いい夫婦の日 シオンが教皇の間で一日の仕事を終えて、双魚宮の彼らの家に帰る頃。いつも玄関前の灯りを残してすでに暗くなっている部屋の窓が、今夜はカーテン越しに明るい。
「どうした、アルバフィカ。具合でも悪いのか」
シオンは玄関扉を開けた。途端に目の前には、ダイニングテーブルの奥の席に座り、腕を組んで微笑するアルバフィカと、テーブルの上に並んだ料理の数々が広がった。花瓶には季節の花が飾られ、明らかにいつもと様子が違う。
「おかえりシオン」
「え……? ええ……、どうしたのだこれは」
アルバフィカは組んでいた長い脚を解いて立ち上がり、玄関先のシオンに寄って行く。
「今日は、いい夫婦の日だそうだ」
「え。ふ、夫婦?」
シオンは思わず赤面した。それは、アルバフィカとは聖戦後少ししてからの恋人関係であるし、教皇の間と近い双魚宮のアルバフィカの新居で実質同居もしている。しかし夫婦と言われると、シオンはいまだにこそばゆかった。五つ年上の美貌の恋人は、親しくなってもいまだ手の届かない憧れの存在であり続けているから。
そんなシオンの戸惑いを気に留めずに、上機嫌なアルバフィカは語り出す。
「童虎が、11月22日は東洋のある国の言葉で、”いい夫婦”と読み替えられると教えてくれた。その日は婚姻関係でなくても、親しい間柄なら記念日にしていいのだとも聞いてな」
「え、えーと。それで……まさか……」
シオンはまだ落ち着かない様子で、目を白黒させるようだった。
「いつもお前にはよくしてもらっているからな。こういう日にかこつけて、少しは私からの感謝の気持ちを伝えたいと思ったのだよ」
アルバフィカはシオンの手を取って、テーブルへ促す。
「花はアガシャにいいのを選んでもらった。少しでもいい気分になってほしい。食事も、いつも支給品のパンや燻製で済ませているだろう? たまには温かい物を一緒に食べたいと思って、マニゴルドに習って来た」
シオンは胸がいっぱいに満たされる思いだった。
「でもお前、もう寝る時間ではないか。こんな時間まで起きていては、毎朝早いお前の体に障るだろう」
「たった一日のことだ。付き合わせてくれ」
シオンは夢ではないかと思った。促されて、テーブルクロスの敷かれたテーブルにつく。この家にこんな洒落たクロスがあったかとシオンは思った。これも誰かが融通してくれたのかもしれないと。
アルバフィカは「メインの料理はこれから作る」と、シオンを残して厨房へ消えた。調理台に火を入れる音がする。そして何故か、平鍋が石床に落下した衝撃音。
「どうした?!」
「大丈夫だ!」
テーブルからシオンが声を張ると制するように即返事が来た。シオンの位置からは、厨房の中が見通せない。そういえば、そもそもアルバフィカが料理をしているところを見たことがない。調理台はあるが、茶を飲む時に湯をわかすことにしか使っていない。大丈夫なのだろうか、と、シオンは不安になった。しかし、あんなにやる気なのにしゃしゃり出て行っては気分を害するかもしれない。なにしろ料理にかけてはシオンもからっきしである。この家は、二人とも家事ができなかった。自分たちではちょっとした片付けが関の山で、大半の家事はお手伝いさんに頼りきりなのだ。
「マニゴルドがな、とっておきのレシピを用意してくれた」
厨房から、アルバフィカの声がする。
「少々難易度が高い料理だそうだが、私の心意気に打たれたと言ってな。お前なら必ずやり遂げるだろうと、私の腕に信頼を寄せてくれた。だからシオンよ、少々手間取るかもしれないが、私を信じて待っていてくれ──なにしろこれは、作りたてがうまいそうだ」
「アルバフィカよ……!」
シオンは涙ぐみ、愛する人の思いに胸を熱くした。
調理器具がぶち撒けられる音、粉が舞い上がる鈍い音の後にむせて咳き込む音、卵の殻が粉砕された小さな音と「くそっ」というアルバフィカの噛み殺した声などが、次々とシオンの耳元に届いた。
そわそわとシオンは落ち着かない。アルバフィカは無事なのか。いますぐ厨房へ飛んでいきたい。飛んで行って助けたい。そう思いながらも、その厨房では、愛する人が必死になって自分のために調理をしてくれている。そう思うと、シオンはただ拳を強く握り締め、心の中で「がんばるのだぞ」と励ますことしかできなかった。
しかし「う…っ」と再び押し殺したアルバフィカの声がしたとき、シオンはたまらずついに厨房に駆け込んだ。しかしそれに気付いたアルバフィカが大声を出す。
「いい! 私の側に寄るな!」
「しかし……」
シオンが厨房を覗き込むと、アルバフィカは燃え盛る調理台の前で、左手で右手を抑えている。どう見ても火傷と思われた。
「マニゴルドは、なんという試練をお前に課したのだ」
「……望むところだ。こうでなくては」
アルバフィカの声は、再び厨房の奥へと消えて行く。
シオンは無力な自分に肩を落としながら、またテーブルに戻った。アルバフィカを止められないと悟り、シオンはもはや祈ることしかできない。
しかしやがて、バターの焼けるとてもよい匂いがした。アルバフィカをあれほど苦しめただけのことはある。明らかにおいしそうなのだ。
「シオン!」
アルバフィカは、粉だらけの白い姿になりながら、厨房から姿を現した。その手の上の皿には、朝日を浴びる採れたてのレモンに、虎の子の淡い色の縞をあしらったような、薄いパンケーキの姿があった。折りたたまれ葉巻のように巻かれたパンケーキが、カットされた薄いレモンを添えられて、四つきれいに並んでいる。
「おお……、なんと見事な……!」
シオンは感嘆の声を上げ、アルバフィカも達成に満ち足りた笑顔を見せていた。
「小麦粉を塩と合わせてふるいにかけるのだが、この塩が厄介で。すぐ忘れそうになる。卵の割り入れがまた困難で。どうしても加減を誤り潰してしまうのだ。牛乳を分けて加えるというのも、多すぎても少なすぎても生地に影響があるので、細心の注意が必要だ。それに──」
シオンはアルバフィカの語る至難の業と言われたパンケーキ作りの工程を、全力で耳を傾けて聞いた。それはなんと難易度の高い行いであろうか。しかし、それらを慣れない身で、わずかな時間でよくぞ成し遂げた。シオンはパンケーキを噛み締めながら、その温かさ、甘いおいしさに天にものぼる思いだった。
シオンはテーブルの向かいのアルバフィカを見つめた。どんな窯よりも熱い眼差しで。
「やはりおまえは素晴らしい。未知のものに立ち向かう勇気といい、無事に成功させる技術といい。今夜はむしろ、私がおまえの素晴らしさを改めて教えられた。おまえと共に歩むことができて、私はなんと幸せなことか──」
シオン──、と、アルバフィカは珍しく恥ずかしそうに頬をうっすらと染める。
「実はマニゴルドから持たせてもらったデザートがある。カスタードプディングという。これが信じられないほどうまい。まさにマニゴルドの神業よ」
「なんと、この上があるというのか」
「マニゴルドは料理においては私の師も同然。私もまだまだということ。しかしシオンよ、いつか私も作ってみせる」
「ああ、アルバフィカ。楽しみにしているよ」
シオンとアルバフィカは、微笑み合いながら二人の食卓を囲んだ。優しい声と幸福な吐息が、その夜はいつまでもいつまでも、二人の間を満たした。
(了)