蜜柑一献 ええ、お取り調べのとおり、今からお話いたしましょう。何をいまさら隠し立てすることがありましょうか、それもあなたさまのようなお方を前にして。すべて、わたくしめのすべて、あの日起こりましたことすべて、お話いたしますから、どうぞひとつ残らずお聞きになって、そしてお裁きくださいね。わたくしの ――ああ、失礼、喉が上手くまわらなくって、つはきが少し。
わたくしがお仕えしていたあのお小さい人は、たいそうな癇性であらせられました。藤原の、それもうんと高いところのお家の、ちゃんとした腹からお生まれになった方。たいそう器量よしのお兄様のあとにお生まれになって、しかしそれでも何一つ憂うところはないお育ちで、しかしそれでも――――それでも、あの方はいつでも、うんと幼いころから、なにか間違ったところにうっかり落ち込んででもしまったかのような、うすらぼんやりとした周囲との軋轢を抱いていて、それをそれと言いさすこともできぬまま、おかわいそうに、いつも癇癪など起こしていらっしゃるのでした。弟君がお生まれになり、そしてお育ちになってからは、いえまだほんの乳飲み子と変わらぬようでいらしましたけれど、喋ったり歩いたりする、自分より幼い、自分と同列の人間がお家にいらっしゃると悟りなさってからは、以前ほどは母君にまとわりつきなさることも出来ずに、うんと寂しく、うんと焦っておられるようでした。しかしまだほんの、子どもというより赤子と言ったほうが近いような弟君でございましたのに、一度や二度、母君と弟君とお戯れになっているときに、前触れもなく手に持っていた玩具や何かを弟君に、いきなり投げつけなさったことがあって、当然父君にたいそう叱責されておられたこともございました。お小さい人――次郎さまは、どうして弟君を大切にし申し上げられないのか分からぬままに、そういうことを繰り返して、幼いお年頃に似合わぬ、ほとんど憎むような目つきをなさるようになりました。そんなお方ですから、わたくしのような者をはじめとした下々のものにもね、当然ひどく当たり散らしなさるのですよ。まだ善悪の区別もつかない頃の子供のことでございますから、とは言っても、善悪の区別がつくころになっても、やっぱりお変わりにならないんじゃないかと思いますよねえ。ああ、失礼。とにかく、子供のことだとは言っても、くしゃみをしたかと思ったらすぐ儚くなるような年頃の子供のからだであっても、ぶたれたらつろうございますし、足蹴にされたら憎うございます。その日もう何度目だったかわからない、数えようもないようなそれにさらされまして、わたくしの胸の中で、ひとつ実がはじけたのです。この方は生まれつきの性質がお悪いのではない。ただお家や周囲の方々の毒がいけないのだと思いまして、ええ、わたくし、その日次郎さまをお屋敷から盗み出したのです。
宿直はわたくしでしたから、最初の関門は簡単でした。宿直とは言っても、なにかすることもございませんのよね。次郎さまは夜ごと、と言うほどではございませんでしたけれど繁く、夢の中でまでなにかに怯えさせられてばかりいらっしゃいました。どんな怖い夢をごらんになっていたのかしら、とうとうわたくしたちには誰にも、教えてくださらなかったのですよね。夢にうなされて、夜半、蠟燭の灯りと単衣の下で、泣いてらっしゃることもありました。袖を濡らす、なんて言葉が当てはまるほど大人ではございませんでしたけれど。恋に袖を濡らすほうがよほど始末が良いのですわ。恋ならば関係する数人を黙らせてしまえば済みますけれど、世界じゅうが怖いお方は、例えば世界じゅうの人間がみな人間の皮をかぶった獣であって、獣の論理で世界が動いていて、それに駆け続けて合わせていかねばならないと必死になっているお方は、どうしたら救われたのでしょう? まだほんのお小さいのに。ここにおられる限り、これから大きくなられるに従って、そのおつらさは弥増すに違いなかったのです。だから。もうそういう世界から盗み出してしまおうと思った、それも事実でありますが、まあ、しかし、次郎さまを憎く思い申し上げる害意も、また確かに真実でありました。わたくしは、宿直として影に伺候して、蝋燭の火影が揺れるのを眺めておりました。どうしようか、どうしようか、何遍か迷っていたときに、ふっと蝋燭が消えました。わたくしは立ち上がり、それから蝋燭のほうには行かず、手探りで、次郎さまを単衣ごと抱え上げました。今日は静かにお眠りになっていて、うっすら目をお覚ましになるようでしたから、何でもございませんよ、と、まだうんとお小さかったころにそうしたようにお話し申し上げて、まだお小さい手足が子供らしく健やかに温かく、ちゃんと息をしておいでで――起きていらっしゃるときはいつも喉が締まったようなところがございますのに――、こうしていらっしゃればなんと穏やかで罪がないことだろう、とわたくしは思いました。――それから? それからとて、言うことは別段ございません。あなたもご存知でしょう、夜がどれだけ深いのか。わたくしたち、首尾よく逃げ出したのでございます。
お小さいとはいえ重たいそのお体を抱いて、わたしは躓き躓き夜道を走りました。よくそんなことができたものです。本当に鬼でも憑いていたのではないかと思います……いえ、嘘は申しません。その時鬼であったのは、確かにわたくしでありました。途中で転びかけて、履物が脱げて、手もふさがっておりましたし真っ暗で探しようもありませんでしたから、わたくしは片足は裸足で走りました。蜜柑の旬のことでしたから、霜の降りた道はたいそう足に痛うございました。それでも、あんな気分だったのは、あんなに気分がよかったのは、わたし、初めてでございました。真っ暗な中でしたけれども、風が冷たく髪を吹き散らばしましたけれども、お仕えするお小さい方を盗み出して、これから二人どこまででもゆける――――、そんな幻を、手探りの闇夜に見たのです。しかし、もちろん、めくらめっぽう走っていくわけにもゆきませんから、わたくしは何とか、今は住む人もない、ほとんど荒れ放題の母の古屋に辿り着いたのでございます。ええ、お屋敷では下人下人と呼ばれていましても、なにせ立派なおうちのことでございますから、お仕えする人間でもそれなりに家を持っているのでございます。板の間に次郎様をお寝かせして、わたくしは手さぐりに灯りを点けようと思いましたが、当然うまくいくはずもなく、すべては闇の中でした。火鉢とて灯すことができず――――そもそも、明けてから探してみればそんなものはこの空き家にはなかったのですが、次郎様がひとつくさめをなさったので、目をお覚ましになったかと焦りましたが、しかしまだ眠っておいででした。珍しいことでございます。日頃衣擦れの音ひとつにも目をお覚ましになるたちなのに、わたくしに盗み出されて、それでも昏々と眠っておられるなんて。仏さまのお助けかしら、とわたくしは思いました。だって鬼子母神であっても、仏さまはお助けになるのでしょう? しかしとにかく寒うございましたから、わたくしは、いつかの母を思い出して、次郎様をお抱き申し上げて、子供らしい丸みのある頬を、わたくしどもをさんざんぶってきた子どもの手足を、闇の中に感じながら、まとまらない考えをめぐらしめぐらし、横になっておりました。暗闇のなかにいくつも、虹が光って散りました。
しかしいつしかまどろんでいたようで、わたくしは暁の光にはっと目を覚ましました。そこは荒れ果てた、そして懐かしい、わたくしの生家でありました。水場を探してみると、湿った薪と荒縄がありましたから、わたくしは縄をもって、考え考え、単衣にくるまれた次郎様を見下ろしました。滑らかな手足を荒縄で縛るのはいかにもすまない気がしましたから、先の冷えたおみ足を、単衣の上からまとめて縛り申し上げました。ふふ、変な言い回し。尊いお方をお縛りすることって、ございませんからね。とにかく、そうやってごそごそしておりましたら、流石に目をお覚ましになったようで、薄いまぶたが持ち上げられ、眠たげな幼い瞳はわたくしの前に困惑をさらしておりました。
「どういうことだ」
まだ眠たげなお顔は、しかし変わらず尊大であり、そしてただ困惑がありました。わたくしは答えに窮しまして、黙っていると、
「ここはどこだ」
変わった問が、寝起きの喉から発されました。
「……わたくしの屋敷でございます」
次郎さまはさすがに血相を変え、そして足が縛られていることに気付き、そして上半身で跳ね起きて、
「お前、どうして私にこんなことをするんだ! こんなことをしていいと思っているのか、父上に禄をいただいているくせに、私が憎いのか!」
……それは、憎うございます。
「ええ、憎うございますわ」とわたくしは思い、その通りにわたくしの喉は語り、わたくしは笑い、口の端が引き裂けて鬼になるほどの悦が身を満たすのを感じました。憎うございます、あなたが。同じくらい、愛らしゅうございます。その顔がよほど恐ろしかったのでしょうね、鬼をご覧になったのは初めてだったのでしょうね、次郎さまは蒼褪めてうつむき、視線をおちこちにさまよわせておいででした。わたくし、あなたさまのそういうところが、どうしようもなく。誰が自分より強く誰が自分より弱いか、自分を踏みにじるのは誰か、足蹴にしてよいのは誰か、それを敏く敏く嗅ぎ分けるあなたさまが、憎く、愛でたく、あったのですよ。
「いまから、悪さをなさらないようにお手手をお縛りしますからね。おいたをなさっては痛いですからね」
とわたくしは平生と同じかそれより静かなくらいの声で言い、震える両手首をお縛りしました。なんと恐ろしいことをしているかとは、思いましたけれど。次郎さまはわたくしを制止しようとなさって、しかしわたくしの名がわからぬようでいらっしゃいました。まあ、乳母でもありませんからね。周りの家々が起きだしてくる音が聞こえ、次郎さまはきたない家を恐ろしそうに珍しそうに黙って見まわし、そしてじっと恐れるように口を噤んでいました。わたくしが恐ろしくて、心細くて、助けを呼ぶ声も怖くって上げられないのです。なんて愛らしいこと。そしてこすくて、憎らしいこと。それから、朝餉はどうしようかしらと、まずそのことを考えていた時でした。
「たれかいるの」
と誰何の声がして、わたしは菜を拵えるのに使っていた小刀はどこにあったかしらん、さてまだあるかしらん、錆びているかしら、と思いながら、しかしその声が姉のものであることを聞き分け、安堵していました。あの瞬間のわたくしには、そうまでの覚悟が、ありました。
「ねえさん」
と返事をするまでほとんど間はなく、この時次郎さまは、縛られたままの両手で、ガン、と板張りの床を打ちました。
「どうしたの、どうしちゃったの、お前は」
困惑の声は建具を開けることを怖がっているようでした。わたしは右手で次郎さまの手を抑え、その小さな骨を捉えながら、
「姉さんはどうしてここへ来たのよ」
と問いました。
「そりゃ、近くの人が、深更に誰か屋敷へ入ったようですってうちへ報せに来てくれたから見にきたのよ」
「それはうちの他の人は知ってるの」
「いえわたしだけよ」
それで、わたしは、安堵しました。
「入ってよ、姉さん。人手がいるの」
「いえ、でも、おまえ、何をしたのよ」
「何をしたって、もうしちゃったんだから、この上何をしたって変わらないわよ」
もうことが起こりそれは取返しがつかず自分もたぶん連座で無事では済まぬであろう(以上傍点)、と悟ったらしい姉は、のろのろと気が進まぬ様子でぼろぼろの建具を開け、次郎さまを見、わたくしを見、そしてよろよろと倒れこみました。姉はわたくしがどこにお仕えしていたかとうぜん知っていましたから、縛られて転がされているお小さい方がどなたであるかも、とうぜん分かるわけです。姉は唇をむなしく開閉し、わたくしはその意図を汲みました。
「わたし、このお小さい人が憎くて仕方ないの。可哀想で、可愛くて仕方ないの。それで盗み出してきたの」
「どうしちゃったの、お前は、本当に」
姉は何度目かの嘆息をなし、恐れるように、というよりももはや恐れに満ちた目でわたくしのおもてを見ました。
「姉さん、朝餉をなにかもってきてよ。わたしお腹が減ってよ。何か食べたら、すぐどこかへ逃げるから。食べるものと、灯りになる油が欲しいわ。着替えも欲しいけれど、今時分難しいでしょうね」
姉は穴があくほどわたくしを見ました。それからその目がだんだん諦めに染まって、それからその指先に奇妙な希望が染みて、姉は頷き、出て行きました。「裏切らないでね」という言葉は喉につかえて、わたくしその時、どれだけあさましい目をしていたことでしょう。
それから、はっと我に返って次郎さまの方を振り向くと、その稚いお顔は、熱で赤く苦し気になっているのです。お屋敷のようにはあたたかくないから、とわたくしは思いました。嫩なること花房に似、と、わたくしは思いました。娘が身罷ったことを嘆く父の歌なのですよ。律令の喪の定めの少ないくらい、幼い子は儚いものなのでございます。わたくしは、だんだん我に帰るのと、同時に血の気が引くのを感じておりました。傷だらけになった右足がひどく痛み、着物の裾が血と泥にまみれているだろうと手探りに思いました。お家の方では必死になって探すでしょう、誰が次郎さまを盗み出したかも一目で知れることです。母の家の詳しい場所をうちの方で知っている人間も少ないでしょうが、たどり着くまでさして時間もかからぬでしょう。次郎さまはお熱であるからこれからどこかにお移しするわけにも行かぬ。もう逃げられない。わたしたちはどこへも行けない。見えざる手で再び檻に戻されて、取り返しのつかないことをしてしまったという感が、あさましいことにこの時初めて、わたしの頬を強く打ったのです。冬の朝のことでした。吐く息が白く揺れました。破れ破れの家に射し込む光はあくまで明るく、正しく、端正で、なにもなにもわたくしを許しませんでした。わたくしは小さな次郎さまを必死になってかき抱き、お名前を御呼びだてして、応えのあったことに心底安堵しました。
姉は、しばらく経ってほんとうに帰ってきました。近所の、かつて母に仕えていた者のところから、蜜柑を三つと油を持って。姉は事情を見て、もうわたくしたちがどうしようもないところに――いえ、そんな風に言うのもいまさらなようですけど、とにかく、もうどうしようもないところに踏み込んだことを悟り、少しだけ笑いました。
「今時分のことだからなにもなにもないみたい。これで堪忍してちょうだいね」
お熱があってほんとうにおかわいそうでしたうえに、手首をお縛りしていた荒縄が擦れて赤くなっているのがいかにも哀れで、わたしは縄を解き、その傷に薄く油を塗ってさしあげました。いえなに、お屋敷に、ああいう世界にお返し申し上げることに心底納得したわけでもありませんが、どんな階級のものであれ、手首に縛めの痕が残っているのはたいへん惨めなことですからね。たまにね、おるのですよね。そういう者が。
で、わたくしたちは、薬師のところに行くには金子がない、という話をしました。わたくしは何一つ持っていませんでしたし、姉だって変わりませんでした。家に帰ってなにか持ち出してこようか、と姉は言いましたが、姉が持ち出せるものなどあの家にほとんどないのです。それに、もう家には追手が辿り着いている時分でしょうよ。では加持祈祷はどうか、それこそますます金子がない、だいたい誰を呼ぶのよと、考えて、そもそも、
「この子にしてやれる祈祷があるかしら」
とわたしは言いました。誰がこの子のために、何を願うのかしら? 誰がこの子のために祈ってあげるのかしら?
「何を言っているの」
と姉が言いました。信心深い姉ですから子どもが死ぬのをただ見てはおれぬと言うのかしらと思いましたが、姉は、
「あのおうちの二の君を攫っていって死なせたとなれば私たちの首は十遍でも飛んでしまうわ」
と言いました。あれだけ信心深い人にもこんなふうに見捨てられるなんて、あなたよほど望まれていないのですね、とわたしは身震いしました。身震いするような悦がありました。あなたさまにはもうわたしより他に頼るものもいないのに、そのわたしもあなたのことをお厭い申しているのですよ、ほんとうは。愛らしく思い申し上げるのと同じくらい、憎うございます、あなたが。足蹴にされて愉快な人間もおりませんが――――。
「でも、それも、仕方のないことよね」
と姉は俯いたままぼそりと言いました。
「尊いお方、身分が上のお方に仇なし申し上げることは、許されないことだわ。許されないことだもの、殺されたって、仕方がないわ」
「身分が何よ!」
わたくしは思わず大声を出していました。わたくしも薄々同じように、つまりこの方の父君に殺されるのだと観念していましたが、そう言われては無性に腹が立ちました。そしてほとんど初めて、ようやく、いかに姉に理不尽な咎をかぶせたかを、自分の罪に姉を巻き込んでしまったことを、言葉として気が付きました。姉は、べつにとても悪いことをしたわけではないのです。それなのにわたしに連座して死なせようなんて、よくもそんな恐ろしいことを思ったものだと思いました。その一方で、わたくしの喉は、即座にべつのことを怒鳴りたてていました。
「身分が上の人間には媚び諂わなければならない、そんな考えに、あんたたちずっと苦しめられてきたんじゃないの! そんな考えが、あんたたちを今までずっと不幸にしてきたんじゃないの!」
姉は黙り込みました。決して口の回るほうではないわたくしよりも、姉は一段と、弁の立たないたちでした。
「しかし」、と、姉は考え考え言いました。「たとえ身分が低くても、子どもを攫ったら悪いわ」
「そうかしら。人攫いは多いわよ」
「多いったって、悪いわ。このお方にはご家族が、お母様もお父様も立派にいらっしゃるのだから、お悲しみになるわ」
「なるかしら。悪いお家よ」
姉はまた、黙り込みました。意味もなく指先で床をなぞりながら、この女は自分が死ぬるだけの罪を拵えてひと息に仰ごうとしているのでした。殺される口実が転がり込んできたことを、どこか密かに嬉しがるような心が、あったのかもしれません。
「でもあんた、あんた一人で死ぬのもあんまりじゃないの、あんたはわたしのただ一人の身内なんだから、あんたが死んだらどうすればいいかわからないわ。別に生きていたっていいことなんてひとつもないんだもの」
「姉さん」
わたしは何の言葉も取りあえずに、ただ姉を呼びました。
「あんな家に繋がれてないで、あたしのせいで死んだりしないで、どこへでも逃げ延びて、それで、」
「でもあんたがただ一本の絆だから」
「ねえ」
とわたしは言いました。好いたひとと一緒になるどころか、家柄らしく身を固めることさえ許さず、いつまでも下女同然に姉を使ってきたあの家を、そのほかに世界を持たぬ姉を、わたしは苛立たしく思いました。
「姉さん、わたしこの方を棄ててどこかへゆくことはできないわ。しかもいまはお移しできないし、ここへはもういつ追手が来るかわからないのよ。そしたらわたしは殺されるに決まっていてよ。家もどうなるんだかわからないわ。だから、姉さん、わたしと一緒に殺されるか、それともぜんぶから逃げ出してしまうかなのよ」
わたしたちは随分長いこと、次郎さまをちらちら見ながら話し合っていました。わたしは少しでもあたたかであるように次郎さまをお抱きして、膝をかすかにゆらし、背を撫で、その一方でわたしは姉を宥めすかし、詭弁を弄し、叱咤し、姉は自分を殺してくれるーーーー「くれる」刃を、のろのろと待っているようでした。けれどついに姉は折れ、姉は渋々ながら立ち上がり、さもわたくしが後ろ髪を引いているかのように振り返り振り返りながら出ていき、そしてそれきり戻りませんでした。いつもノタノタしていて鈍臭い姉でしたが、ある種のところでは異様に思い切りのよい女でした。わたしたちはその点母に似たのかもしれません、顔も背格好もまるで似ない姉妹でしたが。
それで、そのかん次郎さまは、泣くまい、とかたく唇を噛んで我慢しておられましたが、とうとうその目に涙が滲みはじめて、縛を解かれたちいちゃな手でそれを強く拭うのでございました。「そんなにお目々を擦っては溶けて流れてしまいますよ」、という声だけが我ながらびっくりするほど穏やかでした、たぶん、常よりも。わたしはその熱い額の汗を拭ってやり、なんだか念仏を口の中で唱えたような気がしました。お屋敷に返してくれ、いまならちちうえにとりなしてやるから、と泣き声の下に言うのですが、わたしは首を振りました。もう遅いのです。あのお方はわたくしをお許しにならないでしょう。もしもわたしたちがどちらも無事にお屋敷に戻ったとして、そのあと、あなたさまはわたくしがいなくなっても頓着なさらないでしょう。気づきもしないかもしれませんね。父上のお屋敷に返してくれ、と泣くのを聞いて、あなたのおうちではなかったのですね、とわたしは思いました。しかしまあ、考えてみれば、わたくしが父の屋敷に引き取られたときも、おうちに帰る、ではなく、母の屋敷に返してくれ、と泣いたような気がしますから、貴族の子とはそういうものなのでしょうか、上下を問わず。
目元を強く擦ってまぶたが赤くなり始めていましたから、そう我慢なさらなくていいのですよ、とわたしはあなたに言いとうございました。けれど、あなたは我慢なさらなくてはならないのです。
次郎さま。ねえ、ほんとうは、ほんとうに獣であるのは、わたくしたちの方なのですよ。気づいたときには人間どもの中に紛れ込んでいたのは、獣のたましいを持っているのは、あなたさまなのですよ。あなたさまは、これから人あつかいされる年におなりになって、ご成長あそばして、そしてずっとずっと我慢して、獣のこころを堪えてゆかねばならぬのです。我慢して、羽衣のように重たい圧迫が降り積もるのを我慢して、螺鈿のおもてに積もる細かい傷のような世間との摩擦を我慢して、いつかお后の装束より重く、いつか螺鈿を割るほど深くなる苦しみを声にすることもなく我慢して、我慢して、いつか自分がそうしていることも忘れてしまうまで、ずうっと、我慢し通さなければならないのです。それならば、いま、殺してしまいたい。喪の儀礼もまだ重からぬほど幼くいらっしゃる今のうちに、一緒に死んでしまいたい。わたしはそう思いましたが、しかし、それはもしかしたらもう数刻のうちに叶うかもしれぬ夢でした。わたしは殺される、あなたも儚くなる。脆きこと瓊に似たり、と、わたしは思います。
のどがかわいた、と次郎さまがおっしゃって、わたしは、慌てて蜜柑を剝きました。飲めるような水もありませんでしたから。硬い蜜柑の皮に爪を立て、厚い皮を剥き、房を選り出して、その果汁を飲ませてさしあげようと思って、思ったとおりにいたしました。
……それから、きらきらと盲いた子どもの両目がわたしを捉え、なにもかも忘れ果てたようにあなたは、無心にわたしに水物をねだりました。わたしは、蜜柑の一房を捥ぎ、指先で搾って、滴る雫であなたの唇が潤されるのを見ました。これがあなたの末期の水であればどんなにいいかとわたしは強く強く思いましたが、そうはならなかったのでございましょう。あなたは、まだ生きてゆかねばならなかったのでしょう。ひと真似を強いられる前に往ねるほど、幸福な星のお方ではなかったのでしょう。あなたはまた無心に、ちいちゃなお口を開けて雫をねだって、そこにはなんの罪業もなく、わたしは、わたしがあなたを盗み損ねたことを思い知り、冷たい涙がこぼれました。わたし、己の命が惜しくて泣いたのではございません。あなたの前に荒漠と広がった霜焼けの道の、どこへも繋がっておらずどこへも逃げられぬ道の、そのつらさを思って泣くのです。裸足で、たったお一人で、低く低く垂れ込めた雲の下の、鳥のひと声もない道を、走り続けねばならぬあなたの、走って走ってそれで極楽にゆけるわけでも、暖かいところにゆけるわけでもないあなたの、いつかご自分が辛抱していることさえ忘れてしまうあなたの、頸に剃刀をいつも突きつけられているあなたの、あなたが哀れで泣くのです。
わたしはあなたの唇に、作りものほどにちいちゃな歯と舌に、願われるままに蜜柑の雫をさしあげました。あなたの横にきちんと座って、じきに膝を崩して、さいごにはみっともなく腹這いになって、あなたの汗で濡れたお髪をそっと払ったり、ひたいに刻まれた星を見つめたり、短い平穏が破られるまで、ずっとそうしておりました。どこへもゆけないどん詰まりの幸福の中で、きゅうきゅうに首を絞められながら。
これで、わたくしの話は終わりでございます。お屋敷からお迎えが来て、次郎さまはめでたく賊の手から奪還されました。かれらはわたくしを刺し殺し、それから首を斬り落とし、わたしの髪を掴んで、お屋敷に改められにゆきました。わたし一人の乱心だと、とっくに調べはついていたのでございましょうね。死体を運ぶのと首を落とすの、どちらがより骨が折れるんだか、わたしは幸いなことに存じませんが。乳母が、というか上司が、首がたしかにわたしであると証し、それからわたしは蹴り出されるようにして捨てられました。それぎり真っ暗になって、わたしはもう、何も知らないのです。姉は無事に逃げ延びたでしょうか。都に人は多うございますし、わたくしたちちっとも似ていませんでしたから、そうそう捕まるまいとは思いますが。あの家で貴族階級とも言えない暮らしをしていましたから、どこかで生き延びていけるでしょうが。
あの家がどうなったか、わたしは知ろうとも思いません。わたくしの罪のせいで崩れるなら崩れればよいのです。育てていただいた恩義より、降り積もる日々の恨みの方が重たいこともあるのです。
ああ、ここは、真っ暗ですね。わたしの首は一体何に接いであるのでしょう? 接がれていなければ喋れませんからね。喉を断ち切られた生首が喋るわけがないでしょう。きっと獣でしょうが、それも確かめられぬほど真っ暗です。まるであの夜の闇のよう。あの方と落ち延びる夢を見た、鬼として駆けたあの夜のよう。ね、次郎さま、わたし、あなたが、憎くてーーーー、それで、同じくらい、お可哀想で、愛しくて、ねえ、早くお裁きくださいまし。わたくしの話はこれでもうすっかり終わりですから。ねえ、閻魔さま、わたしたち、いつか、どこかあるべきところへゆけるのですか?