東風吹かず 待て、いまお前なんと言った。もう一度申せ、もう一度申してみよ。……そんなことがあるものか。そんな、馬鹿なことが、あるものか。そんな、こんな短い時間で、関白になんなさったばかりで、そんな、儚くおなりになったのか? 渾名して「七日関白」……。なんとまあ、むごい、むごいことよ。ようやっと登り詰めたきざはしであろうに、そんな。世の口々のなんとむごいことか。…………あの方が。私はあの方とむかし同輩であった……。共に宿直もしたし、共に学びもしたし、…………。手折られる花のごときおそろしさのあるお方であったが、そうか、とうとう、まこと天とは容赦もない……。いや、そうか………………では、我が家が関白を祝して宴をしておった頃、あの方は苦しんでおいでだったのか。そのまま儚くおなりになったのか…………。
………………お前も知っておろうが、あの方は、わが家にとって何よりの恩人でおられる方だ。あの方のお力添えで…………あの方のご配慮で、お前も、このような田舎に育ちながら、並ひと通りの学を得ることができたのだぞ。…………そうか……、とうとう、因果がめぐっていらしたのだろうか、いや、ああ、とんでもないことを。とんでもなく恐ろしいことを。聞かなかったことにしろ。いいな。…………信じられん。なにかの間違いではないのか? これからではないか。私の身はもはや草に埋もれるばかりであるが、しかし、あの方は。あの方にはこれから、この世の春が来るはずだったではないか。あの方が…………。ああ、いや、いい、いや……まあ、そう言うなら一献もらおうか。……もそっと静かに注げんのか。
…………あの方と初めてお会いしたのは、私が宮仕えにも漸く慣れてきたころだった。宿直装束の赤がよく似合っておいでの、押しも押されぬ貴公子で……。父君にたいへん勢いのあるお方で、お姿にもたいへん艶なところがあって、吹けば飛ぶような身の上の私は身の程知らずにも悋気じみた思いを抱いていた。……しかし、それもあんまり恐れ多く思われるくらい、あの方はほんとうの貴公子だった。物腰が穏やかで丁寧で、微笑がはなやかで。仕事をさばく字もおきれいで。上司からの覚えもめでたかったが、それも当然のことで、あの方を冷遇できようはずもなかったから……。私の方がいくつか年上だったが、私とあの方は年が近かったから、休みの日にも共に漢籍を学んだ。けれどあの方はずっと私との間に隔てを置いていらした……なにかの時、どなたかの酔興かなにかで……もう忘れてしまったな、忘れてしまったけれど、とにかく、弓の腕を見せてくださいまし、とたれかが言って、あの方がめずらしく苦笑していらして、喉元が、打ち上げられた鯉のごとくかすかに引き攣っていて…………私は、あの方の手から矢を奪って、そのまま自分の弓につがえて、全部で四本引き、汗をだらだらかきながら、皆中したとき、その時の、あの方の…………。お前には、解らないだろう。解らずともよいが。…………もう何回目かわからない? そうか。そうかもしれんな。酒を飲むたび、都を思うたび、あの方の面影が、遠く目蓋の裏に、裾を引き摺って、あの、後ろ姿が。あの方が一度、なにかでうたた寝をなさっていたとき……そうだな、この話も、たびたび、繰り返している。あの方の首筋が、あんまり無防備で…………ああ、だから、もののけに憑かれておしまいになったのか。それでこんなに、にわかに……。そうだ。はは。あのかたがほんとうにもういらっしゃらないのなら、この話をしようか。お前は聞いたことがないだろう。誰にもしたことのない、秘密の話だ。
若い時分はずいぶん風流人を気取ったものであったから、ちょっと名も知れていて、女に出す手紙について相談を持ち込まれることも、これでも、まあまああったのだ。…………一度あの方が私に手紙の相談をしなさったことがあった。私は喜んで相談にのってさしあげた。聞けば陪膳の女房に宛てるのだという。いつお見初めなさったのか、と思ったが、とにかく、私は書くべきことを考えて、あの方に口頭でお伝えした。あの方はいつになく硬さのある字であれこれ書き連ねて、歌を。あの方に歌を、ひとことずつ刻むようにお教えして、あの方の手が私の歌をお書きになるのを、私は、私は、美酒が喉を焼く心地で見ていた。女房があの方の手紙だと思って読むのは、じつは私が考えたものであるのだと思うと妙な優越感があった。そっと手紙を渡すとき、あの方がお浮かべになるだろうあの微笑も。……それから…………恐ろしい秘密があるのだ。これまで口にしたこともない。……あの方に知恵をお貸しするのは、ちょっとの間続いた。あの方が女房と交わしたことを私にぽつぽつお話しになって、私は妙な満足と妙な感慨にうちのめされながらまったく満足で、奮って歌を考えてさしあげて、それで、…………頭中将が女房をお調べになり、帝のご退位があり…………。私は、強いて何も考えないことにしていた。恐ろしくて、恐ろしくて。
……あの方は、たいてい付き合いの悪い方だった。つとめが終わればすぐにお屋敷へ退出してしまわれた。そんな方が、そのあと一度、私を酒に誘ってくださったことがあった。私に酌をしてくださって、私は勿体なくてほとんど涙を覚えそうになっていた。蝋燭の火が揺れる。あの方がかいなをあげて、あの方の指が私の方にのびて、私は恐れ多さに震えあがって、あの方は私の膝に布越しに手を置いて、私の膝の骨をなぞって、なんとおっしゃったのだか…………もう、思い出せないのだけど、私が、私が慌てて、「私はあなたさまのことを友と思っております」……と、言ったことだけは確かだった。あの方は虚をつかれたような顔をなさって、それがあんまり子どものようで、それから、とにかく、それからの日々、あの方はこわごわと私との間にあった隔てを取り除いておられるようだった。その頃のことは…………そのころのことは、話せぬ。もはや私だけの過ぎし日だ。私だけのものだ。
しかし、それからずいぶん色々なことがあって、私の家はたいへんひどい状況におかれ、いよいよ都におられぬ、ゆかりある某地へ下向するがいちばんよかろうということになった。私は、私は、なんとかお引き立てをいただけぬかと思って、あの方にお縋りしたのだが、あの方は、そうするがよかろうと言って、熱心に、我々が下向して不自由しないように世話をしてくださったのだ。そうだ。そのおかげで今の私も、お前も、あるのだぞ。しかし…………しかし、口惜しくも思う。そりゃあ、秘密に勘づいているに違いない私を、都から追い出せるなら、それがいちばん安心だろうよ。しかし…………私は、共犯者にもなれなかったのだ。
…………最後に、一首、歌をくださった……。返歌だった。私の歌への。並外れて上手い歌というわけでもなかったが、技巧に腐心したあとがあった。流れるように美しい手で…………。何って、だから、私の歌だ。私が詠んであの方に教えてさしあげた、あの方が初めて女房に渡した歌だ。驚きすぎると人間は妙な動きをするものだな。私はしげしげとそれを眺めて、ずいぶん呆気に取られた表情をしていたのだろう、あの方はきまり悪げに、なんとか言え、とおっしゃった。ありがたく存じます、と私は呟いて、いそいそと文をしまい込んだ。…………今も持っているが、お前には見せぬ。誰にも見せぬ。とにかく、それからもぽつぽつと話して、私は御殿を辞した。辞すとき、互いに息災を願った。門のところまで出ていらして私を見送ってくださったあの方の、夜目と松明の火になおさやかな印象のある立ち姿は、もう、ずいぶん遠くなってしまって、……もはや煙となられたのか…………。それから、お会いしたことはない。文は二、三度で絶えてしまった。ただこの草深い土地で、なになにに上られたとそればかりを漏れ聞くばかりである。とうとう関白に…………ずいぶん遠くなってしまわれて、と思ったが、まだその頃は同じ日と月の下にあっただろうか。それとも…………。