末期の恋 話したくありません。話したくありませんよ。もう、なんでもよございますわ。お好きな地獄に連れて行ってくださいまし。わたくしがお話ししなくったって、あなたさまは、何でも見ておいでのお方でございましょう。何だって、私の口から、わざわざ……。…………まあ、ええ、それならば。いずれやってくるあの方のお裁きに、私の話が、役立ちますのなら、まあ、話しても、ようございます。よございます、わたくし、あの方のためなら、用立てられて。ああ、寒い。濡れておれば寒うございますけれど、さっきまでーーーーさっきと言ってもいつだかわかりませんけれど、焦がれそうに燃えておりましたから、まあ、丁度でございますね。
…………まあ、ええ……わたくしが犯しましたいちばんの罪の始まりは、あの方からのお手紙でございました。まあ、それなりに、慣れておりましたけれど、今を時めく右大臣さまの二の君からのお手紙には、少し、驚きました。素敵な香を焚き染めた紙に、風流な詞と歌が書いてあって。こなれた中身にしては手がずいぶん緊張していて、なんだか可愛らしいような、思惑が透けているような。ああこの人目的があって私に近づいてくるのだな、それもろくでもない目的なのだろうな、と分別がつくくらいには、わたくしは慣れておりました。大事なお役目ですからね。よからぬ思惑で近づいてくる人間は、それなりに多いのでございます。しかし、まさか右大臣さまの二の君を、まったく無下に扱うこともできますまい。わたくし、ほどほどに、ほどほどの関心を示した手紙を、書きました。それで何度か文のやりとりをして、あの方はじれったそうに、会いにいってもよいかと、わたくしにお尋ねになったのです。まあ、故あってわたくしにものを言ってくるのですから、だらだら文ばかり交わしていても、どうしようもありませんからね。そして、わたくしだって、それにいちいち傷つくほど若くはございませんでした。ですから、わたくしたち、わたくしの局の軒近くで、お会いしたのです。勤めが終わった夜のことでした。こちらからあの方のかげは、ぼんやりとしか見えませんでした。わたくしは扇越しにあの方を、あの方の強張った輪郭を眺めて、あの方が御簾越しにわたくしの姿を検分しているのを感じて、さすが身分あるお家の方は香りも素晴らしいのね、と思いました。何をお話ししたのだったかしら。もう、あまり覚えておりませんわ。ずいぶん緊張なさったあの方のおっしゃりようが、これまでに言いかけてきた手練れたちとは、ずいぶん違って、なんだか新鮮だったような。ただ、どうしてわたくしなのですか、と問いかけたのを覚えています。
「あなたなら信じられそうでしたから」
と、あの方は、真面目な顔で――たぶん、真面目な顔で、おっしゃいました。わたくし、それを聞いて笑ってしまいましたわ。ねえ、慣れているんですよ。わたくしは陰気な女ですからね。いかにも口が堅そうで、いかにも丸め込みやすそうで、いかにも都合のいい女だと目されることにね、私は、慣れていたんですよ。わたくしはずいぶん大きな声ではしたなく笑って――あの方がそれでどれだけ憤ったことでしょう。どれだけ恥をかかされたと思ったことでしょう。面目を潰されたあの方の怒りと恐怖ばかりが匂い立って、あの方は、御簾の向こうで、立ち上がりました。もう結構です、と言い残して去ろうとするあの方を、わたくしは、呼びとめました。もし、もしあなた。あなたさま。あなたがあんまり素直なお方だから、わかりました、わたくし、あなたの役に立ちましょう、用事があればお聞きしますよ……とか、そんなことを。
それでね、次の朝、律儀に手紙が来たのです。後朝の手紙が。私、笑ってしまいました。あんまり可憐な方だわ、と思いました。少し舞い上がっていたのかもしれません。同輩にね。あなた、あんな貴い方をあんな軒近くに座らせるものではありませんよ、あんまりもったいなくて見ていてはらはらしたわ……と、言われたことを、何故だか、覚えております。
それからすぐにまた、あの方が通っていらしました。雨の夜でした。寒かったわ。何か持っていらして、御簾の向こうでわたくしに言いかける言葉に苦慮してらして、まあ寒い夜に端の方にお置きするのも畏れ多いことですからね、
「おいでなさいよ。寒いでしょう。それに端近くでは人が聞きますわ」
と、御簾を少し、手で持ち上げました。あの方はなにかもごもごおっしゃって、きまり悪そうに、すこし不気味そうにまでなさって入っていらして、いい香りだったこと。宮中で評判の、折り目正しい貴公子にしては、立ち居振る舞いがあんまりたどたどしかったこと。それに、そのお姿を見て、わたくし、この方のことを知っている、と思ったのです。この方、わたくしに似てるわ、と思ったのです。
「頼みがあります」
とあの方はおっしゃいました。まあ、口にするのも躊躇われるようなこと。あんまり恐ろしいこと。……まあ、世にためしのないことでもないのです。わたくしも、初めてではありませんでした。けれど、これまで、断ってきました。あんまり恐ろしいことですからね。でも、私、あの方のためなら、できるわ、と思いました。私のようなものはね。同類を嗅ぎ分ける嗅覚が、ずいぶん鋭いんですよ。
「……そのお薬を少し舐めてみてくださいましよ。毒ではないんでしょう?」
あの方はずいぶん狼狽えました。視線があらぬ方へさ迷って。耳が赤くなっておいででしたわ。
「高価な薬ですから、私などが口にするのは、勿体なくて」
私、また笑ってしまいました。いけないわ。いけない。わたくしなんかに、そんな縋るような目をお向けになっては、いけない。もうわたくしがあなたがたの企みを知ってしまったから、だから私が怖いのですね、あなたは。
「それはどなたのお考えなのですか」
と、わたくしはなんとなく、聞いてみました。
「私ひとりが考えましたことです」
という声は、静かでした。ああ、あなたは、どうしてそんなところだけ、覚悟が決まっておいでなのかしら。
そして、わたくしはその「薬」を受け取りました。ずいぶん、苦心しましたよ。私たちは文のやり取りを続けて、そう、まるで恋文みたいな文を、周りの目を欺くために、書いていました。あの方のところには、たぶん、入れ知恵している者がいるでしょうね、と、あんまり物馴れて風流を気取った文面に、思いました。それを生真面目な手でお書きになっているんですから、おかしくて。薬を……いえ、毒を、お食事に混ぜるのには、本当に骨が折れました。骨が折れれば折れるだけ、それが効果を上げれば上げるだけ、秘密が大きくなれば大きくなるだけ、罪が重くなれば重くなるだけ、わたくしとあの方は、近しくなってゆきました。人間が分かち合えるもっとも大きなものは、秘密と罪なのでございましょうね。ね、そうでしょう。
あの方は、それなりに繁く、わたくしのところにおいでになりました。いえ、それも、宵の数刻だけのことなのですよ。話といってもまさか秘密のことをあれこれ話すわけにもゆきませぬから、わたくしたち、黙ってばかりいました。でも、それも、なんだか快かったわ。手持無沙汰に碁を打つこともありましたよ。お強かったわ。手つきがずいぶんおきれいで。そんなことばかりしていました。秘密ばかりが重かった。ぽつぽつ、お互いの仕事の話なんかして。いつも、夜が更ける前にお帰りになりました。
ねえ、付喪神は付喪神に、物怪は物怪に、人でなしは人でなしに……とにかく同類に惹かれるものでございましょう。わたくしたちも、きっと、そうでありました。ここにね。穴が空いているのです。大きな穴なの。それが、風が吹くたび、鳴るのです。ぴゅうぴゅうと音を立てる直な空洞を、お互いの中に見出して、わたしたち、多分。同類を見た、と思いました。目を見れば、わかるのですよ。
それから、頭中将が、わたくしたち女房をお調べになりました。恐ろしかったわ。しかし、どこのお家が背後にあるのかも、わたくしたちの人間関係も、ご存知なかったのかしら。ご存知なら、もっと、わたくしのことを疑ったはずでしょうから。まあ、とんでもないことをしてしまったのだと、もう戻れないのだと、身に染みて、でも、わたくし、口を割りませんでした。我が身だけではないのだ、あの方の命運までわたくしが握っているのだと思うと、あの方をお守りするも突き出すもわたくし次第だと思うと、背筋を、冷や汗でない恍惚まで、伝いました。それからしばらく日を開けて、あの方が、少しやつれた顔で、おいでになりました。大丈夫でしたか、とあの方はお聞きになりました。なんてことありませんわ、と私は答え、なんとなくお顔を見られなくて、扇の裏の絵を、眺めました。沈黙が座に落ちました。またなんとなく碁を打って、石の音ばかりが響きました。お互い気を紛らわすように整地で柄にもなく揉めました。石を並べ直す指が触れて、それでまた黙り込んでいるこの年若い貴公子が、愛しかったことといったら。いつもお帰りになるころになってもまごまごしているこの方が、可愛かったことといったら。あの方が父君になんと催促されているか、わたくしには薄々、しかし手に取るように、想像できました。
「おいでなさいよ。夜道は危のうございますわ。それにあんまり早くお帰りになっては、父君にも聞こえが悪いでしょう」
あの方は小さく、小さく頷きました。怖気づいて、恐れて、いらっしゃる。わたくしは灯りを吹き消しました。その日も、雨が降っていた。真っ暗になった部屋の中で、私は、なんにもなさらなくていいのです、と囁き申し上げたくて、それから、黙っていても、衣擦れが。なに、慣れてしまえば、装束のつくりなんてみな似たようなものでございますから、おもて着を脱がせるのに、何の支障もないのですよ。
「寝ましょうよ」
と私は強いて明るい声を出しました。あなたが、暗闇の中で、私を見た。
「向こうに詰めてくださいよ。二人で寝るには狭いですから」
私はあなたの方に思いきり背を向けて、勝手に夜具にくるまりました。あなたは、私を見下ろして、立ち尽くしていました。あなたはしばらく立ち尽くしていた。雨の音、あなたの逡巡が揺れる音。その末に、あなたは、そうっと、音もたてずに、私の隣に入ってきましたね。私は、黙って、あなたに背を向けていた。あなたも、私に背を向けている。
「あなたを信じてよかった」
あなたがそう言った。あなたの匂いがした。私は強いて振り返らずに黙っていて、そして向こうをむいたままのあなたの頸の、白い項に散る後れ毛を、暗い中で、見たような気がしました。ああ、なんて幸福。私たち、同じ舟に乗っている。沈むときは、一緒なのだと、思いました。
それから、時々、そういうことが、ありました。指先がどんなに冷たくっても、わたくしたち血の通った人間でございますから、そうでしたから、寄り添えば、あたたかなものでした。わたしたち、ぽつぽつと色んな話をしました。風が吹くたび鳴る胸を、指先の温度で、埋めようとしていた。風が吹いても、そのときは洞が叫ばなかった。あなたの背があたたかかったこと。あなたの足が、いつまで経っても冷たかったこと。
わたくしたち、いつからか、歌を詠み交わすこともやめていました。短い、素っ気ない、詞だけの後朝の手紙に、日頃の手紙に、あなたの、情が静かに滲みていた。それが愛しかった。名前なんてなくてよかった。約束なんて、なくっても。
恐れ多くも御世が変わって、色々なことがあって、あの方の訪れが間遠になったこともありました。お互い忙しゅうございましたし、あの方の、政治の芯の方近くにいらっしゃる方の周りには、絶えずごたごたが渦巻いておりましたし。たとえば、こんなことがありました。なんでも、物忌と言って数日出仕なさらなかったのを、人が強いてお呼びだてしたら、その、まあ、お顔に傷があったのだとか。ずいぶんな噂になりましたよ。それが、まあ、ずいぶんな、ひどい、渾名まで、しばらく囁かれて。ねえ、さにつらふ君ーーーーさ丹頬ふ君、なんて、ずいぶんな中傷でございます。
噂、噂。まったく無視されるのもつらいことですけど、話題の中心として環視されるのも、本当に辛い。嫉妬より、憎悪より、好奇の目が、辛い。どこへも逃げられないお方。わたくしは時々、歌枕の話をしました。どこかへ逃げてしまう話を。あの方は、少し穏やかな目元をして、しかし黙って、聞いていました。あの方は、夢想の中でさえ、どこへも行かない方だった。そう広くもない局の中で、肩を寄せ合うようにして、ぽつぽつと、雨音に掻き消えそうなくらい静かに、あれこれ話をした日々のことをーーーーわたくしたちが越えたいくらかの夜のことを、あんまり勝手なようですけど、あんまり勝手な話ですけど、わたし、私、畜生に生まれ変わっても、どうか、どうか忘れたくない。
…………わたくしが死にましたのは、そういうある日のことでした。あの方の訪れが、しばらく絶えていたころ。……倒れたとき、私、何より、怖かった。憎かった。殺されるのだと思いました。死ぬのだと思って、殺されるのだと思って、それで正気でいられるほど、わたし、強くも、高潔でも、ありませんでした。何よりも我が身がかわいく、わたし、愚かで、醜くて。……裏切られたと思いました…………。私、あなたが憎かった……。殺されるのが、こわかった。父君がこわかった。帝に毒を盛れるお方が、ただの女房に毒を盛らないことが、どうしてありましょうか。口封じに殺されるのだ、と、わたしは思いました。喉が焼けるほど熱かった。死にたくなかった。殺されたくなかった。こわかった。里に退出しても、わたし、もう、怖くて怖くて、何も口にできませんでした。だれが、なにに、毒を忍ばせているかわからない。わたくしが、そうしたように。わたしが、この手で、そうしたように。姫さまどうかお水だけでもお飲みください、とほとんど拝むようにして言う昔馴染みの下女さえも、わたし、信じられませんでした。
そんなふうにして悶えていて、時の流れもわからなくなっていたころ、文が、届いたのです。御簾ごしに有明の月が見えた気がした。そんな気がしましたけれど、そんなはずありませんから、あれも、きっと、幻なのです。ぐらぐらに揺れる頭と、棒を差し込まれたように痛む脊骨と、ぼやけて見えない目でもって、わたし、這うようにして、その、あなたからの文を、読みました。こまかにわたくしを気遣ってくださって。嬉しゅうございましたわ。あなたの香が、匂い立つよう。……歌が。あの方がお詠みになった歌だわ、と、分かりました。お優しゅうございましたわ。悔しゅうございましたわ。何だってこの方は、私を殺そうとなさって、それで首尾よく死のうとしているわたくしに、こんなに、優しくなさるのかしら。憎いわ。あなたが憎い。あなたって、こんな歌を詠むのね。こんなときに知りたくなかった!
わたし、泣きながら、お返事を書きました。童だったころにも、こんなにひどくは泣かなかった。手が震えて、紙が何度も膝から落ちました。何を書いたか……、言いたくありません。覚えておりません。……いいえ、端々を、覚えております。わたし、私、あの方を、あなたを、恨み申し上げますと、書きました。……呪いますって…………。
私は手紙を書き送って、喉が、渇いた。
「もうわたくしは死ぬのだからきっと届けてよ。きっとよ。必ずあの方にお渡しして、読んでいただくのよ」
と叫んだのだけ、鮮明に、覚えています。あんまり、子供っぽいことを。子供じみたことを。あんまり、分別のないことを。あんまり、取り返しのつかないことを。そうやって、わたくし、多分死んだのだと、思います。
「誰もあなたに毒なんて盛ってませんよ」
と渡し守の少女が笑いを噛み殺しながら言ったとき、わたしは、わたしは、わたしが犯しましたとんでもない過ちに気づいて、足元からがらがらと、がらがらと己が、崩れていくのを感じました。船べりをわたしの、死体の指が掴む。そのまま、舟から河に、飛び込みました。たぶん、飛び込んだんでしょう。それで、ここにいる。だから、濡れているんでしょう。ずぶ濡れになるのって、こんな心地なんですね。わたくしなのです。舟から飛び降りたのは、わたくし。あの方を裏切ったのは、わたくし。あの方を信じられなかったのは、わたくし。ああ、どうやったら、あの方のために、罪が償えるかしら。あの方を恨んで死んだことが消せずとも、あの手紙だけでも、なかったことに、してしまいたい。そうできるのなら、せめて一言だけでも詫びられたなら、わたし、いちばん底の地獄に落ちたって良い。けれど、もう、そうはできない……。
……毒を盛ったのも、それはまあ、毒を盛ったのも、たいへんな罪ですけれど、わたくし、私、あの方を裏切ったこと、あの方を呪ったこと、あの方を、たぶん、いたく、手ひどく傷つけようと思ったこと、わたくし、そればかりを、悔やんでいます。もう…………もう、取り返しがつかないのです。もう、どうしようもない。だって、わたし、わたし、もう、生きてもいないんですもの…………。なかったことには、できない。ならない。ねえ、色々悪どいことばかり致してまいりましたけれど、それでも、いちばん、あの子を裏切ったことを、心の底から、悔やんでおります。あなたを信じられなかったこと。あなたを、裏切ったこと。どうか、お願いですから、わたくしに、罰をくださいませ。あの子の分まで、罰をくださいませ。どうか、あの子をひどくは罰しないでくださいまし。どうか、お前がなにもかも悪いのだと、そうお裁きくださいよ。