有菊掌編まとめ 使いを終えて商店へ戻る手代の青年が、宿の奥にある小さな庭を近道に通り抜けようと足を運ぶと、背の高い庭木の向こう側に男がひとり佇むのが見えた。
長身で体格が良く、湯治に来ている軍人なのだろうと一目で分かるその男は、薄い羽織を背負っただけの寝衣姿で紫煙を燻らせ、ぼんやりと何処かを見つめていた。
もう春を迎えたとはいえ、登別にはまだ雪が残る。寒くはないのだろうか。否、寒さを感じられないほどに、此処ではない遠い場所へ心を置いてきたような、そんな表情のように見えた。
(……何だか、雪と共に融けていってしまいそうだな)
青年は思う。自身の父親にも近いほどの年頃で、さらには寝衣の上からでも分かる随分と体躯の良い相手であるのに、何故だか心底そう思えた。
声を掛けて通り抜けるべきか? それとも回り道をするか? 青年が逡巡していると、ふと「冷えますよ」と低い声がして、同時に寝衣の男の肩に紺色の外套が掛けられた。
手前の柴垣が邪魔をして声の主の姿は拝めない。しかし、男の肩に置かれた浅黒い大きな手指だけは目にできた。
「……悪いな」と、寝衣の男が呟く。そうして、肩に乗る手の上に自身の白い手のひらを重ねた。
ただ、それだけだ。
それだけなのにも関わらず、眼前に漂う何とも言い知れない空気に圧倒されて、青年はくらりとよろめいてしまった。
かさり、と枯れ木の枝が音を立てる。しまった、と青年が狼狽えるよりも先に、枝木の隙間から寝衣の男の視線が突き刺してきて、かち合った。それが見開かれたのは束の間で、すぐに柔らかく細められた瞳の下で人差し指が男の唇に立てられた。
――ああ、これはきっと、逢瀬というものだ。
青年は自身の頬が紅く熱を帯びているとも気付かずに、ただ、こくこくと頷き返すことしか出来なかった。
了
―――
お前みたいに何もかもが良い男に惚れられて、その腕の中にいて。
時々これは俺の都合の良い身勝手な夢なんじゃないかって疑うよ。
本当の俺は今ごろ地獄にいて、業火に焼かれて責め苦に喘ぎながら、お前を想って思って夢を見て、己の罪の痛みから逃げてるのかもしれねぇってな。
そしてもしも、これが夢だったなら、どうか永遠に覚めないでくれと何度も願ってんだ。
なぁ、小せぇ男だろ? 健気に罪悪感なんて持ったふりして、その実、結局お前の腕の中から出られやしねぇんだから。
了