泥のうてな ね。ね、あなたさま。どなたにも言わないでくださいね。と言っても、あなたに口はおありでないから、人間には言えるまいと思いますけれど、あなたが極楽でお座りになっている蓮の台のうえで、噂話などなさらないでくださいね。私、どうしても誰かに話さずにはいられなくて、けれどまさかそんなわけにもいきませぬから、こっそり、こうして、この深更に、あなたにお話し申し上げているのですからね、私の仏さま。
ね。今宵。つい先ほどのことですよ。あなたも見ておいでだったでしょう。私、あの方の秘密を知ってしまったのですよ。ね。その恐ろしい秘密を飲み下したとき、喉を焼き、順に胃の腑を焼いたのは、正直に申し上げますよ、まず恐ろしいほどの羨望でした。あのかたは、人を殺めたことがある。……べつに、私だって、あの方の秘密を盗み聞きしようとした訳でもないのです。ただ嵐のように三郎君がいらっしゃって、それで。衣擦れの音を立てて退出するわけにもいかず、私はただ、黙って座っておりました。旦那さまが哄笑し、三郎君が黙り込まれ、そしてあのかたの、言葉にもならぬ哀願がある。私はただ目を伏せて座り、ひとつ咳払いをいたしました。それで初めてあの方は、私の存在を思い出し、また青ざめたようでした。
「聞いたのか」
と、あの方は立ち上がり、私の前に立ち、私を見おろして、詰問の調子で言いました。指貫の裾が乱れておりまして、足の甲に青く血管が走っているのを、私は見たような、幻であったような。
「聞きました」
と、私はあの方を見上げて言いました。勿体ないことにあの方のお顔をまともに見て、その、お口の端が切れて、烏帽子まで脱げているお姿をまともに見て、ほとんど睨むようにしてお返事をいたしました。あの方はたじろぎました。肩で大きく息をしながら、私を、私をどうするべきか、焦っておられるようでした。その混乱と恐怖と怒りがあの方の頬から匂いたって、私、いま、殺されたって、殺されても、かまわなかった。……私の血でこのかたの手を汚したい。この方の咎になって、この方の首に肩にはしたなく私の手形を残したい。虫けらの一匹二匹なんて、嘘でしょう。誰が六年前に潰した虫のことを覚えていましょうか。……このかたに覆い被さって、一生消えぬ重荷に、一生つきまとう影に、ああ、そうなってしまいたい。
緊張を破ったのは旦那さまの笑い声でありました。
「今宵侍っておったのがそやつで良かったのう、道兼」
は、とあの方は、息を吐いたのか問い返したのかわからないくらいかすかに、戸惑って父君の方を振り向きました。
「肝のすわった、気骨のある女じゃ。のう、そなた、口は堅かろうな」
ええ堅いですとも、と私は思い、そう失礼のないように申し、かたじけのうございます、と頭を下げました。あの方の秘密を握っている、と思うと、背筋を身震いが這い上りました。しかしーーーーしかし、それでも、なんと理不尽なことかと己で思いつつ、それでもやはり、私は、その理不尽に殺された女が、あの方の秘密そのものになってしまった女が、どうしようもなく羨ましかったのです。
それで、父君は上機嫌に、三郎君とまだお話しになりたいようで、
「退がっておれ、道兼。そなたも」
とおっしゃって、私のようなものと一緒になって追われるのが、どれほどこの方の頬を傷つけたか、さし込んだ月光でそれがしらじら見えていました。殴られたことより、よほど。しかしあの方が父君に逆らいなさるはずもなく、あの方は、黙ってその間を出てゆきました。私も後を追いかけて、頬の手当をいたします、と追い縋ったのです。
「要らぬ」
「でも。せめてお冷やしになってくださいませ」
「要らぬと言っておろうが!」
「そのお顔で出仕なさるおつもりですか!」
と私は怒鳴り返し、大声を出しなれていないからあんまり喉で締まったような声になったことに、それはあの方も同じようでした、私は、苦笑しました。あの方は苦い顔をなさった。苦い顔をなさって、しばらくして、頼む、とだけおっしゃいました。私は御座所に水と布を持ってこさせ、水で濡らした布を絞って、あの方の頬を拭って、冷やしてさしあげました。あの方は気詰まりそうに目をつむったり、目を開けて床の木目を見つめたり、そしてそのうち、もうよい、とおっしゃって私を押しやりました。
「一人にしてくれ」
私は、どうすればいいか、考えました。考えていた時です。他の女房が遠慮がちに、あの方を呼びに参りました。父君のお呼びに、あの方ははっと生き返ったような顔をなさって、布を置き去りにして、出てゆかれました。私はあの方の居間に、一人で残されました。ほとんど家具のない、殺風景なお部屋。年頃の貴公子でいらっしゃるから、宮中や何かでなにやかやお手紙をいただいてもよさそうなものであるのに、それを片端から捨ててしまわれるから、手紙を入れた文箱などもないお方。私は夜の冷たい空気を吸って、少し冷静になり、あれでは冷やしたところでそうそう腫れは引かないだろう、と思いました。まさかあのお顔で出仕なさるわけにもいきますまい。なにやら言い訳をしてとうぶん屋敷においでになるしかないでょうが、なんと言い訳をなさるのかしら。それとも、まさか、平然と出てゆかれるかしら。しかし、私が、なんて非力なことか、私は濡れた布を畳んで、限りなくしらじらと冴えた月の光を、見ておりました。それから桶を残して、あの方の居間を去りました。
私……私ね。ね、仏さま。私、やっぱり、その女がうらやましいのです。こんなこと思っては私、地獄へ堕ちるのではないかしらと思うのだけれど、それをこらえて、あえて、正直に申し上げているのですから、ね、お怒りにならないでくださいよ。その女にも、家族があったでしょう。愛したものがあったでしょう。親がいたかも、子がいたかも。それに明日があったでしょう。あの方はそれを理不尽に奪って、奪ったからその分の、その重さの分の咎が、あの方に覆いかぶさっている。私はどうにも、それが羨ましい。私も……私も、あの方の頬をぶってみたい。あの方の咎になりたい。私がああしてあの方を手当てしてさしあげようとしたって、結局それはほとんど何にもならないのです。それならば、いっそ、と、思うのですよ。ね、仏さま。どうか誰にも言わないでください。許してくださいなんて言いませんから、ね、誰にも言わないでください、こんなこと。