赤い葡萄酒「シャカ。突然の話で驚かせるでしょうが──今から私と、アテネ市内のクリスマスマーケットに行きませんか」
本当に突然だった。処女宮で日課の瞑想に耽っていたところ、入場を求めるムウの思念が届いたので許可したところ、なんと外出の誘いである。私はすでに瞑想用の蓮台を降りてこの客人を迎え入れている。断るには私の方が勇み足に思われた。
「構わないが──どういう風の吹き回しかね。あの小さな弟子がきみにせがんだのか」
ムウは苦笑いをして首を横に振った。
「貴鬼はすっかり紫龍に懐いてしまって。この年末年始は紫龍と一緒に老師の五老峰で過ごすそうです。ご厄介かと思いましたが、紫龍も春麗も歓迎してくれるそうで。私もせっかくなら、あの子には賑やかな新年を迎えてほしいので」
「賑やかなのがいいなら、きみはなぜ同行しない」
私の問いに、ムウはまた首を小さく横に振る。
「私は私で、今年は聖域で過ごしたくて。──それはそうと、どうですか。ちょっとした息抜きです。シオンはクリスマスシーズンに聖衣の修復で根を詰めすぎたときには、老師とクリスマスマーケットに繰り出して、パアッと発散していたというのです」
「ほう。それはいま、きみが疲れているということかね」
「いや……」
どうも煮え切らない。しかしムウは何やら陽気だった。
「一体何が売られている場所なのだ」
「山小屋風の三角屋根をした小屋が屋台として並んでいます。そこでチュロスやホットチョコレートにグリューワインといった定番の食べ物が売られているんです。他に各国料理の店もあり、クリスマス用品も買えるそうですよ」
「ほう」
特に食べたいものもほしいものもないが、ちょっとした気晴らしになるだろう。ちょうど良い。私もこの友と話したいことがあったところだ。私はムウの誘いに乗り、クリスマスマーケットとやらに出向くことになった。
「見てください、これで一人分ですよ!」
ムウはクリスマスマーケットに着くと、混雑した人波を分けて一目散にチュロス売り場に殺到した。そして、縦縞の細長い小麦粉を揚げたチュロスが何本も挿さった紙の包みを私の前に差し出す。たしかに紙包みには、両手に一杯の量があった。甘い香りは、揚げたてのチュロスとそれを浸して食べるために添えられたミルクチョコレートソースらしい。
ムウは嬉しそうな笑顔でチュロスを一本手に取り、ミルクチョコレートに浸して口に運んだ。カリ、と、チュロスが噛み砕かれる音がする。確かによく揚がっているようだ。
「随分楽しそうだね。確かに、小麦粉と油脂と砂糖にチョコレートだ。劇薬のように舌を虜にするだろう」
「論じるばかりでなく、あなたも召し上がってください」
ムウが、チョコレートに浸したチュロスを、私の口元に寄越して来る。つい、受け取るより先に口に入れてしまった。ムウは少し驚いた顔をしたが、すぐに「どうです?」と聞いて来る。
「これは麻薬だよ。堕落への甘い誘いだ」
そう答えて、手に取った一本をそのまま食べ切ってしまった。思ったよりあっさりした味と、ほどよい甘さだった。ムウはもう一本チュロスを手に取り、「今日は、一年分のジャンクな味わいを堪能しますよ!」と小躍りするようだった。
「きみはそんなにはしゃぐ人だったのだな」
意外な姿にそう口にすると、ムウは機嫌良く答えた。
「ええ。嫌いじゃないんです。元々、私は賑やかに暮らしていました。貧しい暮らしでしたが家族は多くて。聖域に行っても師のシオンがいてくれました。弟子もすぐに取った」
「それが、サガの乱で?」
「師に異変があったことだけはわかりました。シオンの振る舞いとは思えなかった。しかし、ジャミールにシオンの血縁はもうありません。聖域の召集に応じないという私の判断に家族も一族も巻き込むわけには行きません。だから僻地に隠遁していたのです。聖域は貴鬼のことを知っていましたから、あの子も私から離すことはできず」
改めて、長い付き合いながら、ほとんど口を聞くことなく過ごしていたこの友のことを知った。
「シャカ。大量の砂糖で堕落したところです。極め付けに行きましょう」
ムウは、話を変えて私を別の屋台へと導く。本当にやたらと上機嫌だった。そして、ムウに連れられて着いた先の屋台は、温めた赤いワイン──グリューワインの売り場だった。今度は温まったワインとシナモンの香りが広がる。
「二人分ください」
ムウは早速グリューワインを注文し、今度は私にもコップをひとつ差し出す。そして「少し歩きましょう」と混雑した売り場を抜け、森林を有する広場の方へ私を連れて行った。
アテネの寒気の中で、手元のワインの温度は指先に心地よい。クリスマスを演出したネオンで彩られたマーケットを離れると、雑踏の賑わいは少し遠くなった。今は鳥の羽ばたきの方が耳に入る。隣で、ムウは少しずつ少しずつ、ワインを口に含んでいた。私も合わせて、ワインに口を付けた。
不意に、ムウが横で立ち止まり、一息にワインを飲み切った。
「きみ……」
ムウは吐息し、指で口元を拭うと、すっかり赤らんだ目をしてこちらを見た。
「すみません。酒の力でも借りなくては、言えそうもなくて」
ムウはふっと小さく息を吸い込むと、私の閉じた瞼を見据えて言った。
「ずっと、嬉しくて。サガの乱で、あなたが私を頼ってくれたこと。あなたに一目置かれることがどんなに、誇らしいか。長い間離れていても、あなたは私を覚えていてくれた。私の念動力を」
「……聖域にきみ以上の念動力の使い手はおるまいよ。聖域一ということは地上で一という意味だ」
「そんな……真顔で。やめて下さい。最も神に近いと呼ばれ、その通りであるあなたが、私など……」
冷静に考えれば、時空のねじ曲がったひどく面倒なところに落ちたときに、このムウの念動力を頼らない黄金聖闘士はいないだろう。しかし、なぜかムウは、そのことを嬉しいと言う。
「ムウよ。実は私もきみに話があったのだ」
ムウはひどく驚いたようだった。「え」と声を出した。
「私こそが、きみに礼を言わねばならない。あの時空のねじれから私を救出してくれたときに、私はたまたまだが──きみの記憶の中のシオンを垣間見た。それでわかったのだよ。教皇は悪だと」
「私の記憶を……?」
「おそらく私と一輝の位置を探し出すときに、思念を通じる必要があって、遮断がうまくいかずにそのようなことになったのだろう。不慮のことだろうが、それで私も心が決まった。長らくサガの光のような善に重きを置き、見えていたはずの悪を気のせいだと思い込もうとしていた。大きな過ちを犯し続けるところだった」
ムウは俯いて黙り込んでしまった。また、鳥の羽ばたく音がして、遠かって行く。ひやりとした風がゆるく吹き抜けて行った。
「私はきみ達に……いやきみに、誇りに思ってもらえるような大した人間ではない。長い馴染みのきみの孤独に、今日の今日まで気付きもしなかった。それどころか、きみに余計な負担をかけまいと、何も言わずにおこうかと思っていたくらいだ」
私は風の向きからかばうように、ムウの前に立った。
「きみは、私に自分の不完全さを教えてくれる。私の弱さもわからせてくれる。それは、きみの持つ知識のためではない。曇りのない一途な心が、そうさせてくれる」
ムウは顔を上げ、潤んだような目で私を見た。その物を言う目に、私はまた感じ取った。
──ムウも私と同じ。思うところは同じ。
「海難事故の報告が増えている。雨量も上がっている。これはポセイドンの復活の予兆だとする見方もあり、おそらくそうだろう。女神も降臨した。次の聖戦も近い」
ムウの目は頷いていた。
「だから──」
「だから。いま、伝えたいのです。次の戦いで、生き残れるかわからないのなら──シャカ、私は、ずっと……」
ムウは堪えきれないように言葉を口にした。私はその口の前に人差し指を立てた。
「きみに懸想していたのは私の方だ。それは私に言わせてくれないか」
ムウはまた両目を赤く潤ませた。私がムウの長いしなやかな髪を撫でると、ムウは私の肩に収まった。
「怖かった……。何もかも失うかもしれないと」
「きみには敵わない。怖いと言いながら、きみは私よりよほど勇敢だ」
私がそう言うと、肩に顔をうずめていたムウは小さく笑った。
「赤い酒のおかげです。私が多く飲んだ分、勇気が」
「時には不摂生も力を生むのか。悟り澄ました私の負けのようだ」
私は残りのグリューワインを飲み干し、そして私たちは、手を取って聖域に戻った。
(了)