さようならまたいつか1.
アフロディーテが城戸邸2階のバルコニーで、城戸沙織の朝食の時間を見守っていた時だった。バルコニーに面した沙織の部屋の二つ隣にある、誰もいないはずの浴室から、水音が聞こえた気がした。
「アテナ、浴室から水音が。確かめて参ります」
アフロディーテはテーブルを囲んでいた沙織に優雅なお辞儀をして、青みがかった長い美しい髪を残暑の風になびかせながら屋内に戻った。沙織の部屋を通り抜けて廊下に出ても、水音を感じた浴室の扉の奥からは、もう音は聞こえない。しかし、人の気配がする。
アフロディーテは、ドレッシーな白のブラウスの上に巻いたスカーフのすぐそばに、赤い薔薇を構えた。こんなところに現れるとしたら賊か女神を狙う敵かである。
思いきって浴室の扉を押し開くと、アフロディーテにとってなじみの深い薔薇の香りがした。間違いない、魔宮薔薇の香りだった。そしてその目線の先には、グレーのマーブル模様の大理石の浴槽にもたれて倒れている者の姿が飛び込んでくる。白い右腕を床にのばし、上半身を前に折って浴槽の縁にもたれさせている。アフロディーテとよく似た長い青みがかった髪が星の川のようにうなだれて流れていた。
(──気を失っているのだろうか)
浴室の中に満ちた魔宮薔薇の香りに反して、魔宮薔薇そのものは浴室の中にはない。つまり、目の前のこの美しい髪の持ち主から、魔宮薔薇の香りがしている。アフロディーテはそれを魚座にゆかりのある者だと直感した。駆け寄って、抱き起こす。
「!」
教皇だったサガから「天と地の狭間に輝き誇る美」と呼ばれたアフロディーテだったが、その彼から見ても、抱き起こした眠れる美貌は息を飲むほどのものだった。左目の際の小さな黒子が、アフロディーテと同じ。貯めたままだった浴槽の冷たい水に浸かっている麗人の体を、アフロディーテは救い上げた。
(──温かい。死んではいない。気を失っているだけだ)
アフロディーテは無事を確認し、ほっとして麗人を抱えたまますぐに浴室を出ようとした。水に浸った麗人の植物柄の豪奢な刺繍のガウンを大きなバスタオルで包む。浴室の扉の向こうには、異変に気付いた沙織がすでにそこにいた。沙織の気配に反応するように、アフロディーテの腕の中で麗人は小さな声を出し、目を開く。黒い豊かな睫毛の中に、ラピスラズリの高貴な色をした瞳が現れる。麗人の視線は沙織を捕らえ、「アテナ様……?」と声を出した。
「あなたは……?」
沙織がたずねると、麗人は薄紅色の唇を開いた。
「アテナ様。私は、魚座の黄金聖闘士アルバフィカ。18世紀の聖戦の聖闘士です。非礼を、お許しください」
アフロディーテは、自分の先代の魚座の聖闘士の神々しい美しさと背筋ののびた様子にすっかり魅了されていた。先代教皇のシオンから聞いた前聖戦の昔話よりも、ずっと艶やかで鮮やかな人である。
一方で、沙織は困った顔をして、居間のテーブルでアルバフィカと対面していた。一体何故、この城戸邸に現れたのかと尋ねたところ、「家出をしました」とアルバフィカは言うのだ。沙織には大体の想像ができ始めていた。死んだ聖闘士が突然、現れる。一体どこからここへ家出して来るのかと言えば、それは冥界以外に考えられない。
「前にも、あなたのように冥界からよみがえった聖闘士がいたのですが──彼らは、夜明けとともに消えてなくなってしまいました。アルバフィカ、あなたもそうではないのですか? ハーデスがそんなに長い地上の命を、あなたに与えるとは思えません。何か事情があるのではありませんか」
「そこまでご存じとは……」
アルバフィカはようやく血色の戻って来た頬をしながら、表情を暗くした。
「でも構いません。灰となって消えてしまっても構わない。私はもう以前の聖戦から240年以上を冥界で過ごしているのです。そこで十分すぎる余生のようなものも送りました。もう、いいのです」
「アルバフィカ。また冥界に戻れば消えてなくなる事はないのではありませんか。そうであれば、お戻りください。そしてまた現れてください。少しの時間でも構いません。あなたがどこかにいて下さると思うだけで心が支えられるようです」
アフロディーテはすっかり先代に心酔して、熱心な目でアルバフィカを見つめていた。その視線に、アルバフィカは暗い顔を少し微笑ませる。
「アフロディーテ。私自身は魚座の先代から直接指導を受けたのにもかかわらず、私からきみへの継承を行う事はできなかった。それなのに、こうして歓迎してくれて本当にありがたい──いや、申し訳がない。私のこのような姿を晒すなど」
「アルバフィカ。家出の理由はなんなのですか」
話に事態の深刻さをよくわかっている沙織が、割って入ってアルバフィカに聞く。
「──実は私は、冥界で三巨頭の一人……」
アルバフィカが口を開いた時、居間の窓からも見えるバルコニーに、黒い鳥が降り立った。大きな羽音に三人が反応すると、黒い鳥は冥闘士に姿を変えた。アフロディーテが瞬く間に沙織の前に出て警戒する。アルバフィカは窓から視線を逸らした。
「ここを開けなさい」
黒い鳥だった冥闘士は、グリフォンの冥衣を纏った姿で近寄り、窓を叩く。
「開けないでください! 私はそいつから逃げて来た。もう会いたくないんです」
アルバフィカが声を上げると、「開けないなら壊して入りますよ」と窓の向こうのミーノスが言う。
「帰れ!」と、アルバフィカが窓に向かって叫んだ時、沙織が自ら窓を開け、ミーノスを部屋の中へ招き入れた。
「アルバフィカを迎えにいらしたのですか。事情は存じませんが、わたくしは無碍にアルバフィカに消えてしまってほしくはありません。話を聞かせてもらえませんか」
沙織のその言葉を聞き、アルバフィカは立ち上がると部屋から駆け出した。
「よほど、あなたに会いたくないようだが」
アフロディーテはアテナの様子を警戒しながら、ミーノスに話し掛けた。ミーノスは横目でアフロディーテを見、すぐに沙織に視線を戻した。わずかな動作だったが、アフロディーテは少なからずプライドを傷つけられた気がした。
(私を見て、顔色ひとつ変えないだと?)
容貌の美しさは聖闘士であるアフロディーテにとって、妨げではあっても役に立つことは一度もなかった。敵には女のような顔だと舐められ、味方にも「きれいだから大事にされている」と蔑まれる。美貌は、行使しなければその実力を認められない不自由さの原因だった。アフロディーテは、開き直っていまでは自分の美しさを誇ることにしている。それが癖になったため、いつしか容貌を気に留められないと癇に障るようになったのだ。
しかしアフロディーテは、ミーノスの後ろ姿を眺めながら、それも仕方がないと思った。あのアルバフィカを見慣れているとしたら、相当な美貌と出会っても気を惹かれることさえないのだろう。そしてそう思うと、アフロディーテは一層アルバフィカに関心が募った。
(アルバフィカは、あの美しさとどう向き合って来たのだろう──同じ魚座の聖闘士として)
沙織はミーノスを、アルバフィカが座っていたソファに促していた。ミーノスからは敵意らしいものを感じない。女神を冥闘士と、しかも三巨頭の一人天貴星グリフォンと二人で残すわけにはいかない。しかし、アフロディーテはアルバフィカを追いたい衝動に駆られていた。
「アフロディーテ。アルバフィカを追って下さい。もうすぐミロが到着する時刻です。わたくしはこのミーノスに聞きたい話がありますから、あなたは──」
沙織がそうアフロディーテに言ったとき、部屋の扉が開いて「アテナ! ご無事ですか。いま、魚座のような薔薇を使う者が」と蠍座のミロが現れた。「ミロ! 後を頼む!」とアフロディーテはミロに言い残して部屋を飛び出して行った。
沙織の部屋を出てすぐの階段から下階を見下ろすと、廊下を走り去る足音がする。ミロはアルバフィカに遭遇し、薔薇で呼び声を跳ね除けて逃げたのだろう。ミロも、アルバフィカを追うより先に沙織の無事を確認しに来たようだった。
アフロディーテはアルバフィカの名を呼んだ。階段を降りると、出口を探して廊下をさ迷っているアルバフィカの姿が見えた。もう一度名前を呼んで、アフロディーテはアルバフィカに駆け寄る。
「待ってください!」
アルバフィカはアフロディーテの声に立ち止まり、振り返った。困ったような顔が、こちらを見ている。アフロディーテがアルバフィカの腕を掴むのを、アルバフィカはおとなしく許した。
「なんてことだ。確かに現世の魚座の小宇宙を辿って私は冥界からここへ来た。そして女神がいて、きみに助けられ、そして世話を掛けるなんて──しかも、私の痴情の問題で」
「何を言います。お目に掛かれて光栄の至りです、アルバフィカ! よく私を尋ねてくださいました」
アフロディーテは、アルバフィカの清らかな美しい姿を改めて見て、涙が溢れそうだった。女のように美しい容貌の魚座の聖闘士。先代も同じだった。同じ運命を生きていたかもしれない先代との出会いは、これまでのアフロディーテのたった一人で抱えて来た悩みを照らす光のようだったのだ。
「アフロディーテ、そうして私に敬意を示してくれるのはありがたいが、失望させることになる。私はたいした人間ではないよ。前聖戦で私は確かに聖域に攻め込んで来た冥界三巨頭のミーノスを倒した。しかし相討ちで、私は奴と共に冥府に下り、それから結局恋仲になって長らく一緒に暮らして来たのだ。堕落も極まる」
アルバフィカの打ち明けた内容は、アフロディーテがおおよそ想像していた通りだった。ミーノスのアルバフィカを見つめる目を見れば、それは勘が働いた。240年近い長い時間を一緒に過ごしても、いまだにあの男はこのアルバフィカに執心している。それもアフロディーテにもわかる気がした。アルバフィカは、240年を冥界で冥闘士と過ごしても、少しも清浄な気配を失っていない。
(この人は敵と恋をしても、自分自身を曲げることはしなかったのだろう)
アフロディーテはそう思った。そう思うと一層、アフロディーテはアルバフィカへの敬意が募る。
「──堕落した者が、あなたのように我ら黄金聖闘士の目にも美しいでしょうか。いいえ、あなたは美しい。誰よりも」
最大の賛辞のつもりだった。サガのように詩的な言い方はできなかったが、情熱を込めたつもりだった。アルバフィカはふと表情をこわばらせ、そしてすぐに意外そうな顔をした。
「……そう、か。褒めてくれたのだな、私を」
「当然です!」
アフロディーテがそう言うと、アルバフィカは少しだけアフロディーテの様子をうかがうようにじっとその顔を見つめた。アフロディーテは心臓の鼓動が一度大きく弾んだ気がした。見つめられて、戸惑う気持ちになった事など一度もなかった。アフロディーテは意を決して言った。
「アルバフィカ。少しこの街を観光してみませんか。ここは21世紀の極東、日本の首都東京です。ミーノスに会いたくないなら、女神にお任せして、少し気晴らしをしましょう。東京独特の、めずらしい文化が色々見られますよ」
2.
「……これまでの聖戦においても、間隙を突いてただの一撃でこの私を葬った者などほかにありません。私は見方を変えざるを得ませんでした。アルバフィカこそ、私の生涯でただひとり、私を屈服させた存在です」
ミーノスは夢物語を語るように、目を閉じた。
光景としてはそれは確かに異様なものだった。朝の日差しが一面の窓から差し込む城戸邸の若き女主人の居間で、そこの真紅の革張りのソファには、闇色に輝く硬質な冥衣に身を包んだこの世ならぬ美しさの若い男が腰を下ろし、自身の恋情について語っている。魔物の色香に迷うことなどけっしてない女神の沙織にも、客観的にこのミーノスの人を魅惑する気配は理解できた。ミーノスは長い銀髪を房飾りのように左右に垂らし、全身を覆う堅牢な冥衣から伸びた長い脚を、くつろぐように組んでいる。すでにこの場の王者であるように。
ミロだけが不機嫌な顔で、沙織の隣で一人掛けのソファに腰掛けていた。沙織は熱心にミーノスの話に耳を傾けているが、ミロは早く目の前の冥闘士に食って掛かりたかった。まだ冥界との聖戦の予兆は遠いと言われているが、こうして目の前に敵がいるのだから、討ち取って何が悪い。しかし女神は、ミロの焦れる内心を宥めるように優しげな気配で彼を制し続けている。
ミーノスは沙織に促されるままに続けた。
「私の側だけアルバフィカに心奪われたままなど我慢なりません。ハーデス様にお願いして冥界でアルバフィカを甦らせ私のそばに置きました。あの人の心を手に入れなくては聖戦どころではありませんから。苦心しましたが、跪いて縋って、愛していると訴えましたよ」
ミロは両手両足を大の字に開き、ソファの縁に首をのけぞらせた。とても聞いていられない。吐き捨てたくなる。
一方のミーノスはミロなど視界にいないかのように、ただ沙織だけを薄紫の瞳でまっすぐ見つめて話を続けた。
「省みられるまで時間が必要でしたけど、私は簡単に心変わりする者にもまた関心が持てませんから。アルバフィカは、認めた相手には従う私の真心をいつしか受け入れてくれました。それから240年──私はただ一筋に、アルバフィカに思いを捧げて来ました。それだけのことです」
ミロには熱っぽく語るミーノスの様子が、もはや沙織を口説いているように見えた。紛れもなくアルバフィカのことを語りながら。ミーノスがわざとなのか無自覚なのかはミロにはわからず、また知りたいとも思わない。しかし沙織がミーノスの手練にも手管にも少しも揺るがないことにだけは、ミロも確信を持っていた。女神の高潔さを、彼は信頼していた。
「ミーノス」
と、沙織はミーノスの話が終わったと判断すると、ようやく口を開く。
「あなたがアルバフィカを心から愛しているのはわかりました。でも、アルバフィカはあなたに会いたくないと言い、家出をしたと言いました。あなたの話からも、アルバフィカがわがままで家出をするようには思えません。よほどの事情があるのだと思います。心当たりはありませんか。あなたこそ、心変わりをしたり、浮気心を持つようなことなど、なかったのでしょうか」
沙織は一切の邪さを受け付けない清廉さを持って、ミーノスに問い掛けた。ミーノスは、「ありません」と落ち着いて返答する。
「前にも後にも、アルバフィカ以上の何者かが私の前に現れるなど、ないでしょう」
そうですか、と、沙織は返事をした。
「では、どういう経緯で、アルバフィカは家を出て行ってしまったのですか」
それについて、ミーノスは小さなため息をついた。そして、語り始める。
「昨日の夜の事です──」
*
アフロディーテはためらうアルバフィカの手を引き、表参道の美容室に向かった。その店は、東京で女神護衛の当番にあたるときに利用する行きつけだった。話の通る担当美容師もいる。
「せっかく観光するんです。まずは見た目から。現代の東京を存分に味わってください」
アフロディーテは意気揚々とアルバフィカを引き連れた。兄弟のような──姉妹のような、度を超えて美麗なふたりが大股に並木道を歩いているだけで、人々の視線を集めた。アルバフィカは気が気でない。見知らぬ東洋のはずれの国の首都。そして、見たこともない建物や乗り物、電子機器の数々。理屈を把握するまで出歩くのはおそろしい気がしたが、こうして街に出ている以上、今は自分の手を引く次世代の魚座だけが頼りだった。
美容室に着くと、アフロディーテは担当美容師を呼び出した。現れた美容師は、もはや形容詞の思い当たらない空前絶後のアルバフィカの容貌に目を丸くし、また、この人を彩っていいのかと生涯一の意欲を沸き立たせた。
「やっちゃって」
アフロディーテは天に昇らん高揚で美容師に依頼をする。
アルバフィカは、浴槽で水浸しになった冥界での衣類から、アフロディーテの持参していた着替えを着てはいた。シンプルな白い立襟のシャツとスリムなジーンズに革靴だった。その飾り気のないファッションこそ、アルバフィカの頭身の良さ、手足の長さ、均整のとれたスタイルによって様になるものではあった。しかしアフロディーテは、間に合わせの服で終わらせる気はない。目一杯この人を着飾りたいと、本気だった。
間もなくして、長い髪を現代風に切り揃え、ブローとヘアセットを終えたアルバフィカがアフロディーテの目の前に現れた。同じ服装だというのに、一層のモダンな美しさが冴えた。
「アルバフィカ、21世紀ヴァージョン……!」
アフロディーテは天を仰ぐ仕草をした。アルバフィカは複雑そうな顔をしつつ、アフロディーテがあまりにも楽しそうなので、何も言えない。これで後輩が喜ぶなら、と、じっと彼の言うなりになっていた。
「次は服を買いに行きましょう!」
アフロディーテは更にアルバフィカの手を引く。外へ出た。服を着こなす体型の麗しさと、整ったヘアスタイルでますます視線がアルバフィカに集まるのがわかる。アフロディーテは、大きなサングラスをして自分の容貌を覆い隠したいと思った。
(アルバフィカだけを見てほしい。こんなに美しい人が、私の先代。そして、私はその後継者)
その思いが、アフロディーテを舞い上がる気持ちにさせるのだ。
撮影? 映画? と、道ゆく人々のひそひそとした小声が聞こえるたびに、アフロディーテは誇らしかった。
「本当は銀座に連れて行きたいけど、ここにも支店があります。それに、ここからの方が、次の観光に行きやすいから」
アフロディーテは人混みの中、アルバフィカの手を引いた。指先を見ると、手入れが必要ないほど指先も爪も艶があって形も整っている。しかし、それでもネイルもしてみたくなる。アルバフィカが着ていたガウンも他の衣装も、たいへん上等な品だった。ミーノスが着飾らせているのだろうと思った。でも、きっとどれほど飾っても飽き足りなかったに違いない。アルバフィカはどんな豪奢な宝飾も着こなしてしまうだろうから。
高級ブランドの入った商業施設で、沙織のカードでアフロディーテは買い物を終えた。全身300万円を超える服の購入となったが、城戸家が運営するグラード財団にとっては小遣い程度の金額だとアフロディーテにはわかっている。今年どころか来年の夏のコレクションにすら登壇できそうな服装で、アルバフィカは完全武装した。
「どうですか? 少しミラノのトレンドを意識しました。私の趣味ですが、あなたにとてもよく似合うと思います」
ファッションブランドの店舗の全身を映す鏡の前で、アフロディーテは背後からアルバフィカの肩に手をやり、二人の姿を眺めた。アルバフィカは「うーん…」と小さく声を出した後、思い切ったように言った。
「アフロディーテ。きみはよかれと思って選んでくれているのだろう。だが、私はさきほどの白いシャツと履き物の方が動きやすくていい。──私は、美しいと言われるのが、あまり好きではないんだ」
「───え?」
アフロディーテは事態が飲み込めずに沈黙した。鏡の前のアルバフィカは、すでに今世紀最高に美麗でファッショナブルだとアフロディーテは思う。
──美しいと言われるのが、あまり、好きでは、ない?
「どうして?」
アフロディーテは子供ようなあどけない声で呟いてしまった。その情けなさをうかつだと思い、取り繕おうとするが、アルバフィカは済まなそうにアフロディーテの頭を撫でて言う。
「きみは、きっと美しいと言われるのが誇らしいのだね。私も、そんなふうに思えればよかった」
3.
アフロディーテは、大通りに面した賑やかなカフェの一角で、アルバフィカと向かい合いながら、彼の顔立ちを眺めた。コーヒーの香ばしさが立ち昇っている。口に運び終えたコーヒーカップをソーサーに戻しながら、アルバフィカはアフロディーテの視線に気付くと儚く微笑む。
本当は、見られるのも好きではないのかもしれない。それでも、今目の前のアルバフィカは、時間を隔てた魚座の後継者の自分に、眺めるのを許してくれている。優しい性格だとアフロディーテは思った。そして、美しい容貌を見詰める快楽をこれほど十分に味わわせてくれた相手もいなかった。
そのアルバフィカから「美しいと言われるのが好きではない」と聞いて、アフロディーテは少なからず、ショックだった。
しかし、どうしてなのかと聞いたアフロディーテに対して、アルバフィカはそっとアフロディーテの左の二の腕を掴み、そして手首までを流すようにさすった。そして「強い。よく鍛えている」と言った。
「そう言われた方が、嬉しくはないだろうか?」
アルバフィカにそう言われて、アフロディーテは顔が赤く染まる思いだった。確かに、その一言はアフロディーテのこれまでの過酷な修業を報いる温かさがあった。
シオンからも聞いていたが、アルバフィカの頃の魚座の聖闘士は耐毒を身に付けるために全身の血液が毒物になっていたそうだ。毒と香気で他人を害さないために人を避ける必要があった人生だと思うと、それはアフロディーテとはまた異なる困難を生きていたのかも知れない。アフロディーテはそれ以上は言わなかった。強いと言われて嬉しいのは間違いがない。美しいと言われるより、遥に──。
「しかし私も、美しいと言われて悪くない気持ちはわかる。ミーノスが嬉しそうだと、私も嬉しい」
ふと、アルバフィカはそんな言葉を付け加えた。
アフロディーテは「え」と思わず口に出した。ハッとして、アルバフィカはそれ以上の口を噤んだ。
そしてアルバフィカは、アフロディーテが選んだ服を返品するような事もなく、身に付けたまま一緒に店を出て、アフロディーテの案内する同じ通りのカフェについて来たのだった。本当は、次はアクセサリーを買いに行きたかった。さっきまで、今日の買い物は七桁を超えるかもしれないと胸を高鳴らせていたが、アルバフィカが喜びそうもないとわかって、ファッションはもうこれでいいとした。金額は、沙織が毎月ハイブランドでそのくらいの買い物をしていると知っていたので、アフロディーテも特に罪悪感はなかった。
「ところでアフロディーテ、先ほどの髪を整える美容室という店の事なのだが」
アルバフィカがそう言い掛けた時、「お待たせしました」と店員がアフロディーテの席にカクテルグラスを持って現れた。アルバフィカの視線は、赤い氷粒のような液体と白い泡に満たされ、グリーンのハーブを添えた洒落た飲み物に注がれた。
「それはなに?」
「スイカのカクテル──酒です。スイカはもうこの夏、最後だと思うので」
「果物のシャーベット?」
「このままグラスから飲みます。あなたも飲んでみますか?」
「いや酒は飲まない。元々死人だから、冥界では栄養を摂取するという意味で物を食べる必要もない。味わう楽しみをたまにするくらいで」
へえ、と、答えながら、アフロディーテは手元にスマートフォンを取り出してスイカのカクテルを撮影した。好物だったがまだ今年の写真を撮っていないと思い出したのだった。
「何をしているんだ?」
「インス……」
そう答えながらアフロディーテはハッとした。
「自撮りしましょう!」
アフロディーテはスマートフォンの画面に写ったスイカのカクテルをアルバフィカに見せ、驚愕させた。自分達もこんなふうにこの画面に写ることが出来ると説明し、強引にアルバフィカの了承を得た。アフロディーテはアルバフィカの側の席に移動すると、鏡のようにスマートフォンを画面を自分達に向け、まだ目を白黒させているアルバフィカに構わず最高の笑顔で写真を撮った。何枚も撮った。
(ストーリーズに上げたい……)
アフロディーテはしばし自分の欲望と戦った。自慢したい。この史上最高に美しい先代魚座のアルバフィカを世に知らしめたい。しかし、聞くまでもなく、どう考えてもアルバフィカは嫌がるだろう。自撮りで納得する事にして、アフロディーテは次の行き先をアルバフィカに提案した。
表参道から歩ける距離に、原宿の竹下通りがある。この辺りはタレントがいることもある。華やかな二人がいても見なかった振りをしてくれる通行人も少なくなくて、混雑の割に歩きやすい。しかし、平日の今日でも見たこともない人通りの多さにアルバフィカは辟易しているようだった。
「今日は、フェスティバルか何かなのか」
「この辺りはいつもこうです。地方から観光客も来るんです。もう目的地には着きましたよ」
アフロディーテはアルバフィカの手を引いて、行列のあるクレープ店の最後尾に並んだ。
「今度は何だ?」
「クレープを食べましょう。この辺りの10代の子たちは、こういう体験をするそうです。私もあなたも、きっと普通の未成年の遊びとは縁がなかったでしょう。少し体験してみませんか」
アルバフィカは店の前のメニュー写真を見ながら、注文の仕方を理解したようだった。列に並び、結局アルバフィカは、チョコレートを塗っただけのシンプルなトッピングを選んだ。
「甘いものは好きではありませんでしたか?」
「いや」
アフロディーテの問いにアルバフィカは答える。そして続けた。
「バレンタイン……というのは東京にもあるのか? 冥界にそういう名前の冥闘士がいて、同じ名前の祝祭が地上にあるそうだ。そのときに、ミーノスがチョコレートを再現してくれて……」
アフロディーテは喧騒の中で、アルバフィカを見つめた。
「帰りたいんじゃないですか?」
また、アルバフィカはハッとした顔をする。
「さっきからミーノスの話ばかり。嫌いじゃないなら──、気が済めば仲直りする気があるなら、溝が深まらないうちに帰った方がいいと思います」
アルバフィカは苦い顔をした後、重そうに口を開いた。
「あいつには世話になった。今も、嫌いというわけでもない。でも、戻ったところでまた同じことの繰り返し。この240年でわかっている。これからも同じなら、もう終わりにしてもいいと思う──」
「そこまでの長い関係なら、我々には想像の及ばない間柄もあるのでしょう。しかし、女神の話では、今日冥界に戻らなければあなたは灰になり、死人としても冥界に存在する事ができなくなるのでしょう? 気が済まないなら気が晴れるまで、付き合います。でも最後には、迎えに来たあの人と一緒に帰ってほしい」
アルバフィカはアフロディーテの回答に少し考え込んだ。そして「そうだな。だが後少し、付き合ってもらえないか」と答える。「もちろんです!」とアフロディーテは言い、どこへ行きたいかと、スマートフォンで都内の観光名所をアルバフィカに次々と見せる。
「あ。ここ──」
アルバフィカは水族館を指差した。
*
「ミーノス。少し雰囲気を変えてみてはいかがかしら」
沙織は真向かいのミーノスを眺めながらそう口にした。
「わたくしたちもそうだけれど、あなた方も神話の時代からずっと同じ冥衣に聖衣でしょう。デザイン変更くらいではもう、どうにもならない時期に来ていると思うのです。あなた方だけではありません。ハーデスの冥衣も、わたくしの聖衣も歴代ずっと同じ。現世で、授かった時は気分も上がりますが、しばらくすると、またこれ──と高揚感もなくなります」
沙織は手元のタブレットPCを起動させると、動画投稿サイトを開いた。テーブルに乗せてミーノスに見せる。
「最近チャンネル登録をして、欠かさずよく観ているのです。これなんて、いかがかしら。亭主改造計画 衝撃のビフォア&アフター」
沙織の隣のミロが吹き出した。タブレットPCには、放置され荒れ放題の庭のような男性が、カリスマスタイリストの提案で見違えるほどファッショナブルに変貌する使用前使用後の写真がいくつか並んでいた。
「ぶはははは! おまえ、飽きられたんだよ。気の毒に……くっ、はははは…」
「殺しますよ?」
ミーノスがタブレットPCから殺気を込めた視線をミロに移す。
「ああ? 来いよ」
「ミロ、おやめなさい。──ミーノス、もうわたくしたちにもこれしか思いつかないのです。あなたの話を聞いても、アルバフィカの気持ちがどうしてもわからない」
沙織は身を乗り出すミロを制して、ミーノスに訴えかけた。
「外見が変われば、別人のようになったと錯覚させることができるかもしれない。その隙に、仲直りなさい。そしてうまくいかなかったところを、改めてみて」
「わかりました」
ミーノスのおとなしい答えに、ミロは堪えきれずに口をはさむ。
「まじか! おまえ、アテナには従順だなあ。いっそ冥闘士辞めちまっ」
沙織は慌ててミロの口を塞いだ。しかしミーノスはもう怒りもせず、沙織とミロを見つめながら答えた。
「アルバフィカに会うのがもっと早ければ、きっと冥闘士になっていませんでした」
*
海に行ったことはあっても、深海や深海の魚を見たこともなかった。伝説上のクラーケンと思われる生物の話や、人魚伝説の正体についてなど、パネル発表も、展示された魚も海の生物も、アルバフィカには全てが新鮮で楽しいものだった。冥界には海だけがない。
超高層ビルの中に巨大な水槽や熱帯の木々が植えられた空間というこの水族館も、アルバフィカにとっては魔法のように不思議なものだったようだ。出掛けた中で、この場所をいちばん喜び、楽しんでいた。そういう人なのだ、と、アフロディーテは思った。
アルバフィカが水槽の中の生き物を愛おしげに眺める姿は、それを見ているアフロディーテこそが心洗われるようだった。あんな風に慈しむ顔で見守られたら、幸せだろう。しばらく接していてわかったが、アルバフィカにはそばにいる相手を幸せな気持ちにする力がある。それは外見の美しさ以上に、人の心に訴えるものだ。アフロディーテは実感していた。あのミーノスが、この人を追い続けるのも、そばにいると満たされた気持ちになれるからではないか。
アルバフィカが「美しいと言われるのが好きではない」と言うのも、アフロディーテにはようやくわかる気がした。それが外見の美しさを指しているとしたら、外見はこの人の美点のうちのたった一つに過ぎない。おそらく、本人がそうなりたいと願ってきた理想は外見の美しさとは関係がないのだろう。
アフロディーテは腕時計を見た。もうすぐ日が傾き始める。アルバフィカは帰る気持ちになっただろうかと気を揉んでいるところに、沙織からメッセージが届いた。
ミーノスを連れて行くのでどこかで会いたい、という連絡だった。
沙織の話では、死人が地上で生きられるのは半日というから、早朝に城戸邸へ現れたアルバフィカの残り時間はあと3時間程度と思われた。このタイミングでアルバフィカの気を逆撫でするようなことがあれば、アルバフィカは消滅する方を選びかねない。ミーノスと会わせて問題がないものか、アフロディーテは計りかねた。
「アルバフィカ。よかったら、そろそろ、どうして家出することになったのか聞かせてもらえませんか」
その問い掛けに、アルバフィカは頷いた。「では」とアフロディーテはアルバフィカをうながして屋外に出る。水上ガーデンの、小さな箱庭の草原を散歩するペンギンの群れを眺めながら、アルバフィカの話を聞いた。
4.
「アテナ! 早くミーノスを連れて来てください。すぐに解決しなくては」
「アフロディーテ。あなたは何かわかったのですか? わたくし達は、さっぱり……」
アフロディーテは、女神相手とはいえ舌打ちしたい気持ちだった。これだからやんごとないお方々は、と、皮肉が出そうになり、堪える。
アフロディーテはアルバフィカを言いくるめ、水族館の中のカフェに移動してミーノスと沙織が来るのを待つように伝えた。もういい、と、変わらずに諦めを口にするアルバフィカに、「大丈夫です。絶対にうまく行く」と強引な押しで留まらせる。
アフロディーテは苛立っていた。アルバフィカがアフロディーテの顔を立てて、話を聞き入れてくれているのがわかる。彼はもう諦めている。残りの時間をただ味わいながら過ごしているだけだ。アフロディーテにもその気持ちがわかった。本当ならその最後の時間を、どこで過ごしたいと思っていただろうと、考えるといたても立ってもいられない気持ちにはなる。アルバフィカをカフェに押し込むことには成功した。しかし、どこにでもあるチェーン店しか近くにないことに腹が立った。もっときれいな、いいものに囲まれて過ごして欲しかったから。
それでも、運ばれて来たライムソーダを見て、アルバフィカは言った。
「きみはいつも、きれいなものを選ぶ。楽しいよ」
アフロディーテは、もはやアルバフィカの一言一言に狂おしいほど心が乱されるのを感じていた。この人は自分の美意識を認めてくれたのだと思った。美しさよりも重んじるものがあるのにもかかわらず。
(なんとしても、アルバフィカを無事に、あの男のところへ)
アフロディーテの使命感は激しい炎を吹き上げて燃えていた。
アルバフィカの残り時間を思えば一秒さえも惜しく時の流れは早い。しかし、沙織たちの到着を待つ気持ちとしては、遅々としてそれが待ち遠しい。
建物の外に着きました、と、沙織からのメッセージがアフロディーテのスマートフォンに届いた。
「もう間もなく来ます。アルバフィカ!」
時計は17時半。まだ猶予はあった。
アルバフィカはつまらなそうに無表情だった。それが店の扉が開いて沙織が現れ、その後ろにミーノスとミロの姿を見つけた時、「あ」と声を出してじっとミーノスを見た。アルバフィカを見つけたミーノスもまた、見たこともない服装に髪型をしているアルバフィカに驚いたようだった。そして、不安そうに自分の服装を少し省みるような動作をする。けれどすぐにアルバフィカのところへ駆け寄って来た。
ミーノスは、どこにでもあるような、白い丸襟の綿のシャツと、淡いグレーの薄手のジャケットに同じ色のボトムを身に付けていた。ミーノスは体型のよさでいわゆる高見えに着こなしてはいる。それでも素材は極めて安価なのが一目瞭然だった。
しかしアフロディーテは、この選択に女神へサムズアップを捧げたい思いだった。
ミーノスは壁を背にしたアルバフィカのテーブルの正面に座った。
「アルバフィカ、話を」
「話、じゃない。もうそういう段階じゃない」
アルバフィカはミーノスの言葉を遮るが、アフロディーテは手応えを感じていた。聞く気があるのだ。だから座らせている。しかしミーノスの言葉ひとつでまたアルバフィカが逆上するのはアフロディーテにはもうわかっていた。それなので、隣の席から、アフロディーテはミーノスに声を掛けた。テーブルの上に、先ほど近くの店で買って来た品物を載せる。
「ミーノス。これがな、詰め替え用のシャンプーだ」
ミーノスは不審そうにアフロディーテの手元の大容量パックを眺める。
「なんですかそれ」
「おまえに世の中の仕組みを教えてやる。髪を洗う時に使う洗浄液があるな? あれは、こうして詰め替え用パックから継ぎ足すか、新しく買い換えるかをして使うものなんだ」
アフロディーテの高説を、集まって来た沙織もミロも関心しながら聞いていた。初めて知りました、という顔をして。
アフロディーテは呼吸を整えて言った。
「ミーノス、おまえは、アルバフィカと暮らし始めてから240年間、一度でも、シャンプーを補充したことがあるか? あるいは、ボトルを置き換えたことがあるか?」
「あるわけないでしょう。それは召使の仕事です。私が知るわけが」
アルバフィカが力任せに机を叩く音が店内に響いた。店は静まり返り、店員がこちらを見に来るので、アフロディーテは両手を合わせて謝罪の姿勢を示す。
「私だ。私が補充していたんだ。ずっと、ずっと……」
アルバフィカの声は震えていた。
「自分も使うものだ。自分で補充して当然。そう思い続けて百年。おまえがシャンプー液を使い切ったあと、私が風呂に入って髪を濡らしてからシャンプー液がないことに気付き、髪を拭いて体を拭いて、服を着て、シャンプーボトルを洗って乾かして、別の容器に継ぎ足しのシャンプー剤を入れて、もう一度服を脱いで髪を濡らして、ようやく髪を洗うことができる状況でも気にしなかった。何度それが繰り返されても気にならなかった。百年は。シャンプーボトルが乾くまで継ぎ足しができないから、ボトルをもうひとつ用意して二つを使い回そうとしても、おまえが召使に指示をしないから召使は替えのボトルをゴミだと思って私の知らない間に捨ててしまう。捨てないでほしいと頼んでも、召使はおまえの言う事しか聞かない。だから私は捨てられていることに気付かず、またおまえがシャンプー液を使い切ったあとの風呂に──」
アルバフィカの話は続いた。一人で十五分は喋り続けていた。もう残り時間が限られているというのに、アルバフィカは止まらなかった。
「おまえはなんでも人任せ。召使に身の回りのことをさせて生きて来た。だからわからない。どうしていつもシャンプーボトルが洗浄液で満ちているのか。石鹸が消えてなくならずにあり続けるのか」
何故か沙織もミロも、耳が痛そうに項垂れている。
生前、魔宮薔薇で血が毒に染まっていたアルバフィカは、他人に身の回りの世話の手を借りることができず、何から何まで自分で行なっていた。そのせいもあり、プライベートを人任せにすることにも強い抵抗を持っていたのだ。だから、浴室の管理も自分で行わなくては気が落ち着かなかった。習慣なので直すよりそのままでいさせてほしいとアルバフィカはミーノスに打ち明けていた。ミーノスは承知したものの、それが具体的にどういう事情になっているのか想像が及ばない。
「せめて、せめてシャンプー液がなくなった、と、私に言ってくれたら……」
アルバフィカは両手で顔を覆っていた。
「頼んでも頼んでも、おまえは忘れる。気にもしない。仕方がないと思って200年。それでもまだ耐えていたが、残りの40年は、空になったボトルに洗浄液を注ぎ込むたびに、おまえへの愛情も流れ出ていくようだった──些細なこと。こんな些細なことでと何度も自分に問い掛けた。だけどもう、限界だ。耐えられない」
アルバフィカは顔を覆ったまま肩を震わせていた。沙織がいたわるようにアルバフィカの肩を抱く。
「ミーノス、わたくしも知りませんでしたから……。あれはどこからか、自然に継ぎ足されているものだと」
沙織はミーノスを庇うように言った。ミロがアフロディーテに「おまえすげえな」と耳打ちする。「やかましい。私は素人に美容にかかわるアイテムを任せたくないだけだ。──美意識が低いと、覚えきれないらしいからな」とアフロディーテは小声で言い返した。
「すまなかった」と、ミーノスがアルバフィカに言う。
「これからトロメアに帰って、シャンプー液を補充しますから、見届けてもらえませんか」
「できるのか?」
「できますよ」
「絶対無理」
「できます」
ミーノスはアルバフィカの左手を引き寄せ、テーブルの上で自分の手を重ねた。アルバフィカはそれを跳ね除けはしない。もう大丈夫だろう、と、アフロディーテは大きく呼吸して肩の力を抜いた。
沙織がミーノスに壁側のアルバフィカの隣のソファを譲り、入れ替わってアフロディーテの隣に移動して来る。アフロディーテは沙織に尋ねた。
「あのミーノスの服選びはアテナが? 事情がわからないと言っていましたが、よく適切な服を選びましたね。ここで孔雀みたいに着飾って現れていたら、何もわかってない、そんなことより掃除しろと激昂されてたと思いますよ」
沙織は恥ずかしそうに顔をあからめたまま、アフロディーテの隣で笑った。
「──ええ、何がいいのかは確信がありませんでしたけど……。例えば、しばらくサガと一緒にいるでしょう? それから久しぶりに星矢に会うと、素敵に見えたりしますから」
抜け抜けと、この女神も太々しいことを言う。アフロディーテは笑った。
五人はカフェを出て、再び屋外の水上ガーデンに向かった。もうすぐ水族館自体が閉館時間だ。もう日は落ち、夜の闇が広がり始めている。
「大丈夫ですか? 間に合うのでしょうか?」
沙織が並んで手を取り合っているアルバフィカとミーノスに心配そうに問い掛けた。
「あと一時間ありますから、間に合います。助かりましたよ、アテナ」
ミーノスの応答に、沙織は「そう。どうかアルバフィカを幸せに」と伝える。
「アテナ様、本当にご厄介をお掛け致しました。お恥ずかしい限りです……」
アルバフィカは沙織に跪き、沙織の手をとって指先に接吻した。女のように美しいが、優雅な仕草は貴公子のようだった。「まあ」と、沙織はアルバフィカの振る舞いにときめいたような笑顔をする。
アルバフィカはミーノスの手を解き、アフロディーテに近寄った。そして両手をしっかりと握りしめる。
「アフロディーテ。なによりも、きみに会えたことが一番の喜びだ。私は、きみを誇りに思う。その美しさも、優しさも、──強さも」
「私もです。アルバフィカ。あなたという素晴らしい先代を継承することを、誇りに思います」
別れの挨拶が済むと、「では」と、ミーノスは再びアルバフィカの手を取って屋上のフェンスのそばに寄った。グリフォンの冥衣姿に戻ると、アルバフィカを抱き抱え、瞬く間に空に飛び上がった。次の瞬間には、鴉のような黒い鳥が赤い薔薇を咥えて現れる。黒い鳥は、一度アフロディーテ等の頭上を旋回した。そして、消失したも同然のスピードで、西の空に向かって飛び去った。
「アテナ。彼らの後を追えば、冥界への入り口がわかるという事では?」
ミロが尋ねる。
「仕事熱心ですね、ミロ。でも行き先はわかっています。ドイツのハインシュタイン城。そこが現世のハーデス城です。まだ、冥王は地の底で眠っていますよ。あと少し、待ちましょう」
残された三人は西の空を見上げ続けた。黒い鷲の羽と、赤い薔薇の花弁が空から舞い降りた。
(了)