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    ゆめのあとさき



     ゆっくりと、白い瞼が開いた。まるで蝶が羽根を休めくつろぐように。蕾が朝陽を浴びて開くように。
     いつもは使わないような比喩が頭に浮かんでしまったのは、ロケーションによるところが大きかった。ルミナスメイズの森。昼なお暗く、しかし茸たちが点々と神秘的な灯をともす森のなかで、力なく横たわっていた男。今まで彼を必死に探していたというのに、その光景が妙に絵になっていたものだから、しばし囚われたようにぼうっとしてしまった。
     忘我の数瞬。そののち、我に返ったオレは焦って彼を引き起こし、肩を揺さぶった。
    「ネズっ! おい、大丈夫かよ……! 」
     ぼんやりとあらぬところを見つめていた彼の目に、オレの必死な形相が映る。その瞬間、その瞳がうっとりと蕩けた。
    「キバナ……?」
     場違いなくらいに熱っぽい声。バターが溶けて滑り落ちていきそうな、砂糖が焦げて香ばしいカラメルになりそうな。いや、ちょっと待ってくれ。聞いたことないぞ、こんな声。どうしようもない違和感を覚えた瞬間、ネズの指がオレの頬に伸びる。つう、と冷たい汗が背中を伝った。
    「ねえ、もう一度呼んで、おれの名前……キバナ、その声で……おれの耳はおまえの声しか聴こえない、おれの目にはおまえしか映らない! ああ、キバナ、愛しいひと……どうか呼んで、もう一度、おれの名を!」

      ◆

    「夏の夜の夢症候群だね」
     ピンク色の魔女はやたらと断定的にそう評した。横で綿菓子のような髪の少年が居心地悪そうに控えている。雑然とはしているが不思議に統一感のあるクラシックな内装の応接室。ピンク色の魔女、ファンタスティック・シアター、アラベスクの元ジムリーダーであるポプラのばあさんは、悠然とカップになみなみと注がれた紅茶を傾けている。オレの目の前にも湯気が立ち香気を放つティーカップが置かれていたが、残念ながらそれを楽しむ気にはなれなかった。良い茶葉使ってんだろうなあと投げやりに思うのみである。
    「……夏の夜の夢症候群?」
    「あたしがそう呼んでるだけだけどね」
     正式名称じゃないのかよ、と思ったが突っ込む気力も起こらなかった。腕を動かすのも億劫だ。なんせ今オレの腕には、人間がしっかりと絡みついているのである。ネズだ。ビートの視線が痛い。そりゃ、先輩同士がこんなことになってちゃなあ。ネズはもうジムリーダーじゃないから先輩というには微妙な立ち位置だけど、それでもビートとネズの妹のマリィは同期でどっちも新人ジムリーダーだし。そう考えると余計ややこしい。それにこの少年の性格からして、状況をおもしろがることもできないのだろう。もしカブさんとメロンさんがこんな感じになってたらオレなら爆笑しながら写真撮るけどな。……いややっぱそれよく考えたら生々しいな。今のナシ。
     話をちょっと戻そう。ネズの尋常でない様子に動揺したオレは、すぐに病院までネズを引っ張っていった。病院での診断は「異常なし」。脳波も何もかも問題なし、全くの健康体。ちょっと痩せすぎが気になるだけ、あとは低血圧とのことだった。「でも様子がおかしいんです」というオレの必死の訴えに、医師は首を捻るばかりだった。栄養指導のみが医師からのコメントで、検査はあっさり終わりを告げた。相変わらずべたべたくっついてくるネズの扱いに困り果てたオレは、ルミナスメイズの森で起こったことならポプラのばあさんに訊くのが手っ取り早いだろうと判断した。そして病院からその足でネズと連れ立ってアラベスクタウンまでやってきたのだった。
     マリィから根回しがあったのだろう、アラベスクタウンに着くと、入口でビートが待ち構えていた。そのままオレとネズをばあさんのところまで連れていき、今に至る。そんで開口一番これだ。夏の夜の夢症候群ねえ。
     気を取り直して、ポプラのばあさんに話の続きを促す。
    「ガラルが誇る劇作家、そしてその喜劇の傑作──そこからとってんでしょ?」
    「坊ちゃんも見たことくらいはあるかい」
    「プライマリースクールの演劇の授業の最終課題だったよ」
    「そりゃ話が早いね。ところで何役だったんだい」
     ディミートリアス、と答えると老女はケケケと笑った。なんだその笑いは。どの種類の笑いだ。
    「坊ちゃんが大根だったか名優だったかは置いておくとして……そうさね、あの話には妖精王が出てくるだろう。オーベロンさ。かの劇聖が何からインスピレーションを得たか、もうおわかりだね」
    「……オーロンゲ」
     頭を抱える。早い話が、フェアリーポケモンの仕業ってわけだ。
     あの喜劇のなかじゃ、妖精の女王が妖精王の策略にハメられて取るに足らない男に一目惚れさせられる。ついでに複数の人間が巻き込まれて、惚れた腫れたの大騒ぎだ。戯曲の筋は置いとくけど、つまりばあさんが言いたいのは、こういう「どう考えたって妖精の仕業っぽく見える一目惚れ」は「かの劇聖の時代からポケモンの影響でちょくちょく起こっていたことだと推測される」ってことだ。彼はそれをちょいちょいとこねくりまわしてステキな喜劇に仕立てあげたってわけ。演劇人かつフェアリータイプの専門家として七十年間辣腕を振るってきたばあさんだから、その推測はまあ間違っちゃいないのだろう。確かにフェアリーポケモンが好きそうな趣味の悪いいたずらだと思う。あいつらカワイイ顔してやることは人智を超えてるからな。
     あの森で何をやらかしたのか知らないが、ネズはそれの餌食になったらしい。そんでもって、一番に目に飛び込んできたオレさまに、「一目惚れ」した。
     舞台の上じゃおもしろおかしい喜劇だ。だが自分の身に起こってしまえば、全く笑えない代物だった。
     視線を横に滑らせる。相変わらずネズはおれの腕に巻きついている。目が合うと、へにゃんとかとろんとか、そういう類の擬音でしか形容できないような顔で微笑んだ。なんだよこれ。そんな顔見せてくれたことなかったのに。ずきずき頭が痛むのは、気のせいじゃなさそうだ。
    「……っつーことは、オレさまがドロバンコ頭のおバカな織工ってことかよ? キャスティングに断固異議を唱えたいね」
     頭痛を吹き飛ばすべく軽口を叩く。ビートが「そんなこと言ってる場合ですか」とでも言いたげな胡乱な目付きを送ってくるが、無視だ。こうでも言ってなきゃめげそうなんだよ。
    「そんで、そうやって名前つけてるってことはだ、今までにもこういう事態は何度かあったってことだよな?」
    「そうさね、ちょくちょくあるね」
     えらく久しぶりだけどね、とばあさんは呑気に紅茶を啜った。優雅だよな。人の気も知らねえでさ。歳を重ねればこんなもんは瑣末なこととしか思えないんだろうか。でもオレさままだ若者カテゴリだから。ポプラのばあさんも自称十六歳だけど。
    「解決方法とかないの?」
    「……手っ取り早いのは、ネズさんにその……技ですかね? なにかしらのまじないをかけた個体を探して、倒すことじゃないでしょうか」
     ビートが顎に手を当てて、考え考えといった感じで声を発する。そうそう、そういうのが聞きたかった。なかなか冷静でよろしい。
    「多分オーロンゲ系統……ベロバーかギモーなんだと思いますが。あの戯曲でもオーベロンは自分では動きませんからね。手下の妖精、パックに行動させる。そう考えれば……」
    「……なあ、嫌なことに思い至っちゃったんだけど、ベロバーかギモーってさあ、ルミナスメイズの森に……」
     うじゃうじゃいるねえ、とばあさんがのたまうもんで、オレとビートは同時に肩を落とした。うじゃうじゃ。暗い森でベロバーだかギモーだかをちぎっては投げちぎっては投げする自分の姿を思い浮かべる。気が遠くなりそうだ。
    「今まではどうしてたんですか?」
    「そんなもん……日にち薬さ」
     ダメだ、全然当てになんねえ。頭を抱えるオレをよそに、ばあさんは妙ににたにたしながらネズに茶菓子を勧めている。ネズは途端に無愛想な顔に戻って、ちいさく会釈してそれを受け取った。オレ以外には割と普通に接することができるのだ。だからこそ、オレ相手への態度のおかしさが際立つ。
    「まあまあドラゴンの坊や。日にち薬ってのも別に適当こいてるわけじゃないよ。フェアリータイプのポケモンは月の持つ力に影響を受けることが多いからね」
    「そうか……昨日は確か満月だったな」
     スマホで月齢表を確かめる。記憶は間違っていなかった。
    「新月に至るまでに効果は自然となくなっていくさ。今までがそうだったからね。もって二週間だろうよ」
     二週間……二週間も? その間ずっとネズはこの状態なのか。オレは当惑して横の男を見た。それに気付いたネズはちびちびと齧っていた茶菓子を取り落とさんばかりの勢いでふたたびオレに縋ってくる。ああほんと、調子狂うよ。
    「ああ、キバナ……何がおまえのそのかんばせを曇らせるんです? 太陽のような人、どうかその憂いを取り除いておれに微笑んで……どうすればいい? 歌でもうたいましょうか? おれにできるのは、それくらいしかありませんから……そうすればおまえの心にかかった雨雲も、やがてどこかに消えますか? ねえ、キバナ……?」
     ネズは熱に浮かされたように、オレの頬を撫で、切なげに眉を顰め、オレの胸に頬を寄せる。ビートはただ唖然としてそれを見ている。ポプラのばあさんはにやにやして、「ピンクな二週間のはじまりだねえ」と楽しそうに告げた。

      ◆

     ところで、オレがネズのこの変貌ぶりに忸怩たる思いを拭い切れないのには理由がある。それは、オレとネズがいわゆるセックスフレンドだったってことだ。しかも結構ドライな。これは別にオレがそうしたくてしたわけじゃなくて、他でもないネズがそう望んだのだった。酒の勢いで始まった関係をずるずると引き伸ばして、ネズの望むまま仮初の安寧に甘んじていたのだ。
     昨日の朝方にかけて、つまりネズがこんなザマになる前日も、オレたちは褥を共にしていた。夜中にふらりとオレの住処にやってきたネズを丁重に迎えようとしたが、挨拶もそこそこに彼はオレをベッドに押し倒した。ムードもなにもなく数発キメて、彼はベッドサイドで煙草を吸った。どうも荒れていたようだったが、何も言わなかったしオレも何も聞かなかった。それが暗黙の了解だった。それでも、そこそこの間続くこの関係を終わらせる気はまだあっちにはないらしいというのがオレの見立てだった。
    「なぁ、ネズ」
    「……なんです」
     寝転んだまま長い髪を手慰みに梳けば、灰をトレイに落としたネズがゆらりと振り返った。
    「いっつも後ろからしかさせてくんないのって、こだわり?」
     オレの言葉を聞いて、興味をなくしたようにふたたびネズはベランダの方を向いた。手のなかの煙草はほとんどフィルターぎりぎりなのに、惜しむようにそれを吸いつけていた。下着も何もつけないまま雑に胡座を組んでいるから、尖った膝頭がいかにも無防備だった。
    「……お互い楽でしょ、そっちの方が」
     しばしの沈黙のあと、小さな声でそうやってせせら笑うから、オレは何も言えなくなったものだった。
     その日も、というかいつもそうだが、朝を迎える前に彼はそそくさと出ていこうとした。点々と脱ぎ散らかした服をまるで逆再生するみたいに一枚ずつ身につけ、煙草の灰だけを置き土産にして出ていくのだ。いつもはオレがうとうとした隙を見はからってするりと帰っていくのだが、なんとなく来た時の荒れっぷりが気になったオレは寝付けなくて、珍しくネズを見送る形になった。
     そしたら玄関口で、ほんの戯れのつもりで頬に口づけようとしたオレを、ネズは思いのほか強い力で拒否した。顎のあたりを掴まれて、張り飛ばすような勢いで。
     別に何も恋人ごっこをしようとしたつもりでもなんでもなくて、ただ親愛の情を示そうとしたのだが、なにかそれはネズの癪に障ったようだった。いや、それよりも脊髄反射に近かったのだろうか。ちょっと、っていうか結構、びっくりした。え、と小さく声が出てしまった。多分、傷ついたような表情にもなっていただろう。そしてそれを見て、ネズはなんだかオレよりもよっぽど傷ついた顔をしていた。硝子みたいな瞳は揺れていて、今にもぱりんと割れそうだった。オマエがそんな顔すんのかよ、と思った。拒否したのはそっちのくせに。
     そしてそのまま、ネズは踵を返し、何も言わずに音を立ててドアを閉めた。弁解の余地も何もなかった。鼻先で閉まったドアを見て、あーなんか、終わんのかもなー、と、そう思った。割と続いてきたのになー、呆気ないもんだなー、セフレなんてこういうもんかなー、とも。ベッドサイドのアッシュトレイを片付ける気にもなれなくて、そのままシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んで、柔らかいピローに顔を埋めてかたく目を瞑った。眠りに落ちる直前に脳裏を過ったのは、やっちまったって感じのネズの表情と、もうバトルもしてくんないのかなあ、というなんだか色気のない惜別の念だった。
     それでもどうにかこうにかいつも通りの時間に目が覚めて、スケジュール通りのタスクをこなし、セフレとまずい感じになったなどとはおくびにも出さずに完璧に仕事をやり切った。自慢じゃないがオレはこういう時こそ仕事が捗るタイプだ。この辺がイマイチかわいげがないのかもしれない。でもしょうがないだろ性分なんだから。仕事がめちゃくちゃになるよりはよっぽどいい。
     そうこうするうち夜になって、一本のコールが入った。マリィからだった。
    「……アニキ、昨日から帰ってきとらんのやけど……キバナさん、何か知っとる? 今夜はあたしと約束しとったのに、アニキが約束破るなんて、滅多にないけん……」
     一瞬関係がバレていたのかとひやりとしたが、マリィは手当り次第に自分と兄の共通の知り合いに連絡を取っていたようだった。その時点では成果はゼロだったのだろうとすぐに知れた。
    「電話も通じんくて、連絡が全然取れんの。手持ちの子らも置いていきよったみたいやし、メッセージも昨日の夜中から既読つかんくて……どうしようキバナさん、アニキになんか、あったら……」
     マリィの声はすこし震えていた。それをなんとか宥めて、探すのを手伝うと約束した。もはや時刻は夜の十時を回っていて、現役ジムリーダーを張れる腕前であるとはいえ少女が探し回れるような時間ではなかった。とりあえず朝を待ち、それでも帰ってこなければそこから手分けしようと提案した。ネズが行きそうな場所をいくつかピックアップしてもらい、マリィを元気づける言葉をいくつかかけて、電話を切った。
     その夜はやはり、眠れなかった。オレのせいか? という気持ちと、人騒がせな野郎め、という気持ちが渦を巻いて胸の底に溜まった。むかむかといらいら、それから想定されうる最悪の事態がいつまでも頭をぐるぐるするので、いつもはしないことだが寝酒を呷って無理矢理眠りについた。浅い眠りは夢を連れてきた。その夢のなかでネズは水底に沈んでいたり、砂漠に埋もれていたり、厚い氷に覆われていたり、汚い路地裏の隅に血塗れで倒れていたりするのだった。断片的に再生される映像はすべて悪夢で、そのたびに夢のなかのオレは声をあげて激しく泣いた。感情のリミッターが壊れたみたいに。当然、目覚めたあとは寝る前よりもむしろ疲れていた。
     朝になっても案の定ネズはマリィの元へ帰らなかった。引退した元ジムリーダーとはいえ有名人、失踪したなどと知れれば大騒ぎになる。ごく少数の人員にだけ事情を説明して捜索を開始した。久しぶりに会ったマリィは目元を赤く腫らしていた。「見つかったらきつーくお説教してやんなきゃな」と慰めると、「一発ぶん殴っちゃるけんキバナさんは手当して」とむっつりした声で呟いた。
     ポケモンを連れていないのならおそらくワイルドエリアではないだろうと判断し、市街地を中心に探すことに決めた。懇意の宿には宿泊記録はなし。ターフ、バウ、エンジン、ラテラル、キルクス、シュート……ガラルはあまりに広い。途方に暮れながらもいくつかの街を回ったあと、いつかネズがルミナスメイズの森の話をしていたことをふと思い出した。フェアリーは苦手だが、あの森の雰囲気は嫌いではないとかなんとか。インスピレーションが湧くだのなんだの。あそこかもしれないなと思った次の瞬間には、オレの脚はそちらに向けて進んでいた。
     そしていちかばちかと向かってみた先で、森のなかでブッ倒れているネズを見つけたのだった。そのあとのことは先に述べたとおり。ぶん殴ってやると息巻いていたマリィも、尋常でない様子の兄を見てその気力を失っていたのは言うまでもない。そりゃそうだよな、同業者の先輩にべたべた引っつく実の兄っていう図はティーンの少女にはキャパオーバーだろう。少なくはない回数ヤツと体を重ねたオレだって、全く飲み込めていないのだから。

      ◆

     ばあさんのところをあとにして、タクシーに乗り込む。スマホを操作してマリィに事態を説明するテキストを打ち込んでいる間も、ネズはオレの指の先を熱心に眺めていた。視線の熱さときたら、まるで穴があきそうだ。
     送信ボタンを押したあとスマホをしまうと、ネズは待ってましたとでも言わんばかりにオレの手を取って頬ずりした。やわらかい感触が伝わってくる。顔にはなかなか触らせてくれなかったから、こんな感触だったのかとほとんど初めて知るようなものだった。
    「大きな手……ああ、おまえに手折られる花は幸せでしょうね。おまえの手が触れるものすべてに嫉妬の炎を向けてしまいそう、ねえキバナ、もっと触れて、おれに……!」
     一息に囁いて、ネズはオレの手に口づけた。口を開けばびっくりするような言葉ばかりが飛び出してくる。絶対にシラフなら言ってくれないような言葉ばかりだ。ネズがこんなことを言うような人間だったとは。
     などと思ってから、ちょっと考え直した。いや、歌詞ならこんなのも書いてたっけな。つまり、別にこういう言葉はネズの内側になかったわけじゃない。熱烈に愛を囁くような、そんな類の言葉は。ただただ、「オレには今まで向けられなかった」、それだけなのだ。そう気付くと、つきりと胸の奥が痛んだ。
     気を紛らわそうと車窓から眼下の景色を臨む。追い風に乗れたらしく、アーマーガァのたくましい翼はオレたちをあっという間にルートナイントンネルの上空にまで連れてきていた。
    「……ネズ……もうすぐ着くからさぁ」
     相変わらずオレの手を離そうとしないネズにそう告げると、でかい目いっぱいにみるみるうちに涙が浮かんできた。オイ嘘だろ。オレの前で泣いたこととか一回もなかったじゃん。
    「意地悪なひと……こんなにもおれはおまえを求めているのに、おまえは不実な春風のようにおれの腕をすり抜けるんですね」
    「いやそんなこと言われても……ほら、マリィも待ってるし」
     ふい、と顔を逸らしてネズは唇を噛んだ。マリィの名前を出せばどうにかなるかと踏んだのだが、目に入れても痛くないほどかわいがっている妹をもってしても今のネズにはさほど効果がなかったらしかった。
     ぽろり、ととうとう水滴が一滴こぼれ落ちる。それがいけなかった。ほとんど条件反射的に、その雫を拭い取ってやってしまった。ああやっちまった。よくない。非常によくない。身に染み込んだ仕草の使い所を誤ってしまった、こんなの火に油じゃないか。途端にネズがすごい勢いで顔を上げる。瞳が爛々と輝いていた。
    「どうしておれを惑わせるの? 氷柱のごとく冷たいかと思えばそれを解かす太陽のようにやさしい、そんなことをされてしまったら、なにもかもほしくてたまらなくなってしまう……キバナ……」
    「うっ……ネズ、や、違くて、今のは……」
    「ああ、キバナ! 与えられた痛みが癒されたとき、より大きな喜びが芽生えることをおまえは知っているのですね? なんて意地悪なひと、愛しいおまえ!」
     目をぎらぎらさせたネズがオレの顔を両手で包む。どんどん顔が近づいてくる。あっやべーこれマジでキスする気だどうしよう、と思った瞬間、車体が大きく傾いだ。同時に車内のインターホンから運転手の事務的なアナウンスが響いてくる。
    「着陸体勢に入りますからねー、あんまり動かないでくださーい」
     ひどく残念そうにネズは座席に座り直した。オレは心臓をばくばくさせながら、シートベルトをひたすらに握り締めていた。
     スパイクタウンのシャッター前では、マリィが仁王立ちで待ち構えていた。迫力がすごい。さすがにネズもちょっと小さくなって、アブリーの羽音のごときかそけき音量で「すみませんでした」と呟いた。どすっ、と音がするくらいの突きがネズの薄い腹に炸裂する。うわあ、痛そう。
    「キバナさん、ほんとにお世話になりました」
     深々とマリィが頭を下げるのを慌てて上げさせる。
    「いやいや、いいって。大したことしてないし」
    「アニキがバカやらかしたせいで、こんな……キバナさんも忙しかとに」
     ほれ、アニキもお礼ばせんね、とせっつくのをなんとか止めた。今ネズが口を開けば、とめどなくオレへの愛の言葉を喋り続けるだろう。
    「みんな疲れてるだろうし、今日のところはこの辺で。オレも帰るわ」
     そう告げると、ネズが「えっ」と悲愴な声を上げた。
    「キバナ、帰っちゃうんですか……?」
    「……うん。ごめんな。ネズも帰んなよ、マリィちゃんと」
     マリィがしかめっ面でネズの腕を抱き締めている。もう逃がさないとかたく決意しているようだった。ネズもそれをほどくことはしなかった。だが、目だけで「行かないで」と訴えてきていた。気付かなかった振りをして目を逸らし、背を向ける。こうして無理矢理にでも別れてしまえば、あとは二週間が経過するのをただ待てばいいと思った。スパイクにはマリィもエール団の面々もいる。彼らには悪いが、監視を強化すればこの前のように行方不明になることはないだろう。一度も振り返らず進む間も、背中に感じる視線は消えないままだった。

      ◆

     しかし、オレの見通しはマホイップより甘かったのだと、早々に思い知らされることとなる。
    「ほんっまに、何度もごめんなさい」
     げっそりした声のマリィから連絡が入ったのは、それから二日後だった。
    「アニキ、部屋に籠って出てこんのよ……ずっとめそめそ泣いとーみたい。口を開けばキバナさんの名前ばっかりで、ごはんも喉通らんだのなんだの言うて……ポケモンの仕業やっていうのはわかっとーけど……見ちゃおれんくて……キバナさんがおらんと、ダメみたい」
    「……オーケー、わかった。迎えに行くよ」
     助かります、ごめんなさいと繰り返す少女の声は焦燥して痛々しかった。おいネズ、妹ちゃんはこの世の何よりも大事なんじゃなかったのかよ。恋は盲目ってこういうことなのか。劇聖の人間観察眼ときたら凄まじいな。
     とりあえず仕事を片付けて、早上がりでふたりの家に向かうと約束した。巻き込まれた哀れな妹ちゃんに贈る差し入れを脳内リストからピックアップする。タスク処理のスピードを上げ猛然と働くオレを、ジムトレーナーたちは恐ろしいものを見る目で眺めていた。
     健闘の甲斐あって、しっかりと午後休を取得し昼頃にはスパイクに到着することができた。どう考えてもお疲れのマリィに向けたギフトセット──リラクゼーションのためのバスオイルや睡眠不足によく効くアロマのサシェが入っている──を携えて。
     会うのは大体いつもオレの家か適当なホテルかという感じだったから、ネズの家に行くのは初めてだった。マリィから送られてきた位置情報を頼りに街をずんずん奥まで進む。やがて現れたのは、寂れたカウンシル・フラットの群れだった。そこの一棟にネズとマリィは暮らしているらしかった。売れっ子シンガーソングライターの住まいとしては簡素すぎるが、多分ずっと引っ越していないのだろう。
     インターホンを鳴らすと、ドタドタとすごい勢いで何かが向かってくるのが聞こえた。オイオイなんだ、と思っているうちにドアが勢いよく開かれ、ほとんど同時にネズが腕のなかに飛び込んできた。きつく抱き締められて、ぐえ、と情けない声が出る。メシが喉を通らない人間が出す力じゃないぞ。持っていた土産を取り落としそうになるのをなんとか堪えて、ネズを引き剥がす。無理矢理ひっぺがされてなお、ネズはでろでろに熱い目線をオレに向けていた。泣き腫らしていたらしい目元は赤いが、今はその痛々しさをかき消してしっとりと潤むばかりだ。オイばあさん、日にち薬で効果は弱まるんじゃなかったのかよ。なんかより酷くなってる気がするんだが。
    「キバナさん……来てくれてありがと」
     ひょっこりとマリィが顔を出す。可哀想に、こちらの目元にはうっすら隈ができている。顔色もあまりよくない。アニキそっくりになってきている。うら若き乙女にはあまりにも酷だ。それからタチフサグマも現れた。主人の狂乱ぶりに戸惑いを隠せないらしい哀れな相棒は、困惑しきりといった声でぐるる、と唸った。この場でウキウキしているのはネズくらいのもんだ。ネズは有頂天って感じでオレの手を取ってくるくる回った。
    「キバナ、キバナ、ああ、この喜びを表現する言葉がおれのなかにはありません! たとえようもない、今まで感じたことのない気持ちなんです……どうしたらおまえにわかってもらえるでしょう?」
    「うん、わかった。わかったから、落ち着いて……あ、荷造りとかできてんのかなー? どうかなー?」
     もちろんです、とネズはまたもや怒涛の勢いでどこかに消えていった。おそらく自室の方だろう。
     外見から推測したよりも中は広かった。隣り合った二部屋分をぶち抜きにしてあるらしい。古びてはいるが手入れのされていそうな家具に反して、隠しきれない荒廃した雰囲気が目についた。そりゃこの様子じゃ家事なんかはままならないだろう。食器類はざっくり三日分ほどが溜まってシンクに溢れていた。
    「散らかってて……ごめんなさい」
    「気にしないでよ。もう謝るのはナシ、な?」
     手土産を渡すと、少女はいっそう恐縮した様子で尻込みした。奥の部屋からはネズの上機嫌な歌声が聞こえてくる。しっちゃかめっちゃかだ。
     疲れ切っているマリィをすこしでも休ませてやろうと、洗い物を買って出た。このシンクはオレには低すぎるが、仕方ない。食器洗い用のスポンジを手に取って、無心でひたすらに皿を洗った。現実逃避のような気もするがそのくらいは許してほしかった。単純作業を黙々と続けるのはオレの場合メンタル回復に効く。自宅でもたまに食洗機に任せずに自分で洗うくらい、皿洗いは好きな作業なのだ。
     スポンジをしゅこしゅこ、皿の表、裏、縁、丁寧に洗剤の泡で擦る。そして水で丁寧に濯ぐ。きゅっきゅっと良い音がするまで。手に馴染んだ作業だ。しかし、ざーざー流れる水の音と、止まないネズの歌声が合わさって、どうも非現実的な感じがする。まるで海辺に漂うセイレーンの歌声のようだった。調子を崩されている。もっと皿に集中しよう。隅々までぴかぴかに磨き上げるのだ、キバナよ。
     洗い上げた沢山の食器には、モルペコ模様のかわいい皿やらマグカップやら、子ども時代から大事に使ってきたんだろうな、という感じのものが目立った。そういうものから歴史を感じてしんみりしつつ一心不乱に手を動かしていたら、いきなり後ろからぎゅっと抱き締められた。思わず体がびくつく。それをものともせず、服の上から腹筋をなぞられて、ぞわぞわした。オイ待ってくれ、妹が目の前にいるんだぞ。しっかりしろネズ。さすがにその手つきはいかん。背後のネズがうっとりした声で囁く。
    「なんてやさしいひと……おれだけじゃなくマリィのことまで気遣って……」
    「あー、ネズ、ストップ。もうすぐ終わるから。な? もうちょっとだけ待ってて?」
    「……それがおまえの望みなら」
     意外にもあっさりとネズは退いた。その代わり横でにこにこしながらオレが皿を水切り台に載せていくのを見ている。言っちゃなんだが、花のような笑顔である。成人男性に向ける比喩じゃないのはわかっちゃいる。でもそうとしか表現できないんだよ。全身全霊で、愛しい!って感じのオーラを発してきている。ほんとに、困る。
     食器を洗い終えたオレの手を即座にふわふわのタオルで包んで、ネズは丁寧に水分を拭き取った。随分な献身ぶりだ。そういえば、オレが家に着いた時と今ではネズの服装が違うことに気付いた。なんか、やたら気合いが入っている。オレの視線に気付いてか、ネズは恥じらうように身を捩った。
    「……着替えたの?」
    「当然です、だってこれから……デートなんですから……」
     デート。デートとはなんだったか、と一瞬脳内辞書で検索をかけてしまった。オレ的には決死の拉致作戦くらいの感じだったんだが。そっかーデートかーそれもそうだねー、と思考停止した頭で返してやると、たいそう嬉しげにはにかんだ。マリィは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。ああ、マリィの中の頼れるアニキ像がどんどん崩壊していくのを感じる。元に戻った時ちゃんと兄妹としてうまくやっていけるのだろうか。自分のことは棚に上げてそんな心配をしてしまう。
     マリィのなかのネズ像がこれ以上傷だらけになる前に、そそくさとネズを回収して退散することにした。ネズが用意した荷物はやたらでかかった。一体何が入っているんだ。一昨年やったジムリーダー間親善旅行のときのオマエの荷物、近所の買い物か?ってくらいすげー小さかっただろ。巨大なボストンバッグを抱えてふらふらとよたつくので、代わりに抱えてやるとめちゃくちゃ嬉しそうな顔をした。
     オレの家に連れて帰るつもりだったので、ナックルに入ったら手を繋いだりひっついたりするのはナシ、と懇々と言い聞かせると、さみしげに俯きながらもなんとか頷いた。オレたちが並んで歩いてるだけなら別に問題はないが、ああもひっつかれちゃ、あからさまに様子がおかしいのが丸わかりだからだ。これをオレが言い聞かせることになるなんて、皮肉だ。ちょっと前に飲みに行った帰りに肩を組もうとしてすげなく避けられたのはオレの方だったのに。
     タクシーに乗り込むオレとネズを、マリィは最後まで見送った。扉を閉める前にこっそり渡してきたのは、ネズのアレルギーや好き嫌い、その他操縦のためのあれこれを走り書いたメモだった。何よりもありがたい。手だけで謝意を示すと、苦い顔で頭を横に振った。飛び立ったタクシーの窓から見下ろすと、マリィとタチフサグマは所在なさげにいつまでもそこに立っていた。やがてそれも、小さな点になり見えなくなった。

     
     何回も来た部屋だっていうのに、ネズは初めて来たような無邪気さではしゃぎ、各部屋を物色した。そういえば大体いつもベッドルーム直行だったから確かに他の部屋はあんまり見てなかったのかもしれない。あとはバスルームくらいか。ヤリ部屋かよオレの家は、と思ってから、いや正しくヤリ部屋だったな、と自嘲気味に笑った。
     そんなオレの内心も知らず、ネズはベランダからの景色をしばらく楽しんでから、リビングルームのソファに座るとくたりと横たわった。どうやら眠気が襲ってきたらしい。マリィから聞いた話ではコイツも夜通し泣きじゃくってあまり眠れていなさそうだったから、むべなるかなというところだ。
    「ねむい?」
    「すみま、せん……」
     瞼と瞼が今にもくっつきそうな様子でネズはむにゃむにゃと何事かを言ったが、ほとんど言葉になっていなかった。
    「オレさま、買い物行ってくるけど……」
     返事が返ってこないことは織り込み済みで、それでも声をかける。むずかるようにちいさく首を振ったが、それでも眠気には抗えないようだった。
     時刻は夕刻を過ぎようとしていた。ネズがさっき半開きにしたままのベランダの窓から、やわらかな風が吹き込んでくる。カーテンが翻る。夕陽が長く影を伸ばして、ネズの白い頬をオレンジとダークグレーで彩った。赤い目元をそっと指で撫でると、すんと鼻を鳴らして頬を擦り寄せてくる。あまりに無防備だった。寝顔なんか、一度も見せてくれたことはなかった。いっつも、寝ないで帰ってたから。
     じっとそれを見てると、なんだかどんどんむかむかしてきた。ネズに対してじゃない。この状況に対してだ。

     感情ってなんなんだろう。この小さな頭のなかで不思議な力が作用して、今まではなかったんだろう感情に振り回されてネズは右往左往させられてる。いつもはあんなに冷静で、そこそこ常識的な男が、身も世もなく恋情に支配されて、しくしく泣いたり、はたまた柄にもないくらい舞い上がったりして過ごしてる。
     それってなんか、うまく言えないけど、すごくアンフェアだ。すげー暴力的だよ。他人に愛情とか性的感情とかを操作されるって、ものすごく、おぞましい。だって当たり前だけど、めちゃくちゃパーソナルなところだろ。踏み込んじゃいけないとこだぜ。そんなことあっちゃいけないんだよ。全然おもしろいことなんかじゃないんだ。フェアリーどもはそのへんがわかってない。ポケモンは人間の倫理から外れた存在だってわかっちゃいるし、押しつけるべきでもないのだが、やっぱり納得いかないもんはしょうがない。よりによってネズに何してくれてんだよ。いや誰にだってこんな目には遭ってほしくないが。ティターニアもボトムも気の毒だよ、今のオレならわかる。オーベロンは猛省したほうがいい。
     そりゃコイツだって何回もオレと関係を持つくらいではあったから、まるっきりオレのことが嫌いってわけじゃないんだろう。でもセックスフレンドという立ち位置から一歩も動こうとはしなかったこと、ほんのちょっとのスキンシップだって許そうとはしなかったことを踏まえると、今の状況は絶対にネズの本意じゃないはずだ。そうとしか思えない。
     オレだって、正直に言ってしまえば、ネズとの関係をアップデートさせたいと考えたことが何度かある。ぶっちゃけて言うと、オレはネズのことが好きだから。好きじゃなきゃこんな関係続けない、少なくともオレさまは。
     でもネズが望まなかったから、関係を変えることはしなかった。パートナーに発展するのはまだ無理って感じだった。じゃあ仕方ない、ネズがまだ嫌だってんならしばらく待とうとさえ思ってたし、その覚悟もできてた。……まあ、なんかそれも破局の危機っぽい感じになってたけどさ、それは置いといて。
     とにかく、そんな中で、この状況を役得だなんて思いたくない。だってここにはネズの意志がない。他のやつが気まぐれでちょちょいとかけた魔法で、なんてばかげてる。オレはちゃんと、ネズ自身から聞きたい。オレと関係を進めたいのだと。こんな浮かれポンチでぱっぱらぱーで頭ピンクじゃない、シラフのネズから。こんな状態のネズに付け込んでまで、オレは強引にコトを進めたいわけじゃないんだ。
     そこまでぐるぐる考えたあと、ああちくしょう妖精どもめ、とオレはわざと声に出して悪態をつき立ち上がった。このままじゃネズの寝顔眺めて数時間経っちまいそうだったからだ。
     ベランダに鍵をかけて、テーブルに書き置きして、スマホと財布と鍵だけ持って家を出た。なんだか色々考えちまってどっと疲れたから、今日はスーパーのデリで済ませようと決める。とりあえずジムには数日休みを取ると宣言してきたので──有休が溜まってたから、むしろ「どうぞどうぞ」って感じの歓待だった──その間に必要なものも買い込んだ。むしゃくしゃしてたから、必要じゃないものもいっぱい買ってしまった。酒とか。普段は買わないスナック菓子とか。パーソナルトレーナーに叱られても文句は言えないな。
     なかなかの重さになった荷物を抱えて家に帰ると、ネズはまだ眠りのなかだった。ちょっとほっとする。ソファの上でちいさく丸まって、寝息を立てている。白黒の毛のかたまりみたいになってるのがおもしろくて、ささくれだった心が多少癒された。無理矢理起こすのもなんなので、ネズが起きてから夕飯の支度をすることにした。支度といっても皿に移してあっためるだけだから、気楽なもんだ。
     起こさないようにするには本でも読んどきゃいいかなと思って、適当な本を持ってきてソファの隣に腰掛けた。ネズはクッションも何も敷かずに寝ていたので、そろっと頭を持ち上げてオレの膝の上に置いてやった。そしたらしばらくもぞもぞしてたけど、そのうち落ち着ける場所取りができたのか、ふたたび安らかな寝息を立てはじめた。なんか、ずっと寝ててほしいかもしれない、などと益体もないことを考えそうになってしまった。そしたら、美しいだけで実のない言葉にいちいち心を翻弄されなくて済むのに。……これも結構恐ろしい思考だな。追い詰められてるのかオレさま。
     そういえばオレもここしばらくちゃんと眠れてなかったことを忘れていた。膝から伝わってくる体温に眠気を誘われる。本に集中しようとしてもだんだん難しくなってきた。字を追おうとしても、同じところばかりを繰り返し読んでしまう。がくん、と舟を漕いだ時点で読書は諦めた。サイドテーブルに本を置き、ソファの背もたれに深く頭を預ける。ずぶずぶと沈んでいくような、ふわふわと浮かんでいくような、相反した感覚の狭間でゆらゆら揺蕩う。眠りに沈んでいく寸前、意識の端っこで捉えたのは、オレの手をきゅっと掴む細い指の感触だった。
     どれくらい寝たのか。はっと目覚めると、寝る前とは姿勢が違っていた。有り体に言うと、立場が逆転していた。膝枕してやってたはずなのに、今はオレが膝枕されていた。それから、歌が聞こえた。やさしく、静かで、どこか懐かしい旋律。聞き慣れぬ響き。たぶん、スパイクに古く伝わる子守唄だろう。ふるいふるい昔、気が遠くなるほど前、スパイクのあった辺りではガラルの中心部とは違う言葉が使われていたという。今でもスパイクのスクールじゃこの古い言葉の授業があるんだとかなんとか、聞いたことがある。当然、スパイク育ちでないオレには意味を取ることもできなかった。
     とん、とん、と一定のリズムで、あやすように拍が取られる。ネズの歌ってパンクだろ、激しいのばっかりだと思ってたんだけど、こういうの歌ってる時、声めちゃくちゃやさしいんだな。マリィに歌ってやったりとか、したんだろうか。
     それを聴きながらもうすこし寝ていたいような気もしたけど、眠い目を擦って、頭上を見上げた。そしたら目を伏せていたネズと、ぱちんと視線が合った。
    「……おはようございます、キバナ」
     眦を緩めて、ネズはオレの頭をゆるゆると撫でた。なんかすげー恥ずかしい。寝顔見られてたことも、子どもみたいにあやされてたことも、その慈愛に満ち満ちた表情も、何もかも。口のなかだけでもごもごと「おはよう」的な発音をして、ごそごそと起き上がった。
    「腹減ってる?」
    「そういえば、やや空腹、です」
     そういえばも何もねえだろって感じだけどスルーだ。全然食ってないらしいからそろそろ食わせなきゃいけない。立ち上がると、ネズも一緒に立った。「手伝ってくれる?」と訊ねれば、こくりと頷いた。電子レンジであっためて、皿を適当に並べて、机を拭いて、と細々したことはオレがやり、ネズには取り分けるのを手伝ってもらう。ラザニアだのサラダだの、近くのスーパーのデリのやつだから別にとりたててご馳走って感じでもないけど、それなりの皿を誂ればそれなりに見えるものだ。席に着いたネズはしげしげと並べられた料理に眺め入っている。そして、なぜかさみしげな微笑みを浮かべて呟いた。
    「ここでこうしておまえと何かを食べるのは、はじめてですね」
     その言葉にどきりとした。明らかに、「この前までのネズ」と地続きの言葉だったからだ。
    「……確かにそうだな」
     やっとのことでそう返すと、ネズは「冷めますよ、ほら」とか言いながらラザニアをフォークに刺し、なぜか自分の口ではなくオレの前に差し出してきた。今度は別の衝撃で固まる。オイ、オレは既に動揺してるんだぞ。別の方向で更に揺さぶってくるのはやめろ。
     だが固まったオレを見てどんどんとネズが意気消沈していくのもまたつらいものがあった。よってオレは仕方なく口を開くことになる。歯にフォークが当たって、かちりと小さな音がした。あからさまではないが、じわりとネズの顔に喜色が湛えられる。
    「ふふ」
     咀嚼してる間中、ネズはオレの顔をとくと眺め回していた。うまいですか、とか聞いてくるから適当にうまいうまい、と返した。味なんかわかったもんじゃない。放っておくといつまでもオレの口に食糧を放り込み続けそうだったので、先手を取ってやたらに口に詰め込んだ。一気に食い過ぎて、少々胸が苦しかった。
     ネズは、思ってたよりもよく食った。小作りな口が大きく開いて諸々を呑み込んでいく様は壮観ですらあった。飲みに行くことはあったけど、ひたすらに酒を流し込む飲み方だったから。ひょいひょいと細い身体に細切れにされたたべものが吸い込まれていく。思わずじっと見ていると、ネズは照れたように俯いた。
    「……あの、あんまり見られると恥ずかしいです」
    「えっ、あ、ゴメン」
    「いえ。……でも、恥ずかしいけど、うれしいです。おまえがおれにくれたものなら、なんだってうれしいけれど……」
     そう言ったあと一拍置いて、ねえ、これ、おれの好きなものばかり買ってきてくれていたでしょう、とネズは呟いた。図星をつかれて押し黙る。その通りだ。マリィの入れ知恵。別に気にせず買ってくることだってできたけど、そうしなかった。
    「自分でもわかってるんです、おまえへの気持ちが止められないこの状況が、なんだかおかしいってこと。……おまえを困らせていることも」
     白い指に包まれたフォークが、皿の上の野菜をつつく。ずきん、と痛みが走った。どこだろう、たぶん、胸の辺り。
    「でも、おまえはこうやって……やさしくして、くれるから。ねえ、キバナ。もうすこし……甘えていても、いいですか」
     ネズはそう言って、眉根を寄せた。哀切な表情だった。そうか、オマエも、不安だったんだな。
     「前のネズ」のことばっかり考えて、「今のネズ」のことを考えられてなかったかもしれないな、と思った。オレが傷つきたくないっていうただそれだけで、中途半端な扱いをしてしまっていた。そりゃ、不安にもなるよな、と思った。一番大変なのはオレじゃなくて、ネズだよな。それを忘れそうになっていた。
    「……よっしゃ、腹括るぞ」
     頬を両手でパチン、と叩くと、ネズは不思議そうな顔をした。ともあれ、今のネズに向き合わなきゃいけないと、そう思ったから。どうなるかわからないけど、でも今のネズがうれしいと思うことをしてやりたくなった。それがたとえ、数日後には泡と消えてしまうことになるんだとしても。
    「なあネズ、明日、何したいか考えてよ。なんでもやろうぜ」
    「いいんですか?」
    「いいよ。休み取ってあるし……どうせならもう、パーッと遊んじまおうぜ」
     そう言うとネズはこくりと頷いた。そして、「しばらく考えます」と呟いて食事を再開した。

      ◆

     翌朝、目を覚ましたオレにネズが持ちかけてきたのは、「ただ、ふたりで出かけたい」というささやかな望みだった。そんなのでいいのかと言うと、「そんなのでいいんです」と微笑んだ。
     目立ちすぎる髪を苦労して纏めて、オレの持ってたニットキャップに押し込んだ。いつものネズとは雰囲気が違いすぎるから気付かれないかもしれないとは思ったけど、念には念をってやつだ。
     ネズの服はやっぱり気合いが入ってた。ぴったりしたレザーの細身のボトムに、アシンメトリーなシルエットの大きめのホワイトシャツ。特徴的なシルエットには見覚えがある、確かイッシュのハイブランドの一期前のコレクションにあったやつだ。あのブランド好きだったのか、知らなかった。そんでその上からなんとコルセットをつけている。ちょっとニットキャップとはアンバランスになってしまって申し訳なかったが、仕方ない。この格好ならハットとかの方がいいんだろうけど。まあ人目がないところでは取ればいいよな。ネズは履いてきたのとは別の靴まで持参してきていた。しかもごつめのブーツだ。それでか、荷物でかかったの。オレもいつもは纏めてる髪を下ろして、簡易のカムフラージュを施す。
     ナックルだといろいろめんどくさそう、という理由で別の街に出かけることにした。風光明媚なバウとかいいんじゃないか、というとネズも「じゃあ、マーケットで買い物なんかどうでしょう」と乗り気だったので、すぐにタクシーで向かった。車中でシーフードレストランに予約を入れる。運良く個室が空いていて助かった。予約の電話をかける間、オレの空いた左手にはずっとネズの右手が絡んでいた。
     バウについてからも、ネズはずっと控えめに喜びを表現し続けていた。足取りは軽く、きっとバウなんか何回も来ているだろうに、すべてのものが目新しいといった様子で瞳をきょろきょろと動かしている。オレの手はほとんど離されることがなかった。
     マーケットで珍しいお香を物色したり、掘り出し物の古着をお互いに宛がったり。立ち並ぶ生鮮食品の店で新鮮な魚や野菜をひたすら眺めて、あれは苦手だこれが好きだと言い合ったり。アンティークの食器と家具の店で、家に置くならどれがいいかシミュレーションしたり。マキシマイザズのゲリラライブをすげーいい位置で拝んだり。シーフードレストランで昼食をとる間も、さっき見た古着が忘れられないといってうんうん悩んだり。結局そのあと戻ってヴィンテージのアクセサリーと一緒に一式買い込んだり。歩き疲れた脚を休めようと、適当な出店で歯が痛くなりそうなくらい甘いクレープをテイクアウェイして、案の定慌ててコーヒーを買いに走ったり。ほんとに、ただのデートだった。正直、すげー楽しかった。こんなに楽しいの久しぶりってくらい。オレはずっと笑ってたし、ネズもそうだった。時間はあっという間に過ぎて、日暮れが近付いてきた。日が傾いて、賑やかだったマーケットの客足もだんだんと引いてくる。
    「キバナ、海が見たいです」
     そんな頃合に、ネズはそう言ってオレの手を引っ張った。頷いて、ふたりで海岸まで向かう。
     バウの海は穏やかだ。静かで心地よい波の音が響いている。海面に夕陽が反射して、きらきらと眩しい。深いブルーにオレンジが照り映えて、きれいだった。ネズはじっとそれを見ている。薄い色をした瞳を、眩しそうに瞬かせて。今、ネズの頭のなかには何があるんだろう。何を、考えているんだろうか。
     すると、顔にぽつりと当たるものがあった。気のせいかと思ったが、すぐに二滴、三滴と、ぱたぱた落ちてくる。雨粒だ。雨雲は見当たらないのに。
    「……天気雨ですね」
     なぜか楽しそうにネズは呟いた。雨脚は勢いを増して、ばらばらとオレたちの上に降り注ぐ。雨宿りができそうなところがないか辺りを見回すオレの腕を、くん、とネズが引っ張った。そしてオレの手を取って、雨に濡れた顔が微笑みを形作る。悪戯っ子のような笑顔だ。
    「踊りましょ、キバナ」
    「へ?」
     そう言うやいなや、ネズはオレの手を掲げてくるりと回った。そしてニットキャップを外す。苦労して纏めた髪が、ばさりと解かれる。
    「ほら、リードして」
     囁いて、ネズは腰にオレの手を導いた。硬いコルセットの感触。ネズが先んじてステップを踏み出す。緩やかなリズム、スローワルツだ。つられて脚が動き出した。ワルツなんてスクールの授業で一通り習ったあとは踊る機会もなかったのに、体が覚えてるもんだな。
    「なかなかお上手ですね、エレガントな足捌きです」
     そう言ってネズは笑う。頬が紅潮している。きっと、オレもそうだ。熱くなった頬を雨が叩く。
     ゆっくりと、オレたちは回った。雨の降るなかで、頭に流れる三拍子を身体で刻んで。オレの腕に背中を預けて、ネズがゆっくりと仰け反る。しっとりと湿り気を帯びた髪が翻る。水滴が伝う白い喉が、夕陽でオレンジに光った。折れそうで不安になるくらい細い首も、光に縁取られてふわりと輪郭がぼやけている。瞼を閉じて、ネズは天から降り注ぐ雨を一心に受けていた。遠心力を利用して、ターン。オレを軸にして、ふわりとネズの身体が円の軌道を描く。あまりに軽やかで、飛んでいっちまいそうだった。掌を掴む力を強めてしまう。
     ステップで跳ね上げられた砂が、靴にかかる。雨が頬を伝う。目に入って、しみた。思わず顔を顰めきつく目を瞑り、頭を振るオレの目元に、ネズの手が触れた。瞼の縁を、指がなぞる。目を開けると、ネズは微笑んでいた。そしてそのまま、オレの肩に頭を預けた。熱い吐息が、喉元にかかる。頭がぼうっとする。ステップはスローダウンしてゆく。だんだんと歩幅は小さくなり、やがてオレたちのリズムは止まった。天気雨もいつのまにか止んでいた。あまりに短い時間の、束の間のワルツだった。
    「……どうしたんですか」
     オレの肩から顔を上げたネズが、気遣わしげな声を出す。雨で濡れた髪が、額に貼りついているな、と思った。
    「……どうしたって、何が」
    「だって、キバナ……」
     泣いてる、とネズはオレの頬を撫でた。それで初めて、目頭が熱を持っているのに気付いた。頬を水滴が伝うのは、雨で濡れてるからだと思っていたのに。気付いてしまうともう、止まらなかった。涙はあとからあとから溢れ出た。とうとうオレは顔をぐしゃぐしゃにしてしまって、それを見られたくなくって、海岸に蹲った。あー、クソ、こんなつもりじゃなかったのに。腹括って楽しんでやろうって、そう思っていたのに。
    「嫌、でしたか」
    「違う、違うんだ、ネズ」
     たのしかったから、とオレは震える声を絞り出した。そうだ、楽しかったからだ。楽しすぎたから。こんなだったらよかったのに、そしてこれからもずっとこうだったら、って思ってしまった。
     でも多分そうはならないんだろう。この天気雨みたいに、束の間の時間だけネズはオレの横で恋人みたいに笑う。だけど魔法が解けちまえば、あっという間に元通り。迷惑かけたとかなんとか言って、恥じて、多分もうオレの前には現れようとしないだろう。全部全部、夢として、消える。夏の短夜の夢のように。
     そんなのは嫌だと、思ってしまった。ほんと、ばかみたいだ。あんなに「こんな状態じゃない、シラフのネズ自身から聞きたい」とか言ってカッコつけておいて。浅ましく縋りつこうとしてしまう。
    「好きなんだ……」
     語尾は掠れて消えた。でも多分、耳のいいネズには届いてしまっている。ずっと好きだった。どこで間違えたんだろう。なんだって、最高に楽しかった時間が一転、オレはこうやって子どもみたいに駄々こねて泣いてるんだろう。どうやったら、この夢が覚めたあともオマエはオレの横にいてくれるだろう。
    「ごめん、ネズ……オレ、もう無理かも。とても耐えられない。つらいんだ。つらくてしょうがない。今が楽しけりゃ楽しいほど……オマエが正気に戻ったときのことが、ちらついて」
    「……諦めるんですか?」
     静かな声が聞こえた。顔を上げる。ネズはしゃがんで、まっすぐオレの顔を見ていた。あとすこしで沈もうとする夕陽の名残が、ネズの顔に陰翳をつくっていた。そのなかで、シアンの瞳が、つよく輝いている。
    「おまえは、諦めが悪い人間じゃなかったですか。どこまでも食らいつく、それがドラゴンストームの本領でしょう」
     オレの頬を、ネズの両手が包む。ふは、と空気が抜けるような音でネズは笑った。
    「……情けない顔をして。かわいいね」
    「い、今言うこと? それ……やっとのことで告白してべそべそ泣いてる男に……」
    「今だから言うんです」
     ふわりと空気が揺れた。肩口に柔らかい、でも湿った感触。ネズの髪。オレの肩を一周する細い腕。抱き締められていると気付くまでに時間はかからなかった。耳元でちいさな、でも力強い声がする。
    「……情けなくったってなんだって、遮二無二構わず足掻くのが、おまえのいいところでしょう。それでもカッコつけようとするところも含めて、全部ね。そんなおまえが好きなんです。おまえの諦めの悪いところが、好きだよ」
     だからおれを、諦めるなよ。そう言って、ネズはオレの頭を撫でた。どこまでもやさしい手つきだった。鼻を啜ると、ずび、とたいへん情けない音がした。ネズの背中が震える。こいつ笑ってやがる。
    「……なあ、それってどっちのオマエの言葉なの?」
    「そんなの、今のおれにわかるわけないじゃないですか」
     ネズが先に立ち上がる。差し出された手を取って、オレも腰を上げた。完全に日は沈み切って、海風が吹いてくる。風が髪を揺らす。繋いだ手を握り締めたまま、ネズは海を眺めた。
    「これからどうなるかはおれにもわかりません。この記憶が残るのかどうかも。でも、好きだと言ってくれて、少なくとも今のおれは……うれしかったです。とても。舞い上がりそうなほど。きっと、この時間が終わっても……」
     忘れたくねえな、と、ネズはちいさく呟いた。
    「諦めないで……離さんで、ね」
     こくりと頷く。そしてそのまま、オレたちは手を繋いで海岸を後にした。家に辿り着くまで、頑なに離そうとはしなかった。それはささやかなまじないのように。祈りのように。

      ◆

     いっしょに眠ってもいいですか、とネズは訊ねた。オレはしばし逡巡したのちに頷いた。ベッドルームには、思い出がありすぎる。でも、いいや、と思った。どのみち、ネズが言い出さなくてもオレが言い出しただろうという気もした。
     ちょっと前に奮発して買い換えたマットレスは、お高いだけあってネズが横に腰かけても振動はオレに伝わってこない。オレの方を向くようにして、ころりとネズは身を横たえた。化粧を施していない童顔は、眠気も相俟ってかさらに幼く見える。ずりずりと寝転んだままにじり寄って、そのままオレの胸に頬をつけた。細い脚がオレの脚に絡む。
    「……キス、しときますか?」
     ちいさな声が聞こえる。ゆるく頭を振って、ネズの髪を梳いた。
    「いや、やめとく」
    「そうですか」
     あっさりと引き下がったネズは、だがしかし残念そうな様子でオレの顔を見上げた。ベッドサイドのランプを消してないから、後ろから照らされてなんだかネズ自身がやわらかな光を放ってるみたいに見える。
    「したそうに見えたので言ったんですが」
    「……ぶっちゃけめちゃくちゃしてえけどさ」
     したいんならすりゃいいのに、と思ってそうな顔で、しかし何も言わずネズはオレの唇を撫でた。ギターを爪弾き硬くなった指先の感触。それを感じながら口角を上げる。
    「でもいいんだ、今しなくても。そのうちいっぱいさせてもらうから」
    「じゃあ、やめときましょうか」
    「うん」
    「……代わりに、わがままを言っても?」
    「言って、どうぞ」
    「おれを抱き締めて眠ってください、逃げられないように」
     なんか、ちょっとずつ頭がクリアになってきてる感じがするんだよね、とネズは呟いた。
    「それって……」
    「あくまで勘ですけどね。だから、逃げないように。おれの思考回路はおれが一番よくわかってるんで」
     脱兎のごとく逃げようとするネズを想像した。残念なことに、ものすごくリアルに想像できる。ちょうどこの前みたいに。
    「あー、うん、思い浮かぶわ」
    「ふふ……」
     眉尻を下げてネズは笑った。言われたとおり腕のなかに抱き込むと、ぴったりと収まる。
    「前から思っていたことだけれど、おまえ、体温高いですね」
    「ネズが低いんじゃないかと思うけど」
    「そうですかね、自分じゃわかりませんから」
     髪の感触が胸元をくすぐった。湯上がりの髪を梳くと、内側のほうにやや乾かし切れていない湿った感触があった。だがもうオレもネズも、ベッドから出ることはできそうになかった。
    「あったかくて……きもちいいです、ね」
     とろりと眠気を滲ませた声でネズは囁く。その様子に、昨日のことを思い出す。
    「オレもいっこ、わがまま言っていい?」
    「どうぞ」
    「この前うたってたやつ……聴かせて」
     ああ、とネズは頷いた。そしてオレの腰あたりでゆっくりと拍を取りながらうたいだした。喉が震え、音の波がさざなみのように広がる。静かで滋味深い、まろい旋律。揺蕩うようなリズム。ネズを抱き締めてるのはオレなのに、その外側からネズに包まれてるような感覚。耳に残るとつくにの響き。瞼を閉じればすぐに眠りに落ちてしまいそうだった。
     うたい終えたネズに礼を言って、気になっていたことを訊ねてみる。
    「このうた、ふるい言葉だから、オレにはわかんない……なんてうたってるの」
    「……ありふれた子守唄ですよ。でも、そうだね、おれがいちばんすきなところは、こううたってます」
     誰にもあなたを傷つけさせはしない。
     ネズはオレにもわかるようにガラルの言葉に変えてみせた。
    「意外に力強い歌詞なんだな」
    「そうですね。ねえ、キバナ……おれ、今、そういう気持ちです。誰にもおまえを傷つけさせはしない……それがたとえ、おれ自身でも」
     だから、今は安らかにおやすみ。そう言って、ネズは掌をオレの顔に伸ばした。細い指がオレの瞼を降ろす。瞼を透かして、微かに光を感じる。ぱちん、とベッドライトが消される音がして、それもなくなった。暗闇のなかで、ふたり分の息遣いだけがある。腕のなかのぬくもりに縋って、オレはやがて眠りの奥底へ落ちていった。

      ◆

     夢を見た。
     ネズが海岸に座っていた。朝焼けか夕焼けか、どっちかわかんないけど、とにかく日が水平線上にあって、辺りはピンク色に包まれていた。スマホのカメラアプリでフィルターかけたみたいなピンクだった 。海や空だけじゃない、空気までがピンク。つくりものみたいだった。でも、正しくつくりものだから、仕方ないことだ。
     海の方を向いて座ってるネズは、オレのほうを見もせず、「もうすぐですよ」と言った。「なにがもうすぐなの」と訊いたら、「見てりゃわかります」と淡々と答えた。
     そしたらネズの白い頬にぱきぱき、と線が走った。見る見るうちにその線はネズの全身に広がる。あんまり驚きはなかった。夢だから。そういうこともあるなと思った。
     そのあとぱりぱりと微かな音がして、たまごの殻が割れるみたいにぽろぽろと落ちていく。ネズはじっとそのまま座ってる。どんどん殻が剥がれ落ちて、みるみるうちに人ひとり分の山になった。そしたらそこには、やっぱりネズが座っていた。
    「ネズじゃん」と言ったら、「すぐだったでしょう」とネズはけろりとした様子で言った。なぜか甘い匂いが鼻をついた。なんだっけなこの匂い、と思ったが、夢のなかでは知るべくもなかった。瑞々しくも淡い、たぶん、なんか、花の匂いだ。
     首を傾げて「さっきのオマエと今のオマエ、どう違うの」と訊くと、「ばかですね、そんなことは後になればわかることです」とネズは言った。そして振り向いて、微笑んだ。そしたらすごい勢いで陽が消えて、ピンクが紫になり、紺になり、黒になった。そのあと、耳元で声が響いた。
    「はやく目覚めなさい、キバナ」

      ◆

     ゆっくりと、白い瞼が開いた。小舟が岸辺から漕ぎ出すように。ピアニストが恭しく鍵盤の蓋を持ち上げるように。現れたシアンブルーがオレを捉えた。瞬きをいくつか。おはよう、と声をかける。
     そこからのネズの顔色の変化ときたら見ものだった。初めは真っ赤、それから真っ青になり、最終的に真っ白に落ち着いた。多少じたばたしたが、がっちりとホールドしているので逃げられない。さすが本人、よくわかってる。全てを諦めたように、ネズはぽつりぽつりと低い声を発した。
    「お、は……よう……ございます……」
    「……記憶ある?」
     そう訊ねると、ネズはぐうぅ、みたいな地獄の底から響いてきそうな声を出して唸った。そのあとかなりの間を置いて、
    「……全部、ばっちり覚えて……ます……」
     そう言ってリネンを頭から被った。「全部って、森でオレが見つけたときから? そこから全部?」と重ねて訊くと、うぐぅ、と呻いてリネンの下でもぞもぞと動いた。どうやら図星らしかった。
     顔を洗って、ナマケロも逃げ出すくらいのろのろ朝食を食って、それでようやくネズは腹を括ったらしかった。ネズが向かう先々すべてに立ち塞がってディフェンスの態勢を取っていたが、オレを突き飛ばして逃げ出したりはしなかった。ぶすくれてるんだか気まずいんだか、とにかく眉間の皺をもう永久に取れないんじゃないかってくらいに深くして、今はオレが淹れた紅茶を啜っている。最初は「酒」と一言だけ言われたが、さすがに朝から飲ませる酒はないと却下した。というか、シラフで喋りたかった。どうしても。
     席についてネズに向き合うと、ばつの悪そうな顔でやたらとかちゃかちゃティーカップの中のスプーンを掻き回した。
    「全部覚えてんだよな」
     再確認すると、渋々と言った様子で頷いた。
    「じゃあ、オレが言ったことも?」
    「……覚えてるよ」
     そうか覚えてるのか。ちょっと照れるな。いやそうじゃなくて。スプーンを弄り回すネズの手をそっと掴むと、ぴくりと震えた。目線は合わない。
    「元に戻れたから、もういっかいちゃんと言わせてくれる?」
     つとめてやさしく聞こえるように問いかける。ネズはしばし逡巡した様子でいたが、やがてちいさく頷いた。
     オレは静かに呼吸を調える。頭のなかにネズのいろんな表情が浮かんでは消える。オレを張り飛ばして、傷ついた顔で出て行ったネズ。バウの海岸でオレの涙を拭ったネズ。夢のなかで振り向いて微笑んだネズ。そして、目の前のネズを見据える。
    「ずっと言いたかった。……好きだよ、ネズ。オマエがオレをどう思ってるのか聞きたい。そして、オマエとの関係を、前に進めたい」
     ゆっくりと紡いだ言葉は、ふわりと宙に漂い、そして目線を上げたネズのところへと着地した。シアンブルーの瞳が、硬質な輝きでオレを射抜く。ネズは、しばしの沈黙ののち唇を開いた。
    「……あの日、おまえにあんなことをして別れたのに?」
    「うん、まだ理由聞いてないけど」
     理由は知らないし、言ってくれるのならそれも受け止めるつもりだ。でも聞こうが聞くまいが正直どっちでもよくて。今オレはとにかく、伝えなきゃいけない。今までずっと言葉にせずに呑み込むだけだったから。だから何回でも伝える、それだけだ。ネズが諦めるなって言ったから。そこがおまえのいいとこだって言ってくれたから。
     だいたいこういうのは目を逸らしたら負けだって決まってんだよな。ポケモン相手もそうだけど。先に目を逸らしたのはネズだった。顔を伏せて溜息をついたあと、ネズは「あーちくしょう」とちいさな声で毒づいた。
    「腹括れってことですかね……」
     そう言ったネズは、脱力したように椅子の背もたれにもたれかかって、天を仰いだ。
    「……ずっと、おまえから逃げてたのは認めます。おまえが本音ではおれと……パートナーになりたがってるのは、わかってた」
    「わ、わかってたのかよ」
    「だだ漏れなんですよ」
     マジか。それはちょっと恥ずかしい。頬を掻くとネズは「今のは照れるところか?」と呆れたように眉尻を下げた。
    「でもおれは……どうしてもそれを認めることができなくて。おまえが望んでるような関係には、なれないと……」
    「……なんでなのか、聞いてもいい?」
     ネズはすこし眉を顰めた。そして、ふ、と皮肉げに唇の端を吊り上げる。
    「……そういうところですよね。もっと怒ったっていいのに、そうやっていつも、おれに逃げ道を作ってくれる」
     だから甘えちまってたんですよ、とネズは前髪をがしがしと掻き回した。
    「理由なんか単純です。こわかったんですよ。ただそれだけです」
    「こわい?」
    「こわかった。なにもかも全部。自分の感情に歯止めが効かなくなる予感も、与えられてばかりで返せないことも、はじまりがあれば終わりがあることも」
     だから深入りしないように予防線を張って、でもおまえを手放すこともできなくて。自分勝手ですよね。ごめんねこんな男で。幻滅するならすりゃいい。
     一息にそう言って、ネズは押し黙った。オレはネズの言葉を幾度も反芻して、おずおずと口を開く。
    「……それってさぁ、ネズもオレのこと憎からず思ってくれてたって、そういうふうに捉えてもいいの?」
     ネズは一瞬目を瞠ったあと、口角を思いっ切り下げて苦々しげな顔を作った。
    「……ポジティブか?」
    「いやポジティブに捉えるだろこんなん。え、そういうことでいいんだよな?」
    「……ああクソ、そうだよ。っていうか何回ヤったと思ってんですか。嫌いな野郎とはこんなに何回も何回もヤんねえよ、そこまでマゾじゃねえんだこちとら」
     ネズはいつもの語彙より数割増口汚く言葉を吐き出した。もはややけっぱちのような趣きだ。それをどうどうと手で鎮めて、オレは駄目押しのもう一言を放り込む。
    「あのさ、再確認させて。ちゃんと聞きたい。『嫌いじゃない』とかじゃなくて、ネズの口からちゃんと」
     ここに至ってネズの顔色はものすごいことになった。水を求めのたうつコイキングのごとく口をぱくぱくと動かしている。目線はあらぬところを泳ぐ。
    「てぃ、ティーンじゃあるまいし……」
    「いいの! ちゃんと聞きてえの、オレが! 歌詞とかでは言ってんだろ知ってるぞ、ライブとかでも観客に超叫ぶじゃん、『おまえら愛してるぜ!』つって」
    「ふ、不特定多数のファンに向けるのと特定個人に向けるのとじゃ訳が違うでしょうよ」
    「でも大事だろ! 確認! コンセンサス! 性的同意!」
     まるでほんとうのティーンのように駄々を捏ねて言い募ると、ネズは何事かごにょごにょ言いながらテーブルの上に突っ伏したあと──オレにはわかる、絶対悪態をついてる──観念したように顔を上げた。
    「す、き……ですよ。おまえが。先のことを考えて不安になってしまうくらいには。いっそ知らなければよかったと思うほどには。……ちくしょう、これで満足か、え?」
     最後の一言はものすごい早口で、ほとんど怒鳴り声に近かった。そしてそのめちゃくちゃな告白を聞いたオレは、とうとう耐えきれず笑い声を上げてしまった。やけくそ状態のネズがさらに気色ばむ。
    「テメっ、人が恥を忍んで……!」
    「いや待って、違う、バカにしたとかじゃなくって、はー、なんて言えばいいんだろ、ごめん、すげーかわいかったから……」
     そう言うとネズはみるみる顔を赤くして椅子から弾けるように立ち上がった。
    「かっ……か、か」
    「か?」
    「……帰ります」
    「待て待て待て待て」
     オレも立ち上がり、踵を返そうとしたネズの前に立ち塞がる。ちくしょう帰らせろ、じゃなきゃ殺せとか物騒なことを譫言のように呟くネズをなんとか落ち着かせて、細い肩を掴んだ。
    「帰らせない」
    「クソッ……」
    「……だって、やっとちゃんと言えたし、言ってもらえたから」
     オレの言葉に、ふっとネズが肩から力を抜いたのがわかった。
    「そもそもはさ、オレらがどっちもなあなあで進めてたからだって思わねえ? 会話が足んなかったよな。言葉足らずだったんだよ」
     ネズは眉根を寄せてオレの言葉に耳を傾けている。オレも、言葉を探しながら、ゆっくり語りかける。
     そりゃ、楽じゃないことのほうが多いだろう。不安になることも喧嘩することもあるだろう。結果、三日で嫌になるかもしれない。こっぴどい別れになるかもしれない。でもそれは、少なくとも今じゃない。それだけで十分じゃないか。
    「言ってもらえて嬉しかったよ、ぜんぶ。すきって言葉だけじゃない、ネズが不安に思ってたことも、言ってくれて嬉しかった。これからもさぁ……こうやって言ってくれたら、そんでオレもちゃんと言えたらさ、ふたりでなんとかしていけるって、そう思わねえ?」
     どうかな、と顔を覗き込むと、ネズは苦々しげに頭を振った。
    「……ポジティブか……?」
    「そう、オレさまめっちゃポジティブだから。ついでに諦めも超悪いから、これネズのお墨付き。だからさ、もうひとつの質問の答えも聞きたい。関係、進めてもいいのか、言ってほしい。ゴーサイン出してよ」
     そう言うと、ネズは特大の溜息をついた。
    「……逃がす気ないんですね」
    「当たり前じゃん。だってネズ、オレのこと好きなんじゃん、さっき聞いたもんね。忘れてやんねえから。ここで逃がすほど甘くないぜオレは」
     うぐあー、みたいな妙な唸り声を上げてネズは天井を見上げた。たっぷり数秒そうしたあと、リュガの実を口に突っ込まれたみたいな顔でぼそりと呟いた。
    「……言っときますけど、すこぶるめんどくさいですよおれは」
    「知ってる!」
     満面の笑みで答えると、より渋面を深くした。いや言ったの自分じゃん。そりゃ、ネズがめんどくさくなかったら世界中の大多数の人間はめちゃくちゃ単純だってことになっちまうだろ。彼はなおも食い下がる。
    「……嫌んなるかもしれませんよ」
    「その時になってみなきゃわかんねえよ」
    「おまえのこと殺したくなるかもしれない……」
    「そっ……れは、なんとか死なないようにするわ、うん」
    「ハァ……」
     ネズは両手で顔を覆った。そしてその手が外されたときには、なにかしらの覚悟を決めたような顔つきをしていた。
    「クソ……降参です。いいよ、受けて立ってやるよ。やったろうじゃねえですか。さっさとアップデートしろよ、おまえの大好きなSNSの交際ステータス、『パートナーあり』に変えちまえ、おら、早く」
    「えっあっそれはちょっと心の準備が……って、えっ、いいの? ほんとに? つまりその、オレと付き合ってくれんの?」
    「なんでこの期に及んでおまえが聞き返してくるんですか。付き合いてえのかそうじゃねえのか、どっちなんだよ」
    「付き合いたいです! あとこれは別にどっちか迷ってるから聞き返したんじゃなくてびっくりしたから聞き返したんであってな⁉」
     あんだけ迫ってきといてなんでびっくりしてんですか、とネズは呆れたように呟いた。いや、だって、びっくりするだろ。ネズだぞ。正直あと半年くらいごねられ続けても仕方ないと覚悟してたのに。ネズぅ、と叫んで抱き締めたら、ぐえ、と苦しそうな声を上げた。どんどんと胸元を叩かれる。
    「ばか、くるしい、ばか」
     子どもみたいな罵倒しか出てこないあたり、ネズもテンパっているらしかった。情けなくて、かわいい。驚きが過ぎ去って、今オレの胸のなかにはピンク色の嵐が渦巻いている。腕のなかで照れを隠すようにぶすくれるネズ。さっきオレのこと好きだって言ってくれたネズ。半分キレながら「受けて立つ」みたいな穏やかじゃない語彙で付き合うことを承諾したネズ。ぜんぶがぜんぶ、かわいくていとおしくて仕方なかった。
    「あー、やべ、めっちゃ嬉しい。どうしよ。はぁー、ロトム、音楽かけて」
    「は? このタイミングで?」
    「ケテ〜! 了解ロ〜!」
     お利口なスマホロトムが、テーブルの上から待ってましたって感じで舞い上がる。インストールしてある音楽再生アプリのプレイリストから選曲してBGMを流し出した。
    「今音楽流さなくてどうすんだ、これが映画だったら絶対にキメキメのやつがかかるね!」
     そう断言してやると、ロトムも同意するようにけたけたと電子音で笑った。
     連携しているスマートスピーカーからロトムのチョイスで再生されたのは、イッシュの伝説的ディーバのアップテンポなラブソングだった。八十年代R&Bを模した跳ねるようなビート。愛し合う喜びを体現したような一曲だ。数々の諍いや涙を越えて、ようやく相手が振り向きふたたび結ばれた恋人たちのポップチューン。オレのフェイバリットの一曲だし、今の状況にぴったりすぎ。さすがオレの思考を学習させまくった甲斐あって、ロトムの選曲には間違いがない。ナイスDJ。頬擦りしてキスしてやりたい。
     リズムに合わせて身体を揺らしはじめたオレを見て、ネズが「勘弁してくれ」って感じで天を仰ぐ。構うもんかよとその手を取った。
     しばらく顔を顰めてオレの手に振り回されるままだったネズも、観念したのかそれとも音楽の雰囲気に呑まれたのか、次第にオレに合わせて身体を動かしはじめた。まあ、名曲だからな。踊っちゃうよな。ちなみにオレは音楽賞の授賞式のときのこの曲のパフォーマンスの映像を五十回は見てる。お陰で振付もばっちり覚えてる。
     「ようやくあなたは私の愛をいちばんにしてくれた!」と歌姫は高らかに歌い上げる。この歌がこんなに実感を持って響いたことは今までない。そうだ、いちばんにしてくれた。ネズが。オレを。めちゃくちゃ嬉しい。涙が出そうだ。なんかオレ泣いてばっかりだな。でも仕方ないだろ、勝手に出てくるんだから。目元が熱くなって、ネズの手を握る指先にじんと痺れが走る。
     愛してるのはあなた。必要なのはあなた。私の目に映るのはあなただけ。シンプルな愛のメッセージの繰り返し。そう、こういうのはシンプルじゃなきゃ。男同士だろうが女同士だろうが男女だろうが、それぞれが持ってる要素を因数分解して解きほぐしていったときに残るのはこういう剥き出しの感情だよな? すこぶるシンプルだからこそ、まるで誂えたみたいにぴったり馴染むんだ。世界中を祝福して回りたくなる。ビートに合わせてステップを踏めば、ネズの踵も同じリズムを刻む。
    「なあ、もいっこだけ聞いていい⁉」
     踊るのをやめないまま、ほとんど叫ぶみたいにネズに投げかける。
    「どうぞ」
    「もしかして、正気失ってた間の熱烈な愛の言葉、あれぜんぶ本心だったりする⁉」
     ネズはぴたりと動きを止めた。そしてオレに細い指を突きつけて、真っ赤な顔で睨んだ。
    「……おまえの想像に任せる」
    「ま、マジか!」
    「いや別に全部が全部本心だとか一言も……うわっ⁉」
     思わずネズを抱き上げて一回転した。たけえ、下ろせ天井にぶつかる、とネズは喚いた。でももう止まらなかった。嬉しくて。床に下ろしたネズは肩を上下させながらオレの胸元を殴ったが、そのあとふっと息を吐いてから、「間抜けな顔してやがる」と言って、へにゃりと笑った。
     曲の後半は怒濤の転調祭だ。オレの気持ちもそれに合わせてどんどん高まる。もはや有頂天。そして、ネズも同じように思っていることが、わかる。ネズはうすく微笑んでいた。あー、好きだ。溢れ出しそうだ。とんでもなく回り道をしたけど、ようやくこうして通じ合えた。もうダンスが終わったあとにやりきれない気持ちになることは、ないんだ。
     超ハッピーなリフレインがフェードアウトしてゆく。曲の再生が終わったあと、ネズは「おまえ、振付完コピかよ」と言って長い間肩を震わせて笑った。ネズも覚える? と訊くと、「余興のレパートリーが増えるかな」と言うので、この曲を完璧にうたいながら踊りこなすネズを想像して、腹を抱えて笑った。

      ◆

     さて、予想されていた二週間よりも早くネズが正気を取り戻した裏にビートの奮闘があったと聞いたのは、すこし後のことである。
     お膝元であるルミナスメイズの森で椿事が起こったのを憂慮したポプラのばあさんがビートに命じて……とかなんとかマリィから聞いたけど、賭けてもいいがばあさんは「いい暇潰し」くらいにしか思ってなかったはずだ。きっとこれも修行だとかなんとか言って、ビートも逆らえなかったのだろう。「なんで僕が」などと零しながら薄暗い森でベロバーやらギモーやらをちぎっては投げちぎっては投げしたのであろうビートの姿を思い浮かべると不憫で仕方なかった。まあちょっと笑えるが。確保した犯人にはしっかり言い聞かせたのでしばらくはこういうことはないだろう、多分、ということだった。
     礼がしたいと連絡すると、「もう二度と巻き込まないでください。それが一番のお礼です」とにべもない返事が来た。そしてすぐ後に、「ポプラさんはナックルの老舗紅茶店のシグネチャーブレンドの茶葉をご所望です」と追伸が添えられた。そんなもんならお安い御用だ。こんなこと言ってるけど、と隣でぼーっとテレビを眺めていたネズにテキストのメッセージを見せると、「スパイク名物のお茶菓子もセットで送ると言っておいてください」と少々気まずげに前髪を掻き回した。スパイクに名物の茶菓子なんかあったんだな。酒とつまみしかないかと思ってた。そう言うとクッションが飛んできた。
     けたけた笑いながら謝礼の買い出しのスケジュールを合わせている間、オレの脳内に浮かぶのは「ピンクだねえ」とにやにやするポプラのばあさんのご尊顔だった。
     そんなこんなで、おかしな夢のような一幕が過ぎ去ったあとも、とりあえずオレたちはなんとかやっている。三日にいっぺんは小競り合いがあるけど、そのくらいはかわいいもんだろ。SNSの交際ステータスをアップデートすることについてはまだ保留中だが、そのうちどうにかするつもりだ。
     これからの第二幕は台本なし、どうなるかわかったもんじゃない。とんだ三文芝居になるかもしれない。不条理劇みたいになっちまうかも。でもまあ、アドリブも交えながらなんとかやるさ。カーテンコールまで、まだまだ長い。多分。ロングランヒットにできるよう、共々励んでいくこととしよう。

     
    蹄/ひつじ Link Message Mute
    2022/08/23 20:55:01

    ゆめのあとさき

    人気作品アーカイブ入り (2022/09/06)

    フェアリーの悪戯で様子がおかしくなったnzくんに振り回されるkbnくんの話。
    「夏の夜の夢」(NTL版)のちょっとしたオマージュになっています。
    雨の中踊るふたりが見たかったのです。

    2020年に出したkbnz本の再録です。

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    • magic hour + morekbnz短編集、全年齢のものの再録です。
      様々な捏造、第三者との関係性を前提としたもの、なんやかんや何でもありです。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • スパンコールとバラ色の日々Twitterで連載していたkbnz 30days challengeをまとめて本にして頒布したもの、の再録です。
      例のごとく捏造しかありません。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • 月光譚 / こおりをとかして こおりにとざしてpixivで公開していたウスパパ関連の短編集です。
      ウスパパを巡るミラさん、ノースの円満三角関係が好きです。
      当然ながら捏造しかありません。

      ※当人がいない場での性的揶揄の描写が含まれます。
      ※277死柱情報により、ノースディン過去捏造は本編と矛盾した情報になりました。ですがそのままにしておきたいと思います。277死より前に書いたことをご承知おきください。

      #ウスミラ  #ノスウス
      蹄/ひつじ
    • Drive It Like You Stole It/Let the right one inkbnz再録です。パロものでまとめています。
      ・学パロ プロムをぶっ壊せ
      ・吸血鬼パロ
      の二本です。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • Beyond the Blizzard2021年3月チャレにて発行、pixivで全文公開していたものです。

      街にはびこる違法ドラッグの影。手がかりを追い、雪原に乗り出した二人の前に立ちはだかるのは──。
      知人発深い仲行きのkbnz。DLCの内容を踏まえたものになっています。捏造たくさん。

      【注意!】ドラッグ、デートレイプの描写があります。ネームドキャラが使用するものではありませんが、フラッシュバックの恐れにご留意ください。
      また、pkmnが悪用される描写があります。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
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