magic hour + moreAt the library
巨大な円形の吹き抜けを見上げ、ほうと溜め息をつく。どこまでも続いていきそうなエスカレーター、まるでいつかテレビで見たSF映画のワンシーンのようだ。そんな風景からぐるりと目を回すと、一転して古色蒼然とした佇まいの背表紙がおびただしいほどに立ち並ぶ。足元がふわりとするような感覚に、知らずキバナは微笑んだ。ここはナックルシティにおいて一番……いや、ガラル地方だけでなくカロスや他の地方も含めてなお最大級の規模を誇る、壮大な図書館だった。
近年建て替えられたばかりのその図書館は、「歴史ある街並みにそぐわないのでは」と最初は眉を顰められるような現代建築だった。しかしその実、宝石産業が盛んであったその街の歴史を踏まえたデザインはあっという間に人々の目に馴染んだ。金と銀のサークルが連なり合うようなファサードは、キバナの気に入りでもあった。開館当初は観光客の入りも凄まじく、落ち着いて利用できるとはなかなか言い難い状況だったが、ここ最近はだんだんと図書館らしい落ち着きを得つつある。それはガラルにおいて知らぬ者のいない程の有名人であるキバナにとってもありがたいことだった。
本日は久々の一日まるまるのオフだった。暇をどうやって潰そう、と思案したキバナの目に飛び込んできたのが、堂々とそびえ立つこの図書館だった。たまの休み、天気もいいこんな日に、あえて本に埋もれてみるのもいい。なにより、SNSを駆使し「現代っ子代表」のように扱われている自分が、まさかオールドファッションに図書館で一日を過ごすなどとはおそらく誰も思わないだろう。様々な思惑から、変装もそこそこにキバナはここにやってきたのだった。その目論見は成功したといえる。ファッションや髪型を変えたところで否応なく目立ってしまう己の巨躯にいつも忸怩たる想いを抱えてきたが、この開けた空間では人間ひとりの大きさなどどうでもよくなるのかもしれない。キバナのことに気付く人間はほとんどいないように見えた。老いも若きも、皆思い思いに本と向き合っている。キバナは自分の思いつきに拍手を贈りたかった。これは思っていた以上にリラックスした休日を過ごせそうだ。
あたたかな陽射しが外壁から透けて、床には輪を描いた影が落ちる。絵本を幼子に読み聞かせてやる母親のすこしおどけた声。あちこちから、ぱらり、とページをめくる耳に心地よい音。ひそやかに繰り広げられる、館員と客とのやり取り。かりかりとよどみなくノートにペンを走らせる音。なんと穏やかな昼下がりだろう。激しい闘いのなかに日常的に身を置いているせいで、一歩離れてみればこのような日々が広がっていたことを久しく忘れていた。わけてもここ数ヶ月は嵐のような目まぐるしい月日であったことからして……蘇った諸々の記憶に、キバナは知らず知らず詰めていた息を小さく吐いた。
あの日から世界の全部ががらりとその姿を変えたような気がしていたが、そんなことは錯覚で。かと言って、この景色を守るためには手をこまねいてはいられないのもまた真であり。ぐるぐると回り出した思考に気付き、あわてて修正を図る。だめだめ、今日は休みに来たんだよオレさまは。リョウタからも「ちょっと根を詰めすぎです」なんて窘められたばっかりじゃないか。気を取り直して、努めてゆっくりと館内を散策することとする。時間はたっぷりあるし、ここには世界中から集められた本がある。それこそ人ひとりの人生では読み切ることなどできないほどの本が。経済、政治、文学、演劇……無数にも思えるジャンルの本棚を巡るうちに、「音楽」と分類された棚に近付いていたのは、無意識だったのかなんだったのか。背表紙のタイトルが頭の中で意味を結ばないまま、ぼんやりと眺めていたキバナの耳に、ごく小さな声が届いた。
「……キバナ?」
振り返ればそこには痩躯の男がたたずんでいた。髪の分け目を変えているのは人目避けのカムフラージュだろうか。いつもは高い位置で括った長い髪を、今日は後頭部にゆるくバンにしてまとめている。背後からの陽の光が彼の細い黒ずくめのシルエットを象って、キバナは眩しさに目をぱちくりした。
「ネズ?なんでこんなとこに……」
「……本を借りにきてますね」
「そりゃそうだな」
我ながら馬鹿な質問をしたと苦笑する。図書館なのだから目的は一つだ。ネズの腕に抱かれた本は音楽理論を説くものらしかった。
「わざわざナックルシティに?」
「スパイクタウンには目当てのものがなかったんです、一番近かったのがここで」
「なるほど」
立ち話もなんですし、とネズは陣取っていたらしい座席にキバナを案内した。良い席を見つけたものだ。そこはちょうど本棚に目隠しされて他からは見えにくい場所だった。書き物机の上には開かれたままのノートとペンが無造作に置かれている。今しがた持ってきた本に加え、他にも数冊が積まれていた。すべて音楽理論に関するものだ。目を向けると、ネズは少々気恥しそうに俯いた。
「おれ、今まで独学でずっとやってきたので」
「うっそ、そうなの?」
「学がないからね」
お決まりの自虐には触れずに受け流す。若くからトレーナーの道を邁進してきた者は、ハイスクールまでで学歴を終えることも多い。体力勝負の世界だ、若さが物を言うこともあるのだからそれはなんら恥じるものではない。現にあのダンデだって十歳からずっとチャンピオン業一筋で、学業との両立はなかなか難しかったと零していたのを覚えている。ただキバナはジムトレーナー時代に一時期休業して学業に専念し大学を卒業した経歴があるので、ここで何を言っても要らぬ誤解を招いてしまいそうだった。
「本格的に音楽をやるにあたって、今のままではどこかで壁にぶつかる気がしまして。それでまあ、のこのこナックルシティまでやってきた、というわけで」
卑屈な響きが少々気になりはするものの、その姿勢はキバナの心にある種の感銘をもって響いた。基本を知ること。自分の持つ力を見極め、前進するために努力すること。苦しみながらもそこから目を逸らしはないこと。好ましい姿勢だと思った。この男の強さの本質はそこにあるのかもしれないとも思った。そしてそれを明かしてくれたことにも、なんともいえないうれしさがあった。いいじゃん、と漏らした声にネズは片方の眉を一瞬跳ね上げたが、キバナの声に裏がないことに気付き少々安堵したらしい。すぐに肩の力を抜いた様子がわかった。
「じゃー今日は勉強会だな」
「会、って」
「待ってろよ、オレさまも本見繕ってくるから」
「あ、ちょっと」
先に帰んなよ! と言い残してキバナは立ち上がると、足取りも軽く本を探しに別の棚へ向かった。勉強会、か。久しぶりに口にしたなこんな言葉。学生時代を思い出すようで無性に楽しかった。ポケモンバトルに関する理論書やワイルドエリアに関する最新のレポートなどを数冊ピックアップして戻れば、ネズは案外おとなしく本を読んで待っていた。相手を無碍にして勝手に帰るような男ではないとはわかっていたが、それでもキバナの胸は小さく躍った。ネズの横の椅子を引いて座る。
「よっし、じゃあ勉強会始めっか」
「ばらばらの本を各自で読むのは勉強会といえるんですかね」
「気分だよ、気分」
「……構えませんよ」
「勉強会なんだから当たり前だろ、いいよそんなの」
へらへらと笑うキバナに毒気を抜かれたようで、ネズは「ではご自由に」とだけ呟くと改めてページに目を落とした。キバナもレポートを手に取る。しばし二人の間を静寂が包んだ。時折ネズがノートに何かを書き留めるペンの音と、お互いが不規則にページを繰る音だけが漂う。
こうやって並んで本を読んでいるなんて不思議だ。きっと数ヶ月前の自分に言えば目を白黒させるだろう。いろいろなものが変わったが、そのなかでもこの男との関係がいちばんの変化かもしれない。
ふとキバナはある光景を幻視する。ハイスクール時代のキバナと、もちろん想像だが同じくハイティーンのネズが学校の図書室でこうして並んでいる光景だ。いつかリーグカードで見た在りし日のネズは、今よりずっと髪が短かった。想像の中の彼はやはり俯いている。やわらかに窓から吹き込む風が彼の前髪を揺らして、ページをいたずらにめくって。わけもなく笑いあって。そんなありもしない光景が頭に浮かんだ。学生気分が見せた幻想だ。
もし、もしあの頃のオレの近くにコイツがいたら……。しかしその思考実験は早々に終わりを迎えた。ないな。多分ハイスクール時代のキバナならネズに見向きもしなかったろう。キバナはいつだって華やかなグループに身を置いていた。多分ネズはそういうタイプじゃない。もちろんネズの学生時代については聞いちゃいないし、別に彼をバカにしているわけでもないが、なんとなく彼にはそういうのは似合わない。彼は多分……青春映画とかにいる、はぐれ者で浮いてて、だけど最後あたりにカッコイイ見せ場があるやつ。そういうやつだ。あの頃のキバナにはきっとそのカッコよさはわからなかった。今、わかるようになってよかった。
ふわふわと漂う思考を現実に引き戻したのは、ネズの控えめな咳払いだった。じとりとした視線がかち合う。
「手、止まってませんか」
「バレたか」
「おまえ、おれのこと見すぎなんですよ」
視線がうるさい、と苦情をよこされて少々照れた。いろいろと漏れてしまっていたらしい。勉強会だと息巻いておいて、結局邪魔しているも同然になってしまっていることに申し訳なさも感じる。
「まあいいです。丁度小腹も空いてきたところだしね」
ぱたん、と本を閉じてネズがすっくと立ち上がり、手早く荷物をまとめる。案外ネズは切り替えが早い。おまえはその本借りますか、との問いにあわてて頷いた。
「じゃあカウンター行きましょう。その後は……おまえのホームタウンなんですから、任せます」
「え、メシ一緒してくれんの?」
「別にこのまま帰ってもいいですけど」
ぶんぶんと頭を横に振る。子どもっぽい仕草に思わずといった様子で彼の唇が綻ぶ。
「やべ、そういやオレ、オマエの好きなメシとか全然知らない」
「おまえはSNSでダダ漏れですけどね」
「だってオマエいつもすぐ帰るし」
「必要性感じなかったので」
じゃー今のオレには必要性感じてくれてんだ、という感想が頭をよぎったが口には出さないことにする。
やはり二人がはじまるにはあのタイミングしかなかったのかもしれない。てんでばらばらの方を向いて突き進んでいたから、すぐそばにいたのに気付くことができなかったのだ。多分あのとき立ち止まって周りを眺めて、はじめてお互いに気が付いた。ちょっと前でも後でもなく、あのとき気付けたこと、それは幸せなことではなかっただろうか。それともこれはロマンチシズムが過ぎる考えだろうか?
何はともあれ、今はどこに食べに行くかを決めなければ。先にカウンターへとさっさと歩を進めるネズを追いかけながら、キバナはうれしい悩みに頭を働かせるのだった。
By the sea
彩度の低い寒々しい入江に、これまた彩度の低い男が立っていた。白と黒に染められたポニーテール、シンプルな黒のロングコート、黒のスキニージーンズ。人気のない夕闇の海岸、ちらつく雪の中で、彼の姿は常よりもさらに頼りなげに見える。この光景をキャンバスに描くとしたら、絵の具の種類は少なくて済むな。そんなことを考えながら、キバナはなるたけ静かに男に近寄った。
「ネズ、ここにいたんだな」
ネズは振り返らなかった。耳のいい男だから、とうに足音で気付いていたのだろう。無言のままのネズの横に、キバナも並び立つ。
「風邪引くぞ」
「……おまえが思ってるよりもおれ、体力ありますよ」
「見てて寒いんだよ」
近寄ってみればネズは細身のコートを羽織っただけで、マフラーなどは身につけていなかった。黒いVネックのニットから覗く首元はいつにもまして青白く映る。チョーカー、冬は冷たくねえのかな、とぼんやりキバナは考える。
キバナはといえば、最近新調したばかりのダウンコートを着込み、お馴染みのヘアバンドを普段よりも目深にかぶって耳まで覆っている。全体を見渡せばわりあい温暖な気候のガラルだが、この場所はキルクスタウンからの寒気が流れ込むため平均気温は一年を通して低い。冬となればなおさらだった。マフラー持ってきてやればよかった、とキバナはすこし悔やむ。あたたかさを分けてやれるものを今は持っていない。
「寒い方がいいんです」
白い息を吐き出しながらネズはどこか遠くを見ていた。
「手足の感覚が痺れてなくなって……目と耳だけになって、そうやってやっと、考えが動き出すような気がするから」
だらりと下げられたネズの手を取れば、氷のような冷たさだった。体温を分けてやってもそれがあたたまることはもうないのではないか、と錯覚するほどに。黒いマニキュアを塗られた爪をそっと指の腹で撫でると、それに応えるように、きゅ、と控えめに握り返してくる。
オマエ、ただでさえ考えすぎんだから。そんな思い詰めないほうがいいよ。もう少しキバナが若ければ、少年の頃だったなら、そんな言葉を発していたかもしれない。だが今のキバナが選択するのは沈黙だ。ネズのこの性質は誰がなんと言おうと変わらないと既に知っている。ひとりではどうしようもないことを憂いて、誰にも頼らず足掻いて、多くの人の人生と誇りとを背負おうとしてきたその姿を、ネズ自身のほかに誰が否定できるだろう。誰に理解や共感が示せるだろう。示すべきではない、そうキバナは心得ていた。
だから今キバナができるのは、ただ横に立つことだ。彼の手を握ってやることだ。氷のようだと思ったのは、もうあたたまることはないだろうと思ったのは、錯覚だ。キバナ自身の体温が、だんだんとネズの骨ばった手に伝わっていくのがわかる。ちゃんと伝わっている。そのことに安堵する。
「もうちょっとここにいる?」
「……おまえがそれでよければ」
「うん」
いてやるよ。気が済むまで。わざと軽い調子で笑い飛ばせば、ネズの頭がぽすん、と音を立てて肩口にもたれかかった。オマエは考えすぎるから、多分オレの考えなんかもぜんぶわかってしまってるんだろう。気遣われることに逆に傷つく、オマエはそういう男だから。だからなんともないようなふりをして、キバナはネズの手を握り直した。
「さみしいけど、いいとこだな」
「いいとこでしょう」
おれのまち、ですから。
雪がしんしんと降りしきる。ふたりの男はじっと暗い濃紺の波のさざめきを見つめている。まだ夜は長く、春はさらにいくつもの夜の訪れを待たねばならない。繋いだ手のかすかな温もりだけを寄るべにして、ふたりの夜ははじまったばかりであった。
Waiting for the dawn
かすかに忍び寄る冷たい空気で目が覚めた。暗い部屋の中、枕元に置いていたスマホで時刻を確認する。ブルーライトの灯りが目を刺して、キバナは顔を顰めた。現在ガラルは朝五時前。ため息をつきながらスマホのスクリーンをオフにして、ようやくベッドに一人きりであることに気付いた。手探りでシーツを触ってみれば、まだほのかにあたたかい。きっとキバナを起こさないよう気を遣ってこっそりと起き出したのだろう。くわ、と大きなあくびを一つして、キバナは寝乱れたベッドもそのままにゆっくりとキッチンへ向かった。
ケトルに水を注ぐ。ガスコンロのスイッチを捻り、乾かしてあったマグカップをふたつ置く。ドリップ式のコーヒーパックをセットして、湯が沸くのをぼんやりと眺めた。視線を上げれば、開け放たれたカーテンの向こうのガラス越しに、ツートンの髪が揺れるのが見える。いまだ夜明け前、電灯もつけない室内は、静かな群青色に満たされていた。こぽこぽと音を立て始めた湯のほかは、すべてがまどろんでいるようだ。コーヒーを淹れたマグカップを両手に、ベランダに近付く。コツコツ、とガラスを叩けば、向こうにいる男が振り返った。おはよ、と口だけで示すと、カラカラと音を立てて窓が開く。
「起こしましたか」
「んー、いや」
湯気を立てるマグカップを手渡す。ネズは小さく謝意を示して、再びバルコニー越しの風景を眺めた。時折風が吹いて、無造作なままのネズの髪をいたずらになびかせる。
ミニテーブルの上には、シンプルなガラスの灰皿と、吸殻が二本。この灰皿はつい最近キバナが買い求めたものだ。特に何も言わず設置したものを、ネズも何も言わずそのまま使っている。タバコを嗜まないキバナの家に不意に現れたそれの裏の意図に気付かない男ではないだろう。だがネズがそれを使い続けていることが、十分に彼の意思表示であるとキバナは理解していた。
ネズは三本目に火をつけた。ライターの火が伏せた顔をひととき照らし、また紺色の闇に沈む。紫煙が複雑な軌道を描いてゆっくりと空に消える。何度も見た姿だが、その瞬間がキバナは好きだった。
ふたりの眼下に広がるナックルシティは、いまだ眠りに包まれている。荘厳な印象を与える、石畳の城塞都市。ぽつぽつと灯るオレンジ色の街灯のほか、動くものは何もないように思えた。まるでお伽噺のなかの百年の眠りについた茨の街のようだ。
「静かだな」
マグカップで手を温めながら、話しかけるでもなくそう呟く。ネズは特に答えず、コーヒーを啜った。キバナも倣う。大手コーヒーチェーンのインスタントドリップだから、味に特筆すべきものはない。だがあたたかな液体が胃にすべり落ちれば、それだけでほう、と知らず小さな息が漏れた。
不意にネズが肩を掴んだ。振り向けばそのまま顔が近付いて、柔らかなくちづけが施される。キバナはすこし屈み、甘んじてそれを受けた。マグカップを手探りでミニテーブルに置く。コーヒーとタバコの苦味が味蕾にぴり、と刺激を走らせるが、それもつかの間。こういうときのネズからのキスは、獣が親愛を持つ相手に施す毛繕いのような、なんともいえない充足感をもたらした。くちづけの合間に笑みをこぼして、しばらくの間キバナはそれを堪能した。
「パパラッチに撮られるぜ」
「撮らせときゃいいんです」
そんときゃ焼き増しでもしてもらいますかね、とネズがいつもの調子で真顔のまま嘯くので、堪えきれずに笑った。抱き寄せれば、抵抗もなく腕のなかに収まった。タバコの香りの奥に、微かなバニラが漂う。もぞもぞと腕のなかの男が姿勢を変えて、ふたたびふたりで街を見下ろした。パパラッチだってきっと今は夢の中だろう。空はすこしずつ濃淡を変えて、深い水色へと移ろいつつある。
「このくらいの時間がいちばんすきです」
ネズはそう呟きながら背後のキバナの顔を見た。細い指がキバナの顎に添えられる。
「おれもおまえも、水のなかにいるみたいだね」
「……一曲つくる?」
「それもいいかも」
そのままくい、と顎を反らして、ネズの頭がキバナの肩口に着地した。首筋に髪が当たってくすぐったい。
「ナックルシティの夜明けも、悪くない、ですね」
腕のなかでネズが微笑む。ああ、そう言ってくれるか。オレの愛するこの街のことも、こっそりオレが置いた灰皿も、おまえの中にすこしずつ積もり積もっていくといい。すこしずつ、手離したくないものになっていくといい。そんな祈りをこめて、キバナは彼の髪にそっとくちづけた。白みゆく空の下、今この時だけは、この街はふたりのものだった。
In the bathroom
バスタブがあること。それもできれば大きめの。それがキバナの部屋選びの絶対的な条件だった。
キバナの手持ちにはヌメルゴンがいる。ヌメルゴンの飼育には水が欠かせないため、バスタブの有無は非常に重要だった。ガラルの単身者向けの住宅にはバスタブが備えられていないものもある。自宅にいるときくらい窮屈なボールから解き放って自由にさせてやりたい、というのがトレーナー心だが、バスタブがないのではそれもおぼつかない。よって、交通の便だとか部屋の広さだとかそういう諸々を押しのけて、部屋選びのほとんどトップに躍り出る条件が、バスタブの有無だったというわけだ。
「水タイプポケモンのトレーナーのお客様からもご好評いただいております」という不動産業者の言葉を決め手に選んだ今の部屋を、キバナはなかなか、いやかなり気に入っている。日当たりの良い広々としたリビング、単身者には十分すぎるほどのベッドルーム。セキュリティ面もばっちりで、屋上フロアには住人専用でポケモンをのびのびと運動させられるスペースまで備え付けられている。その分家賃はナックルシティの相場から見てもお高めではあったが、大都市を預かるジムリーダーという身分は福利厚生も手厚いためさほど問題はなかった。家賃補助を考慮すればかなり抑えた値段で生活できているといえるだろう。
何よりバスルームの広さはちょっと他では見つけられないくらいのレベルだ。聞くところによれば、工務店の社長が水ポケモンをこよなく愛する人物なのだという。その筋ではかなり有名だ、というのはルリナからの受け売りだ。水道設備もかなりしっかりしており、シャワーの勢いが弱かったり湯がなかなか出なかったりという事態にも無縁である。
快適なバスルームというのは、ポケモンのみならずトレーナーの心をも豊かにする。ヌメルゴンを休ませてやるときはもちろん、キバナにとってもこのバスルームで過ごす時間は特別なものであった。さすれば、今キバナが執心している人物にここを好きに使わせてやるのは、彼の愛情表現であるといって差し支えないだろう。
今、バスタブに身を横たえているのは痩躯の男だった。清潔感のある白いタイルで構成された浴室に、白と黒で彩られた髪が鮮やかに映える。まだ陽は高く、明かり取りの磨りガラスからは穏やかな光が差し込む。ぱしゃ、と小さく水の音を立てながら、男はリラックスした様子で心地よい温度に身を委ねていた。
「ネーズ」
そこにひょっこり顔を出したのは、部屋の主であるキバナだ。シンプルな紺色のスウェットの部屋着姿で、ぺたぺたと濡れたタイルを歩いてくる。名を呼ばれたネズは、振り向いてゆっくりと視線をキバナに向けた。
「お先いただいてます」
「うん、きもちい?」
「ええ、いいですね、広い風呂」
落ち着きます、と普段は吊り上げた眉をこころもち下げて呟くネズを、キバナはうれしそうに見つめた。最初は懐かない野良猫みたいだったこの男のこういう顔が見られるのだから、風呂が広くってよかった。
「はやく出ろってんですか?」
「いや、実はオレさまやってみたいことがあって」
「はあ」
怪訝な顔をするネズに目線を合わせるようにしゃがむ。普段はアイシャドウで彩られたまぶたは、ノーメイクだといつもより幼く見える。
「髪、洗わせてくんない?」
唐突な申し出にぱちくりとまばたきしたあと、ネズは「奇特なお願いですね」とおかしさを堪えきれない様子を滲ませて微笑んだ。
「意外と奉仕体質というか」
「恋人できたらやりてえことの一つだろ、髪を洗う」
「そういうもん……ですか」
よくわかりませんけどまあいいです、とお許しが出たため、キバナはいそいそとシャンプーとシャワーヘッドを引き寄せた。手で湯の温度を確かめてから、顔にかからないよう気をつけつつ長い髪を濡らしていく。タチフサグマの毛並みをイメージしたのだろうボリュームのある髪が、徐々に濡れそぼっていく。その様子はなかなかにキバナの目を楽しませた。
頭皮に指をすべらせるようにほぐしていけば、じわりとした気持ちよさからかネズの唇から小さく溜め息が漏れる。
「毛がさあ」
「はい」
「密集してるとこって、性感帯だって言うよな」
「……おまえ、それ言うためだけに思いついたんじゃないでしょうね」
じとり、とネズから呆れたような視線が飛ぶ。いやそーじゃないけど!と否定しつつ、まあ理由の一個にあってもいいだろと笑う。今さらこれしきのジョークで恥ずかしがる間でもなし。シャンプーを適量手に取って泡立てていると、ネズが「まあ一理あるかもですね」と話を継いだ。珍しい、乗ってきた。
「昔担当美容師だったやつがいたんですけどね、彼の洗髪がうまくて」
「……おお?」
おかしい、何か話が妙な方向に進んでいる。
「あんまり気持ちいいもんで……ならセックスもうまいのかも、という気持ちになりまして」
「おいおいおい」
「寝ちまったことがありますね」
「おおい!」
そんなノリでセックスすんなよ。っていうかその話今する?現行彼氏のつもりなんだけどオレさま。イチャイチャしてるつもりだったんですけど。様々な感情が去来し一人で百面相を繰り広げるキバナに、「あ、自然消滅したんで」と淡々とネズは告げる。そりゃよかった。いやよくないけど。
「カロスに修行に出るってんでそこからはなしの礫ですね。まあ割り切りでしたし」
「……オマエのそういうとこの思い切りの良さなんなの?」
「性分です」
なんとか気を取り直して、いささか泡立たせすぎたシャンプーをネズの髪につける。わしゃわしゃと無心で手を動かそうと思ったが、どうにもさっきの話が気になって仕方がない。
「……で?」
「で、とは」
「ヨかったのかよ、って訊いてんだよ!」
半ばやけくそな気持ちで若干声を荒らげると、ネズは振り向いてキバナの目を見つめた。くい、と唇が吊り上がる。悪い顔だ。
「気になってやがりますね?」
「くそ、オマエ楽しんでんだろ……」
「ええ、存分に」
「あくタイプめ……」
「上手にシャンプーできたら教えてあげます」
お手並み拝見ですね、とネズが楽しくて仕方ないといった顔で微笑んだ。
「見てろよ、今から絶対ヒィヒィ言わせてやる」
「いやそれは流石に無理でしょう」
「言わせる!!」
見てろよぉ、とキバナは心の中で腕まくりをする。それはもしかしたらネズに対してだけでなく、カロスに去った美容師の男に向けてのものでもあったかもしれないが。とにかく洗いがいのありそうな髪だ。これが終わったら、煽られた分しっかり仕返ししてやるからな、と心に決め、まずは手を動かすことからはじめるのだった。
pillow talk
以前戯れに寝たという美容師の話を聞かされてから、キバナの頭の片隅にはネズの性経験に対する好奇心が巣を食っていた。時折それがうずうずと疼いて仕方ない。
キバナだって別に性経験に乏しいわけでなし、若さに任せて暇を作り出しては遊んだことも少なからずあったわけで、それを棚に上げて何を、と彼自身思わなくもない。だが気になるものはどうにも気になる。興味を覚えると一直線、しばらくそのことが頭から離れなくなるキバナの性分は長所でもあり短所でもあった。
キバナにとってネズは長年掴み切れない男だった。掴むほどに関わりがなかったとも言える。ロックシンガーという派手な職業ではあるものの何をするにも妹最優先。年下相手には兄貴然として振る舞う面もありながら、平素は陰気に背筋を曲げて部屋の片隅でむっつり黙り込んでいる。他者に頼られれば丁寧に対応する優しさも見せるが、かと思えばこれと決めたことは誰が言おうと頑として曲げない。相反する要素を平然とその身に同居させる男なのだ。よって、実は性経験豊富だと言われようが誰ともお付き合いしたことはございませんと言われようが、どちらにせよ「ああ、まあ、そうかな」と納得できると思っていた。しかしあえて言うならキバナはネズの下半身事情については、慎ましい方を予測していたのである。予想が外れて驚いたというのもあるかもしれない。だからここまで、数日経った今でもそのことばかりを考えてしまうのかもしれなかった。
こうして身体を重ねる関係になってから「どうも手慣れているな」と思ったことも数度あったが、特に気にも留めていなかったし口にも出さなかった。なんでも器用にこなす性質の人間もいる。童貞喪失の際にソツがよすぎると怪しまれてしまった己のように。だがどうやら違った、本当に手慣れていたのである。そしてあの口ぶりからおそらく、彼の体を通り過ぎていった人間は例の美容師ただ一人ではないぞと、キバナの勘が囁いていた。
「ネズってさあ、今までに何人くらいと付き合ったわけ」
キバナ宅のだだっ広いキングサイズのベッドの上、ぐしゃぐしゃになったシーツに包まりながら自らの髪を弄るネズに、そう切り出した。枝毛を発見して眉を顰めていたネズは、表情をほとんど変えないままにその視線をキバナによこした。胡乱げな目付きである。
「突然何です」
「いやさ、前に美容師の話あったじゃん? もうオレさまあれから気になって仕方ねえわけ」
「……その話まだ引っ張るんですか。よく覚えてんな」
おれなんか話したことも忘れてましたよ今の今まで、とネズは苦々しげに頭を掻き回した。その振動が横のキバナにも伝わる。柔らかなピローに片頬を埋めて、キバナは口を尖らせた。
「だぁってさあ。オレ、こんなんなるまでオマエと全然付き合いなかったじゃん? 知らないんだもん。別に今更嫉妬とかじゃねえけど、気になるんだよ」
「言うんじゃなかったと今後悔してます」
「いいじゃん。聞かせてよ。オレも言うから」
「おまえの恋愛事情はゴシップ誌見てりゃ筒抜けだろ」
「ひっでえ!」
まあいいや、とちいさく呟き、渋々といった様子でネズはキバナのおねだりを承諾した。白く骨張った指が、ひょいひょいと手のうちに折られてゆく。五本は簡単に超えた。もう片方の手もそのままの勢いで折りたたまれ、両の拳を握ったような形になる。二巡目に至って、彼は幾らか逡巡した。一本二本三本、と開いたあとに、何度か閉じては開いてを繰り返す。じっと両手を見つめていたかと思えば考えるように目線がどこかを彷徨って、そのまま両掌をぼすんと放り出す。そして、「いっぱいです」と投げやりな調子で天井を仰いだ。ええぇ、とキバナが漏らした声は、自身で思っていたのよりも情けない響きだった。
「いやいや、今のなんか閉じたり開いたり、なにそれ」
「……まずそもそもの話なんですけど、何がどうなれば付き合っていたと判断できるんですかね。定義付けをはっきりしていなかったので、わからなくなりました」
「ええぇ……」
「セックスすれば付き合ってることになるんですか? おまえの中では? そうするとかなり話が変わってくるんですが」
うぅん、とキバナは唸った。確かに訊ね方が曖昧だったかもしれない、お互いの理解を深めるためにも定義付けは重要だ……と真剣に考えようとして、聞き捨てならない台詞にようやく気付いた。
「いやちょっと待って、『かなり』変わるっつった?」
「『かなり』です」
ネズは顔の横で両手の人差し指と中指をくいくいと曲げた。表情は相変わらずやる気なさげ、情事の名残か瞼はとろりと常よりもさらに重そうだ。
「ここ数年はめんどくさくてワンナイト・スタンドばっかりだったんで、そうなるともういちいち覚えてもないですね」
「よくすっぱ抜かれなかったな……?」
「誰かさんよりはうまくやれてたみたいなんでね。……いや、それでもまあ両手二周、そこからちょっとはみ出すくらいか……」
「おお、それは……多い……のか?」
『かなり』などと言うからすこし身構えていた。拍子抜けして眉間に寄っていた皺が薄くなる。遠い昔、ロックスター列伝などとけばけばしく売り出されていたゴシップ本にはそれはもう絢爛豪華な酒池肉林の愛欲の日々が赤裸々に綴られていて、「ロックスターって体力ないとできないんだな」と呆れまじりに感心したことをキバナは思い出す。二十人ごとき、一晩で抱いてやったと豪語するような猛者もいるだろう。まあもうそういう時代ではないのかもしれない。
そこですよ、とネズがごろりと姿勢を変えてキバナを睨む。じっとりした目付きで睨まれるのは嫌いではなかった。こういう表情のネズは格別セクシーに見えるのだ。細い指がキバナの額をとん、と小突く。
「もうだいたいわかったでしょ、そりゃ少なかないかもしれませんけど、格別多いわけでもねえ。別におもしろくもなんともねえですって。性豪よろしく百人斬り目指してヤりまくってたわけでもねえし」
「まあ、そこまで暇じゃないよなジムリーダー業」
ふたりしてジムチャレンジでは後半戦を任される身であり、他よりは負担が少なめであるとはいえ、ジムリーダーの仕事はそればかりではないのだ。ネズは副業も精力的にこなしていることを考えれば、暇とはとても言えないだろう。それにしてはやることはやっていたのだが。本当にロックスターは体力のある人間のための職業らしい。
ネズは手持ち無沙汰な様子で口元に手を遣った。煙草が吸いたいのかもしれない。だが彼はキバナ宅ではベランダでしか吸わないと決めているらしかった。その手がしばし彷徨って、結局行き場をなくしてシーツの中へと仕舞われる。唇を歪めて、彼はぽつぽつと呟いた。
「……結局中途半端なんですよ。ファンには手ぇ出さねえって決めてるし。そこらへんうろついてるちゃちなバンドマンの方がよっぽど寝まくってますよ」
だからおまえがおもしろがるようなネタは提供できません、とやや早口に告げてネズは舌をべろりと出した。ちょっと待って、とキバナはなおも引き下がる。
「おもしろがるために聞いてる訳じゃねえし、もっと言えば別に数だけ知りたいってんでもねえよ」
「じゃあ何が知りたいんです」
「えぇと……」
ネズの問いにしばし考え込む。自分が知りたいこと、それに最適な言葉は……。ぽん、と頭に浮かんだ言葉は、場違いではあれどキバナの性分を十全に表すものだった。
「……傾向と対策?」
「……けいこうとたいさく」
呆れたようにネズは一音一音をはっきりと発音した。は、とその口から溜め息が漏れる。
「こんなとこでまで……どんだけバトルフリークですか」
「研究熱心と言ってほしいな」
「はいはい」
「や、でもそれだよ、傾向と対策。オレさま、折角だからネズとの関係長く続けたいわけ」
今まで彼と関係を結んでは儚く散っていった者どもが、はたしてどういう風に彼の興味をくすぐり、また下手を踏んだのか。それを知りたいというのは、キバナにとっては当然のことだった。ネズとの再戦に備えてバトルビデオを漁り続けた時の気持ちと、それはキバナの中でほとんど相似だったのだ。もっと知りたい。この、掴もうとすればすり抜けていくように見える男の全てを。そしてできるならば、元恋人どもの誰よりも、うまく事を運びたい。
頼むよぉ、と若干語尾を伸ばして甘えたように擦り寄ってみれば、ネズはさらに渋面を深くした。もっともそれはポーズでしかないとわかっていた。キバナのこういった素振りにネズが案外弱いのは重々承知の上だ。仕方なく、キバナが言うから、という体をキープしておきたいのだ、彼は。
案の定、ネズは視線を一瞬泳がせてから大儀そうに口を開いた。
「えー……どこから話せばいいんですかね」
「そうですねーネズさん、まず初めての恋人は?」
「何のインタビューだよ」
声色を作るキバナを気色悪げに見遣りながら、「十六の頃だったかな、ふたつくらい年上の男ですね」と告げたネズは、不意にすこし懐かしげな顔をした。自分で訊いておいてキバナは少々複雑な気持ちになる。
「……ふうん?」
「ありがちな話ですよ、一緒にバンド組んでてね。ギターの腕もなかなかだったんですけど」
「かっこよかった?」
「なんでおれなんかと、と思う程度には。一年くらい付き合って……」
「別れた?」
「音楽の道は諦めるっつって、遠洋漁業船に乗っちまいました」
「遠洋漁業船!」
唐突に出てきた単語に思わず動揺する。スパイクの男の進路としてはまあよくありますね、とネズが補足する。キバナの周りにはそんな進路の人間はあまりいなかった。この辺りに育った環境の違いを見る思いがした。
ところでネズと初対面を果たしたのはいつだったか……とキバナは記憶を引きずり出そうとして、「遠洋漁業船」という言葉のインパクトで見逃していた事実に気付いて泡を食った。
「ちょっと待って、十六の頃っつった? その頃ってもうジムチャレンジ終わってたよな?」
「そうですね、ジムリーダー始めた頃合と被りますね」
「マジかよ!じゃあもうあの時オマエ……」
「ええ、ヴァージンじゃなかったですよ」
露骨な言葉選びにキバナは頭を抱えた。いや、キバナだって十六の時には既に初体験は済ませていたので他人のことは言えない。だが童顔ゆえに未だあどけなさの抜けなかった当時のネズのことを思い出せば、なにやらそれは良からぬことのように思えてしまってならなかった。十六歳はガラルでは立派に性的同意年齢ではあるので、別段犯罪だというわけでもないのだが。
マジかぁ、と悶々とするキバナを見て、ネズは非常に楽しそうな、意地悪げな笑みを浮かべた。あくタイプの面目躍如といった具合である。
「興が乗ってきましたね、続けます?」
「オネガイシマス……」
「ふふ、いつまで続きますかね。二人目は……やっぱり地元の男でしたね。つまんない男でね。でも夢中だったね当時は」
「なんで?」
嫌な予感がしながらもキバナは訊かずにいられない。しれっとした顔で「とにかくセックスが上手かったんで」とネズが答える。
「そんなこったろうと思ったよ」
「ヤるのが楽しくて仕方ない時期だったんですよ。ハイティーンだからね、体力が有り余ってて。覚えあるでしょ」
「そんで? そのセックスのうめえクソ男は」
「ああ、ベッドの中ではともかく、金遣いが荒すぎてね。しょっちゅう金を無心されてうんざりしてた頃合に、窃盗罪その他もろもろで捕まりました」
告げられた事実とネズの淡々とした口振りのギャップに、頭がくらくらしそうだった。
「む、ムショ入り……」
「タイミングがちょうど良くて助かりましたね、後腐れなく切れました」
「っていうかそれ大ネタじゃね? よく問題になんなかったな」
「田舎でよかったって感じですかね」
そういう問題かなあ、とキバナは首を捻る。確かに地元でのネズの崇拝っぷりを考えれば、醜聞のひとつやふたつ簡単に揉み消されそうではある。ネズを守るためなら非合法的手段も辞さなさそうな面々の面構えをキバナは思い浮かべた。
「まあそれでおれも懲りて、次はせめて犯罪に手を出さなさそうなやつにしようと思いまして」
「うん、それはそうだな、その方がいいよ、うん」
「丁度シンガーの活動も本格的にやろうかって思い出した頃で。なけなしの金を集めつつ態勢整えて……そんで、三人目はマネージャー」
「えっあれっ、オレそのマネージャーとかいうの知ってるぞ? 確か……」
遠い記憶を探る。かなり前だが、そうだ、割と話題になっていたはずだ。ネズに対してかなり同情的な論調であったそのニュースは。
「ああ、アレはさすがに結構報じられちゃいましたからね。アルバム資金持ち逃げの件」
「やっぱそれだよな!? えっでも付き合ってたのは知らなかったけど!?」
「さすがにそこは伏せるでしょ。かなり近い関係の奴らしか知らなかったことでもありますし」
「っつーか三人目もバッチリ犯罪に手出してんじゃねえかよ! 横領じゃん!」
そこは誤算でした、とネズは悔しそうな声を出した。やや演技がかっている。
「そんなことができる度胸のある奴だとは思ってませんでしたから。いや、気を許しすぎてたのかもしれません。ただそれでおれもむしろ発奮して、怒りに任せて出来の良いのが数曲書けたので、いいかなと」
「いいかなあ……?」
「話題作りにもなりましたし。おかげでデビューアルバム、インディーズレーベルにしてはそこそこ売れたんですよ」
転んでもただでは起きないと言ったところだろうか。したたかなのかやけっぱちなのか。
ここまで話した辺りでネズは一旦区切るように深く息を吐いた。
「……笑い話にできるのはこんくらいですかね。あとはそんなにおもしろくない。束縛が酷くて嫌んなって別れた、マリィに舐めた口利きやがったからぶん殴った、おれに飽きたのかいつの間にか来なくなった、そもそも一晩だけで名前も知らねえ、どいつもこいつもそんな感じです」
指折り挙げ連ねたあと、さあどうです、とアイスグリーンの瞳が悪戯っぽく光った。
「傾向と対策、立てられそうですか、ドラゴンストーム殿」
「んあー……」
サンプル数としてはそこそこだ、とキバナは頭を働かせた。ここから導き出せる、長続きのための方程式は。
「……その一、一晩で終わらせない」
「ん、まあその点は今のところクリアですね」
「よかったわ。二度目に至るまで確かに大変だったからな……ってそれはいいや。その二、マリィを大事にする」
「当然です」
満足気にネズは頷いた。マリィへの根回しは何より大事だろう。目に入れても痛くないほどかわいがっている妹だ。自分が蔑ろにされることには無頓着でも、妹に危害が及べば一瞬で手を切るだろう。無論キバナにはそんな気はさらさらなかったが。
「その三、束縛しすぎない」
「できます?」
「うっ……努力してるんだぜこれでも」
「ふうん……」
「ほんとだって! えーっと、その四……法律を守る?」
ふはっ、とネズはおかしそうに笑った。キバナだって大真面目に言うことではないとわかっているのだが。
「いやサンプルが悪ぃだろこれは」
「ふふっ……はー馬鹿馬鹿しい……おれと付き合ってようがそうじゃなかろうが、おまえは立場的に法律守らなきゃだろ。まあいいでしょう。次は?」
「……その五。これが最後かな。ネズを置いて行かない」
ぱちくり、と虚をつかれたようにネズが瞳を瞬かせた。
束縛野郎およびマリィの件はともかく、それ以外はネズから別れを告げたパターンが少ない、ということにキバナは気付いていた。多分、一度深く関係性を持った人間と縁を切るのが得手ではないのだろう。
見目とそれが与える印象に反して情の深い男であるから、よくよく考えてみればそれは当然なのかもしれなかった。二人目の男だって、逮捕さえされなければずるずるとしばらくそのまま付き合い続けていたのかもしれない。いや別れて正解なのだがそんな男は。
才能の違いに恐れをなしたか、遠い海へ乗り出した男。夢を追うとカロスに旅立ってそれきりの美容師。関係性を持続させる努力をせずそのまま消えていったという有象無象の男ども。皆、ネズが諦める前にその身を翻していった。自分は、そうはならない。なってやらない。手放してやる気は、さらさらない。安易に手の内を晒したことを後悔したって、もう遅いのだ。
にやにやと笑うキバナを見て、ネズはむず痒そうに顔を歪めたあと、ごろりとキバナに背を向けた。へへへ、と声に出して笑いながらその背を抱き寄せれば、形ばかりの抵抗を示すように身を捩る。ああクソ、と弱々しい悪態をネズは漏らした。
「……喋りすぎた。悪い癖が出ちまった」
「対策しやすくて助かるぜ」
腕のなかに抱き込んだままつむじに口づければ、微かな汗が香った。シーツのなかで彼の細い脚がゆるやかに泳ぐのを感じる。
「……ちなみに、オレさまもどっちかってーと捨てるより捨てられるタイプ。ほら、一度手に入れたもの手放すの苦手だから、ドラゴンだし」
そうおどけて囁けば、薄い肩がぴくりと震えた。どうやら笑っているらしかった。
ネズが身動ぐ。上半身だけが反り返って、キバナの唇の端に掠めるように彼の唇が触れた。ぺろり、と下唇を唾液で湿らせて、ネズは目を眇めた。
「……どっちが先に飽きるか、ですかね」
「飽きねえし飽きさせねえって」
かぶりつくように奪えば、喉の奥で彼が笑った。お手並み拝見、そう呟く声に楽しそうな色が混じっていることには、とっくにもう二人ともが気付いているのだった。
Marble
おまえといるとみじめになる。そう漏らした俺の声はどう聞いたって掠れていて情けなくて、そこに詰まった諸々が耳も頭も良いこいつにはわからないはずはなかった。なのにネズは、全くもって意味不明だとでも言いたげな、途方に暮れたような顔をしていた。はくはくと薄い唇が開いては閉じる。かわいい顔してんだよなあ、ほんと。でももう、おまえのことを手放しでかわいいとは思ってやれない。そう思う資格が俺にはない。これは俺のちっぽけなプライドの問題で、ばからしいとわかっちゃいるけど。それでも、おまえの隣にいるのは俺にはつらすぎるんだ。
俺とネズが出会ったのはお互い下の毛も生えてないようなガキの頃だった。狭いこの町じゃ子どもの数はそんなに多くなくて、歳の近い者同士が自然とグループを作る。俺とネズとは二歳差だった。その頃からネズは、周囲のガキどもとは何かが違った。
細っこい鶏ガラみたいな体で、ともすればすぐにイジメの対象になってもおかしくなかったはずなのに、ネズが何か言うとみんな黙って聞いた。それは、ポケモンを扱う腕が滅法よかったからだ。
この町のガキでネズにかなうやつはいなかった。それどころかローティーンの頃には早くも大人相手であっても引けを取らないほどの腕前に達していた。期待の新星だ。廃れゆく町に現れた救世主だ。次期ジムリーダー候補、なんていう煽り文句は、やがて町の住民のなかではほぼ決定事項のように扱われるようになっていた。
その頃の俺はといえば、ポケモントレーナーになど興味はなかった。俺が夢中なのは音楽、ロックだった。寝ても醒めても明け暮れていた。薄汚い家のガレージで、リサイクルショップでなけなしの金をはたいて買ったギターを延々掻き鳴らしていた。
俺たちの通うセカンダリー・スクールはそりゃあもうガラルじゃ最底辺みたいな学校で、校区外からここに通ってくる物好きなんていないから常に定員割れだった。設備もボロボロなら教師も適当、教育委員会から寄越される雇われ校長は俺の在学中四人も代替わりする始末。しかしその体たらくは俺にとっては好都合だった。勉強なんかほっぽり出して音楽にうつつを抜かすにはこれ以上ない環境だ。よく卒業できたもんだと思う。昼過ぎに申し訳程度にクラスルームに顔を出し、授業中は携帯音楽プレーヤーから流れる音楽を耳に突っ込みながら机に伏す。一時間だけ出席したらそのあとは校舎のなかの打ち捨てられたような、誰にも使われていない教室を占領してひたすらセッションだ。楽しくて仕方なかった。
ある日の夕方の事だった。家に帰る気も起こらないまま、俺は一人その一室でスラップの練習に勤しんでいた。その日は珍しく晴れで、ろくに掃除もされずに曇った窓から夕陽が差し込んで、その一室の備品のなにもかもの影を長く伸ばしていた。弦を弾く手をふと止めた時、入口に細身の少年が佇んでいるのに気付いた。ネズだった。白黒に彩られた重い前髪や血の色さえ透かさない白い肌が、夕陽を浴びてやわらかく発光しているみたいに見えた。彼がここに来るのを見るのは初めてだった。
「……ネズか」
どぎゃんした、珍しか、と声をかけると、おずおずという感じで彼は教室に足を踏み入れた。
「……スラップやっとるん、聞こえたけん」
ネズはすとん、と俺から少し離れた座席に腰かけた。ちいさな膝小僧がすこし居心地悪げに擦り寄せられる。
「ギター、興味あるんか」
「まだよう弾かんけど……」
「ふうん」
じっ、と大きな瞳が俺の手元を見つめる。ネズの瞳は硝子玉みたいだった。夜明け前の薄明るさを閉じ込めたみたいな、透き通った色だ。今俺たちふたりを包んでいるのは夕焼けなのに、そこだけなんだか時が止まったようだった。なんだか抑えようのないむず痒さが襲ってきて、俺は腰を上げた。硝子玉が揺れる。わざと明るい声を出してみる。
「弾いてみるか」
「え……ばってん、」
「俺が教えちゃるけん」
そのまま返事も聞かずギターをネズに手渡して、その背後に回った。薄い肩が一瞬揺れて、ギターをそっと抱える。
「ほれ、Cコード」
「えっと……」
手を添えて、弦に触れる指を調整してやる。ネズの手は俺よりずっと小さかった。二歳差はこの年頃じゃかなりでかい隔たりを生む。だからそれは当たり前なのだけれど、なぜかそれにどぎまぎした。同時に、何か優越感みたいなものが俺を支配した。あくタイプの天才だとか、次期ジムリーダー候補だとか、そんなふうに言われている少年が俺から手ほどきを受けているという状況がそうさせたのだと思う。懸命についてこようとする姿に、俺はどうものぼせ上がってしまったらしかった。
じゃらん、と綺麗にコードを鳴らして、ネズはじわりと喜色を滲ませた。そうして見ると彼は歳相応の少年に見えた。かわいいな、と思ってしまった。
「弾けたやろう」
「うん……」
なあ、と肩口に手を添えると、ネズが振り返って俺を仰ぎ見た。自然と顔が近付いたけど、ネズの方からぱっと目を逸らした。他人と真正面から視線を合わせるのが、あまり得手ではないらしかった。
「もっと教えちゃるけん、また来んね」
「でも……バンドの練習の邪魔じゃなか?」
「よかばい。俺の復習にもなるったい」
じゃあ、とそう言ってネズはうすく微笑んだ。
ネズは三日と開けず俺たちの巣穴に顔を出した。ポケモンの育成やバトルの練習、くわえて妹の世話もしなければならない忙しい日々の合間に、ギターの練習も加えているらしかった。ネズは優秀すぎる教え子だった。呑み込みが早かったし、集中力もあり、何より粘り強く練習に取り組んだ。バンドといっても所詮素人の集まりだから、後から遅れて入ってきたネズが追いつくまでには、正直一年もかからなかった。
そしてどうやら、ネズの興味はギターのその先にあったようだった。ギタリストを目指しているわけではない、という言葉を聞いたのは、一緒に練習するようになってからかなりあとだった。
「……おれ、曲作りたくて。ギター弾けたら、幅も広がるんじゃなかかって、そんで」
ふたりきりの教室のなか、ネズは横顔を見せて呟いた。曲を作って、うたいたいのだという。少しずつ書き溜めているのだというそれを、見せてもらったことはまだなかった。その歌声ですら、時折ちいさく聞こえる鼻歌でしか聞いたことがなかった。
「ギターボーカルだらいかんか」
「ううん……おれ、そこまで器用じゃなか。弾き語りもよかばってん、うたうならうたうで、集中したかつ思って」
そして彼は、あの硝子玉みたいな瞳をまっすぐ俺に向けて、なにかを決心したように口を開いた。透き通って、きらきらひかって。
「ギターは、先輩が弾いてくれれば……そいでよか」
思わぬ言葉に、ギターを爪弾く手が止まった。まじまじと瞳を見つめ返せば、しばらく視線が絡み合う。ふい、とそれが逸らされたあとも、その視線が放っていた熱は俺の肌の上から消えなかった。
「まだ、満足いく曲は作れとらんけど……でも、できたら……先輩に、弾いてほしか……」
ネズは照れたようにぼそぼそとそう言った。落ち着かなさそうに、最近つけるようになった首元のチョーカーを弄っている。たやすく手折れそうな首と、細い指先と、短くきれいに切り揃えられた爪ばかりが、目に焼きついて離れない。
やがて俺の口から勢い込んで転がり出たのは、俺自身すら考えてもいなかったような言葉だった。
「そいじゃ、俺らのデビュー曲はネズの曲に決まりったい」
「……デビュー」
ネズはそのまま俺の言葉を繰り返した。硝子玉がまんまるに見開かれている。ネズの口を借りて発音されたそれに、誰より驚いていたのは俺だった。デビュー? そんな夢物語みたいな。だけどそれをネズは真に受けたみたいだった。
「デビュー、したら……おれたちがもし、売れたら……この町も、ちょっとは賑わう、かね」
常になくふわふわとした響きを乗せて、ネズが呟く。その頬がじわじわと紅潮してゆく。それを視界に捉えた瞬間、あ、やばい、そう思った。
何をやばいと思ったんだか、この時は気付いていなかった。だから、間違えた。奥底に潜んでいた何かを、当時の俺は性欲と取り違えた。その結果、俺は咄嗟にネズの唇を奪っていた。
びくり、と大きく身じろいだのを腕のなかで感じたけど、でも彼は抵抗しなかった。それどころか、そのまま身を預けられて、俺の頭は余計沸騰して、後戻りが出来なくなった。ネズの瞳がいよいよこぼれ落ちそうなほどにゆらゆら揺れて、しばらく唇を食む間に、うっとりと細められる。硝子玉が、液体のようにとろりと潤む。それを俺は、瞬きもせずに見つめた。キスの感触は男も女も変わんねえんだなと、そんなことばかり考えていた。
どれだけの間そうしていたんだか、今となっては覚えていない。そんなに長くなかったような気もするし、ものすごく長い時間だったような気もする。とにかくしばらく唇を貪り合って、ようやく離れたときにはもう、軌道修正などはかれようもなかった。俺の脳味噌は働いていなくて、取り違えた性欲が真実であると思い込んで。そのまま、坂道を転がり落ちるみたいにネズに溺れた。せんぱい、とその声が俺を呼んで、俺はネズの薄い体を支配できる悦びに打ち震えた。
「約束……せんぱい、やくそく、やけんね……」
熱に浮かされたみたいに、何度もネズはそう繰り返した。まるで呪文みたいだった。何も考えられないまま、俺は何度も頷いた。ネズの持つその熱の確かさと、俺を突き動かしていたものの不確かさの大きすぎる隔たりなど、すこし考えればわからないはずはなかったのに。
ネズがジムチャレンジへの挑戦を決めたのはそのすぐあとだった。必要最低限すぎる荷物にわざわざギターを一本つけ加えて、泣きじゃくる妹を置いて、町のほとんどの人間に精一杯の華やかさで見送られて、ネズは旅立った。
ネズは周囲の期待を裏切るどころか、それを軽々と乗り越えていった。八つのジムを全てクリアし、セミファイナルトーナメントにまで食い込んだ。
セミファイナルトーナメントはテレビ中継が行われていて、その日のスパイクタウンのパブはいつにない活気を見せていた。本人には見えやしないのに横断幕を作ってくる者、手作りらしき毒々しい色のブブゼラを吹きまくる輩、騒ぎに乗じて昼間っからべろんべろんのジジイ共。狂乱そのものだった。かつての町の喧騒を思い出させるような。ひどい人いきれのなか、パブの片隅で、俺はテレビに映る痩せっぽちの少年をぼんやりと見つめていた。
ダイマックスが今のガラルのポケモンバトルではほぼ必須条件となっていることなど、バトルに疎い俺でも知っていた。だがネズは頑なに、それを使おうとしなかった。人智を超えた大きさで聳え立つ敵に相対して、ネズは相棒と生身のままに迎え撃とうとしていた。しかしそれより何より俺の度肝を抜いたのは、ネズがそこで高らかにうたい出したことだった。
その喉から歌が溢れ出した瞬間、空気の色までもが変わった気がした。あの薄っぺらい体のどこから発せられるのか不思議に思うほど、力強く伸びやかな歌声だった。会場にもどよめきが走っていた。当たり前だ、バトルの最中にうたい出すやつなんて他にいない。だがそのどよめきもやがて陶酔と賛美の混じった声へと変わっていった。それぐらい、圧倒的な歌声だったのだ。
おそらく彼自身が作ったのであろう歌を、彼は体いっぱいで表現した。歌声の持つ力もさることながら、そこに乗せられたメロディもまた強靭だった。新鮮でありながら、今まで何度も聞いたことがあるかのように耳に馴染む。聴衆の心に這入り込み、寄り添いながら背中を押すようなメロディだった。それは彼の相棒にも力を与えているように見えた。気力が漲っていくのがテレビ越しでも手に取るようにわかる。その音の波は電波に乗り、遠くここまでも届く。パブの狂騒はもはやとめどなく、興奮のあまり泣き出す者までいる始末だった。それは、もはや魔法のようだった。音楽の持つ原始的な意味を蘇らせるようだった。
そして俺はその歓喜と熱狂の渦の中で、ひとり氷水を浴びせかけられたかのように固まっていた。理由は簡単だった。彼の生み出す音が、その才能の輝きが、到底俺の手の届くような域ではないことを、まざまざと見せつけられたからだ。
一緒にデビューだなどと、ほんのいっときでも口走ったのがばかみたいに思えた。ましてや彼を支配していたなどと、思い上がりでしかなかったと気付いた。あの時俺が性欲と取り違えたものが、ここでようやく実像を結んだ。俺はずっと、彼を恐れていたのだ。うつくしくきらめく才能に焦っていたのだ。だって俺には音楽しかないんだと思っていたから。音楽だけが俺の逃げ場だったから。それなのに、ポケモンの腕もあるあいつが、音楽でまでその才能を発揮するなんて、そんなのは、どうしても耐えられなかったんだ。言葉にしてみればそれは、ただの嫉妬でしかない。それを手っ取り早く解消するために彼を組み敷いたに過ぎなかった。支配できたと思い込んで、安っぽいプライドを満足させているに過ぎなかったのだ。
そしてさらに情けないことに、それは全くもって成功などしていなかった。ネズは、俺の醜い策略など一顧だにせずそのまま呑み込んで、こうして大観衆の前でひとり堂々と立っている。あまりにも違いすぎる。何がって、多分、人間の格とか、そういうやつが。おのれの内に潜んでいた矮小な自尊心が、ネズの凛とした姿とあまりにも遠くて、俺は試合が終わってもそのまましばらく動けなかった。
青い顔でパブのカウンターに座ったままの俺に、顔見知りの少年が陽気に声をかけてくる。未だ興奮冷めやらぬ様子で、すこし汗の浮かんだ額からは今にも湯気が上がってきそうなほどだった。
「どげんした、こげなめでたか日に。辛気くさい顔しよんなあ」
「……うるせえ」
それに相手してやれる余裕などなかった。そいつが手に握っていたエールの瓶を奪って飲み干す。なんね、と不満げな声が聞こえてきたが、苛立ちを篭めて睨みつければぶつくさ文句を言いながら離れていった。未だつきっぱなしのテレビからは、勝者となったネズのインタビュー音声が流れてきていた。それを見るのもつらくてパブから出ようとしたけれど、この狭い町にいる限り、その声はどこまでも俺を追いかけてくるのだった。
『……いきなりうたってびっくりさせたかもしれませんけど、これがおれだって知らせるためには、これしかないと思ったんです。バトルも、音楽も、両方やっていきたいと思ってます……スパイクのみんな、見とった? おれ、勝ったよ……次も、精一杯やるから……だから、見とって……』
既に不動の地位を築き上げようとしている幼いチャンピオンにまではその手は届かなかったものの、ネズは善戦した。大きすぎる戦果だった。町に戻ってきたネズを迎えたのは、割れんばかりの拍手と、次期ジムリーダーの座席だった。それを俺は遠くから眺めていた。
自分の醜い感情に気付いてしまってから、あんなに毎日通ったあの教室にも、めっきり顔を出さなくなった。ギターにも触る気力をなくしていた。完全に茫然自失状態だった。人伝てにネズが俺を心配しているということを聞いても、会いに行く気は起こらなかった。今更どの面下げて会いに行くのだと思った。ネズが悪いわけじゃないことは百も承知で、これはつまり俺自身の問題でしかなかった。ネズを徹底的に避けたまま、周りの奴らが何も言わなくなるまで、しばらくの時をやり過ごした。
悪いことは重なるもので、ちょうど親父が倒れた。持病があったことにくわえて、過労が祟ったのだ。一家の働き手を失って、家計はみるみる傾いた。そのことに、むしろ安堵した自分がいた。体のいい言い訳ができたと思った。スクールの卒業を待たず、俺は性急に働き口を探した。この町から早く離れたかった。これから何をするにもネズを中心に動いていくだろうこの小さな町で、自分自身と向き合う覚悟が、俺にはなかった。
そして話はようやく冒頭に戻る。俺が選んだのは、遠洋漁業船の漁師になる道だった。お誂え向きだと思った。遠い海で、今までのことは全部忘れて、ただ金のためにあくせく働こうとそう思った。きっとそこでなら電波も何も届かない。思い出さずにいられる。そう決めたので、ほんとうは会わずに消えるつもりだった。卑怯だとわかっちゃいたが。だがどこから聞きつけたのか、俺がこの町を離れようとしたその日、港にネズが現れたのだった。
前から良くはなかった顔色はさらに紙のように白い。顔をくしゃくしゃにして、ネズは俺の前に立ちはだかった。見たことのない表情だった。白黒の髪を、ぬるい潮風が揺らす。ジムからそのまま駆けつけたらしく、まだ真新しいユニフォーム姿だった。どんより曇った灰色ばかりの港で、その黒とピンクだけが鮮やかで、目に痛い。
「……行ってまうん、ですか」
か細い声だった。俺は背負っていた荷物をどさりと降ろした。その音から伝わる重さにか、ネズが身じろぐ。
「……うん。すまん」
「っ、約束、」
やくそく、したやんか。それだけ言って、ネズはさらに顔をくしゃりと歪めた。すまん、俺はもう一度そう繰り返した。約束守れんで、すまん。でも、どだい無理な話だった。だって、はじまりから間違えてたんだから。
なんで、とネズは俺に問いかけた。なんで避けていたのか。なんで何も相談してくれないのか。なんで何も言わず消えようとするのか。様々な疑問が詰まった問いだった。彼の声音は言葉よりも雄弁だ。それに対する答えは、ただひとつしかなかった。
「……おまえとおると、みじめになる」
俺の言葉が呑み込めないようで、ネズはただ戸惑ったように口を開いては閉じた。なんで、と掠れた声が漏れてくる。
「なん……なんで、先輩が……おれなんかに、そんな……みじめって、お、おれがそう思うんはしょんなか、ばってん先輩は、かっこようて、やさしいて、なのに、なんで……」
「……おまえにはそう見えとったんか」
正視に耐えない感情に気付かれていなかったということがわかっても、罪悪感は消えなかった。むしろより強く俺を苛んだ。まっすぐに俺に好意を寄せてくれていたネズに、俺はどす黒く粘っこい嫉妬の形でしか情を向けられない。やはり、離れることを選んでよかったと思った。そう実感してようやく、俺は微笑むことができた。降ろした荷物を、もう一度担ぎ直す。
「すまん。約束守れんかったんも、もう一緒におれんのも、ぜんぶ俺のせいっちゃ。恨んでくれてもよか。でも大丈夫ばい、おまえは……ひとりでもやってける」
「せんぱ……や、嫌や、行かんで」
喉の奥で詰まってうまく発せずにいるかのような、そんな悲痛な声音を出して、ネズは俺を引き留めようとした。でも俺は足を止めなかった。ネズが追い縋ってくることもなかった。ジムリーダーという立場がそうさせたのかもしれない。それでいいと思った。
待っていた船に乗り込んだあとも、港を振り返ることはしなかった。やがてごうんごうんという大袈裟なモーター音と共に船が出発したとき、俺はようやく久々に、肺いっぱいに空気を吸い込むことができた。
あれから十年近い月日が経った。年に数度しかガラルに帰らない俺の元にも、ネズの噂は届く。今やすっかりガラルを代表するトップシンガーなのだという。
最近乗組員として加わった青年に、スパイクの出身だと話すと大層興奮された。ネズのファンだという彼は、俺がスパイク出身のくせにネズの曲をほとんど聴いていないと知ると、無邪気にCDを持って俺の元にやってきた。
「ぼくのおすすめはこの曲ですね、デビューアルバムに入ってたやつで、失恋ソングなんですけど、ノスタルジックかつとことん苦いっていうか、もう元カノに振られた時は延々これ聴いてましたよもはやセラピー? みたいな」
やたらと早口で捲し立てるように喋られ、やや気圧された。もはや時代の遺物と化したCDプレイヤーを彼は船に持ち込んできていた。イヤホンをそのままむんずと渡される。今ここで聴けってか。適当に聴いた振りをして誤魔化そうと思っていたのに、と内心めんどくさく思いながらも、無碍に扱うこともできず渋々イヤーピースを耳に突っ込んだ。
流れてきたのは、ギターのシンプルなコード運びだった。しばらく聴くうちに、気付いてしまった。その曲は、俺がネズに最初に教えてやったいくつかのコードだけで構成されていた。さらに、静かに囁くようにうたわれる歌詞の内容にも、心当たりしかなかった。夕暮れの教室、ふたりで弾いたギター、港での別れ。どう考えても、俺とのことを元にして作った歌だった。
呆然としたまま一曲を聴き終えイヤホンを外した俺に、彼は切なげな表情を戯画的に浮かべて問いかけてきた。
「どうすかあ、いいでしょお、これ。ほんともう、泣いちゃうんですよねえ」
「ああ……泣いちまうな」
「……あれっ!? ほんとに泣いてるこの人!」
「ほっとけ……」
目尻にすこし滲んだ水滴を、ぐいと拭った。さみしいが、うつくしい曲だった。俺のなかでは苦いものでしかなかった、黒くぐちゃぐちゃに塗り潰した思い出を、彼はこんなにもうつくしく描き出せるのだ。かなわないな、と思った。その思いは、十年前よりも柔らかな形ですとんと俺の胸に着地した。やっぱり天才だよ、おまえ。
思いの外響いたと感じ取ったらしい青年は、やっぱりこれ貸してあげますから、ね、とそのアルバムを俺の手に押し付けてきた。
「プレイヤーがねえよ」
「や、プレイヤーもお貸ししますよ。あと、これ、最新のやつも。ゆっくり聴いてください」
いいのだろうか。開陳することを躊躇うような感情を彼にぶつけた俺が、彼を置いて勝手に去っていった俺が、彼の音楽を聴いても。青年は俺の顔を見て能天気ににこにこと笑っている。最新のアルバムのジャケットには、あの白黒の髪を長く伸ばした彼が相変わらず薄い背中をこちらに向けて佇んでいた。十年の月日で、おまえはどう生きてきたのかな。俺がいなくても、大丈夫だった、よな? 俺のちっぽけさに気付いて、未練などきっぱり捨てて、新しい道を歩いていてくれれば、いい。十年越しにそう思えたことをことほぐように、俺は受け取ったアルバムを、そろりと指で撫でた。
ashes to ashes
珍しくジャケットなんぞ引っ張り出してきたなと思ったので何気なく「なんか出かけんの」と訊けば、顔色ひとつ変えず「葬式です」と返ってきた。
「おお、そりゃ、お悔やみ申し上げます」
「ええ、死んだの元彼なんですけどね」
「はえ?」
なんですかその声、とネズは不意をつかれたように笑った。くくく、とジャケットを纏った背中を震わせている。身につけたジャケットは葬式に行くにしてはちょっと派手なのではという、深い紫色だ。別にガラルの葬式はそんなにドレスコードきっちりしてないけどさ。しかしそういえば彼はジャケットといえばこれきりしか持っていなかったのだった。ネズはファッションに関しては少数精鋭派なのだ。
それはそれとして、ネズの元彼といえば、そりゃあもうごろごろいる。この前無理にせがんで各人についての話を披露してもらったばかりだ。その内の、どれだ。
「えーと、どの?」
「窃盗罪」
コードネームかよ、と言いたくなるのを堪える。しかしまあわかりやすいことこの上ないのは確かだった。端的かつ的確な表現だ。なるほど窃盗罪ね。いたね。よく覚えてる、インパクトがあったからな。
ネズはシューズケースからくたびれ方が多少マシなほうの革靴を引っ張り出して、申し訳程度に布で磨いている。ぺぺっと雑に拭いて、ぽいと床に放り出してそいつに足を突っ込んだ。踵を整えながら、顔に落ちた髪をかき上げる。
「そんなに時間かからないと思いますよ、顔出すだけだし」
一杯くらい引っ掛けるかってことになるかもしれませんけどね、と言いながらネズはいつもよりも低い位置で手早く髪を纏めた。
「なんせ奴の悪口大会ならいくらでも盛り上がれそうなので」
「なるほどー……」
ではね、とネズは軽くオレの頬にキスをすると、いつも通りののっそりした足取りで出ていった。
ネズが「時間はかからない」と言った時は、八十パーセントくらいの確率でそうはならない。経験則で知っている。いかんせん頼みを断れない男なのだ。それがスパイク関係者なら余計。だからまあ、帰ってきたのが結局夜中だったのは想定の範囲内だった。
ぼすん、と音がして目が覚めた。枕元に置いてあったスマホで時間を確認すれば、二時過ぎを示している。ネズは髪を解き、ベッド際に腰掛けていた。丸まった背中に、シャツ越しの背骨が浮いている。
「おかえり」
「ただいま帰りました……」
少々酒を過ごしちまいました、とぶちぶち言う。起き上がって額にキスすると、鬱陶しそうにしながらも抵抗はしなかった。
「水飲む?」
「うん……」
起き上がってキッチンで水を汲んで帰ってくると、相変わらずネズはぼうっとベッドに腰掛けていた。服もそのままだ。珍しく少々酔っているらしい。グラスを手渡すと大人しく口をつけた。唇の端からひとすじ零れ落ちるのを、そっと拭ってやる。
「死因、なんだったと思います?」
唐突にネズがぼそりと呟いた。
「んー、あんま歳離れてないんだろ? 病気かなんかしたの?」
「酒かっ喰らって寝ゲロで窒息」
うわぁ、と思わず声を出してしまった。ネズが笑う。死人に大して失礼かとも思ったが、当のネズが気にしていないのならいいか。
「いやほんと、うわぁ、ですよ。一人暮らしで発見が遅れてね。無断欠勤が四日続いて、とうとうばっくれたのかと心配した勤め先の人間が家に来た時には、とんでもない有り様だったらしい。エンバーミングに苦労したそうですよ」
最後まで人騒がせなやつだったな、とネズは独りごちた。
やもめ暮らしの荒廃した部屋に、酒の空き瓶やら空き缶やらが散乱している様を想像する。気管いっぱいにみっしり吐瀉物を詰まらせ、ただ腐敗を待つ人間が、ひとり。それは非常にさみしい光景だった。
「ムショで七年、前科持ちがようやく社会復帰できて、運良く周りに恵まれて、そこそこ順調にやってるって聞いたのが……二年前くらいかな。会いはしなかったけど」
久々に会うのが葬式とはねえ、とネズはしみじみと呟いた。眠たげに首をゆらゆらと揺らす。脱いでいるのはジャケットだけで、その他の服はそのままだった。ドレスシャツのボタンをぽちぽちと外してやると、されるがままに袖を抜いた。細身のパンツはもぞもぞしながら自分で脱いだ。足に引っ掛けたそれを行儀悪く爪先で放り出し、ドレスシャツもその上に投げる。きっと明日の朝には皺が寄ってしまうだろう。
もうシャワーも浴びる気がないらしいネズは、下着姿でベッドに身を横たえた。オレもその隣に寝転ぶ。
ネズのお喋りはまだ止まりそうになかった。身体的疲労と脳の興奮がちょっとズレているのかもしれない。
「スパイクの火葬場、かなり久し振りに行ったけど、昔よりちょっとは綺麗になってたな。最近リニューアルしたらしくてね、火力アップでもしたのか、あっという間でしたよ」
「それにしてはもう夜中だけど」
「それはほら、そのあとのパブが」
そう言って肩をすくめる。ネズのことだ、積もる話があったのも確かだろうが、それ以上にやたらに世話を焼きまくってきたに違いなかった。この男は故郷の人間には無条件で兄貴風を吹かせるから、自分も飲みながらも介抱なんかもしてきたのだろう。酔い潰れたやつも一人や二人じゃなかったのかもしれない。
「酒で死んだ人間の葬式帰りに酒飲んで騒ぐのってどうなんだ……」
「別に酒が悪いわけじゃない、度を超えて飲む奴が悪いんです」
「出た、酒飲み理論」
はは、とネズは目尻に皺を寄せて笑った。
「……とにかく、火葬には三十分くらいしかかかりませんでした。あっけないもんだね」
背中の下敷きになっていた髪を払い除けて、ネズはどこか遠くを見るように天井を見上げた。
「燃やしてる間不思議でしたね。やたら器用だった指も、妙に具合のよかったチンコも、全部あそこで燃えてんだなあと思うと」
「おいおい……」
コードネーム『窃盗罪』は二人目の男だったということは聞いていた。やたらセックスがうまかったのだとも。幾度も枕を交わしたんだろう。もう今更だし、別に嫉妬とかはないが。いや百パーセントないっていうと嘘になるけど。あくまでほんのちょっとだけだ。
まあいいじゃないですか、もう燃えちまったんだし、とネズはオレの指を摘んで弄んだ。なんか見透かされてるみたいでちょっと恥ずかしい。
「そういや昔、カブさんとこの葬式の話で盛り上がったことがありましたね。リーグの偉いさんの葬式の参列帰りに」
「あーうん、同じ火葬でも違うもんだなーって興味深かったな……えーっと、ホネアゲ? だっけ? 遺族がチョップスティックで骨を移すんだろ、ちょっとこわくねえかなと思ったなあ」
「そうですか? おれは風情があるなと思いましたけど」
そしてネズは、「そんで、その骨を食っちまう人もいるらしいですね」となんでもないように言った。
「ええ……マジで?」
「マジで。しかもまあまあいるらしいですよ」
あいつの骨を食おうとは思わなかったけどね、とネズは淡々と呟く。
骨を食っちまうっていうのは、どういう心理状態なんだろうか。相手と一体化したいとか、そういうのなのかな、と思いを巡らす。食べちゃいたいほど愛してるって比喩とかでは使うけど、実際にやるかどうかは別だよな。どうかな。でも、オレは近しい人間や愛するポケモンたちがまだ死んだりしたことがないからそう思うのかもしれない。考えたくもないことではあるけど、もしそういう相手が遠いところへ、手の届かないところ、あるのかどうかもわからないところへ旅立ってしまうことになったら、どうだろうか。食うかな、骨。どうかなあ。食わない気がするなあ、オレさまは。話聞くだけでもぞっとしないもんなあ。なんか居心地悪いっていうか。だって骨だろ。人体だろ。食人は法に触れるだろうのに、死んだ後の骨食うのには別に適用されないのか。そもそもどんな食感なんだ、骨。含有物質は体に悪くないのか。いや食感がどうとか健康にどうとかじゃないだろキバナ。などとつらつら考えていると、不意に喉の辺りにネズの指が触れた。くすぐったくて思わず身を捩る。
「なに? 急に。びっくりした」
「いや、おまえのここ……喉仏の骨なんか、綺麗に残りそうだなと思ってね」
「こら、勝手に殺すな」
くくく、とネズは喉の奥で笑った。そう言うネズは、火力を調整しないと骨も残らなさそうだなと思う。そんなことを想像してぶるりと震えた。あーやだやだ、こんなこと考えさせんなよな。
眉根を寄せていたオレの眉間をぐりぐりと揉んで、ネズはほんのりと微笑んだ。物騒な話をしているとは思えない、眠たそうな、やわらかな表情だ。そしてその表情のまま、ちいさな声で囁いた。
「おまえの骨なら、食ってやってもいいかなと思います」
喉仏を指がなぞる。脳内に虚像が浮かぶ。ちいさな壺みたいなのの中から、ネズの細い指が白くてかさかさしたものを摘み上げる。オレの骨。そしてネズは口のなかに放り込む。ころころと舌で転がして、白いエナメル質でばりばりと噛み砕いて、喉の奥へと呑み込む。オレだったものは胃の腑へと転がり落ちていく。一気に迸るイメージ。想像のなかのネズと、目の前のネズは、同じ表情を浮かべていた。
「……それ、喜んでいいのかなんなのかよくわかんねえんだけど」
一瞬の間を置いて出た声は、自分で思っていたより困惑の色が濃かった。ネズはなぜかおもしろそうな表情を浮かべる。
「なんです、喜びなさいよ」
「ええ……」
「そのくらいにはおまえのこと気に入ってるってことなんですけど」
「表明の仕方が不穏なんだよなあ」
そう言って唸るとネズはとうとう堪えきれないといった感じで小さく吹き出した。えらくご機嫌だな。それとも一種のハイ状態なのか。落ち着かせようと抱き寄せると、薄い腹がぴくぴく震えるのが伝わってきた。酒のせいか、いつもより暖かい気がする。皮膚、肉、内臓器官、血潮、そして骨。あー、こんな話するから、変に意識しちまうじゃねえか。抱き込んだネズの心臓が一定のリズムを刻んでいることとか。軽く頭を振って誤魔化す。
「もう葬式とか骨とかそーいう話終わり、やめ。ほらもう三時だぜ、眠いだろ、オレさまは眠い。さっさと寝ようぜ」
「それもそうですね」
ネズは一転してけろりとした声音を発した。相変わらず切り替えが速い。腕のなかでごそごそと身動いて、据わりのいい場所を見つけると、そこからじっと動かなくなった。規則的な息遣いがかすかに胸元をくすぐる。そのうちだんだんと深くなる。
灰は灰に、塵は塵に。聖書なんざガラじゃないけどさ。いずれ死すべき身であるところのオレたちは、なんのかの言いながら、ここで束の間身を寄せあっている。死んだ後のことを今から考えるより、そっちの方が今は大事じゃないのか。そう思いたい。
腕のなかのネズが、寝落ち寸前のちいさな声でふにゃふにゃと、「おやすみ」と囁く。オレも「おやすみ」と返して、瞼をきつく瞑った。
Night on the Planet
タクシー運転手という職業に彼は誇りを持っている。
この地において、アーマーガアを利用したタクシーは人々の脚代わりとなる重要な存在だ。アーマーガアタクシーの運転手になるには、非常に厳しい試験を突破せねばならない。ありとあらゆる道や建物、星の数ほどもある観光名所に精通する必要があるし、さらに非常に賢く誇り高いいきものであるアーマーガアの扱い、風や天候についても卓越した知識が求められる。それらすべてを兼ね備えていないとタクシー運転手にはなれないのだ。現に彼は晴れてこの職業に就くまでに優に六年を費した。だが、その価値はあったと思っている。
給与面も申し分ないが、なによりも彼がこの職で気に入っているのは、乗客とのちょっとしたやり取りや彼らの様子から、ほんのちょっと、それぞれの人生が垣間見えることだった。たとえば、ゴンドラに揺られる間必死にぶつぶつと台詞を唱えて台本を覚えている駆け出しの役者。大声で喧嘩しながらやってきたのに、降りる頃には満面の笑みになっていた老夫婦。何日ワイルドエリアに籠っていたのか、ぼろぼろの身なりでぐうすか寝こけたまま、手持ちのポケモンらしいリザードンに抱えられてきた少年。あのリザードンの困ったような顔といったらちょっと忘れられない。あれから少し経った頃、見覚えのあるリザードンと少年を街中の大ビジョンで見た時は開いた口が塞がらなかったものだ。
長年この職を続けていれば、有名人を乗せることもままある。もちろんそれを人に話したりすることはない。彼のなかにそっと仕舞われていくだけだ。その一瞬一瞬に立ち会えるというただそれだけで、運転手は満足している。その中でも忘れがたい風景が、いくつかある。
それはある真夜中のことだった。彼の客待ちの定位置はナックルシティの駅前。乗客も少なくなってくる時間ゆえゴンドラの中でうつらうつらしていた彼は、窓をコツコツと叩く音で慌てて目を覚ました。窓の外に佇んでいたのは、特徴的な白黒頭に痩身の青年だった。スパイクタウンのジムリーダー、ネズだと一目でわかった。
「お休みのところすみません」
ゴンドラから降りて扉を開けると、青年は律儀に腰を折った。いやいや、と運転手は恐縮して手を振る。見目に反して腰の低い人物のようである。
「スパイクタウンまでお願いします」
しかしネズがそう言い終わらないうちに、その背後の通りから、タッタッタッ、と誰かが駆けてくる音が微かにした。石畳の街では足音はよく響く。その音の主は、少し離れたところから必死に走ってきているようだった。ネズの眉がほんの微かに動く。後ろの人物が叫んでいるのが、運転手の耳にも届く。
「……ネズ! おい! 待てって!」
その声音があまりに必死なので、少々戸惑った。何かあったのだろうか。だが、目の前の白黒の青年は振り返ろうともしなかった。絶対に振り返ってなどやるものかと、かたく決めているような表情だった。
「……あのう、呼ばれてますが」
「無視してください」
とりつくしまもなくそう言うと、ネズはさっさとゴンドラに乗り込み、自分でドアを閉めた。どうしよう、と一瞬迷うが顧客優先だと思い直す。いそいそとアーマーガアの鞍や扉のロックなどを確認していると、足音の主が息せき切って近寄ってきた。飛び立つ用意をするゴンドラを認めて、途方に暮れたような顔をする。
「あっ……」
駆け寄ってきたのは、やたらと背の高い青年だった。見覚えのありすぎる顔に驚いて、声を漏らしてしまった。それはナックルシティのジムリーダー、宝物庫の番人、ドラゴンストームのキバナその人だった。
キバナは苦々しげな表情のまま、ゴンドラにほとんど取り縋るような姿勢になった。扉に手を添えて、窓に額をこつりとぶつける。
「開けてくれ、ネズ……頼むよ……」
振り絞るような声が聞こえてくる。まるで近くに運転手がいることにも気付いていないような、そんな素振りだった。だが、中にいるネズが扉を開けるような様子はなかった。それどころか、中のインターフォンから運転手のイヤフォンに冷たい声が届いた。
『タクシー、出してください』
「えっ? えーと、でも……」
『構いません。その人は放っておいてください。……お願いします』
最後の一音に、ほんのすこしだけ苦い響きがあった。いいのだろうか、と悩む。しかし黙り込んだイヤフォンからの声なき威圧に耐えかねて、運転手は恐る恐るキバナに声をかけた。
「あのう、すみません。出せ、とおっしゃるものですから……」
キバナは跳ね上がるように面を上げた。そこには母親に叱られた子どものような表情が浮かんでいて、見てはいけないものを見たような気持ちになる。いつもの自信に満ち溢れた表情とはかけ離れていた。ええと、と困り果てて運転手が呟くのを見て、ようやくキバナは我に返ったようにゴンドラからそろりと離れた。
「……すみません」
「いえ……」
小声で謝ったキバナは、憔悴を隠し切れていない微笑みを浮かべた。それは痛々しい笑みだった。迷いを捨て切れず後ろ髪を引かれるような思いにとらわれながら、運転手は鞍に乗り込む。アーマーガアもしばらく「いいのか?」とでも言いたげな様子で静止していたが、翼を撫でてやれば納得したように羽ばたきはじめた。
ばさり、と巨大な翼が風を切り、その圧がぼんやりと立つ青年の髪を逆立てる。やがてふわりとゴンドラが浮き、みるみるうちに地面が遠くなっていく。だが地上に取り残された青年は、こちらから見えなくなるまでずっと、その場所に立ち尽くしたままだった。
スパイクタウンには片道一時間足らずだ。風の影響により時間は前後する。ナックルシティとスパイクタウンは隣街ではあるが、山一つ越えていく必要があるのだ。その長くもなく短くもない時間じゅう、運転手の頭の片隅には先程の青年の表情が居座っていた。街までの道のりは、ほとんど照らすものもなく暗い。ゴンドラのヘッドライトだけがぼんやりと行く先を浮かび上がらせる。喧嘩かなぁ、などと考えて、すぐに下世話な勘繰りを振り払うように頭を振った。いけないいけない、プライベートを詮索するような真似はやめよう。それと同時に、カア、とアーマーガアが一声嘶く。タイミングの良さに見透かして叱られたような気がしたが、なんのことはなく、目的地に到着したという合図であった。
地上にふわりと降り立つ。ゴンドラを最大限揺らさぬように着地するのは運転手の得意とするところだった。それとほとんど同時に扉を開けて、白黒頭がゴンドラから降り立った。
鞍から降りると、ネズは深夜料金にさらにプラスした金額の紙幣を手渡してきた。釣りを返そうとすると、やんわりそれを押し止められる。
「見苦しいものを見せましたから。チップとでも思ってください。あなたの運転は快適でした」
ありがとう、すみませんでした、と告げて、彼は静かにシャッターの方へと歩いていった。離れていくその背中がどうにも頼りなげな、寄る辺ない少年のように見えて、運転手は思わず「おやすみなさい」と声を掛けた。ネズがゆっくりと振り返る。彼は、傷ついているのを必死に隠そうとするような、そんな目をしていた。
「おやすみなさい。……縁があれば、また」
キルクスの入り江の方から、びゅう、と音を立てて一陣の風が吹く。白と黒の長い髪が風に巻き込まれて翻り、彼の細い身体がすこしふらついた。来る者を拒むようなシャッターに彼が吸い込まれていったあとも、運転手はしばらくその場でぼんやりとその向こうの薄暗い闇を眺めていた。
ネズの言うところの「縁」は、数ヶ月あとに訪れた。またしても真夜中であった。いつもの駅前で客を待ち構えていると、スマホロトムの配車アプリに注文が入った。場所は、駅からほど近くのマンションの前。アクセプトのボタンを押して、すぐにそこへ向かう。アーマーガアは軽々とゴンドラを持ち上げ、悠々と羽ばたいた。
すぐに辿り着いた高所得者層向けのマンションのエントランス前には、紙袋を抱えた長身の青年が立っていた。あ、と声が出そうになるのを抑える。見間違えもしない、キバナだった。
彼は、穏やかな顔をしていた。あの日見た幼子のような顔をした彼とはまるで別人のような風情だった。数ヶ月前に一度見たきりの運転手のことは、さすがに覚えてはいないようだ。彼は微笑んで「スパイクタウンまで。お願いします」と告げた。
「シートベルト、しっかり締めてくださいね。今日、風が強いので」
「わかりました」
何気ない返事をする声色にも、なんとなく機嫌の良さが漂っている。いそいそと彼はゴンドラに乗り込み、指示通りシートベルトを締めた。相変わらず紙袋を大事そうに抱えている。蝋引きの茶色のその中には何が入っているのだろうか。運転手はいつも通り、部位の点検を丁重に済ませてから鞍に腰を落ち着けた。手綱を引けば、相棒が一声甲高く鳴いて大きく翼を広げる。周囲に風を巻き起こし、重力から解放されるようにタクシーは宙に舞う。オレンジ色の灯に包まれた城塞都市が、だんだんと下に下にと遠ざかっていく。
スパイクタウンに向かう道のりには、追い風が吹いていた。いつもより短い時間で辿り着くことができそうだ。山沿いを飛ぶときにはさすがに車体が揺れた。マイク越しに「大丈夫ですか」と声をかければ、「や、問題ないです」とイヤフォンに軽やかな音声が届く。人並外れた長身ゆえ、窮屈な思いをしていなければいいと思っていたが、今宵の彼はそんなことを気にも留めていないようだった。
右側には、遠くバウタウンの海が見える。灯台のあかりがぽつんと闇夜に浮かぶ。そのあかりが背後に遠のいてしまえば、スパイクタウンはもうすぐだ。暗く閉ざされたシャッターを思い出す。こんな夜中に、彼はスパイクタウンまで何をしに行くのだろうか。
アーマーガアの鳴き声が高く響く。そのときはじめて、ゴーグル越しの視界がいつもよりもほんのすこし明るいことに気がついた。シャッターが開け放たれているのだ。ネオンサインで彩られた街が眼前に広がっている。
着地態勢に入ろうと高度をゆっくりと下げようとした時、街の入口に人が立っているのに気がついた。背後のネオンサインに照らされて、その人物は細身のシルエットを闇に浮き上がらせている。
するとかすかに、ウィーン、という機械音がした。ゴンドラの窓が開く音だ。乗客がそこから叫ぶ。
「ネズ!」
それが運転手の耳に届くやいなや、ばさり、という音がして、何かが宙を舞った。あっ、と声が出る。
それは、満開の花束だった。ピンクや青のネオンに照らされて、スローモーションのように風に舞うのが目に焼きつく。風に煽られて、花びらがぶわりと数枚散って漂う。花束は、そのままぽすりとシャッターの前の人物の手の中に収まった。
アーマーガアがそろりそろりとゆっくり着地すると、待ち切れないといった様子でキバナが飛び出してきた。満面の笑みだ。支払いをアプリ経由で済ませるというので、ふたりしてスマホロトムを覗き込んで確認していると、花束を抱えた青年がゆっくりと近付いてきた。ネズだ。
「……キザ野郎」
花束を大事そうに片手で抱えたまま、ネズはぶっきらぼうな口調でキバナの肩口を叩いた。いてえ、とキバナが笑う。邪魔してしまうような気がして、スマホロトムの画面から視線を外さないようにした。ピロリン、と軽快な音がして、支払いが承認される。ありがたくも、チップ分として大幅に金額が上乗せされていた。「ええと、支払い、できたみたいです」と声をかける。
「よかった! ありがとう、また頼みます」
朗らかに笑って、キバナは振り返って街の入口へと歩を進める。横のネズは、彼の背中をなんだか眩しそうに眺めていた。そしてくるりと振り返り、運転手に向き直った。薄青色の瞳が、ほんのり細められる。彼は微笑んでいた。
「……縁、ありましたね」
おやすみなさい、とやさしい声音で告げて、ネズは先を往くキバナをゆったりと追いかけた。その背中に、声をかける。
「おやすみなさい!」
ネズは振り返らず、ゆるゆると手に持った花束を振った。
横のアーマーガアが、きゅるきゅると鳴きながら嘴を擦り寄せてくる。ふと見ると、彼の羽根に、先ほどの花びらが一枚ついていた。指でつまみ取ってしばし眺める。可憐な薄いピンク色は、強い風に吹かれて指から離れ、高く高く舞い上がっていった。
無論この話を、彼は誰にもしていない。ふたつの夜の風景を知っているのは彼と相棒だけだ。だが、風の強い日、特に花びらが舞い上がったりするなかを飛ぶときなんかには、いつもあの夜のことを思い出す。花束が宙に舞った瞬間の美しい放物線を。言葉よりも雄弁に愛おしさを語った互いの瞳を。そしてそれは、胸のなかに仕舞うだけで、彼をぽっとあたたかくするものであるのだ。
The path to heaven
薄切りのパンを軽くトーストする。オールドファッションなポップアップ式のトースターの使い方にももう慣れた。年季が入ってはいるが清潔に磨きあげられたそれが、銀色に光ってキバナの顔を映す。飛び出してきたトーストを取り出し、皿にピックアップする。勝手知ったる冷蔵庫の中身を物色し、卵とベーコンを取り出した。
コンロに着火、フライパンをセット。薄く引いた油が熱されるのを待つ間に、ケトルに水を注ぎスイッチをオン。手慣れたものだ。ポットとマグカップ、ティーリーフの缶を背後の食器棚から出す。フライパンの油がぱちぱちと小気味よい音を立て始めたので、ベーコンのあとに卵を割り入れる。じゅわ、という音と共にタンパク質の焼ける匂いが鼻をくすぐって、キバナは思わず小鼻をひくひくさせた。そこに塩胡椒をひとふり。卵はふたつ、ひとつは自分好みのサニーサイドアップ、もうひとつは相手に合わせたオーバーミディアムにする。こうなってくれば準備もそろそろ佳境だ。ポットとティーカップはあらかじめ湯であたためておく。皿の上のトーストに焼きあがったベーコンと卵を盛りつけて、オープンサンドの完成。あとは紅茶の準備だけだ。ポットにはまだティーリーフは入れない。寝室まで彼を迎えに行く間に渋くなってしまっては困る。
ダイニングテーブルに諸々を運んだその足で、キバナは家の主、ネズの寝室へと向かった。時刻はもはや昼に近い。陽の光のなかなか入り込まぬこの街では、キバナの時間感覚はどうにも狂いがちだった。だがまあ、こんな過ごし方も悪くない。
寝室の扉を開けたが、彼はまだ眠りのただなかにあるようだった。毛布にくるまってぴくりともしない。相変わらず死んだように眠る男だ。ぼすん、とわざと音を立ててベッドの端に腰掛ければ、それに反応してようやくもぞもぞと動き出した。だが起きようとする気配は未だ感じられない。シーツに広がる長い髪を好き勝手に梳いても、お馴染みの文句と皮肉は聞こえてこなかった。それをよいことに、キバナは手遊びに髪をいじくってしばし楽しんだ。うぅ、だかぐぅ、だか、小さな唸り声が聞こえてきて、自然と唇の端が吊り上がる。
以前マリィに聞いた話によれば、この男は長年、朝に弱い素振りを妹には見せようとしなかったらしい。何の意地なんだ、と聞いた時には感じたが。どんなに夜遅くまで起きていたとしても、妹が起きてくる時間には必ず既に動き出して朝食の準備を整えていたとか。随分な献身っぷりである。勿論ほんとうは彼の寝起きがめっぽう良くないことは聡い妹には筒抜けで、「兄の矜恃」を守ってやろうという彼女の思いやりも多分にあったのだが……そんな十数年来の兄妹の朝の風景にも、少々変化があった。その変化をもたらしたもののひとつとして、キバナの存在があるのは疑いようがなかった。
マリィに認められてネズの家に出入りするようになってからしばらくの月日が経過した。初めて宿泊した日、早めに目が覚めて手持ち無沙汰にキッチンをうろうろしていたキバナを見てマリィは目を丸くした。その時にしてくれたのが件の話だ。
「アニキがいない朝のキッチン、久し振りな気がする」
でもなんかうれしか、と少女は花のように笑みを綻ばせた。その日からキバナの「お泊まりのルーティンワーク」が決まった。思う存分惰眠を貪らせてやること。朝食を作ってやること。初めは気まずそうにしていたネズも、段々とそれに慣れていったようだった。その様子にテーブルの下でこっそりマリィとフィストバンプを交わしたのは記憶に新しい。
「できてるぞー、朝食、っつかもはやブランチ」
肩口をぽんぽんと叩いて声をかける。その声でようやく決心を固めたらしく、ネズはのっそりと起き上がった。ボリュームのある髪があっちこっちに跳ねているのを手ぐしでなおしてやる。特に抵抗もしないあたり、まだすっきりと目覚めてはいないようだ。
「……今何時」
「えーと、十一時前?」
「マリィは……」
「まだ寝ぼけてんな。今日はもうとっくに出たよ、出かけるって言ってたろ」
「そうでした……」
はあ、と大きく溜め息をひとつ。紅茶淹れるからその間に顔洗ってこいよ、と言えばおとなしく頷いてベッドから降りた。よろよろと洗面所に向かう彼を後目にキッチンに戻る。湯をもういちど沸かし直し、温めておいたポットにティーリーフを多めに三さじ。沸騰した湯を勢いよく注いで蒸らす。バシャバシャと洗面所から聞こえる水の音を聞きながら、冷蔵庫からミルクを取り出す。ネズが幾分すっきりした面持ちでダイニングテーブルに到着した頃には、紅茶もいい頃合いだった。ティーカップにミルクを先に入れて、後から紅茶を注ぐ。冴えた明るい赤褐色が、ミルクの白と混ざってやわらかにほどける。なかなか上出来じゃないかな、とキバナは自画自賛した。
ところでネズに紅茶を淹れてやるときにいつもキバナが思い出してしまうことがあった。制作作業中のティーブレイクに自分用の紅茶を淹れようとしたネズが、マグカップにティーバッグと水を無造作に入れてそのまま電子レンジにかけたことだ。あまりの光景に思わず突っ込んでしまったキバナに、ネズは「おれ一人の分なんですからよくないですか」と小首を傾げた。
「いつも割とマリィちゃんとかオレには丁寧に淹れてくれるじゃん」
「まあ、人と飲む時は。でも別におれが飲む分なら、飲めりゃそれでいいので」
それは確かに合理的な姿勢ではあったが、ある種の懸念をキバナに引き起こした。やっぱりこいつ、自分をいたわるとかそういうのがへたくそすぎやしないか? ティーポットでゆったりと紅茶を淹れる、いやそこまでする余裕がなかったとしてもせめて湯を沸かして淹れる、というのはガラルの人間にとってはリラックスのための大事な儀式だった。電子レンジ事件はキバナが薄々感じていた点と点をつなぐ補助線になってしまったといえる。オマエそれ密着取材とかでやったら絶対炎上するからやめといた方がいいぞ、とだけネズには忠告したが、それ以来彼に紅茶を淹れてやるときはいつも、ほとんど祈りのような気持ちが先に立つ。オマエにもう電子レンジ製の紅茶を飲ませたくはない。傍から見れば馬鹿馬鹿しい祈りに違いないが、もはやそれはキバナのなかでネズという人間のさみしさの象徴のようになってしまったのだった。
「ありがとう」
ティーカップを手渡せば、ネズは律儀に礼を言った。キバナもダイニングチェアに腰掛ける。オープンサンドとミルクティー。ささやかなブランチだが、ひと仕事終えたすがすがしさと満足感がある。
古くは公営住宅であったネズの家にはなかなか光がささないが、それは見かけだけの話だ。今日の天気予報は快晴。外に出ればきっと、まぶしいほどの光があふれていることだろう。オープンサンドに案外大きな口でかぶりつくネズに、キバナは眦を緩める。視線に気付いたネズが怪訝そうな目を向けてきた。
「……なんですか」
「や……大事にしてえなって思って」
正直に言えば、ネズは眉を顰めて押し黙った。そのまま今度は控えめな大きさでもう一口かじる。キバナも倣ってサンドをかじった。半熟の黄身が勢い余って唇の端から流れそうになるのをあわてて親指で拭う。ネズがようやく口を開いた。
「これ以上ですか?」
その声はなんだかひどく幼く響いて、キバナの心のやわい部分をくすぐった。これ以上だよ、そうに決まってるじゃん。オマエがオマエを大事にすることに慣れていないのなら、オレがそれを示してやりたい。ゆっくりと安心して眠ること。あたたかい紅茶を淹れてやること。ひとつひとつ、まだこんなの序の口だよ。
「とくと思い知れよ、オレさまの愛の深さ」
わざといたずらっぽく指を突きつけてやれば、居心地悪そうにネズは身を捩った。今はそれでいい。だんだんと慣れていけばいい。他人のことばかり気にしていたオマエが、当たり前のようにオレのこの行為を受け入れられるようになるまで。微笑みとともに飲み込んだミルクティーは、やわらかくほのかに甘く、キバナの願いとともにするするとからだをすべり落ちていくのだった。
I hear the bells ringing in my ears
テイクアウェイ専用の窓口にならぶ。誰もが浮かれがちな春先、天気のいい昼間のストリートにはそこそこの人通り。道の向こう側からオレを見つめる熱い視線に、軽く笑顔を向けてお手振り。控えめなさざめきが伝わってくるのも、今日は全然苦痛じゃない。
アプリでオーダーしておいたお目当てのラップサンドはものの数分で窓口に届いて、店員からすぐに手渡される。ナックルでサービス業に関わる人間は躾が行き届いていて、オレの訪問にも眉ひとつ動かさない。
「こちらでお間違えないですね」
「パーフェクトだぜ、サンキュー」
「ユアウェルカム。良い一日を、キバナさん」
アンタもね、とフィストバンプして窓口を後にする。今日のオレさまがご機嫌なのはただ単に丸一日オフだからってだけじゃない、家で彼氏が待ってるからだ。良い一日、送れるに決まってるね。足取りも軽く家路を辿る。スマホを立ち上げてテキストを送るのも忘れない。
『昼メシ確保、飛んで帰る』
ややあってピコン、と通知が鳴る。飾り気も何もなく、『OK』だってさ。最近はかわいいスタンプだって大量に溢れてるというのに、アイツはそれをインストールしようとはしない。あれこれ飾らなくたって文字で事足りる、そう言ってはばからないところに言葉を商売にする人間の意地が見えるようで、それがなんとも好きだった。
徒歩数分の道のりだけど、頭の奥で鳴り響く音楽のおかげで洒落たミュージックビデオの主人公みたいな気分だ。マンションのエントランスを抜け、もどかしくエレベーターを待つ。心は既に上へ上へとのぼっている。チン! と小気味よい音を立てて扉が開くのと同時に飛び出した。小走りにならないくらいのギリギリの早歩きで自分の部屋の前へ急ぐ。鍵をポケットから探り出して鍵穴に突っ込もうとした瞬間に、ガチャリと音を立てて目の前の扉が開いた。白黒のツートンのトゲトゲ頭。ヒールのかさ増しがない分いつもより低い位置から、アイスグリーンの瞳がオレを迎える。耳良いから、足音聞こえてたのかな。ここ結構防音しっかりしてるんだけど。はしゃいでるのを見透かされたみたいでちょっと照れるけど、でもくすぐったさよりうれしさのほうが大きいな。だって別に中で待っててもいいわけだから。
「ただいまっ!」
「はいはい、おかえり」
そのままハグしようとするオレを「先に手洗え」とすげなく退けて、ネズはラップサンドをオレの手から奪った。袋の中身をしげしげと眺めている。お気に召すといいのだが。言いつけどおり洗面所で丁寧に手を洗って、キッチンで皿を用意するネズがひと段落したのを確認して、ようやくハグにこぎ着けた。
正面から抱き寄せれば、ネズは抵抗せず腕の中に収まる。離れがたくて、ボリュームのある髪を撫でた。また痩せたかな。こう出来るのはほんとうに久しぶりだった、なんせ売れっ子のシンガーソングライターだ。ネズは昨日までのここ数週間ガラルを一周するツアーで方々を駆け回っていた。それが大盛況のうちに終了して、そんですぐ、来てくれた。ちょっと午前中に所用があったからネズがオレの留守中に上がり込む形になったわけだけど、帰ったら迎えてもらえるってのはなかなかグッとくる。毎日こうならいいのに。
しばらくネズをハグしたまま揺れてた。控えめに、でもしっかりネズの腕もオレの背中に回ってる。ここまで来るのに長かったなあ、なんて考える。長らく、こうやって抱き締めるたびにこの男は棒立ちで身を強ばらせていた。カチンコチン、なんでこうなってるんだかよくわからない、今すぐどっか行きたい、ってな雰囲気で。妹をハグして送り出してやるとこなんかは何回も見たのに、なんでオレにはこう? いや妹と競うのも変か? でもやっぱさみしい……と最初はさんざ悩んだが、与えられるのに慣れていないのだとだんだんわかってきた。ちいさい植木鉢に水をあげすぎて溢れてるみたいな感じ。ならば時間をかけて慣らしていくしかないとせっせとスキンシップに励んだ。その甲斐あって、だんだん氷が融けるみたいにネズのカチコチっぷりは解消されていった。今のこの状態はまさにオレさまの長きにわたるたゆまぬ努力の賜物といえる。そういうの得意なので。
背中に回されたネズの手がオレの肩甲骨をゆっくり撫でる。ネズがここにいる、オレの腕の中に。たまらなくなって大きく息を吸い込んだ。香水とかつけてない、そのままの彼の匂いがする。
「あー、会いたかったな、ネズ」
「……はい、会いに来ましたよ」
「うん、うん、会いたかった」
茶化さないで返事してくれたことに口元がほころぶ。もうちょっとだけ堪能したいな、と思っていたが、オレとネズの間にぐいぐいとジュラルドンが鼻先を突っ込んできたのでそれでおしまいにする。どうやら腹が減ってるらしい。ネズが我に返ったようにそそくさとキッチンに戻る。ごめんなあ、と相棒を撫でてやると、ふすん、と鼻息を漏らした。少々呆れたような目付きである。うん、確かに序盤から飛ばしすぎるとあとでスタミナ切れするよな。出来た相棒だ。
ネズの手持ちとオレのチーム分のフードを用意してやり、オレたちもランチタイムとする。冷蔵庫から冷えたビール瓶も二つ取り出して準備は万端だ。今日はダイニングテーブルじゃなくて、テレビに面したソファでいただく。簡単にラップサンドを皿に盛りつけたのをネズの手から受け取って、ぽんぽんとソファの座面を叩く。ローテーブルに自分の皿を置いたネズがぼすんと音を立てて座った。勝手知ったる感じでリモコンを手に取ってあれこれチャンネルを変えている。契約してるポケモンバトル専用のチャンネルに合わせると、そのままもたれかかってきた。ちょうど今の時間はマイナーリーグのバトル映像が録画放映されている。
「あ、オレさままだこの試合見れてなかったんだよな。ラッキー、評判良かったよな」
「おれもです。最近のマイナーリーグ、活気ありますよね」
「だよなー!? やっぱそう思う? レベル底上げされてきた感じあるよな!」
「ダンデの掌の上って感じでちょっと癪だけどね」
今画面に映ってる彼、バトルタワー常連らしいですよ、とラップサンドより先にビールに口をつけながらネズが教えてくれる。ジムリーダーやめて結構経つけどチェックは欠かしてないらしい。水を向けると、「マリィが教えてくれるんで」とやや照れくさそうにする。そんなこったろうと思った。まあ兄妹仲がいいのは良いことだ。
しかし現役バリバリのジムリーダーであるオレさまだが、実はマイナーリーグの試合もしっかりチェックするようになったのは恥ずかしながらここ最近、数年のことだ。きっかけは他でもない目の前のこの男である。
あの忘れがたい「引退試合」のあと、オレは再戦のためにネズの試合運びの研究に躍起になっていた。そんな中で知り合いがダビングまでして熱心に薦めてくれたのが、マイナーリーグに出向いての交流試合の映像だった。
それは横っ面を張り倒されて視野狭窄を思い知らされるようなバトルだった。相手の技術は荒削りだったが、それに相対するネズの手腕といったら、相手の不調法すらも必要要素のひとつといった感じで、まるで美しい蜘蛛の巣が目の前で編み上がっていくのを見ているようだった。計算され尽くしているのに有機的でもあって、ネズが言うとこの「ハーモニー」ってやつが相手との間に流れていた。
惚れ惚れしたし同時に愕然とした。こんな面白いバトルができる人間がすぐ近くにいたのに全然まったくこれっぽっちも気付かなかったなんて。しかも引退するまで。見終わったあと思わず頭を掻きむしったのを覚えている。ダンデに勝つ、ってそればっかり考えていろんなものを見落としてきてた、そう痛感させられた。それ以来メジャーマイナー問わず、どんな試合も熱心に見るようになった。特にマイナーリーグの試合を見るたびに記憶が連鎖してあのネズの試合を思い出す。油断してんじゃねえぞって叱咤してくれる、そんな気持ちになれる。
オレがこの一瞬で数年間に思いを馳せてるなんて知らないであろうネズは、テレビの中の試合展開に小さく声をあげたり、たまに唸ったりしながらラップサンドをぱくついてる。案外ひとくちがでかいし案外表情豊か、これもこの男がジムリーダーだったときは知らなかったことだ。むぐむぐと頬張っているのを見てオレもようやくラップサンドに手を出す。がさがさと紙包みを解けば具がぎっしりと詰まったそれが顔をのぞかせる。ドネルケバブと野菜たっぷり、ソースはカレー風味とヨーグルトの合掛け。肉は冷めてもしっとりしてるし野菜も新鮮でシャキシャキしている。なによりテレビ見ながら片手で食えるのがお誂え向きである。我ながらいいチョイスをした。フードトラック時代から人気を集め実店舗を出すに至った店で、最近シュートシティにも進出を決めたらしい。また買いに行こう、店員もいい感じだったし。
「これ結構うまくね?」
「ん、うまい」
「やー、初挑戦だったけどよかったわ、また食おうな」
「……ん」
こくりと小さく頷くのがいじらしくて、肩口にもたれかかる頭頂部にキスを送る。ビールを呷って知らんぷりしてるけど、あとでお返ししてもらう予定だから全然構わない。テレビに映る試合はいよいよ佳境といった頃合で、件のバトルタワー常連くんがキメ技を指示したところだった。はたしてそれはきれいに炸裂し、勝者と敗者のラインを分けた。わっ、と上がる歓声に画面の近くに陣取っていた我が相棒たちも反応している。そわそわと「バトルしたいなあ」みたいな表情でこちらを窺ってくるけど、「今日はダラダラする予定だからナシ」と手でバツのサインを作ってやればおとなしく引き下がった。ネズがそれを見て小さくくつくつと笑う。
「おまえに似て、揃いも揃ってバトル大好きですね」
「タチフサグマだってうずうずしてる感じだぜ」
「おや本当だ。でも今日はもう一歩も外には出ないつもりですし」
そうでしょう? とネズがオレに向かって瓶を掲げる。その通り、と軽く瓶をぶつけた。やっぱり試合見るのは楽しいけど仕事モード入っちゃうからやめよーぜ、と結論づける。しっかり最後まで見たけどさ。ここからは仕事モードはナシ、オフはオフらしくのんべんだらりと過ごさなければ。
そこからはチャンネルをあれこれザッピング。映画を途中から見て途中でやめたり。主演俳優の物真似をして笑ったり。カロスで開かれたファッションショーの特集番組を流したり。おおルリナ出てる、とか、このブランドの新作すげー良いすげーほしいでも気に入った色がカロス限定販売で困るとかなんとかくっちゃべったり。それをBGMにしてネズがフライゴンに構うのをぼーっと見つめたり。その間に冷蔵庫とソファを何往復か。やがて酒の瓶やら缶やらがローテーブルにわんさか積まれて、オレもネズも良い具合にほろ酔いになった。明るいうちから飲む酒って最高。ポケモンたちはご機嫌になってきた主人たちを見てやれやれ、といった表情で別室の方へと向かっていった。昼寝と決め込むのかもしれない。
もはや惰性で片手間にリモコンを操作するオレの手が止まったのは音楽専門のチャンネルだった。流れてきたのは四十年くらい前のソウルミュージック。特集を組んでるっぽい。ちょっと赤い顔をしたネズがぴくりと画面の方を向く。なんかちょっと今の動きポケモンっぽかったな。体が勝手に動くらしく、もう既にかかとでリズムを取っている。
「ソウルとかって聴くの?」
「誰に向かってもの言ってんです? プロのミュージシャンだよ。当然ディグってるに決まってるでしょう」
「あっそーなの? だってパンクスじゃんネズ、確かにいろんなの書いてるけど、でもロックだろ」
「ソウルはロックにも影響与えてんですよ」
何がしかのスイッチを入れてしまいそうなのでなるほどー、などと適当に返事をした。そういえばネズの自宅には今時珍しいレコードプレーヤーがある。どう見てもかなりの年代物って感じだけど、丁寧にメンテナンスして今も現役で使ってる。エンジンシティのレコードショップにもしょっちゅう顔を出していた。最初は自作の営業かと思っていたがどうやらただ単にレコードを漁るのが好きなのだとわかったのは三回目のデートでその店から数時間ネズが動かなくなった時だ。手持ち無沙汰になってしまったオレに店主が気を遣ってコーヒー淹れてくれたくらいの熱中ぶりだった。店主と益体もないことを喋りながらバトル中かってくらい真剣な顔でレコードに埋もれてる彼を見るのは新鮮で楽しかった。夢中になってしまって……と後で申し訳なさそうに縮こまっていたのを覚えている。その姿がもの珍しくて愛らしかったのでオレとしては全然オッケーだったんだけど。
今流れてきている曲は明るい女性ボーカルの軽快なサウンドだった。恋の喜びを素直に表現した歌詞が跳ねるようなビートに乗っている。ネズがリズムをちいさく刻んでいるのでオレもだんだんうずうずしてきた。あ、踊りたい。そう思った瞬間、ソファからすっくと立ち上がっていた。
「な、踊ろうぜ」
そう言いながらオレは履いていた靴を脱いでぽいぽいと適当に放り投げた。靴下も同様に。酔いで火照った足の裏に感じる床の冷たさが心地よい。弾ける音に合わせて思うがままに身体を動かす。ネズはちょっとの間ぽかんとオレを眺めていたが、そのうちゆらりと立ち上がった。思わず口角が上がる。
ネズは勿体ぶって順番に片足立ちで靴紐をゆっくりほどいていく。足の先を駆使して雑に靴を脱いで、靴下はその中に突っ込んだ。はあ、と溜め息をついた次の瞬間にこっちを見据えてきたネズはなんだか妙に挑戦的で楽しげな顔をしていた。そう来なくっちゃ!
ネズの白い爪先が床をつう、と滑る。体が近付く。リズムに合わせて肩や腰がくねる。指を鳴らす。頭をゆらゆらと揺らす。グルーヴに感じ入るみたいに喉が反る。かと思えばくるりとなめらかにターン。長い髪がふわりと広がって、夢みたいだ。人差し指でくいくい、と手招きされてかぶりつきそうになる。
「踊れるじゃねえか!」
「なめんじゃねー、ですよ」
声を立てて笑えばネズもつられて笑った。完全に酔っ払いの悪乗りだけど構うもんか。楽しくてたまらない。アップテンポな曲が数曲続く間、オレたちはハイになったみたいに踊り狂った。ダンスのルールなんて知らないとばかりに、めちゃくちゃに腕を動かして足を踏み鳴らした。
そのうちラインナップはだんだんスローなナンバーばかりになっていって、甘美な男性ボーカルのラブソングが流れ出した。聴いてるだけで多幸感が溢れてくるみたいな、でも切なさで胸が締め付けられるみたいな、そんな曲。幾重にもかさなるコーラスと、時折聞こえてくる鈴の音。
そしてオレたちは音楽に飲み込まれたみたいに緩慢に距離を詰めた。さっきまで馬鹿みたいに笑いころげてたのに、急に映画の中みたいにロマンチックな気分があとからあとから湧いてくる。音楽の力って偉大だ。ネズの腕がオレの首の後ろに回り、オレの腕がネズの腰に回る。ゆったりとしたリズムに身を委ねてオレたちはしばし、たゆたうように揺れた。
鐘の音が聴こえるんだ、とボーカルは繰り返し歌った。君の唇が僕のそれに触れる時、鐘の音が聴こえる、君にもこの音が聴こえるだろうか。君がいなくなったら二度と鐘の音は聴こえないだろう。そう歌っていた。
甘いコーラスのリフレインの中、オレはネズを「見つけた」時のことを思い出した。あれがオレにとっての「鐘の音」だったのかもしれない、と気付く。雷に打たれたような衝撃、身を焦がす後悔、長い時間をかけて少しずつほどけてゆく愛しさ、かつてこの男に感じたすべてが今鐘の音のように体の中に鳴り響いている。
ネズの頭が肩口にそっともたれかかった。きれいな形をした後頭部を抱けば、すん、と鼻を鳴らした。オマエにも、オレの耳の中の鐘の音は聴こえるだろうか。聴こえているからこうして一緒に踊ってくれるんだと、自惚れてもいいだろうか。裸足の爪先が触れる。窓から射し込んだ夕陽がふたりを照らす。アイスグリーンの瞳にオレンジが反射して、きらりと光る。それに見とれていたら、ネズが背伸びしてオレに顔を寄せた。
「なんで泣きそうな顔してるんですかね」
疑問形で呟きながらも、答えはわかっているという顔つきで彼は微笑んだ。そうだ、答えはわかってる。涙が出るのはかなしいときだけじゃない。溢れ出した感情が抑えきれないときに瞳は濡れるのだ。きれいだ、いとしい、そばにいてほしい。オレの目の縁をネズがぺろりと舐めた。そのままオレの唇にくちづけが降ってくる。わずかにしょっぱくて、だから甘い。細い指がオレの輪郭をなぞる。
「おれにも、聞こえとったよ、ベル……おまえが必死に鳴らすから」
くちづけの合間にネズがささやいた。
「あんまりうるさいけん、もうないと物足りん」
「ほんと?」
かっこよく決めたかったけど語尾は震えた。だっていちばんほしい言葉だったからだ。いつも出し渋るくせに、ここぞという時にはちゃんと言ってくれるんだから、たまらない。
「もうさ、頼まれたって離してやれないよ、オレ。たぶんオマエが逃げても追っかけてくよ。ずっと鳴らしっぱなしだよ、ベル。いいの?」
「鳴らしてて……おれ、おまえのせいで、さみしいって気持ち覚えたから……離さんで」
ネズの腕がオレの体を抱いて揺れる。リフレインはあまやかに尾を引いて続く。さみしがりのオレたちふたりを夕陽が赤く包む。もうちょっとこのままで、とささやけば熱にうかされたみたいにネズも頷いた。頭のなかで鳴り響く鐘の音、彼の耳からもこのまま離れないといい。
This is for you
カチリ、と時計の針が十八時ちょうどを指した。とたんに部屋の空気が一斉にざわざわとした、それでいて柔らかいものに変わる。オフシーズンの現在、特に立て込んだ仕事もないナックルシティジム。どうやら今日は皆、悠々と定時退勤にこぎつけることができそうだった。
ただオフシーズンとはいえ、ジムがひたすらに暇かといえばそうではない。特にナックルは宝物庫などの重要文化財を擁していることに加えワイルドエリアにも近しいことから、他のジムと比べても一日の作業量は多い。よって処理すべきタスクはどこまでも積み上がる。危急のものがないというだけで、やらねばならぬことは山ほどあるのだ。一日中デスクワークに没頭していたキバナも、机に向かって縮こめていた身体をぐん、と伸ばした。標準体型を優に超えてもはや巨躯とも言える彼にとって、備え付けの机と椅子はどうにも小さい。あー肩痛い、と独りごちるキバナをリョウタが苦笑とともに見守っている。
「だから買い換えればよろしいと何度もご進言していますのに」
「いやあ、それより他に予算回したいなあつって、いつも後回しにしてたんだよな」
「快適な作業環境は仕事の効率化にとっては重要ですよ」
カタログ取り寄せましょうかねえ、と思案するリョウタに、まあそれは明日にして帰ろうぜ、と笑ってラップトップを丁寧に閉じた。他のトレーナーにも声をかける。皆がいそいそと帰り支度をする中、キバナはスマートフォンをすいすいと操作した。立ち上げたのはカレンダーのアプリケーション。便利だから、と無理に頼み込んで恋人にお互いのスケジュールの共有方法を教えたそれをチェックする。最初こそ「監視かよ」などと嫌がってはいたが結局は律儀に入力してくれているのだ。……うん、やっぱりアイツ、今日の夜はフリーだ。よし。思わずほころんでしまう顔をあわてて引き締めて、キバナは荷物を手早くまとめた。リョウタがやれやれ、といった微笑みでこちらを見ているのには気付かないふりをする。
更衣室で仕事着であるユニフォームからラフな私服にそそくさと着替え、あらゆる場所の電源を軽快にオフにしまくって、それぞれ家路につくトレーナーたちを見送った。お先に失礼します、と一礼して帰っていく彼らにひらひらと大きな手を振ったキバナは、慣れた手つきで宝物庫にセキュリティロックをかけた。片手間に『お仕事がんばった健気なオレさまにご褒美チョーダイ』とテキストを打ち込んで、送信。
しばらくの後、件の恋人……ネズから送られてきたのはメッセージではなくマップの位置情報だった。どうやらここに来いということらしい。位置情報はスパイクタウンの街中、すこし入り組んだ路地を示している。おそらく行ったことのない場所だった。『すぐ行く、ASAP』とふたたびテキストを送れば、『待ってる』と簡潔なメッセージが返ってきた。そんなことを言われたら急ぐしかない。キバナは足早にタクシー乗り場に向かった。
すでにとっぷりと暮れたナックルシティの街並、石畳には街灯のあたたかなオレンジ色が照り映えて美しい。運良く乗り場に待機していたタクシーの運転手にスパイクタウンシャッター前で頼みます、と手短に伝え、ゴンドラに乗り込んだ。運転手の掛け声に合わせてアーマーガアが一声高く鳴けば、みるみるうちに地面が遠くなっていく。
スパイクタウンまではタクシーでなら一時間足らず、早ければ三十分とすこしなのだが、いつもこの道のりはそれ以上に長く感じる。眼下に広がる暗く蠢くワイルドエリア、遠くまたたくバウタウンの灯台の燈火を眺めながら、吹き込む冷たい夜風にキバナはひとりぶるりと震えた。ほとんど隣街ともいえるスパイクタウンでもこうも遠く感じるのだ、ネズがもっと遠い街に住んでいなくてよかった、しみじみとそう思う。ルートナイントンネルの上を通り過ぎれば、いよいよ見えるのはもはや見慣れた古びたシャッターだ。昔は寂れたその様子に言い知れぬ不安を覚えていたものだが、今やそこにはやく駆け込みたくて仕方なくなっているのだから不思議だ。ゴンドラはほとんど音も立てずにシャッター前に着地した。扱いのうまい運転手に代金を支払いながら礼を告げる。また頼みますよ、と飛び立ちながらかけられた声に軽く手を振って、キバナはシャッターをくぐった。
スマホとにらめっこしながら道を辿る。金曜の夜のスパイクタウンはいつもよりすこし賑やかだ。パブから聞こえてくるがやがやとした話し声、地下のライブハウスから聞こえてくる途切れ途切れの演奏。まだまだシャッターは目立つものの、往時と比べれば新しく営業を始める店も増えてきたように思う。キバナにはそれが我がことのようにうれしい。アイツはきっと妹のおかげだと言って譲らないだろうし、もちろんそれも一端にはあるのだろうが、彼が必死に守ってきたものがようやく芽吹いたのだと、キバナにはそう思えてならないのだ。そうこう考えながらも足を進めるうちに、ロトムが目的地付近に到着したことを知らせてくれる。ここロト!という能天気な明るい声に、キバナはついと視線を上げた。
そこはどうやら小さいながらもオーセンティックなパブだった。ネオンに彩られた若者向けの酒場とはすこし趣を異にしたそこは、だがしかし周りの景色にも馴染んでどっしりと構えていた。深い緑色に塗られた木枠に、いくつものプランターに植えられた花々が飾られている。ずしりと重い扉を開くと、カランカランと快いベルの音がキバナを迎えた。
店内の人影はそう多くはなかったが、そこには親密な空気が流れていた。客の年代もばらばらで、それはつまりここが長く愛されてきた店であるという証だった。よく磨きこまれた床板やカウンター、所狭しと並べられた酒瓶。薄暗い店内を照らす柔らかなオレンジの光。ネズを探してきょろきょろと辺りを見回していると、カウンターの向こうでのんびりと新聞を読んでいた主人が、それに気付いて声をかけてきた。主人の膝の上でまどろんでいたチョロネコがぴくりと反応して床に降りる。銀縁の老眼鏡が照明を反射してきらりと光った。
「ああ、はいはい、来たね」
「あ、どうも」
「先に注文してくかい」
お言葉に甘えて酒を頼むことにする。ビターエールを半パイント。手際よくグラスに赤みがかった酒が注がれてゆく。磨きあげられた銀色のサーバーが、老年に差し掛かった主人のしわだらけの手のなかで誇らしげにつやめいた。グラスを渡しざまに、小さくウインクを一つ送ってくる。きっとネズから話が通っているのだろう。奥のね、テーブル席、そこがネズさんの特等席だからね、と主人が促すのに従って店内を奥へと進む。
パーテーションで区切られたテーブル席、いかにも特別仕様のそこで、ネズはグラスを傾けて待っていた。ネズ、と名前を呼べば、ゆるりとその顔を上げた。ゆったりとした黒のニットに、ダークグレーのダメージデニム。座席にはレザー調のジャケットが無造作にぶつけられている。机の上には開かれたままのノートとペンが広げられていた。キバナを待つ間の手慰みに作詞でもしていたのかもしれない。
「ごめん、待たせた」
「いえ……仕事、お疲れさまです」
グラスをテーブルに置くと、ネズはさっさとノートを仕舞った。かなり使い古された代物で、とにかくなんでも思いついた言葉はそこに書き留めるのだという。適当に書いたつもりでもあとで見返してみると別のものが見えてきたりもするんですよ、まあ全然使えやしないのもありますけど、と言っていたのを覚えている。このパブの中で自分を待ちながら、彼が何を書いていたのか……気になるところではあるが、まあそれは世に出るまでのお楽しみにしておこう。
キバナが席についてすぐのタイミングで、主人が料理をサーヴしにやってきた。これもおそらくネズの計らいなのだろう、気の回る男である。主人に礼を言いつつネズがふわりと微笑む。運ばれてきたのは素朴なシェパーズ・パイだった。ほかほかと湯気が立ち、焼けたチーズの香ばしいかおりが鼻をくすぐる。うまそう、とぽろりとキバナがこぼすと、主人は破顔した。
「うちの名物ですよ。つまりね、うちは料理はこれしか出してないんです」
これっきゃ作れないからね、あとはクリスプ置いてるだけ、と主人は肩をすくめた。おどけた話し方だが、そこには誇りのようなものも感じられるようだった。
「グレイビーがうまいんです、いくら家で試しても再現できない」
「インスタント使う店もあるけど、うちはあんなもん使わないよ。あ、レシピは秘伝だからね、ネズさんにもこればっかりは教えられん」
来てくれなくなっちゃ困るからさ、と彼は笑いながらカウンターの方へと戻っていった。冷めないうちにどうぞ、とネズが促す。乾杯してから一口すくえば、なるほど確かにそれは看板料理にふさわしかった。丁寧にマッシュされたポテトはバターの香り高く、挽き肉からはじゅわりと豊かな肉汁が滲み出てくる。わけてもネズの言及していたグレイビーソースは格別だった。何種類かブレンドされているのだろうハーブの風味が複雑に重なりあって、肉の旨味に溶け込んでいる。うまいうまいとぱくつけば、ネズは自分が褒められたかのように喜色をじわりと滲ませた。
「この店、できてから長いの?」
「物心ついたときからすでに老舗でしたね」
「うん、そんな感じ……いいな、ここ、落ち着く」
そりゃよかった、とネズはエールを啜った。キバナもグラスの中の液体をぐびりと呷る。まろやかな苦みが舌をくすぐる。穏やかな時間が流れていた。言葉少なであっても、ネズがリラックスしているのが伝わってくる。そしてそれはキバナの心をも柔らかく包む。会いに来てよかったな、としみじみそう感じた。
つい、と唐突にネズが店の片隅を指した。白い指の向こうを覗けば、そこには一段高くなったスペースに、小ぶりな古ぼけたアップライトピアノが一台。ささやかなステージがそこにあった。グラスの向こう側でネズが濡れた唇を舐めて、小さく呟きを漏らした。
「ここ……おれが初めて人前でうたった場所なんです」
「そうなの?」
思わず目を瞠る。ネズが自ら過去の話をするのは珍しい。触れられたくないのかと根掘り葉掘り聞くのは躊躇われて、キバナは話題に出さぬようにひそかに決めていたくらいなのに。
「六歳くらいかな……ここは父の馴染みの店だったんですよね。今じゃあんまりやってないけど、当時は店付きのミュージシャンも毎日いてさ」
過ぎ去った時をなぞるように、グラスの縁を指先が滑る。黒くつややかに塗られた爪の表面に、オレンジの光が映った。ネズの昔話に、キバナは耳を傾ける。
「演奏に聞き入って、いつの間にかおれはいっしょに歌ってた。そしたら、チビが一丁前に歌ってんのがおもしろかったんだろうね、ミュージシャンのひとりがおれを手招きしたんです。あれよあれよとステージに引き上げられて……」
「ロックスターの出来上がりってわけだ」
「そんとき歌ったのはガキでも知ってるフォークソングでしたけどね」
瞼を伏せてネズはくつくつと笑う。懐かしむような笑みだった。そこにさみしさはなく、ただただ暖かな思い出を宝箱から取り出して愛おしむような。
「いい声だって、みんなおれをもみくちゃにするくらい撫で回してくれたんだよね。とうさんも……」
そこで一旦ネズは言葉を切った。意図せず飛び出したのであろう「とうさん」という呼称の響きがあまりにいとけなくて、それはキバナの胸をきゅう、と締めつけた。ネズが親の話をキバナにしたことは今までない。キバナが知るのは、ネズとマリィの住む家にひっそりと飾られている家族の古びた写真、ただそれだけだ。
「……それがあってから、父がおやじさんに頼み込んで開店までの間にピアノの練習をさせてもらえるようになったんですよね。息子が褒められて舞い上がってたのかもね、でも当時はピアノを買う金も場所もなくて。しょっちゅうここで、ふたりでレッスンしたもんです……あんな小さなピアノで連弾なんかやってね。鍵盤が足りなくて、父は足りない部分を歌って誤魔化してた」
常になく饒舌にネズは語った。記憶の網を引きずり出すなかで止まらなくなったのかもしれない。キバナは想像する、ちいさなネズとその父親の背中を。薄暗い店内、酒場の椅子を引っ張り出して、小さいピアノに身を寄せ合って鍵盤を叩くふたりの姿を。鈴が転がるような少年の笑い声を。それは、幸せな記憶だった。
「恩のある店なんですよ。苦しい時期もあったろうに、ずっとここでしぶとく続けてくれた」
「うん……来れてよかったよ」
「そう言ってくれるなら」
グラスの水滴をなぞる指にそっと触れれば、ネズは小さく息を漏らした。キバナはたまらない気持ちになる。大切な場所、ふだんは胸の奥にそっと仕舞いこんでいる思い出、それを見せてくれたこと。見せてやってもいいと、そう思ってくれたこと。そのすべてが、キバナの胸のなかにちいさなあかりを灯す。
「こうやってここでおまえと酒を飲むようになるなんて、不思議だよね。何があるかわからないもんだ……」
そう言ったネズは、ふと思いついたように目線を上げ、カウンターの向こうの主人に手を振った。グラスが空いているから、追加の注文だろうか。主人がのんびりと歩いてくる。チョロネコもその脚にまとわりつきながらついてきた。にゃあん、と呑気にひと鳴きしている。
「はいはい、何かね」
「あのピアノ、まだ弾けますかね」
「えっ!」
驚きの声を発したのは店主ではなくキバナだった。店主は「待ってました」とでも言いたげにネズに笑いかける。
「もちろん。ちゃあんと調律してありますよ、いつでもネズ坊やが弾けるようにね」
「それはよかった」
「えっ、嘘、ネズ」
驚き半分期待半分であたふたするキバナに、ネズは唇の片端を吊り上げて微笑みかけた。
「ご褒美、ほしいって言ったのおまえでしょう」
ささやかながら歌のプレゼントです、そう言って白と黒の髪を揺らしてネズはステージへと向かっていった。それに気付いて、客の空気が変わる。誰かが指笛を高く鳴らし、皆が手を叩いて迎えた。主人の横で、チョロネコもうれしそうに喉を鳴らしている。軽く手を振ってネズはそれらに応える。キバナはといえば、喜びのあまりもはや呆然としていた。そりゃ確かに言ったけど、ご褒美チョーダイって。でもこんなのあまりに過ぎた報酬だ。
アップライトピアノのカバーを恭しく開けて、キーカバーを外して丁寧に畳む。椅子に座ってから、ネズは客席をぐるりと見渡した。張り上げなくともよく通る声で、ひとびとに語りかける。
「こんばんは、いい夜だね。週末をここで過ごすことを選んでくれたきみたちに、おれからちょっとした贈りものです」
そして最後に目線をキバナに向けた。アクアグリーンの瞳が強くきらめく。おまえに、と言ってくれているような気がした。
白い手が、白黒の鍵盤の上にそうっと乗せられる。静かにネズが弾き始めたのは、彼のいちばんのヒット曲のアレンジバージョンだった。
ネズの歌は、激しく荒々しい曲調で普遍的なさみしさや人の弱さ、そしてその先にある逆説的な強さをうたうもので、その美しい隔たりが聴く者の心を掴む。しかしそれがピアノの繊細で優しい音色で演奏されると、また違う色合いでことばが響きはじめるようだった。秘められていた切なさが顔を出すような。
原曲よりもスローなテンポで、ネズは一音一音を丁寧に縫い留めるように弾き、歌った。鍵盤上を指が自在に滑る。ペダルをブーツの爪先が踏んで、波紋を描くように音が広がる。細い身体のどこから湧いてくるのだろう、といつも不思議になるほどののびやかな声が、今はただ甘くやわらかにこの場を回遊する。そっと差し出される、愛してるのエール。なんと贅沢な時間なのだろう。二十人にも満たない酒場の客は皆、望外の幸運に酔いしれているようだった。その幸運が自分のちょっとした一言によってもたらされたものだということを自慢して回りたいような、そんな子どもっぽい感傷にキバナはとらわれそうになる。
一曲を歌い終えると、ネズは「ありがとう」とあっさりした礼を告げて、ひらひらと手を振って座席へと戻った。客も心得たもので、拍手や賛辞は存分に贈るがアンコールの催促はしない。帰ってくるタイミングに合わせておかわりを注いでいた主人からグラスを受け取って、ネズはへらりと口元を綻ばせた。主人が去っていってからようやく、すこし照れたようにキバナをちらりと窺う。
「お気に召しましたかね」
「こんなに幸せでいいのか……」
問いかけに応えたキバナの声は、自分でも驚くほど蕩けきっていた。ピアノと歌声の余韻が体の中でまだ響いているような感覚に、キバナはへろへろとテーブルに突っ伏する。熱くなった右頬をぬるい板面に押しつけていると、ふと左頬に触れる感触があった。そろりと伸ばされたそれは、ネズのてのひらだった。
「……ずっともらってばっかりだったからね」
その声はまろくキバナの耳に響く。頬に添えられたネズのてのひらに自らの手を重ね合わせて、すん、と鼻を鳴らした。
別に、あげっぱなしだなんて思ったことはない。ネズを甘やかすことはキバナにとって喜びであり楽しみであり、そのひとつひとつに返ってくる彼の戸惑いがちな表情やすこしずつほどけてゆく強張りが、充分に「お返し」たりうるものだったのだから。だがネズはそれを気にしていたのかもしれない。気にしなくていいのに、と思いながらも、だがそれこそが彼らしさなのだという気もして、キバナはネズの指をそっとなぞった。
「ありがと……ほんとにうれしいよ」
うれしい、と繰り返す。視線を上げてネズを窺えば、その白面にはビターエールの赤みがかった琥珀色が映っていた。ゆらゆらとそれが揺れても、その向こうの彼の頬にはやはりほのかな赤色が広がっていて。大事にしたいな、いつかそう漏らしたことを思い出す。オマエもそう思ってくれたんだな。それだけで、オレ、ほんとによかったのに。こんなものもらっちゃって、溢れそうだよ、いろいろ。
酒場の夜がゆっくりと更けてゆく。触れ合った手と手の温もりは、酔いによるものだけではないと、もうふたりともが知っている。
ホーム・スウィート・ホーム
ぺちゃり、と間抜けな音を立ててローラーが回る。さっきまで良く言えばうすいクリーム色、有り体に言えば黄ばんでいた壁が、あたらしい色に塗り替えられていく。
まだ家具も何も運ばれていない家のなかはがらんとして広いけど、でもさみしい感じはない。なんでかって、今ここには三人の人間と、それぞれの手持ちである何匹かのポケモンたちが忙しく動き回ってるから。あたしと、アニキ。それから、アニキの恋人。キバナさん。三人してせっせと、あたしの自宅になる予定の部屋の壁を塗っているのだ。
あたしがアニキのあとを継いでジムリーダーになってから、数年が経った。もうあたしも成人したことだし、とかねてから考えていた一人暮らしについてアニキに打診したのはほんの一週間前のことだ。
「ネズさん、『心配です!』とかいって止めないかなあ」
独り立ちの計画を事前に漏らした相手、チャンピオンであるユウリはあんまり似てない物真似を挟みながらのんびりとそう言った。数年前のあの事件のときの印象がやたらに残ってるらしい。チッチッチッ、とあたしは小さく舌を鳴らす。
「ユウリ、まだうちのアニキのこと掴みきれとらんね」
「ええっ、そう? でもネズさん、マリィのことだいすきでしょ。心配するんじゃないかなあ」
「アニキがあたしのことだいすきなんは正解やけど」
正解なんだ、とユウリは笑った。そう、アニキはあたしのことがだいすき。だから、あたしがよくよく考えて決めたことであるとわかれば、反対することは絶対にない。そういう自信がある。それに、心配することがあったとしても、それをあたし本人にくどくど伝えてくるようなことはないのだ。もしかしたらあたしのいないところで思い悩んでるのかもしれないけど。でもまあ、それはアニキの勝手だよね。
「そういうもんかあ」
「そういうもんよ」
じゃあ引越し決まったらお祝いしようね、とチャンピオンは朗らかに声を弾ませた。
そしてあたしの予想通り、アニキはほとんど二つ返事でそれを受け入れた。あんまり顔色も変えなかった。
「驚かんね」
「ええ、まあ、最近読む雑誌の傾向が変わったなと思っていたので」
インテリア特集とか家電のカタログとか、いっぱい見てたでしょう、と図星を指される。ネタバレ癖はアニキ譲りみたいだ。
「確かにこの家も手狭になってきたよね、マリィの手持ちも充実してきて……おれももうちょっと宅録環境整えたかったし、頃合だと思うよ」
「アニキもこの家、出る?」
「それはもうちょっと考えるけど……でもそろそろ老朽化が心配だよね」
アニキの言葉に二人揃って家のなかをしみじみと見渡した。あたしが生まれるずっとずっと前から、うちの家族が暮らしてきた家。思い出がいっぱい、その分傷もいっぱい。
ジグザグマたちの爪でフローリングはでこぼこだし、壁の下の方にはあたしが物心つかないときに油性ペンでめちゃくちゃに繰り広げた落書きだらけ。そういうのだけならまだかわいいもんだけど、溜め込んだ荷物で天井はたわんでるし、最近水道管とかそのあたりもちょっと調子が微妙なんだよね。最近はアニキも音楽活動で飛び回ることが増えて、あたしもジムリーダー業が軌道に乗って久しく、ちょっとばかり留守になることが増えたこの家。高いお金をそのへんのこまごました、でも莫大なメンテナンスに費やすより、いっそ思い切りよく引っ越しちゃうか建て替えちゃうかしたほうがいいのかもってアニキは思ってるみたいだった。
まあ、アニキがこの家をどうするかはともかく、あたしがこの家を出て一人で暮らすことについては同意を得ることができたわけだ。
「では、そうと決まれば」
不動産屋に行ってみましょうかね、とあっけらかんとした声を発して、アニキは腰を上げた。余韻とかそういうのはない。こうと決めたときのアニキの行動の速さはなかなかのものなのだ。
「物件の条件はしっかりリストアップしてあるんでしょう? 今日は幸いお互い一日フリーだし、なんならそのまま内覧にでも行っちまいましょう」
そう言うとそのまますたすたと玄関の方へと向かっていくので、あたしは慌てて追いかけなければいけなかった。
そのあとはほんとに拍子抜けするくらいするすると話が進んで、実際その日中にあたしは物件を決めてしまった。スパイクから出るつもりはまったくなかったし、その中でトレーナー向けの物件であればそこまで数も多くないから。
掘り出し物だよ、と老舗不動産屋のおばちゃんが胸を張ったそこは、えらく造りのいい広々とした2LDKだった。しばらく人が住んでなかったから内装はかなり古びてるけど、基礎はしっかりしてる。ひとりで暮らすには広すぎる気もしたけど、オーロンゲたちを自由にしてあげるには丁度いいかもしれない。現実のものになってきた一人暮らしにぽうっとしているあたしをよそに、アニキはのそのそと動き回っていろんなところをチェックしていた。おっきな垂れ目がゆっくりと部屋中を眺めまわす。しばらく経ってから、アニキは満足気に微笑んだ。
「いいんじゃないですか。壁を塗り替えりゃ、いっぱしの豪邸になりそうですよ」
それをゴーサインと受け取ったあたしは、そのまま不動産屋にとんぼ返りして即時契約を結んだ。大体のスケジュールを決めて、何枚かの書類にさらさらと二人分のサインが入って、おしまい。他にも必要な手続きはまだあるみたいだったけど、別に逃げやしないから今度いろいろ揃えてからゆっくりでいいよって、おばちゃんは笑ってあたしたちを送り出した。アニキと家を出てから、なんと二時間も経っていなかった。ものすごくあっさりしていた。
「あっけなか」
帰宅後、リビングでソファーに座り込んでぽつりと呟いたあたしを、隣のアニキは愉快そうに見つめた。言い出しっぺのくせに、とでも言いたそうな顔だった。
「そうですね、物事が動き出すときっつーのは、大体あっけないくらいするすると動き出すもんです」
「そういうもん?」
「そういうもん」
重々しく頷くので、思わず笑った。こういうときのアニキって妙に芝居がかってる。
とりあえず必要な家具やら家電やらは追々見繕うとして、問題は内装だった。伝手を辿って内装屋に入ってもらってもいいけど、実は狙ってる家具がいろいろあったもんだから、そうなると予算オーバー。アニキと話し合って、壁は自分たちでペンキを買って塗ろうということになった。そしたらアニキは、ちょっと考えたあとになんでもないような感じでこう言った。
「うん、人間脚立を呼びましょう」
「へ?」
そう言うやいなや、ポケットからスマホを取り出して、すいすいと指を滑らせる。するとすぐ、ほんとにすぐに、ぶるる、と微かにスマホが震えた。多分一分も間が開いてなかった。即レスだ。にや、とアニキの唇が吊り上がる。
「今度の日曜、空いてるそうです、人間脚立」
誰のことを指しているかなんてことはすぐわかったけど、しばらくあたしはそのあまりの言い草に笑い転げる羽目になったのだった。
「ええ? オレさまのことそんなふうに言ってたのぉ?」
日曜の昼前、予告してた時間きっかりに現れたキバナさんは、あたしがこっそりと告げ口したアニキの言い草を聞いてへにゃりと笑った。セリフとは裏腹に、全然不愉快そうではない。むしろなんかうれしそうだし。惚れた弱みってやつなんだろうか。
ほーんとネズはさー、とかなんとか言いながら、キバナさんはがさごそと持ってきた荷物を探った。はい、と手渡されたのはかわいいラッピングの焼き菓子のアソートだ。ガラルの誰もが知ってる有名店ってわけじゃないけど、地元密着系の、ナックル市民はだいすきな菓子店のやつ。
「わあ、ありがとう」
「まだ冷蔵庫ないだろ? ちょっと作業に疲れてつまむのにちょうどいいかなって思って」
「うれしか……」
ほんとに気遣いのできるひとだ。最初は正直に言っちゃえばそれが逆に胡散臭くも見えたもんだけど、今やそれに裏表がないことを知っている。先輩にこういうこと言うのはちょっと失礼なのかもしれないけど、何事にも一生懸命なひとなのである。なんでうちのアニキはこんないい男を捕まえられたんだろうか。どんなずるい手を使ったんだろう。わいわい言ってると、奥からアニキがひょっこりと顔を出す。
「来ましたか」
「来ましたよ、ネズの愛しの脚立が」
はいはい、とか言いながらアニキとキバナさんはひょいと軽くキスを交わす。あたしが成人したあたりから、アニキはこういうのを隠さなくなった。まあその前からバレバレだったんだけど、その辺はアニキの名誉を尊重して何も言わないことにしてる。明らかにさっきまでイチャイチャしてましたって感じの雰囲気を漂わせながら顔を真っ赤にして変な咳払いをするアニキを見るの、嫌いじゃなかったんだけどな。ちなみにあたしの「嫌いじゃない」とはつまり、「だいすき」ってことである。
アニキに導かれて奥に入っていったキバナさんは、おお、と楽しそうに歓声を上げた。
「結構広いじゃん。いいとこ見つけたね」
キバナさんがいるとその広い部屋もなんだか小さく見えるけれど。なんせおっきいしスタイルも抜群だから、身の回りのもの全ての縮尺が狂って見えるんだよね。ほら、ちょっと手を伸ばせばすぐに天井に届きそう。ほんとに人間脚立だ。笑いがぶり返してきたので、あたしはにやにやするのをなんとか堪える。
「ペンキはもうあんの?」
「ばっちりですよ。買い込んできました。でもその前に目張りをしないと」
「一日で終わるんやろか」
「ま、やれるだけやろうぜ」
アニキとキバナさんが二人がかりでブルーシートを床にぶわっと広げた。その上に乗っかって、あたしはせっせと色んなところにマスキングテープで目張りする。
毛にペンキがついちゃうと大変だから、手持ちの子たちのなかでもふさふさの奴らは今日は留守番。あたしのドクロッグとアニキのカラマネロ、キバナさんのジュラルドンが今日はお手伝い担当だ。ついてきたがるモルペコを説得するのには苦労した。渋々といった感じで引き下がってくれたけど、焼き菓子も持って帰ってあげないとな。
さて、買ってきたペンキは三色。あたしとアニキの瞳の色みたいなペールブルー、これはキッチンに。リビングダイニングにはちょっと落ち着いたグレー。そしてあたしの自室にするつもりの部屋には、ピンク。濃いのと薄いので最後まで迷って、薄いのにした。
作業は和やかに進んだ。まずはいちばん広いリビングから。高いところをキバナさんに任せて、あたしとアニキは真ん中より下をひたすらに塗る。キバナさんは案外こういう作業が好きみたいで、鼻歌なんかうたっちゃってちょっとかわいかった。アニキは割とこういうとき大雑把なので、大胆にペンキをざかざかと塗っていた。
「あっちょっと、そこ筋になってね?」
「あとで整えるからいいんです」
そんなことを言いながらも、どんどんと壁は新しい色に染まっていく。
キバナさんが来たのは昼前だったけど、気付けばもう午後のうららかな陽気が換気のために開けっ放しの大きな窓から燦々と差し込んでいる。まだカーテンもつけてないから、あったかいを通り越してちょっと暑いくらい。今アニキと住んでいる、もうすぐ「前の家」になるあそこはあんまり陽当たりがよくないから、新鮮だ。アニキはそれを気に入ってるふしがあるけど。曇りの日がいちばん調子がいいっていう奇特な人間なのだ。
「あっついですね、ちょっと休憩しましょう」
ということで、案の定アニキがいちばん最初に音を上げた。リビングの進捗は七割って感じだ。「マリィ、ちゃんと遮光するカーテンを買わなきゃいけないよこれは」とかぶつくさ言っている。
一旦休止ということになったので、敷いたままのビニールシートにぺたんと座って、家からでっかい水筒に入れて持ってきたアイスティーを三人で分け合って飲んだ。せっせと働いてちょっと汗ばんだ体に染み渡る。アニキとキバナさんも同じ心地だったようで、ふーー、と三人して同時に溜め息をついたのが、なんだかおかしかった。
お土産の焼き菓子をぱくつきながら、他愛ない話はころころと転がり、キバナさんの一人暮らし歴のことに及んだ。
「今のマリィと同じくらいの歳かな? ちょうど成人したときからだから」
そう言ってキバナさんは視線を上の方に泳がせた。「大学にも進学して、ちょうどいいタイミングだったかな。慣れるまで大変だったけど」
「実家遠かったですっけ」
「いや、そんなに遠くない。通えない距離じゃないんだけどさ、うちのとこはほら、夜中の呼び出しとかもそこそこあるから。やっぱナックル以外でってのはちょっと難しかったんだよな」
「呼び出し……」
「スパイクはそんなにないんじゃないの?」
「アニキのときもそんなになかったし、あたしがジム継いでからも……この数年で一回しかないです」
うんうん、とキバナさんは微笑みながら聞いてくれる。
「ない方がいいよ。オレ未だにドキドキするもん夜中に電話鳴ると」
「悪いニュースしかないですからね」
淡々とアニキが答える。その会話で、思い出したことがあった。夜中の呼び出しの話。
「そういえば十年くらい前に……アニキも呼び出されたことあったよね、夜中に」
「そうでしたっけ」
「うん。あたし駄々こねて、『なんでこんな夜中に行くの』って困らせた」
ああ、とアニキは顎を摩った。「そんなこともあったね……ワイルドエリアで子どもが行方不明になって、大捜索。見つかってよかったけど、朝までかかった」
「あっ、それ覚えてる。でもオレまだ未成年だからって連れてってもらえなかったな」
「おれはギリギリ成人してたからね。まだ八歳くらいだったかなマリィは。ついてこようとするから、撒くのに苦労したな」
「だってアニキ、説明してくんないんだもん」
「おまえと同じくらいの子が行方不明になっただなんて説明できますか。どっちにしろぎゃんぎゃん泣くだろうし」
アニキの言葉に、キバナさんは興味深そうに瞬きをした。
「たまにさ、ネズが昔の話してくれるけど、マリィってちっちゃい頃はそういう感じだったんだよな。オレは大人しいマリィしか知らないから、そういう話聞くと新鮮」
「いや、未だに怒ると同じぐらいのエネルギーありますよ」
ばしん、とアニキの肩を叩くとその手に持っていたアイスティーがこぼれた。ばちゃん、と割と盛大に床を濡らす。あーあー、とか言いながらアニキは拭くものを取りに立ち上がった。
めんどくさそうにのっそり歩いていくアニキの背中を見て、キバナさんはニコニコ笑った。そして、こころなしか小さな声で呟いた。
「やー、いいな、なんか……家族って感じ」
「そうかな?」
「うん、そうだよ」
キバナさんは、なんかちょっと、眩しい顔をしてた。なぜだかちょっとだけそれにカチンときた。アニキに聞こえないぐらいの小声で、でもちょっと強めの口調で囁く。自然、ムスッとした感じの声になる。
「ねえ、キバナさんも、もう家族みたいなもんだよ」
「えっ?」
「ここにアニキがキバナさんを呼んだん、そういうことだよ」
キバナさんの顔が、わかりにくいけど、微かに赤くなった。えーっと、とか珍しく口ごもってるけど、あたしは追撃の手を緩めない。
「こうやってあたしとアニキは別々に暮らすことんなったでしょ。アニキ、あの家どうしようか迷ってるよ。どうするのキバナさん」
「えっえっ、マリィさん、ちょっと、話の展開はやい」
「なんもはやかこつなか、むしろ遅すぎて焦れったかとばい! 何年目なんよ!」
床を叩くと、ぱしん、と良い音がした。ええっ、とかなんとか言いながらキバナさんは長い脚をもぞもぞ動かしている。そこにアニキが布巾代わりの古タオルを持って帰ってきた。あたしたちの様子に怪訝な顔をしている。
「……なんか楽しそうですね?」
「えっあっはい!楽しいよ!?」
「仲良しやもんね、あたしら」
ねーっ、とわざとらしく笑いかけてみれば、キバナさんはぶんぶんと首を縦に振った。数年前に練習した笑顔、だいぶサマになるようになってきたんだよね。そうですか、とかのんきな声を出してアニキは雑に床を拭く。そしてコップやら水筒やらをいそいそ片付けだした。
「そろそろ再開しますか。このまんまじゃあっという間に夜になっちまう」
「賛成。あ、夜あたしちょっと行くとこあるけん。ユウリがお祝いしてくれるん。もしかしたらそのまんま盛り上がったら泊まりになるかも」
「そうですか」
「だから、夜は二人でゆっくりすればよかよ」
そう言うとアニキはちょっとだけ目を見開いて、それからぎこちなくチョーカーのトップを弄った。ちょいちょい、と手招きすると、むっつりした顔つきのまま近寄ってくる。別にそうする必要もないけど、こっそりと耳打ちした。
「あのねえアニキ、ちょっとだけあたしからネタバレしといたから」
「ハァ?」
「そろそろ覚悟決めんしゃいってことばい」
「……マリィ……そういうことですかさっきのは……」
そういうこと!と言いながらローラーを二人にふたたび手渡す。アニキは眉間を揉みながら、キバナさんは露骨にそわそわしながらそれを受け取った。
「ほら、ちゃっちゃとやってまわんと!」
そう言って薄い背を押すと、少々よろけながらもアニキは苦笑した。そこにダメ押しの一言をこっそり囁く。
「物事が動き出すときは、あっけないくらいあっさり進むもん、なんでしょ? アニキも、いい加減進めなよ。マリィは進んだよ」
「……ほんとに、マリィのエールは効き目ばっちりだね。ちょっと手厳しいけど」
そう言って、へにゃりと笑った。あたしのいっとう好きな笑顔。エール、効いたみたいでよかったなって、そう思った。
そして一瞬で表情を変えると、くるりとキバナさんの方に振り返って、びしっと指を突きつけた。
「そういうわけで、今後のことについて話し合うから、覚悟しやがれ」
「マジで!?」
「ただし作業の進捗による」
やっべえ、と漏らしてキバナさんはすごい勢いでまだ塗り残しがある壁の方に飛んでいった。それを見てあたしたちはほんとに、お腹を抱えて盛大に笑ったのだった。それからアニキとキバナさんがどうなったかは、まあ、また次の機会にね。
もういいかい、もういいよ
暗がりのなかに見えるのは、白い、痩せた膝小僧だけだった。見慣れた膝小僧。成人してとうに片手では足りない年月が過ぎたのに、いまだ少年のように見える脚。ぼうっとそれを見つめて、見つめて、ようやくネズは今の状況がなにやら掴めないということに気付く。さっきまで自分が何をしていたのか、なぜここにいるのか、ここはどこなのか、何もわからなかった。わかるのは、ここが暗いこと、そして自分が膝を抱えて座り込んでいるということだけ。
はてここはどこだろうか、とネズはぼんやり考える。思考にはもやがかかったようで、危機感などは浮かんではこなかった。手を開いたり閉じたり、体の周りを探ったりしてみる。どこにもぶつからず、何にも触らない。立ち上がってうろうろと闇雲に辺りを歩き回る。どこまでいっても黒色だ。人よりも良い耳を澄ませてみても、届く音はない。全くの無音だった。声を出してみれば凡その距離もわかるかもしれない、と試してはみたが無駄だった。大きすぎる空間でひとり叫んだときのように、自分の声は意図したものよりも小さく聞こえる。まるで闇に吸い込まれていくようだ。どこかに当たって跳ね返ってくるような様子もない。そのうちネズはあれこれ動くのをやめて、ふたたび座り直し、膝を抱えた。諦めは悪いたちだが、思い切りはよいのだ。それが自分に良い結果を招いたことがあまりないのはわかっていたが。
視界はいつまで経っても暗いままだった。ふつう、だんだん目が慣れて、周りのものが見えてくるはずなのではないだろうか。それなのに、自分の体の輪郭のほかは、いつまでも闇の底に沈んでいた。どこまでも黒く、ねっとりとした闇。人の手の及ばぬ深い海の中のような、丹念に塗り込められた油絵の中のような。方向感覚も時間感覚も、すべてがここでは作用しないようだった。どこなんだろう、ここは。なぜだかとても落ち着くけれど。ネズは静かに瞼を閉じた。まあ、どうだっていいや、どうだって……。ここにいるとすべてが溶けていくようだ、自分が何者なのか、何をしてきたのか、自分の名前は……。
永遠にも思えるような時間のあと、突然、鼻の奥に懐かしい香りが飛び込んできた。ぱちりと瞼を開く。それと同時に、顔になにか布のようなものが触れる。手を動かして手繰り寄せてみれば、それは洋服だった。見覚えがあるような、ないような。女性ものだということはわかる。なぜそうしたくなったのかはわからないが、その洋服に顔を埋めて、息を吸い込んでみる。すると、遠い記憶を呼び覚ますような、フリージアの香りが鼻の奥をくすぐった。
思い出した。この香りは、母の香りだ。甘く繊細で、それでいて力強いフリージア。そして不意に理解した、ここは……衣装棚の中だ。
その瞬間、周りに広がる闇の質感が変わった。先程まで茫漠としてどこまでも広がるようだった空間が、手を伸ばすことすらも難しいほどに狭くなっていた。今や体のそこかしこに、たくさんの布がまとわりついている。
いつか遥か昔、まだ「兄」ではなかったあの日々、よく母と隠れんぼをして遊んだ。衣装棚は、そのときのお決まりの隠れ場所だった。母のにおいに満ちたそこは、狭い家のなかでどこよりも魅力的な場所だったから。
手狭な家には隠れ場所などそう多くはない。幼い日のネズはいつだってそこに隠れていたのに、母はいつも勿体ぶって最後までそこを探さなかった。カーテンの裏、バスタブの中、冷蔵庫の中、鏡台の引き出しに至るまで、家の中のあらゆるところを開けてから、最後にようやく衣装棚の扉を開けたものだった。ばたん、ばたんと音を立てながら母がだんだんと近付いてくるのを待つ時間は、そわそわとむずがゆく、それでいてなによりも甘美だった。
まあ、こんなところにいたなんて! いたずらっ子のネズ、なんて隠れんぼがうまいんでしょう! そう言っては一緒に引きずり出された洋服にまみれて、二人で転げ回って笑った。母の腕に甘えてすがりつけば、頭のてっぺんから足の先までまんべんなくキスの雨が降り注ぐ。そのくすぐったさにネズはけらけらと笑い声を立てて身を捩った。つよく誇り高く香るフリージア。まるで満開の花畑にいるみたいだった。腕の中にネズを閉じ込めて、母はうたうように囁いたものだった。「ちいさな隠れんぼの天才さん、かあさんの匂いがだいすきなのね? かあさんもネズをあいしてるわ、あいしてる……」人は声から忘れていくという。すこしばかり出来の良い耳を誇っているネズも、その例からは逃れようがなかった。母の声は、いまやもうノイズがかかったようにところどころ途切れて掴みどころがない。思い出そうとすればするほど、それはさまざまな全く違う人々の声を抽出して合成した紛い物のように思えるのだった。……それでも、その記憶が幸福なものであることに違いはない。それは、今でも。
かあさん、と掠れた声で呟く。すると、それにこたえるように、どこか遠くからかすかな泣き声が聞こえてきた。
「……マリィ?」
聞き違えるはずもない、その泣き声の主は妹だった。すうっ、と目の前に光の筋が現れる。おずおずとそれに手を伸ばす。音も立てずに、衣装棚の扉は細く開いた。
衣装棚の前には、泣きじゃくるちいさな妹と、それを屈んで抱きしめる少年の日のネズがいた。二人とも黒ずくめだ。ああそうか、これは両親の葬式の日だな、とほとんど無感動にそう思う。幼いふたりのための喪服など用意していなかったから、家中を探し回ってなんとか黒っぽい服を集めてきたものだった。よく見ればブレザーとズボンは揃いのものではなく生地の質感が全く違うし、マリィの着ているワンピースは黒というよりも暗いグレーに近い。すべてが間に合わせの、まるで幼い二人のためにしつらえたままごとのような葬式だった。
幼いマリィには両親の死など理解できず、かわるがわる訪れるたくさんの大人に怯えていた。かたくつめたい土の下に二人の棺が埋められて、神父がお仕着せのような祈りを説いて、ふたりでとぼとぼと家路を辿って。その長い長い一日のあいだずっと、マリィは両親を探してはただただ泣いていた。あまりに泣きすぎて、家がマリィの涙で沈むんじゃないかと思うほどに。つよく雨の降る日で、滴がアーケードを激しく叩く音が家のなかにまで響いていた。マリィの泣き声と、降りしきる雨音。
こんな時は関係のないことばかりが頭を過ぎるもので、少年の日の自分は昔読んだ創世の神話のことばかりを思い出していたものだった。愚かな人間を滅ぼすために、神が七日七晩降らせた雨のこと。ならばおれたちは滅ぼされる側の人間なのだろうか、と考えたことを今でも覚えている。神はひと握りの生きものだけを残して、他のすべてを洗い流してしまったという。たとえ生を受けたばかりのみどり子であろうと、すべて。四人で暮らすのには精一杯だったカウンシルエステートには世界中の生きもののつがいなどが入る余地はなさそうだ。ふたりの靴下には泥のはねた痕。いまやふたりでは広すぎるこの方舟に、両親の姿はない。すべては物語のなかのように奇妙に現実味がなく、未だ少年のネズは妹を宥めるための言葉を使い尽くして、ただ彼女のちいさな肩を抱きしめることしかできなかった。
「マリィ……」
少年のネズが疲れ果てた声で呟く。声変わり前のそれは、自分の記憶よりも数段頼りなかった。嗚咽混じりに妹が叫ぶ。
「おかあさんどこ? おとうさん、は? どこぉ、おかあさぁん……」
「マリィ、マリィ、おかあさんとおとうさん、は……」
苦い、苦い記憶だった。少年は言葉に詰まってわずかに震えている。ほんとうは泣きたかったのだと今ならわかる。でも泣けなかったのだ。泣いてしまえば立ちゆかなくなるとわかっていたから。両親がいっぺんにいなくなってしまって、頑是ない妹を守るために、ひとり物わかりのいい大人のふりをしなければならなかった。これから自分たちに降りかかる嵐のような日々を想像できないほどにはネズは幼くなかった。だが、すべてを軽々と背負えるほどには育っていなかった。
神話の中では、七日七晩の嵐ののちに、オリーブの葉の福音がもたらされた。だがあの時のネズには、オリーブの葉など見つけられる気がしなかった。どこに連れていかれるのかもわからぬまま、押し寄せる波濤のなかでぐったりと身を横たえるしかなかった……様々な思いが去来して、思わず詰めていた息を吐き出すと、急に目の前の風景がぐにゃりと歪んだ。たちまち少年の自分と幼い妹の姿が黒い渦となる。
「待って……!」
手を伸ばし、扉を押し開けてまろびでる。だがその先は、また闇だった。振り返ると衣装棚はきれいさっぱり消えてなくなっていた。もはやフリージアの香りすらもかき消え、だらしのない黒がどこまでも続く。どくんどくんと鳴る胸を抑えて息を整える。夢、なのだろうか。どうせならもう少しマシな夢を見せてくれよな、と苦々しく思う。両親のこと、母のことを思い出すのは久しぶりだった。特に隠れんぼのことなど……遠い遠い彼方に丁寧に、だが厳重に封をして置いてきたつもりだった。両親のことをほとんど覚えていない妹に申し訳ない気もしていたし、なにより思い出が甘美であればあるほど、縋ってしまいそうでおそろしかったからだ。
夢ならばはやく目覚めたい。いっそここで眠れば逆に夢から出られるのではないか、と益体もないことを考えて、強く目を瞑る。だが、いつまで経っても眠りは訪れそうになかった。かたく閉じた目を次に薄く開いたとき、ネズはまた闇がかたちを変えていることに気付いた 頭を上げると、コツリと固いものにぶつかる。木材のようだった。オークだろうか。目の前には革張りの立派な椅子の脚部が見える。どうやら今度は、どこかの机の下にいるらしい。
床に手をやれば、毛足の長い絨毯が触れた。なんとなく見覚えのあるその模様が記憶のなかで合致する前に、話し声が耳に飛び込んできた。
「お断り、します」
「……ふむ」
それはやはり今よりわずかに年若い自分の声と、そして落ち着いた壮年の男の声だった。びくり、と体が震える。かちりとピースがはまった。これは、そんな。ではここは、執務室だ。あの男が自分の名をつけた塔の。
ローズがゆったりとした足取りで部屋を歩くのが伝わってくる。本当はせっかちなくせに、こういう場面では余裕を持った振る舞いをする男だった。この場を掌握しているのは自分だ、そう見せつけるのが大層上手かった。
「移転は望まない、そう言うのですね?」
「……はい、そうです。これはスパイクタウンの皆の総意で……」
「なるほど、なるほど。しかしね、ネズくん。それは本当に、街のためになることなのでしょうかね?」
ヒュ、と喉が鳴る音がした。もちろん、年若い自分の喉だ。
「先、見えていますよね。正直なところね。もちろんスパイクタウンは歴史のある街ですよ、そこへの敬意は充分に持っています、誤解しないでね。でもね、ネズくん。時は移ろうものです。時流というものがありますよね?」
「……時流……」
「ええ、まさに時流です。ネズくん、わたくしはね、このガラルを発展させたいんです。そこにスパイクタウンを置き去りにするわけにはいかないんですよ」
男は朗々と語る。芝居がかった口調で、何度も何度も自分の名が呼ばれる。今思えば小手先の簡単なテクニックだが、当時の自分には効果は抜群だった。名を呼ばれるたびに、自分の名前の意味が分解されて消えていくような、そんな気がしたものだった。
「いつまでも『ダイマックスできないジム』として語られることが幸せなこととは……わたくしには思えないんだよね。ああ、何もスパイクタウンの住民全員で移れ、とは言っていませんよ、ジムだけ移せばよいのです」
そうでしょう、ネズくん。そう言ってローズはぽん、と手を叩いた。きっと明るい顔で笑っているのだろう。そんな記憶がある。ローズの余裕のある様子とは裏腹に、この時のネズは脚が震えるのを誤魔化すので精一杯だった。
ローズが言うことなど今更、ネズには自明の事実だった。生まれ育った街が衰え、さびれ、荒れ果てていくのを目の前で見てきたのだ。増えていくシャッター。切れたままのネオン。修繕できぬままの破れたアーケード。稼げぬ街に見切りをつけて出ていく人々も後を立たなかった。それでも、だからといって、ここを放り投げて当の自分が別の新天地に出ていくことなど考えられなかった。そんなことをすれば、この街はどうなる。ジムは最後の砦だ。金銭的にも、精神的にも。支えを失ったとき、この街がどうなっていくかなど、火を見るよりも明らかなことだった。
はなやかだった過去を知っているからこそ余計に苦しいのだ。父に肩車されながら散歩したアーケードの下。そこかしこでざわめく人々。ひっきりなしに訪れるチャレンジャーの熱気と昂奮。テンポよく交わされる商談。幼いネズには難しい内容を、父は生き生きと笑いながら捌いていた。がやがやと人いきれのする酒場のステージに引っ張り出されて歌うネズに、誰よりも大きく割れんばかりの拍手を贈ってくれた在りし日の父。「おれたちのスーパースター! ああ、おまえのうたごえは天からの贈りものだ、ネズ!」……そう言って高く高く抱きあげては、息が詰まりそうになるくらいきつくネズを抱きしめた。それを見て皆が笑い、やがて高らかに声を合わせてうたった。その歌声はどこまでも響いていくようだった、山を越え海を越えて……。幼いネズはほんとうにそう信じていた。どこまでも、いつまでも、歌声は響き続けるのだと。
うつくしい日々。騒がしくも賑やかで、こんな毎日が続いていくのだと信じ切っていた過去。ほんの二十年ちょっと前。一時はそうだったからと、いつか戻れるのではと、愚かにも期待を捨てきれない。
ややあって、机の向こうの自分がすこし上擦った声でぽつりぽつりと話し始めた。
「委員長がおっしゃりたいことは、わかります。でも、もう決めたんです。おれは……おれたちは、あの街でこのまま、やっていくって……ダイマックスができなくても、それでも……」
「……残念です。ではもう、わたくしがスパイクタウンに対してできることは、ありません」
話を遮ったローズの声は、先程までとうってかわり沈んで硬い。それは最後通牒に等しかった。あの街を、「彼の望むガラル」からは切り離す、そういう宣言だった。ああ、この言葉を何度反芻したことだろう。観客もまばらなコートを見回しながら、苦しい数字の羅列が並ぶ帳簿を睨みながら、ひとりまたひとりと出ていく住民の背中を見送りながら。
残った住民やエール団の面々は、いや出ていった住民たちですら、ネズに面と向かって厳しい言葉をぶつけるようなことは決してしなかった。むしろ彼らから受け取る言葉は気遣いに溢れたものばかりで、それが一層ネズの心を苦しめた。「あんたが悪いわけじゃない、仕方ないことだよ」「世の中にはどうにもならんことがあるもんさ」「ネズさんは精一杯頑張ってくれてる、それはみんなわかってることですよ」……彼らから言葉を受け取るたび、期待に応えられなかったという思いばかりが膨らむのを止めることができなかった。
そんな時頭に浮かぶのは、決まってローズの顔だった。あの時、あの男の言葉に頷いていたならば、こんな心細い思いはせずに済んだのだろうか。もしかしたらそれが街にとっても幸せなことだったのだろうかと。……だがそんなことを考えて何になるだろう? 結局は選ばなかった可能性の欠片を未練がましくこねくりまわして。他でもない自分が、彼の言葉を跳ね除けた自分が、そんなことを考える資格など。もうこんなことを考えるのはやめにしなければいけない。こんなことばかり考えているからダメなんだ、ほんとうに、おれはダメなやつ。考えないようにしようとすればするほどそれはネズの頭を支配する。隠してしまいこもうとすればするほど、隠し方のまずさが目についてしかたないのだ。
机の下で膝に顔を埋める。なんでまたこんな記憶を見せつけられなければならないのか。ビデオテープであれば擦り切れるほどに再生し尽くしたシークエンスだった。はやく、はやく覚めてくれればいい。
失礼します、と告げて一人分の足音が遠ざかる。残されたローズが小さく溜め息を吐いて机の方へ向かってくる。つまりネズの方に。まずい。どうすればいいかわからずまごまごする間にもどんどんと足音はこちらに近付く。見つかる、と咄嗟に目をかたく瞑った。
しかしネズを見つけて驚くローズの声は、ついぞ聞こえなかった。薄く目を開けた時には、既にまた闇の中だったのだ。途端に拍子が抜けたような気持ちで脱力する。いつ終わるんだ、この茶番は? それに「見つかる」ってのはなんだ、もしかしたら見つけてもらえればこれが終わったかもしれないのに……。
そこまで考えて、はたとネズは気付く。そうだ、これは隠れんぼなんじゃないか。しかも、おれひとりの隠れんぼだ。隠れるのもおれで、探すのもおれ。ナンセンスだが、この仮定は真をついているような気がした。
先ほどからまざまざと見せつけられる記憶はすべて、己の後悔の歴史だ。心の中にしまい込んできた悔恨が、こうして形を変えて目の前に現れているのではなかろうか。何のために……かは、今はまだわからないが。
ふと視線を上げると、遠く、遠くにうっすらと光が差しているのが見えた。細い縦の光の筋。ふらふらと、光に惹かれる蛾のようにそちらへと向かう。やけに長い道のりに思えた。
ようやく光の筋のもとへ辿り着けば、それはドアのようだった。そっけないつくりの自動ドアだ。なにやら見覚えがある、ような気がする。かすかな機械音とともにそれが開いて、その先にさらに光が見えた。ゆらり、ゆらりと垂らした手を揺らしながらネズは光のほうへと歩いた。だんだんと記憶のなかのそれと今見ている景色とのピントが合いはじめる。そうだ、何度も何度もおれはここを通った、ここは……。
目の前が急に開ける。はたしてそこは、広大なスタジアムだった。ガラル地方の象徴。幾万ものひとびとを呑み込み蠢く巨大な箱。シュートスタジアム。誇らしい思いを抱いて立つよりも、忸怩たる思いと共に去ったことの方が多かったフィールド。今そこには目を開けていられないほどの砂嵐が吹き荒んでいる。風圧によろけながら、ネズはフィールドの中央を見た。そのなかに立っていたのは、見慣れたジムユニフォーム姿で、鈍く輝くマイクを構えて立つ自分。そしてもうひとり。移り変わりゆく夕焼け空のような、橙色と紺色をその身に纏った巨躯。
「キバナ……」
キバナと自分とがこうしてこのフィールドで戦ったのは、短くはないジムリーダーとしての年月の中のただ一度だけ。つまりこれは、自分の引退試合の記憶だ。お互い十年では足りない年月を戦いの中に身を置いて過ごしてきたのに、なんの巡り合わせかこの時までこうして相見えることはなかった。
そもそもキバナには、ネズのことが視界に入っているのかどうかも怪しかった。いつでも口を開けばダンデダンデと、ひとつの目標に対して愚直に邁進する男だったから。だがそのことに対して「よくやる」と舌を巻くことこそすれ、特に思うところなどなにもなかった。ジムリーダーとして活動することすら妹への繋ぎのつもりで、チャンピオンになることなどさらさら考えていなかったネズにとっては、どうせ交わることのない人間だというような気がしていたのだ。この日までは。
バトルは佳境に入っているらしかった。キバナの切り札であるジュラルドンがキョダイマックスで聳え立っている。迎え撃つ己の切り札は、長年共に走ってきたタチフサグマだ。見上げるほどの高さ、堂々たるビルディングのように立つジュラルドンの真っ向から、一歩も退かぬという気概を充満させている。
ダイマックス対策は、否応なしに自分に課せられたライフワークのようなものだった。それは自ら望んで取りつけた手綱ではあったが、同時に重い鎖のようなものでもあった。ジムリーダーとなってから、いやそれよりずっと前、チャレンジャーとして駆け出したその日から、それを考えずにバトルした日などない。後手から始めるしかない己の境遇、それなりの矜恃を持ってフィールドに立っているつもりではいても、それがどうしても、ネズにはノイズとして耳の底に張りついて離れなかった。だがこの日は、この日だけは、そのノイズが砂嵐と重なって、うつくしいハーモニーのように聞こえた気がしたのだ。鎖の音すらも、しゃらしゃらときらめくような。
長い三ターンを傷つきながらも受け流しきったタチフサグマに、うねるような歓声が浴びせられる。ついぞ感じたことのないような、スタジアムとの一体感。ジュラルドンがダイマックスを解かれてしゅるしゅると元の大きさに戻る。追い詰められたはずのキバナは……ああ、そうだ。こんな顔を、していた。
「楽しい……楽しいなあ、ネズ!!」
獣のように眦を吊り上げて、爛々と目を輝かせて。秀でた鼻筋を汗が伝う。常は深いターコイズブルーを湛える瞳が、興奮からか色が薄くなって、彼の相棒に似た銀色に見える。広い広いフィールドの真ん中で、龍が雄叫びを上げる。物理法則など飛び越えて、マイクを通さぬキバナの叫び声はスタジアムの入口で茫然と佇むネズの耳に、確かに届いた。
「なあ、オイ、今までどこにいたんだよ? こんなバトルができるなんて聞いてねえぞ! 楽しい、楽しいよな!? オマエも!!」
ぱきん、と、耳の奥で音がきこえた気がした。鎖が切れた音だ、と思った。それはまるで福音のような。自分がやってきたことは、遠回りではあったもしれないが少なくとも間違いではなかった、それがいまここで実を結んだのだと、そう認められた気持ちだった。それは、そう。単純に、嬉しかった、のだ。
砂嵐が唸る。逆巻くようなそれがファンファーレのごとくフィールドを、そこに立つふたりの心をかき鳴らす。キバナに相対するあの日の自分が、昂揚を隠さぬままにマイクに向かって叫んだ。
「泣いても笑っても最後だ、ネズにはアンコールはないのだ! 過去も未来もない、そうだろ!? 今おれたちがこうして戦ってる、それが全部だろうが! そうだろキバナ! 目の前の、おれだけ見てろ……!」
こんなことを自分は叫んだんだろうか。あの時はがむしゃらで、無我夢中で、よく覚えてはいなかったけれど。でも、なんだ、もう見つけていたんじゃないか。身を灼くような後悔と、捨てきれぬ惜別と、それら全部を抱えたまま、「これでいいのだ」と思えた瞬間は、もう既に自分の手の中にあったんじゃないか。ふは、と大きな空気の塊を吐き出すようにネズは笑みをこぼした。
幼かった自分、己の無力と運命のやるせなさを恨んだ自分。どうすればいいか途方に暮れて背中を丸めるよりほかになかった自分。必要な苦しみだったとは思わない。もし過去に戻ってやりなおして、上手くやれる方法が他にあったなら、それを選ぶのかもしれない。だが過去のやりなおしなどはできない、こうして夢の中ですらも。記憶を反復して、ただそれを見守ることしかできない。
でも、それでいいのだ。がんじがらめにして縛ってしまいこむのではなく、苦しみも痛みもすべてそのままに、手もとに置いてやりたい。心のなかでしか泣けなかった自分を、手放しに抱きしめて撫でてやりたい。己の過去を恥じるのではなく、それでもこうやって進んできたのだと、いとおしんでやりたい。ようやく、ネズはそう思うことができた。
ああそうか、過去をしまいこもうとしておれは、切り離せない自分自身までも隠していたんだな。隠してたのがおれなら、見つけるのもおれじゃなきゃいけなかった。長い長い、隠れんぼだったよな。おれがこれから先に進むには、こうして「おれ」を見つけてやらなくちゃいけなかったんだね。こんがらがった糸のようなそれは、いつしかするするとほどけて、不思議とすとんと胸に落ちて響いた。見つけてほしいと泣いていた自分の心を、真正面から見据えることが、今ならできる、そう思えたのだ。
キバナとのバトルはいつの間にか終わりを迎えていた。記憶通り、僅差のところでタチフサグマが先に崩れ落ちて、互いのポケモンがボールへと戻っていく。負けたというのに、今思い返してみても常に付き纏う焦燥感などは欠片もなかった。万雷の喝采のなか、キバナとネズが近寄っていくのが見える。がしりと力強く交わされる握手。興奮冷めやらぬといった様子で子どものように握ったままの手をぶんぶんと振るキバナに苦笑を向けながら、ふと、あの日の自分がネズを、見た。ふたりのネズの視線が絡みあう。スローモーションのように彼は微笑む。ゆっくりと唇が動いた。
「もういいよ」
遠く離れた場所にいるはずなのに、声は近くで響いた。その声は、幼い頃の自分のようでもあり、少年の頃のようでもあり、そして聞き慣れた今の自分のもののようでもあった。
フィールドが渦を巻いて歪んでいくのを感じる。だがもうそこに闇はない。螺旋を描くような光に包まれていく。光の海は広がったり狭まったりしながらネズを囲んだが、もう恐怖は感じなかった。晴れやかな感傷と、ほんのすこしのいとおしい痛みだけがそこにある。目覚めた時に、どうかこの夢の記憶が残っているように。ネズは瞼をそっと閉じて、ちいさく呟いた。
「見ーつけた」
パパ・ユーアクレイジー
ぼくにはママがふたりいるんだ。うんとちいさな時はそう思っていたから、片っぽの「ママ」が「パパ」だということを知った時は結構びっくりしたものだった。パパは痩せっぽちで、髪が腰よりも長くて、いつもお化粧をしていたから、ぼくが知っているどの「パパ」像にも馴染まなかったのだ。絵本のなかにも、テレビのファミリーシットコムにも、映画のなかにも、ぼくのパパみたいな人はいなかった。
ぼくのパパはロックスター。しかも売れっ子だ。ママはライモンシティのミュージカルホールのチーフディレクターで、ぼくはシッポウシティにママと住んでる。パパは一緒に住んではいない。ママとパパは元から別に結婚してるわけじゃない(これは「合意の上の連帯」なんだってママは言ってた、よくわかんないけど)。ぼくが五歳になるまではひとつ屋根の下暮らしてたパパは、三年くらいガラルとイッシュを行き来する生活を続けて、二年前に完全にガラルに腰を落ち着けた。
ママがパパのことを「ネズくん」って呼ぶから、ぼくもそう呼ぶ。ネズくんは、ちょっと……結構、変わってる。体を動かすのが嫌い。でもライブのときは暴れ回る。「エネルギーを温存してるんです」って真面目な顔で言ってた。放っておくといつまで経ってもごはんを食べない。喋ってる時にいきなり黙り込んで猛然とノートに殴り書きを始めたりする。まるで両生類みたいに一日中バスタブから出てこない日もある。あんまり綺麗とは言えない言葉を口走ってママに窘められることもある。でもいいひとだ。ぼくがこわい夢を見て夜中に泣きついた日は落ち着くまで歌をうたってくれる。ぼくのでたらめな鼻歌から即興で歌をつくる。子ども向けの映画を見てこっそり泣く。そしてぼくが拙い言葉でなにかを伝えようとするときは、最後まで辛抱強く聞いてくれる。それに、はじめて仲間になったポケモンのチョロネコは、ネズくんが捕まえてくれた。チョロネコとの付き合い方を教えてくれたのもネズくんだ。おかげでぼくのチョロネコは、ぼくよりもネズくんのことをボスだと思い込んでるところがある。
ちょっと前、ぼくはネズくんに「うちの家って普通じゃないの?」と訊いたことがある。
その頃ママには同性のパートナーができたばかりで、ほんとに素敵な人だったから、友達に自慢したんだ。でもそれはどうやら友達を混乱させたらしい。友達は「お前んちってなんかヘン。普通じゃないよ」って困った顔で言った。それでぼくも困ってしまった。
そしたらネズくんは、顔色ひとつかえずに「『ふつう』なんてクソくだらないもの、おれたちにとって何の意味があるんです?」と言った。
「クソくだらないの?」
「クソは忘れて。でもくだらないよ」
この星にどれだけの人間とポケモンがいると思う?とネズくんはぼくに訊いた。ぼくは首を捻る。
「わかんない」
「なんだ、君なら知ってるかと思ったのに」
「ネズくんにわかんないことはぼくにもわかんないでしょ」
そう言うとネズくんはおかしそうに笑った。
「まあとにかく、ものすごい数がいるでしょ。そんななかでただ一定の数がいるってだけの人たちが押しつけてくる『ふつう』なんかに、惑わされなくていいんですよ。お友達にも教えておやり」
「そうなの?」
「そう」
ママのことも、彼女のことも愛してるでしょ、君は、と訊かれたから、力いっぱい頷いた。それでいいんですよ、とネズくんは微笑んだ。目尻の皺が深くなる。ぼくは急いで付け加える。
「ネズくんのことも愛してるよ。ついでじゃないよ。ほんとに愛してる」
「ありがとう。おれも愛してるよ、君たちのこと」
そう言ってネズくんはぼくの額にキスした。それだけで魔法みたいに、ぜんぶ大丈夫だって思えるんだよ。ぼくにとってネズくんってそういう人だ。今は毎日は会えないし、メールの返信も三日おきだけど(ネズくんは考えすぎるところがあるから、返信にものすごく時間がかかるんだ)、それはいつだって変わらない。
この夏休み、ぼくはネズくんの住むガラルにちょっとした旅行をすることにした。十歳になった記念だ。これを思いついた時、ママはちょっと考えて、「ネズくんに予定を訊くね」って言った。それから長い長いコールのあとにネズくんが出て、短い時間で電話は終わった。ネズくんの答えはイエスだった。
「ただ、仕事がないわけじゃないからもしかしたら一人にする時もあるかも、って気にしてたよ」
「平気。チョロネコもいるし」
「確かにそうだね」
じゃあ決まり!ってぼくとママはハイタッチした。ガラルには観光地も豊かな自然もある。イッシュ地方のこともそりゃ好きだけど、ぼくはずっとガラルに憧れてた。ネズくんの育ったところに行くんだってだけで心は踊った。夏休みが始まるまでの間、何度ガラルの夢を見たかわからない。二階建ての赤いバス、おっきな時計塔、ゴンドラが横に長い観覧車。ネズくんとぼくとチョロネコと、一緒に紅茶を飲む。笑っちゃうくらい貧困なイメージだけど、それでも夢の中のぼくは大満足だった。指折り数えて、ダメ押しにカレンダーにバツ印をつけていくぼくを、ママは微笑んで眺めていた。
ガラルに向かう前日、ネズくんからテキストが届いた。「急な仕事が入ってしまって、空港に迎えに行けない。代わりの人間を送る。目立つからすぐにわかる」みたいな内容だった。残念だったけど、仕方ない。「お詫びに紅茶を淹れて」と返したら、「いくらでも」と短い返事がきた。滅多に使わないスタンプも。きっと気にしてるんだろうな。気にしなくていいのに。でもネズくんのそういうとこが好きだった。ぼくのこと、ひとりの人間として見てくれてる感じがする。
そういえばふと気になって、「目立つ人ってもしかしてあの人?」ってテキストを送ったら、しばらく後に「答え合わせは空港で」って返ってきた。誰が来るかは二択だと思うけど、当たったらなにかご褒美でももらえるかな。そう考えながら目を閉じたら、いつの間にかぼくは眠りに落ちていた。
長い長い飛行機の旅のあと、空港でぼくを迎えたのは、ものすごくのっぽでものすごくきれいな男の人だった。到着ロビーからスーツケースをえっちらおっちら運んで出たところに、彼はいた。ぼくの予想はばっちり当たってた。
軽く手を振ったその人は、ぼくが近づいていくのをじっと待っていた。そして長い長い脚を折ってぼくの前に中腰になり、サングラスをずらした。「よう、ネズ息子」と言って白い歯を見せて笑う。スクリーンの中の俳優みたいな完璧な笑顔だった。
「キバナ、さん」
「そ。オレがキバナ。はじめまして、よろしく」
差し出された手を取って握手する。キバナさんの手はものすごくおっきくて、きちんと手入れされてなめらかだった。そのまま軽く抱き寄せられてハグされた。背中を軽くぽんぽん、とはたかれる。疲れただろー、と気遣ってくれるので、「飛行機のなかでいっぱい寝たから大丈夫」と言えば、頼もしいなと頭を掻き回された。
「ほんとはさ、あれやりたかったんだよ、『ようこそガラルへ!』つって紙持って立ってるやつ。でもネズが『ただでさえ目立つんだからやめろ』って」
そう言ってキバナさんはくすくす笑った。確かにキバナさんは、目立つ。ネズくんが言ったとおりだった。周りの人混みからも頭一つ抜けているし、なんていうか、オーラがある。周りの人たちがちらちらとぼくら、というかキバナさんを見ているのがわかる。でも多分そんなことには慣れっこなんだろう。キバナさんは視線なんてへっちゃらって感じだった。まるで目に見えないリフレクターがあって、そこで全部跳ね返されてるみたいだ。人に見られることに慣れた人特有の堂々とした雰囲気があるけど、それがすごく自然なんだ。
そわそわと纒わりつく視線をものともせず、キバナさんはにっこり笑ってぼくの肩を抱いた。ぼくの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる。背があんまり高いから、見上げると首が痛くなっちゃって、キバナさんの顔を見ながら歩くのは早々に諦めた。代わりに空港を見回す。たくさんの人が行き交っていた。足早なビジネスマン、キャビンアテンダントの行進、再会を喜ぶ人、別れを惜しむ人。いつかママと見た、空港で暮らさなきゃいけなくなった人の映画を思い出した。ここを通り過ぎてみんなそれぞれどこかに向かうんだ。ぼくとキバナさんも。
キバナさんは車で空港まで来てくれていた。ぼくのスーツケースを軽々と車のトランクに詰め込み、でっかい車にそれでも窮屈そうに乗り込んで、キバナさんは「アーマーガァタクシーに憧れてんだって?」とぼくに悪戯っぽく訊いた。
「うん。だってアーマーガァ、すっごくクールだから」
「確かに。ごめんな今日は、タクシーじゃなくてさ」
「ううん、全然。一週間もいるんだから、いくらでも乗れるでしょ?」
「それもそうか」
シートベルトを調整すると、車はなめらかに発進した。キバナさんの運転は穏やかだった。ネズくんとは大違いだ。ネズくんの運転はちょっと雑だから。本人もそれをわかってて、あんまり好んでは運転しない。必要に迫られて渋々ハンドルを握るたびに、ネズくんは言い訳するみたいにアーマーガァタクシーの話をするんだ。ガラルじゃ全然運転しなくってとかなんとか。シャッター前からひとっ飛びだったんですよとか。高い高い空の上から見る夕陽は泣きたくなるくらい美しいんです、とか。揺られながらそういう話を聞くのが好きだった。縦列駐車にめちゃくちゃ時間がかかってもね。
窓から見える景色は、ハイウェイの高い壁と夕闇だった。オレンジ色のライトが、尾を引いてびゅんびゅん後ろに過ぎ去っていく。正直この風景からはイッシュとガラルの違いはよくわからない。ふわあ、とあくびを一つすると、「寝ててもいいよ」とキバナさんはやさしい声で言った。
「ナックルまでもうちょっとかかるから」
「ううん……景色見てたい」
「わかった、楽にしてなよ」
そういえば明日はマリィも来てくれるってよ、とキバナさんが教えてくれた。ぼくは思わず「イエス!」と小さく声を上げた。マリィちゃんに会えるのはすごくうれしい。前に会ったのは何年前だろう。マリィちゃんはネズくんの故郷のスパイクタウンってとこのジムリーダーで、なかなかガラルを空けられないんだ。手持ちにレパルダスがいるから、チョロネコの育成とかしつけ関連の先輩でもある。最近のテキストのやり取りはその話題ばっかりだ。
ぼくの声に反応して、ボールから勝手にチョロネコが出てきた。こいつはこうやってすぐ出てきちゃうんだ。飛行機でおとなしくしてたのが奇跡みたい。なにかあったのかと興味津々に周りを見渡してる。ちょっと慌てたけど、キバナさんは「おお、チョロネコも元気そうじゃん」とのんびりした声で言った。膝の上に座らせて撫でると、チョロネコは目を細めて喉をぐるぐる鳴らした。そんなぼくたちを横目で見て、キバナさんはしみじみと、ちいさな声で呟いた。
「やっぱり似てるなあ」
ぼくとネズくんのことを言ってるんだな、ってすぐにわかった。
キバナさんは、ネズくんの恋人だ。ママと出会う前に別れて、ぼくが生まれて、育って、ネズくんはガラルに帰って、そしてふたたび恋人になった。ふたたびって言うのは正確じゃないかも。ネズくん曰く、しょっちゅうくっついたり離れたりを繰り返してたらしいから。ともかく何度かの「破局」と「復縁」──難しい単語だから、ネズくんが話し終えたあと辞書で調べなきゃいけなかった──があって、今ふたりはそこそこ安定して関係を続けてるんだって。ネズくんは別に自分からこういうことをべらべら喋るわけじゃないけど、訊いたら大抵のことは答えてくれる。十歳のぼくにも隠し立てはしない。キバナさんは、それを知ってるのかな。
「そんなに似てるかなあ」
なんでもない感じでぼくは返した。でもこれはほんと。どっちかっていうとぼくはママ似だと思う。髪の色も、目の色も。でもキバナさんは「似てるよ」と繰り返した。
「俯いたときの瞼の感じとか、鼻のラインとか……あと、耳があんまり大きくなくて耳朶が薄いところとか、似てる」
「なんか……微妙なところばっかりだね?」
「そういうところだからこそかな。マリィとネズも一見あんまり似てないけど、ふとした時に『やっぱり兄妹だな』と思うことがある」
不思議だな、ちゃんと別の人間なのに、ネズの面影があるんだもん。そう言ってキバナさんはゆっくりハンドルを切って、車線変更した。体がゆらりと傾ぐ。チョロネコがにゃおん、と鳴いた。ハイウェイの壁がちょっと低くなって、ガラルの街並みが見えた。うわあ、とちいさく息を漏らす。夕闇のなかに灯る建物のあかりが、きらきらと輝いて見えた。イッシュのきらびやかな光とはまた違う。落ち着いて、でもあたたかな光だった。
「ようこそガラルへ」
窓に張りついているぼくの背後から、キバナさんが歌でも口ずさむように言った。
ネズくんとキバナさんが暮らす家は、ナックルシティにある。とても大きな、歴史のある街だ。ぼくが住んでるシッポウシティに雰囲気が似てる気がする。すぐにぼくはこの街を気に入った。シッポウシティには博物館があるんだよって言ったら、キバナさんもだいぶ前に行ったことがあるって教えてくれた。キバナさんはジムリーダーでもあり、この街の宝物庫の番人でもあるんだ。一週間でどこか一日は宝物庫のための時間を作ってもらわなきゃ。
「分野は違うけど、アロエさんは大先輩みたいなもんだからなあ。もうアロエさんはジムリーダー引退してから長いよな」
「うん、ぼくが生まれた時にはもう次の人になってた。でもアロエさんもお元気です」
そいつぁよかった、とキバナさんは朗らかに笑った。ぼくが育った街にキバナさんが来たことがあるとわかって、キバナさんにもっと親近感が湧いた。自分でも単純だなと思うけど。
キバナさんがシッポウシティに行ったのはかなり前なんだって。ぼくが生まれるよりうんと前だ。いい街だよな、と言ってくれた。それだけですごくうれしい。
「キバナさん、またうちに遊びに来てよ。ぼくのお気に入りの場所、教えてあげる」
そう言うと、キバナさんは一瞬なんだかすごく驚いた顔をした。そしてすぐに笑顔に戻って、「よし、じゃあ案内してもらおうかな」と言った。
「約束だよ。待ってるからね」
「……約束だな」
小指を差し出したら、ぼくの小指よりうんと長い小指が力強く指切りしてくれた。
そんなことを話していたら、エレベーターはすぐに目的の階についた。おりゃっ、と声を上げてキバナさんがスーツケースを持ち上げる。なんとエレベーターから出ればそこはもう部屋の玄関なのだ。ぼくは目を白黒させてしまった。とんでもないとこに住んでるなネズくん。年中似たような服を着てるし、めちゃくちゃぜいたくなものを食べるわけでもなくて、楽器とか機材以外にお金を使ってるのをあんまり見なかったから忘れてたけど、そういえばロックスターだった。ここ五年ぐらいずっとおんなじコートを着てるのに。ボタンが外れたら自分で縫いつけてるのに。
ネズくんはまだ帰ってないみたいだった。くつろいでて、って言われたけど、ものすごくおしゃれな部屋だし、目に入るものぜんぶがぜんぶ高級そうなものばっかりで、どうも落ち着かない。多分このインテリアはキバナさんの趣味なんだろうなと思った。でもちょっと時間が経つと、だんだんネズくんの痕跡が見えてきた。オーディオセット。大量のレコード。お酒の空き瓶に一輪飾られた花。そして壁面のサイドボードの上に、ひっそり置かれたフォトスタンド。マリィちゃんと、ママと、ぼく。この家に置いてるんだって、意外だった。
ソファに座って部屋をきょろきょろ見回してたら、キバナさんがあったかいミルクティーを淹れて持ってきてくれた。色違いのマグカップがふたつ。緑がかった薄い水色と、ターコイズブルー。水色のほうを手渡してくれる。微笑んで細められたキバナさんの目を見て、ああこれはふたりの目の色なんだ、って気付いた。お礼を言って、口をつける。ネズくんが淹れてくれるミルクティーとおんなじ味がした。そう伝えると、キバナさんはちょっとうれしそうにした。
「砂糖はひとつ、ミルクは半分。だよな?」
「うん、そう」
ミルクは四十度、必ず先に入れる。キバナさんはネズくんの「おいしいミルクティーの呪文」を諳んじてみせた。そして、オレの紅茶はネズ仕込みだからね、とウインクする。びっくりするくらい決まってた。
ミルクティーを飲む間、キバナさんは手持ちのポケモンたちの紹介をしてくれた。イッシュではなかなか会えないポケモンたちばかりでどきどきした。さすがジムリーダーのポケモンだけあって、みんななんだかキリッとした顔をしている。でもキバナさんは「なんか今日はカッコつけてんなあ」っておかしそうにしてた。ぼくのチョロネコはこわいもの知らずでわんぱくだから、キバナさんのフライゴンのしっぽがゆらゆら揺れるのをいつまでも追いかけていた。
そうこうするうちに、がちゃりとリビングのドアが開いた。のそりと入ってきたのはネズくんだった。
「ネズくん!」
思わず立ち上がって駆け寄る。ネズくんはうすく微笑んで、ちいさく手を広げた。ぼすん、とぶつかると、頭上から「うっ」みたいな呻き声が聞こえた。背後からキバナさんの忍び笑いも聞こえる。
「……背が伸びたね」
そう言ってネズくんはぼくの頭を撫でた。一年とちょっと、すごく久しぶりのネズくんだ。
「三インチも伸びたよ」
「新しい人類は成長がはやいな」
おれは君くらいのときはクラスでは前から数えた方がはやかったよ、とネズくんは言った。
「あっオレもオレも」
「ええ? こんなにでっかいのに?」
「十五歳の一年間で十インチくらい伸びたんだ。そこからさらにぐんぐん育ってこれ」
すっげー、と言うとふたりともが笑った。ネズくんが後ろ手に持ってた何かの包みをキバナさんに渡す。ふわりといい匂いがした。今日の晩ごはんを買ってきてくれたみたいだった。その匂いで、お腹が減ってたことを急に思い出した。
包みを受け取ったキバナさんに近づいて、ネズくんはすごく自然に伸び上がって頬にキスをした。キバナさんもなんでもない感じでキスを返した。きっと何回も行われてきたやり取りなんだろう。なんだかくすぐったい感じがした。いつの間にか寄ってきていたチョロネコはそれに構わずネズくんの足元に擦り寄って、喉をごろごろ鳴らしている。
「ごめんね、急に仕事が入っちまって。でも明日からはしばらく空けてるから」
「いいんだ、気にしないで。ねえ、これ何?」
「古き良きガラルの伝統食」
ネズくんが買ってきてくれたのはフィッシュアンドチップスだった。イッシュでも出してる店はあったけど、ネズくんはいつも「なんか違う」って難色を示してあんまり頼んでくれなかった。つけあわせにグリーンピースをマッシュしたやつと、ピクルス。買ってきたばっかりだからまだあたたかかった。キバナさんがそれぞれお皿に盛りつけてくれて、ネズくんはお酒の瓶とぼく用のりんごのサイダーを開けてくれた。
はじめてのフィッシュアンドチップスはすごくおいしかった。ネズくんはモルトビネガーとかいうらしいお酢をどばどばかけていて、ぼくはそれは真似しなかった。
「うわー、フィッシュアンドチップスなんか久し振りだよ」
キバナさんはなんだかうきうきした感じで言った。
「摂取カロリー超過気味だけど、まあいいや。明日朝走るわ」
「よく走るの?」
「体型維持のためもあるけど、単純に走るのが好きなんだよね、オレは」
すごい。あんまりぼくの周りでは見なかったタイプの人だ。ぼくはネズくんが走るのをほんとに一度も見たことがない。冗談みたいだけどほんとだ。周りの人が全員急いでてもネズくんは絶対に走らない。きっと墓から甦ったゾンビがうじゃうじゃ溢れて世界滅亡の日が来ても、ネズくんひとりだけは頑なに走らないんだろう。意外とゾンビに紛れて生き残れるかもしれない。
「明日、一緒に走るか?」
キバナさんがちらりとぼくを見てそう言った。
「いいの?」
「早起きだけど、それでもいいなら。広くて良い公園があるんだ。気持ちいいぜ。今は良い季節だよ、緑も綺麗だ」
ネズくんはちびちびお酒を飲みながら「行ってらっしゃい」と言った。
「ネズくんは……行かないよね」
「まあ、行ったことないね」
「ないなあ」
キバナさんはお酒でほんのりと頬を赤らめていた。グラスの中の金色の液体がゆらゆら揺れる。
「ネズが走りに行くなんて言ったら、その日はガラルに槍が降るな。槍は降ってきてほしくないから、行かなくていいんだ」
そう言うキバナさんの顔は緩んでいた。不思議だな、ぼくが今まで短い人生のなかで親しくなってきた人は、好きなものとか趣味がおなじ人ばかりだった。でもネズくんとキバナさんは好きなものが全然違うように見える。共通点はポケモントレーナーだってことくらいじゃないかな。そういう大きなひとつの共通点があれば、全然違うふたりでも、こうやって一緒に暮らすことができるのかな。
なごやかな夕食が終わって、お腹がいっぱいになったら眠くなってきた。ふわあ、と大きなあくびを一つすると、ふたりともが微笑んでぼくを見つめていた。ちょっとばつが悪い。
さあさあ、とシャワーに急き立てられて、髪の毛をネズくんが乾かしてくれて、あっという間に寝支度が完了した。ゲストルームのシーツをキバナさんが綺麗に整えてくれる。ネズくんは部屋のドアに寄っかかって、それをじっと見ていた。
「じゃ、明日は早く起こすぜ」
屈んでいたキバナさんが、伸びをしながらぼくににこりと笑いかける。
「お願いします。おやすみなさい、キバナさん」
「おやすみ」
キバナさんがネズくんの肩にぽん、と手を置いて出ていく。そしてゲストルームにはぼくとネズくんのふたりになった。ネズくんが部屋の電気をぱちんと消す。ベッドサイドの灯りだけが部屋を照らして、ぼくはごそごそとベッドに潜り込む。すごく広いベッドだ。十歳のぼくには大きすぎる。でっかいね、と言うと、たまにスタッフが泊まったりするからね、とネズくんはなんでもないように言った。そのままネズくんもぼくの横に寝そべる。
ネズくんとふたりきりで話すのは久し振りだ。話したいことはいっぱいあった。でも眠いのも確かだったから、話題をひとつに絞ろうと決める。
「……キバナさんがね」
「うん?」
ぼくは手を伸ばしてネズくんの鼻筋をさわった。ネズくんはされるがままに目を細めている。
「ぼくの鼻と、ネズくんの鼻が似てるって」
「そうか」
「あと瞼と、耳も」
細かいところに気がつくな、と言ってネズくんは静かに笑った。
「……おれは君が生まれたとき、あんまりおれには似てないなと思ってちょっと安心したんですよね」
「安心?」
おれなんかよりママに似たほうがいいと思ったんだよね、とネズくんは眉尻を下げた。ネズくんはこんなに大人になっても、たまにこういうことを言う。マリィちゃんは「ありゃ一生なおらん」といつもぶつくさ言うんだ。
「でも君がおっきくなるにつれて……そうだな、君は真顔でいるとママにそっくりなんだけど、笑うとなぜかおれに似てる。パーツは全然違うのにね。それを見て、そうだな、うれしかったよ。なんでそう思えたのかうまく説明できないけどね」
「そっか」
まあおれも人の子だったってことですよね、とネズくんは変なことを言った。人の子じゃなかったら何の子だと思ってたんだろう。ネズくんは自分のことをポケモンだとでも思ってたのかな。変な顔をしてるぼくの鼻をつついて、「言葉の綾ですよ」とネズくんはちいさく舌を出した。
「そう、鼻と瞼と耳ね。おれも気付いてなかったな。自分の耳なんかあんまり見ないからね」
「よく見てるよね」
キバナさんはそれだけネズくんのことをずっと見てるってことなんだろう、そう思った。ぼくに会ってからの一時間足らずでそれに気付くくらいに。
「ネズくん」
「んん」
「キバナさんのこと、愛してる?」
ネズくんは片眉をぴんと持ち上げた。そして口角を思いっきり下げた。
「……おせっかいだね、おまえも」
ネズくんは、ちょっと焦ったときだけぼくのことを「おまえ」って呼ぶ。普段は「君」って呼ぶけど。おせっかいなのは多分ネズくんに似たんだよ。
「だって、キバナさんはネズくんのことすごく愛してるよ。わかるよぼくにも」
ネズくんは渋々って感じで頷いた。それからちいさく溜息をついて、視線を天井に泳がせた。
「……昔は、苦しかったな。あいつがおれを愛してるってこと自体が苦しかった」
「……なんでだろうね」
「こればっかりはコントロールできなかったんだよね。おれもあいつを愛そうとしたけど……その分ものすごく憎くなった。苦しかったから」
きっと、おれの器が小さすぎたんだね、とネズくんは静かに言って、ぼくの顔にかかった髪をやさしく払った。ちいさなコップに水を注ぎすぎたみたいにさ、溢れて、床をびちゃびちゃに濡らしたんだ。ネズくんはそう呟いた。
「あいつに愛されてる理由がわからなくて、うまく愛せない自分に嫌気がさして、それの繰り返しでどんどんつらくなった。キバナからしたら意味がわからなかったんじゃないかな」
「むずかしいね」
そう、すごく複雑なんだ、おれだけが。そう言ってネズくんは顔を顰めた。
「あいつは昔から変わらないよ。ずっとまっすぐだ。愛し愛されることにためらいがない、それがキバナの美点。ただおれだけが右往左往してる」
でもね、君たちと出会って気付いたことがあるんだよね、と、薄い唇がゆるんだ。
「別に、おれとキバナの愛のかたちが違ったっていいんじゃないかってね、初めて納得できたんだよね」
ネズくんの手が、ぼくの髪を撫でる。それから頬も。ギターを爪弾くかたい指の腹だ。
「むりやりあいつと同じように愛そうとしたから苦しかったんだなって、ようやくそのときわかったんですよ。おれはおれ自身のことがずっと……好きになれなくて、好きになれないおれのことを愛しているあいつがこわかった。でも別におなじ強さで打ち返さなくてもいいんだ。愛にはいろんなかたちがある。自分自身と、相手に誠実であればそれでいい」
だからね、とネズくんはぼくのおなかのあたりを布団の上からぽんぽんとやさしくはたいた。
「キバナを愛してるのかっていう質問の答えは、イエスですよ。あいつとは違うやり方で、おれはおれなりにあいつのことを愛してる」
「そっか」
「うん」
「よかった」
へらりとネズくんは笑った。ぼくに似ていると、ネズくん自身が言った笑顔だ。ぼくはいつも、こんな顔で笑ってるのかな。
「安心しましたか」
「うん、安心したよ」
さあ、じゃあもういいでしょう、とネズくんはぱっと両手を上げた。
「疲れてるのに、長々話しちゃったね」
「ううん。ネズくんの話は複雑でおもしろいよ」
「おもしろがってやがる」
わるいやつだな、と全然そうは思ってなさそうな声で言って、ネズくんはぼくの額にちいさくキスした。
「もうおやすみ。朝起きたら紅茶を淹れてあげる」
「うん。ネズくんもキバナさんと仲良く寝て」
「ほんとにおせっかいだな」
ぐしゃぐしゃと頭を掻き回される。髪の毛が顔に触れてくすぐったい。けたけた笑うと、ネズくんも笑った。布団を鼻の上までかぶって、その下でもごもご「おやすみ」って言ったら、ネズくんはぼくの瞼を手で覆って、「おやすみ」ともう一回言った。
ぐっすり眠って朝目覚めたら、ネズくんが紅茶を淹れてくれる。砂糖はひとつ、ミルクは半分。ミルクは四十度。必ず先に入れる。そして、キバナさんと一緒に公園で走る。夏のはじまりを告げる緑。葉末に朝露がきらめく。すごく素敵な夏休みだと思った。ふつうじゃないぼくたちの、でも確かな幸せだ。ネズくんが苦しみの先に歩いて歩いてたどり着いたここが、ずっとこうやって素敵な日々だったらいい。そう考えて、ぼくは瞼の裏の星を追いかけた。