Canon 庭の木々の紅葉も盛りを過ぎ、間もなく季節は主の降誕を待つ待誕節に移ろうとしていた。ミロは足を早める。奏楽堂のパイプオルガンが鳴り響く時刻だ。同期生のオルガン科の、カミュの練習が始まる。
ミロは奏楽堂の壁に背を持たれ、日陰の茂みに座り込み、壁を伝って天から降り注ぐようなカミュの演奏に耳を済ませた。
バッハ。トッカータとフーガ。
完璧な旋律。完璧な拍。
カミュは完璧。何もかもが精密で正確。
ミロは感嘆した。
10代の半ばにこの音楽院に入学して、類稀なオルガニストを一目見て好きになった。氷のよう、と密やかに囁かれる美貌も確かに心を惹くが、それ以上に彼のオルガン演奏はミロの心を捉えて止まなかった。
しかしほどなくしてわかったのだ。微笑さえ見せない表情のないカミュの心の中は、神への愛に埋め尽くされていた。敬虔なカミュは、ただ神への捧げ物としての演奏を磨き上げるためにこの学校にいたのだ。
──人に関心がない。
カミュはそう噂されていた。
どうしても目立ち、人目を惹く男。そしてその分、音楽以外に一切の関心を見せず旧友と親しむ事もない様子は、風変わりな人物と決めつけられていた。お高くとまった秀才と揶揄する者までいた。ミロはカミュの陰口を聞くたびに、「カミュほどの練習量をこなしたこともなくて、妬みか」と制止に入った。ミロはこの音楽院でその苛烈な気性から恐れられていた。元々、百年に一人と言われる素質の声楽科のテノールだった。しかし、入学前の評判とは裏腹に、ミロはそれほどの頭角を表さないままだった。技巧は文句の付けようがない水準で、学部を卒業した後の修士課程進学も高成績だった。ただ、10代の頃ほどの人目を惹きつけてやまない成長は、もう見せなかった。
ミロは練習のための防音室よりも、パイプオルガンのある奏楽堂の付近で目撃されることが増えて久しい。
オルガンの音が止む。
ミロも腰を上げた。11月の終わりの空はとうに星が出ている。冷たい風がミロの長い髪を吹き流していく。オルガンを片付けて奏楽堂を出て来るカミュに見つかる前に、ミロはそこを離れるつもりだった。
しかし、今夜、カミュは裏口から出て来たのだ。
ミロはうっかりカミュと顔を合わせてしまい、目を逸らして通りすがりのふりをするつもりだった。しかし、ミロの口からは「おい」とカミュを呼び止める言葉が出た。
「何かあったのか」
カミュはわずかに頭を傾けてミロを向いた。赤い目が射抜くようにミロの姿を映す。
「なにも」
カミュは乱れのない口調でそう返事をし、顔を逸らして通り過ぎようとする。
「待てよ、カミュ。なにもないって顔じゃないだろ」
ミロはカミュの手を取った。カミュはほとんど表情を変えないというのに、明らかに不服そうに見える素振りをする。ミロでなければ、その畏敬すべき顔立ちに怯んで後ずさっていただろう。カミュはかすかに吐息した。ミロが疑問を持ったら引かないのは、この数年来の付き合いでよくわかっていた。
「氷河だ」
カミュは答えた。
氷河。
それは、先月からカミュが指導を任されている、入学したばかりの14歳の少年のことだった。ピアノ科の特待生として校内でも知られた存在である。ラフマニノフを専攻しようとしていることも。
──カミュとラフマニノフ。
そのふたつを組み合わせて、ミロは半ば理解した。神しか愛さない男と、人への情熱を表現する楽曲。噛み合うはずがなかった。
「氷河は、評判通りだ。たったひと月で、私の教えられるピアノの技術などなくなってしまったよ」
カミュは語る。
めずらしく、眉根を寄せていた。
「教授に申し出た。氷河にこれ以上教えられることは私にはないと。しかし教授は私に、氷河がラフマニノフを弾けるまで指導を続けろと。私にはラフマニノフは解せない。私にないものを──どうしろと」
「──本当か?」
ミロは声を低めて問い掛けた。
その声に、今更のように、カミュは腕を捉えられたままだったことに気づく。その手を解こうとするが、ミロの力はそれを許さなかった。
「本当にないのか、おまえに。人を愛する心が」
「──わからない」
これまで、同期として、距離を保ちながらも音楽の話はよくする間柄だった。カミュは技巧の理論は優れていたし、技術についてなら無限にその才を発揮した。ミロは、そんなカミュの世界を壊したくなかった。カミュの思うままにその表現の世界を作り上げてほしかった。だから干渉──、しないと決めていた。
「カミュ。聴いてくれないか、俺の歌を」
「なに」
「伸び悩んでいるんだ。助言がほしい」
そう言えば、カミュが断らないのもミロはわかっていた。
カミュが「構わない。ただ、あまり時間は取れないぞ」と口に出すのを聞き終わる前に、ミロは校舎のピアノ室へとカミュの手を引いて行った。
ピアノ室に入ると、カミュはすぐにピアノに向かった。
「なにを歌う」
「『トスカ』」と、ミロは答えた。イタリア人の作った悲劇のオペラだった。
「カヴァラドッシか」と、カミュはラの音を立てる。
カヴァラドッシはテノールだった。ミロの声域である。
「『星は光りぬ』」というミロの曲名に、カミュは眉を寄せた。
「私には良し悪しがわからない──オペラは苦手だ」
カミュは椅子から立とうとする。
「聴け! 聴いてくれ、カミュ」
ミロの声音に、カミュは不満げながらも再び腰を下ろした。カミュは演奏を始める。
ジャコモ・プッチー二のオペラ『トスカ』。罪なき罪で銃殺に処せられる画家のカヴァラドッシが、愛する恋人──美しいトスカへの別れを告げるアリア。
”時は過ぎ、
絶望の中に僕は死ぬ、
絶望の中に僕は死ぬ。
今ほど命を恋しく思うことはなかった!”
ミロが歌い終えたとき、鍵盤をおさえながら、カミュは涙をひと筋頬に伝わせていた。
「ミロ……。おまえ、こんな歌が歌えたのか」
カミュはこれまで誰にも見せたことのない驚きの顔をして、涙のあとを残したまま、ミロをじっと見つめた。
「いい歌だったろう?」
ミロは初めて、人前で──カミュの前で思いのままに歌った。
ずっと歌えなかった。歌わずいた。
ミロは、自分の歌に人の心を動かし、感情を波立たせる力があるのはわかっていた。ただ、それがどうカミュの完璧な世界と溶け合うのかがわからない。万が一にも、それでカミュの美点を損なうのだとしたら、耐えられない──。
「そうだな、いい歌だ──」
カミュは微笑した。
*
12月。クリスマスの学院演奏会で、氷河のラフマニノフが披露された。
カミュはミロと連れ立って、演奏会場の客席にいた。
氷河のラフマニノフは、まだ年少ながら豊かな表現力で演奏され、会場の人々の胸を打った。スタンディングオベーションが鳴り止まない会場で、司会にコメントを求められ、氷河は答えた。
「亡くなった母に捧げる曲を弾きたいと願って練習していました。でも、俺の思いを演奏に込めるための技術が足りなくて──カミュは、俺に足りなかったものを与えてくれました。俺の願いを叶えるための力を、俺に授けてくれました」
カミュは穏やかな顔で拍手をしながら、舞台の上の弟子の様子を見守っていた。
「人を──どう愛していいかわからなかった。けれど、ミロ。おまえの歌には、その手がかりが、確かにあったよ」
幻聴ではないかとミロは耳を疑った。隣のカミュは、舞台の氷河に視線を注いだまま、しかし確かにそう言った。どうやら、秘蔵の歌は、この氷のような男の心を、損なうことなく開くことに成功したらしい──ミロは、間近なものとなったカミュの横顔を、愛おしげに見つめた。
(了)