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    しおり
    ロナドラこばなしまとめスープ11月1日夜の色特集時間きみのにおいラジオ痩せた男ちいさな城ニュース豚汁とおにぎり


    「ねえ。私、ここから落ちたら死ぬよ」
     ざあざあと流れる音を耳にしながら、不意にドラルクが口にした。なんだって、と聞き返すと、繰り返し同じ言葉を返す。
    「すぐよみがえるだろう?」
     なに馬鹿なこと云ってるんだよ。そんな意味を含んで返した。たしかにこの流れの川ならば、ドラルクの灰が落ちたら、どこまでもどこまでも流れていくだろう。流れる灰はふたたび集合することが叶わず、水の中に霧散していく。川は海へと流れ、大海原がかれの墓標となる。
     霧散した砂のひとつぶひとつぶに、意識はあるのだろうか。
    「吸血鬼は流水苦手って云うのも、それが理由か?」
    「私の場合はそうだけど、原型はパプテスマだと思う」
    「パプ……?」
    「パプルドくん、キリスト教の洗礼だよ。キリストは川で洗礼を受け、罪を洗い清めている」
     肩をすくめてドラルクが返した。
     川の上の小舟。ふたり対面で座っている。
     どうしてここに居るのだろう。仕事だったっけ? でもどうしてこんな状況に? 小舟にはオールもなく、ざあざあと流れる川の上、吸血鬼と退治人はどこまでもどこまでも流れていく。
    「この状況で、きみは私を殺すかね?」
     ドラルクは云いながら、手を組んだ。
    「殺すわけねーだろ」
    「いつもは殺しているだろう。些細なことで」
    「おまえだって、些細なことで死んでるじゃねーか」
     そんなことは知りません、みたいなとぼけた顔が返ってくる。柱の角にぶつかっても死にくせに、何をとぼけているのか。
    「そうだね。ここで『何か』起きたら塵になる」
     その何か、が起きないことを願った。
    「こらえろよ」
     いろんな方法を頭の中でシュミレートしてみるも、川に落ちた塵のドラルクは救えなくて、嫌な汗が滲んできた。
    「頑張ろう」
    「……おら」
     ほかに方法が浮かばなくて、手を差し出す。
    「なんだ?」
    「手を握ってやるから。そしたらびっくりしないだろ」
     幼いとき、こわいことが起きると兄に泣きついていた。兄はやさしく、ロナルドを宥め、気持ちが収まるまで手を握ってくれていた。
    「そんな幼稚なことを」
    「うるせぇ。兄貴がこうやってくれたんだよ」
     握ったきた手を、しっかりと握り返す。
    「ビビルドくん、きみのほうが怯えているな。今は何におびえている?」
     手から震えが伝わっているよ、と眉根を下げて云ってきた。
    「…………」
    「私が死ぬことか?」
    「………………」
     返事をせずにかれを見る。そのまま引き寄せて、腕の中に収めた。細くて、華奢な吸血鬼。
    「きみ、吸血鬼退治人だろう? 私が居なくなれば本望だろう」
     大人しく抱きしめられた吸血鬼が肩の上に顎を載せ、鼻先を襟足につっこんできた。
     嫌だ、と返したいが、うまく言葉が出ない。
     相手は吸血鬼で、事務所の備品でしかない。かれはひとではない。ひとではない相手に、こんなに心搔き乱されるとは思っていなかった。
     備品でしかないなら、壊れたときはどうなる。もう戻らないほどに、壊れても器物破損の扱い。
     かれのことを、破棄も処分もリサイクルも、できるわけないのに――。
     ぱたぱたと涙が頬を伝い、机へ落ちていく。このままでは書類がびしょ濡れだ。
     書類?

     見開いた眼の先には、市への申告書類がある。下の方に涙が沁みてよれってしまっていた。
     ロナルドは袖口で涙をこすり、鼻をすする。
     変な夢を見た気がする。とても悲しい夢だ。夢の中で泣くと、現実でも泣いているのは、よくあることだった。
     書類は、税控除の所持品申告欄で止まっていた。退治人が保持する武器や装備の申告でもある。仕事上、事務所を開いているロナルドは事務用品や雑多なものもここに入れられることになっていた。
     ここに書き込まぬためには、どうすればいいか。
     吸血鬼が「正式」な戸籍を所持する場合、一定の条件が要る。ロナルドはまずは市の吸血鬼課で専用の書類をもらって、VRCにて非危険証明書を発行してもらった。次に証人として人間の署名を五人に貰い(ギルドのメンバーは快く書いてくれた)、市役所へと登録申請を出した。
     が、――県警の吸血鬼対策本部からの通達で、書類は拒否された。
     元より申請の認定率は〇.五パーセントと聞いていたので、さほど期待はしていなかったが、不受理の結果が来たときは肩を落とした。書類には滅多に書かれないと聞いていた不受理理由もちゃんとあった。ドラルクは竜の一族の末裔で、諸外国からはS級にあたると見られている。このため、認知上はクソ雑魚だと判っていても、ランクは下げることが出来ず、危険吸血鬼としてマークされているのだ。おかけで、吸血鬼用戸籍発行は許可できない、とのことだった。ドラルクが竜の一族の一員だと云う事実は消すことが出来ない。つまりは――一生受理されないと云うことだ。だからこそ、理由が書かれていたのだろう。もう二度と申請をするな、という意味でも。
     戸籍なんてナンセンスなもの、とっとと廃止して欲しかった。
     ロナルドは今年もあきらめて、また同じ個所に同じ名前を書く。書きたくない気持ちが、悲しい夢を見せたのだと思う。最後に書いたクの文字が濡れた部分に引っかかり、紙が破けた。
     嫌になってそのまま紙を丸め、ゴミ箱に放る。同じ書類を、また貰って来なければ。
     この問題が、いつの間にか解決するなんてことはない。
     隣の部屋から甘い香りが漂ってくる。おそらくは、備品が焼いたケーキの香り。そろそろお茶を持ってくるはずだ。
     備品は備品のまま。
     ならば、備品を大切にしたかった。
    スープ 


    「おまえ、本当にいいの? 今から頼めば大丈夫だと思うんだけど」
    「別にいいよ。今日は寒いし、雨だし。ほら、いってらっしゃい」
     玄関口での見送り。曲がったマフラーを直してやり、送り出す。外は冷えた雨粒が降り注いでいる。この冷え方だと、このまま雪になるような気がした。実際、予報では明日の朝に雪マークがついていた。
     ロナルドは不満げな顔で事務所を出ていく。送り出すと、今日は休業日なのでそのまま鍵を閉めた。
     事務所は暖房が入っていないために、身震いをすると、ドラルクは居住区に移る。おお、さむい。
     ひとがひとり減っただけで、室温がぐんと下がった気がした。
     部屋に戻ると、ソファの上でひざ掛けにくるまったジョンが本を読んでいた。最近ヒナイチとミステリー小説の交換会をしているらしく、今日も違う本を読んでいた。分厚いから妖怪が出てくるやつかと聞いたら、探偵がいっぱい出てくる、返ってきたので違うらしい。
     ドラルクはエプロンをつけると、夜食の準備をしはじめた。返ってくるのは遅いかもしれない。けど、緊張して食事など出来ていないはずだ。何度も付き添ったオータムの立食パーティでは、いつも帰宅してから食事をしていた。もちろん、オータムパンが苦手なのもあるだろけど。
     冷蔵庫から、昨夜仕込んだ豚の塩漬けと水戻しした白いんげんを取り出す。肉を厚めに切りそろえ、次いでベーコンの背脂も切った。一度まな板と包丁を洗うと、次に野菜を賽の目に切りそろえる。たまねぎ。にんじん、キャベツ。カブにじゃがいも、カリフラワーも。本当はリーキを使いたいけど、買えなかったので長ネギ。後は、隠し味に刷りおろしたセロリ。ロナルドはこうやって気づかぬうちにセロリを口にしている。かれが嫌いなのは、おそらくは形状で、味はそこまで嫌いではない。調味料の一部として使ってしまえば、問題なく食べた。
     背脂と生姜を大ぶりの鍋に入れ、香りを出すと、肉を投入。本当はニンニクを使うんだけど、生姜で勘弁してもらう。この辺はロナルドを笑えないけど、こっちは生死にかかわるので仕方ない。肉に火が通ったら、野菜を投入してじっくり炒める。野菜がしんなりとしたら、白いんげんを投入。
     ローリエ、タイム、ベーコンを入れて、水を浸すくらいに入れる。煮込み始めたら、隣のコンロにフライパンを出して、背脂の残りとカブとジャガイモを軽く炒めた。こうすると甘みがぐっと中に納まったまま型崩れがしにくくなる。
     アクを掬いながら、三十分ほど煮込んだ後、焼いたジャガイモとカブを投入。ここからまた三十分は煮込む。最後に塩コショウで味を調えた。
    「ジョン、ジョーン。味見してもらえる?」
     呼び出すと、とことことアルマジロがやってきた。ひょいっと抱え上げて調理台に乗せると、小皿にスープをよそう。
     ふうふうと熱を冷まし、スープを飲み込むとジョンはサムズアップをして見せる。よしよし、味は完ぺきだ。ガルビュールは完成。
     鍋に蓋をして、次にパンでも焼こうかな、と手を洗った。簡単にカンパーニュとかでいいかしら。それともデザートを作ろうか。
     小さな手がエプロンを引き、ドラルク様、これ、ヌーはおにぎりと一緒に食べたいです、と云ってくる。おお、そうか。スープにはバケットと思っていたが、ごはんは盲点だ。冷凍庫を確認すると、おにぎりが出来る量は入っておらず、米を研いで炊飯器にセットした。
     さて、炊けるまで暇だ。
     ゲームはあらかたクリアしてしまっているし、新作が届くのは来週。もう一週してもいいが、なんだかやる気が出なかった。
     不意に、ダイニングテーブルにロナルドが飲みかけたカフェオレのマグが置きっぱなしだと気づいて立ち上がった。
     ずっとくすぶりながら飲んでいたカフェオレ。マグを覗くと、一口分だけが残っていた。こうやって、いつも最後のひと口をのこして時間を稼ぐのだ。
     去年から新しい出版社で、ロナルドのコラムがスタートした。レッドフラッグ新聞社がオータム出版との戦いでコラム権を勝ち取ったのだ。一応全国紙だが、あまりメジャーではない新聞社の土曜コラムをロナルドが担当することになったのだ。退治人からの目線でお願いします、とのことで、毎週退治人として感じることをつらつらと寄稿していた。
     先月の終わりに載ったコラムが、要らぬ騒動を引き起こすこととなった。
     ロナルドは吸血鬼の備品登録について苦言を呈したのだ。新聞自体は吸血鬼に対してリベラルだが、アンチ吸血鬼の団体がロナルドのコラムを引用し、攻撃を始めたのだ。退治人のくせに、何故吸血鬼を擁護するのだとの反論。おそらくかれらは、ロナルドウォー戦記を完全なるフィクションだと思っているか、読んでいないかの二択だろう。
     そのことが火種となり、ロナ戦のファンとアンチ吸血鬼団体、そして吸血鬼支援団体が参戦、果ては新聞の一面を使った論争になった。それもあってか、これを話題にする議員たち動いてくれた。ロナルドがいつもその議員の政党に投票していたことは、ドラルクも知っている。
     結果として、ロナルドのコラムは上を動かすこととなり、今期の国会で備品項目からの吸血鬼を排除する法案が提出された。法案自体は受理されたが、修正案を提出し原案の賛否は政調会長に一任することとなったままだ。つまりは、備品問題にまだ解決はない。
     それでも、おかしい、とロナルドが声を上げたことはさざなみのように広がったのだ。
     ロナルドは、その新聞社の年末パーティーに参加することとなって、今日は出掛けている。オータムのパーティーならば、ドラルクも執筆していることもあり、コンビとして参加できるが、今回のパーティーは違う。もちろん同伴者として参加することもできたが、家に残った。ロナルドが壇上でスピーチをする予定だと聞いていたので、行きたい気持ちもあったが、かれの担当から、当日アンチ団体が来る可能性があることが通達された。ドラルクはそんなもの特に気にしてもいないが、ロナルドは大いに気にした。
     吸血鬼は畏怖されて当然なものだから、嫌うものの存在は否定できない。だから、ずっと気にしてこなかった。どうせ殺されても、すぐよみがえるし、と伝えると、ロナルドは真面目な顔で、来るな、と云ってきた。それでも、出掛けに急に弱気になったのか同行を求めてきた。もちろん、ひとりで行かせたけど。
     ビジネスアタイアで、とのドレスコードの知らせにきっちりとしたスーツに着替えたロナルドは、なかなかかっこよかった。七五三だとからかうと、すぐに怒って手が出たので、いつものロナルドに戻っていた。せっかくのパーティーだし、かれの功労は労われるべきだと思った。寒くなるから、とカシミヤのコートとマフラーを纏わせ、外に追い出す。黒いコートに赤いマフラーが、銀髪を際立たせていた。
     
     ドアノブを無理やり開こうとする音に気付いて、顔を上げた。
     いつの間にかソファで眠っていたらしい。すでに米は炊けているのか、部屋中に炊き立ての白米の香りが漂っている。一緒に眠っていたらしいアルマジロが、膝の上から顔を上げた。
     時刻を見ると、午後十時半。ロナルドが帰って来るには、まだ早い。パーティの開始時刻は、八時からだったはずだ。
     寝ぼけたジョンをそのままクッションの上に移動させ、事務所に顔を出した。
     扉一枚隔てた部屋は、ひんやりと冷えている。
    「誰?」
     思わず声を掛けると、雪まみれのロナルドが立っていた。
    「ロナルドくん……? きみ、パーティはどうしたの」
     慌てて駆け寄ると、溶けた雪の結晶をロナルドは払った。冷えたしぶきが当たり、少しだけ砂になる。雨は、いつの間にか雪になっていたようだ。
    「抜けてきた」
    「何で」
     云いながらコートを脱ぐので、思わず受け取ってコートハンガーに掛けた。続けてマフラーも受け取る。マフラーには、まだぬくもりがあった。
    「みんなパートナーを連れてきてるのに、俺はひとりで」
    「はじめに来るなって云ったのはきみだよ」
    「そうだ。来なくて正解だ」
     ほら、とスーツについたシミを見せられる。光沢のある布地が、そこだけさらに光っていた。思わず顔を近づけて、匂いを嗅いでしまう。
    「――卵?」
     匂いは、生卵に似ている。
    「入るときに投げつけられた」
     外にアンチ団体が来ているとは本当だったようだ。顔を知られているロナルドは、いい標的になっただろう。
    「最悪」
     眉を顰めると、ロナルドは頷きながら苦しかったのかネクタイを緩めてほどき始めた。
    「パーティで、吸血鬼の伴侶が居る作家さんを紹介されたんだ。かれの奥さんは後天的な事故で吸血鬼になったひとでさ。だから戸籍は保持したままなんで特に結婚に問題なかったそうなんだけど、俺と同じように備品としての所持品登録で、形式上の夫婦になったカップルの友人が何人も居るって説明されてさ。……応援してますからって云われた」
    「……ん?」
     言葉の意味を咀嚼しようとして、首を傾げた。形式上の、夫婦だって?
    「聞き返したら養子縁組の、吸血鬼版がそれだって云われて」
    「待って。じゃあ、論争が起きてたのって」
     ロナルドのコラムは、備品ではなく結婚を認めるようにも取られたのだ。
    「それも、ある」
     ロナルドの問題提起は、友人が殺されても器物損壊罪としかならぬことを嘆いてのものだが、それも含めて吸血鬼を殺すことが生業の退治人の口から出たのだ。それは話題にもなる。
    「きみ、私を登録するときになんて云われたわけ?」
    「きゅ、吸血鬼のパートナーは、それが一番減税になりますって役所で説明された」
     ロナルドは純粋にパートナーを相方みたいにとらえていたのだろう。役所の人間は、そうでない意味も含ませて答えていた。
    「あー……」
    「おれ、そこまで考えていなくて」
    「だろうね」
     ドラルクはロナルドのもとに来て、ずっと備品だった。新横浜に来てからいろいろと不都合があったので、吸血鬼用戸籍を念のために申請したが、不受理のままだ。吸血鬼は人間ではない。ならば仕方がないと思っていた部分もある。けれど、ふたつの種族は言葉は交わせるし、情も交わせる。今はきっと、その過渡期にあるのだ。
    「今日カップルだらけの中、おまえが隣に居ないのが、すごく嫌だった」
    「…………」
    「隣には、おまえが居て欲しかった。そうしたら、おまえの顔が見たくなって、どうしても帰りたくなって」
     だから、抜けてきた。
     そうつぶやく。顔は真っ赤で、耳先までも真っ赤だった。
    「んっふー! 今頃私への気持ちに気づいたのか、若造!」
     遅すぎるわ、馬鹿ルド、と云うと軽いパンチが入る。
    「て、てめー!!」
    「きみの気持ちは知ってたし、私も同じ気持ちだよ」
     砂になった躰をナスナスとよみがえらせながら、返す。
     そうだ。ずっと知っていた。知っていても、このままの関係でも満足していた。かれと一緒に居れば、満足だったから。
    「おまえ、それって」
     意地悪く、赤いのにまだ冷えたロナルドの頬に軽いキスをした。音が出るような、軽いキス。
    「お腹空いているだろう? きみのことだ。どうせろくに食べていない。早く着替えて手を洗いたまえ。私は、スープを温める」
     云って振り返らずにキッチンへと向かう。
     こころは、スープ以上に温かくなっていた。
      
     11月1日


     ドラルクは明日起きてからの手順を考えた。
     ますば、汚れた部屋の片付け。壁につけたハロウィーンの装飾たちに、床に置いたカボチャのランタン風オブジェ。

     台風が来たおかげでパーティー自体はなくなったが、悪くないハロウィーンだった。武々夫にいたずらをしかけ、終わったあとに焼いた菓子を渡してやった。去年は祖父が自分に化けて盛大なパーティーを開いた。
     本来のハロウィーンとはかけ離れたものだったが、今年は近づいた気がする。かと云って、正式なハロウィーンをドラルクは知らないのだが。
     生まれ育ったルーマニアでは、正教会が強くハロウィーンはなかったのだ。今では商業ベースとして日本のように根付いて来たようだが、ドラルクが居たころは、影も形もなかった。ハロウィーンはもとはケルト民族の風習で、カボチャではなくカブだったはずだ。この世とあの世が曖昧になり、悪鬼から身を守る変装は、今では好きな仮装してパーティーをするイベント行事に成長している。
     今では我がもの顔でこの時期はオレンジ色と紫色に彩るが、日本だって、ドラルクが来たときはこんなイベントなかった。これはきっとハロウィーンでなくハロウィン、そんな感じだ。
     XmasもX’mas。
     同じ名で違うもの。それが楽しい。
     この事務所に来て、正式な書類にドラルクの名をロナルドが書いたとき、スペルが間違っていた。そこ、uは要らないよ、と云いたかったが、なんだか新しい自分みたいなのが嬉しくてそのままにした。本当は日本に来たとき、漢字にしたかったことを思い出す。
     竜乃 怒羅流狗。
     我ながらカッコいいと思ったが、使い魔が転がって反対したので、漢字の名前はなくなった。今見てもカッコいいと思うのに。
     日本に来て一番最初に好きになった行事はお正月だったが、宗教関係ないクリスマスも大好きになった。ハロウィンが終わって感謝祭(日本では何に感謝してるかまだ判らないが、感謝祭後のブラックフライデーとサイバーマンデーを導入してくれたのは嬉しい。ゲームが割引セールされるし)クリスマスが来てお正月。元より楽しいことが好きだ。この短い期間に詰め込まれた行事の数々が大好きだった。
     武々夫とフクマが帰り、いつものメンバーが事務所に残った。皆にふるまった残りのバームブラックをラップでくるみ、冷蔵庫に仕舞う。どうせならちょっと本格的にしたくて作った、ハロウィーンに食べるアイルランドの焼き菓子だ。
    「残り、明日朝ごはんにしてね」
     夜明けまで数時間。ロナルドは、寝ればいいのにあと一口分残ってマグをぐるぐると回しながら窓を見ていた。台風はまだくすぶっており、窓を揺らしている。
    「寝ないの?」
     起きたらロナルドは片付けると云っていたが、彼は明日の午前に仕事が入っていたはずだ。
    使い魔のジョンは、もう夢の中だ。
    「寝るよ」
     云ってくるくるとマグを回す。
    「それ、早く飲んじゃいなさいよ」
     かれは、名残惜しいといつもこうやって最後の一口をなかなか飲まない。
    「うん」
    「私はもう寝るよ」
    寝巻きに着替えて、こちらは準備万端だった。
    「うん」
    「ロナルドくん、寝なよ?」
     まだ窓を見てるロナルドを横目に、ドラルクは棺の蓋を閉めた。
     横になって目を閉じ、明日起きてから手順を考えた。あれを先にやって、次にこれをして、最後にーーとうつらうつら考える。
    「ドラルク、寝たか?」
     不意に、寝落ちそうな瞬間聞かれた。
     眠すぎて返事をしないままで居ると、棺が揺れ、きしむ音がした。おそらく、ロナルドが寄りかかっているのだろう。
    「俺、ハロウィンに興味なかったんだ。この日、仕事してるとコスプレなのか本物の吸血鬼なのか判らんなくなるから、邪魔だとしか思わなかったし、嫌いだった」
     ロナルドの声が近い。おそらく、この辺に居るはずだ、と棺の内側から撫でた。感じるはずのない体温が、そこにあるようだった。
    「その俺が、パーティするなんて、思ってなかった」
     返事をするタイミングを失ったために、ロナルドの独り言が続く。面白いことを云うなら、録音しておきたいが、ガサガサさせれば起きたと思われて言葉は続かないだろう。
    「……おまえらが来て、楽しいことばかりだ」
     聞いていないことを前提の言葉たち。
    「ドラルク、…………だ」
     あ。
     今のは録音すべきだったなーーと思いながら、眠りの淵にドラルクは落ちて行く。返事をしたかったが、相手は返事を期待していまい。これは、独り言だ。
     ドラルクだって、返事など期待せずにパームブラックを焼いた。切っても切っても仕込んだ品は出てこず、誰もそれを口にしなかった。あれは、きっと残りに入っている。
     明日の朝、きみはそれを口にする。
     中に仕込んだ指輪を見て、驚くロナルドをバカにする夢を、ドラルクは見た。
    夜の色


     視界の先に、一足早く寝落ちた吸血鬼が居る。
     顔色は悪く、死人のような色。青褪めた、よりもさらに血の気が引いた色。彼らのからだは、血液が少量しか循環しないために、文字通り血の気を失った色をしていた。この顔色で生きていられるのが、いつも不思議だった。かれらのからだを僅かに巡る血たち。それでも、口を開けば舌は赤い。養分が真っ先に染み込む位置だから、とはもっともな云い分だが、事実かどうかは判らない。かれの長い舌は艶めかしく、薄いくちびるから発せられる言葉はいつも軽快で、よどみなく、問題なく日本語を話す。かと云えばまったく理解できない異国の言葉を流暢に話した。
     ドラルクのボキャブラリーは豊富で、聞いたこともないような罵詈雑言を繰り出し、いつもロナルドを蔑んできた。蔑むと云っても、抉るような辛辣なものはない。ぽんぽんとまるで弾けるポップコーンのように、次から次へと投げつけられる言葉たちだ。ロナルドも負けじと投げられたポップコーンを食べつづけ、代わりの罵詈雑言を投げ返した。今ではその応酬が日常となり、生活のリズムになっていた。
     新横浜まで押しかけた吸血鬼は、ロナルドの一番親しい友人の位置に一気に登り詰め、その位置すらもあっと云う間に突き破った。
     かれの城を壊したことで、こんなことになるとは思わなかった。破壊された城跡は、今ではひまわりが咲き誇る観光地になっている。
     その前から、かれ自身が観光の目玉に祭り上げられていた。勝手なキャッチコピーをつけられ、町興しのマスコットになっていた。悪い気はしなかった、と本人は云っていたが、城亡き後、あの町の人間がドラルクを引き戻しに来ることはない。町にとって、その程度の存在だったのだ。城を爆破しても、ロナルドは責められることもなければ、警察が来ることもなかった。埼玉県県警吸血鬼対策課も、伊奈加町観光課も、ドラルクの扱いはその程度だったのだ。
     利用価値が消えれば、追いもしない。
     それに関しても、わだかまりを感じるのはロナルドのみで、ドラルクは何とも思ってないようだった。
     きみが考えるべきことじゃないよ、真面目ルドくん。
     云って鼻先をつつかれ、笑われた。
     いや、少しは考えろよ。
     自分よりも高名な退治人が現れ、この事務所を破壊し、かれの第二の住処を失ったら、どうなるのだろう。
     すでにロナルドの生活の一部と成った吸血鬼と使い魔が消えたら。
     かれは壊した退治人のもとに行くのか。
     いいや。
     いいや、引き止める。それとも、行かないでくれと縋るだろうか。醜態を晒したら、かれは残るだろうか。
     そうすれば、腕の中で眠る吸血鬼は、どこにも行かないだろうか。
     人見知りしない吸血鬼は、誰とでも仲良くなった。自分とは対照的な性格の吸血鬼は、享楽のためなら簡単にこの手を離すような気がして恐ろしい。
     こんなに近い関係になっても、拭いきれぬ不安があった。
     毎日用意されるあたたかな食事。かれの手で作り出される好物や、知らない料理たち。この世には、未知の食べ物が山とあるのだと知った。
     親代わりだった兄は、退治人として働き弟妹を養っていた。食事を作っていたのは主にロナルドで、帰宅してあたたかな食事が待っていたことなんて、ほとんど体験してこないことだった。
    毎日帰宅して、おかえり、と誰かが待っていることもなかった。兄の帰宅は不規則で、バラバラに帰る歳になった妹は、アルバイトを始めていつも帰宅が遅かった。
     両親が居る家庭とは、こんな風だったのだろうか、と擬似的にも感じた。
     あたたかな食事と待ち人に、親が居る世界をロナルドは垣間見た。
     だが、かれは親ではない。
     ロナルドも世話をされる、こどもでもなかった。かれがよく幼児やら五歳やらと揶揄うのも、そこが原因なのかもしれない。だが、ロナルドは分別のない幼な子ではないし、幼な子のまま甘やかされるつもりもなかったし、かれの子供になりたいわけでもなかった。
     かれだって、ロナルドの親になりたいわけじゃないだろう。
     親とは、こんな関係にならない。
     肉親がくれるべき愛情に、飢えていたのは確かだ。
     愛にずっと不得手なのはきっとそれが判らないからーーとはなんとなく理解していた。判らないから、今までどう頑張っても恋愛は発展してこなかった。
     ずっと判らなかった。
     惚れた相手に抱くべき情は、兄に抱く感情でも妹に抱く感情でもない。母親や父親への愛情でもない。もちろん友人でもない。どの感情を差し出してよいのか、いつも判らなかった。
     恋人にどんな感情を抱いていいのか判らず、いつもぐちゃぐちゃになって、失敗し続けた。
     けれど。
     ドラルクがやってきて、判らなかった感情がどんどんと整理されて行った。
     感情は分別され、あるべき位置に戻って行った。
     家事はかれの趣味だが、何が楽しいのか、と一度かれに聞いたことがある。料理は科学で、食材と食材の掛け合わせは実験であり、実験が正解である「美味しい」に導き出されるのが楽しい。掃除はあるべき場所にものが戻り、埃や汚れのない状態に戻すのが楽しい。どんなことにもゲームのような感覚で挑んでいるドラルクが、かれらしかった。
     そしてかれは、ロナルドの感情さえも綺麗な位置に戻したのだ。
     かれは一度も、ロナルドのためにやってやっていると口にしなかった。誰かためであるなら、それはロナルドではなく使い魔のためであり、これはあくまでかれの趣味で、その延長上にロナルドが居るのだ。もちろん畏怖や感謝は求めてくるが、甲斐甲斐しさも、押し付けがましいこともない。
     それが良かった。
     ロナルドがドラルクを好きになったのは、かれが料理が上手いから、ではない。もちろんかれが作る料理は好きだし、最高だとは思っているけど。それを無くしたら、嫌いになるなんて今ではありえない。料理が出来ないなら、ロナルドがすればいいし、掃除だって自分でする。かれは、ていのいい家政婦ではない。
    かれは、あたりまえに与えられものが、どんなものか理解させてくれた。それを自分も持っていいのだと、理解させてくれた。
     理解すると同時に、ドラルクへの感情がすん、とあるべき場所に収まった。
    ロナルドが一番好きなドラルクは、「楽しんでいる」ドラルクだ。享楽的なかれが、料理や掃除、ゲームを楽しんでいるのを見るのが好きだった。かれの楽しさは、ロナルドも楽しくした。陰鬱な気持ちを吹き飛ばしてくれた。にぎやかな世界に塗り替えてくれた。煙草の数だけ増えて行った孤独さを、ヤニごと消し去った。
     一度理解した「好き」は、友情を軽く飛び越した。友人の位置に、ドラルクは座らなかったのだ。ロナルドの理解する友人の椅子は、かれには不相応だったのだ。
     はじめて好きだと伝えたとき、さんざん揶揄い馬鹿にされた。それこそ、勘違いしているのだと諭された。餌を与える親鳥への感情を勘違いしたのだ、と口にした。勘違いなどするわけない、と返すと、困惑した顔を見せた。きみは人間で私は吸血鬼だ、と何度も口にした。
     昼の子よ、きみの大切な太陽の時間を奪わせないでくれ、とも云った。
     そうやって、かれはときおり詩的なことを云う。だから、ロナルドもこう返した。
     夜の申し子、おまえの月の時間を分けてくれ。
     ドラルクしばしの真顔と大爆笑をして、ロナルドを抱きしめてくれた。
     それから何度かキスをして、先週キスから先に進んだ。冷えたかれのからだに、熱すぎるくらいの暖を分けた。
     溶けそうだ、とドラルクは細いからだをくねらせる。ロナルドはドラルクのくれる冷たさが心地よかった。お互いに足らないものを分け与えるように、混ざり合う。
     情を分けるたびに、今まで曖昧模糊だった愛のかたちがロナルドのなかではっきりと色づいていった。
     夜を分けた与えてくれた吸血鬼は、腕の中ですやすやと眠っている。彫りの深い眼窩と、高い鼻。意外と長い睫毛。ずっと見ていたかったけど、ロナルドもうつらうつらとしてくる。それでも、回した腕を外したくなくてちからを強める。
     夜は、愛の色をしていた。
    特集
     

     週刊バンパイアハンター以外にも、ハンターや吸血鬼を取り上げる雑誌はある。もちろん部数やら知名度は週バンが上だが、その下には烏合の集がごとく出ては消える雑誌たちがあった。存在はカストリ誌並みだが、毎号デタラメを並べて書き続けるも、生き延びる雑誌がひとつあった。最初は週刊だったが、今では季刊誌に成り下がるも、まだしぶとく出ている。創刊当初、ロナルドも取り上げられたので読んだことがあるが、中身はデタラメは陰謀論やら噂を取り混ぜ、一パーセントの真実だけを含んでいる内容で、そこが厄介だった。
     ロナルドは、その雑誌が嫌いだった。
     カメ谷のようにあからさまに取材をしてくれた方が判りやすい。
     隠し撮りで映された写真が表紙を飾っている。ロナルドのうしろには吸血鬼が居り、かれだけはカメラに気づいたのか、不機嫌な視線が寄せられていた。
     パパラッチは今にはじまったわけではないが、こうも私生活に踏み込まれると腹が立つ。週刊バンパイアハンターは、無礼な部分はあるものの、踏み込んではいけない箇所は心得ていた。例えば、カメ谷はロナルドの兄が元ハンターで、今は吸対の隊長だと云うことを知っているが、そのことを追及したことはない。週バンは、あくまで「ハンター」としての人物像しか取り上げない。かれらは不可侵のゾーンを判っているのだ。
     件の雑誌の表紙には「禁断の愛」やら「同性愛疑惑」やら、口の中が苦くなるような文字が並んでいる。
    朝早くからヴァミマの店長が「入ってきたんですが、並べない方がいいと思って」と、この雑誌を持ってきたのだ。
     不機嫌な顔で撮られた吸血鬼はすでに休んでおり、ロナルドは寝惚けたまま雑誌を受け取った。
     コーヒーを口に含んだが、コーヒー以上の苦さがぐるぐると胃を回る。
     中をパラパラと見るが、読むに耐えられない内容だった。記事は、ロナルドとドラルクが恋愛関係なことを面白おかしく伝えて入る。おそらくオータムに許可を得ていないだろうぼやけたロナ戦の書影と、本文からの引用が面白おかしく脚色されて見出しになっている。色恋は、吸血鬼ハンティングには関係ない。出はじめはまだハンターや吸血鬼を紹介しありとあらゆるデタラメを書き並べた本だと思っていたが、今はただのハンター専門のゴシップ誌になっているようだった。
     問題は、恋愛に関しては外れていないことだ。
     ここにあるのは僅かな真実を混ぜ込み、膨らし粉で膨張させた話。死にやすい吸血鬼とのセックスを誇張して、吸血鬼との性愛を見下した文章で書き連ねていた。
     見出しにある「禁断の愛」ならダンピールはこんなに居ないし、同性愛も「疑惑」だなんて、今では違法でもなんでもない恋愛は、疑うことではない。紆余曲折はあったが、今では同性婚も問題がなく出来る。人間同士の異性愛がそんなに偉いのか。おまえたちの恋愛はノーマルではない、人以下だと云わんばりの内容だった。どこに突っ込んでいいのか判らず、ロナルドは眉間のシワだけを深くする。
     この記事が出てしまったからには、人目に触れるし、そういった目で見られることになる。ならばいっそ公表すべきなのか。
     どうやって?
     誰が誰と付き合おうと、見知らぬ人に公表する義務などないはずだ。おかしな吸血鬼が多いこの地で、おかしな能力を披露することは違う。
     ああくそ。
     雑誌の上に忌ま忌ましげにマグを叩き置く。
     置くと同時に、棺が開く音がした。起きるには早すぎる時間だ。いくら精度のいい遮光カーテンがあっても、吸血鬼が起きる時刻ではない。
    「……うるさいよ」
    「え?」
     一切声は出して居なかったのに、何がうるさかったのだろうか。
    「きみ、無自覚だろうけど、イライラすると貧乏ゆすりをする癖がある」
     なるほど、苛立ちの振動が床を伝っていたわけか。
    「なあに、それ」
    「……ゴシップ誌」
    「あー、あのときの。やっぱり撮られてたのか。先月ラブホテルから出たときだよね」
     ドラルクは寝間着のままロナルドから雑誌を奪った。無駄に性能のいいカメラをお持ちのようだねぇ、とため息交じりに云う。最近は役者にも吸血鬼が増えたので、カメラの性能が格段に上がったのだ。
    「おい」
    「すごい見出しだなあ。時代錯誤」
     呆れた顔でページをめくる。
    「おれもそう思う」
    「おや、珍しくゴリラも同意見」
    「おれは常識人間だろ」
     むっとした顔で返すと、当然のような顔でロナルドの膝にドラルクは座った。見せつけるようにホテルから出て手を繋ぐピンぼけの写真を広げる。
     ロナルドとドラルクの関係が変化したのは、ロナルドウォー戦記の四巻くらいだ。読み返すと自分でもびっくりするくらい、ドラルクの書き方が違う。近刊ははっきりと恋人とは書いていないが、隠してもいない。距離の近さは、あからさまだった。
     お互いはじめてすぎて、キスひとつでびくついていたあの頃が懐かしい。
    「びっくりするくらい暴力的な真面目人間なのは知ってる」
     寝間着の薄い生地越しに、骨を感じる。寄せられた腰に腕を回し、ゆるく抱き込んだ。
    「おまえはどう思う?」
    「どうって、ひどい見出しだけど、ある意味真実だしね。放っておけばいいんじゃない?」
     確かにそうだが、まるでドラルクとの関係が「異常だ」と云わんばかりの記事に、腹が立って仕方ない。
    「けど……」
     云い淀むと、デンワワワ、とロナルドのスマートフォンが鳴る。画面には「カメ谷」と出ていた。

     週刊バンパイアハンター
     ――特集「どうなる?吸血鬼との結婚事情」
      ・吸血鬼と結婚のための準備
      ・提出書類エトセトラ
      ・夜間結婚式が可能な施設一覧
      ・ハンターから見た吸血鬼との結婚
      ・吸血鬼と結婚したカップルへの質問100選
     ――小特集「コンビからパートナーへ」
      ・退治人ロナルドと吸血鬼ドラルクのロングインタビュー。
      ・ギルドから見たふたり
            (以下抜粋)
       ーーあの雑誌(※)を見たときの感想を教えてください。
       「正直、今更でした」
       「とゆうか、知らない人は居ないと思っていたアル」
       「これが記事になるとは……と思ったぜ」
       「ドラルクの唐揚げはめちゃくちゃ美味しいです」
       「ここに居るみんな、知ってましたよ」
       「むしろあれでつきあってない方がどうかしてる」
       「いつ結婚すると云い出すのか待ってた」
       「パパは許しません」
       「あれから堂々と人前でいちゃついて困ります」
       「パパはまだ許しません」
       (一部、部外者が混ざっていますが、声が大きいために掲載しています)
        ※……ロナルドウォー戦記無断使用のため、オータム出版からの訴訟を受け、先月廃刊しました。
    時間 


    「あらあら、女の子が居たのね。お兄ちゃんたち、良かったねぇ」
     知らぬ年配の女性が、ヒマリの頭を撫でていた。兄の顔は笑顔だったけれど、ロナルドの手を握りしめた指先が、ぐっと強張るのが判った。

     ドラルクが起きるのは日没後。ときおり気まぐれに日の落ちる前、夕闇の時間に起きるが、大抵は同じ時刻に棺の蓋を開ける。日の入りから日の出の時刻、夏場であれば七時間程度、冬となれば十一時間弱がかれの世界だ。人間である自分に充てた平均睡眠時間は七時間。もっとも、それは最長で仕事や執筆により流動する。睡眠時間が重ならぬかれと自分とでは、残りの十七時間のうち、被るのは半分程度だった。
     独り暮らしを始めて時間は誰の為でもなく、自分だけのものになった。何時に起きようと、何時に食事を取ろうと、気兼ねする相手は居ない。好き勝手出来る自由さの代償は、自分に降りかかった。仕事にかまけて溜まって行く家事たち。おろそかになる睡眠。疲れればそれなりに手抜きになって行き、初めは張り切って作っていた食事もレトルトや惣菜が多くなった。そこに罪悪感や、嫌悪感はなかった。
     自分を育ててくれた兄は、仕事が忙しければ食事の大半はスーパーの惣菜だったし、そうでなければロナルドが台所に立ち、妹とレトルトカレーを食べた。当時はまだ火を使うのを禁じられていたので、レンジで温めていた。小学校高学年になると火を使うことが許され、学校で習ったばかりの料理をふるまった。それでも、大方は兄が台所に立っていた。
     いつだったか、テレビで母親の死んだ家庭の幼い娘が母親代わりになり味噌汁を作るドキュメンタリーが流れていた。ヒマリはそれに感化されて、足らない背を補う台に乗り、台所に立とうとした。兄はそれにショックを受けて、頑なに幼い妹に家事をさせなかった。何故だ、と幼い妹と自分も兄に詰め寄った。
     おまえたちは、まだこどもだ。こどもには、こどもの役割をまっとうして欲しい。
     そう云った兄は、こどもの頃もっと苦労したはずだ。今になって考えれば、こどもの役割を一番奪われていたのは兄のはずだ。なのに。いやーーだからこそ、兄はこどもがこどもであるべきことを望んだのだろう。自分と同じ目に、弟妹を合わせたくなかったのだ。
     そんな兄が、ロナルドは大好きだった。
     ロナルドにとって「嬉しい食事」は味よりも三人揃った食卓だ。もちろん、そこに唐揚げが乗っていればなお嬉しいが。
     それでも、兄の手を煩わせたくなくて、何とか独り立ちした。それはヒマリも同じなのか、大学に入ると同時に全員がばらばらになった。
     ひとりになってから、仕事に追われるほど食べれるかたちがどんどんとおざなりになって行った。面倒ならば、あたためることすら省くようになった。誰かのために作っているわけでもないのだ。誰も困りはしない。最終的に自分ひとりの口に入るのだ。腹が満たされれば、それで良かった。あたあたかな食べ物が欲しければ出先で食べた。
     自由のはずなのに、ぎちぎちのスケジュールで自分の時間を仕事で満たしたていた。
     それが一変したのは、ドラルクと使い魔が強制的にやってたからだ。
     自分の空間に、他人がいきなり入り込んできたのだ。兄と妹以外の誰かと、暮らしたことはなかった。かれらにしか許さなかったプライベートな場所に、かれはずかずかと上がり込み、住み始めた。
     ドラルクが吸血鬼のため、就眠時間はきっちりとしていた。おかげで不規則な時間は規則正しいものとなり(勿論〆切時は無理だが)、使い魔のため、と云う名目で作られた料理は、あたたかで美味しかった。使い魔が歩きやすいように、と部屋の床はピカピカに磨かれ、使い魔には清潔なシーツを、とすべての衣類や布がふわふわでさらさらにされた。ロナルドは、そのおこぼれに預かっている。住まわせてやっているのだ、おこぼれを貰うのは当然だーーそう、傲慢に思っていた。
    「これは?」
     帰宅すると、目の前にあたたかな食事が出された。食べたかったカレーうどん。自分がつくるソフト麺にレトルトカレーを混ぜたものではない。蕎麦屋で出てくるみたいな、カレーうどん。ジョンは隣でカレーライスを食べていた。
    「何って、きみのリクエストだろう? もう忘れたのか」
     その通りだ。リクエストはした。けど、こんな立派なものは期待していなかった。カレーうどんの前にカレーだろ、と叫んでいたのも知っていたから、今晩出てくるなんて思ってなかった。
     これは、自分のためだけに作られた、カレーうどん。
     嬉しいはずなのに、何故だか怒りの方が大きかった。勿論ドラルクへの怒りじゃない。自分への怒りだった。
     人間より自由な時間は少ないくせに、ロナルドために時間を割いてくれていることへの、怒りだった。逆に云えばロナルドは、ドラルクのために己の時間を割くことはほとんどなかった。その罪悪感に、ひりひりとこころが傷んだ。
     それなのに、ドラルクは何度も何度もリクエストを聞いてくれた。かれの短い時間は、使い魔だけでなくロナルドへも分けられたのだ。
     本当は、かれがキッチンに立つのも嫌だったはずだ。自分のテリトリーの中で、一番踏み込んで来て欲しくなかった場所でもある。そこを、一番長く使うのは今ではドラルクになった。かれの手際はあざやかで素早くロナルドが口を挟む隙もなかった。
     ここはドラドラキャッスルマーク二だから、と嘯くドラルクに、毎回俺の家だと突っ込んだが、ここはすでにかれと、使い魔の家でもあった。
     今ではふたりと一匹で囲むテーブルが、好きになりつつある。
     溜め込んだままの自分への怒りがどうして良いのか判らず、兄に相談の電話をした。ハンターが吸血鬼対策課の隊長に吸血鬼の相談をするなんて、滑稽な話だった。
     ドラルクがきちんとした家事をして困っていること、かれがあたたかな食事を作ること、家事のすべて、あまりの手際の良さに苛立ってること、ただでさえ短いかれの活動時間を奪ってしまい、そのことにずっと怒っていること。
     繋がっているようで繋がらない話をしどろもどろにに兄に話す。辛抱強く聞いてくれた兄は、おまえさんは、ドラルクの手際の良さが煩わしいのか? と聞いてきた。騒がしいかれらが煩わしいのは煩わしいが、かれの「手際の良さ」が煩わしいなんて考えには至っておらず、否定の言葉を返した。ドラルクは片手間に家事をしてきたわけじゃないから、わしらみたいな時短を極めた手際にはならんじゃろ。培ってきたものがちがうんじゃな、と兄は独り言のような返事をしてきた。そうだ、かれと自分は違って当然だ。かれのように出来ない自分が居て当然なのだ。もやもやとした苛立ちが、煙のように消えていく。
     最後に、時間を奪うことはどうすればいいか聞くと、おまえはドラルクにどうして欲しいんじゃ、と逆に聞き返された。
     自由にして欲しい。かれには、かれの役割をまっとうして欲しい。
     兄がこどもがこどもであることを大事にしたように、かれがかれであることを大事にして欲しかった。誰かが誰かであることを、他人が奪う権利はないはずだ。
     兄からは、じゃあそれを伝えなさい、と簡潔に返された。それが云えたら苦労はしない、と返すと、じゃあ、ドラルクに家事は楽しいのか聞くといい、と返された。それくらいなら聞けそうだった。やっぱり兄貴は天才だ。
     電話を切る一歩手前、兄は、もしかしておまえ、気づいていないのか? と聞いてきた。何のことか判らずそのまま伝えると、おまえらしいな、と笑って電話を切った。
     何を、気づかなければいけないのだろうか。
     買い物から戻ってきたドラルクに、ロナルドは直球で聞いた。
    「なあ、おまえ、家事好きなの?」
     二パック買ってきた卵の一パックをドラルクは冷蔵庫にしまっていた。ガラガラだった冷蔵庫は、今ではみっしりと隙間なく詰まっている。かれと時差があるために、ジョンとロナルドに用意された作り置きの食事やら制作過程途中の品やら。知らない調味料たちに、普段買わない野菜の数々。手前の扉には、切らすことのない牛乳。
    「はあ? なんで。嫌いだったらしませんけど?」
     冷蔵庫を閉じ、振り返りざまにドラルクが返したきた。
    「好きなのか?」
     もう一度直球に聞く。
    「好きだよ。楽しいし、嬉しい」
    「嬉しい?」
     予期しない単語の登場に、ロナルドは片眉を上げた。
    「このドラドラちゃんのおかげで、きみたちが健やかに過ごしてるのを見ると、嬉しい」
     とん、と冷蔵庫に背を預けると、にやにやとした顔を見せドラルクが返してくる。
    「……それは、ゲームよか楽しいのか?」
     かれの趣味を持ち出す。ロナルドもゲームは好きだが、かれのようにやり込むことはない。
    「はあ? なんでそれと比べるの?」
    「家事しないでずっとゲームしたいとか思わないのか?」
    「したいけど、そんなに長くやったら疲れて死んじゃうよ」
     かれらしい返事。長い映画を見ていたとき、ずっと座っていたために、腰が痛くて死んじゃう、と本当に死んだことがあった。
    「家事だって、長くやったら疲れるだろ?」
     ぐっと詰め寄ると、質問を続けた。
    「はー? 毎日ちょっとずつしてますから、疲れるまでしてませんが? 何なのよ、詰め寄るルドくん」
     何なのか。ここはもう、素直に聞くしかなさそうだった。
    「……オマエノカツドウジカン、オレヨリミジカイ」
    「なぜ急なカタコト。やはりゴリラだったか」
     咄嗟に突っ込みたくなった拳を、冷蔵庫にぶち当てた。扉に貼られていたマグネットが、床に落ちる音がする。
    「オマエノジカン、ムダニシテホシクナイ」
     緊張でバカみたいなカタコトの日本語が口から出続けた。こんなこと、この雑魚吸血鬼に云いたくなかった。家事が大好きな、雑魚吸血鬼に。
    「……それで急にこんなこと聞いてきたの? ふぁー!ゴリルドくん、自意識過剰ー! 私は私のためにしか時間は使ってませーん! ぜんぶドラドラタイムでーす! それに私の時間の中には、すでにきみが入ってるので、ノーカウントでーす!」
     おおっと、もちろんジョンも入ってるよ、とキッチンテーブルから顔を出した使い魔に声を掛ける。
    「お、俺の時間に、おまえは入ってないぞ」
    「別に入れなくてもいいよ。それはきみの自由だ。いいかい、私は私の好きなように時間を使っている。きみは無理を強いてないし、私も嫌々時間を割いてるわけじゃない。だから、きみも好きにするといい」
     そうは云っても、わがままを聞いてくれている。ロナルドの為だけに作られる食事たち。あれは、決して使い魔の為ではない。それは、かれの時間のうちに入れられたから、出てくるものなのだろうか。肉親でもないかれは、どうしてそこまで境界を混ぜてくれるのか。自分ばかり空回りして、バカみたいだ。
    「俺も、おまえを入れていいのか?」
     自分だけの時間に、ドラルクを取り込みたかった。かれと共有したかった。
    「これって許可制だったの? きみが嫌じゃないなら、どうぞ」
    「うるせえわ。嫌じゃねぇよ。俺もキッチンに入るし、おまえの棺を掃除するし、おまえの服を洗うぞ」
     ぽかんとした顔でドラルクが見てくる。かれのテリトリーを侵害するんじゃないかと、踏みとどまっていたが、それこそここは自分の家だ。好きにさせて貰う。
    「私の服、ほとんどクリーニングよ」
    「靴下とパンツくらいは洗うだろ」
    「シルクだから手洗い」
     ドラルクの下着を手で洗う自分を想像した。繊細な生地をこの不器用な手で洗えるのだろうか。
    「……」
    「うそうそ、洗濯機の手洗いモードでーす」
    「いいよ、洗うよ。出しとけ」
    「目がマジルドくん」
    「なんだよ、悪いか」
     ドラルクはふーん、と腕を組んで流し台に腰を預けた。
    「ねえ、きみは私に時間を割いてないと云うけど、私は充分貰っているよ。きみは、いつも昼を背負って帰ってくるから、きみから昼の時間を感じるし、分けて貰ってる」
     城にジョンと居たときは味わえなかった感覚だ、と云う。人間と暮らすことで、知らなかったものもたくさん知った、と続けて、ひょい、と立ち上がる。
     それに、一日の時間は短いけど、きみより長生きするから心配することはないよ、と少し困った顔で微笑んでくる。
    「はい、この話はここでおしまい! 私は今からケーキ焼くからさ。きみは、まだここに居る?」
     云うとカウンターに置かれたエプロンを首に掛け、後ろ手に紐を締める。調理台には、ボウルの中に常温で置かれたバターらしきものがあった。
    「洗いものくらいは、俺でも出来るだろ」
     袖を捲ると、隣に立つ。出来たら、あの電動泡立て器をちょっと触ってみたかった。
    「いいけど、調理中は砂にしないでおくれよ」
     云って、細く長い指が卵を手を伸ばしたので、奪うとパックを開けてる。
     卵とバターと砂糖は、ずっしり重いパウンドケーキに変化した。
    きみのにおい

     冬の朝は嫌いだ。棺を開けた瞬間に入り込む冷えて乾燥した空気。この冷たさは氷点下だろう。冬のにおいが嫌いだった。ひたひたと自分を苦しめる冷たさと憎さが混ざりあい、こころを締め付ける。何度この容赦ない組み合わせに殺され続けたことか。ルーマニアに住んで居たときだって、冬は凍てつく寒さだったけど、あそこには使用人が居た。父の代からの居た夫婦で、今は娘夫婦が来てくれていた。かれらは、父に返しきれない恩を受けているそうだが、それがどんな恩なのかは知らない。日が落ちて起きると、いつもかれらが城中の暖炉に火を居れてくれていた。
     ジョンと二人きりだった城は広く、石造りだったためにエアコンも暖房器具も効きが悪かった。暖炉を使うには薪を割る必要があるし、今なら買うことも可能だけど、昼に玄関に置き去りにされた薪を屋内に運び込めない問題がある。もちろんちょっとづつ運べば問題ないけど、めんどくさい。すべてが面倒になると、ずっと棺にこもっていたかった。良くできた使い魔はいつもドラルクより先に起きて棺のそばに暖房器具を置いた。可愛らしい声で呼び続け、諦めて外に出る。かれだって南米生まれで、寒さには弱いはずなのに、今では日本の気候に順応している。ちっともあったまっていない部屋なのに、かれのおかげてあたたかな気がした。重い腰を上げて薪を運んで、暖炉に火を居れる。火を絶やさなければ、それなりにあたたかだった。父は何度か使用人を手配しようとしたが、ドラルクはそれをずっと断ってきた。ふたりきり生活を満喫していたし、誰かに気を使うのは嫌だった。
     城のキッチンは地下にあって、もっと寒かった。それでも火を使い始めればあたたかで、オーブンを使えばもっとあたたかだった。冬の間はオーブンを毎日使った。毎日約パンのにおい。パイのにおい、肉や魚。野菜。どんどんとレパートリーを増やした。冬の間は、ゲーム機を持ち込んで半分以上キッチンで過ごした。たくさん作っても、ジョンだけでは食べられる量が決まっている。傷んでいく料理たち。近隣の住人に分けようか、と思ったがすぐにその考えを捨てる。越してきて当初、戸惑っていたかれらの顔を思い出す。あのころはまだ日本語も堪能ではなかったせいもあるだろう。かれらは拒絶はしなかったが、透明な壁を作った。何度かフレンドリーに手製の菓子を贈ったが、それれらは食べられることなく捨てられていると、あとから知った。最近透明になったごみ袋に、手付かずのスペキュラスのクッキーを見たのだ。もし吸血鬼を補食するものが現れたとして、かれらがくれる食べ物を食べるかと云われれば、気負いするのは確かだ。かれらはドラルク城が出来てからは、観光スポットにしたが、別になにか相談があったわけでもない。気づけば観光バスが来ており、客が落としていったパンフレットを見れば、この土地の土着信仰と混ざった作り話がさも本当な体裁で書かれていた。それがあまりに面白かったので、怒る気にもならなかった。何より、かれらが自分達を別格と思って畏怖していることが手に取れて嬉しかった。別にドラルクたちは友好を求めて日本に来たわけではないのだ。吸血鬼は畏怖されてこそだ。
     起きて棺を開けた瞬間、あたたかいのは最高だ。
     新横浜に来て良かったと思うのは、ドラルクキャッスルマーク二が狭いことだ。狭いから、すぐに暖房が効く。こちらに来て当初はロナルドが仕事中は居住区のエアコンは切られていた。倹約家のロナルドだったが、寒さや暑さで死ぬドラルクを考えて、いつの間にかエアコンをつけっぱなしにするようになった。つけっぱなしの方が電気代がかからない、ジョンが寒そうだ、暑そうだ、エトセトラエトセトラ。山となった言い訳を口にして、このあたたかな空間がある。暖炉にを火を入れず、ボタンひとつでこの快適な気温が保たれるのは最高だった。新しい城もキッチンで家事をすれば部屋中があたたくなり、暖房は不要になった。オーブンとガスコンロを使うと、ドラルクでさえも暑くて暖房を切った。鍋などすればなおさらだ。こたつの上に鍋をおき、大量の食材を煮ながら食べると、部屋中は湯気に満ちた。あたたかで、ほどよい湿度に、野菜や肉のゆでるかおり。部屋中にいろんなにおいが混ざって、ロナルドが立ち上がる。換気、と云って開かれた窓から入ってくるのは、棺を開けた瞬間と同じ冷えて乾燥した空気だった。あたたかな空気と、冷えた空気が混ざりあう。これもまた紛うことのない、冬のかおりだった。
     冬のかおりが嫌いだった。いつも自分を殺すから。冷えた空気が、こころを締め付けるから。でも、今は嫌いじゃない。ここに来て、いままで嫌いだったものが、どんどんと変化していった。ふたりきりじゃない、ふたりと一匹の生活。透明な壁をぶちこわした退治人は、すぐそこで満腹になって寝ていた。こつは魔物だぜ、と云って一度入ると出てこない。最初はドラルクはサーブする側になってキッチンと行き来をしていたが、鍋の間くらい座ってろよ、とテーブルに全食材を置くことで解決した。鍋のたびに増えていくつけだれのレパートリー。今年はピリ辛すだち醤油胡麻油が大ヒットで、何度もリクエストされた。ここに来て、無駄になる食材は何もない。傷むこともない。
     寝ているロナルドの髪を、いたずらにさわる。やわらかで、あちこちに跳ねる豊かな銀色の髪。躰を斜めにして、かれのにおいを嗅いだ。髪はいろんなにおいが混ざりやすい。鍋の食材のにおいと、食事の前に入ったお風呂のにおい。一度吸うと数日残るタバコの臭い。まだ隠れてときどき吸っているのはバレバレだ。原稿が行き詰まると吸ってしまうだ。原稿が終わってもまだ、そこある。ヤニの臭いは強いのだ。煙はきらいだが、ロナルドの髪から匂うのは、きらいじゃなかった。きらいだったものたちは、かれを通してどんどん変化する。どんどんかれのにおいになり、すべてが好ましくなる。
     季節は、ロナルドのにおいがした。
    ラジオ


     ん、と明かりに気づいて目を覚ます。まだ起きる時刻ではない。光はスマートフォンの画面からで、通知が入るたびにポップが出て光ってるのだ。なにかバズるようなことを昨日投稿したっけ? と時刻を確認がてらドラルクは画面をタップした。
     見ると、自分の投稿ではない。誰かが自分のアカウント名込みでツイートがバズっているようだった。なーんだ、と少しがっかりする。
     これ@drdr_chanのことだよね? おめでとうございます! 
     簡素なツイートのあとに、URLが続いていた。開くと、ラジオのポッドキャストページだった。寝ている時間に放送されたもののようだった。ドラルクはラジオを最近聞いていないな、などと思いながらイヤホンを枕脇から取り出し装着すると、再生をタップした。

     ロナルドはタイプする手を一度止め、画面端にある時計を見た。もうじき同居人が起きてくる時間だ。起きたら一度殺さないといけない。なぜならば、冷蔵庫にご丁寧に「食うな!」とポストイットが貼られていたタッパーがあるので、開けると美味しそうなプリンが入っていた。ドラルクがカタなんとかいっていた、固いプリンだ。ここはロナルドの家で、ロナルドの冷蔵庫であることを念頭にして、ひとかたまりをばくりと食べた。食べてびっくり、なかには立派なセロリが埋まっていた。
     おめでとうございます! どっきり大成功です!
     思わず謎の感謝をしてしまうレベルで、キッチンの床で悶絶した。それからドラルクを殺すことだけを考えて執筆している。ムカつくあまりにさっきから誤字脱字製造マシーンに成り果てていた。一番ムカついたのは、それなりに美味しかったことだ。かれの手にかかれば、苦手なセロリもこんなに美味しく……と騙されそうになるが、どうにも条件反射で苦手意識が勝ってしまう。
     事務所の電話が鳴り、もう一度時計を見る。基本的に何時でも依頼は受けていたが、今日は執筆休暇として事務所は閉めていた。
     ロナルドウォー戦記の発行は大体年に一回から二回。当時は休業日は設定しておらず、依頼のない時間にブログにちまちまと書いていた。暇な時間がセロリ以上に嫌いなので、寝ている以外はほとんど働いていたと云ってもいい。それがフクマの目に留まったのだ。最初の一巻は半分以上がブログに上げていたものなので、書き下ろしは少量ですんだが、一冊分まとめて書くには、それなりに時間が要った。ドラルクが来てから、働き方をさんざんからかわれた。そんなに働いて躰を壊したら今度は暇に殺されるぞ、とはドラルクの言葉だ。それから毎週一日は事務所を閉めるようになったのだ。無論、それでも追い詰められないと能力を発揮しない分、毎回原稿はギリギリなのだが。
     電話は留守電に切り替わる。今日は休みだと云い聞かせるも、少し罪悪感が残った。今日退治の仕事をしなかったことで誰かが苦しむのは嫌だった。
     ――こちらラジオ新横です。今日の件で是非お話をお伺いしたくて、お電話差し上げました。よろしければ折り返し連絡をください。電話番号は……。
     今日の件ってなんだ?
     執筆中なのでサイレントモードにしたままのスマートフォンを手にして見ると、こちらにも着信がいくつかあった。珍しくター・チャンとサテツからの着信。メドキからもあった。なんだこれ。
     ター・チャンの留守電を再生すると、興奮した声で何でもっと早く教えなかったのかと責めるような言葉と、なぜか祝辞が続いた。サテツも、ラジオ聴いたよ!おめでとう!と入っている。メドキも同様だった。共通するのは、みんなラジオを聞いたと口にして居ること。かれらは家業があり、常にラジオを流しているのだ。
     なんだこれ。
     もう一度疑問に思うと、隣の部屋から明石家さんまも顔負けのファーっという大声が聞こえてきた。棺と壁を隔てても聞こえるくらいの声だ。どんだけ叫んでんだよ、とパソコンを閉じて隣の部屋に行くと、使い魔のアルマジロが棺を開けようとしていた。代わって開けてやると、なかには立派な砂山がある。どうやら自分の大声で死んだようだた。
    「何死だよ?」
    「びっくり死だ」
     ナスナスと砂が繋ぎあい、ひとのかたちを作っていく。
    「びっくり?」
    「お母さまが……」
     ロナルドはドラルクの話を聞かない母親を思い出した。思い出が少ないという理由でかれをこどもの姿にして連れ出したことがあった。ドラルクはスマートフォンをロナルドに差し出す。画面上はひっきりなしに何かの通知が入っていた。ドラルクの細い指が通知の下にある再生ボタンをタップする。流れ始めた音声は、ラジオのポッドキャストのようだった。内容は時事を取り上げ探求するスタイルで、毎回有識者を呼んで話をするようだった。今回のテーマは、増え続ける吸血鬼と、来日を斡旋をする吸血鬼専門闇ブローカー、吸血鬼の犯罪……といった内容で司会者は吸血鬼に対して反感はないようだった。そのゲストが、ドラルクの母親で、吸血鬼であり弁護士でもあるミラだった。
    「ファー!!」
     聞き終わるとドラルク同様、ロナルドも大声を出してしまう。留守電の内容に合点がいった。たしかに祝辞は間違っていない。間違っていないのだが……。ロナルドの声にびっくりっしたジョンが丸まって転がっている。悪いことをした。
    「ロナルドくん、きみお母さまに相談してたの?」
     まだパジャマ姿のドラルクは、棺のふちに肘をかけて頬杖をついた。
    「……してた」
     ラジオを聞けば、何を相談したのかが丸判りだ。
    「私は別に事実婚でも構わなかったんだけどね」
     実際、吸血鬼とのパートナー関係を結んでいるカップルの大半は事実婚や自治体のパートナーシップ制度を利用している。この新横浜にもパートナー制度があるが、備品登録をしたときは、こんな関係になるとは思っていなかったのだ。おそらく、ここでは登録関係なしに制度を利用できると思う。だが、国相手となると無効なのだ。一度でもこの登録をしてしまうと正式な婚姻、つまりは法律婚ができないことに腹が立っていた。
    「俺もそう思ったけど、備品として登録させるのに、備品と結婚できないのはおかしいじゃんか」
     法の落とし穴とはこいういうことだ。昨年ようやく棚に上げられていた吸血鬼の戸籍問題に動きがあり、修正案で婚姻許可だけが先に通ったのもある。簡単に云えば結婚すれば、籍を作ってもいいという条件だった。だが――そこには落とし穴があったのだ。だからこそミラに相談した。
     毎年申請する備品の書類が、どんどん苦しくなっていたのに、この書類のせいで結婚できないなんてバカみたいな話はないだろう。パートナー制度はありがたいが、どこに行っても揺るがない証明ではない。ようやく許された関係に、待ったが掛かるのはおかしい。
    「きみは、お母さまと同じくらい真面目だなぁ」
     そうやって突き進むところも嫌いじゃないけどね、と微笑む。寝起きなので、変な寝癖がついていて、いつもは撫で付けられた前髪がおかしな方向に飛んでいた。
    「悪いか?」
     云い返すと、ぽろりと涙が頬を伝った。
    「悪くないよ。泣き顔の退治人さん。でもさぁ、ちょっと順番おかしくない?」
     私聞いていませんけど、とドラルクは云いながら、ロナルドの頬を擦った。いつの間にかジョンがロナルドの膝に来ていて、かれもヌーヌーと慰めようとしている。
    「……そうだな」
    「そうゆうとこ、話を聞かないお母さまに似なくていいよ」
     うんそうだな、と返すと、膝に乗ったジョンを下ろして、片ひざをついた。格好はジャージだし、頭にはヘアバンドもつけたままだ。セロリの入った固いプリンにも、怒るのを忘れている。そうやって怒りや悲しみや楽しさを山ほど引き出してくれた吸血鬼に、大事なことを伝え忘れていた。
    「吸血鬼ドラルク、俺と――」

        *

     今日は、吸血鬼でもあり国際弁護士をしていらっしゃるミラさんがゲストです。ミラさんとはお電話で繋がっています。こんにちは、ミラさん。昼間ですが、大丈夫ですか?
     ――こんにちは。今は用事があってニューヨークに来ている。時差があるのでこちらは夜だ。安心してくれ。
     ミラさんはどういったご事情で日本でも弁護士に?
     ――私が日本の裁判に立ったのは、薬害訴訟の件からだ。吸血鬼のために流通されていた輸血血液が汚染されいて、何人もの吸血鬼が死んだ。
     その事件は、僕も知っています。輸入血液は人間側にも同じものを使っていたために大きな訴訟になって、ミラさんは人間の弁護士たちと手を組まれましたよね。テレビ中継されたけど、当時は吸血鬼用のいいカメラがなくて、空席だけが写っていたのをすごく覚えています。手を組まれたのは、ご自身からですか?
     ――そうだ。敵は同じ製薬会社だったからね。それから、彼らとは友好な関係を築いている。
     日本弁護士協会は、その翌年から吸血鬼の枠を作りましたし、ミラさんたちの活躍で、吸血鬼の裁判事情も変わったと聞いています。
     ――当時は、吸血鬼が起きてこれない昼に裁判が設定されていて、来ないことを前提に罪状確定をしていた。それを夜に変えてくれたのは彼らだ。
     ミラさんのご専門は、吸血鬼ですけど吸血鬼による凶悪犯罪は増えてきていますか?
     ――数としては、実は統計的には長年変わっていないんだ。ただ、凶悪な事件は拡散されやすいからね。数が多いという錯覚を受ける。
     吸血鬼の数は年々増えてきているので、数字で見れば大きくても、全体のパーセンテージは下がってきていると云うことですか?
     ――そうなるが、その数が問題なんだ。ちゃんと登録するシステムがない状態でここまで来てしまったので、数の把握が出来ないままなんだ。国は登録を地方自治体に委ねているので、統計のしかたにばらつきがある。特に最近は夜間に働けるという理由で、技能実習という名目の労働力として吸血鬼を大量に雇っているところもあって、そこがちゃんとした届けをしていれば数としては正確なものだが、そうでないところも多いんだ。
     先月、吸血鬼が飼育していた牛の血を飲んで殺したことで事件がありました。当初は吸血鬼バッシングの嵐になりましが、ふたを開けて見れば犯人の吸血鬼はろくな給与も食料も与えられず働いていたと判り、今では経営者がバッシングされています。そこが、ミラさんいわく「ちゃんとしていない」とこだったんですよね。
     ――かれらは、つねに飢餓状態で働かされており、それでも牙を向かない契約書を交わされていた。吸血鬼はこう云った事前のしばりにとても弱いんだ。そこを狙っていると云ってもいい。かれらは違法な闇ブローカーを通じて日本にやって来ている。日本にやって来る理由は、自国の吸血鬼差別から逃れるためがほとんどだ。吸血鬼は難民認定がされないので、そういった方法を使って脱出するしかない。しかし、夢を見てやってきた場所で苦しむことは、あってはならない。
     ニューヨークに来ていらっしゃるのは、その件でですか?
     ――そうだ。自由人権協会(ACLU)の詳しいものに話を聞きに来た。日本にもあるが、こちらの協会の方が吸血鬼の権利問題の数をこなしているので、前例を確認できる。
     なにか良い前例はありましたか?
     ――こちらのほうが法整備が早いからね。たくさんあったよ。これで備品問題も解決しそうだ。
     備品問題とはなんですか?
     ――吸血鬼を家に置く際、ひとと同等に扱うことはできない。そのために税金対策で備品として申請をするが、備品とは結婚できないんだ。
     備品と結婚とは?
     ――これは私の家族の話になるが、かれは長年備品として市に登録されててね。だが、結婚になると「備品」は「モノ」だからね。モノとは結婚できない。不受理になるんだ。もとより、吸血鬼との結婚は自治体の裁量によるパートナー制度が多い。当然制度が有効なのはその自治体内だけだ。おかしな話だが、自治体の制度ができるまでは吸血鬼をひととして扱うためには「備品」としての申請が必要だった。だが、制度の緩和で人間と結婚した吸血鬼に戸籍を与えることになった。もちろん、この制度にはまだたくさん問題があるが、結婚できるのは「吸血鬼」であって「備品」ではないと云い出した。つまりは、先の登録が仇となりふたりの結婚を阻むんだ。ようは、吸血鬼とひととの法律婚を国は認めるつもりはないと云っているも同然だ。退治人であるかれから、相談を受けるまで備品問題を深く考えてこなかった。このニューヨーク州では五年前に……
     待ってください。ご家族とは、もしかしてご子息のドラルクさんですか?
     ――そうだ。
     退治人とは、ロナルドさん?
     ――そうだ。
     ふたりはご結婚を?
     ――するつもりだ。
     それ、話していいんですか?
     ――……ダメだったかもしれんが、もう話してしまったしな。守秘義務は依頼人としか交わさないので、うっかりした。
     …………。
     ――…………。
     では、今日は弁護士のミラさんをお迎えしました。どうもありがとうございました! ニューヨークからの帰国をお待ちしています。

        *

    「ノースディン、ミラさんが昼にラジオに出たのがポッポキャストというやつで聞けるそうなんだ!」
    「ポッポキャスト? 鳩がどうした?」
    「どうやって聞くか教えてくれ! できたら一緒に聞いてほしい!」
     三十分後、ふたりは新横浜まで飛んだ。
    痩せた男


     買い物の帰り道だ。両手には満ち満ちたエコバッグが四つ。袋に入りきれなかった大根やゴボウを脇に挟み、ロナルドは歩いていた。ドラルクは卵と柚子、そして三つ葉が入った小さなエコバッグだけを抱えている。おせちの買い出しに付き合え、と云われてクリスマスも過ぎた日に買い出しに駆り出されたのだ。一応正月は事務所を閉じているが、吸対から呼び出しが掛かれば出るし、急を要する電話が掛かってくれば、仕事は引き受けた。正月はあってないようなもので、大晦日や正月の雰囲気は、今まで味わって来なかった。それは子供時代もそうだ。ロナルドの兄はハンターをしていたので、行事など関係なく留守にしていることが多かった。お陰で、正月もへったくれもない。それでも、兄の誕生日が元旦なので、弟妹であるふたりは小遣いを集めて、元旦に空いているコンビニでケーキを探して買っていた。そのためか、正月は餅よりケーキの印象が強い。ひとりになってからはデパートやスーパーで売っている出来合いを少し買っていたが、ドラルクはぜんぶ作ると云うので驚いた。かれの料理に対する探求心はクソゲーの攻略と同レベルに楽しいものらしい。家事一般は好きでも嫌いでもなく、生活する上での作業のひとつ、それこそ風呂に入るために服を脱ぐようなものだったので、ロナルドにとっては楽しさもへったくれもなかった。
     ドラルクは歩きながら作ろうとしているおせちの内容を話ながら歩いていたが、急に徒歩を止めた。伊達巻を作るにははんぺんをね……とまで云い掛け立ち止まってなにかを見ている。
    「どうした?」
     かれが立ち止まったことに気づかず数メートル先に進んでしまい、呼んでも動かないので戻ると、ドラルクは服飾店のウィンドウに貼られたポスターを見ていた。
     ルーマニアの天才画家
     ゴードン・ルキアン回顧展
     ポスターにはそうかか書かれている。絵には詳しくないが、ポスターには木炭画らしき絵があった。下に日本初展示の作品多数、と書いてある。
    「なんだよ?」
     聞くと少しだけ首をかしげ、これはかれの絵じゃないよ、と口にする。
    「はあ? 何でお前そんなこ知ってるの?」
    「知ってるよ。だって、この絵のモデル、私だもの」
     思わずビックリして脇に挟んだゴボウを道路に落とした。
     そこには、裸の男があったからだ。

     肖像画を、と父に連れてこられた画家は、眉のくっきりとした女性だった。歳は判らないが、若そうに見える。
    「こんばんは、お嬢さん。どうぞよろしく」
     恭しく挨拶をすると、彼女は「お嬢さん」と呼ばれることを嫌がった。師匠仕込みである淑女への扱いを、彼女はことごとく嫌がった。
     彼女の父である画家は、本人も弟子たちも吸血鬼たちの絵を描いてきた門下だった。顧客として人間と同等の扱いをしてくれる数少ない画家だったのだ。城にいくつも飾られた父や母、親族の絵は、すべてかれの門下生たちのものだ。ドラルクも幼い頃から肖像画を毎年誕生日近くに描いてもらっているが、女性が来るのははじめてだった。
     最初の数日はラフ画に費やされた。椅子に座ったかしこまった構図で描いていたが、長時間座っていることと寒さでドラルクはすぐに死んだ。彼女は塵となったドラルクに驚きはしたものの、すぐに順応してた。いままで来ていた画家たちは、ここで青ざめて帰り、ラフをもとにイメージで描いたドラルクの絵をあとから届けていたので、帰らず城に止まったのにも驚いた。最終的にシングルエンドカウチにもたれ掛かり、暖炉の火を絶やさぬなかでの作画になった。
     最後まで目の前に描いてくれた画家は後にも先にも彼女ひとりだけで、たくさんの話をした。たくさんのおしゃべりと、テンピン油の香りが部屋中を満たす日々が、何日も続いた。
     女性であるがゆえに開かれないアカデミーや、価値を低く見られること、二流だと思われること、早く結婚するように何度も諭されていること。結婚をしたくないこと。込み入った話まで、彼女とはした。
     なかでも、男性ヌードを女性画家が描くことを禁止されており毎回デッサン会では閉め出され、腹が立った彼女は女性のヌードデッサンの日に男性を全員閉め出し、その日は彼女とモデルだけで過ごした話が気に入った。今では、そのモデルと一緒に暮らしているそうだ。
     だったら、とドラルクはヌードデッサンをしてもいいと申し出た。もちろんこんな痩せた男では不十分だと思うが。面白がった彼女は、二つ返事でドラルクの裸を描いた。同じシングルエンドカウチの上にシーツを引き、さらに暖炉の火を強くして横たわった。
     描き上がった木炭の絵は父親に見せられるわけもなく、そのまま彼女が引き取った。出来上がった「正式な肖像画」は母が大層気に入り、彼女の部屋に飾られている。

     正月明け、レイトナイトデーの新横浜美術館はそこそこ混んでいた。
     ロナルドは、かれの云うことの真偽を確かめる為に一緒に出向いたのだ。入ってすぐに書かれている画家の経歴と生い立ちを眺めていると、この辺かな、と長い指が年を指す。
    「彼女は私の肖像画を描いてくれた画家で、彼女自身の名で出品すると飾られることがないそうなので、父親の名前で出していたそうだ」
     めずらしいことじゃないよ、と云いながら該当の絵を探す。
    「詳しいな」
    「高名な画家には男性しか居ないんじゃなくて、女性もいたんだ。たが、そうやって名を出さぬようにしてれば、やはり男性しか居ないと思われるね。今回のがいい例だ」
     絵は年代順に並んでいるようで、飾られた肖像画たちに、ドラルクはまるで○×クイズのように吸血鬼か否かを指していった。
    「待てよ、こんな血色のいい耳の丸い絵が?」
     途中指された絵は、どう見ても人間だった。
    「この時代は人間に似せるように頼んでいることも多いんだ。私の絵も、何枚かはピンク色の肌のかわいい私だよ」
     一緒に連れていたジョンも、その絵を知っているのかヌ! と景気よく返事をした。そうは云われても、血色の悪いドラルクしか知らぬロナルドには、ピンク色の肌のドラルクが想像しにくかった。興奮すればベージュ色にいくらかは近くなるが、あれはピンクではない。
    「あ、あれじゃないか?」
     ロナルドが指した先に、カウチに横たわる裸の男が居る。近づいてまじまじ見ると確かに顔は、ドラルクに似ていたし、髪型も特徴的な跳ねかたをしている。だが、躰は今よりいくぶんか肉付きが良かった。隣に居る男が紙に描かれていることが、なんだか不思議でしょうがない。
    「今、痩せてないとか思ってるでしょ?」
    「お、思ってないぞ」
    「この頃はお父様が必死にご飯出していたからね。ちょっと無理して食べてたんだ。だから、そんなに痩せてないんだ」
     懐かしそうな顔で、横たわる自分の姿をドラルクが見つめた。
     絵には、痩せた男、と適当な題がついている。ヌ、とジョンが腕を引いて、その二つ先の絵を見るように促してきた。
     ふたりとも、絵を見て大爆笑してしまう。
     そこには、寒そうな部屋に置かれたひとつの椅子があった。床と座面には、粉のようなものが落ちている。
     タイトルは――椅子と塵。
    「まさか、こんなものを描いているなんて知らなかった! やっぱり彼女は最高だ!」
     大声を出してしまったことで、監視員が口に指を当ててくる。ロナルドは腰を低くしながら、ドラルクの裾を引いた。だがドラルクはその手を払うと、
    「私、ちょっと偉い人と話してくるね~!」
     と云ってどこかに消えてしまう。残されたジョンを抱え、ベンチに座っていると数時間後に戻ってきた。
    「おせえぞ」
    「おや、帰っても良かったのに」
     腕の中のジョンは待ち疲れてうとうととしている。
    「帰りに七草粥の材料買うって云っただろ」
    「そうだったね。もしかして、楽しみにしてたの?」
     手製のおせちの味を知ってしまってから、手製の七草粥がどんなものか、知りたかったのだ。食に関してはドラルクが来るまで、知らないことだらけだった。今回の絵もそうだ。かれはロナルドよりもずっとずっと年上の男なのだ。その距離が縮まることは、決してない。縮める変わりに、知らないことを知りたかった。かれの知識や経験を、知りたかった。
    「うるせー! そうです。お願いします」
     一度殺して謝罪すると、にやにやと笑いながら掠めるようなキスをしてきた。
    「じゃあ帰ろうか」
     ナスナスよみがえりながら、ドラルクが云う。
    「絵はもういいのか?」
    「うん、大丈夫」

     翌週から回顧展は展示が変わり、専門家を交えて絵は選別された。いくつかの絵は、イリナ・ルキアン、と名前が表示されている。
    ちいさな城


     夕飯にありついた瞬間、スマートフォンが鳴った。大きく開かれた口に油淋鶏が放り込まれる寸前だった。画面にはヒナイチ、とある。ロナルドは鶏肉を皿に戻し、素直に画面をタップした。
    食事どきくらい、無視しなさいよ。
     そうは云われても己の真面目さを曲げることいつも出来ないままだ。当然、食べながら出ると云う無作法なこともしたくない。作った相手の目の前で話すのは無礼だと思い、ロナルドは椅子から立ち上がりソファの方へ躰を向けた。だが、数分も待たずにスマートフォンはドラルクに渡すことになった。
    「おまえに、だ」
     不思議にそうな顔をしながら、ドラルクはスマートフォンを受け取る。かれに用があるなら直接電話をすれば良いのだが、内容は昼に吸対と退治人たちが合同でヨコハマ埠頭にて、吸血鬼のブローカーを追い詰めたことに起因する。吸血鬼を斡旋していたのは、ダンピールのマフィアで、半田はずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていた。運び込まれた大量の棺を吸対が回収したところで、ロナルドたち退治人の手は離れた。
     報告をかねたヒナイチの話によると、船に詰め込まれてきた棺中の吸血鬼たちが、話す言葉が一切判らなかったのだ。運んできた下っ端マフィアに問いただそうにも何十にも下請けが存在し、かれらはどこから彼女たちがやってきたのかも知らなかった。埠頭に居たダンピールたちは、下っ端の中の下っ端だったわけだ。署内では対応しきれず、なおかつ夜半となったために専門家も呼べず、ドラルクの顔が浮かんだ、と彼女は口にした。
     ドラルクはヒナイチの頼みを引き受けたようで、通話を切るとスマートフォンを返してきた。念のために言語補助役としてジョンを引き連れる。小さな使い魔は、こう見えて語学に堪能なのだ。ロナルドにすぐ戻るから、と云いふたり厚着をして外に出る。明日雪の予報が出た寒空の下、タクシーを拾うとVRCに向かった。 
     寒かったから今日は同行せず、家に居たくせに。
     楽しみを見出さなければ動かぬ吸血鬼だ。かれの行動原理は、読めるようで読めない。ロナルドは食べようとしていた夕飯にラップを掛けた。
     ひとりで食べるのが、なんとなく嫌だった。
     空腹を紛らわせたくて、湯を沸かすとお茶を淹れる。いつの間にか増えた茶葉たちに、インスタントを駆逐したドリップコーヒー。どれでも良くて、一番手前にある「茉莉花」と達筆な字で書かれた密閉ケースからティーバッグをひとつ出した。お歳暮や御中元、香典返しで貰ったアルミパック入りの茶葉たち。茶漉しや急須で入れるのが面倒で放置していたものを、いつの間にかドラルクが紙パックを買ってきて、すぐ飲めるように小分けにしていた。お茶だけではない、無駄になりそうな食材は、かれの手で生まれ変わり、ロナルドやジョンの口へ運ばれた。一年掛けても使いきらず発酵させていた醤油や味噌はきれいに使い切り、買い足され、調味料は無限に増えた。いつでも食べれるように、と冷凍とレンジに使えるタッパーは増殖し、ひとり分しかなかった皿や箸は色鮮やかに嵩を増した。今まで一種類しかなかったラップは様々な長さのラップに増え、買ったことがなかった調理器具が増えた。
     ちょっと前までこのテーブルにはひとりしか座って居なかったはずなのに、今では当たり前のように吸血鬼と使い魔が座っている。広さと安さだけが取り柄だと思っていたこの格安物件は、いまでは賑やかな城になっている。
     花の匂いのするお茶を飲みながら、さっきまでドラルクが座っていた席を見つめた。
     ロナルドの十倍も長く生きた吸血鬼が、同じ空間で寝起きしているのがまだ信じられない。吸血鬼と仲良くなるなんて、かれが来るまで考えて来なかった。かれらは敵であり、退治すべきものだった。竜の一族であるドラルクが退治人であるロナルドと同居をしコンビを組んだことで、この新横浜も何かが変わった。圧倒的におかしな能力の吸血鬼が増えたし、吸血鬼が街中に居るのが当たり前になった。
     吸血鬼と暮らすようになって、日の出と日の入りの時間を気にするようになり、牛乳とトマトジュースの種類に詳しくなった。次に街が吸血鬼に順応しているのかが気になった。時折、吸血鬼お断りの札を掲げた店に出会うと、こころが押し潰された気持ちになった。いつの間にか、どこに行ってもドラルクが一緒に来れるかどうかを考えるようになっていた。
     それでも――相手は永遠だが、こちらは永遠ではない。その事実に、ずっと目を逸らしていた。


    「ただいま」
     ただでさえ青い顔をさらに土気色にして、ドラルクは帰ってきた。コートにはわずかに白い結晶がある。かれの嫌う師匠と呼ばれた男のように、冬を引き連れて帰ってきたような風情だった。
    「降ってきたのか?」
     顔を上げると、事務所の机に座ったロナルドに、首をかしげる。寒さの所為か、いつも以上にこわばった顔がそこにある。
    「少し積もり始めてるよ。仕事してたの?」
     コートを脱ぐと、胸元の特等席からジョンがヌっと顔を出した。事務所の温度が快適だと判断すると、ドラルクの手で床に降りた。一度大きく延びをし、とことことこちらにやって来る。
    「うん、少しな。どうだった?話は通じたか?」
     云ってノートパソコンを閉じる。少しだけ今日の顛末を文章にしていたが、上手くまとまらなかったのだ。
    「ベラルーシ語だったよ」
    「ベラルーシ?」
     思わず聞き返す。なんとなくロシアの近く、という知識しかない国名だ。
    「ベラルーシ語は元は白ロシア語と云われていた言語だ。どちらかと云えば、ポーランド語にも近い。御真祖様の気まぐれで移動も多かったから、欧州の言語は一通り判るはずなんだけど、頭の奥底に仕舞った言語はなかなか引き釣り出せなくて、参ったよ」
     それでも会話できたのだろう。ドラルクたち竜の一族をはじめとする古き血の吸血鬼は、一様に多言語を話す。その地に溶け込むよう、擬態するのだとドラルクは云っていた。そうしなければ、異物として見られたのかもしれない。実際、ドラルクたちが日本語を流暢に話すことで、ある程度の信頼感があるのは確かだ。
    「おまえって、思考はやっぱりルーマニア語なの?」
     立ち上がり、一緒に居住スペースに移る。
    「寝言くらいはルーマニア語かもしれないけど、最近は思考ですら日本語だよ」
     ヌンも、とジョンも声を上げた。アルマジロ語を話しているが、思考は日本語らしい。小さな足はたたきを越え、キッチンの椅子によじ登った。
    「寒かったでしょ。あったかい飲み物淹れてあげよう。ロナルドくんも……」
     云いながらテーブルの上、夕飯が手つかずで残っていることにドラルクが気づいた。
    「食べてなかったの?」
    「ああ。今から食うよ」
    「お腹すいてたのに偉い子ですなぁ」
     子供を誉めるように頭を撫でてくるので、くすぐったくて思わずパンチを出してしまう。ザッと一瞬崩れ、床の砂山を見ながらテーブルの皿を手にした。
    「おまえも座れ」
    「ん?」
     ナスナスとよみがえるドラルクが聞いてくる。
    「あっためるだけだ。ぜんぶ俺がやる。ジョンはココアがいいか?」
     ヌっといい返事が帰ってきたので、自分の食事をレンジに掛けながら牛乳をあたためるとココア……と思わせて健康のためにミロを入れる。ドラルクのホットミルクには、冷蔵庫から出した血液パックから一滴だけ血を垂らしてやる。マグふたつとあたためた皿、よそいなおした白米と味噌汁を、次々とテーブルに乗せる。キャベツのマリネを冷蔵庫から出し、席についた。
    「あーあ、せっかくカリカリに揚げた油淋鶏だったのに」
     ドラルクがため息混じりにしっとりとした皿の上を睨んだ。添えてある揚げた大根もふにゃふにゃになっていて、ショックを隠せない顔を見せていた。
    「味は変わんないだろ」
     いただきます、と云って口にする。サクサク感はなくなったが、十分に美味しい。油淋鶏の衣はしっとりとタレが絡んでおり、大根もそうだ。たしかにカリカリだったら新食感だったかもしれない。ちょっと惜しいことをしたが、また作ってくれるだろう。小松菜と油揚げの味噌汁も美味しい。カレー味のキャベツマリネも、しゃきしゃきして美味しかった。ばくばくと口に運ぶ様を、ドラルクはずっと見ていた。一緒に食事はできないが、こうやって一緒のテーブルに座っているだけで、こんなにもあたたかな気持ちになる。すべてをきれいに平らげると、満足そうな顔をドラルクが見せた。満腹になっているのはこっちなのに、かれのほうがずっと満たされた顔をするのだ。おかげで、こわばっていた表情が少し緩くなった。
     食器を片付け、食洗機に並べる。あとから二人のマグも来るので、まだ回さなくていいだろう。テーブルに戻ると、あたたまったジョンがうつらうつらしているので、ベッドに移動させてやる。礼を云われたので、気にするな、と返しながらもう一度椅子に座る。
    「何かあったのか?」
     まっすぐに見つめて聞くと、ドラルクは眉根を深くさせた。
    「何って?」
    「――おまえ、平気な顔してるつもりだろうけど、ずっと顔がこわばってる」
    「寒かったからかな」
     云って肩を竦める。
    「何があった?」
    「きみに話すような話題じゃないよ」
     はぐらかして、マグの中身を口にした。
    「じゃあ誰なら話す?」
    「ひみつ」
    「そうやって、云わない気かよ?」
     少しだけ怒気を含んだ声で聞き返す。もちろんこんな脅しが効くような相手ではないのだが。
    「もー、聞いて気分悪くなっても知らないよ」
     ドラルクは延びをしながら長い足を伸ばし、爪先でロナルドの足をいたずらに蹴った。
    「云えば、おまえも少しは楽になるんじゃないか?」
    溜め込んでおくより、きっといい。
    「きみの罪悪感が増すだけだ」
    「覚悟はする」
     腕を組んで、もう一度まっすぐに見つめた。
    「……ベラルーシの現状は知ってる?」
     聞かれるも、場所も怪しい国だ。知るよしもない。
    「いや」
    「独裁化が進んでしまった国だ。同じ元首が二十七年に渡って統治している。近年は移民である吸血鬼を支援すると発表していたが、実際はそうではなかった。彼女たちは、都合の良い欲求の捌け口として、使い捨てで利用されいた。都合が悪ければ灰にされ、捨てられるとも云ってた。そしてなんとか金を積んでそこから逃げたにも関わらず、あの船に詰められ、密入国の形で入ってきてしまった。難民申請を出したがっていたが、ヒナイチくんの話だと難しいだろうとの話だ。何より、ベラルーシ語と判った時点で大使館に誰かが連絡を入れてしまったらしく、『強制帰国要請』が来てしまって。あっという間にベラルーシの職員がやってきたんだ。半田くんと、きみのお兄さん、そしてヒナイチくんと……あの、声の大きいかれが断固としてVRCに入れないようにガードしてくれた。そこから先は私の領域じゃないので、母に連絡をした。母は今ロンドンに居て、代わりに仲間の吸血鬼移民問題専門の弁護士が駆けつけてくれて、一時的だけど、なんとかおさまった」
     聞いているだけで、鼻の奥がつんとして、どうしようもない気持ちになった。兄を誇らしく思う気持ちと、そしてその場にいなかったことに感情がぐちゃぐちゃになる。
    「一時的……」
    「この先は、裁判で争うことになる。その間は、彼女たちはここに留まれるはずだ。……ほら、だから話したくなかったんだ! 泣き虫ルド! きみが泣いても、どうしようもないだろ!」
     ぐしゃぐしゃになった顔を、ドラルクの手がこする。あたたかなマグを持ってもなお、冷えた指先がそこにあった。
    「どうしようもある! 俺は作家だ」
     抗議は苦手だけど、文でならなんとかできるかもしれない。いや、すべきなのだ。なんのために今まで吸血鬼との戦いを書いてきたのだ。ずっと戦うためなんて嫌だ。敵を滅ぼす文しか書けないなんて嫌だった。
    「そうだったね」
     少し悲しそうな顔で微笑む。何かさじ加減が代わりこの国も独裁主義の国なれば、目の前に座るかれもどうなるのか判らないのだ。いいや、そんなはずはない。ここは吸血鬼にやさしい街のはずだ。ここだけは、どうかここだけはこのままで居てほしかった。そのためにも、何とかしなくては。ずっと座って居るのは簡単だ。抗議をしないのも、簡単だ。でも声をあげなければ、誰にも通じない。口に出さなければ、真実はそこにない。
    「俺は、おまえたちにとって、ここが住みやすい場所であって欲しい。だから、俺もできる限りのことをする。だから、俺に飽きても、何があっても、ここに居ろ」
     最後の言葉に、ドラルクが目を見開いた。そして、声を出して笑う。
    「……なんだよ」
     あまりに高らかに笑うので、こちらが恥ずかしくなってしまう。
    「何で私が居なくなることが前提みたいに話してるのかなあって。ねぇ、突飛ルドくん。私はどこにも行かないよ。この街は私の棲みかだし、私の城だ」
     そうだ。ここはドラルク城マーク二だ。そして同時に、ロナルド吸血鬼退治人事務所でもある。
    「俺の城だろ?」
    「いわくつきで、家賃八千円のーー私たちの城だ」
     青褪めても彩った爪だけが赤い指先が、ロナルドの手の甲を撫でた。
     声を上げなければ、誰にも通じない。口に出さなければ、真実はそこにない。
     そうだ。何を今まで黙っていたのだ。
    「ドラルク、俺はおまえが――」
    ニュース

     手を握ってくれないか。
     捻り出したであろう陽気な声は、かすれていた。普段通りに見せた表情。くいっと上がった広角。顔色の悪い肌。落ち窪んだ眼窩には、暗く深い闇を落としたようだった。ふたり並んで、テレビを見ていた。明日の天気予報を知りたかった。気温を知りたかった。雨雲を知りたかった。寒がりで雨が嫌いな吸血鬼と一緒に出掛けるようになって、毎日天気を気にするようになった。風向きや日差しの強さまでも、気にするようになった。明日の雨雲の動きを気象予報士が伝えている瞬間、緊急のテロップが入った。それはまるで、異国の地で雨が降った、そんなニュースみたいだった。テロップとは別に、陽気な声が明日は夜から冷え込みますので、あたたかな格好でお出掛けください、と伝え天気予報が終わる。ドラルクは明日の冷え込みが一気に来たみたいな顔をしていた。こんなときに居て欲しい使い魔は、今日に限って出掛けて不在だった。どうしていいのか判らず、ロナルドはかれの動向を見守った。
     ドラルクは何度か大きく息を吐き、目を閉じた。
     私たちに血を飲まれることは拒絶するのに、どうして簡単に血を流すことを選ぶんだろうね。
     誰に向けていったか判らない言葉。明らかにロナルドに向けたものではない。答えのないことを前提に、漏れた言葉。
     二百年だ。
     二百年もの間、いくら過保護な父親や師がそばに居たとしても、隠しきれず逃げ切れぬものもあっただろう。何も知らないで来れるはずもない。何も知らないで居ることも、中立を装うことも、加害に荷担すると今は知っている。
     時折ロナルドはドラルクとの間に途方もない年月の隔たりを感じることがある。今日みたいな日がそうだ。
     その隔たりは一生埋まるものではない。ずっとそこのあるのだ。
     閉じた瞳がすっと開き、赤い瞳孔がロナルドを見た。きっと自分は泣きそうな顔をして居るだろう、と他人事みたいに思う。ドラルクは無理矢理陽気さを寄せ集め、ロナルドに見せた。でも誤魔化しきれないと悟ったのか、視線を反らした。
     そしてかすれた声が、手を握ってくれと懇願した。
     細くて冷えた掌に、指を絡ませる。花びらみたいな赤い爪先が指の間をくぐり、ぎゅっと握ってきた。隙間があることを厭がるように密着する。混ざり合うことはできないけれど、ひとつになるように握る。冷えた手にロナルドの体温が移り、熱い手にドラルクの冷たさが移った。そこには、やさしい温度があるはずだ。
     きみはあたたかいね。
     云って躰を寄せてくる。まるで冷たい「なにか」を知っているような口調だった。
     今までさほど異国に興味を持たずに来たことが恨めしい。けれど、かれと知り合ってから、まったくの無知でいることはやめたのだ。無論、ロナルドがやめたところで世界が急により良くなるわけでもないのだが。それでも、かれの見てきた世界を一緒の席で見たかった。同じ景色ではなくても、同じ色でなくても、この視界の先に広がるシンヨコは、同じであって欲しかった。
     明日も明後日も明明後日もきっと日常は続く。ずっとロナルドは退治人で、かれは吸血鬼のまま。
    豚汁とおにぎり


     あ、と気づいた瞬間には遅かった。ロナルドの目の前でドラルクが霧散した。
    「馬鹿砂! てめえ、考えなしに飛び込んできやがって!」
     飛び散った塵たちが呼応するように集まり、ひとの形に戻っていくのを見て、失い掛けた声が喉にあることに気づいた。叫んだ声が、自分でもびっくりするくらい震えていた。
    「そんなに叫ばないでくれ。私だってこんなに飛び散るとは思わんかったわ!」
     ずれた怒りのポイント。ロナルドが怒っているのは考えなしに目の前に立ったことであって、四方八方に飛び散ることではない。
     ツクモ吸血鬼化した新幹線と吸血鬼鉄道マニアがペアとなって暴走新幹線と化した。東京駅から都内の退治人と吸対たちが対処してたが、品川駅で食い止めることが出来ず、新横浜でも吸対と退治人たちが対処に当たった。車内には乗客が居るために新幹線を破壊して止めることは出来ず、かと云って駅構内での捕獲は駅ビルに被害が出ることを恐れがあった。保険や許可の兼ね合いもあって、被害が最小で済む場所で防御し、捕獲する予定だった。ドラルクは面白そうだから、と見物がてらについてきていた。ドラルクは最弱だが視点が他人と違う所為か、いいアドバイスを出すことが多く、見物をしていても邪険にされることはなかった。今日だって鉄道マニアなら、珍しい電車に飛び付くんじゃない?との意見に古い新幹線に擬態させたヘンナを立たせた。おかげで速度が弱まり、吸対と退治人たちの手で一時的に捕まえることが出来た。だがヘンナの変身が持続しなかったことで、捕獲は失敗し再度暴走させることになった。走り出したことにいち早くドラルクが気づき、運悪く路線に立っていたロナルドを、あわてて線路外に押した。おかげでロナルドは無傷だが、ドラルクは暴走新幹線に体当たりし、土手に散り散りとなったのだ。
    「おい!」
     砂がいつもの姿に戻ったが、そこには足らぬものがあった。
    「ん?」
     ドラルクの両腕がなくなっていたのだ。


     暴走新幹線が神奈川県から出てしまうと、管轄外となって解散となった。新幹線はのぞみだった為に次の停車駅は名古屋だ。その間の新幹線駅にも各県の退治人と吸対が待ち構えている。おそらくドラルクの一部は新幹線にくっついたまま走り去ってしまい、その部分が再生しないのだ。半田に頼んで通達は出してもらったが、腕が戻るのは暴走を止めたあとになる、との話だった。
     事務所に戻ってきて、手がないことで真っ先にゲームができないことに気づいてドラルクが悲しそうな顔をした。次に調理の問題があった。自分のではない。ジョンとロナルドの分だ。数日は作りおきで何とかなるが、いつ腕が戻ってくるかも判らない。
    「飯くらい俺が何とかするから、そんな顔すんなよ」
     不貞腐れた顔でソファに座っているドラルクに声を掛け、エプロンを着けた。もう何年も使っていない、ロナルド用のチェック模様のエプロン。一度自分が不在の際、入れ替わりでやってきた男が使ったとやらで、比較的出しやすい場所に仕舞われていた。
    「若造、きみ料理する気なのか?」
     顔に大丈夫か、と書いてあるような表情をドラルクは見せる。ドラルクの膝に乗ったジョンもロナルドが作ろうとした菓子やおぞましいミルフィーユ鍋のを思い出したようで、口を開けて見ている。
    「おまえが来る前は、そこそこにしていたよ」
     自分の領域となった台所を汚されるのが嫌なのか、ドラルクは立ち上がるとロナルドの後ろに立った。そこそこ、と云うのは本当だ。兄に代わって妹の世話をしていたこともあるし、独り暮らしをはじめてから調味料はそれなりに揃えた。時間さえ許せば、口に入れて問題ないものくらいは作っていた。それが多忙につきどんどん蔑ろになって、ほとんどがレトルトやインスタントに成り代わっていったのだが。
    「得意料理は?」
    「おにぎり」
     そう返すと、馬鹿にされる気がして身構えたが、逆に感心したように頷いていていた。
    「きみが握ると固い爆弾みたいなのが出来そうだなぁ。でもおにぎりならジョンも食べやすいからいいね」
     おにぎりなんて料理に入りません、とか云われると思っていたが、肯定されるとは思わなかった。
    「おまえさぁ。俺が作りたいって云うとき、いつも止めないし、馬鹿にしないよな」
     料理番組を見ておもむろに作り始めたときも、止めはしなかった。
    「だって、作りたいんでしょ? 作って失敗して食べない方が私は嫌だね」
     食材を無駄にするが一番嫌、とはっきりとした口調で云う。確かに失敗した料理は全部食べるように諭された。そうやって、かれも教わってきたのかもしれない。ドラルクの師はいけすかないキザな男だが、教えはちゃんと弟子に根付いているようだった。
    「半田くんも、セロリを武器にしたあとはちゃんと洗って調理しているって云ってたよ」
    「まじかよ」
     いままで仕込まれた数々のセロリを思い出す。
    「かれのセロリ料理のバリエーションはすごいよ。――じゃあ、とりあずごはん炊こうか? 冷凍のもあるけど、きっと炊きたてで握った方が美味しい」
     ロナルドは炊飯器から空の釜を出す。
    「ん。米は流し台の下?」
     云って流し台の下にある扉を開くと、大きなタッパーに米が入っていた。ドラルクはロナルドが決めた米の位置を変えないでくれたようだった。タッパーの後ろにストックの米が見える。乾物の類いもここに入れてあるようで、きれいに整頓されていた。
    「正解。おぼえてて偉いでちゅね~」
    「こども扱いすんな! 何合炊けばいいかな」
     思わず釜でドラルクをどついてしまう。一度砂になって、ナスナスとよみがえったが、やはりそこには腕はなかった。
    「いくつ握るつもり?」
     計量カップを持つロナルドを、ドラルクが覗き込んでくる。手で確認出来ないのもあるのか、いつも以上に距離が近かった。いつも鼻先をくすぐるドラルクの香りまでも近く感じる。
    「お、俺が五つに、ジョンが二つ……? 七つくらいか」
    「いっぱいあっても困らないし、五合炊こうよ」
     どうせ五合炊きだし、と云われ素直に従った。
    「無洗米って便利だよねー」
     無洗米が出る前は、寒い日に米を研ぐのが嫌でね、と懐かしそうにドラルクが口にする。ロナルドは物心ついたときから無洗米があったが、あれはそんな昔からあったわけではないと知る。研がずに水だけ投入すると、水位を確認して炊飯器に戻す。スイッチをすぐに押そうとしたが、二十分くらい浸水させて、と云われて押すのを止めた。
    「ねえ、せっかく台所立ったんだから他の料理もしようよ」
     にこやかにドラルクが云ってくる。なにか楽しくなってきたようだ。
    「他って?」
    「ご飯炊けるまで時間あるし、お味噌汁とか作ろう? このドラドラちゃんが指南して差し上げよう」
     いつもだったら両手を顎に当てて「可愛い子ぶりっこ」のポーズをしていた表情だった。
    「おまえ、そうやって『教えてあげる』モードで愉悦に浸る気じゃないだろうな? やらせて後ろからごちゃごちゃ指導するのはなしだぞ」
     クソゲームを無理矢理やらされたときの悪夢を思い出す。あの苛立ちは、ちょっとトラウマだ。
    「ンー、ゲームはゲームオーバーするだけだけど、料理は別にきみが失敗しても食べるの私じゃないから。あ、でもジョンはかわいそう~ドラちゃんの美味しいごはん食べれないもんね」
     云うとキッチンテーブルに移動していたジョンがぴょっこりと顔を出す。ヌヌヌヌヌ? と聞いてきたジョンに、ドラルクが味見のときに手伝ってあげて、と返す。渋そうな表情が返ってきたが、もうロナルドが作ることが決まっているような口調だった。
    「くっそーなに作ればいいんだよ!」
     やる気のスイッチを無理矢理押されたようなものだ。ロナルドは袖をまくり、エプロンの紐をきつく締め直した。
    「まずは冷蔵庫確認しようか?」
     云って冷蔵庫を開けさせると、ふたりで覗き込んだ。
    「豚バラがあるね。大根も人参もじゃがいももある。こんにゃくは……ないか。長ネギとゴボウも切らしているな。でも、いっか。本当はしょうが焼きにしようと思って解凍しておいたけど、これで豚汁にしよう?」
     食材を見て勝手にドラルクがメニューを決める。味噌汁と云われたので、頭にはワカメくらいしか浮かんでいなかった。
    「豚汁?」
     初心者にはハードル高すぎないか、と云おうとしたがドラルクは気にせずに続ける。
    「あと、蕪があるから浅漬けにしようか? 卵焼きもつける?」
    「待て待て。そんなに作れないぞ!」
    「大丈夫大丈夫」
     云ってすべての材料を調理台に並べさせる。
    「まずは蕪の皮を向いて。うん、そうそう。厚くても大丈夫よ。皮は捨てないで」
     蕪はすでに葉の部分は切り落とされていた。皮を剥きながら葉っぱは? と聞くと、昨日おひたしで食べたじゃない、と返される。たしかにポン酢で和えてある緑の葉を食べた。小松菜かと思ってたが、あれは蕪の葉だったのか、と今さら知る。刃物の扱いは苦手ではないが、皮を剥くのは別の技能だ。薄くなくてもいい、と云われたのであまり気にせず皮を剥いた。
    「こうか?」
    「じゃあ、次に乱切りにして」
    「乱切り……」
     むかし調理実習でそんな言葉を聞いた。だが、ロナルドは乱暴な切り方、とだけおぼえてしまい調理実習の先生に怒られた記憶だけが残っていた。つまり、乱暴な切り方ではないことだけは確かだ。
    「んー。一口くらいの食べやすいサイズに適当に切って」
     ドラルクが一瞬口を引き締め、判りやすく云い直す。本当に馬鹿にする気はないようだった。
    「おう」
     トン、トンとまな板の上で蕪を切っていく。いびつな形の蕪がごろごろと出来上がっていった。
    「そうしたらねぇ、そこの引き出しに入ってるアイラップ出して、袋に突っ込んで。冷蔵庫から鶏ガラスープの元を出して、小さじ二杯入れて軽く揉んで」
    「待て待て待て。一気に云うな」
     云われたことをゆっくりと遂行する。おそらくドラルクはやりながら同時作業で別なこともしているはずだが、料理が得意ではないロナルドは、ひとつひとつタスクをこなすしかない。鶏ガラスープをふた匙入れ軽く揉むが、ドラルクからは軽いちからには見えなかったようで、もっとちから抜いて、と云われた。
    「口を縛って冷蔵庫に入れてね。これで蕪の浅漬けは完成。そうしたら、次、豚肉を切って」
    「どれくらい?」
    「きみの指、第二間接くらいかなぁ。切ったらトレイに戻して、まな板と包丁、それから手も洗ってね」
     云われたまま切って、トレイに戻す。
    「そのまま使っちゃダメなのか?」
    「食中毒になってもいいならどうぞ」
     そう返され、そんな部分にも気を使われているのだと知った。考えてみれば、かれが来てから傷んだ食材を見た記憶がないし、なにかを食べて腹を壊すこともなくなっていた。まな板と包丁、そして手を洗うと次に切る野菜を手にした。
    「人参も大根も、皮は捨てないで。じゃがいもは新ジャガだから、皮は剥かないでいいよ。よく洗ってね。長ネギがない代わりに、新玉ねぎも入れちゃおうか? きっと甘くて美味しくなる」
    「一気に云うなって云ってるだろ」
     まな板に皮の剥いた大根を乗せたが、どう切っていいのか判らない。味噌汁なら短冊切りにしていたが、それでいいのだろうか。
    「大根と人参は薄ければどんな切り方でも大丈夫。私はいちょう切りにしているけど、好きな形に切るといいよ。じゃがいもは薄いと煮崩れちゃうから、これも蕪と同じで一口大くらいで。玉ねぎも薄いと溶けちゃうので、厚めのくし切り」
     戸惑っているのが伝わったのか、ぺらぺらとドラルクが話す。野菜の特性を壊す以外の理由で、押し付けるような駄目出しはかれの中にはないようだった。 
    「こうか?」
     包丁を動かし、人参と大根は短冊切りにして、じゃがいもと玉ねぎは云われるままに切った。
    「うん、そうそう。きみ、包丁の使い方は上手いね」
    「武器の研修会で、ナイフの研修もあったからな」
     あれはサバイバルナイフとバタフライナイフだったが、両方講師に誉められた。銃同様、携帯には許可の必要な武器だ。
    「わぉ、物騒」
    「――皮、どうすんの?」
     捨てないで、と云われた皮がまだ調理台の上にある。
    「あとで千切りにして、スープの具にするかきんぴらにするよ。それもアイラップに入れて冷蔵庫に入れといて」
    「ふぅん」
     アイラップをもう一袋出すと、中に放り込み野菜室に移した。自分だったら捨てていたものも、ドラルクは無駄にしないようだった。
    「あ、生姜忘れてた。そのまま生姜出してくれない? あとそろそろ時間かな。炊飯器のスイッチ入れてくれる?」
     生姜片手にそのまま炊飯のスイッチを入れた。
    「ちょうどいいや。全部擦り卸しちゃっていいよ」
    「皮は?」
     ビニール袋から出すと、包丁を再度握ろうとした。
    「洗ってくれれば別に剥かなくていいよ。卸し器は引き出しの下ね」
    「そういうもんなの?」
    「生姜は皮と実の間に一番良い香りの成分があるんだ。だから、剥かない方がいいの」
     うんちくを聞きながら引き出しから卸し器を出し、洗った生姜を卸した。指先に生姜のエキスが沁み、じんわりとあたたまる。
    「スプーン一杯分だけ小皿に移して、卸したやつは、製氷皿に入れて冷凍してくれると嬉しいな」
     云われるまま製氷皿を出すと、そこにスプーン一杯ずつ入れ、冷凍庫に移した。
    「次に、深型のフライパン出して」
    「え、鍋じゃないの?」
    「うん。炒めが必要なときはフライパンで作ってるね。火の通りも早いし」
    「そうなのか……」
     ガス台の下からフライパンを出す。いつの間にかフライパンも増え、鍋も増えていた。こちらもきれいに整頓されている。ロナルドは取り出したフライパンを火に掛けた。
    「まずは、油を引いて。ゴマ油で香ばしく焼こうか。あたたまったら、お肉を入れて。うん、そう上手い上手い。次に生姜。強火のままで、お肉のはしっこがカリカリしてきたなってところで、切った野菜を入れて。玉ねぎは、最後で。新玉ねぎだから」
     説明の手順通りに具を投入していく。
    「一緒に玉ねぎ入れるとどうなるの?」
    「新玉ねぎは水分が多いからね。すぐ柔らかくなっちゃうんだよ。一緒に炒めると出来上がる頃には形がなくなっちゃうかもしれないから、時差が必要なの。お肉の油が全体に回ったら、麺つゆをひとふり」
    「麺つゆ?!」
     突然出された調味料に驚く。料理にこだわっている吸血鬼なので、調味料にもこだわりがあるのかと思っていた。もっとも、どんな高級な調味料でも自分の舌では判らないのだが。
    「麺つゆは偉大だよ。表彰したいくらい偉大だ」
    「畏怖か?」
    「うん、畏怖だね。それを使っちゃう私も最高に畏怖だけど。……いい香りが立ってきたね。そろそろ新玉ねぎを入れて。そう、二回くらいぐるっと混ぜて。火を中火にして。そう、それくらい。じゃあ、ひたひたになるくたいお水を入れて」
     マグに水を注ぎ、何回かフライパンに投入する。
    「これくらいか?」
    「そうそう。グツグツいい始めたら、浮いていたアクを掬ってね。あまり厳密に掬わなくて大丈夫よ」
     言葉通りお玉で塊になったアクだけを掬い、あとは無視した。
    「玉ねぎが透明になってきたら、ひと煮立ちさせて」
    「ひと煮立ち?」
     聞き返すと、これも知らぬことを馬鹿にはせずに素直に返してくる。
    「沸騰して、一息おいたら火を止めることだよ」
    「こうか?」
    「そうしたら、味噌投入」
     冷蔵庫から出した味噌をお玉で掬おうとする。
    「どれくらい?」
    「お玉の半分くらいかなぁ。溶かしてから味見してみて」
     半分くらい溶かして、小皿に移すとドラルクがジョンを呼んだ。とことこと小さな足の使い間がキッチンへ入ってきたので、調理台に上げてやると器用に小皿を持つ。ジョンはおそるおそるといった顔で味見をしてくれた。
    「……ヌイヌー!」
     ほっこりした表情が返ってきた。ロナルドも小皿によそって味見してみる。
    「うめぇ!」
     ちょっと感動するくらいの美味しさだった。ドラルクは、調理指導の才能があるのではないか、とさえ思う。
    「それは何より。じゃあ、次はごはんが炊ける前に、おにぎりの具の準備しようか? 何がいい? 梅マヨの材料はあったかな。あ、ツナもあるね」
     冷蔵庫やストックの中身を思い返しながらドラルクは云う。
    「こっから先はひとりで出来るよ」
    「おや、大人~!」
    「うるせぇ、おにぎりは昔から作ってるんだよ」
     そう返しながら、ジョンをキッチンテーブルへと戻す。そのままおにぎりの材料を出した。
     梅干しに、マヨネーズ、かつおぶし、ツナ、塩昆布。梅干しは果肉を種から削ぎ落とす。おにぎり一個に半粒弱使うので、六粒の果肉を叩き、器に移す。そこにかつおぶしとマヨネーズを足し、混ぜる。これで完成。もうひとつはごはんと混ぜたかったので、ボウルに水気を切ったツナと塩昆布を入れて混ぜておく。
    「そう云えば、きみがリクエストしたから定番になった梅マヨ、こっちに来てはじめて作ったんだよね。今ではジョンも大好きになったからよく作るけど、きみんちのオリジナルなの?」
    「確かにコンビニとかには売ってないな。兄貴がよく作ってくれたんだよ。まあ、ある意味、うちの味かな。梅干しだけだと、酸っぱくて嫌がったら兄貴が工夫してくれたんだ」
    「きみ、今でも酸っぱい梅干しオンリーは苦手だもんね~」
    「う、うるせーわ!」
    「ふふ、作り慣れているものだけあって、手際がいいね。卵焼きはどうする?」
    「もう勘弁してくれ」
     これ以上作るのは正直めんどくさかった。毎日何品もおかずを作るドラルクから見たら落第生かもしれないが、初日で出来るわけもない。
    「じゃあ、目玉焼きくらい作ろうよ。それなら出来るでしょ?」
     炊飯器を見ると、炊き上がりまであと十五分、とあった。時間があるならそれくらい出来そうだった。浅型のフライパンを出し、油を引くと卵をふたつ割って落とした。片方は殻が入ってしまったが食べるとき外しなよ、とドラルクは気にすることもなかった。指示のまま最弱の弱火にして十分放置。これが一番きれいに焼ける、との話だった。その間に使った調理器具を洗う。それが済むと冷蔵庫から作った蕪の浅漬けを取り出し、器に盛り付けた。盛り付けながら小さなひと欠けを口に放り込むと、ちょうど良い塩加減の浅漬けの味が口の中に広がる。フライパンの火を止めると同時に炊飯が終わった音が鳴り、しゃもじを持って炊飯器を開けた。炊きたてのごはんの香りが一気にやってくる。
    「待って、炊きたてのごはんは柔らかいから握るときつぶれやすいんだ、バットに移して少し冷ました方がいいよ」
     ドラルクの意見に従い、バットを取り出すとそこにごはんを移した。確かに炊きたてのごはんで握ったおにぎりは、ずっしりと重かった。あれはつぶれて米と米が合体した塊になっていたと云うことか。ごはんを少し冷ます間に豚汁用の器を取り出した。さっき浅漬けを入れる器を出したときも感じたが、知らない器が増殖するように増えていた。以前はカレー皿と茶碗くらいしかなかったはずだ。ドラルクの料理の数と同じくらい、皿も必要だと云うことなのだろう。ロナルドだって、この作りたての豚汁を入れる器がカレー皿しかないと云われたらしぶしぶ注ぐだろうが、翌日はお椀を買ってくるはずだ。
     少し冷めたごはんの半分をツナと塩昆布のボウルに移し、ざっくりとしゃもじで混ぜる。これはヒマリが好きだったおにぎりだ。兄の好物は鮭で、鮭と梅マヨと塩昆布ツナのおにぎりは何度も作っていた。その味は、今ではドラルクの手に伝授された。不意に、家族の味と云うものは、こうやって引き継がれていくのだな、と自覚する。
     塩と水を用意し、おにぎりを作り始める。ジョン用に小さなおにぎりと、ロナルド用の大きなおにぎり。具がなくなるまでにぎり、最後のふたつは塩むすびになった。
     指ついた米粒を舐めながら、再度火を掛けて豚汁をあたためる。流し台に釜とバットにボウルを水で浸し、手を洗う。バットたちを洗うのは食事のあとでいいだろう。料理とは、調理と片付けの両立なのだと思い知る。
    「ジョン、そろそろごはんできるよ~!」
     ロナルドが椀に豚汁をよそいはじめると、ドラルクが声を掛けた。ダイニングから元気な返事が返ってくる。最後に豚汁の上に目玉焼きを乗せるように云われ、云う通りにした。大きな椀にきれいな黄色の目玉焼きが乗り、彩りが増す。私の代わりに写真撮って、と云われ、手を洗うとドラルクのスマートフォンで豚汁を撮影した。料理の出来映えに興味がなかったロナルドでも、写真に納めたくなる気持ちは判った気がした。
    「おまえはホットミルクでいいか?」
     マグを手にして、牛乳パックを持って振り返った。
    「うん。…………あ、でもどうやって飲もうかな。ストローあったっけ?」
     一瞬表情を曇らせて、ドラルクはそう聞き返した。


    「私が明日から居なくなっても平気か?」
     出来上がった目玉焼き乗せ豚汁とおにぎりをジョンと競うように食べ、自分で作ったことで高揚感もあってか、握ったおにぎりは全部たいらげてしまった。食事が終え食器を洗っていると、ドラルクは満腹でうとうとしたジョンの腹毛を見つめながらそう口にした。いつもだったらジョンは撫でられながら眠りに落ちているが、それが今は出来ない。撫でてもらえないと悟った小さな使い魔は、眠い目をこすりながらとぼとぼと自分のベッドへ向かったようだ。
    「もしかして、実家に戻ってじい様に腕を生やしてもらうのか?」
     手を拭いながら戻ってくると、隣に座る。
    「そうだ。腕はいつ返ってくるか判らんし、もう二度と返ってこないかもしれない。念のためにも、代わりの腕は要る」
     これじゃゲームもスマフォも触れないし、ジョンも抱けないし、きみたちに食事も作れない、と嘆く。長寿の吸血鬼にとって、退屈は死を意味する。だからこそ毎回派手な催眠や能力でひとを混乱させているのだ。
    「何で?」
     そうだな、と返すべきだったが思わず口から出たのは真逆の言葉だった。
    「何でって、私の話聞いた? これじゃこの通りきみのごはんも作れないし、掃除もできないし、洗濯もできない。棺桶の蓋だって開けられないんだぞ? 食事だって、きみにマグを持ち上げて貰って飲んだ。きみにとって迷惑しかない。存在価値ゼロだろ」
     返ってきた言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
     その新しい腕に慣れるまで、どれくらい掛かるのだろうか。腕が二度と返ってこないように、出て行ったドラルクも、二度と帰ってこないんじゃないだろうか。
    「だから何だよ。マグくらい持ち上げるわ。おまえのレベルは無理だが、料理は俺とジョンがするし、掃除もするし、洗濯だってする。棺桶の蓋だって、いつでも開けてやる」
     咄嗟に云い返した言葉。これは真実だ。嘘はない。何をこんなに必死になっているのか。
    「ははは。冗談を。きみいっつも料理だけは上手いからとか、そうじゃなかったら出ていけとか、よく云ってたじゃないか」
    「あ、あれは……! そう云わないと、おまえがつけあがるからだよ!」
    「おっと。今の言葉は録音すべきだったね。何につけあげると?」
     腕がないのが残念だ、と口角を上にした。
    「それは、ここは俺の事務所であって、おまえの城じゃなくて…………録音でも何でもしていい。う、腕を新しくしたおまえが、ちゃんと帰ってくるなら」
     一番不安な部分が、ようやく口から出る。なぜ何度も出ていくことを促すような、天の邪鬼な言葉ばかりをドラルクに吐き続けたのだろう。本心は真逆なのに。ドラルクは驚いた顔で、こちらを見ている。
    「……お、俺の人生に騒がしく入ってきて座り込んでおいて、勝手に出ていくなよ」
     絞り出すような本心。ずっと考えていたことだ。そのくせ、出ていけと口にして、絶対に出ていかないと思い込んでいた。今日だって、新幹線に弾かれて砂となったドラルクを見て、どれほど肝が冷えたことか。すぐよみがえると頭では判っていても、ショックだった。何より、ドラルクが自分を助けた事実が苦しかった。腕をなくした原因は、ロナルドだからだ。
    「――ねぇ、ロナルドくん。ドラルクキャッスルマーク2はね、私が居て、ジョンが居て、そしてきみが居て、キンデメとメビヤツが居る。それが私の城だし、ここが私の帰る場所だよ」
     いつの間にか城の住人として数に入っていたことに驚く。
    「お、俺の事務所だって、俺が居て、ジョンが居て、デメキンとメビヤツが居て、おまえが居るのがロナルド退治人事務所だ」
     精一杯のいらえだが、まだ天の邪鬼が悪さをしてドラルクを最後にする。それを知ってか、かれは声を出して笑った。
    「可愛い以外取り柄のない、役立たずの腕なし吸血鬼がきみには必要なのか?」
    「腕があろうがなかろうが、おまえはおまえだろ」
     腕がないなら、自分が代わりの腕になればいいだけだ。覚悟はまだ出来てないかもしれないが、受け入れる心算はあった。勝手にやって来た騒がしい吸血鬼は、ロナルドの心の半分以上を占めてしまった。そこに穴を空けたくなかった。これは自分のわがままだ。自由きままに生きる吸血鬼を、縛る権利など自分にはないのに。
    「ふふ、泣きそうな顔しないで。きみは本当に泣き虫だなぁ、ベソルドくん。なんでもひとりで抱え込む、孤高の退治人はもう終わりにしたまえよ。ああ、困ったね。抱き締めたいけど、腕がないや」
     云って頭を肩に乗せてくる。鼻孔にドラルクの香りが沁みるようだった。いつからこの匂いが好ましいものに変わったのだうか。なでもひとりで抱え込む癖は、ドラルクが来てからどんどん解きほぐされれて行ったのに、まだしぶとくここに居た。
    「俺が、抱き締めていいか?」
    「おや」
     返事を待たずに、そっと抱き締める。細く、薄い躰が布切れの下にある。すぐそこには、赤い眼があって、高い鼻があって、薄い唇があった。この唇に、触れたかった。顔を傾け、ゆっくりと顔を近づけると、ドラルクも何をするのか気づいたのか、ゆっくりと瞼を閉じた。かすかな吐息を感じる。こんなにも、距離は近い。
     好きだ。
     そう小さく口にした瞬間、大きな音ともに扉が開いた。
    「ロナルドぉー! ドラルクの腕だぞー!」
     突然ノックもなしに半田が入ってきて、あわててドラルクを押し戻す。力が強すぎたのか、驚いたのか、ドラルクは砂の山になっている。半田は京都の前で捕獲に成功したことを告げ、ビニール袋に入った砂をばさばさと砂山の上にこぼした。そしてドラルクが提案した電車で釣る案で成功したことを告げ、礼を云うと何故かセロリをひと束、砂山に刺して帰って行った。呆然と半田の後ろ姿見ていたが、振り返ると、セロリを手にした腕のあるドラルクがそこに座っていた。セロリのせいで近づけない自分の代わりに、騒ぎで起きたジョンが泣きながらドラルクに飛び付いてくる。
     さっきの続きが出来たのはずっとあとで、ドラルクは戻った腕で真っ先にヌイッターにさっき撮った豚汁の写真を上げていた。

     ――見て! 若造が畏怖なる私の指導で美味しい豚汁を作ったよ! おにぎりは梅マヨとツナ塩昆布。最高だよね。私も大好きだよ。
     


    akatsukiayako Link Message Mute
    2022/09/29 22:04:51

    ロナドラこばなしまとめ

    ツイッターに放流した奴。ほとんど本に再録してある。
    本でよみたいひと→https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040030977628/ #ロナドラ

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