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    月光譚 / こおりをとかして こおりにとざして月光譚こおりをとかしてこおりにとざして月光譚

     今となっては昔の話だ。
     ある山のほど近くに集落があった。大きくも小さくもない。民は山に入って獣を狩り、山の実りを糧として生きていた。都からもそれほど遠くなく、山で採れた幸を都へと売りに行き、金子を得ることもできた。そのように山は常に彼らの横にあったが、そのお山では時折、不思議なことが起こるというのがもっぱらの噂であった。
     ある若者が、いつものように山へと入った折のことであった。しゃん、と不意に涼しげな音が辺りにこだました。鈴の音のような軽やかな色合いの音であった。あやしく思い、音のした方へと顔を向ければ、なんと山の上の方から、高貴な風情の牛車が、数えきれぬほどの供を連れて滑るように降りてきたのであった。
     驚く若者の前で、牛車は音も立てずに止まった。するすると簾が巻き上がる。すると中から、雲をつくような背丈の大きな男が、やはり音も立てずに滑り降りた。若者は思わず立ち竦んでその男を見上げた。男は、夜闇よりもなお濃い、しかし上等だということが一目でわかる風情の衣を身に纏っていた。ぱちくりと瞬きをするうちに、その衣がどうやら山にそぐわぬ狩衣であるということが若者には呑み込めてきた。
    「昼の子よ」
     大男は深い声音で若者に尋ねた。
    「これより下にあるのはお前の集落か」
    「そうでございます」
     若者の答えに大男は頷いた。すると、簾の奥からさらにもうひとりの男が降りてきた。やはり黒々とした狩衣を身につけている。大男よりはすこし背丈が低いがやはり見上げるほどの、若々しく逞しい青年であった。青年が大男に代わって口を開いた。
    「我々は旅の者だ。しばし逗留できる地を探している。招いてはもらえぬか」
    「はあ、おらが村に」
    「そうだ。招く、と一言言えばそれでよいのだ」
     若者はほとんど夢見心地で頷き、お招きします、と口を動かした。否、動いた、に近かった。村の長に伺いを立てねばならぬことも、若者の頭には浮かばなかった。ただこの方々を招かねばならぬということが、自明の理のごとくその頭に浮かんだのだった。
     若者のその言葉に大男と青年は首肯した。では、と彼らが顔を見合わせるや、牛車はふたたび、まるで宙に一寸ほど浮かんででもいるように滑らかに動き出した。
     時は、彼は誰時に差し掛かっていた。薄闇の広がる中、牛車は進んでゆく。ささめく声と、清澄な鈴の音だけが若者の後ろにこだまする。先導する若者は、幾度も背後を振り返り振り返り歩いた。よく知る山道が、まるで別物のように思われた。
     厳格な村の長も、常の様子が嘘のように彼らを歓待した。村でいちばん広い屋敷が彼らのために開け放たれ、常ならば皆が寝静まる夜中まで宴は続いた。貴き身形の彼らは、それをまるで感じさせぬほど、村の者に親しげに振る舞った。不思議なことに、牛車の中からは沢山の酒樽や見たこともないようなご馳走があとからあとから湧いてくるのだった。村の者たちは酒精に酔い、嘉肴に舌鼓を打った。
     宴の中心にいたのは大男であった。彼は言葉少なではあったが、その眼差しに見つめられると誰もがぼうっと酔いを深めるのだった。その様子を大男は、まるで慈しむように眺めた。彼の前に立つと村の者共は皆、普段の口吻の多寡に関わらず、ぺらぺらと言葉を紡いだ。大男の周りを取り囲む人の円は何重にもなるようであった。
     その輪からすこしばかり外れたところに、青年がいた。山の若者は、座する青年の隣へとそろりと近付いた。それに気付き青年は振り向いた。彼の横顔に、大男と似た面差しを捉え、若者は「このふたりは親子であるのだろうか」とぼんやり考えた。ただこの青年には、後れ毛であろうか、後ろへと撫で付けた髪から一筋ぴんと飛び出した髪が一房あって、それがあの大男とはまた違うたぐいの愛嬌を醸し出しているのだった。
     青年は若者が話し掛けるのにも、あまり表情を変えなかった。それは年若い男にありがちの硬い世慣れなさのようにも見えたし、老成した者の頑なさにも見えるのが、若者には不思議であった。さて大男にせよ、青年にせよ──どちらにせよ、鄙びた地に住まうものを惹きつけてやまぬ何かが、彼らにはあったのだ。
     言葉はなくとも隣を許された若者は、青年に問うた。
    「あのう、お公家さま方は、いずこからいらっしゃったのでござりましょうか。都からでござりましょうか」
    「遠い、遠いところより参った。お前達の都よりも、遥かに遠い彼方より。──お前達に告げても詮なきことであろう」
    「そうでござりましたか。お聞きだてして申し訳もござりませぬ……しかしこのような場所、何があるというわけでもありませぬのに」
     ああ、と青年は戸外に目を遣った。視線の先には、山々が夜闇にひっそりと佇んでいる。
    「そうだな──あの御山に、何か言い伝えのようなものはないか。聞かせてはくれぬか」
     は、と青年はしばし小さな目を瞬かせた。
    「言い伝えでござりますか」
     青年は首を傾げた。このような田舎の山村の、噂話ともつかぬ言い伝えのために、この貴き方々ははるばるやってきたのであろうか。不思議なこともあるものだが、聞きたいと言われたのであればお伝えしたい。若者は山に詳しい者、噂話に長けた者共を集め、青年を囲んであれやこれやと話をさせた。
     山に現る怪異の話である。集められた者共は既に慣れぬ酒に酔っており、舌もつるつるとよく回った。数多の話が口の端にのぼる中、青年がぴくりと眉を動かしたのは、山に出る女のあやかしの話が出た頃合いであった。
    「なんでも、山に入ったやつの精気を吸っちまうらしいですぜ」
    「金品まですっからかんにされちまったと聞いたがね」
    「いやそれはよ、ふらふらになった与作がよ、全部落っことしてきちまったってだけの話みてぇだけどな」
    「なんだぁ、ややこしい」
    「だどもよ、与作のあの様子はとてもとても、顔もまっつぁおだったでな、ありゃあただごとではねえ。あやかしはやっぱし、ちゃあんといるんだべ」
    「首のところによう、ちいせえ孔があったよ。首からこう、ちゅうっと吸っちまうんだろうなあ」
    「狐狸の類かのう」
    「いや精気を吸うんだ、もっとおそろしいもんに違いねえ」
    「鬼だ、鬼だよ」
     男たちの舌は止まらなかった。女のあやかしの噂話は、酒精も手伝い、やがて下卑た調子を帯びはじめた。
    「いやさ、おれの聞いたところによるとだなあ──これがよう、うっとりするほど色ッぺえ女だとかよう!」
    「なぁんだぁこの人は、いやだよう、あやかしと一発やろうってのかい、見境の無ェ」
    「いやァ、あやかしだども、女は女よ。人ではねェのだもの、うちの嬶ァじゃ引っくり返っても見せてもらえねぇ極楽をよう、見せてくれるかもしれねぇでねえか」
    「長ぁいみどりの黒髪でよう、肌は青白ぉいんだとよ。たまらんやなぁ。うちの村のおなごはみぃんな日に灼けて、浅黒くッていけねえ」
    「もし旦那様ァ、一夜のお慈悲をこのあやかしめにィ……ってな具合にのう!」
    「なんともこたえられんのぉ」
    「おれの股ぐらのこいつをよう、ちゅるッと吸っちゃあもらえんもんかね」
    「好き者だのう、お前も」
    「いっちょ夜這ってみるかのう」
    「屍になってもしらねえぞう」
    「いいよう、どうせならば女のあそこの極楽を拝んで死にてぇやなぁ」
    「ちげぇねえや」
     男共はどっと笑った。もはや貴き者がそこに相座していることを思い出す者はおらず──言葉を重ねるたび、青年の面持ちがかたくなってゆくのに、誰も気付く者はおらなんだった。
     ふと男共が辺りを見渡すと、青年は既に酒宴のどこにも見当たらなかった。大男も姿を消していた。彼らは首を捻ったが、すぐにそれを忘れた。宴は主賓のおらぬままにどんちゃんと続き、そのまま彼らは酔い潰れ正体をなくし、底知れぬ眠りに落ちた。
     夜が明け空が白み、朝が訪れた時。貴き者達の姿は、もうそこにはなかった。あれほどずらりと並んでいた牛車は跡形もなく、地面には轍の跡ひとつ見つけることができなかった。そして彼らの声音も顔かたちも、何もかもが霞にかかったようにぼんやりとして、村人は誰ひとり子細に思い出すことはできなかったのであった。
     そして何よりも不思議なことには、ぽつりぽつりと聞こえていた女のあやかしの話が、その日を境にふつりと聞こえなくなったのだという。あの貴きお公家様が、あやかしを嫁御に迎え入れたのであろうと、村ではまことしやかに囁かれたそうな。今となっては、昔の話である。



     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


     女は、いつからだったか覚えてはいられぬほど長きに渡る時を、山で独り、過ごしていた。
     女の在り方は、この日の本と呼ばれるちいさな島においては、あやかしだとか、もののけだとか、或いは──鬼、と呼ばれた。いずれにせよ、人ではなかった。それは女が自ら選べることではなかったし、いかんともし難いことであった。
     人ではない身であれ、いきものであるからには、生きてゆくには糧を得ねばならぬ。女は、人の血を吸わねば生きてはゆけぬ身の上であった。獣の血では身がもたぬ。どうしても、人の血を、それに含まれる精気を吸わねば立ち行かなかった。女の身の上にとって、人はなくてはならぬ糧そのものであった。
     しかしそれとは別に、女は、人の営みが嫌いではなかった。否、人ならざる身の上としては奇異なほどに、それを好いていた。人そのものが好きだというわけではない。一言に人とからげてしまうには、彼らは多すぎる。不愉快な思いをさせられたことがないではない。そうではなく、女が好んだのは、彼らの有り様に生じる理そのものであった。
     人が集まり、寄り添って暮らすなかには、自ずから法が生じる。自然の理のみで生きるのではなく、彼らはたくさんの法を彼らなりに築き生きていた。法があるゆえに苦しめられる者もいたが、別の法によって救われる弱き者もいる。人の身より外れた女には、その様相が興を惹いて仕方なかった。女は読み書きを隠れて学び、人の作り出すきまりごとを、法を、律を、女なりに愛して生きてきた。
     そのような在り方は、遠い昔に共に在った、同じたぐいのいきものどもの間では、おかしなことと映ったらしかった。彼らは、人を欲を満たすためのただの血袋であると考えていたのだから。
     さらに、女の持つ異能は、彼らでさえも恐ろしいと感じるものであった。彼ら、鬼とされた者共は、人の身では持たざる能を持つ。それはたとえば顔かたちを自在に変える能であったり、思いのままに人を操る能であったり、天をも動かし雨風を統べる能であったりしたが、女は彼らの持つその異能を借り受けて使う、万能とも言える才を持っていた。強すぎる異能は、おなじいきものであろうと脅威として映る。女は、仲間内からは疎まれた。であるから、独りで生きていた。
     普段は、できるだけ獣の血を吸ってやり過ごす。どうしようもない時だけ、山に入ってきた人間の血を吸う。殺したくはないから、要り用の分だけを吸い、放してやるのが常であった。女は、自分が麓の村々でどのように伝えられているのかは知らなかった。知っていれば、これはまた違う話になっていたのかもしれぬ。ただ、そうはならなかったのであるから、言っても詮のないことだ。
     さて、独りでひっそりと生きてきた女のもとに、ある夜、一人の男がやってきた。厚い雲間に月の隠れた、深い闇夜であった。
     女がその男を目にした時、男はその夜闇よりもなお昏い、黒々とした狩衣を身につけていた。だがその衣は、女が瞬きをしたその間に、今まで見たこともないような形の衣服に変わっていた。色だけがそのままであった。
     男は、すらりと細身の、脚にぴったりと沿う下履きに、艶のある黒の糸で華やかに刺繍され彩られた上衣を身につけていた。ぴんと立つ変わった形の襟が首の周りを飾る、丈の長い外套を羽織っている。黒々と艶めく髪はまるで二本の角が生えたように勇ましく跳ね、そして一房の髪だけが額からひょこりとあらぬ方を向いていた。
     涼やかな知性を感じさせる顔立ちは若々しく、少々吊り上がった眉には意思の強さが湛えられていた。口の端から覗く牙は夜闇に乳白色の輝きを放つ。そして切れ長の瞳には──女のよく知る、赤い光が宿っていた。女は、久方ぶりに目にする同族の見知らぬ男を、気付けばとっくりと眺めていた。
    「──同胞よ」
     男は、やおら口を開いた。その言葉は外つ国の響きであったが、女には耳慣れた言葉に聞こえた。意が通ずるのは、男の能によるものであろうか。女は、男の顔色を窺いながら、応えて口を開いた。
    「──外つ国の方。このような山の中まで、何の御用か。私は何か、夜を乱すようなことをしでかしただろうか」
     女は涼やかな声を発した。折しも、雲間が切れる。ふたりの間に、月の光が差した。
     夜闇に包まれた山の景色が、まるで人の子の目に映る昼間のように煌々と明るく照らし出された。瞬時、男は言葉を失ったように見えた。先ほどまでの威厳と誇りに満ちた風体が、崩れる。男は一瞬、呆気にとられたただの若者のように見えた。女がゆるりと首を傾げると、男は慌てて居住まいを正した。
    「いや、いや!──そういうことではないのです。同胞よ。この島国ではあなた方は……鬼、と呼ばれているのでしたか」
    「ああ、そうだな──だがこの国には、鬼は数多在れども、我らの種は数少ない。私の一族も、大陸より渡ってきたと伝え聞く」
    「なるほど。……我々の言葉では、我らを誇り高くこう呼びます。ヴァンパイア。あなた方の言葉に当てはめるのであれば──そう、吸血鬼と」
     ヴァンパイア。吸血鬼。女はその呼び名を舌の上で転がした。血を吸う鬼。なるほど、女の在り方を表して相違ない。女は得心した。
    「なるほど。同胞との言葉、納得いった。その赤い瞳、逞しい牙が何よりの証」
     それで、外つ国の同胞が、私に一体何の用であろう。女は静かな声で問うた。男は朗々と、謡うように言葉を紡いだ。
    「我々は……遠くワラキアより参りました。海を隔てて向こう、シベリアの烈々たる氷雪を越え、ユーラシアの浩渺たる大地を駆け抜け、幾つもの夜を過ごした先よりも遥かに彼方、風吹き荒ぶ碧落より」
     男は語り出した。男の一族について。強大な力を持つ真祖、彼の父親。竜の一族。その気まぐれの旅の果てに、日の本へと辿り着いたこと。此度と同じように、世界中あらゆる場所を駆け巡っては同胞を訪ね、彼らが望むのであれば仲間に加えているのだということ。女は魅入られたようにそれを聞いた。世界がそれほどまでに広いとは、女には思いもよらぬことであった。
     男は女が耳を傾けるままに、どんどんと口を動かした。次第にその口調は熱を帯び、途中からはとんだ苦労話も飛び出した。真祖、つまり彼の父親がどれほど途方もなく強く、それゆえに並外れた奇想天外な行いをするか。それにどれほど男が振り回されてきたか。しばらく夢中といった様子で語り続けた後、不意に彼は瞳を泳がせ、元より青白い顔色を更に青褪めさせた。次に男が漏らした声は、しどろもどろですっかり消沈した色をしていた。
    「あのう……喋りすぎましたよね……初対面なのに……ごめんなさい……俺はいつもこう……」
    「……? 謝らなくてもいい。誰かと言葉を交わすのは久方ぶりだから……色々な話を聞けて、私は楽しいが」
    「そっ、そう? そうですか?」
     それは女の本心からの言葉であったが、それ以上に男の表情は輝いた。心底安心したというような面持ちであった。どうやらこれが男の心性であると女にも容易に理解することができた。女は覚えず微笑む。するとまた男は動きを止めた。呆けた顔である。その訳は女にはわからなかったが、存外、ころころと表情を変えるものだとおかしく思った。
    「……どうなされた?」
    「あ、えっと、その、なんでもないんです、はい」
    「ならよいのだが……」
     男はごほん、と一つ咳払いをした。そして暫しの間の後、辺りを見渡して女に問うた。
    「誰かと言葉を交わすのは久々だ、とおっしゃいましたね。あなたは、一人で暮らしていらっしゃるのですか。この山の中で」
     女は、空を見上げた。円い月が、中空に浮かんでいる。吸血鬼の目には眩ゆい光だ。
    「ああ、そうだ……もうどれほどになるか、指折り数えるのもやめて久しい。私はあまり……同族に好かれなくてな」
    「……どうして?」
     男は気遣わしげな色を浮かべた。女は、躊躇った。
     自らの異能を、孤独の理由を、先程会ったばかりの相手に明かしてよいものか。だが、彼ならば、良いのではないかという気がした。何故だかは女にも判らなかった。ただ、彼ならば──同族にすらも忌み嫌われた、この異能を受け容れてくれるのではないかと思った。だが、それが甘い期待に終わる可能性もあることは女の頭の片隅から消えたわけではなかった。
     逡巡ののち、女は徐に口を切った。
    「私は──私には、他の吸血鬼の持つ異能を操る能力がある。触れた相手の能力に介入できるんだ。私の同族は、それを快く思わず……いや、仕方のないことだ。誰だってそんな者と一緒にいたくはないだろう。いつ勝手に操られるかしれないのだから」
     女は寂しげに微笑んだ。男は女の言葉に、驚いたような表情をした。しかしみるみるうちに、その顔には純粋な賞賛の色が浮かび上がってきた。驚かされたのは、女の方であった。男が勢いよく自分の手を取ったのだから。
    「なんて……なんて素晴らしい能力なんだ!つまりあなたは万能、そうではないですか!」
    「そ……そうだろうか?」
    「そうですとも!……能力が発現したとして、その形成に苦心する若き同胞は多い。あなたの才能は、彼らにとって必ずや救いとなるに違いありません!」
    「あの……」
    「はい?」
    「……手を、」
    「ミ゛」
     男は名状しがたい音声を発した。まるで雷に打たれたかのような勢いで飛び上がると、やにわに女の手を離す。そしてぺこぺこと平身低頭謝り始めた。
    「ご、ごめんなさい、ごめんなさいすみませんほんとうに申し訳ありません初対面の女性の手を急に握るなんて俺はほんとうにダメ、クズ、引っくり返った牛車……」
    「ひ、引っくり返った牛車……? いや、その、違うんだ。手について言ったのは……私があなたに触れれば、あなたの力を操ってしまえるからで……恐ろしくはないのかと」
     ほとんど泣き出さんばかりの勢いで頭を下げていた男は、女の言を聞くと、ほっとしたように表情を和らげた。
    「ああ……俺の……私のことを気遣ってくださっていたのですね。大丈夫ですよ、恐ろしくなどありません」
     女は、目を見開いた。そんなことを言う者は、今まで女の周りにはいなかった。同族ですら、彼女に触れられることを恐れ、離れていった。なのに。
    「……どうして?」
    「え? えっと、そうだな……こうやって俺を気遣ってくれるあなたが、俺の能力を勝手に操ったりすることはないだろうと思うからです」
     違いますか、と、男は首を傾げた。
     今度は女が呆気に取られる番であった。男はえへんと胸を張った。
    「それに、お……私は竜の一族次期当主! 我が父ほどではありませんが……ありません、が……いや、それでも誇り高き竜の息子です! 私は、吸血鬼が持ち得る能力であれば大抵は自在に操ることができるのです」
    「そうなのか? すごい、あなたの方こそ万能ではないか」
     女が偽らざる思いを込めそう漏らすと、男は非常に複雑な表情を浮かべた。褒めてもらえて嬉しい、いやそこまででもない結局万年二番手だし、というかこれ無理矢理褒めさせたみたいになってない? グエーッバカバカバカ承認欲求拗らせ男初対面の女性に気を遣わせるな尺取り虫ーーッ、男がほんのひとときの間に内心で百面相を繰り広げているなどとは知らず、女は再び首を傾げた。
    「……しかしその口ぶりでは、同族から私の噂を聞いて此処に来たという訳ではないのだな」
    「ああ……」
     男は、ほんの一瞬、眉を顰めた。その真意を問う前に、男は空を見上げて呟いた。
    「……この御山は、人里に程近いですね。人の子と触れ合うこともありましょう」
    「そうだな。危険がない訳でもないが、生き永らえるためには仕方あるまい。それに……」
    「それに?」
     ほんのすこし躊躇った女に、男は優しい声音で続きを促した。
    「……こんなことを言うと、変に思われるかもしれないが。私は、人の子の営みに興味があるんだ」
    「彼らの営みに?」
     女はこくりと頷いた。
    「人は……争う。この島国も例外ではない。数多の争いがあった。だが、人はそこから進む。空しい争いの後、彼らはそこから学ぶ。もちろん、一歩進んではまた一歩退がる、途方もない道のりではあるが……争いのない太平の世を作るために、彼らは……法を作る」
    「法、を」
     そう、法だ、と女は繰り返した。覚えず、口ぶりに熱が籠った。こんな話を誰かにするのは初めてのことだったのだ。
    「我ら鬼も──吸血鬼も、争うことがあろう。人の子を相手どることもあるが、あろうことか同族の間で相争うことも……しかし我らはその性がゆえ、省みることをしない。これでは、我らの夜に太平は訪れない。昼と夜は分かたれ、とこしえに交わることはないだろう。それどころか我らには──自らの首を締める未来が訪れてもおかしくはないだろう。我らも、変わらねばならぬのではないだろうか」
     我らも、人の子に倣うことができるのではないだろうか。世に生きるための法を築く。そうすることで初めて、この夜に月光のような平穏が差すのではないか。女は話し終えると、月を見上げた。男も、同じ方を見遣った。中空には金色の月が、静謐な光をやわらかに放って浮かんでいた。雲は消え失せ、その輝きを曇らせることはなかった。
     暫しの沈黙の後、横から静かな、しかし力強い声が聞こえた。女は、視線を男に戻す。
    「……素晴らしい考えだ」
     男は、女を見つめていた。男の目には、女に対する畏敬の念と、そしてほんのすこしの、哀しみのようなものが湛えられていた。女は、ゆっくりと瞬く。その哀しみは、どのような類いのものなのだろうか。女にはわからない。男の、肩の辺りで切り揃えた髪が、折からの風に吹かれて微かに揺れた。薄い唇が開かれた。
    「俺は……もしかすると、あなたのように言ってくれるひとを……ずっと探し求めていたのかもしれない」
    「……私のような者を?」
    「あ、えっと! 変な意味では、その、はい」
    「……ふふ」
     ごほんごほん、と男は二度咳払いをした。そして、すう、はあ、と深く呼吸をして息を整える。女に向き直る。女も自然、姿勢を正した。男の瞳は真っ直ぐであった。
    「日の本に住まう同胞よ。聡明なあなた。もし、もしあなたがそうしたいと望むのであれば……あなたのその考えを、その力を、我ら一族に貸してはくれないだろうか」
    「あなた方の一族に? 私を?」
     はい、と男は首肯した。
    「我ら一族は強大な力を持つ。夜の世界は我ら一族の翼の影にある。しかし今、夜闇はその昏さを喪いつつある……そしてそれは、人の行いの所為でもあるし、何より我ら吸血鬼の行いの所為でもあるのです」
     そう言って、男は顔を伏せる。海の向こうの話は、女もうっすらと聞き及んでいた。鬼なる存在がぼやけた神秘のままにされている日の本と違い、大陸の向こう、欧州では昼と夜の対立が深まっているのだということを。
    「……恐らく、今の儘では手詰まりなのです。我ら吸血鬼が、昼と夜の均衡を保ち、とこしえに月の輝きを享受する為には……そう。変わらねばならぬ。何かが必要だと、思っていました」
     男は、顔を上げた。目が細められる。女を眩しげに見つめる。
    「今日あなたを訪ったのは、ほんとうは別の理由からだった。でも……あなたに出逢えて良かった。もしあなたがこの日の本に残ると仰ったとして、私の中にはあなたが教えてくれた考えが生き続ける。ですが、もっと……もっとあなたの、話が聴きたい。そう望んで、構わないでしょうか」
     そっと、手が差し出された。凝乎と、男は待っている。女は、ほんのひととき瞼を閉じた。
     ああ、このような日が来ようとは。誰にも理解してもらえぬ考えを、独り胸のなかで捏ね続けた日々が去来した。人ならざる身ゆえ山よりは降りられず、しかし同族からも疎まれる身の上。すべてすべて、女が自ら選んだことではなかった。選ぶすべもなかった。だが今はじめて、女の目の前には選択肢があるのだった。
     女は、男の手を取った。人の身に流れる熱い血潮と比べれば、彼らに流れる血は冷たい。だが握った男の手は──今まで女が触れた何よりも熱かった。
    「……名を」
     男は、女の手を離さぬままに問うた。
    「お名前を、伺ってもよいだろうか。聡明なあなた。これから、その、あなたを呼ぶ時に、困るといけないから」
     女はぱちぱちと瞬きをした。すこし意地悪な気持ちが湧いてきて、女は笑みを含ませた声で囁いた。
    「ふふ、外つ国のお方。……この国で名を問うという行為の意味をご存知か」
     その言葉に、男はぴたりと静止した。瞳がぐるぐると記憶を辿るように動き、次に顔色は真っ赤に染まり、やがて真っ青になり、そして壮絶な勢いで上下に震え始めた。
    「ウンバロボッピェッピピピャーー!!?? 違う違うんですそういう意味ではウエーーーンごめんなさい俺は文化の違いを解しないド三流ですエーーーーン!! お、お、おおお俺はそういうつもりではなくえっとあのそのお付き合いはもっとなんていうか段階を踏みたいってちゃんと考えてるっていうかアッアッアッ」
    「す、すまない、からかって悪かった、落ち着いてくれないだろうか」
     ウウッ、ウッ、と嗚咽を漏らす男の背中を、女はさすった。すこしからかうつもりが、思った以上の反応を生んでしまった。
     しかしそれが女には不思議と、嫌ではなかった。むしろかわいらしいとすら映った。女はとうとう、くすくすと声を立てて笑い出した。
    「顔を上げてくれないか」
     そっと、幼子をあやすような声音で女は囁いた。男が涙をいっぱいに溜めた瞳をおずおずと向ける。
    「……あなたの問いに答えよう。私の名はミラ。そして私からも問おう。──名を、教えてはくれないか」
     男は、みたび、惚けたような顔を女に差し向けた。頬に微かな朱が差す。薄い唇が、わなないた。
    「ドラウス、です」
    「ドラウス。そうか、ドラウス。良い名だな」
    「あの、そのう……ミラ、さん。そう、お呼びしても?」
     好きに呼んでくれ、と女は──ミラは微笑んだ。ドラウス。舌に甘い響きが広がる。これからきっと幾度となく相呼び合うであろう名。ミラさん、そう言ってドラウスもはにかんだ。長く呼ばれることのなかった名は、彼の深い声音に馴染み、まるで鈴の音のようにこだました。
     繋いだ手をもう一度握り締める。暖かかった。ミラは呟いた。
    「私を、連れていってくれ──広い世界を、私に見せてくれ。ドラウス」
     ドラウスは微笑んだ。合図もなく、ふたりは同時に無数の蝙蝠へと姿を変えて飛び立った。深い木々の間に、ただ月の光だけが、冴えざえと残った。


    こおりをとかして


     影が差した。月の、明るすぎる夜だった。
     そういえば明かり取りの窓があったのだった、そう思い出し、少年は頤を上げた。未だ幼さを残した頬にはまろい稜線があったが、彼の瞳に浮かぶのは年頃に見合わぬ冷え冷えとした諦めであった。
     雲が過ったのかと思っていたが、窓の向こうにあったのは人影であった。少年は、つ、と形のよい眉をひそめる。途端、硬質な音を響かせて窓が割れた。きらきらと降り注ぐ破片を、少年は瞬きもせず見つめる。此処に連れて来られてから、初めて美しいと思えるものに出逢った。そう思いながら。
     音も立てずに、そのひとは少年の前へと降り立った。優雅な身のこなしの、それは青年だった。蒼白い肌と尖った耳、そして何より唇の端から覗く牙が、青年が少年と同族であることを語らずとも示している。ぱちん、と目が合う。青年は、赤の輝きを放つ瞳で少年を見据えた。開かれた口から、白く吐息が烟る。
    「……ノースディン君、かな」
     なぜ名前を、と訊こうとして、少年──ノースディンは喉を押さえた。青年はすぐにそれを気取り、ノースディンの前に屈み込む。少年の喉には、銀の首輪が嵌められていた。そして身動きが取れぬよう縛り付ける足輪も。吸血鬼には灼けつくような痛みを与えるそれらを、青年はほんの一捻りで、まるで糸でも千切るかのようにぷつりとねじ切ってしまった。からから、と固い音を立てて、金属が床に落ちる。
    「……あ゛、」
    「大丈夫かい?」
     青年の気遣わしげな声に、ノースディンはようよう頷いた。あとですぐに血を取ってきてあげる。そう言って青年が微笑む。軋む喉を引き絞って、少年は彼に訊ねる。
    「あなた、は」
    「俺……私は、君を助けに来た」
     そう言って彼はようやく辺りを見渡した。ノースディンも、彼の目線を辿る。
     其処は見渡す限り、氷に閉ざされていた。室内であるにも関わらず。大きな氷の柱のように見えるのは、凍てついた人間だった。それが何本も立っている。ノースディンの能力によるものであるのは明白であった。
     ノースディンは、氷雪を操る能力を持つ血族の嫡子である。だが最近、彼には新しい能力が発現した。血族では前例のない異能であった。魅了の能力だ。
     顕現したばかりにしては強すぎる魅了は、彼の意に反して暴走した。抑えが利かなくなったそれは、数多の人間を不本意にも呼び寄せてしまったのだ。その中には退治人もいた。不意を突かれて複数人に取り囲まれ、拐われ、此処に閉じ込められてしまったノースディンは、虎視眈々と反撃の時を待っていた。人間が最も無防備になる瞬間、つまり褥に這い入ってくる時を。
     男達の不躾な手が少年の膚に触れようとした瞬間、世界のすべては動きを止めた。動けるのは、少年ただ一人だった。四つん這いの間抜けな姿勢のまま、呆気に取られたような顔で静止した男。下卑た笑みを浮かべて下衣の前立てを寛げようとした瞬間、永遠に動けなくなった男。誰も彼も、みんなみんな、氷に閉ざされた。それで終わりだった。だが、首輪と足輪だけは少年の力ではどうしようもなかった。であるから、物言わぬ氷の柱に囲まれて、ノースディンはまんじりともせず、ただぼんやりと床に射した月光を見ていた。そこに、彼がやって来たのだ。
     ノースディンは凡てを口にはしなかったが、この場景を見れば仔細はすぐに察せられるはずであった。青年は何も言わず、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せていた。だが、その拳は固く握られていた。
     やや間を置いてのち、青年はノースディンに向き直ると、にこりと人の好さそうな笑みを浮かべた。その拍子に、前髪から一房、ぴょこりとはみ出して揺れた。精悍な印象から一転、なんとも愛嬌のある様子に少年はぱちくりと瞬きをした。さらに青年が口にしたのは、賞賛の言葉であった。
    「君は強いな。すごい」
     その言葉に、ノースディンはぐっと息を呑み込んだ。そうしないと、何かが溢れてきそうだったのだ。くしゃりと髪を撫でられて、少年は俯いた。気付いているのかどうか、青年は明るい声で続けた。
    「状況によっては戦わねばならぬと思っていたが、私のすることは少ないようだ」
     そう言って青年は、ノースディンの裸の肩に、身に纏っていた外套をふわりと掛けた。ぽんぽんと肩を叩く手つきがあまりにもやさしいので、ノースディンの胸はつきりと痛んだ。外套を脱いだ青年は、略的な夜会服しか纏っていない。ノースディンは着せられた外套の襟元を握り締め、ふるふると首を横に振った。
    「……いけません。貴方が凍えてしまう」
    「私の心配をしてくれるのかい。やさしい子だ」
     私は大丈夫だよ、そう言うや、青年の姿がゆらりと傾ぎ、変じた。一瞬ののちに其処に立っていたのは、見上げるほど大きな一匹の狼であった。艶やかな毛並みは白銀の輝きを放っている。その煌めきは、瞳を突き刺すようであった。覚えず、ノースディンの唇から熱い息が漏れる。こんなに気高く、うつくしいいきものを目にしたのは、生まれて初めてだった。神に見放された身である吸血鬼でありながら、少年には、その造形は神が作りたもうたものであるとしか思えなかった。
     凍った床を逞しい前肢で踏み締め、巨狼は一声高く吠えた。逢うのは初めてであったが、その有り様を示した二つ名には覚えがあった。
    「……白銀の、狼。貴方は、竜の一族の」
    「聞き及んでいるかい。そう、私はドラウス。竜の一族の嫡子。──ほんとうは、もっと楽しいときに出逢えたらよかったのだけど、でも」
     もう、ひとりで凍えずともよいのだよ。狼は、深くやさしい声音でそう告げた。おずおずとノースディンが手を伸ばすと、彼はその手にぐりぐりと頭を押しつけた。厚い毛皮はくすぐったく、暖かかった。頬をぺろりと舐められて、ノースディンはほんとうに久し振りに、声を立てて笑った。
     捕まりなさいというドラウスの言葉に従い、ノースディンは狼の背に跨がった。太く逞しい首に、ぎゅ、と捕まる。狼が、一際大きく咆哮した。狼の咽喉の震えが、少年の腕に伝わる。びりびりと空気が揺れる。猛る音の波は、逆巻く風へと変じた。館の中を荒れ狂う嵐が吹き抜ける。ぱりんと呆気ない音を立てて、氷柱が粉微塵に砕け散る。血飛沫すら残さず、ただ煌めきだけを放ち、氷柱は消え去った。もう其処には、狼と少年以外の何者も存在しなかった。
    「帰ろう、ノースディン」
    「……うん、ドラウス」
     一迅の風のごとく、白銀の狼は少年を乗せて夜を駆けた。びゅうびゅうと冷たい空気が、ノースディンの顔を撫でる。ぽろりと目蓋の端から零れ落ちた水滴は、彼の肌の上でころりと小さな氷の粒に変わって降り注ぎ、そしてドラウスの毛皮に触れて融けた。
     ドラウス。白銀の狼。私を助けに来た、私の王子様。私の救世主。私の神。ノースディンは、暖かな毛並みに頬を埋め、前髪を揺らしながら、うっとりと瞳を閉じた。


    こおりにとざして


     それは幾度目の旅のあとであったろうか。
     偉大なる御真祖様が気紛れを起こして旅に出るのは、もう一族にとってはほとんど恒例となっていた。恒例とは言え、毎度毎度目的地は違うし、いやむしろ目的地など決めているのだろうかと思わされることもあったしで、それに慣れた者など誰一人としていなかったのだが。ついていく者はまちまちで、ノースディンも度々そこに加わっていた。だが毎回ではなかった。その旅路で必ず、欠かさずかの真祖の傍にいたのは、嫡男のドラウスただひとりであった。
     此度の旅に、ノースディンは同行しなかった。気が乗らなかった訳ではないが、いや正確に言えば気が乗ったことなどはなかったが、いずれにせよ諸々の事情で馳せ参じることができなかったのだ。ただ、遠い空の下でまた苦労を重ねているのであろう男のことは気にかかっていた。ドラウスも十分に強大な力を持つ吸血鬼で、そこに関して心配などはしていなかったが、その父はそれに輪をかけて強大な、ほとんど理を外れた存在であるからだ。
     久方ぶりに賑やかさを取り戻した竜の一族の居城に、ノースディンは足を向けた。人の街のざわめきはどうにも好かないが、この城に集まる竜の血族たちの親密な雰囲気は嫌いではなかった。嫡男が気にかける存在であるノースディンを、同胞たちは適切な距離感を持って迎え入れてくれる。少年から青年へと育ち一層美しさを増したノースディンを、過剰にもてはやすことも腫れ物に触るように扱うこともしなかった。
     だが常であれば真っ先に自分を歓待してくれるはずのドラウスの姿は見えなかった。ゆるりと辺りを見渡したノースディンに、ひとりの男が口を添えてくれる。
    「ドラウス様をお探しで?」
    「ああ……」
    「ご自身の部屋にいらっしゃるかと」
     そうか、と軽く頷いてノースディンはドラウスの部屋に向かった。長旅のあとだ、疲れが出ているのかもしれない。長い廊下にこつこつと靴の音がこだまする。
     ドラウスの部屋の扉は、しんと閉ざされていた。軽くノックをしたが、返ってくる声はない。つ、とノースディンは眉をひそめた。いつもなら明るくあたたかな声が返ってきて、やあよく来てくれた、と人懐こい笑みが降ってくるはずなのに。暫し逡巡して、しかしノースディンは扉を開けることを選んだ。
    「……入るぞ」
     控えめに声をかけて、扉を開く。灯りはともされていなかったが、吸血鬼の目には障りがない。ゆらゆらと彷徨った視線は、一箇所で止まった。カウチに横たわる影を見つけて。
     ドラウス、と掛けようとした声は、途中で詰まった。きん、と硬質な音がしてようやくノースディンはようやく我に返る。部屋の温度が急激に落ち、空気中の水分を凍らせたのだ。柔らかなはずの絨毯は踏み締められて、瞬時に下りた霜が砕けてぱりんと音を立てた。無意識に能力を発動してしまったのは、身を横たえたドラウスの目元に、涙の跡を見つけたからに他ならなかった。
    「……ドラウス」
     喉から這い出た声は、驚くほどに低かった。
    「……何があった。誰が、お前を」
     ドラウスは、ゆっくり瞼を持ち上げると、ゆらゆらと瞳を揺らした。
    「……ノース、あ、これは」
     違うんだ、と呟く声があまりに弱々しかったので、ノースディンはほとんど身動きもできないほどの衝撃に襲われた。まばたきも忘れ、喉が渇く。動揺した。こんなドラウスを見るのは、初めてだった。
     ドラウスは、強大な吸血鬼だ。おしなべて享楽的な気質を持つ吸血鬼たちのなかでは、珍しくも生真面目で努力家だった。彼が強いのは、父から受け継いだ血の成せるものもあったが、何より彼自身のたゆまぬ努力にあるとノースディンは知っていた。気苦労を重ねため息をつく姿ならば時折目にしたが、それはほんのひとときのことで、彼はすぐに前を向いて微笑む。なんと気高いのだろう、そう思っていた。心優しく驕らず、いつも朗らかで優雅で、思い詰めがちな年下のノースディンを思いやってくれた。彼に助けられた少年の日からずっと、ドラウスはノースディンにとって手の届かぬ、お伽噺の王子様のような存在であったのに。今ノースディンの目の前でほろほろと静かに涙を流すドラウスは、まるでか弱い少年のようだった。
     ドラウスは呟く。ぽとぽとと滴る雨垂れのように、途切れ途切れの声だった。
    「……おかあさまの、お墓に、行ったんだ。すごく久し振りに」
     そういえば、竜の真祖の妻──ドラウスの母親にあたるひとの話は、ついぞ聞いたことはなかった。肖像画でさえ目にしたことはない。すでに鬼籍に入っていたのかとノースディンはぼんやり納得した。
    「それで、私、気付いてしまった。お父様の横顔を見て」
     流れる涙はしとしととドラウスの襟元を濡らした。それを拭いもせず、彼は足許をじっと眺めていた。特に何があるわけでもない足許を。
    「……私じゃ、おかあさまの代わりにはなれない。お父様のこころには、おかあさまの形の穴が、ぽっかり空いてて……それはおれじゃ、埋められないんだ」
     どうすればいいんだろう、ドラウスは絞り出すようにそう呟いた。寄る辺ないこどものような声で。
    「この世界はあのひとには狭すぎて、おれはもしかしたらあのひとを繋ぎ止める何かには、なれなくて……こわいんだ、あのひとはきっとまた、おかあさまに似た"人"を見つけて、それで……」
    「ドラウス」
     ノースディンは、ドラウスの手を取った。ドラウスの瞳が、ようやくノースディンを捉えた。鮮血のごとく赤い瞳には涙が滲んで揺らめいていて、ノースディンは喉が鳴りそうになったのをかろうじて堪えた。そして取り繕った表情でドラウスに問いかけた。
    「……お母様は、どんな方だったんだ」
     おかあさまは、と薄い唇が動いた。
    「とても活発で、好奇心旺盛で、とても……やさしかった。おれにできないことがあっても、いつもたくさん励ましてくれて、それで……でも、私たちと同じ時をゆくことは、できなくて」
    「そうか」
     素敵な人だったのだな、とノースディンはそう言って、ドラウスの手を撫でた。自分がこんなにやさしい声を出せると、ノースディンははじめて知った。
    「……ドラウス。お前の中に、彼女は生きているよ。きっとお前にそっくりだ。それは御真祖様が一番よくわかっているはず」
     ドラウスはそれをじっと聞いていた。まるで、あどけないこどものようであった。
     この男を、お伽噺の王子さまだと、救世主だと思っていた。だがそれは全くの間違いだった。彼は悲しみ悩み苦しむ、ひとりの青年でしかなかった。よくも今まで、毅然と振る舞ってきたものだと思わされた。だがその事実がノースディンを揺るがすことは、まったくなかった。むしろそれは、大浪のような歓喜としてノースディンを呑み込んだ。救世主であれば、神であれば、彼の足許に平伏すしかない。だがひとりの青年であるならば、彼の隣に立つことが赦されるのだから。
     大浪を乗りこなすべく、やさしいやさしい声を出して、ノースディンは続けた。
    「お母様は、どんなふうにお前を励ましてくれたんだ」
    「……ドラウスは、努力の子だって……いつもとってもがんばってるって」
    「その通りだドラウス。お前の美徳だよ」
    「でも、でも……」
     努力だけではどうにもならないこともあるじゃないか、そう漏らしたドラウスの声は、ノースディンにはほとんど悲鳴のごとく響いた。その悲鳴の、なんともおぞましく甘美な響きだったことか。
    「ああ、ドラウス……」
     ノースディンは、とうとうドラウスを抱き寄せた。予想に反してドラウスは抵抗しなかった。ただされるがままに、抱き締められるがままでいた。
    「ではドラウス、せめて私の前でだけは、努力なんてしなくていい。竜の嫡男でもなく、御真祖様の息子でもなく、"お母様"の息子ですらなくともいい。ただのドラウス……ただのお前でいい。我慢しなくてもいい、泣いていいんだ……」
     耳許で囁いてやれば、ドラウスはとうとうしゃくりあげて泣き出した。ぐずぐずと腕の中で涙を流す男の背を擦ってやりながら、ノースディンは細心の注意を払って力を操作した。部屋の扉を、いまひととき氷で閉ざすために。こんな竜の姿を見るのは、自分だけでよい。
     ああ、あわれなドラウス。おまえの予感は、おそらく正しい。おまえの愛しいお父様は、いつの日かきっとおまえを置いていくだろう。定命の者の熱と輝きに焦がれて。残されるおまえの哀しみに気付くことなく。泣いて泣いて、泣きつかれて眠ればいい。お前の流した涙の海を、ぜんぶぜんぶ、私が美しい氷の結晶に変えてやるから。
     氷に閉ざされた部屋のなかで、ふたりはいつまでもそうしていた。大きな竜がまたどこかへと飛んでゆくのには気付かぬままに。





    蹄/ひつじ Link Message Mute
    2022/09/28 22:24:28

    月光譚 / こおりをとかして こおりにとざして

    pixivで公開していたウスパパ関連の短編集です。
    ウスパパを巡るミラさん、ノースの円満三角関係が好きです。
    当然ながら捏造しかありません。

    ※当人がいない場での性的揶揄の描写が含まれます。
    ※277死柱情報により、ノースディン過去捏造は本編と矛盾した情報になりました。ですがそのままにしておきたいと思います。277死より前に書いたことをご承知おきください。

    #ウスミラ  #ノスウス

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    • magic hour + morekbnz短編集、全年齢のものの再録です。
      様々な捏造、第三者との関係性を前提としたもの、なんやかんや何でもありです。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • ゆめのあとさきフェアリーの悪戯で様子がおかしくなったnzくんに振り回されるkbnくんの話。
      「夏の夜の夢」(NTL版)のちょっとしたオマージュになっています。
      雨の中踊るふたりが見たかったのです。

      2020年に出したkbnz本の再録です。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • スパンコールとバラ色の日々Twitterで連載していたkbnz 30days challengeをまとめて本にして頒布したもの、の再録です。
      例のごとく捏造しかありません。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • Drive It Like You Stole It/Let the right one inkbnz再録です。パロものでまとめています。
      ・学パロ プロムをぶっ壊せ
      ・吸血鬼パロ
      の二本です。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
    • Beyond the Blizzard2021年3月チャレにて発行、pixivで全文公開していたものです。

      街にはびこる違法ドラッグの影。手がかりを追い、雪原に乗り出した二人の前に立ちはだかるのは──。
      知人発深い仲行きのkbnz。DLCの内容を踏まえたものになっています。捏造たくさん。

      【注意!】ドラッグ、デートレイプの描写があります。ネームドキャラが使用するものではありませんが、フラッシュバックの恐れにご留意ください。
      また、pkmnが悪用される描写があります。

      #kbnz
      蹄/ひつじ
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