な言葉を探しているようだった。
「あのお方の在り方を具象化したかのような、烈しい、美しい炎を眺めながら、その、下着の中を汚してしまっておりました。血気盛んな若武者が戦場でそのようになる場合があるとはいいますが、私は若くも、血の滾るような性質でもなかったのですが。腰の抜けそうな量で…………失敬。つまり、私は確かに、興奮していたのです。あれほどにお慕い申し上げていた方を、こう、そのようなことは思いつきもしませんでしたが、無理矢理に体を奪うというのでもなく……同じく命を捨てる算段で臨めばそれとて不可能ではなかった筈ですが、そうはせず、光と熱と黒い小さな骸に変えてしまうことを選んで、そうして腹の底が抜けるほどの悦びを得たのです。どうしてそんなことをしたのかは分からなくとも、結果として私が悦びを得たという事実だけは動かぬのです」
抓りあげられている手の甲がいよいよ白くなる。主はあなたをお赦しになると伝えるのが神父の仕事であったが、今回については果たしてその言葉に意味があるのか疑問であった。この男はおそらくカトリックではない。男にとっての神は既に、彼自身の手によって光と熱と骸に変わってしまっている。
「────自分が恐ろしいのです。今再び、私は、『そうできる』のです。あの時よりも簡単に『できる』。お慕い申し上げるお方のすぐそばに私がいる。身の周りのことを私に任せてくださるのです。私のお出しする食事を何の疑いもなく召し上がる。私の前で無防備に眠り込まれる。どんなに叫んでも誰へも届かぬ場所へお連れすることも容易い。二度とそのようなことはしたくないのに、二度とせぬとは言いきれぬのです。夢に見て飛び起きることもあります。そういう日は決まって、また下着を汚している。いい歳をして。あれほどの過ちを犯しておいて、私の魂は何も変わっておらぬのです。いっそ離れられたらと何度も考えるのですが、できぬのです、私は…………畢竟、私は、私のことが一番可愛いのかもしれませぬ。一度握り込んだ掌をどうにも開けぬのです。先の破滅に怯えながらも、私の人生からあのお方を手放すことにも、耐えられぬのです……」
男は息を詰まらせた。神父は息を吐いた。小窓から見えていた手は張りのあるジャケットの肘に変わっていた。当初の予想に反してなかなか聞き応えのある、愉快な話であった。
心が落ち着くとよく評される低音で、神父は丁寧に、告白の勇気を讃え彼の負う重荷を労った。そんなにも悔いておられるのだから今度こそ大丈夫だと、何の根拠もない肯定を差し伸べた。主はもうあなたをお赦しになっています。次はあなたがご自身を赦してさしあげる番ですよ。
硬く凝った筋肉を揉み解す按摩師のように、神父は的確な言葉を使って男の深層を甘く慰撫することができた。果たしてそれが男の望むことだったかどうかは別にして。
暫くして呼吸が整うと、男は信者と同じようにきちんと祈りを捧げ、神父に礼を言って立ち去った。手の甲に赤く残った爪の痕が最後に見えた。勿論、最後まで互いの顔が見えることもなく、年の頃も判然としないままだった。
二ヶ月後、新進気鋭のロックスターを殺害したとしてセンセーショナルに新聞に取り上げられた男の顔に、言峰綺礼は何の興味もなければ、見覚えもなかった。綺礼はコーヒーを飲み終えると新聞を畳み、礼拝堂の大きな鍵を取り、朝のミサの支度に向かった。よく晴れた気持ちのいい朝だった。
Friday,25:00
救急指定病院の辞書に華金の文字はない。世間一般の傾向なのか職場の立地が良くないのか自分の引きが悪いせいなのかは定かではないが、金曜の夜間救急は体感で月〜木曜の倍近く混み合う。今夜も帰り際に俄に立て込み前線に駆り出され、随分と遅くなってしまった。家に着く頃にはとっくに土曜になっている。しかし以前の自分であればこの程度の残業は物の数でもなかったな、と思い返し、自身の変化に奇妙な感慨を覚える。家で待つひとがいる。それだけでこうも家路を辿る足が早まるとは。
もうお休みになられただろうか。マンションの窓々の明かりは既に半分以上が欠けている。何とはなしに下から数えて自室の階を見上げる。角から二番目の部屋はまだ煌々と光っていた。どうやらお休みになる前に帰り着けたようだという嬉しさが一割、また不用心にカーテンも閉めずに──地上から室内は見えないとはいえ、向かいの建物から覗かれないとも限らないのに──という頭痛が九割の息を吐いた時、ベランダに何か、動くものが見えたような気がした。足を止め、目を凝らす。部屋からの明かりで逆光になっているものの、確かに人影だ。またゆらりと動いた不審な影はしかし、部屋の中を覗くわけでなく、むしろ外に乗り出しこちらを見ているようでさえあった。さらに目を凝らす。身を乗り出したままの人影がぴょこぴょこと跳ね、するりと長い髪が手摺りの外に流れ落ちた。
────どうやら不審者ではなかったらしい。
人影の正体を理解した途端、不安の種類が変わり、手摺りを越えての落下への惧れが急速に湧き上がる。光秀はほとんど小走りの勢いで再び足を動かし始め、人影が芝居がかった仕草でキスを投げたのを見事に受け取り損ねた。
「陽が落ちたらカーテンを……っ、いや、今、その格好で……? リラックスするなとは申しませんが、せめてベランダに出る時くらいは下着の上に何か、」
「まあまあ駆けつけ一杯」
申し上げる事柄が多すぎて帰宅早々言葉が渋滞を起こした光秀に、締めのデザート感覚で飲んでいたのだろう、限りなく空に近い低アルコール飲料の缶がちゃぷりと下賜される。習い性から恭しく両手で拝領してしまったそれを半口で空けてキッチンのシンクに放り込む。それから洗面所で手を洗い、ようやくベランダのカーテンを閉めることができた。
「お風呂にする? 入浴する? そ♡れ♡と♡も♡行水?」
「……お一人でそんなに飲まれたのですか?」
「寂しかったが?」
「っ、それは、申し訳ありませんでしたが……あの、入浴しますので」
「やはりな。全て計算通りよ」
上機嫌の赤ら顔は腕組みをして洗面台に凭れかかり、脱衣所から出ていく気配がない。無理に追い出すことも憚られ、抵抗はあるが今更少々肌を見せたところで無礼もなかろうと自分に言い聞かせ、外で着ていた服を触られる前に洗濯機に入れてしまうことを優先する。浴室に逃げ込み掛け湯をし、手早く、しかし丁寧に体を洗い始める。急ぐのは幸か不幸かこの後に待ち受ける事態の予測がついてしまうからだ。
信長公はかなりの風呂好きのようで、日に二度湯を使うことも珍しくない──特に同居人が浴室に向かうのを見てしまうと、ご自身が一番風呂を使った後であってもつられて入り直したくなる癖があるらしい、というのが光秀がこの数ヶ月で獲得した見識だった。それがあまりに頻回で目の遣り場に困るため、せめてもの抵抗として濁り湯の入浴剤を取り揃えたほどだ。
急いだ甲斐あって、磨り硝子の戸が勢いよく開け放たれた時には既に光秀は脳天から足の先までを一通り流し終え、湯船に体を沈めたところだった。
「待たせたな! わしじゃ!」
案の定、見慣れた形の良い足が濡れた床へずかずかと押し入ってくる。白く伸びた脛の上、皮膚の薄い膝のあたりが毛細血管の拡張によって赤く染まっていた。浴槽の縁にかかった、こちらもまた幾分赤みがかった手指を押し留める。
「危ないので体を慣らしてからにしてください」
「ほう、カラダを」
「湯温に、です」
努めて目の焦点を合わせないようにしながら、足先から順に手桶でややぬるめの湯を浴びせていく。しばらくは素直にされるがまま受け入れてくださっていたが、腰のあたりで飽きてしまったらしく、もう慣れた!のよく通る一声とともにざぶりと派手な湯飛沫が上がる。髪をかき上げ顔を拭うと、にんまりと細まる一対の真紅がそこにあった。距離を詰めてくるそれに思わず、開いたばかりの瞼を閉じる。こつ、と微熱の額が、次いで鼻先が当たる。酒気を多分に含んだ甘ったるい呼気が鼻腔に忍び込む。しかし構えた唇には何も触れることはなく、再び波の立つ音がして脚の間に滑らかな肌が滑り込んだのが分かった。
「ふふん、奪われると思ったな?」
胸を背凭れ代わりに、長い髪を纏めた頭が肩に乗る。頸の温度が高い。囁く唇が頬を掠め、よしよしと犬猫の類にするように反対側の下顎角を撫でられる。奪う-奪われるという言葉でこの関係を考えたことはなかったが、そう表現されてしまうと自分があまりに奥手に、行為を望んでいない風に思われているようで情けなく、何やら胸につかえた。酔っ払いの言葉遊びだと理解していたとしてもだ。
「……そのようには、」
「良い良い。それより、わしの体を見て何か言うことは?」
ぱちゃぱちゃと機嫌よく爪先を水面に出しながら問われる。何か、と言われても先程は膝から上に視線をやらぬよう自重していたし、今は煙幕の役割を兼ねた入浴剤のおかげで足先と胸元のごく浅くしか視認できない。その僅かな面積の肌を見て気づくことといったら、
「……ここ、蚊に喰われてしまっているようですが、また虫除けを焚かずにベランダに」
「ちがーう! そんなサイゼの間違い探しみたいな出題せんわ! さては貴様なーんも見とらんかったな?」
スペシャルヒントな、と浴槽の縁に置いていた手を湯に引き摺り込まれる。柔らかな腹部の皮膚に掌が押しつけられる。両の手で背後から抱き竦めるような姿勢になり、自分だけが感じてしまっているのだろう気恥ずかしさに頬の内側を噛んだ。しかし戯れはそれだけでは終わらなかった。
「もそっと下じゃ」
掴まれたままの手が下へと滑らされる。はずみで指先があらぬ部分へ潜り込んでしまわぬよう浮かしておくことに気を取られ、その差異に最初は気付けなかった。水着も着るしな、と言葉を重ねられてなお、掌の小さな違和感とその正体に思い至るまではさらに数秒を要した。
「……………………ご自分で?」
あるべきものがそこになかった。とはいえもともとそこにあったのは産毛の延長のような、ほわほわとした頼りない飾り毛でしかなく、あろうとなかろうと少なくとも掌にとってはさしたる違いではなかった。視覚として目で見ればまた、違った感想を持つのかもしれないが────目で見た様を、この目で見ている自分自身を想像してしまい、軽い目眩に襲われた。
「お、やりたかったか? 残念だったな♡」
「ッ、いえ、そうではなく……っ」
首の後ろへ白蛇のように手が回り、熱を持った唇が口を塞ぎにやってくる。やはり奪われるというよりも与えられるといった方が実態に沿っているように感じられた。肩越しの、少し無理のある口付けは深くはならず、じゃれるような接触と笑いを孕んだ息継ぎとを繰り返す。水音だけが耳につく緩慢な時間が流れる。手持ち無沙汰な指先が無意識につるつると無毛の場所を撫で回していることに気づき、丹念に煮蕩かされるような、全身の感覚を持っていかれるような濃密な接吻に慣らされてしまっている自分を唐突に自覚した。浅ましさに胃が冷たくなり、不埒な手をこっそりと臍のあたりまで引き上げた。
いつの間にやら随分と首を曲げ、小さな顔の上に覆い被さるようにしてまで啄みやすいよう唇も舌も差し出していた。そうしなければ続かない体勢だった。されているのかしているのかもはや判然としないなかで細い喉が開き、ふあ、と甘い空気の塊が押し出されてくる。同時に光秀の後頭部を撫でていた手がずり下がり、とぷんと湯に沈んだ。
「……信長公?」
少し間があって聞こえた胡乱な返事は、隣の星から届いたかと思われるほど遠かった。思い出したように擦れ合う唇も散漫で、眠りの淵に足を取られるどころか首まで浸かってしまっているのが明らかだった。乳白色の湯にずるずると沈んで溶け出してしまいそうな体を、鳩尾に回した腕で繋ぎ留める。
「……そろそろ上がられますか」
色めいた時間は湯気に変わって儚く天井に消えていく。いっそ不敬ではないかと思われるほどそのことに未練はなく、どこかで安堵してさえいた。脱力する体を掬い上げると、何の躊躇いもなく身を委ねてくる。あと少し堪えて、お拭きする間だけはご自身で立っていてください、とお願いすると、蕩けた唇でふにゃふにゃと笑った。
眠気を押して遅くまで帰りを待っていてくださったのだと思うと、申し訳なさの反面、一条の嬉しさも感じてしまう。何やら自分が特別な寵愛を受けているかのような、分不相応な自惚れまでも滲み出しそうで、腕の中の滑る肌をしっかりと抱え直した。
祈り
真夜中の瀞の如く滔々と流れる黒髪の中、眩いばかりの白い喉はいつも目立ちすぎていた。
ひとたびそれが目に入ってしまえば、振り払っても振り払っても胸の奥に灯った昏い炎が消えることはない。炎はじりじりと何日もかけて胸を焦がし、やがて理性を焼き切ってしまう。冷水をかぶってみたり、物理的に距離を置いてみたり、自慰をしてみたりと無駄な抵抗を何度重ねたか知れないが、結果はいつも同じ───ふと我に帰ると掌中にあの白い喉が収まっていて、泡を食って手を離し、激しく咳き込む肩を呆然と眺める───だった。猫が鼠を狩るように、草木が太陽へと伸びるように、意志の力ではどうすることもできない、宿命のようなものが光秀の中に織り込まれているとしか思えなかった。
───もう是非もないし、むしろ溜め込まず小出しに絞めてったらどうじゃ? 溜めすぎたせいでうっかりマジに殺されても寝覚めが悪いし。って覚めんか。うははは!
幾度目かの暴走の後、床に額を擦り付けながら自身の内に起こっていることを吐き出した光秀に、ぐるりと赤い輪の巻きついた白い喉はそう言って笑い、また咳き込んだ。底抜けに深い器量と、己を律することができない不甲斐なさとで鼻の奥がツンと痛んだ。光秀が信長公を苦しませたいわけでも、ましてや再び命を奪いたいわけでもないのだということを信じて下さっている。自分が手綱を握っておけば万事問題無しという自信、相手に何も期待しない優しさ。ぬるい湯のような寛容に半身を浸され涙しながら、光秀は同時、そういうところなのだと呟く心に蓋をした。
◆
片手でも指がほとんど回りきってしまいそうな細首を、祈るように両手で包む。明確に意識を保ったままここに触れるのは初めてだった。総身のどこに触れてもしっとりと吸い付くような手触りをしてはいるが、この部分は特にそれが顕著で、指がずぶずぶと沈み込んでいきそうな錯覚さえ覚える。とくとくと温かい、小動物のように儚い拍動が伝わってくる。自分から始めたことだというのに既に気分が悪い。全身がその行為を拒んでいるのに手首から先だけがこの後どうすれば満たされるのかを知っていて、まるで別の生き物のようだった。
「もう終わりか?」
手の中が蠢き、急所に手をかけられているとは思えない、光秀よりもよほど余裕のある声が問う。何度も頷く。この先に進みたくなかった。この先を見るのが恐ろしかった。命令してもらえればきっとこの手を剥がせる───命令されなければ剥がせないのだろうか。力を込めたがる十本の指を、そうさせず押し留めるのが関の山なのだろうか?
「そんなわけあるか。だらしない奴め」
剥がせないままの左右の手の上、柔らかな掌がそれぞれ重なったかと思うと、躊躇いなく内側に向けて圧力をかけてきた。ひ、と上擦った息を漏らしたのは自分の唇だった。押された手指が馬鹿正直に白い喉へめり込んでいく。
「ふ、……っ、…………」
花の唇は薄笑いの形を作ったまま沈黙した。肯定されるべきでない行為を肯定されている、そのことが嬉しいでも悔しいでもない嵐のような感情を呼び起こしているがそれが何なのか分からない。ただでさえ細い首が、左右の手の間でじわじわと押し潰されていく。親指と人差し指の間の薄い膜はこのために存在していたのかと思うほど心地好く喉頭の丸みに密着した。少しずつ速くなっていく脈拍は、力を込めれば込めるだけ強く掌を押し返して応えてくれる。
生命が、ただ生きようとする純粋な意志そのものが、この掌中にすっぽりと収まっている。他でもない信長公の生命が。その事実に脳髄が痺れたようになり、吐気も恐怖も霧散していく。いつの間にやら馬乗りに伸し掛かって両の手に更に体重をかけようとしていて、普段の自分であれば天地がひっくり返ってもそのような畏れ多い体勢にはならない筈なのに、わけのわからぬ昂揚で何も気にならない。構うものか。全ては私の手の中にあるのだから。何もかも私が終わらせることができるのだから。それこそが私の存在価値、私がこの生を得た意味なのだから。
苦悶に寄せられた眉、重たげに濡れた睫毛、滲んだ朝焼けの瞳。目元の薄い皮膚に鬱血が始まり、美しい紅色が見る間に燃え広がっていく。途方もない興奮が背を駆け抜けた、その時───がくりと首が引き下ろされた。
「ッ……⁉︎」
ネクタイを掴まれたのだと理解すると同時、下唇に噛み付かれて鋭い痛みに手が緩む。指先から頭の芯までが急速に冷えていく。
「───満足できたか?」
「………………っ」
どくどくと心臓が口から溢れそうに迫り上がっている。全身を支配していた狂気が去り、抜け殻になった手足は死人のように重かった。掌に異常な量の発汗があることに気づく。こんな手で触れたのでは不快な思いをさせてしまったに違いない、まで反射的に考え、それ以前の問題があまりに大きいことに眩暈を覚えた。
「いい顔しとったぞ」
「…………冷やす物、お持ちします」
「ん」
再びネクタイを引かれ、今度は下唇の出血を吸われた。まるで犬の散歩のような扱いに、いっそ本当に首輪を付けて重い鎖で繋いでおいてほしいとさえ思う。触れる唇や鼻先が冷たいのは軽いチアノーゼを起こしていたせいだろうか。温かい飲物でも用意しようか、それとも皮下出血の冷却のためには避けるべきだろうか。直視しがたい自身の暗部から逃避するために、人の世話を焼くことばかりを考える。
固く絞ったタオルと保冷剤で内出血を冷やす。見るからに物騒な首の手形も酷く泣き腫らしたかのような目周りの赤みも、一秒でも早く元の透き通る白に戻るべきだと思う。その一方で、なるべく長くこのままの色でいてほしいとも祈らずにはいられない。残した痕跡が目に入り続けているうちは、再びこの狼藉を繰り返したいとは思わずにいられるだろうから。
難儀な奴よなぁ、と歌うように呟いた唇にはもう、花の色が戻りつつある。
明ノブ三景
一.空港にて
到着口に男が一人立っている。
顔立ちから東洋人のようだが背丈は低くない。荷物も少ないし、佇まいに隙がないから観光客ではないのかもしれない。次の便が着くまでにはまだ少しあるはずだが、だいぶ前からそこに立って、たびたび腕時計を確認しながらペーパーバックらしきものを読んでいる。たびたび、というか、かなり頻繁に時間を気にしている。ちらちらと到着口の奥を覗いたりもし始めた。ページは全く進んでいない。男はとうとう本を閉じ、レザーのボディバッグにしまい込み、代わりにスマートフォンを取り出した。しばし画面に向かったかと思えば、また落ち着きなく顔を上げる。ちょうどその時、到着口の向こうに人影が見え始めた。男と同じ東洋人らしき人々がばらばらと、そして徐々にぞろぞろと、それぞれ同じようなスーツケースを転がしてやって来る。人を迎えに来たのだろう男は、待ち人を探して奥の通路へと目を眇める。
「!」
瞬間、男の表情が変わる。待ち人を見つけたのだろう。嬉しそうというより、肩の荷が降りたような、心底ほっとしたという顔だ。そのくせことさら手を振って自分の位置を知らせるようなことはしたくないようで、人の流れの邪魔にならない場所に立ち、ひとつ息をついてからはもう何事もなかったかのような面持ちでただその人だけを見つめて待っていた。
目深にかぶった帽子からつややかな黒髪を長く垂らした娘が一人、歩いてくる。連れもないのに、異国の地に単身降り立った少女とは思えぬ女王のような堂々たる足取りで、小さなキャリーケースを引いて突き進む。ハイスクールに上がるかどうかの年頃にしか見えないが、見た目よりも歳を重ねているのかもしれない。黄色人種の年齢はよくわからない。小さな顔に比べてかなり大ぶりなサングラスの奥、くっきりとしたアーモンドアイが輝く。歩調が早まる。つかつかと見惚れるような凛々しい足捌きは、しかしあの男の前でぴたりと止まった。
「お疲れ様です、機内ではお休みになれましたか」
「ホテルのベッドにいたお前より寝た自信がある」
「それは結構です……何か羽織る物は? 日本より大分冷えます」
「あー、言っとったな。忘れた」
彼等の国の言葉で何事か囁きあって、男が手に提げていた紙袋から薄手の上着を取り出すと、少女は笑いながら袖を通した。ステッカーを貼り付けすぎて地の色がほとんど見えていない小さなキャリーケースを男が引き取り、からからと歩き出す。顔色のよくない、地味な服装の男が引くにはそのキャリーケースはアンバランスで奇妙だったが、軽い足取りで隣を歩く少女の存在があまりに目立つので気にならない。二人はどのような関係なのだろう。親子、でもなさそうだし、カップルにしては手も取らない。少女は打ち解けた雰囲気でいるが男はどこか気を張って、せっかく現れた可憐な待ち人を愛でることもなく周囲ばかり見ている。こちらと目が合った。お前の視線には気づいているぞとばかりサムライのような目つきで睨みつけられる。見ていただけじゃないか、手を出しゃあしない。ああわかった、彼はおそらくボディーガードの類なのだろう。隙のなさにも納得がいく。
ロビーを抜けていく風変わりな二人を見送る。自動ドアが開くと風が吹き込み、長い黒髪が生き物のようにぶわりと浮き上がった。けらけらと笑う声がする。よく笑う娘だ。ボディーガードの男はやっと娘に顔を向けた。さっきのサムライの眼光と同じ人間とは思えない、穏やかな、甘い目をしていた。
二.マシンジムにて
クローズ前、21時台のしっとりしたジムフロアが一番好きだ。利用者はまばらで、プログラムもない時間だから交流好きのお客様は来なくて、一人でもくもくと体を動かすのが好きな客層が多い。トラブルもないし皆さん慣れていて何も聞かれないから、締め後の清掃に向けてフライングでマシンを拭いたりしているだけで良くて、気が楽。だからいつもシフト希望は遅番で出す。締めた後、清掃が早く終わればマシン使わせてもらえるし。
明智さんもこの客層だ。誰とも会話せず毎回一人で完結する。でも普通の利用者とは違って、一回の来館で一種類のマシンしか使わない。時間いっぱいまで一種類のトレーニングを鬼気迫る様子でやり込み続ける。明らかにオーバーワーク気味で、筋肉をつける効率としても無駄が多いし、終盤は負荷が高すぎて事故るんじゃないかとヒヤヒヤすることもある。一度も怪我したり倒れたりされたことはないから、彼なりに自分の限界を把握しているのかもしれないけれど、ちょっと異様だ。それとなくPOPでトレーニング時間の目安とか効果の出方とか掲示してみたんだけど変わらなかった。たぶん、ボディメイクをしたいんじゃなくてひたすら体を追い込みたい人なんだと思う。よく知らないけど、滝に打たれる修行僧の現代版みたいなイメージ。悟りを開きたいのかもしれない。トレッドミルやバイクを使う日も、せっかくスマホスタンドがあるのに動画も音楽も流さず虚無を見つめながら長い脚をハイペースで動かしている。要するに変わった人なのだ。
最近、そんな明智さんの来館頻度が落ちていた。以前は週3、4回は見かけたのに、週1来るかどうか。仕事が忙しいのだろうか。ジムは朝から開いてるから、違う時間に来てるのかもしれないけど、バイトだから入館記録見れないし、そこまで気にする筋合いでもない。今日は今週初めてのご来館だ。異様なトレーニング風景がクセになるのと利用後のマシンを異常にキレイにしてから帰ってくれるという二点で、明智さんは個人的に来てくれて嬉しい客ランキングの上位に食い込んでいる。ちなみに一位は芹沢のおじさま。過去にちょっといろいろあり、あの人が来館するとどんな厄介客もサーッと帰るようになったので、バックヤードではバルサンに掛けてバル沢さんと呼ばれている。あとたまに店長にゃナイショだぞって学生バイトにだけお菓子くれる。
今日の明智さんは背中をいじめたい気分のようで、ラットプルダウンを延々と続けていた。バーを引くたびに肩甲骨が狭まり、胸が突き出す。崩れのないきれいなフォームだ。顔は険しいけど。しかしフロアを巡回して戻って来ると、あることに気づいた。
────乳首が浮いている。
さっきまでなかったはずの突起が二点、黒いウェアを押し上げて、バーが近づくたびに存在を主張している。乳首の浮いてるお客様自体は別に珍しくはない。なんならバル沢さんもよく浮いてる。太めの人や胸板の厚い人はウェアがぴったりしがちだから浮きやすいし、大胸筋を鍛えると乳首も鍛えられるのか何なのか体の仕上がっている人ほど乳首が目立つ法則があり、ギラついた筋肉オタクおじさんだとむしろ乳首を見せつけるように闊歩している人もいる。でも明智さんはウェアのサイズが小さいわけでも、最近大胸筋が急成長しているわけでもない。そもそも来館減ってるし。それより何より、そういうキャラじゃない。マシン利用前に必ずくまなくアルコール拭きをする程度には潔癖症で、いつも身嗜みに隙のない明智さんの浮き乳首は、他のお客様の浮き乳首とは違って何というか見てはいけないものを見てしまっているような気がして気が咎めた。怖い先生が休日に家族とニコニコ出かけていっぱい荷物持たされてるのを見てしまったみたいな。あんまり仲良くない子がポケットから落とした生理用品みたいな。
明智さんとはバイトを始めた頃からの長い付き合いだけれど、こんなことは今までなかった。自分でも修行の世界に入っちゃってて気づいてないんじゃなかろうか。日に焼けていない筋ばった腕が伸びて、曲がって、止まって、また伸びる。意外と厚さのある胸がぐっと反って、つんとした乳首が持ち上がる。良くないとは思うんだけど目が離せない。きっとこういうの人に見られたくないタイプだろうに、広背筋いじめに没頭している明智さんはあまりに無防備だ。それにしてもどうして急にあんなに目立つようになったんだろう。来館ペースが落ちたのと何か関係あるんだろうか。仕事が忙しくなると乳首が大きくなったりするのかな。……どんな仕事?
明智さんはいつも通り、きっちり閉館5分前まで修行にのめり込んでいた。最後まで乳首はがっつり浮いていた。
締め作業を巻きで終わらせた後、マシンで遊ぶのを我慢して、売店の陳列をこっそりいじった。明智さんが毎回ルーチンで買うプロテイン入りエナジーゼリーの隣に枠を空けて、ランナー向けの乳首擦れ防止ニップレスを持ってきた。こういう商品があるということを教えてあげなくては、という謎の職業意識が燃えていた。次の来館時、明智さんはきっと気づいてくれるだろう。あの眉間にシワの寄った難しそうな顔でしげしげと眺めてくれるだろう。あいにくフロント担当じゃないから、どんな顔してレジに持ってきてくれるのか、自分の目で見られないのがちょっと心残りではあるけれど。
三.地下鉄にて
ホームで目をつけたのはすらりとした長身の男だった。もう少し肉のついている方が触りがいはあるのだが、神経質な性格が窺える隅々まで手入れの行き届いた服装とプライドの高そうな目つきは大変好みだ。何より、女を連れている。大抵の男はそうだが、中でもああいうタイプは必ず、女の前で去勢を張る。平静を崩されているところを見られてしまうのを何より嫌うのだ。うってつけの獲物の出現に胸を躍らせながら、迷わず男の後について車輌に乗り込んだ。
いつも通りの混雑具合。男はごく自然な様子で連れをドア横の角に誘導し、他の誰にも触れさせまいとばかりに自らの体で壁を作り、女のためのささやかな空間を確保した。健気なことだ。今まさに不埒な輩に狙われているのが自分の方だとは思ってもみないのだろう。口角が上がってしまいそうになる。マスクが当たり前になって良かった。標的の表情を隅々まで観察できないのは、少し物足りないところではあるが。
列車が走り出す。揺れに乗じて距離を詰めると香水らしきスモーキーな、苦味の中にほんの少しの甘さを感じる香りが慎ましやかに鼻先へ届いた。まずは手の甲から、不可抗力を装って大腿部へ押し当てる。反応はない。そのまま位置の高い尻までをさすり上げてみる。違和感を持ったのか足を半歩ずらしたものの、こちらを気にかける様子はない。いける。手を返し、身長に比して肉付きが薄いために少し余裕のあるスラックスに指を這わせる。尻たぶの可愛い段差を軽く持ち上げてやると、ぐっと力が入って肉が硬くなった。
振り返るか、とドアガラスに映る横顔に目を走らせる。しかし男は背後ではなく正面の女を気にしているようで、隠れて見えない女の手元をそれとなく確認しようとしているらしかった。……普段からこういう悪戯をする女なのだろうか。むらむらと加虐欲求が湧き上がり、大きく広げた手で右尻を鷲掴みにする。さすがに女の手ではないと理解したのだろう、ぎくりと体が強張る。谷間に指を押し込みながら狭い尻をいやらしく捏ねほぐす。気の毒な彼の胸中を想像する。身を竦ませるのは何をしでかすか分からぬ狂人への恐怖か、赤の他人からあからさまな性欲を向けられることへの嫌悪感か、それとも今まさに自分が汚されているという認めがたい事実を連れに悟られたくない一心なのか。生唾を飲み込む。汗でもかいているのか、香水の匂いが少し変わったような気がする。手ごたえには欠けそうな体だと思ったが、触ってみれば決して貧相でもなく、コンパクトに締まった感触は悪くない。興奮に膨張したモノを押し付けるには腰の高さが合わないのが惜しいところだが、この際腿にでも────
「おい」
ぎち、と掴まれたのは小指だった。
心拍が跳ね上がる。柔くて小さな手の中指には、仕立ての良いスーツを着込んだ彼の趣味には沿わなそうな、いかついリングが鎮座していた。さして力が強いわけでもないのに振り払えない。下手を踏めば指が折れるどころでは済まない、という気配がひたひたと伝わってきて、蛇に睨まれた蛙の喩えはまさしく今の状況にこそ相応しいなと他人事のように思考が飛んだ。
「降りて話すぞ」
改めて見れば随分と若い小娘だ。そのくせ、あのなりで一体どこから出しているのか、地を這うが如き重い声。どうか穏便に、と掠れ声で口走ったのは自分ではなく、先刻まで身を強張らせていた──今も強張らせているように見える──男だった。血の色をした瞳が、貴様も貴様じゃ、黙って堪える奴があるかと男をひと睨みする。小指を握る拳に明らかな怒りが籠められる。
開いたドアから有無を言わさず押し出されながら、どう考えても穏便に済みそうもない道行きを、ようやく冷えてきた頭が理解した。
クリスマス、それは胃もたれ
浴槽の湯を抜き軽く掃除をして、髪を拭きながら部屋へ戻ると、そこに待ち受ける人物の服装も変わっていた。
「おっ、来おったな。メリークリスマス!」
服装、というより、ほとんど裸に近かった。チープな赤の地に白いファーがあしらわれたビキニスタイルの上下に、半端な丈の赤いマントを羽織っているだけ。伸びやかな脚も、柔らかく窪んだ臍も何にも守られず剥き出しになっているのに、首元にだけは何故かふわふわとした白い綿雲が巻き付いている。雪の国からやってくるという原典の設定を潔く無視した防寒性能の低さ。この季節そこかしこで見かける三角帽子を被っていなければ、何の仮装かすら分からないだろう。
「……寒くはありませんか?」
「言うと思ったが、寒くない。まあ座れ」
エアコンの設定温度を二度上げる。照明を絞った居間で、テーブルの小さなツリーがちかちか瞬く。うきうきと給仕されたマグにはホットワインが湯気を立てていた。シナモンの香りが鼻を擽る。口をつけてみると度数は高くなく、オレンジジュースか何かで割ったものだと分かった。じんわりと体の温まる感覚ーー目で感じる寒さを相殺するほどのものではなかったが。
「さ、ケーキの時間だな♡」
冷蔵庫で出番を待っている洋生菓子の話でないことは明らかだった。細い腕が首に絡む。体に馴染んだしなやかな重量が膝に乗ってくるのを落としてしまわないよう片手で支えながら、まだ半分残っているホットワインをローテーブルに避難させた。
留めたばかりのボタンが、容赦なく上から順に外されていく。こういう時、どうせ脱ぐことになるのならお手を煩わせず自分で外した方がいいかと思わなくもないのだが、そこで積極的な姿勢を見せることにどうも踏み切れず、結局されるがままに任せてしまう。表情を盗み見る限りでは、それなりに作業を楽しんでおられるようなので、それを言い訳に自分の手は細い腰に添えたままになる。
冬物の肌着がずるりと捲り上げられる。かたかたと何かを振る音がする。物音の方に目をやると、どこから取り出したものやら見慣れないヘアスプレーのような缶が握られていた。何の説明もないまま、剥き出された胸へ赤い缶が近づいてくる。何を、と口に出すより早く、プシュッと空気の抜ける音がして、
「ッーー!?」
「おおー♡ 出た出た♡」
もこもことした冷たい何かが左胸に盛り上がる。缶に書かれた『ホイップ』の文字をかろうじて視認した。味見味見とはしゃいだ声が白いクリームにしゃぶりつく。乳性の甘い香り。柔らかな唇の感触。冷たいクリームを刮げ取っていく舌が温かく、その温度差に背筋がざわつく。分厚いクリームに隠れていた乳頭を探り当てられる。毛繕いでもするように丹念に舐め取られ、息が震える。ほどなくしてクリームの小山は消え失せ、ひんやりと濡れた皮膚だけが残った。
「うまいなこれ、濃厚な輸入カロリーの味がする」
「…………お鼻に、クリームが」
お拭きしようとティッシュボックスに伸ばしかけた手は、しかし届くことなく道半ばで捕らえられてしまった。
「味見していいぞ」
滴るような真紅の双眸が機嫌良く細る。捕らえられた手に指が絡まる。雪化粧を載せた鼻先がぐいと顔に寄り、睫毛の一本一本まで数えられそうな至近距離で静止する。
せめてそのきらきらと光る瞳に蓋をしていてくださったら、少しは胸が楽だろうに。
濡れた鼻先が大きく息を吸い込んで、シナモンの匂いがする、と笑った。
はじめての年越し
殺風景だったリビングルームに物が増え続けた一年の締めに相応しいといえば相応し いのかもしれない。毎年欠かさず一族の集まる地方の旧家であるらしい実家から、今年ば かりは帰るなと言い渡された令嬢が、電話を切ったその指で注文した小ぶりな炬燵。 早く 言ってくれたら紅白も断らんかったのになあ、という嘆息は芸能に疎い光秀には愚痴なの か冗談なのか測りかねたが、早く言ってくれたら自分の方の仕事を多少調整しただろうな とは思った。お帰りになるものと聞いていたので、例年通り年末年始はフルで出勤を入れ てしまっていた。帰宅して見るたびに炬燵の周囲に物資が集まり、お籠りに最適化された 要塞が築かれていくのを、植物の観察でもするような気分で光秀は見守り続けた。
人をだめにするという巨大なビーズクッションと炬燵布団とで形成された巣穴に招待さ れたのは何日目だったろう。いえ私はこちらで、と昨日までと同じように向かい側の座布 団に座ろうとするもまあまあと手を引かれ、光秀にとっては少々狭い隙間に押し込まれる。 クッションが背を包むように密着し、心地よく体重を逃す。 温まった炬燵が足を炙る。居 心地はどうだとばかりにんまり見下ろす巣穴の主。しかしこれでは信長公の場所が、と体 を起こそうとすると、炬燵がずるりと遠ざけられた。広がった隙間に巣穴の主が潜り込ん でくる。脚の間に小さな尻が収まり、胸へと無防備に頭を預け、光秀の両手を拾い上げる 自分の腹の上に置いた。
「どうじゃ、だめになれそうか?」
巡り巡ってこれほど甘い誘惑を齎すのならば病禍も悪さばかりではない一瞬でもそ う思ってしまった時点で、もう十分に光秀はだめになっていた。
二度目の年越し
新年初めざめ。せまくてかたい腕のなか。明け方の気温がぐっと下がったせいなのか、それとも絆レベルがどっかで上限突破したのか知らんが、最近まれによくあるこの現象。転がり込んだばかりの頃は頑なに別室で寝ようとしていたくせに。寝室ギリギリサイズのベッドを新調してやってここで寝ろと厳命してからの数ヶ月もずっと真ん中の国境線を守り通していたくせに。実に無駄な抵抗だったな。折り目正しく神経質な性根に似合わず朝にクソ弱く寝汚いお前は気付いとらんだろうが、これで三回目になるぞ。畏れ多くもこのわしを、夢うつつに抱え込んで冷え込む朝の湯たんぽがわりにするという、不遜な所業。重たい頭でいくら葛藤しようと、体はわし(の体温)を求めとるんじゃよね。手なんか服の下に這い込んどるからな。冷えるんじゃろな、末端が。
「あけおめ〜」
背中から抱えられとったので、もそもそと体を捻って対面姿勢に持っていく。カーテンを貫通して入り込んだ微かな朝の光が寝室をやわく照らしている。新年早々、顔色が半紙じゃな。あ、顎の下ヒゲ生えとる。抜いてやろ。
「う゛……」
哀れっぽいカスカス声が呻く。顔を背け、あくまで夢の世界へ逃避しようとするのを追いかけて腹に馬乗りになる。くしゃくしゃの髪をかき上げて額を出してやる。迷惑そうに寄った眉の間に深い皺が刻まれる。年季の入ったこの皺、お年玉でも挟んだろか。
「あーけーおーめー」
肉がない分つまみやすい頬を捏ね回しながらもう一度ーーまあ寝る前にも言ったから三度目になるがーー言い含めると、この上なく大儀そうに瞼が薄く開き、なけなしの唾を飲み込んで喉が動いてから、地獄の底から響いてくるような声が返ってきた。
「……あけまして、おめでとうございます…………」
「こんなめでたくないことある?って風情じゃがな」
マジで心底なにひとつめでたくなさそうな面持ちが、しぱしぱと瞬きを繰り返す。寝起きは末端のみならず脳の血行まで滞りがちらしい。乾いた唇が弱々しく動き出すには、さらに数秒のロード時間を要した。
「……こちらからは、相当にめでたい景色が見えておりますが」
骨張った手が重たげに動いて、寝巻きの裾を直す。
なんか初お世話してやったみたいな感じ出しとるけど、それさっきまでお前が手突っ込んでたせいで捲れとったんじゃが。まあ初めざめの景色がめでたかったならそれに越したことはないか。今年も家臣に優しいわしなのであった。めでたしめでたし。
Pのおしごと
うちのプロデューサーは仕事用の鞄を二つ持っている。どうも勝負用とそうでないのを奴の中で使い分けとるらしい。消毒用アルコールジェルが外側にぶら下がっていないのが勝負用だ。そっちの日はスーツの内ポケットからジェルが出てくるので、少々ぬくい。悪くない。
手指の消毒が済むと、ハンドクリームが出てくる。ドラッグストアで見かける無香料の色気のないチューブ。自分のやたらデカい手の必要量を基準にしているのか、何度言ってもちょっと多く出してくる。多すぎる時はデカい手を捕まえてなすりつけてやる。そうすると次からしばらくは適量が支給されるようになる。が、徐々に戻る。
どっちの鞄でも中身は変わらない。ドキュメントファイル、タブレット、手帳、財布、折り畳み傘、ペットボトルの水、ハンドクリームと除菌シートとマスクケースが二つと、あとポーチがいくつか。購入者の八割がメイクセット入れてそうな黒い広口ポーチには爪切りとか目薬とか絆創膏、それのイロチでグレーの方はモバイルバッテリーやらイヤホンやらがこまごまと収まっている。一等出番の多い、トラベル用っぽいナイロンのフラットポーチには甘い物が常に何種類かストックされている。小腹が空いた時、手持ち無沙汰な時、せびるとすぐ出てくる。せびらなくともわりと出てくる。毎度わしのツボを心得たラインナップがご用意されとるが、うっかりチョイスを褒めるとそればっかり入れてくるようになるので油断ならん。一月近くバナナチップ無限湧きしたことある。孫の好物永遠に作るばあさんか?
そんなポーチ群の中に、ちょっと浮き気味のやつがいる。ひとつだけ洒落気のある革製の小さいやつ。出番の少ない、というか使われているところを見たことがない、謎に包まれた不遇のポーチ。そいつが日の目を見る瞬間が急にやってきた、今。日の目というか、まあ、夜なんじゃが。経費で(っていつも言うけど本当に経費かは知らん、経費ってそんなバカスカ湧くもんか?)ガッツリ肉焼いて、食って、店出て、ジェル消毒とハンドクリームの流れを一通りやらされたとこなんじゃが。
「お使いになりますか」
出てきたのは面白くも何ともない携帯用の消臭スプレーだった。見ていると光秀は手の中に隠れそうなサイズのボトルをかたかたと振り、手慣れた様子でジャケットにぷしゅぷしゅやって、軽く払って袖を通した。少し考えてキャップを脱いで渡してみると、丁寧に裏表に吹き付けてひらひらと振ってから返された。うっすらミントっぽい匂いになっていた。
「髪にも使える?」
「使えません。髪ならウェットシートで拭うだけでかなり取れますが、そうしますか?」
「ほーん……まあ帰って風呂入るし、要らんかな……」
「そもそもキューティクルにしっかり守られている頭髪は臭いが吸着しにくいそうですので、気にされるほどでもないかと」
なるほど、わしのシルキー&キューティクルヘアがそんなところで役に立つとはな。キャップを被り直しながら、もういいですかと引っ込むスプレーを何とはなしに目で追う。例のポーチが出てくる。まさか消臭スプレーだけのためにこのポーチを使っているとも思えず、どういうカテゴリの小物が仕舞われているのだろうと覗き込んでみる。
「……何、ミッチー、喫うの?」
店の灯りに照らされた柿色の手元に見えたのは、鈍く光るライターと煙草の箱だった。
意外だった。それなりに長い付き合いだが、それらしい様子を感じたことは一度もなかった。ちょっと一服、なんて喫煙所に消えていくところを見たこともなければ、煙の匂いを漂わせていたこともない。あ、だから消臭スプレーなのか。それにしても、ヒトの体調管理にはあんなにうるさいくせして、自分はコソコソそんなもんキメとんのか? おっさんか? まあおっさんなんじゃが……。
「……そう、好んで喫うわけでもありませんが。役に立つ場面がそれなりにあるので」
「ほほう、んじゃわしも試してみるか」
「職種が違いますから。車へ」
伸ばした指の五センチ先で音を立ててファスナーが閉じる。鞄を素早く反対側の手に持ち替え、光秀はいつにも増して早足で駐車場へと歩き出した。何じゃその反応。何か誤魔化したいフシでもあるのか? 恥ずかしいのか? 俄然楽しくなってきて小走りで追う。何か知らんけど此奴の眉間の皺はなんぼあっても良いからな。プロデューサーを振り回してやるのもアイドルの仕事のうちみたいなとこあるし。え、ない?
「一本だけ! 先っちょだけでいいから!」
「駄目です」
「何事も経験じゃろ?」
「百害あって一利なしです」
「ワンチャン、声に深みが出るやも」
「今のお声が十分魅力的です」
「くれなくてもコンビニで買うし?」
「身分証確認があります」
「なんでー! ケチ!」
「何とでも」
取り付く島もない。此奴がこうなったら梃子でも引っ繰り返らんのよね。別にそこまで煙草なんぞに執着があるでもないが、こうも頑なに拒まれると何が何でも出し抜いてやりたくなる。口ではあれこれと騒ぎつつ、頭では別の策を練り、車まで戻る頃には完璧な作戦を組み上げていた。さすがわし。
「よしわかった、そんなに言うならわしは喫わん」
はあ、私が言わずとも当面は違法ですのでお忘れなきよう、と少しほっとしたような声が降って助手席のドアが開く。
「代わりにミッチーが喫うとこ、見して♡」
乗り込む前に振り返り、ドア越し、にかーっと蕩けるような悪い顔で笑ってみせる。暗いから光源考えてキャップも脱いだ。話逸らすのが目に見えとるからマスクはつけたままじゃが、貴様なら脳内補完余裕じゃろ? 計算通り、街灯背負った逆光の中、Lサイズのマスクの下で表情筋が活発に(当社比)動く。目元の皺が深くなる。じっと見守ること2秒、視線がふいと左に逸れて、声を聞く前に勝利を確信した。
「…………窓は開けないでくださいね」
はーい、とここ数年で一番よいこのお返事をして助手席に体を滑り込ませる。外では縦に長い影が心細げに辺りを見回し、十分な明るさのあるパーキングの看板下に陣を構えたようだった。見えますかと律儀なLINEが入る。少し遠いが、近すぎても首から上が見切れるしな。一歩右、とだけどうでもいい指示を返すと、素直に一歩右にずれた。何じゃこれ楽しいな。
GOを出すとまずポケットからハンカチが出てきた。外したマスクをそいつで包み、一旦鞄にイン。それからやっと例のポーチが出てくる。鞄を邪魔そうに手首に掛け、ポーチを開けてちまちまと中身を取り出していたかと思うと、左手が口元に行った。次いで右手。何の音も聞こえないまま火がついて、赤い点が浮かび上がる。赤い光は強くなってまた弱くなって、顔から離れた。細い煙が薄く開いた唇からしゅるしゅる出て行く。煙の上った先にP印の看板が燦然と輝いている。原色のP看板の真下にくたびれた様子のPが佇んでいる絵ヅラが何とも味わい深く、取り敢えずカメラを起動してみたものの、フラッシュがガラスに反射してろくに写らなかった。
彩度の低い方のPは、大して美味くもなさそうな顔で二、三度ばかり煙草越しの空気を吸い込んでは吐き出した後、携帯灰皿の中に赤い点を押し込んだ。さっき使ったばかりの消臭スプレーを取り出し、片手でそれを振りながら車までつかつかと戻ってきて、それから運転席の横でぷしゅぷしゅやっているようだった。P看板の下で堂々とやってくれば良さそうなものだが、見られていると思うとやりづらいのだろうか。
身繕いが終わるとようやくドアが開き、うっすらミントっぽい匂いと共に疲れた顔の男が乗り込んでくる。開口一番のコメントは「写真、人に見せないでくださいね」だった。
「何じゃ、何か不都合でもあるのか?」
「本来、灰皿のない場所での喫煙はモラルに反しますので」
「真面目じゃのー……まあ上手く撮れんかったんじゃが。ほれ」
カメラロールを表示したスマホを、計算尽くの雑な角度で手渡す。そっちに神経が行っている隙に、死角からもう一方の手でネクタイを掴む。
「!? 何をッ……」
ぐいと引き寄せ、邪魔なマスクをずり下ろし、答えの代わりに歯がぶつかった。落とした音はしなかったから、突然のハプニングにも負けず健気にスマホ持っててくれとるらしい。口の中の空気が何となく苦い。スモーキーと表現すると美味そうにも思えるが、そんなに良い感じでもない。歯の裏はさほど味がしなくて、舌の表面はやや苦味が強かった。手綱を引っ張っている手を掴まれる。時間切れか。早かったな。最後に薄い唇をべろっと舐めてみると、そこが一番ケムリの味がした。
「あんまり美味いもんでもないな」
ネクタイを放してやり、固まり気味の手からスマホを回収し、シートベルトを装着する。朝から十五時間拘束の末に唇まで奪われた哀れなプロデューサーは、ハンドルの上に重ねた両手に額を押し付けてここ数分の辛い記憶を抹消していたが、しばらくするとおもむろに鞄をごそごそやり始めた。馴染みのポーチからガムが出てくる。手のひらに転がされた一粒を口に放り込む。じゅわりとシトラスミントの酸味が広がり、苦味の記憶を押し流していく。
「怒らんでいいのか?」
「これで満足していただけたのなら、不都合はありませんので」
エンジンがかかる。勝負用の鞄を後部座席に放り込んで、光秀はもうミラーを見ている。プロデューサーって大変な仕事じゃな、人権なくて……。もっと稼がせてやらんとな。左の奥歯でガムを噛みながら、ほんのり決意を新たにする。
何せ、顔くっつけたらジョリってしたからな。脱毛行けるくらいには稼がせて休ませてやらんと、このつるすべやわやわアイドル肌が擦り切れかねんので。