覆乳盆に返らず 申し訳ございません。申し訳ございません、父上。申し開きのしようもございません。わたくしが粗相をいたしたのでございます。どうかお気をお鎮めくださいまし。至らぬわたくしが悪いのでございます。父上と母上のお望みに沿えなかった不出来な娘をお許しくださいまし。どうかそんなふうに彼の方のことーー二の君のこと、おっしゃらないでください。恐れ多いことでございますよ。
ええ、わたくしも、まさかこんなに早く、里に戻ってまいるとは思っておりませんでした。不甲斐なく、口惜しく、申し訳なく思います。父上のお考えを妨げまして、申し開きのしようもございません。ええ、お話しいたします。わたくしが右大臣さまのお屋敷に上がりましたのは、ちょうど花のころでございましたね。わたくし、この家を出るのもほとんど初めてでございましたから、たいへん緊張しておりました。まるで石になったように、腕が動かなかったのを覚えておりますわ。車に揺られて少し気分が悪くなり、簾の目の数を必死に数えておりましたことも。簾を透かして花を見てーー、お屋敷のお庭がたいへん素晴らしいことに、わたくし、夢を見ているような心地でした。うつくしいお屋敷の、うつくしい御家族。そう夢想したのでございます。
局のお方にいろいろ細々と教えていただきまして、わたくしの初仕事は夕餉の席にお膳をお運びすることでした。緊張で手が震えておりましたけれど、強いて素知らぬふりをしました。お食事になるのは右大臣さまと二の君でした。一の君と三の君はどこかにお出かけになっていたようでした。これはよくあることなのです。一の君は右大臣さまの嫡男として、引き止められることも多いようでして、いえだいたいはいらっしゃるのですが、三の君は夕餉にいらっしゃることの方が珍しゅうございました。どこにおいでなのかは、わたくしの存じ上げることではございません。それで、とにかく、お二人で食事をなさるのですが、その様子がすこし妙なのでした。なんと言えばよいのか、とにかく、二の君のお座りになるところが、妙に父君に近いのです。ちょうど、母上が父上のおそばにお座りになるのにも似ておりました。とにかく、初めて貴い方の近くに参りましたわたくしは、とうぜんじろじろと目をやるわけもなく、妙な、と思いながら、しずしずと震える手で歩いておりました。その時です。
「そこな女、誰だ」と呼びさされて、わたくしはたいへん恐縮しながらお返事をいたしました。すると、「氏素性の確かでないものを膳に近づけるなと言っているだろう!」と二の君はお睨みになり、わたくしどもは硬直し、みなの視線がわたくしに注がれ、わたくしは、わたくし、氏もありますし素性も確かです、こんな風に言われては父上にあんまり申し訳ない、あんまり不甲斐ない、と泣きそうになりながら、俯いて必死に涙を堪えて、震える手でお膳を捧げ持っておりました。なんとお返事をすればよいのか、このままお膳をお出しするべきなのか、それとも身を翻してどこかへ駆け去ってもよいものかしら。わたくしには、父上と母上にやさしく諭されて育ちましたわたくしには、そのような烈しい叱責は、初めてのことでございまして、いっそう恐ろしゅうございました。
「お下がり」と、後ろを歩んでおりました女房仲間がわたくしに囁き、わたくしは半分も泣きながら、泣き出したく思いながら、逃げるようにその場を去りました。膳は作り直しになり、古顔の女房がそれを持ってゆき、わたしはただただ不甲斐なく、恐ろしく、耐えねばならぬと思いながら耐えきれずに涙などこぼしておりました。それが二の君にお目にかかったはじめです。局のお方が、私の采配が間違っていたと慰めてくださって、二の君はなにかと気難しいお方だけれどさいきんは品行方正でいらっしゃるから、大丈夫だ、など慰めてくださって、わたくしはまた恐縮しておりました。……ええ、お話しするのは初めてでございます。父上にお送りする文には、こんな、幸先悪く、決まりわるく、恥ばかり多いこと、書けるわけがございません。父上がどんなにわたくしにがっかりなさるだろうかと思うと、恐ろしくて。きっと悪いことばかりではないと思いながら、わたくしは、慣れない屋敷の匂いの中で、袖を濡らしかけておりました。どこからかうつくしい琴の音が響いて、それがかえって恐ろしいような夜でした。
じっさい、あの方は気難しそうなお方でした。品行方正な貴公子の顔をして朝お出かけになって、少しお疲れのご様子でお帰りになって、それから父君の身の回りのことをこまごまとなさるのです。ええ、書きましたとおり、わたくしもずいぶん驚きました。殿方がそんなことなさるものではございませんから。しかし、右大臣さまはそれをお止めせず、それがまた妙な話でした。お屋敷にお客さまがいらっしゃるときはもてなす準備をなさり、宴席に侍り、お見送りをしてこまごまとした片付けをして、父君とお客さまについてあれこれお話しになり、お酌をして……。そのようなこと、おなごの仕事でございます。北の方さまはお亡くなりになっているとはいえ、それであれば女房が代わりにいたします仕事です。変なお家だ、とわたくしは思い、たいへん恐ろしゅうございました。貴いお方は恐ろしいものでございますね。……手が震えていた? そうでしたかしら、それは恥ずかしゅうございますわ。わたくしは精いっぱい、ていねいな手で書き送ったつもりでありました。わたくしはちゃんとお役目を果たしています、と。
とにかく、わたくしはそれからも二の君のことが恐ろしく、なるべくお会いしないようにして、ひとつところに上がりましたときは平伏してお顔を見ないようにお目に止まらぬようにしておりました。……ええ、わたくしなどをご覧になってそれでお見初めなさるより、苛立って蹴り出されるほうがあり得そうなお方でしたから。ほんとうに蹴り出されてしまいましたけれど……申し訳ありません、詰まらぬ、笑えぬ戯言を申しました。それで、そんなある日のことでございました。渡殿を渡っておりますとき、向こうから、二の君がおいでになったのです。わたくしは慌てて頭を下げました。こんな白昼に、たまたま他に目がないときにお会いすることなぞそれまでありませんでしたから、前代未聞のことでございますから、わたくし、もう、逃げ出しとうございました。けれどまさか御前から裳を引きずって逃げるわけにもゆきませぬから、震えを懸命に押し殺そうとして、床を眺めて、おいでになってからすれ違いそうになるまで、ほんとうに一瞬のことでございましたが、そのとき、何かが起こったのです。何が起こったのかわきまえますより先に、つまりにわかに二の君がよろめきなさったのですが、わたくし、咄嗟に二の君をお支えして、わたくしのかいながあの方をお支えしているのに、はっと気がついたのでございます。わたくし、もう、赤面して、顔も耳も首まで熱くて、あの方のほう、お顔のほうなんてとてもとても向けませんでした。震えながら目をさまよわせた渡殿の欄干の木目があやしいほどさやかに見えて、耳の中で心の臓がうるさいほど鳴っておりました。二の君はひとことお謝りになってーーわたくしにお謝りになって、すぐに離れてゆかれましたが、そのときの薫香の素晴らしかったこと! めでたかったこと。なんとも言いようがございません。殿御に触れたことなどなければ、女の身にも、人の身といえば自分ひとりのからだしか知らぬわたくしでございますから、なんだかんだと品評することなど、とても、恐れ多いことでございますからとてもできませんが、なにかがその刹那にはっとわたくしの胸を突いて、それ以来わたくし、あの方がーーあの方が、とてもとてもお可哀想でならなくなったのでございます。いえ、あの、申し訳ございません、こんな、はしたないこと……。とんでもないことでございますから、まさか手紙でお知らせするわけにもいかず、これまで、ただわたくし一人の胸に秘めていたのでございます。……あの方は、きっとお忘れでしょうね。それでもわたくしにとっては、大変な、とんでもない、秘密でございました。
とにかく、それからわたくしは、強いて二の君を垣間見るようになりました。垣間見る、とわたくしのようなものが口にするなんてとんでもなくあさましいことでございますが、しかしじっさい、おのこがおなごを垣間見るときはこのようなものであろうと、わたくし、几帳の影や、暗い縁近くに侍り申し上げながら思ったのです。明るい燭台の光の中で、父君に強いて世間話を持ちかけながら、なにやら気のない返事をされている、あの方。父君のお口に入るものにたいへんお気をお使いになる方。父君が夜お酒を召されるときに、他のものに決して酌をさせない二の君。父君の服の世話までなさりそうな勢いのお方。あの方が宮中で何をなさっているかは、女であるわたくしの存じ上げるところでは当然ありませんけれど、それが少しも愉快なお役目ではなさそうであることは、わたくしの目にもなんとなく透けておりました。あの方は、いつも重たいものを背負ってらっしゃる。裁かれるのを待ってらっしゃる。何故って、何故っておっしゃられてもわたくし困ってしまいますけれど、何とはなしに、何故だか、そんな気がしたのです。とにかく、わたくしは、あの方のお屋敷での奉公が、あの方にとってほとんど何にもなっていないことに、少しずつ気付き始めていました。あの方がどんなに細やかに父君のお世話をしたところで、父君が最も期待しておられるのはとうぜん一の君ですし、可愛がっておいでなのは三の君です。お客人をお見送りしたあと、父君に噂話を持ち掛けながら、手持ち無沙汰に几帳の世話までなさり始めたあの方を見て、あの方のこまやかなご愛情を見て、わたくし、どうしようもなくなりました。わたくし、きちんとわきまえております。わたくしが父上や兄上のお役に立つことを。わたくしが右大臣さまのお家に上がって、そのよしみでお引き立てをいただけるように努めること、ご兄弟とは言わずとも――そんな恐ろしい、身の程知らずなことならずとも、家人のたれかに見初められて庇護していただくこと、それが父上や兄上のお助けになることを。わたくし、及ばずながら、せいいっぱい、務めを果たそうといたしたのでございます、どうか信じてくださいまし。……とにかく、わたくしは役に立つのです。わたくしの奉公も苦労も役に立つのです。しかしあの方はどうでしょう! あの方は、こわれた盃に献身を注いでいらっしゃる。役に立たない奉公に、なんの意味がありましょう。そんな思いが、わたくしの内側を満たしていきました。昼間立派に宮仕えをなさって、夜もこまごま奉公なさるあの方が、おきれいなお顔に隈など作ってらっしゃるあの方が、わたくし、歯嚙みするほどいじらしゅうございました。
それで、ですから、ほんとうに魔がさしたのです。申し訳ございません、父上。どうぞ不出来な娘をお許しくださいまし。ご奉公ひとつまともにこなせない娘を、父上に恥をかかせたわたくしを、いえ、申し訳なく、ふがいなく、やはりお許しなど乞えません。ただ、ただ、父君のご膳を丹念に検めていらっしゃるあの方を見て、そんなこと、と、耐えきれず思ったのでございます。そんなことわたくしのような下賤のものがやります、とわたくしは思ったのです、何十回目かにそう思って、その日、とうとう耐えられず、つい、ふと、口に出してしまったのです。あの方はお怒りになりました。ずいぶんひどくお怒りになって、わたくしをお睨みになって、ええ、もう、大変恐ろしゅうございましたが、もうそのようなこと、わたくしの感慨などどうでもようございます。とにかくわたくしはそうしてあの方の逆鱗に触れてしまい、わたくし、そのままお屋敷を追い出されて、こうして里に戻ってきたのでございます。家からの迎えの車の匂いが、ずいぶん懐かしゅうございました。冬の日暮れは早うございますから、薄暗い中を、わたくし、声を殺して泣きながら。あんまりきまり悪くて、あんまり不甲斐なくて、あんまり申し訳なくて。簾を透かして空を見れば、星がたくさんまたたいていました。わたくしとあの方との間にも、牽牛と織姫の間に横たわるよりなお広く深い河が流れ始めたのです。その河をつくってしまったのは、わたくし。取返しのつかない粗相をいたしましたのは、わたくし。でも、それでも、あんまりでございます。誰が右大臣さまに毒を盛ろうなどと思うものですか。そんな恐ろしいこと思いつきもいたしません。わたくし、ただ……。ただ、あのお方の御為を思って、恋しく思って、不憫に思って、ただ、ただお慕いしていただけなのでございます。
……やめてくださいまし、やめてくださいまし父上。そんな馬鹿な話があるものですか。今までわたくしがお話ししたことを聞いておられましたか。粗相をいたして暇を出された女房が妾にしてくれと名乗りでるなんて、そんな図々しい、わたくしそんな恥をかくのは嫌でございます。どれだけあさましい女だと思われることか! 父上まで、あやめを知らぬ方だと思われてしまいますわ。誰が、信用ならぬと罵って追い出した女を妻にするものですか。それに、もしももしもわたくしが彼の方の……そうなったところで、どうしようもないのです。わたくし、織姫でもなんでもございません。あの方は、お背負いになったものをわたくしなどに見せようとはなさらない。わたくしではあの方をお救いできません。わたくし、学もございませんけれど、それだけは確かにわかるのでございます。立派に宮使えなさっている立派な貴公子でありながら、おなごや家令のまねごとなどなさりたがるあのお方。報われない奉公ばかりなさっておいでのお方。ああ、けれど、わたくし、かささぎが嘴から溢す一滴でようございますから、あのかたになにかしてさしあげたいと、そればかり思っておりますわ。