とても寒い日 顔に当たる冷たい風に、ぴたぴたと吸い付くような冷えた塊が混じりはじめた。ナギリはマットレスから起き上がり、風の吹き込む窓を見た。かつてはガラスがあった場所は、今は破片しか残ってないない。せめてもの風避けに拾ってきた段ボールを置いていたが、風の強さに負けて床に落ちていている。床はすでにうっすらと白いものが積もっていた。
寒いと思っていたが、想像以上に冷えているのだと思い知る。
とはいえ、この躰になってから、あまり寒さを感じなくなっていた。あの日作り変わってしまった躰は、ひとだったときとはまるで別物だった。能力を制御できなかったころが懐かしい。あの苦しさは、今も覚えている。躰の内側から音を立てて捲り上がり、すべてが裏返るような苦しさだった。あの日から人間が感じうるであろう、気温の体感は、ほとんど失ったはずだ。ふたたび感じ始めたのは、分霊体を無くしてからだった。平気だった川の水も、今は冷たく感じる。
ナギリは出来るだけ風の当たらぬ場所へ移動し、大きな躰を丸めた。
辻斬りナギリがこんな姿をして居るなんて、笑い話だ。もうどれくらい血を吸っていないかも判らない。手のひらから突き出る刃も脆くなっている。
辻斬りが斬れなくなったら、何になるのだ。
ただの吸血鬼か。それとも、ただのナギリか。ひとだったときの名前を思い出そうとするが、何と呼ばれていたか思い出せない。母親とおぼしき残像が記憶のなかでちらちらとよみがえり、口を動かした。その唇の動きで、何と呼んでいたか読み取ろうとするが、上手くいかない。
名もない自分は何者でもない。辻斬りと呼ばれたことで、はじめてそこに誕生した気分だった。
ひとを斬れば、恐れてくれた。斬られた瞬間の恐れにおののく顔を見るのは最高だった。怯えた相手に、名乗りをあげると名を呼んでくれた。けど、なんの作用かは判らない。斬った相手は誰ひとりとしてナギリの顔も声も覚えなかった。
名前だけが、そこに残った。
それでも良かった。そこに名があるのだ。もっと名を呼んで欲しかった。もっと呼ばれるためには、もっと強くなりたかった。だから、不死身になろうとした。
名前を呼んで欲しかった。
そうすれば、そこに在ることが出来るから。
魂を分離させたぶん、こころの穴はぽっかりと空いたままだった。きっと世界中の人間がナギリの名前を呼んでくれれば、その穴は埋まるはずだ。
そのためには、ひとを斬らなくては。斬り続けなければ。斬らなければならないのに――。
寒さと眠気でうつらうつらとしてくる。まぶたの裏で、知らない女が唇を動かしてナギリを呼んでいた。
――死ね。
いつも云われていた言葉。ああ、でもこれは名前じゃない。母の口癖は、そのままナギリに移った。もう顔もおぼろげなのに、口調だけは母そっくりに育ったと思う。
しゅんしゅんと聞こえる音は、ストーブの上のヤカンの音だ。
冬はいつもこたつで寝てすごした。布団がなかったから。ヤカンの音が聞こえると云うことは、まだ灯油があるのだと安心する。最初に灯油がなくなって、次に電気が来なくなった。冷たいままのこたつに丸まって居るのは嫌だった。寒い。寒い。あたたかくないこたつは、ただの寒い空間でしかない。冷えた膝を抱えて、どんどん小さくなるように丸まった。
不意にあたたかなものが背中をさすり、頭を撫でた。細くて柔らかな母の手とはちがう、固く大きな手のようだった。では母の愛人か。あの男たちは、ことあるごとに自分を殴る、嫌な手だった。だから、きっとこの手も嫌な手に違いない。
強ばって拒絶していると、ふわりと抱え上げられた。嫌がる気持ちと裏腹に、安心するにおいに包まれる。まるでゆらゆらと波にでも乗っているようだった。
ふわふわとあたたかなものがどんどん覆い被さってきて、ほかほかの海の落ちたようだった。
なんだこれは。
いつだったか、あのバカに付き合わされて温泉に入ったことを思い出す。あのときのお湯の熱さを思い出して、ナギリは目を開けた。
広がった視界の先には、知らない部屋が広がっている。クリーム色の壁。淡い照明。あたたかな部屋。
ここはどこだ。
起き上がると、自分の上に何枚もの布団があることに気づいた。しゅんしゅんと聞こえていた音はヤカンから立ち上がる音ではなく、枕元に置かれた加湿器だった。
ベッドから出ると、服も脱がされてTシャツと短パンになっていると気づく。部屋には、ガンダマンのポスターと、手製であろう謎の化け物のオブジェがあった。ここまで来れば、誰の部屋に居るかは一目瞭然だった。扉を開けると、カンタロウはキッチンで何かを切っているようだった。
「おい」
呼ぶと、顔を上げてパッと微笑む。
「お目覚めですか?」
「何で俺はここに居るんだ?」
「大雪警報が来ていましたので、心配になって見に行ったのであります。そうしたら、お部屋の隅で辻田さんが意識を失っていたので、ここまで運びました」
「ここまで? 俺を?」
身長はナギリの方が高い。体重は、最近なにも口にして居ないので減って居ると思うが、軽々運べる重さじゃないはずだ。
「普段パイルバンカーを抱えていますから、さほど重くはありませんでした」
「…………」
「あたためた牛乳、お飲みになりますか?」
聞かれて、普段の服ではないので耳が丸見えだと気づく。どのみちプールや温泉で見られているので、今さら隠すことでもないのだが。自分が辻斬りナギリから遠い人間だと思わせたかった。牛乳を勧めてくるということは、吸血鬼と判っているのだろう。
「――もらおう」
カンタロウは冷蔵庫から特選牛乳を出すと、マグに注いでレンジに掛けた。椅子を勧められてダイニングテーブルに着くと、湯気の立つマグをテーブルに置く。マグにもカンタロウが描いたナギリのイラストが入っていた。熱いですよ、と渡されたマグは本当に熱くて、ナギリは指先でもてあそぶように撫でた。
「俺の服はどうした?」
聞くとカンタロウも対面の席に座る。暖房が行き届いた部屋なので、かれもまた薄着だった。
「今洗濯しています。乾燥も込みなので、もう数時間かかるかと」
「乾いたら帰る」
マグに口をつけたが、まだ熱くて飲めない。もう数時間このバカと一緒に居なくてはならないのか、と思うとうんざりする。
「あの部屋にですか? 今日は、大雪ですよ。遭難する気ですか?」
予報では明日の昼まで雪マークがついているし、大寒波が来ていますよ、とカンタロウが続けた。明日までこのバカと一緒に居なくてはならないのか、と思うとうんざりする。
「じゃあ雪が止んだら帰る」
「雪掻きをしていない場所にお戻りに?」
確かにナギリの住んでいる廃墟は管理人など居ない。だれも雪をどかしてはくれないだろう。雪解けまでまでこのバカと一緒に居なくてはならないのか、と思うとうんざりする。
「ええい、うるさい。クソバカが。戻ってはいけない理由でもあるのか?」
「年末ですから」
「おまえは公務員で年末年始も関係ないだろう!」
「確かに、元旦は仕事です。ですが本官、大晦日が誕生日であります!」
後半の声は耳に痛いくらい大声だった。大晦日が、誕生日だって?
「……今日は何日だ?」
「二十九日です」
「明後日じゃないか!」
明後日までこのバカと一緒に居なくてはならないのか、と思うとうんざりする。
「良かったら、一緒に祝ってください」
「……それまでここに居ろと?」
「よろしければお正月一緒にお参りもしたいであります!」
本官、毎年辻斬り捕獲を願っているのでありますよ! との言葉に、思わず、もう捕獲しているぞ、と小声で返した。きっとそう願うカンタロウのとなりで、自分はどうか辻バレしませんようにと願うだろう。そこまで考えて、一緒に出掛けるところを想像している自分にうんざりした。
「嫌だと云ったら?」
「嫌ですか?」
「嫌だ、ボケ。勝手に話を進めて勝手に決めるな。俺の意見を聞け」
云って、ようやく冷めたであろうホットミルクを口にする。あたたかな液体が喉を落ちて行き、内部に栄養が渡るのを実感した。ぽっかりと空いた空間があたたかな液体で満ちるような――刃から吸うのとは違う満ちかただ。
「エーン」
園児のような泣きかたを披露して、カンタロウは同情を誘った。
「泣くな。ただ寒いから、しばらくここに居てもいい」
正月までこのバカと一緒に居なくてはならないのか、と思うとうんざりする。
「……辻田さん……」
「誕生日、なにもやらんぞ」
ここに閉じ籠っていればなにも買うことも出来ないし、そもそも買う金もない。今与えられるのは、この大雪くらいだ。一度だけ呼ばれた誕生日パーティ、なけなしの金で買った鉛筆を、大爆笑された記憶が急によみがえる。そんな自分に、何をしろと云うのだ。
「大丈夫。十分です」
「何が?」
カンタロウは返事の代わりに笑顔で立ち上がった。
「お鍋、作っている途中だったんです。少し食べれますか?」
ピェンロー鍋ですよ、と云われるが、どんなものかも見当がつかなかった。
「もらおう」
もうしばらく、このバカと一緒に居るのにうんざりするのも悪くなかった。