Adamas 7 その日。
いつものように書類をたずさえスクアーロがオルテンシアの執務室を訪ねると、彼女とその副官はいつになく忙しない様子だった。スクアーロの入室をちらりと視線で認めたきり、応対するそぶりもなく。
なにか緊急事態だと察したものの、口を挟むような真似はしない。彼女らの抱える案件はスクアーロにとって管轄違いだ。口出ししたところで邪魔にしかならないと弁えていた。大人しく応接用のソファに座り、事態の静観を決め込む。
オルテンシアが指示を飛ばし、副官のエドがそれを受けて若干の焦り見せながら携帯端末の向こうの相手と通話を交わし、また指示を仰ぐ。そんな光景をしばらく眺めていたところ、通話が済んだらしくエドが勢いよく立ち上がり、慌ただしく部屋を出て行った。
「っじゃあ僕は行ってくるから! きみは誰か適当な奴に車出させて!」
そうして、開けっぱなしの扉の向こうから荒っぽい足音が聞こえなくなったころ。扉を閉めてから、スクアーロの対面のソファに深々と腰を下ろしたオルテンシアが、はぁ、とため息をついた。
「どうしたぁ?」
「部下のミスで不測の事態が起きまして……。わたしかエドでなければ対処できないものなのですが、わたしはこのあと用事があるので彼を出向かせました」
答える様子はいつものように感情が薄いかおだが、声音には若干の疲れがにじみ出ているのをスクアーロは察する。
副官のエドか部隊長のオルテンシアが出向かなければならない事態なのであれば、相当に大ごとなのだろう。後方支援部隊の仕事に口を出せないスクアーロにどうこうすることはできないが、副官が出向いたのならば何とかするはずだ。彼はオルテンシアの忠実にして優秀な副官。そこはスクアーロも評価している。
――それよりも気になることが、ひとつ。
「用事ってのは、その格好が関係あんのかぁ?」
スクアーロはオルテンシアを、――というよりも彼女の服装を眺める。
「ええ。注文したものが完成したと、連絡が来たので取りに行くのですが。隊服ではいささか味気ないと思いまして」
オルテンシアの格好はいつもの隊服のワイシャツと黒のズボンではなく、上品なシルエットのワンピースにジャケットを羽織った姿。一見すると街中を歩いていても違和感がない格好だ。
……以前にも似たようなことを感じたような気がする、と記憶を探っていると。
「気が付きました? 君とルッスが買ってくれたものですよ」
スクアーロの視線に気付き、オルテンシアが感情の薄いかおを少しほころばせた。着ているものも相まって、そのさまはただの娘のようだ。とてもではないが、常に三台のPCモニタそれぞれで異なる案件の処理を行っているような、ヴァリアーの後方支援任務を統括する立場の人間には見えない。
「なかなか慣れませんね。こういう服は久しぶりなものですから」
ワンピースをつまむ姿はその印象をいっそう強くさせる。だからだろうか、スクアーロの口から言葉がするりとこぼれ落ちていた。
「似合ってると思うぜぇ」
ぱちくり、と。
一瞬の間を置いてから。オルテンシアの感情の薄いかおが崩れ、目が真ん丸に見開かれた。
「……驚きました。君の口からそんな言葉が出てくるなんて」
しみじみと呟かれた内容にスクアーロは憮然と返す。
「一体オレをなんだと思っていやがんだぁ」
「スクアーロ、ですかね」
「答えになってねぇぞぉ」
「ふふ。ということで来てくれたところすみませんが、わたしは誰かに車を出してもらわなければ――」
「オレでいいじゃねえかぁ」
「え?」
オルテンシアが再び目を丸くした。ぱち、ぱち、と何度も瞬きをする挙動は普段よりも幼くすら見える。今日はよく表情が崩れる日だ、とスクアーロは内心、ごちる。珍しいこともあるものだ。――もしかすると服装のせいだろうか。
常日頃の、ヴァリアーの隊服を着込んだオルテンシアは、後方支援部隊長以外の何者でもないが。
今の、ごくありふれた娘のような格好のオルテンシアは、その境界があいまいになっているのかもしれない。
普通の、娘。もし、オルテンシアがヴァリアーにいなければ。一般人の、“普通”の生活を営んでいれば。毎日のようにこんな姿を見ることができたのかもしれない――そんな“もしも”を思い描き、直後に一蹴した。
「運転手が必要なんだろぉ? オレがやってやると言ってるんだぁ」
重ねて告げる、その脳裏に。
――どういう心境の変化かしらね?
いつかの、ルッスーリアの言葉がふと頭をよぎった。
あの時は答えを誤魔化したけれども、いまは明確に答えることができる。
「……いいんですか? その、運転手を、任せても? 仕事があって来たのでは、」
戸惑うオルテンシアが視線を向けた先には、テーブルの上に置かれた、スクアーロが持ち込んだ数枚の書類。確かに、この部屋を訪れた当初の目的はそれだったのだが。
「別に急ぎじゃねぇ。後でもできる」
「それでしたら、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」
ただ、目が離せなくなった。
それだけ。
*
「で、どこに行きゃいいんだぁ?」
運転席に乗り込み、助手席のオルテンシアに横目で問う。
「この店ですね」
と、彼女はジャケットのポケットから端末を取り出し、地図アプリに示された目的地の名前を読み上げる。それを聞いてもとくに反応のないスクアーロに、
「この服を買ったブティックです」
「……また買い物かぁ?」
「少し違いますが、そんなところですね。注文した、重要なものを受け取りに行くんです」
そういえば最初にそんなことを言っていた気がする。
だからわざわざ着替えているのかと、スクアーロは合点がいった。
隊服で受け取りに行ったところで支障はないだろうが。その店で購入したものを身にまとって現れるオルテンシアの姿が店員の目にどう映るかは、想像に難くない。
細やかな気遣いといえば聞こえはいいが、実際のところ計算ずくだろう。それくらいできなければヴァリアーの内務など任せられない。
「貴様が自ら取りに行くほどのもの、か」
「見ればわかりますよ」
スクアーロの運転は普段の言動から想像もつかないほど存外に穏やかだった。二人の間に会話はとくになく、エンジンの駆動音がBGMだ。
心地よい振動に揺られながら、オルテンシアは流れゆく窓の外を眺める。天気がよいこともあり人出がそれなりにあって、行き交う人々は種々多様で見ていて飽きない。
――平和な風景だ、と思う。
車の窓ガラス一枚隔てた向こうとこちらでは、世界があまりにも違いすぎる。そう考えてしまうのは、普段、執務室に籠ってマフィアの仕事ばかりしているからかもしれない。
……そう生きると決めたのは他でもない自分なのだから、後悔なんてこれっぽっちもないけれども。
窓の外に平和が映っているのは、裏社会との線引きが明確にされている証拠。そして、その均衡を保つことに少しでも貢献できているのなら、自分がしていることには意義がある。懐の端末がなんの反応も示さないことも、いままさに副官がそのために奔走している証左だ。
とりとめもなくそんなことを考えていると、目的のブティックの前でするすると車が停車した。
「着いたぞぉ」
「ありがとうございます」
車を降りたオルテンシアは入店し、入り口付近に立っていたスタッフに用件を告げる。するとそのスタッフもまた近くにいたスタッフに声をかけ、声をかけられた方はその場を離れる。
まるで伝言ゲームみたい、と表情には一切出すことなく内心くすりとしていると、スクアーロも店に入ってきた。
「車で待っていてよかったんですよ」
「『見ればわかる』んだろぉ」
つまりオルテンシアのおつかいに興味がある、ということだ。彼もあながち無関係ではないことなので構わないだろう。お好きにどうぞ、と頷いたところで店の奥からやって来たのは、上品ないでたちの女性店長だった。
「いらっしゃいませ、オルテンシア様」
「お世話になっています。頼んでいたものを引き取りに来ました」
「かしこまりました。すぐにご用意致します」
うやうやしく頭を下げた店長のもとに、先ほどの店員が戻ってきた。少し大きめの箱を丁重に抱えている。他にも、小箱を持った店員も。
「ご確認されますか?」
「ええ、念のために」
大きめの箱の蓋が開けられ、姿を見せたのは――夜の帳のような、深い紺色のドレスだった。店内の照明を反射し、艶やかにきらめいてみせるさまは夜空のよう。それにひとつ頷けば、こちらも、と促されたのは小箱から取り出されたネックレスだ。ドレスの色に合わせ、ゴールドではなくシルバーを使っているのは一緒にドレスを選んだルッスーリアの提案だったのだが、彼の意見は正解だったようだ。光沢のある濃いドレスによく映えている。
と、そこで。
「ンなもん、どこで着るっていうんだぁ?」
それまでやり取りを眺めていたスクアーロから疑問の声があがった。
振り返り、小首を傾げる。
「聞いていませんか、来月のレセプションの話を。本部からの要請で、ボスの名代として君とわたしで出席するんですが、」
「初耳だぁ!」
「はい!?」
さしものオルテンシアですらとっさに頭を抱えたくなったのは仕方のないことだろう。まさか、まさか同伴相手に話が通じていなかったとは青天の霹靂だ。どこかで伝達ミスがあったのだろう。
とはいえ原因を詮索していてもどうにもならない。思考を切り替え、スクアーロに向き直る。
「話がいってないのはすみません。ですが、君に抜けられても困るんですよ。話によってはわたしだけでは対応しきれないことがきっと出てきますから。そうなればヴァリアーの名に傷がつきます。……君はそれでも構わないと?」
オルテンシアの言葉に、言い募ろうとしていたスクアーロは渋い顔で押し黙る。そうして数瞬ののち、舌打ちをひとつして。
「準備すりゃいいんだろ、準備すりゃあ!」
*
そんなやり取りがあったのも先月のこと。
パーティー当日、オルテンシアはドレス姿でヴァリアー居城の廊下を歩いていた。
ちなみにヘアメイクはエド、化粧はルッスーリアがそれぞれ担当したために至れり尽くせり、なのだが。
「せっかくの機会なんだから!」
と、口を揃えこれでもかと華やかに仕立て上げようとする二人を、なんとか止めることに成功した、ために、内心はパーティー前からすでに疲れている。
まさか日頃、執務室に籠って着飾ることに無頓着でいた皺寄せがこんなところでくるとは、思ってもみなかった。仕事漬けなのも問題なのかもしれない。少しはオフの日を増やそう、と心に決める。
オルテンシアの意見も聞き入れ、最終的にはほどよい塩梅に仕上げてくれた二人には笑顔で、自信持って、と送り出された。
そうしてエントランスホールを抜ければ、城の外にはすでに車が待っていた。そして車内には先客も。
「遅かったじゃねぇかぁ」
「おおむねルッスとエドのせいです」
――社交場はひとつの戦場だ。
そう思ってしまうのはあながち間違いではない気がする、とオルテンシアは思う。
きらびやかな衣装を身にまとった女性たち。歓談を交わす男性たち。その誰もが互いに取り入ろうとするか、ほどほどの付き合いに留めておくかを腹の底で計算している。笑顔の裏でなにを考えているかわからない。
スクアーロと共に会場に足を踏み入れ、場の雰囲気を察したオルテンシアは心の内で小さくため息をついた。
会場入りした瞬間に向けられた数々の視線。それに少しだけ、気圧された。
最強と名高いボンゴレ独立暗殺部隊、ヴァリアー。その名の重さが、視線の数だ。殺意を向けられることに慣れていても、こういった値踏みの視線には慣れていない。でもそれはおくびにも表に出してはならない。
――無意識に耳元に手を伸ばし、いつもの感触がないことに気づいて内心、苦笑する。ドレスの格に合わないからと、自分でピアスを外しておいたことをすっかり忘れていた。
けれども。
背筋を伸ばし、胸を張る。
隣にはスクアーロがいる。一人きりじゃない。それだけで心強さを感じる。……守ると誓ったのだから、こんなところでヴァリアーの名に泥を被せるわけにもいかない。
ちょうど、そこへ声がかかった。
「よっ、スクアーロ」
「跳ね馬かぁ」
スクアーロが応えたのは彼と同じ年頃の、金髪の青年だった。跳ね馬、と口の中で呟く。同盟ファミリー屈指の勢力を誇る、キャバッローネファミリーのボスだ。
洒落たスーツ姿の彼は近寄ってきたかと思えば、スクアーロの隣に立つオルテンシアを見てしたり顔を浮かべる。
「美しいお嬢さんだな。一体どこで見初めたんだ?」
「コイツはウチの隊員だぁ」
「なに!?」
「初めまして。ヴァリアーの後方支援部隊長を務めています、オルテンシアといいます。以後、お見知り置きを」
ぎょっと目を丸く見開いて驚くディーノに向かい、オルテンシアは軽く膝を折ってドレスをつまみ、カーテシーの仕草を取る。その姿にほぅ、とディーノが感嘆のため息をついた。
「驚いたぜ。ヴァリアーは内政が優秀だと噂には聞いてたんだが、まさかうら若い女性が取り仕切ってたとはな……」
しみじみと呟かれたそれは、十分に意表を突けたようだ。オルテンシアは軽く微笑んでみせる。
「お褒めに与かり光栄です。ですがそちらこそ、その若さであのキャバッローネファミリーのボスを務めていらっしゃるのですから尊敬しますよ」
「はは! 貴女みたいな女性に言われると身が引き締まるな」
「どうぞ、オルテンシアと呼んでください」
「オレもディーノで構わないぜ、オルテンシア。こんな美女とお近づきになれた印にな」
そう言って差し出しされた手を握り返す。
「ディーノであれば、わたし程度の顔など見慣れているでしょうに」
キャバッローネのボスが代替わりしたのは随分前の話だ。こういった場にもよほど慣れているだろう。そんな意を込めて返した言葉だが、意外にも返ってきたのは苦笑だった。
「……苦労するな、スクアーロも」
「やかましいぞぉ。とっとと散れぇ」
しかもなぜかスクアーロに向けて。
オルテンシアがやりとりを飲み込みかねているうちに、じゃあな、とディーノは去って行った。
「……いまのはどういう?」
「気にすんなぁ」
そうして一通りの挨拶回りを無難に切り上げた二人は、華やかな会場を離れ、テラスに出ていた。
カーテンヴェールを隔て、向こう側の世界の音は遠く。ほどよい静けさが空間を満たしている。
どちらともなく二人して手すりを背にもたれかかると、オルテンシアが肺の中の空気を全て吐き出すかのように長いため息をついた。
「さすがにくたびれました……」
心底疲れたような響きに、スクアーロはくつくつと笑う。
「愛想笑いもできんじゃねえかぁ」
「こういう場ですからね、さすがにわきまえますよ……ものすごく疲れますが……」
「普段からああできねぇのかぁ?」
「性分なので無理ですね」
キッパリと言われてしまった。だと思ったぜぇ、と同意するしかない。いまさら表情豊かなオルテンシアを想像しようとしても難しい。
ふ、と。
「今日は君がいてくれてよかった」
わたし一人ではきっと無理だったでしょう。
スクアーロに顔を向けたオルテンシアが、微笑みを浮かべる。愛想笑いなどではない、それ。
……だからこそ意味がある、と思えるようになった。感情がおもてに出にくい彼女が意図して浮かべる表情だからこそ、伝えたいものがあるのだと。
「ピアス」
「はい?」
「いつものやつ、今日はしてねぇのかぁ」
ドレス姿を見たときから気になっていたことだ。なにがあっても外さないものだと思っていたから意外だった。それほど大切なものだろう、と認識していたから。
指摘すれば、オルテンシアは微笑みを苦笑に変え、
「ドレスに合いませんから。……少し耳がさびしいですね」
そう言って耳元に指を伸ばす、そこには、いつもある黒い石はなく。
「オルテンシア」
だから言えた、わけでもないけれども。
「ドレス、似合ってるぜぇ。綺麗だ」
素直にそう、思う。
すると、だ。
「……本当に?」
見下ろすオルテンシアは、目を丸くしていた。
意外な反応にスクアーロも軽く驚く。てっきり流されると思っていたから。
「跳ね馬のときとは反応が違うじゃねえかぁ」
「あれは社交辞令だと思ったからで……。でも、君はそういうことは言わないタイプでしょう?」
「たりめーだぁ」
こんな世辞など死んでも御免だ。
頷けば、それで納得したのかオルテンシアは再び微笑んで。
「ありがとう。君にそう言ってもらえて、嬉しい」
その姿はとてもうつくしかった。