薄暮れに 首なしの馬が引く馬車が間もなく到着すると先触れがあり、ミーノスは腰を上げた。裁きの館の入り口まで司令官を出迎えに行く。
蹄の音を止めた馬車からは、久しぶりに会うパンドラが降りて来る。冥闘士を統率する冥界の女幹部である。ミーノスはパンドラに敬礼し、その手を取って裁きの館の中へ導こうとした。パンドラは仕草でそれを払う。何やら機嫌が良くない。そうしなければ苛立って非礼を責め立てる日もあれば、今日はこちらの差し出した手を非礼と言わんばかりだった。
しかしそれもまたこの司令官のいつものことだった。
情緒不安定が、この上官の平常なのである。
それも仕方がない、と、ミーノスは思った。聖戦が終わり、三界は再び元の通りの神々がそれぞれを統治している。ハーデスに人生を操られ弄ばれたパンドラも、解き放たれたところで他に行く場所があるわけでもない。結局はここにいるのだ。
「今日は歴史書の閲覧をご所望とか。どなたのものを?」
ミーノスのその問いに、パンドラは靴の細い踵で床を打ち鳴らしながら、「一輝」と端的に答えた。
「フェニックスの聖闘士の?」
「そうだ」
パンドラはあまり表情がない。仕草や振る舞いにはそれがよく出るにも関わらず。パンドラは大股で足早だった。普段のパンドラの歩みに合わせるつもりだったミーノスは、足を早めた。二つの靴音が高い天井の室内に響き渡る。
20世紀の聖戦の終わりに、パンドラは自分の仇討ちをフェニックスの聖闘士に託した。ハーデスに対する明確な離反だった。それはミーノスも知っている。歴史書のパンドラの項にも、閻魔帳のパンドラの項にも記載されている。
今は、勝利した戦女神が冥界を再構築する代わりに相当に干渉を強めている。そのため、戦女神の温情でパンドラの行いは許されていた。
薄暗い書庫に連れ添い、ミーノスは歴史書の聖闘士の巻から、一輝とその関連人物が記載されたものを選び出した。閲覧用の机で待つパンドラに差し出す。
パンドラは黙ったまま一輝の項目を読んだ。そして別の巻を手に取り、関連人物に関する記載まで全て読み取った。
「一輝のところへ行く」
歴史書を閉じ、パンドラは席を立った。
「お供致しますか?」と尋ねたミーノスに「いらん」と返答しながら、パンドラは書庫を出て行った。
*
一輝が自宅のヨットハウスに帰宅し、玄関扉のノブに手を伸ばした時だった。夕暮れ時の雲の薄い天候にもかかわらず、細い雷撃が一輝を襲った。寸前で身を躱し、背後に後ずさる。
「さすがだな一輝。聖戦後も腕に衰えはないようだ」
パンドラは黒貂の薄い毛皮を纏った姿で一輝の前に現れた。一輝は横目でパンドラを認めると、「何の用だ」と背中を向けたまま問う。
「なに。おまえに少々聞きたいことがあってな」
一輝は、一歩一歩と近付いて来るパンドラの方に体を向けた。
差し向かいになると、パンドラは一輝を見上げる。夕焼けが一輝の顔の側面を赤く照らし、半面に影を落としていた。冥界で会った時も同じだった。
なぜいつも顔を合わせる時は、薄暗い場所なのか。パンドラは密かに独りごちた。
「おまえ──、弟だけでなく、好きな女まで討とうとしたのだな」
ごく僅かに、一輝の指の先が動いた。パンドラは気配でそれを察する。
「おまえが好きになった女は、ハーデス様の依代である瞬に瓜二つとよく似ていたそうではないか。同じ顔を討つのはやはりためらうか。それがハーデス様を討てなかった理由か」
「そうだ」と、一輝は静かに答えた。
目を凝らしても、パンドラには夕日に翳る一輝の表情がよくは見えない。かもめの声が日暮にも、先を争うように響き合う。
「どうやって、それほどの悲しみをおまえは生きているんだ」
パンドラはそう問いかけた。
「聖戦が終わり、戦女神よって私は再び生を得た。逃れたいと思いながら、私はハーデス様のところ以外に居場所がない。行きたい生もない。自分が空虚であることを思い知りながら、屍のように時間を過ごす。──耐えられない」
パンドラは両腕と共に自らを抱き締めた。脚が震える。
「エスメラルダは……」
一輝は口を開いた。
「なぜ笑っていられたんだろうな。星が輝くだけで、朝靄が掛かった景色を見るだけで、幸せそうだった。あの悲惨な境遇で。彼女は俺よりも、遥に強い」
パンドラは顔を顰めた。目を逸らして鋭い声を出す。
「私はエスメラルダではない」
パンドラは一呼吸息を飲んだ。そして再び一輝の顔を見上げる。
「私は何を見ても美しいとも幸せとも思わん。だが一輝、私を愛せ」
「なに?」
怪訝な顔をしたまま沈黙する一輝に対して、パンドラは焦れた。黒い手袋の下の蛇の指輪をかざし、周囲にいくつもの雷撃を落とす。
「やめろ、パンドラ!」
「うるさい! おまえといるときだけが、生きていると思えるのだ。おまえはどんな運命にも己を曲げない。神でさえおまえを止められぬ。私はおまえといたい」
一輝はパンドラの両肩を掴んだ。パンドラはびくりと肩を震わせる。一輝の両目が、真っ直ぐにパンドラの眼を射抜いた。
「俺は、傷を舐め合う気はない──だが」
一輝は深い悲しみを閉じ込めたような眼差しを、パンドラに注ぎ続けた。
「おまえは、冥界の暗がりで見たときよりも、ずっとあどけない眼をしているんだな。まだほんの、子どものような。それがおまえの本当の顔か」
パンドラはサッと顔が朱色に染まるのを自覚した。どうかそれが、夕日の色で一輝に伝わらないといいと思った。
一輝はパンドラを捕らえた両腕を離し、言った。
「おまえとは瞬を挟んで幼い頃からの腐れ縁だ。俺に用があるならまた来ればいい。しかし今日はもう引いてくれないか。俺には俺の思い出がある。そう簡単には、忘れたくないことも」
忘れたくない──、エスメラルダのことかと、パンドラは歯噛みした。エスメラルダが死んでもう三年は過ぎている。一体いつになったら、その思い出とやらは薄れるのか。パンドラは抑えきれないほど苛立った。──悲しかった。
「私は、しつこいぞ。おまえの過去など知ったことか。おまえが嫌がろうと、消えるつもりもない」
パンドラは暗い声で言った。
一輝は笑った。
「そうか。それはいい。俺はもう、死に別れはごめんだ。次があるなら死なない女がいい」
パンドラが聞き返そうとした時には、一輝はまた背中を見せていた。歩みを進め、再びヨットハウスの扉に向かう。
「一輝……」
「また来い」
一輝はそう言い残して、扉の向こうに消えた。
(了)