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    常世で泣いてくれ そして、〈前編〉 なぁ、おチビ。
     アフンルパㇽへ入ってはいけないよ。
     会いたい誰かがいたとしても。
     懐かしい誰かに会えるとしても。
     そこへ行ってはいけないよ。

     囲炉裏の中の揺らめきを見つめる祖母の表情は穏やかで、優しい声色が物語を紡ぐ。
     膝の上で褐色の小さなこうべを撫でるその手は乾いていて、温かかった。
     遠い幼少の日は胸の奥底に眠っている。


    《一》

     
     その夜、イポㇷ゚テが見た夢は鮮明だった。
     そこは療養の日々を送っていた宿の一室で、その時分には着ていなかったはずのアットゥㇱ(樹皮衣)をまとい、ロウソクの火だけが揺れる暗闇の中で一人ぼんやりと佇んでいた。
     ふいに男の声で名を呼ばれる。
     ――有古。有古力松一等卒。
     聞き馴染みのある柔らかな低音と抑揚。振り向くと、そこにはかつての上官の姿があった。
     ――菊田特務曹長殿。
     名を呼び返す。微笑みなのか、はたまた悲哀であるのか、どちらのようにも見える表情で部下を見つめるその姿には、腹と額にこびりついた赤褐色の血液と銃弾の痕が生々しく残っていた。
     イポㇷ゚テが札幌の診療所で手当てを受けた翌朝に飛び込んできた、教会に捨て置かれた軍人の遺体の知らせ。数時間前に別れたばかりの上官の姿が脳裏をよぎり、医者の忠告を振り切って松葉杖を引きずり、腹と脚の痛みに耐えながらイポㇷ゚テは再び教会へと向かった。集まった野次馬や新聞記者をかき分け扉の外から室内を覗くと、検分する巡査たちに囲まれたその下で白い布に覆われ、ぐったりと横たわる人の姿が目に入った。同じ連隊の兵士かもしれないと伝え、布の下を確認したその時の嫌な想像が現実となった衝撃。その光景が、その惨状が、頭からずっと離れないでいる。今、夢の中で眼前に立つ上官は、まさにその時の痛々しい姿だった。それでも、イポㇷ゚テに恐怖はなかった。代わりに、胸の奥底から幾重にも絡み合った感情が湧き上がってくる。その想いを乗せて次の言葉を紡ぎたい。しかし、何かが喉の奥に詰まっているかのように、どうにも声が出てこない。何も言葉が絞り出せない。
     それを見つめる菊田の唇がもう一度開きかける。
     その声を拾うよりも先に、視界が外側から焼けるように浸食されていき、イポㇷ゚テは夢から浮上した。
     目の前には見慣れたチセ(家)の薄暗い天井だけが映っていた。

     それから毎夜のように、イポㇷ゚テは菊田の夢を見るようになった。
     内容は決まって同じで、宿の一室で名を呼ばれ、振り返ると菊田が立っている。名を呼び返すも次の声が出ない自分。菊田がもう一度口を開きかけると目が覚める。ただ、それだけの夢だ。しかし、それを幾度も夢に見る。まるで何かを伝えたいかのように。
     夢は現実と繋がっている。アイヌの中にはそう信じている者も少なくないが、イポㇷ゚テはこれまで夢と現を結びつけて考えたことはなかった。それでも、嫌な夢を見れば気持ちが沈み、楽しい夢を見れば愉快にもなる。不吉な夢ならば不安にさえなる。それは、誰しもに経験があるものだとも考える。かつて戦場では夢でさえも死の恐怖に怯え、うなされる者たちを幾人も目にしてきた。イポㇷ゚テ自身もそうだった。
     ふと、『夢枕に立つ』という和人の慣用句があったなとイポㇷ゚テは思い出す。それを教えたのも菊田だった。戦地で倒れた者たちが所持していた物品を持ち歩き、死闘に身を削る自身の“よすが”にしていると語られた中で教わったものだ。
    「化けて出られるかもしれねぇけどな」
     ロシア兵将校の身から鹵獲したばかりの短銃を分解し、血液の詰まりを確認しながら、菊田は軽く聞こえる響きで言葉を続けた。
    「夢枕に立つもんだから、何かを報せてくれるのか? なんて呑気に構えてたら『この泥棒野郎!』てな具合で、苦情で祟られるってのが落ちかもな」
     それでも、そこに存在した誰かの“強さ”を信じて縋らなければ、この地獄には立っていられないのだと――菊田がその行為に持つ真意をイポㇷ゚テはそう理解していた。
     死者が何かを告げるために生きた者の眠りの先に現れる。その意味のとおりに、夢の中に佇む菊田は思い残すことがあるような、そんな雰囲気をまとっていた。
     秘密裏の任務の中で不覚にも撃たれ命を落としたのだ。未練など途方もなくあるだろう。しかし、その未練とは、はたして何だろうか?
     幾度となく夢で出会っても、その声を聞くことができない。


    《二》


    「イポㇷ゚テ、トㇷ゚セを見なかったかい?」
     それは、同じ幌別郡にある近場のアイヌコタンへとイポㇷ゚テが訪ねている時の出来事だった。
     金塊争奪戦が終焉を迎えてから一年以上が過ぎ、イポㇷ゚テは除隊した後に登別の実家へと帰郷した。予備役として軍籍は残っているものの、今は馬丁として働きながら、小樽のアシㇼパたちとも時折連絡を取り合い、アイヌの文化や生活を継承・保護すべく奔走する日々を送っている。
     そんな忙しなくも穏やかな生活の中で、一ヶ月ほど前にそのコタンに住む叔母の義父である長老が亡くなり、この日は喪に服す叔母家族のもとへ食料などを裾分けするためにイポㇷ゚テは使いへとやって来ていた。
     このコタンの住人は長老の血族が中心で、〈トㇷ゚セ〉と呼ばれるその人物は叔母の義弟の末娘であり、まだ片手で数えられるほどの年齢の幼子だった。叔母とイポㇷ゚テの母親は姉妹で仲が良く、母親に連れられイポㇷ゚テは子どもの頃から叔母のコタンへは何度も足を運んでいた。しかし、療養期間までを合わせ五年ほど従軍していたイポㇷ゚テが、その子どもと出会ったのは長老の葬儀が初めてで、これまでに顔を見たのはその一度きりだった。大好きだったという祖父が亡くなり、それでもトㇷ゚セは涙を見せず、死装束をまとった動かぬ祖父の姿をただ一心に見つめていた。その幼い表情をイポㇷ゚テは覚えている。
    「いや、今日は見ていないが」
    「だよねぇ……」
     イポㇷ゚テは一時間ほど前にコタンへ訪れたばかりで、荷物を降ろしたあとはそのまま休憩がてら世間話をしていた。その間チセから外へは出ていない。当の話相手である叔母ならば訊くまでもないはずで、イポㇷ゚テに声をかけた裏には何らかの理由があると想像できた。
    「何かあったのか?」
     眉根を寄せた叔母が小さくため息をつく。その表情が、やはり何かが起きたことを率直に表していた。
    「うん……子どもたち皆で遊んでたんだけど、気付いたらトㇷ゚セがいなくなってたって」
     聞けば、子どもたちが川辺で遊びに熱中していると、いつの間にか一緒にいたはずのトㇷ゚セの姿がないことに気付いたという。それを知らされたトㇷ゚セの両親が川へ様子を見に行くもやはり見当たらず、父親はそのまま川沿いを下流の方角へ探しに行き、母親はコタン内を探し皆に尋ねて回っており、それが念の為にとイポㇷ゚テにも問われた理由だった。
    「子どもたちは?」
    「皆で川の周りを探してるって」
     川に面するコタンの広場からは、川岸で働く大人や遊び回る子どもたちの姿を眺められる。現にこの日、イポㇷ゚テがコタンへやって来た際にも、子ども数人が遊んでいる姿を目にしていた。しかし、川の全てを見渡せるわけではないため、コタンの子どもが全員一緒だったのか、トㇷ゚セがその場にいたのかまでは確認しているはずもなかった。
     息を吐くように唸り、叔母と同じようにイポㇷ゚テの眉間にも皺が寄る。コタン内にひとり戻っていればと願うものの、小さな子どもの行方が知れない現状には不安が募る。広場から川を眺められるとはいえ、目視できる位置から人が少しでも移動をするか、または藪の中へ入ってしまえば、その姿は簡単に見えなくなってしまう。山中には死角が多く、小さな子どもならば尚更に身体が隠れやすい。また、川の浅瀬では大した深さではなくとも、淵へ進めば幼子では全身が浸かるほどの深さに変わる。水中は石や岩ばかりで起伏があり、そのうえ水草や藻で滑りやすい。海水ほどの浮力が無い淡水では溺れるときには静かに沈んでいき、そのまま下流へ押し流されることが大半だ。ここ数日は天候が良く水の流れは穏やかであるものの、自然の機嫌は気まぐれで、滲むように様々な懸念が浮かんでくる。
     トㇷ゚セの母親がコタン中を探してチセを尋ねて回っているとのことだが、今の時間帯に子どもたちと隠居以外でコタンに残っている者は少ない。大半は昆布漁や山菜採りなど各々の仕事へ出向いており、イポㇷ゚テの叔母夫妻とトㇷ゚セの両親が残っていたのは、彼らの父親である長老が亡くなったあとの喪の期間で、コタンの周辺以外には遠く出掛けないようにしていたからだった。小さな集落の少ない人数の中で、誰かが幼子の姿を見ていたならばすぐに報せがあっても良いはずで、それが無いとなれば自ずと答えは見えてくる。
     心配に満ちた空気がチセの中に沈黙を降ろす。叔母にとっては、トㇷ゚セは義妹の腹の中にいる時分から成長を見守っている家族の一員である。トㇷ゚セと出会って間もなく一度しか顔を合わせていないイポㇷ゚テでさえも、その身を案ずる懸念が大きく湧き出るのだ。叔母の憂慮はそれ以上だろうと想像できて、イポㇷ゚テは言葉を詰まらせた。しかし、立ち尽くしているだけでは何も解決はしない。
    「俺も探しに行こう」
     俯いていた叔母のこうべが持ち上がる。
    「……そうだね。私も行くよ」
     人手は一人でも多く、早急に動く方がいい。二人がチセから出ようと母屋の出入り口にかかるムシロをめくったその時、叔母の夫である叔父と思わずぶつかりそうになった。「おぉっと」驚く叔父の後ろにはトㇷ゚セの母親が立っていた。その青ざめた表情がすでに答えを出していたが、話を聞けばやはりコタンの中には何処にも娘の姿はなく、誰もトㇷ゚セを見ていなかった。
     叔父も叔母も、そしてトㇷ゚セの母親も一様に動揺を隠せない面持ちだった。父親である長老が亡くなってからそう日が経たないうちに、今度は大事な幼子の行方までが分からなくなったのだ。それでも、叔母は義妹に寄り添い震える肩を抱き気丈に声をかける。
    「皆で探そう。ちょっとばかし、かくれんぼしてるだけさ! 絶対にすぐに見つかるよ」
     そうであって欲しいとその場の誰もが願う言葉だった。
    「山菜採りの誰かと一緒じゃないだろうか?」
     叔父がひとつの可能性をあげる。この夏の時期は女たちが山菜採りに精を出す。今日も幾人が連れ立って森林深くへ出向いているが、しかし、幼子がひとり迷い込んだ姿を目にしたならば、すぐにコタンへ連れて戻るはずだろうとも思えた。叔母がそう返すと、叔父は小さく唸り悩むように腕組みをした。
    「女たちを呼び戻そうか。探すには一人でも多い方がいいだろう」
    「そうだな……何にしろ手分けが必要だ。子どもたちも一旦呼び戻そう」
     すると、「ハポ(お母さん)! お腹すいたぁ!」と、折よく元気な声が大人たちの間に割り入ってきた。叔母夫妻の小さな息子と娘、イポㇷ゚テの歳の離れた“いとこ”の兄妹だった。共にトㇷ゚セと遊んでいた川の周辺を探してきたのちに腹を空かせて帰ってきたのだ。
    「アンタたち! ちゃんと探してきたのかい!?」
    「探したよ! アチャポ(叔父さん)と一緒に下の方も見てきた。でも、やっぱりいなかったよ……戻ってきてないの?」
     叔母が頷くと兄妹の表情が見るからに曇っていく。恐らく、腹を空かせた姿を見かねたトㇷ゚セの父親が子どもたちを帰したのだろう。空腹の子どもに我慢を強いるのを気の毒に思いながらも、イポㇷ゚テは二人に問いかける。
    「気付いたら、いなくなっていたんだよな?」
     一ヶ月ぶりに会う〈イポㇷ゚テ兄ちゃん〉の姿に兄妹の気色が明るくなるも、すぐに眉をひそめて頷いた。イポㇷ゚テはしゃがみ込み、子どもの目線に高さを合わせる。
    「じゃあ、いなくなる前に何処かへ行くとか、何がしたいとか……なんでもいい。何か言っていなかったか?」
     兄妹は互いに顔を見合わせ首をかしげた。すぐに兄がかぶりを振って答えを出す。叔父が深くため息をつき、不安を紛らわすように後頭部をガシガシと掻いた。
    「ともかく、皆を集めよう」
     居ても立ってもいられずに叔父がチセを飛び出そうと動いたその時、「あっ! そういえば」と、小さな妹の方が思い出したように声をあげた。
    「『エカシ(おじいさん)に会いたい』って言ってた」
     皆の視線が一斉に少女へと集まる。
    「それだけだけど……」
     大人たちの刺すような視線が居たたまれないのか、幼い声が消え入るように小さくなっていく。それと被るようにして「ああ!」と、トㇷ゚セの母親が思い当たったように視線をあげた。
    「もしかしたら墓地へ行こうとしてるんじゃ」
    「ああ……」と、今度は皆が同時に声を揃えて呟いた。
    「あり得なくはないが……しかし、道なんて覚えていないだろう?」
     出入り口で足を止めた叔父が問い返す。
    「だから、それで迷ってるんじゃないかって」それに、と母親は続ける。「ずっと見てたんだよね。埋葬の時も、あの子はずっとエカシから目を離さなかったから……」
     初めて会った葬儀の日に、祖父の姿をひたすらに見つめていたトㇷ゚セの姿をイポㇷ゚テも思い出す。
     遺体が埋葬されている共同墓地はコタンより川上の民家からは離れた場所にある。山歩きに慣れた大人の脚ならば徒歩でも行ける距離ではあるが、幼子が一人で迷わずに辿り着くのは不可能に近い。
     アイヌの死生観では、死者の魂は〈ポㇰナモシㇼ〉と呼ばれる死者の国へと旅立ち、そこで生きた者たちと変わらぬ姿で暮らしていると考えられている。埋められた場には抜け殻となり自然へ回帰していく肉体しかなく、そのために墓へ参る概念がない。代わりに、折に触れチセやその周囲で祖先供養を行い、現に叔母たちは今も長老の魂へ毎日供物を捧げ祈っている。しかし、それを小さな子どもが理解できるかは別の話である。土葬される祖父の姿を目の前で見て、その場に行けば再び会えるのだと信じていても不思議ではないのだ。トㇷ゚セの母親が想像した可能性は確かに一理あった。
    「そうだとしても、川辺を伝って歩いて行くだろう。川上の方は探したのか?」
    「……少しだけ」
     怒られそうな気配を感じたのか、小さな兄の方がバツが悪そうに答える。叔父がすぐに丸く小さなこうべを手のひらで撫で上げ、叱る気などないのだと伝えて落ち着かせる。
    「歩いて行ったとして、幼子の脚に皆が追い付けないとも思えないけど」
    「森林に迷い込む可能性もある。川を中心に範囲を広げて手分けして探そう」
     イポㇷ゚テの言葉に大人たちは互いに顔を見やり頷く。水流に足を取られ流されたわけではないのだと、少しでも希望のある可能性も見逃したくはなかった。
     急ぎ、大人たちはトㇷ゚セを探す手筈を整えるべく、すぐにコタンに残る住人たちを呼び集めに向かった。川辺で探していた子どもたちは全員コタンへ戻っており、隠居二人に昼餉の用意と世話を頼む。そうして、イポㇷ゚テを含めた九人の大人たちが集まった。皆、それぞれに不安気な表情を浮かべながらも、トㇷ゚セの母親を安心させるように声をかけ互いに頷きあっている。
     山菜採りの女たちを呼び戻しに一人を向かわせて、子どもたちが探した川の周辺を含めた川の下流、上流、両岸の藪の中とその奥の山林、そして墓地の方角へとそれぞれに探す手分けを決めていく。トㇷ゚セの父親は川下へいち早く探しに行っているため、そこにも人手を向かわせる。母親は川上の墓地の方角へとまず先に飛び出していった。
     ふと、イポㇷ゚テは父のシロマクㇽと共に深く雪積る八甲田山で、遭難した歩兵連隊の捜索に奔走したことを思い出す。それは徴兵される直前の出来事で、和人に交じり軍人となる意思を固めるひとつのきっかけともなった。悪天候に見舞われたのちの八甲田山で、要請を受けたアイヌの七人隊が軍の捜索に加わったのは、すでに捜索が開始されてから十日以上が経ってからのことだった。それは端から“遺体”と“遺留品”を探す作業で、そうして六十日以上もの時間をかけて探し回った。
     しかし、今回は違う。涼しい夏の幌別の山で、行方が知れなくなってからはまだ数時間も経っていない。小さな身体の中に温かな血潮が流れるままに、無事にコタンへ帰したい。ただ、ほんの少し迷子になっているだけなのだと、そう信じたい。
    「俺たちもすぐにトㇷ゚セを探しに行こう」
     叔父がひとつ大きく手を打つと皆が頷き、それぞれに声を出し発破をかけあう。
    〈トㇷ゚セ〉とは、アイヌ語で“唾を吐く”を意味する言葉である。アイヌの文化では幼児に病魔や不幸が寄り付かぬように、成長し正式な名をつける前に汚い言葉で呼ぶ慣習がある。悪いカムイも良いカムイも、その“汚いもの”を好みませんように、連れていきませんようにと祈る想いが込められている。もしも、幼く愛らしいものを連れ去ろうとするカムイが近寄ってきたならば、唾を吐きかけて追い返してしまえばいい。
     各々が祈りを胸に抱きながら、捜索へと足を向けた。

    ***

    「おーい! トㇷ゚セ! おーい、おーい!」
     イポㇷ゚テは叔父の四番目の弟である青年とともに、川沿いのコタン脇の藪の中へ入り山林の奥を探す役目を担った。川に近い藪の中はコタンの子どもたちが普段から遊び回る場所のひとつだが、奥へ進めばすぐに身体が風景に溶け込んでしまうほどに高い草木が生い茂っている。重く太い声が樹々の間を抜けて幼子の耳まで届くことを願いながら、腹から声を出し呼び名を叫ぶ。
    「正式に名前が付けられる前で良かったな」
     連れの青年が言う。本名をカムイに知られたならば、それを気に入り連れ去られる可能性を信じているからだ。イポㇷ゚テは同意して、〈トㇷ゚セ〉と仮の名を何度も叫び呼びかけながら、地面に倒れてはいないかと足元にも注意を払いながら先を進む。一定の間隔で樹の低い位置の枝に紅く染めた木綿の布を巻きつけ、探し終えた範囲に目印をつけていく。
     ふぅ、と小さく息を吐きイポㇷ゚テは空を見上げた。まだ陽は高く昇っているが、山に暗闇が訪れるのは街中よりも遥かに早い。ここ数日は晴れの日が続き、今日も青空が広がっているが、天候の機嫌の変わりやすさを山と共に生きる者たちはよく理解している。薄暗い雲が近づいていないか確認をして、イポㇷ゚テは再び樹々の中へ視線を戻した。
    「道外れて変に迷い込んでなきゃいいけどなぁ」
     ふと、青年がぽつりと不安を漏らした。
     夏の幌別の山は涼しく、冬の八甲田山のような瞬時に体温を奪うほどの気温の厳しさや対象が雪に埋もれてしまうような困難はない。反面、様々な毛皮をまとったカムイたちが生き生きとその命を輝かせている季節であり、山林の中を迷い歩けば彼らと遭遇する危険が大きくある。また、高々と生い茂る草木の中では小さな身体は隠れやすくもある。夏場に狩猟を行わない理由のひとつも、そうして対象に視点を定めるのが難しくなるからだ。
    「キムンカムイの巣穴に潜ってなきゃいいが……」
     さらに続く青年の呟きに「そう後ろ向きなことばかり言うな」と、イポㇷ゚テは足を止めて窘めた。
    「巣穴があるほどに奥深くまでは行っていないだろう。幼子の脚だ」
    「まぁ、そうなんだが……“万が一”があるだろ? ガキってのは突拍子もない行動をするもんだ」
     青年が不安を膨らませる気持ちもイポㇷ゚テは理解している。今の季節は〈キムンカムイ〉ことヒグマにとっては繁殖期であり、特に若いオスは行動範囲が広くなり攻撃的にもなっている。大きな声で呼び名を叫ぶのは、幼子の耳へ届かせたい一方で人間の存在を知らせてヒグマを含めたカムイたちが自ら遭遇を避けてくれることを願う意味もあった。
     同じコタンの住人は家族である。その中でも最も幼く、皆の娘のようなトㇷ゚セの安否を青年が深く心配し、浮かんだ懸念をそのまま言葉にしてしまうのは無理もない話だった。子どもが時には大人の想像を遥かに超える行動をすること、そして驚くほどの体力を持ち合わせていることも事実で、案じる気持ちはイポㇷ゚テも同じだ。しかし、ここで二人同時に意気消沈し希望を失っては意味がないとも考える。
    「……もしも、“万が一”にもだ。巣穴に入ったとしたら逆に安全なんじゃないか?」
     そこで、イポㇷ゚テはいつか聞いた話を振ってみる。
    「何でだよ?」
    「キムンカムイは自分の巣穴に入って来たものを襲わないというだろう」
    「ああ……そう言うけどな。実際に見た試しがないからなぁ」
    「俺も見たわけじゃないが、巣穴に入り込んで無事でいた二人の男の話を身近で聞いたんだ」
    「本当に? ……身近って、知り合いの話か?」
    「一人はオタルナイ(小樽)の友人のミチ(父)で、巣穴に入ってキムンカムイを仕留めたそうだ」
    「へぇ! そりゃすげぇな」
     狙い通りに食いついてきた青年の表情にイポㇷ゚テは口角を上げ、ひと時の間を溜めて続ける。
    「もう一人も友人で――“不死身”のシサム(和人)の話だ」
     すると、感心していた青年の口がぽかんと開かれ、眉間の皺がみるみると深くなっていった。「不死身ぃ!?」と、素っ頓狂な声をあげて怪訝な視線を投げてくる。その反応にイポㇷ゚テの心が少し軽くなった。これが他人からの伝聞ならば、“不死身”などと荒唐無稽な話はイポㇷ゚テも一笑に付しただろう。あらゆるカムイを信じ敬うアイヌであっても、ただの人間が不死身である話など滑稽な夢物語だと思うはずだ。しかし、日露の英雄だと称えられ噂されていたその人物が、金塊争奪戦の中で負った数々の大怪我をものともせずに生き残った事実までをも知れば、“不死身”が大袈裟な形容ではないのだと実感できた。青年は与太話でからかわれたと感じたかもしれない。その表情から恐らく確実にそう言える。それでも、イポㇷ゚テは沈む空気を少しでも和らげられたのならばそれで良いと思った。
     化かされたかのように唸る青年を尻目に、イポㇷ゚テは再び歩みを進める。コタンと川は背後に見えるが、いまだ誰の報せの声も届かない。早く無事に見つかってくれ。そう願いながら腰の高さの草をかき分け地面を見やると、ふと、古く太い樹の幹にぽっかりと空いた穴が目にとまった。それは腐った部分が自然に空洞となったもので、中を覗いても何もいなかったが、タヌキ程度なら出入りできそうな大きさがあった。もう少し広がっていたならば、幼子も入り込めるかもしれないと思わせるような、そんな穴だった。
     そこで、はた、とイポㇷ゚テは気付いた。
     青年には後ろ向きなことを言うなと窘めたものの、確かに子どもの好奇心で巣穴や洞穴に潜り込む可能性はある。正式な名も持たないほどの幼子がこの短時間でひとり、誰もが追い付けないほどの遠い距離を歩いて行ったとは考えにくい。だからして、川に目を向けて事故などの悪い想像を膨らませてしまうのだが、それを打ち消すようにイポㇷ゚テは“とあること”を思い出した。
     それは、自身が登別の広い山々を庭のようにして散策し、秘密の隠れ家を至る場所に作っていたという幼き日々の記憶だった。冒険心を持って大きな洞穴の中をめぐったり、潜り込めそうな小さな穴を見つけてはそこで昼寝をしたり、ぼんやりと考え事をする時や、誰かと喧嘩をしたのちに泣き顔を誰にも見られたくない時など、ひとりの時間を暗い洞穴の中で過ごしていた。石や枝を投げ入れ、臭いや周囲の状況で動物の巣穴ではないか、または、落下するような深さが無いかと確認はしていたものの、大人となった今に思い返してみるならば、よく無事でいられたものだと我ながら呆れてしまう。それでも、幼いイポㇷ゚テにとっては必要なものだった。
     そして、もうひとつ。“穴”と言えば思い出すものがあった。それは同じく子どもの頃に祖母が語ってくれたアイヌの伝承で、〈アフンルパㇽ〉と呼ばれる洞穴の話だった。〈アフンルパㇽ〉とは、アイヌ語で“入る、道の、口”という意味を持つ。その意味のとおりに、死者の国こと〈ポㇰナモシㇼ〉へと繋がる入り口である。悪い叔父に騙された青年が生きたままその洞穴を通り抜け死者の国へと辿り着き、そしてまたこの生者の世界へと戻ってくるという物語だった。
    ――『エカシに会いたい』って言ってた。
     トㇷ゚セの言葉を“いとこ”の少女は聞いていた。〈アフンルパㇽ〉と呼ばれる洞穴は実際に海岸沿いや岬の断崖近くに存在し、イポㇷ゚テは祖母からそこへは近寄るなと教えられていた。周囲の人間は大人も子どもも皆知っている。近隣のコタンの子どもならば、恐らく同じように伝え語られる話だろう。トㇷ゚セも〈アフンルパㇽ〉の話を知っている可能性は高い。そうであれば、祖父に会いに行こうと考える選択肢は墓地だけではなくなる。
    「……確かに、お前が言うとおりに穴の中へ潜っている可能性もあるな」
     イポㇷ゚テは再び立ち止まり、いまだ訝し気な青年の顔を見やる。
    「アフンルパㇽの話を思い出した」
    「ああ、」青年も思い出したように顔をあげる。「俺も昔フチから聞いたなぁ……でも、あれは海岸の洞穴だろ?」
    「それを探しに行こうとして迷っているとか」または、と繋いで「何処かで見つけた穴をアフンルパㇽだと思って潜ってみるかもしれない」
     青年は腕組みをしてふむ、とひと声を落とし「……無くはないな」と呟いた。自身がヒグマの巣穴に潜る心配をめぐらせたのも、幼子の好奇心からの突飛な行動を想像したからだ。道を彷徨い歩く中で、曖昧に覚えた〈アフンルパㇽ〉の話を思い出して、偶然に見つけた洞穴が祖父のいる場所へ繋がっているかもしれないと考えてもおかしくはない。
     これまでに探した場所には子どもが潜り込めそうな穴は見当たらなかったが、先へ進めば獣の巣穴から自然が作る洞まで様々な大きさの“穴”が現れてくるだろう。
    「まぁ、もし海岸の穴へ向かっているとなれば、ユポ(兄さん)たちに任せるしかない」
     海岸へ行くには川沿いを長く下っていく必要がある。幼子の脚では行けぬ距離で、ただ歩き下って行っているだけならば、川下を早くから捜索しているトㇷ゚セの父親がすでに発見していてもおかしくはないはずで、しかし今もなおその吉報は聞こえてこない。
    「そうだな。兎も角、ひとつの洞も見落とさないようにしよう」
    「ああ。穴に潜ってかくれんぼしてるだけなら、それが一等安心できるよな」
     青年の言うとおりで、その他の最悪な事態だけは信じたくはなかった。

    ***

     そうして目についた小さな洞も確認しながら捜索を進めていくと、一刻が過ぎた頃にひとつの洞穴を見つけた。それは背高く茂る草木に覆われた岩と地面との間に空いた横穴だった。幅広にぽっかりと黒い口を開け、広い洞窟のように立って歩めるものではなかったが、幼子は勿論、大人でも這えば中へと入れそうな程の大きさがあった。独特の生臭さは無く、周囲を見渡しても糞便は落ちていない。どうやら獣の寝倉としては使われていないようだった。
    「トㇷ゚セ、いないか? トㇷ゚セ!」
     まずは外から仮名を呼んでみる。暫し反応を待つも何も返って来ない。もう一度呼ぶ。やはり何も返事はない。イポㇷ゚テは地面に身を這わせる。顔に当たる草がチクチクと刺激を与えてくるが、構わずに穴の中を覗き込んだ。しかし、明るい外側から見る黒一色のその中は何も目視できるはずもなく、代わりに腕を伸ばし入れてみる。どうやら外側から見るよりも内側の空間は開けているようで、左右に腕を振ってみるが指先に当たるものは空気と地面の土や小石だけだった。もっと奥に届くよう、背負っていた猟銃を挿し入れようかとも考えてみたが、万が一にも幼子がそこにいるならば、銃口を向けるような真似はしたくない。指先を地面に這わせて左右に撫でる。入口付近に深さはない。念のために奥も探ろうとイポㇷ゚テは中へ潜り込んでみることにした。自身の子どもの頃を思い返してみれば、そこで眠りこけている可能性もあるからだ。
     人より幾分にも大きな身体ではあるが、軍人だった頃に訓練でも戦地でも匍匐は何度も行ってきた。這いずり進むのは得意というものだ。しかし、夏場のアットゥㇱとホシ(脚絆)のみの姿では肘と膝を擦りむいてしまいそうなので、目印用の赤い布を各所に巻いた。
    「念のために穴の中も見てみる」
     少し離れた位置で先へ行こうとする青年に告げる。頷いたのを確認して、背後に遠く見える川とコタンへも視線を向けるが、やはりいまだ誰の報せも届かない。
     イポㇷ゚テは腰に巻きつけた荷物とマキリ、背負った猟銃を下ろし、もう一度地面に伏せて小さな暗い穴へと這って入った。
     肉厚の巨躯では穴をほとんど塞いでしまうほどだったが、頭を下げて腕を前後に動かして這えば、上半身はするりと穴の中へと滑らすことができた。内側は上にも空間があり、イポㇷ゚テは頭を持ち上げる。パラパラと細かな土と小石が落ちてきたが、額のマタンプㇱ(鉢巻)のお陰で目には入らずに済んだ。竦められない尻が引っ掛かりさえしなければ、このまま全身で先へも進めるだろう。しかし、自身が遮りとなって洞穴の中へは光がほとんど入らず、目の前に見えるものは漆黒のみだった。持参したマッチを取りに外へ出ようかと考えたが、付近に垂れ下がる植物の感触があり、小さな穴の中で火を擦るのは賢明ではない。この奥にも空間が続いているのか否か、まるで分からない状態だった。恐ろしいものなど戦地で幾度も目にしてきた。しかし、この暗闇にはどうにも吞まれてしまいそうな感覚になる。湧き上がりそうな“恐怖心”を飲み込むように、ごくりと喉を上下させる。そうして、もう一度幼子を呼んでみた。
    「トㇷ゚セ、いないか?」
     夜の空よりも深い暗闇が広がる空間にイポㇷ゚テのくぐもった声だけが響く。どうやら奥行きはあるようで、暗闇の先に震えた声が吸い込まれていった。けれども、何も返事はない。
    「トㇷ゚セ、トㇷ゚セ!」
     暫し待つものの、やはり何も返ってこない。腕を伸ばしても人らしきものには触れられない。指先には乾いた土と小石がさらに付着するだけだった。
    (ここにもいないか……)
     もう少し奥へ前進して確かめたら戻ろうと、イポㇷ゚テが腕と脚に力を入れて前へ進もうとしたその時だった。

    「……だれ?」

     心臓がひとつ跳ね上がる。
     小さな、小さな、か細い声がイポㇷ゚テの耳に届いた。動物の鳴き声ではない。まして、その他の自然音でもない。それでも聞き間違いではないかと確かめるために、イポㇷ゚テはもう一度呼び名を声にする。
    「トㇷ゚セ……か?」
     静寂が降りる。刹那ではあっても、真っ暗闇の中では永遠に続く間のように錯覚をする。聞き違いではないようにと祈るその間を破り、

    「うん」

     と、今度こそ明瞭な幼い声が返ってきた。
     はたして、トㇷ゚セはそこにいた。
     姿こそ目視できないものの、それは間違いなく再び出会えることを望んでいた少女の声だった。
    (ああ、ああ……! 無事だった!)
     イポㇷ゚テは喜びと安堵に大きく息を吐く。良いカムイが導いてくれたのかもしれないと感謝を捧げたい気持ちに駆られるが、まずは洞穴の外へ出ることが先である。幼子の様子を明るい陽の下で確認したい。伸ばした腕の指先にはやはり何も当たらない。もう少し奥にいるのかとイポㇷ゚テは身を這わせて前進し、丁度全身が穴の中へ入り込んだところで、もう一度腕を伸ばす。すると、柔らかい布の感触が指先にあり、ようやくトㇷ゚セの存在をそこに確かめられた。
    「っ! だれ……?」
     トㇷ゚セの身体の強張りが指先に伝わってくる。姿が見えない相手から名を呼ばれ触れられたのだからして、警戒されるのも無理はなかった。特に聞き慣れない野太い男の声ならば、威圧を感じ恐怖してもおかしくはない。最初に仮名を呼びかけても返答がなかったのは、そうした理由もあるのだろうと覗えて、イポㇷ゚テは出来るだけ穏やかな声を出そうと試みる。
    「ああ、イポㇷ゚テだ! すまん、驚かせたな」
    「イポㇷ゚テ……?」
    「エカシをポㇰナモシㇼへ送る時にいた兄ちゃんだ。ええと、でっかくて肌が少し黒い兄ちゃん……覚えてないか? お前を探しに来たんだ」
     ほんのりと記憶を追うような間が空き、しんとした空気が満ちる。たった一度だけ会った親戚の男が幼子の記憶には残っていなくとも仕方のないことだ。警戒が解けないならば、トㇷ゚セの叔父の一人である連れの青年を呼んで来ようとイポㇷ゚テが考えたその時、
    「……キムンカムイのにいちゃん?」
     と、少女から意外な答えが返ってきた。
    「キム……?」
    「……キムンカムイみたいな、でっかいにいちゃん」
     想像していなかった返答にイポㇷ゚テが固まる。
     浅黒い肌と大柄な体躯をヒグマのようだと形容される経験は度々あった。それは愛情の伴ったものであったり、間逆に侮蔑の場合であったりと様々だったが、そう例えられることには慣れていた。しかし、このような時にこのような場所で、自身が幼子からヒグマのように思われていたのだと知る衝撃は大きかった。長老の葬儀の場にいた者で、イポㇷ゚テの他にヒグマに例えられそうな容姿の“にいちゃん”は兄のヤユフイカしかおらず、トㇷ゚セがどちらを想像しているのか定かではないが、どちらにしろ二人まとめてヒグマだと思われているだろうとは想像に容易かった。
     連れの青年は、幼子がヒグマの巣穴へと入り込む心配をしていたが、結果はまるで逆の状態だ。幼子の隠れ家にヒグマが潜り込んでいる。それがどうにもおかしく、無事に発見できた安堵感が相まり緊張の糸が切れ、イポㇷ゚テは小さく吹き出してしまった。
    「ああ、そうだ! キムンカムイの兄ちゃんだ」
     内心で苦く笑いながらも、その返答を受け入れる。これで警戒を解けるならばいくらでも〈キムンカムイ〉と呼ばれてもいい。山の最高位のカムイなのだ。名誉なことじゃないか。キムンカムイだから発見できたとさえ思えてくる。
    「どうしてここにいるの?」
     見知った相手であると知れたからか、トㇷ゚セの声も音色が高くなったように聞こえる。
    「お前がいなくなったって、皆が心配して探しているんだよ。それで、俺がここを見つけんだ。動けるか? 身体のどこかが痛くないか?」
    「いたくない」
    「そうか……良かった。じゃあ、もう昼だ。腹も減っているだろう? ここから出て飯を食いに帰ろう」
     そう提案するも、トㇷ゚セは押し黙る。それは、この場から出たくないという意思表示であることは明白だった。
    「……帰りたくないか?」
     やはり返答はない。しかし、ここから出たくはないが帰りたくないわけでもないのだと、複雑な思いが胸の内にあることは充分に伝わってきた。ならばと、イポㇷ゚テは自身が思い付き穴の中まで探したその理由を幼子へと問うてみた。
    「……エカシに会いに行こうとしたのか?」
     すると、トㇷ゚セの息を呑む音が小さく聞こえた。
    「…………うん」
     やはり、とイポㇷ゚テは腑に落とす。想像をしたとおりに、トㇷ゚セは〈アフンルパㇽ〉を通り抜け、祖父がいるであろう〈ポㇰナモシㇼ〉へ行こうとしていたのだ。
     子どもたちは皆、祖母から様々な伝承を語り聴かされる。海岸や岬の近辺に実在する洞穴へ勝手に入り込まぬように〈アフンルパㇽ〉の話は必ず語られるものだった。恐らく、トㇷ゚セもそうして聞いた物語を曖昧に覚えており、それをふとした時に思い出し実行してみたのだろう。
     小さな洞穴の中は大人でも呑まれてしまいそうな漆黒の空間が広がっている。出入口に目をやれば光は射しているが、穴の先へ進めば進むほどにその光は背後に遠くなっていく。目にするものは暗闇しかなくなる。この幼子がどれほど奥へ進んで行けたかは定かでないが、泣きもせずにこの先へ一人で進み、祖父へ会いに向かおうとした勇気は計り知れない。なんて勇敢な子どもなのだろうかとイポㇷ゚テは感嘆し、そして、その願いの強さに息を詰まらせた。
    「そうか……エカシに会いたいな、トㇷ゚セ」
    「うん……」
     イポㇷ゚テは込み上げてくるものを抑えるように喉の奥で咳を払う。
    「でも、ここでは会えないんだ……会えないんだよ」
    「……なんで、あえないの?」
     その純粋な問いがイポㇷ゚テの口を噤ませる。
     “死”の意味を、どのように伝えて良いのか分からなかった。幼子の心に触れ、それを傷付けないようにするには、どのように答えるのが正解なのだろうか。カムイとなった魂は、この地上ではない世界、死者の国へと旅立つ。生きた者が何故そこへ行けないのか、この洞穴が何故そこへは通じていないのか、今すぐには答えが導き出せそうにもなかった。
    「なんでだろうな……」
     ため息を落とすようにイポㇷ゚テは小さく、小さく呟いた。
    「……そうだな。じゃあ、それは飯を食う時に考えようか。だから、今日はキムンカムイの兄ちゃんと一緒に飯を食おう」
    「…………うん」
     そうして返った素直な了承に、イポㇷ゚テは再び深く息を吐いた。
    「コタンに帰ろう。ミチもハポも、皆が待ってるぞ」
     暗がりの中で探りながら、イポㇷ゚テはトㇷ゚セの柔らかな手を自身の何倍にも大きな手のひらで包み込む。日の当たらない場所にいたからか、その小さな手はほんのりと冷たくなっていた。冷水のような寒気がイポㇷ゚テの背筋を走る。
     もしも、トㇷ゚セがもっと奥へと進んでしまっていたら。外の光も見えないほどに、前後が分からなくなるほどの先へと行ってしまっていたならば。闇に心を囚われ動けなくなり、疲れ果て憔悴し、名を呼ぶ声に返事をする力もないままに、この手はさらに冷たく体温を失う結果になっていたかもしれない。
     イポㇷ゚テは暗闇の先を見つめる。〈アフンルパㇽ〉と呼ばれている穴が本当に〈死者の国〉へと繋がっているのか、その答えは分からない。自然が作り出した暗い大地の穴に畏怖と神聖さを感じた祖先たちが、ただ、そう信じていただけなのかもしれない。
     この小さな洞穴の中も深部は真っ暗で何も見えないが、恐らく、ある程度先へ進めば行き止まりになるだろう。ここは山中の盛り上がった地形に空いた小さな穴で〈アフンルパㇽ〉とも呼ばれてはいない。しかし、本当に〈アフンルパㇽ〉ではないのか、何処へも繋がっていないのか、この奥へと進んだことが無いイポㇷ゚テには断定ができなかった。そしてそれは、恐らく誰もが同じであると言える。
     ――なんで、あえないの?
     幼子の問いがイポㇷ゚テの脳裏にもう一度浮かんでくる。 
     そうだ。誰にも分からないのだ。この奥を、この行く先を、進んだそこに何があるのか誰も知りはしないのだ。
     黒い墨汁が半紙を染めていくように、イポㇷ゚テの思考をひとつの想いが滲み浸食していく。
     もしかしたならば。
     このままもっと奥深くへと進んで行けば〈ポㇰナモシㇼ〉へ繋がっているかもしれないじゃないか。
     誰も知らないだろう?
     誰も見たことはないだろう?
     確かめたい。
     確かめなければ。
     そうして〈ポㇰナモシㇼ〉へ行けたなら。
     死者の国へと辿り着けたならば。
     この子の祖父に会えるだろうか?
     俺の親父にも会えるのだろうか?

     そして――あの人にも。

     もう一度、会うことが叶うのだろうか?

     夢の中で出会う、かつての上官の姿が思い浮かぶ。今、目の前に立っているような気さえしてくる。有古。有古力松一等卒。名を呼ぶ声が聞こえてくる。これは違う。記憶を音のように錯覚しているだけだ。本当にそうだろうか? 何も見えない。そこに“いる”とも、“いない”とも言い切れない。暗闇しか見えない。宿に佇む痛々しいあの姿で、微笑みなのか、悲哀なのかも区別のつかない表情で見つめてくる。その視線に刺されるような感覚になる。何故、毎夜のように夢に現れる? そこにいるのか? 分からない。まぶたを開けているのか、はたまた閉じているのか、それすらも判断ができなくなってくる。この闇は何もかもを曖昧にする。何も分からない。深く眠りに落ち、夢を見ているのかもしれない。真っ暗な夢。二年間を過ごした宿の一室。有古力松一等卒。有古、有古。有古一等卒。その低音が耳鳴りのように木霊する。いいや、彼の人はすでにこの世にはいない。ここにはいない。それとも、ここはすでに〈死者の国〉なのだろうか?
     ここが何処であるのか、分からない。
     ここは、何処だ?
     今、己がいる場所は何処で、この先には何があり、はたして誰が待っているのだろうか――。

     ぐらり、と眩暈のように大きく頭がよろめいたその刹那、

    「にいちゃん」

     と、幼い声が弾けるように暗闇を破った。
     同時に、小さな手指が、きゅう、と柔らかに大きな手のひらを摘まんでくる。
    「にいちゃん、かえらないの?」
    「あ…………」
     続いたトㇷ゚セの声に、イポㇷ゚テの意識が漆黒の中から自身の身体の内に舞い戻った。
    「ああ…………すまん」
     安心させるように、ぎゅっと手の中の紅葉を包み直す。その幼い手はすでに温もりが戻っており、皮膚越しに伝わる体温がイポㇷ゚テの心を落ち着かせた。
     暗闇に身を囚われるな。この子をコタンヘ帰さなければ。
     自身の両頬を叩いてやりたいが、這いつくばった態勢では難しい。何より片手はトㇷ゚セの手を握っている。代わりにイポㇷ゚テは大きく深呼吸を繰り返した。土と緑の咽るような匂いが鼻腔を通り抜ける。肺に流れ込む空気はひんやりと冷たく、吐く息は温かい。生きている。
    「帰ろう。ここから出よう、トㇷ゚セ」
     返事の代わりに、小さなその手指がもう一度握り返してきた。その手を一旦離し、イポㇷ゚テは這って後ずさりをする。それに続くように屈んだトㇷ゚セがゆっくりと前へ進む。出口に近づけば外から射し込む光でトㇷ゚セの輪郭が徐々に浮かび上がってくるが、イポㇷ゚テの下半身が外側へ出れば穴が塞がるせいで、浮かんだ輪郭は再び暗闇に覆われる。脚と腕に力を込めて、一気に全身を外へ滑らせる。眩しい陽の光が沁みて、赤や緑色の光がチカチカと瞳の中で明滅をする。左手を庇にして目元に影を作りながら、すぐに穴の中へ右手を差し入れると、その手を掴んだトㇷ゚セが穴の中から飛び出してきた。陽の下に曝け出されたトㇷ゚セは、やはり小さくか細く、こんな幼子が狭く暗い穴の先をたった一人で進もうとしていた事実が信じ難いほどだった。
    「トㇷ゚セ」
     名を呼ぶと、幼子はこうべを上げて遥かに高い位置の顔を見やる。そして、
    「やっぱりキムンカムイのにいちゃんだ」
     と、先ほどまで暗闇の中で冷たい手をしていたのが嘘のように、眩しそうに、朗らかに温かく笑った。
     イポㇷ゚テは再び感嘆する。
     本当に強い子どもだ。強いカムイに守られている。だからこそ、俺はここに導かれたのだ。
     イポㇷ゚テは自身の手のひらの土を払い、トㇷ゚セの柔らかな髪を撫で目を細めて返した。そのまま全身についた土や葉を払ってやると、暗闇に慣れた目には射す光がどうにも眩しいようで、土に塗れた手で目を擦ろうとしたのですぐに静止する。自身が遮りとなって日陰となるように幼子の身体を包み込んだ。
     周囲を見回すと連れの青年はひとり先へ進んだようで、樹々の間をぬった遠くに小さくその背中が見えていた。腹から声を張り上げれば、青年の耳にも無事に保護したと知らせることができる距離である。トㇷ゚セの背中をポンと優しくはたいたのちに、少しの間だけ耳を両手で塞いでくれるかとイポㇷ゚テが提案しようとしたその時、「あっ!」と、トㇷ゚セが驚いたような声をあげた。
    「どうした?」
    「……ガラスだまがない」
    「ガラス玉?」
    「エカシにあげようって、もってたの」
    「……大事なものか?」
    「うん。たからもの」
     洞穴の中でイポㇷ゚テがその片手を包んだ時には、トㇷ゚セは何も持っていなかった。もう一方の手に持っていたのか、またはアットゥㇱの中に隠していたのかもしれない。どちらにしろ、穴から這い出る途中で転び出たのだろう。
     ガラス玉は女性の首飾りに使用されるもので、透明に近い乳白色や露草色のガラス玉は可愛らしく美しい。子どもたちが宝物として隠し持っていることも不思議ではなく、そして、実際にとても貴重なものだった。
     祖父に渡したかったほどの“宝物”を諦めろと幼子に諭すのは酷なものだ。つるりとした冷たい感触は手探りでも分かりやすい。きっとすぐに見つかるだろうと、イポㇷ゚テはもう一度穴の中を探すことにした。ここで動かずに待つようにと言い聞かせると、トㇷ゚セは素直に頷いた。そうして、腿へとズレた膝の充て布の位置を戻し、イポㇷ゚テは再び地面に這った。
     まずは腕を伸ばし入れて左右を探る。ガラス玉の感触はない。腕の力で上半身を穴の中へ潜り込ませ、両手や身体にあたる固く丸いものがないかと探っていく。
     その時、パラパラと頭に土埃と小石が落ちてきた。先ほどよりも量が多く、マタンプㇱでも除けきれなかった土が目に入り込みそうになる。それをテクンペ(手甲)で拭おうとした瞬間だった。
     
     ガラリ、と何かが崩れる音がした。
     
     脳天に衝撃が轟く。
     目の前に火花のようなものが散る。
     まるで、夜半に遠くの高台から狙いを定めた小銃が放つ火花のようだ。
     過去に幾度もそれを見た。
     記憶の中の音が蘇る。
     頭が熱い、痛い。
     しかし身体は酷く寒い。
     暗い。
     「う…………」
     声にならない声だけが口から漏れて、息が出来なくなった。
     そうして、イポㇷ゚テの視界も意識も、すべてが暗闇の中へと呑まれていった。


    《三》


     銃声が夜空に響く。
     身体の自由を奪う音。生きる魂を奪う音。しかし、ロシア兵が撃つ機関銃の規則的なその音が、まるで子守歌のようにも聞こえてくる。あらゆる感覚が麻痺している。
     崩れた塹壕と凍てつく寒さの中で、生きられるのか、はたまた死が迎えにやって来るのか、その狭間で意識を保つために、菊田と有古は互いに声を掛け合い絶え間なく話し続けていた。
     旅順を攻略した第七師団を含む大日本帝国陸軍第三軍は、九十里もの道を行軍し奉天での戦闘に加わった。日本軍が総攻撃を開始したのは三月一日である。菊田と有古が塹壕に取り残されたのはその二日後、三月三日の夜だった。二人が覚えているのはその日にちだった。実際には、意識を失っていた間にどれほどの時間が経っているのかも分からない状態だった。
    「……すまん、有古」
    「いえ、生きているのならいいです」
     有古の肩に置かれた菊田の手は乾いて冷えきっている。その手を握り返す有古の指先も麻痺しているように、すでに感覚が無くなっていた。
     はぁ、と菊田が大きく息を吐く。その白い水蒸気さえも凍り落ちてしまいそうな寒さの中で、ロシア兵に見つかるよりも先に味方の救助の手が辿り着くように願い、ひたすらに耐え待ち続けている。
    「生きてんのか、死んでんのか……分からなくなってくるけどな。それでも、月だけは綺麗に見えやがる」
     菊田の言葉に促され、有古はぼんやりと空を見上げた。自身が倒れている位置からは、崩れた土嚢や木材が視界の邪魔をして弧を描く尻尾の一部しか見えないが、白い月が夜空に灯っていることは分かった。東側が大きく欠けたごく細い鋭利な月は、未だ暗闇ではあるがもうすぐ夜が明けることを知らせてくれる。その円弧の横で空気を破裂する小銃の小高い発砲音が遠くの空から聞こえてくる。ここが戦場でなければ夜半に稼働する工場の機械音のようにも思えたが、現実には両軍の見張りの兵が互いの動作に敏感に狙いを定める音だった。それらが幾度も鳴り響く。暗い夜が明ければ、何重もの銃声と爆音がまた幾人もの命を奪っていく。どれほどに頑強な身体であろうとも関係はなく、傷付き、血を流し、崩れていく。そして自身も、そうして誰かの生を奪う。
     こんな地獄が現実だとは信じたくない。旅順にて初めての戦闘を経験してから、その思いは有古の中にずっと滲んでいる。生きているのか、死んでいるのか。菊田がこぼした言葉のように、確かに何もかもがその境界線を越えるように曖昧で、今いるこの場所が何処であるのか、何も分からなくなっていきそうだった。
    「……すでに、ポㇰナモシㇼに来ているのかもしれませんね」
     ふと、胸のうちから湧き出た言葉を有古が漏らす。
    「ポ……何だそれ?」
    「アイヌの言葉で〈下方の国〉という意味で……要するに〈あの世〉です」
     アイヌの死生観の中にも、その〈下方の国〉よりもさらに下の世界、深い罪を犯した者たちが行く地獄のような場所がある。血と肉が飛び交うこの戦地がまさにその場のように感じているが、有古はそれを口には出さないでおいた。〈地獄〉という単語を今、この死地で菊田に聞かせたくなかったのだ。
     しかし、当の上官は言葉ひとつ取っても含まれる機微に敏感で、有古の右肩に置かれたままの菊田の指先がピクリと動き反応する。そうして上半身を起こそうとしたが、左胸に負った深い傷が激しく痛むせいで叶わず、視線だけで斜め下の部下の表情を伺った。有古の瞳は夜空を眺めているようで、その先は別の何かを捉えているように見えた。菊田の目にはそう映った。
    「……あの世、か……」
     菊田も再び夜空へと視線を戻す。
    「確かに、ずっと夜が続いてるような気がするもんな」
     太陽が高く昇っていた頃にロシア軍の砲弾が菊田たちの潜む塹壕へと直撃し、二人が次に意識を戻した時にはすでに陽は落ちかけていた。橙に紫の絵具が滲むように帳が下りていく空は、まるでじりじりと命の炎が消えていくようにも見えた。寒冷地の夜は長い。暗闇に身を伏せて怪我の痛みと死への恐怖の中で救助を待つ状況は、尚更に時間を何倍にも遅く体感させる。夜がずっと、延々と長く続いているような気さえしてくるのだ。
    「……でもよ、こんなにクソ痛ぇんだ。寒くて寒くて震えてるってのに、傷口は熱くてクソ痛ぇ。それでも心臓は健気に脈打ってやがる」
     菊田は自身の心臓の上へ右手を添えようとしたが、傷の真上であるので、すぐにその手を宙に止めた。実のところは、寒さと痛みと眠気に意識を取られ体内に脈打つ音が上手く聞こえず、自身の心臓が今もその役割を全うしているのかは分からなかった。本当はすでに動いていないのかもしれない。止まってしまっても良い、とさえも思えた。しかし〈あの世〉と口に出した部下の心持ちをこれ以上に衰えさせたくはなかった。
    「しぶといよなぁ……喉は乾くし、飯も食いてぇ。ああ、一服だってしてぇな。熱い風呂に浸かって、寝酒の一杯。熱燗がいいな。いい気分で酔っぱらったら布団の中に潜り込んで、ラッパの音なんて鳴らねぇ場所で昼まで眠りこけて、また夜になったら……そうだな。今度は女でも抱きに行くか。なぁ、こんな有様なのに欲まみれだ。どう考えたって生きてる証だろ?」
    「……残った未練かもしれませんよ」
    「言うじゃねぇかよ。まぁ、確かに。この全部が未練だな」
     菊田は宙に止めた右手を再び地面に横たわらせて一息をつく。
    「……だから、こんな山盛りの未練なんて残してくたばっちゃいられねぇってこった。〈あの世〉なんて辛気臭ぇこと言うなよ」
     そうして茶化す口調で有古の肩に置いた左手を揺らしてみせたが、「先に『生きているのか、死んでいるのか分からなくなる』と言ったのは特務曹長殿じゃないですか」と返されて「……だな。俺が悪いな」と、菊田はすぐに謝る羽目となった。
     そんなやり取りに、ふふ、と鼻を鳴らすようにして二人で小さく笑いあった。その部下の声に菊田は安堵する。
    「ところで、『夜が続く』というのは、どういう意味ですか?」
    「え? ……ああ、〈黄泉〉って知ってるか? 黄色い泉と書く」
    「初めて聞きました」
    「あの世の別の呼び方なんだが、そこは暗闇の世界らしいんだ」
    「へぇ……じゃあ、やっぱりここは〈あの世〉なのかも」
     菊田が胸を撫でおろしたのも束の間に、有古はもう一度その単語を呟いた。ただ静かに、ひたすらに空を眺めるその瞳は何か別のものを捉えているのではなく、正確には何をも見つめていないようだった。ただただ、宙に視線の先があるだけだ。
     菊田はひとつ咳払いをする。
    「そうだ。黄泉を知らねぇんなら、古事記は読んでないな?」
     その菊田の問いに小さく間を置いて、有古は躊躇いがちに声を出す。
    「……はい。入営した時に読むようにと言われましたが……でも、その。あまり真面目に読んでいません」
    「ははっ!……うっ…………ッ痛…………」
     咄嗟に出た自身の高い笑い声が胸の傷に響き、菊田がその痛みに唸り身もだえる。走る激痛に上手く息を吸い込めず、それが咳を誘発しさらに痛みを加速させる悪循環となる。声にならない呻き声と苦し気に繰り返される咳だけが崩れた塹壕の中で響く。菊田の胸の傷は深く、肺に達している可能性もあった。有古が顔面に受けた裂傷も首から上の怪我であるので酷い出血量ではあったが、菊田の怪我はそれ以上に深く早急な手当が必要なのは分かりきっていた。切れ切れに吐かれる嗄れた唸り声を耳で受け止めながら、菊田が落ち着くのを待つしかない自身に有古は歯噛みする。そうして動けぬままにひと時が過ぎると、苦し気な声が徐々になだらかになり、漏れる息の間隔が伸びていく。暫しの間を置き、ようやく激しい痛みが引いた菊田が鼻をすすり掠れた声で「……すまん」と消え入るように呟いた。
    「いえ、何もできず申し訳ありません」
    「……あぁ、お前だって動けねぇんだ。気にするな」
     口の中に溜まった砂と血液交じりの唾を菊田は吐き出した。咳込んだせいで大きく体力が奪われ、唇の端から垂れる唾液の筋を拭う気持ちにもなれなかった。それでも、話し続けなければならない。それが唯一の生き残る方法だった。寒さと痛みと恐怖に打ち負けないように。真面目で朴訥なこの部下を、父親を殺されたこのアイヌの若者を、彼こそは生きて帰してみせるのだと。有古の存在が菊田の気力を保たせる全てとなっていた。
    「……はぁ、クソッ! いってえなぁ……やっぱり、どう考えても生きてんなこりゃ」
     菊田は深く、深く一息を吐く。白い息が宙の中に霧散する。
     暫しの沈黙が訪れる。しかし、再び銃声が響きすぐに静寂はかき消された。恐ろしいあの音が、今は眠りを妨げてくれる気付けのようになっている。二人ともに体力は限界に近い。このまま無言の時間が続くならば、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。体力を温存するには眠る方がいい。そして菊田の胸の怪我を思えば、これ以上には喋らない方が良いとも有古は考える。しかし、肌を刺すような寒さの中で眠り体温を下げてしまえば、再びまぶたを開くことは二度と叶わないようにも思う。そう理解はしていても、血と体力を失った身体は休息を必要とする。顔を覆う包帯で閉じた右目に引っ張られ、開いた左目も視界を閉じようとする。深い眠気がさらなる暗闇へと誘ってくる。
    「……正直でいいな、お前は」
     そうして微睡みに落ちそうになる有古の意識を、菊田の穏やかな呟きがもう一度浮上させた。
     有古は閉じかけたまぶたを持ち上げる。睫毛に乗った雪のせいで視界が霞むことに気付いたが、腕を持ち上げて雪を払う気にはなれなかった。有古は大きく深呼吸をする。冷たい空気が肺に痛い。それでも、ひと時の眠気覚ましには丁度良かった。
    「正直、とは……」朦朧とする意識をこの場に留めるように有古も声を出す。
    「読んでねぇって話だよ」
    「あぁ……怒られるかと思いましたけど」
    「まさか。まぁ、よほど暇なら読むくらいでいいさ」
    「そんなことを言っても良いんですか?」
    「読んでない奴に言われたくねぇよ」
     他の兵士たちがこの場にいたならば、“日本の歴史書”などと呼ばれている書物への、声には出せないような“不敬”を互いに苦笑する。
    「どうせ俺とお前しか聞いていない……だから、ここだけの秘密ってこった」
     意識を取り戻した当初は、二人以外の声――おおよそは呻き声だったが――も、まばらに聞こえていた。しかし、負傷した傷の痛みに崩れ落ちた塹壕の瓦礫が邪魔をしてそれぞれが動けず、互いの名を呼び合うも徐々にそれらの声は小さくなり数が減っていき、最終的には菊田と有古の声しか聞こえなくなった。二人しか聞いていない。それは恐らく間違いないのだろう。有古は痛む顔面を小さく左右に動かし辺りの様子を覗った。何も見えない。見えるはずもない。暗闇に姿が隠れた周囲に臥すかつての仲間たちは、きっともう誰もこの声を聞いてはいない。
    「それで、だ。その古事記に日本を作ったとかいう夫婦の神が出てくるんだよ。そこは知ってるか?」
     有古が答えないのを返答として菊田は続ける。
    「名前はイザナギとイザナミと言って……どちらがどうだったっけな。俺も、ちゃんとは覚えてねぇや」
    「この世界を作ったカムイ……神の話はアイヌの伝承にもあります」
    「そうなのか? じゃあ、意外と何処にも似た話があるかもしれねぇな」
    「もしかしたら、同じものを指して別の呼び方や話が伝わっているかもしれませんね」
    「あぁ、確かにあり得るな……同じ人間だしな。全く違うもんの股から産まれたわけじゃねぇだろうよ」
     “同じ人間”
     菊田が口にした言葉を聞いて、有古の胸をチクリと何かが突き刺した。
     そうだ、同じ人間なのだ。
     ただ、同じ人間であるはずなのに、理解しあえず、憎しみあい、奪いあい、地獄を作る。それぞれに譲れないものはある。守るべきものがある。それらが相反し、水と油のように分離して交われない。双方の間に壁を作り線を引き、互いは同等ではないのだと勝手に優劣を決める。国同士も、そして、ひとつの国の中でも同じことが起きる。隣りあっていれば衝突をする。同じ人間であるはずなのに。互いに似た部分を見つけて笑い、違う部分を尊重し、認め、助けあって生きていくことが何故こんなにも酷く難しいものなのか。
     有古が軍人となる意思を固めたのは、そうして作られた壁を壊し、自身が決して劣ったものではないのだと示したかったからだ。かつて八甲田山で遭難した軍人たちを、和人たちが舌を巻くほどの術と能力で捜索した時分にその思いは芽生えた。民族の立場を憂い奮起したと言えるほど誇り高いものではなく、ただ自尊心を守るためであったが、ひいてはその意思が我ら民族のためになるのだと同じアイヌの古兵は言った。徴兵され、身体検査に「甲種」として合格し入営した時には自身を誇りにさえ思った。しかし、実際に戦地に立ち、この手で見知らぬ相手の命を奪い、仲間の命を奪われる日々を繰り返すうちに、自身の魂も削られていくように感じていった。
     ただ、同じ人間であるのだと、そう認めて欲しいだけなのに――この〈地獄〉は、いつまで続くのだろうか?
    「聞いてるか? 有古。有古一等卒」
     ふと、菊田に名を呼ばれ、小さく痛んだ胸の内に捉われた有古の意識が再び寒空へと戻る。
    「あっ……はい、申し訳ありません。聞いています」
     気付けば視界が水分で滲んでいた。寒さで凍りついてしまいそうで、大きく何度か瞬きをして雫と雪を散らし、有古は返事をしながら鼻をすすった。精神の浮き沈みが激しく、気を抜けばすぐに心が何処かへ飛んで行くことを有古自身も気付いていた。そうして飛び去ったままであれば、きっと心も身体も魂ごとこの世には二度と戻れないだろうことも想像できた。
    「……でも、ずっと話されていて大丈夫ですか? 怪我が……」
    「ああ、」と菊田は鼻を鳴らして笑って返す。「黙ってるとそれこそ死んじまいそうなんだよ」
     冗談めかした声色だったが、そこには紛れもない本心があった。
    「……申し訳ありません」
    「いや、心配してくれたんだろう? いいさ」
     菊田は喉の奥で咳を払う。
    「あぁ、話が逸れたな。ともかく、その話は女の神が死んで、嘆いた男の神があの世に女を取り戻しに追いかけていくって話なんだ。で、女がいるあの世を〈黄泉〉という。真っ暗で何も見えやしねぇ、夜の国だ」
     暗闇は心の暗い部分を増幅させる。夜が明けない世界とは、不安をかき消す太陽の光も拝めずにその感情を延々と抱えたままでいるのだろうか? それとも、時折月の光が射して浄化してくれるのだろうか? 今、眼前に見える月は白く細く、惨状が広がる地上を眺めてそれでも美しくその曲線を描いてはいるが、この暗い穴の中までを月光は照らしてくれやしない。菊田の声を聞きながら、すぐにも儚く消え入りそうな月だと、有古はぼんやりと狐を描く白い尻尾を眺める。
    「それで、この世に戻りたい女は黄泉の国の神たちに相談をするために部屋に籠るんだが、女は男に『決して灯りを点けて周囲を見るな。部屋を覗くな』と強く念を押すんだ。でも、男は火を点して見ちまうんだな。神様なんて崇高なもんでも男が馬鹿だってのは変わりねぇんだよ」
     菊田が投げやりに笑うと同時に、再び銃声がまばらに鳴り響いてくる。少しずつ遠くの空が白くなり始めた。未だ夜に近いとはいえ、視界も徐々に明瞭となっていく。あの音がまた誰かの命の火を消したかもしれない。痛みに耐えながらも長く淡々と話し続けている自身たちの状況と、塹壕の外側で繰り広げられる惨状があまりにちぐはぐに思えて、別の世界のようだと有古は思った。
     誰も来ない。味方の救助の手も、ロシア兵すらも誰もここへはやって来ない。まるで空に透明の膜が張られているように濠の内側と外側はそれぞれに違う世界が広がっている。
     はたして、誰かに見つけてもらえるのか?
     もう一度、地面の上に立ち、呼吸をすることは叶わないのか?
     多くのカムイたちが息を吹き返す美しい春も、夏のむせ返るような樹々の青色も、焼けるように染まる秋の山々も、白で覆われた冬の荘厳な大地も、濃厚な硫黄の匂いと湯煙さえも、二度と触れられないのではないだろうか?
     時折に響く銃声以外には周囲はずっと静かだ。誰の声も聞こえない。生きた者は一人としていないのか? すでに死者しかいないのか?
     ならば、ここはもう〈あの世〉ではないのか。そう錯覚をしてしまいそうだった。いいや、もう錯覚をしている。
     有古の脳裏に波のように不安が押し寄せてくる。考えるな。だけれど、どうにもその大波を払えない。頭から飲み込もうと、その口を大きく開けて波が近付いてくる。
    「すると、だ――」
     今にも恐怖に圧し潰されそうな有古の横で、菊田の穏やかな低音が、しかし有古に言い聞かせるような強い色を持って物語の続きを紡ぐ。
    「蛆の湧いた見るも無惨な死体姿の女房が男の目に飛び込んでくる。仰天した男は逃げて、そんな姿を旦那に見られたくなかった女は、泣いて恨んで男を捕まえようと追いかける。結局、最初に望んでいたとおりに女がこの世に戻ることは叶わなかった――って話だ。まぁ、続きがあるしこれだけの話じゃねぇけどな」
     相槌を打たない有古の様子に、菊田は軽い調子で柔らかに笑う。
    「なぁに、怪談じゃないんだぜ? 俺の話術で漏らしちまったか? 凍傷になるぞ」
    「……冗談はやめてください」
     ようやく返した有古の声に、菊田は得意げにもう一度笑い声を聞かせる。有古は楽し気にからかう上官の表情を拝んでやりたかったが、傷が痛む顔を上方へ傾けるのが困難だった。
    「……その話には、どういった教訓があるんでしょうか?」
     意地の悪い上官の笑顔を見るのは諦めて、有古はふとした疑問を投げる。広く知られる多くの物語には様々な心得や教訓が含まれている。アイヌの伝承にもそうした物語は多い。教育として語って聞かせるものならば必ず何かしらの意味がある。古事記は入営した際に読めと言われたものだからして、恐らく“理想的な良い日本人”となる模範的な意味があるのだろうと有古は想像した。
     しかし、菊田の口から返されたのは予想とは少し違うものだった。
    「教訓ねぇ。そんな大層なもんが古事記にあるかは……まあ、あるんだろうよ。でも、いま話した部分で俺が読み取ったのは『取り戻したくても取り戻せないもんがある』くらいかな」
     菊田は日清戦争で弟を亡くしている。多くの兵士が同じ病気で死んでいった。それは戦闘での死者数を遥かに超えるのほどの悲劇だった。軍医が駆け回り昼夜研究に勤しんでいるが、この日露戦争でもその病気は再び猛威を振るい多くの死者を出している。有古は弟の話を菊田自身から聞いていた。詳しくは語られなかったが、菊田が弟の死に深い罪悪感を抱えていることを有古は薄々と感じていた。取り戻したくても取り戻せないもの。有古にとっては父親がそうだ。そしてきっと、この死地に立つ誰もが願う、誰とも殺し合わない平穏だった日々がそうなのだろう。
    「ああ、それから、」と、菊田はもうひとつの意味を付け加える。
    「死んだ人間と生きた人間はどうしたって立っていられる場所が違う、ってことかね」朗らかに笑っていた菊田の声色が、ふと重くなる。「読み取ったというか、それが今お前に伝えたいことだな」
    「いいか? 有古」
     菊田の左手がもう一度有古の肩に触れ、その指先に力が込められる。
    「今は周りを気にするな。確かに周囲には死んだ奴らがいる。でも、俺は、お前は生きている。俺たちがいる場所は〈この世〉だ。〈あの世〉になんざ行かせねぇぞ。俺の声を聴け、俺の声だけを聴くんだ。空虚に囚われるな。上を見ろ、あの月だけを見ていろ。もうすぐ夜が明ける――」
     ロシア軍の砲弾が自身たちが潜む塹壕に直撃し、爆炎と風に吹き飛ばされる仲間の姿を有古は目にしていた。その一瞬から次にまぶたを開けるまでの記憶はない。再び目を開いた時には、先ほどまで頭上にあった横一列に積まれた土嚢は消え失せており、バラバラに崩れた木片と破れた土嚢が頭上に穴倉のように形作っていた。銃声と爆音と咆哮が小さく聞こえるほどの耳鳴りと、硝煙と生臭さが辺りに充満していた。目の前には土埃と陽が落ちかけた空だけが見えていた。顔にひりつく痛みが走り、左目には泥水のようなものが入り込み視界を塞いでいた。震える指先で顔をなぞると、どくどくと血が流れ出ているのが分かった。そして、視界を塞いでいるものが泥水ではなく自身の血液なのだと気付いた。全身を打ち付けたようで身体中のあちこちが酷く痛んだ。それでも腕は動かせたので、上衣の裏側にある物入れから包帯包を取り出したところで、菊田の呻くような声がすぐ側に聞こえた。
     有古は日露で初めての出征をしたが、この奉天での戦いの前、旅順でも日本軍は多数の死者を出しており、有古は目の前で幾度も仲間たちの死を見届けてきた。敵も味方も既に死体など見慣れたものだと感じていたが、実際には見慣れると言うよりは心を殺しているに近かった。しかし、完全に殺せているかと言えば実際はそうではない。
     救助を待つ間は周囲を見るな。深い怪我で血は足らず、さらには凍てつくような寒さの中にいる。体温も体力も気力までもが瞬時に底へ落ちていく。関東で育った菊田よりも登別で生まれ育ち、寒冷地には遥かに慣れているはずの有古であっても、それは全く同じことだった。現に、幾度も有古の意識はこの場から立ち去ろうとしていた。痛みと寒さは何もかもを奪っていく。つい先ほどまで声を掛け合う仲間だった者たちの惨状を目にすれば、いとも簡単に恐怖と絶望に襲われて〈あの世〉へと引きずり込まれてしまうだろう。
     だから。
     ――今は周囲を気にするな。俺の声を聴け、俺の声だけを聴け。上を見ろ、あの月だけを見ていろ――
     有古の瞳が再びに霞む。血液でも泥水でもない、温かな水分で滲む。
    「いってえなぁ、クソッ……!」
     菊田の痛みに唸る声が響く。遠くの空には明るい陽の光が美しく映え始めている。
     小銃の音が交互に空を通過する。
     塹壕の中は静かだ。
     菊田の柔らかな低音だけが聞こえる。

    「ああ……生きたいな、――――」

     菊田が名前を呼んだ気がしたが、じりじりとした雑音が邪魔をしてその声は上手く有古の耳には届かなかった。


    《後編へ続く》
    3031 Link Message Mute
    2022/11/26 2:30:00

    常世で泣いてくれ そして、〈前編〉

    人気作品アーカイブ入り (2022/11/26)

    金塊争奪戦後の有古力松/イポㇷ゚テの話
    有菊が根底にありますがカプ色はかなり薄いです
    後編は執筆中

    ※27,000字ほど
    ※オリジナルのキャラクターが出てきます
    ※アイヌ語の単語は登別のある「幌別方言」を参考にしています
    ※その為「父=アチャ」ではなく「父=ミチ」になっています

    #有菊

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