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    パラレルワールドの旅人たち 僕の勤め先は小さな喫茶店だ。輸入物の珈琲豆と淹れたてのコーヒーを取り扱っていて、サンドイッチ程度の軽食も出している。従業員は店長とその奥さん、アルバイトの僕。近くには古い大学があって、そこの教授様が主なお客様だ。店長が趣味で集めているクラシックレコードをBGMに、お客様は勉学に勤しむ心身を休めてゆったりとした時間を過ごして帰っていくのだ。

     少し前から新しいお客様が増えた。年配のお客様が多い中、若い人が来るのは珍しいからと、初めて来店した様子もよく覚えている。黒のハイネックとグレーのジャケットという、年齢にしては落ち着いた色合いの服装に反して髪型は派手に跳ねていたけれど、上品な出で立ちのおかげか不思議と違和感は無かった。
     いらっしゃいませ、と僕が声をかけると、そのお客様はするりと視線だけで店内を見渡して「コーヒーを」とだけ言い、二人掛けのテーブル席にさっさと移動してしまった。
     ところで余談だがこの店は雰囲気作りために照明は少し暗めに設定してあって、入り口から奥へ行こうとすると必ず段差を数段降りなければならない作りになっている。一見さんは大体そこで気付いて止まったり、気付かず踏み出してガクッとつまづいたりしてしまうものだが、このお客様はそれを難なく攻略してしまった。勝手知ったると言おうか、常連客と同じような自然な足取りだったので僕はちょっとびっくりしたのだ。
     注文通りのブレンドコーヒーを持っていくと、お客様は狭いテーブルに専門書のようなハードカバー本をいくつも積み上げ、そのひとつを読んでいたところだった。どうぞ、と声をかけながらコーヒーを置くと短く「ああ」とだけ返ってくる。愛想が無いお客様はよくいるから構わないけど、それにしても視線が合わない人だ。
     この日はたまたまお客様が少ない日で、アルバイトの僕がやることといえば洗い物や掃除くらいだったので、自然とさっきのお客様に目が行っていた。お客様はカップのコーヒーを少しずつ飲みながら、細かい字が書かれているであろう分厚い本のページをパラパラとめくっていく。カウンターの内側で店長と「あれって読んでるんですかね?」「流し読みじゃないか? 一度読んで内容を知ってるとか」などと小声でひそひそ会話をした。
     何かを考えるように手を止め、またページをめくる。そうやってお客様は数時間かけて積み上げていた本を何度も読み返していたが、やがて大きなため息を吐くと、本を全て鞄にしまい込み、席を立った。
     お会計の際、澄まし顔をしたお客様の右人差し指に銀色の指輪が、左耳に大きな宝石の耳飾りがあったことに気付いた。

     1日空けて、お客様はまた来店された。同じような服装で、同じように注文し、同じように付いた席で分厚い本をたくさん積んだ。コーヒーを運んだ際にわかったのは、本の背表紙が一昨日とは違うことと背表紙には付属大学図書館のシールが貼られていたことくらい。なるほど、図書館で借りた本をここで読んでいるわけだ。
     この日は忙しくて、席に着いていたお客様を観察することはできなかったけど、お会計を担当していた店長の奥さんが「あのお客様、かっこいいわねぇ」と息子か孫を見るような目で笑っていた。顔は整っていたと思う、多分。今回はコーヒーをお代わりしていたらしい。

     また1日空けて、例のお客様が来店された。ドアを開けた瞬間、嫌な臭いを嗅いだかのようにムッと眉間にしわを寄せたので、僕は来店の挨拶の次に「どうかされましたか?」と訊いた。お客様はなんでもないと言う代わりに首を振った。
    「テーブル席は埋まっているようだな」
    「あ、ええ、そうですね」
     普通に話しかけられたのでうっかりどもってしまった。こうしてきちんと聞くと男性にしては若干高いが、どこか威圧感を感じる声だ。物言いもなんだか来店される教授様とあまり変わらない。
     今日は珍しく満席だ。狭い店内にこれだけ人がいれば、確かに驚くかもしれない。
    「カウンター席でしたらご案内できます」と続けると、お客様は少し黙ったあと「仕方ない」と呟いてから僕に「コーヒーを」と言い放って、スタスタと移動してカウンターの椅子を引いた。
     今はちょうど店長も奥さんも手が空いておらず、その場合は必然的にアルバイトの僕がコーヒーを淹れる。この瞬間はいつも少し緊張する。店長も奥さんも気にしなくていいと言ってくれるが、やはり経験の浅い僕ではコーヒーの味が変わってしまうのだ。コーヒーは好きだが、自分で飲むために淹れるのと、商品としてお客様にお出しするのとでは訳が違う。
     準備をしていると、カウンターの向こうに座ったお客様がこちらをじっと見ていることに気づいた。初めて向かい合うその瞳が吸い込まれしまいそうなほどに真っ黒で、僕はギョッとして体を強張らせてしまう。その拍子に手元の器具がカシャンと小さく音を立てた。
    「あ、あのぅ」
    「なんだ?」
     続けろ、と顎で先を促される。さっき態度が教授様のようだとか思ったけど、これでは王様ではないか。では僕は召使いか何かか。人に見られていると余計に緊張するからやめてほしい。ただでさえカウンターは人目に晒されるのに。
     数秒待ってみたがお客様の視線が僕から外れることはなかったので、静かに深呼吸をしてから作業に集中することにした。
     お客様が座った席はちょうどコーヒーサイフォンがよく見える席で、つまり僕が作業している姿がはっきりと見える席だった。器具を操る僕の手元やコーヒーが徐々に溜まっていくフラスコを、お客様は真っ黒な眼でじっと見つめている。興味深いのだろうが冷静な表情は変わらない。
     この時間、僕は一昨日奥さんがこぼした「かっこいい」という言葉を思い出して、作業の合間にお客様の顔をちらちらと盗み見していた。目の色は真っ黒、派手に跳ねた髪も真っ黒。左耳に大きな宝石のついたピアス…いやイヤリングを付けている。顔の作りはどこにでも居そうな、といった印象を受ける。目が大きくて童顔寄り。目つきは鋭く、眉も吊り上っているが、かっこいいと言うより可愛い系なのでは。
     そんなことを考えているとあっという間にコーヒーの摘出が終わる。フラスコに溜まったコーヒーを温めておいたコーヒーカップに注いで、お客様にお出しした。
     お客様は目の前に置かれたコーヒーカップを手に取り、ゆっくり口に運ぶ。ソーサーからカップを持ち上げるときも、コーヒーを飲み込むときでさえほとんど音を立てない。流れるような動作を目で追いながら、僕は何故かコーヒーを淹れる以上にドキドキと緊張していた。
     カチャ、とカップがソーサーに置かれた音で僕の心臓は更に跳ねた。
     が、次の瞬間、お客様は備え付けのミルクとシュガーをこれでもかとコーヒーに注ぎ、当てつけのようにカチャカチャと音を立ててスプーンでかき混ぜ始めた。僕の口からは思わず「あっ」と大きな声が出てしまって、慌てて口を閉じたけれど、それをしっかり聞いたらしいお客様にギロリと鋭い視線をいただいてしまう。そりゃあお客様のお好きなお味で楽しめるようにとカウンターにもテーブルにも備え付けてあるミルクとシュガーだけども、何もそこまで乱暴にしなくたって…。
    「渋みが強いな」
     ほんの少し(ほんの少し!)涙目になっていた僕に、お客様から声がかかった。僕は「えっ」と顔を上げたけど、お客様はミルクで淡い色になったコーヒーを見ている。
    「作業中に考え事か? 雑念が混じっているぞ」
     不満げに眉をひそめて、お客様は甘いコーヒーを飲んだ。
     僕は一度閉じた口をぽかんと開けていた。僕が淹れたコーヒーを飲んでもここの常連さんは店長のお得意様だから何も言わない。けれどまさかアドバイスをくれるとは!
    「あ、あの、コーヒーにお詳しいんですか?」
    「いいや、全く」
    「え」
    「ここで初めて飲んだ」
     お客様の正しい年齢はよくわからないが、この歳まで生きてきて一度もコーヒーを飲まない人間なんているんだろうか。それに初めて飲んだにしては最初の来店で顔色ひとつ変わらなかったように見えたけれど。
    「これはわからんが、紅茶は自分で淹れる」
     今度は音も無く、カップがソーサーに置かれた。
    「雑念は入れた茶の色や味に影響するものだ。
     お前は作業中に幾度もこちらを見ていたな。私の顔に何か付いているのか?
     それとも、私に見惚れたか?」
     にやり、と表現するのが正しい、そんな笑い方だった。
     きゅうと弧を描く目と、両端を吊り上げた口元。まるで新しい玩具を見つけたかのように愉快に、けれど足元の虫を見るかのように僕を蔑む表情。カウンターの内側は客席よりも床の位置が高く作られていて、椅子に座るお客様は僕を見上げているはずなのに、とんでもなく高いところから見下ろされるような畏怖させる力を感じる。彼が一歩踏み出せば間違いなく僕は踏み潰される……そんな本能的な恐怖と危機感を感じて、踏み慣れた店内の床板の上で足がすくんだ。
     スッと視線が逸らされた瞬間に嫌な緊張は解けた。背中にたらりと冷や汗が流れるのを感じて、一歩後退りする。
    「遊びがすぎたな」
     お客様は代金をカウンターに置いて、重そうな鞄を肩に掛け、店を出て行った。僕は見送りの挨拶も忘れてぼんやりと閉まるドアを見つめていた。
     カップにはミルクで濁ったコーヒーが残っていた。

     数日後、休憩から戻った僕がカウンターを見て、驚きの声を上げて飛びあがらなかったことを誰か褒めて欲しい。
     そこにはあのお客様が座っていた。黒のハイネックにグレーのジャケット、赤みを帯びた革製の鞄。カウンターには数冊の分厚い本、ではなく今日はタブレット型の端末がひとつ置かれていた。あんな去り方をしたのだからもう来ないと勝手に思っていたが、それは僕の思い違いだったようだ。
     僕に気付いたお客様は一瞬だけこちらを見て、カウンター向こうの店長に話しかける。
    「あの若者におかわりを淹れさせてやれ」
     店長は白い髭を撫でながら「うん?」と首を傾げたけれどすぐに「構いませんよ」と返事をしていた。か、構いますよ、僕は!?
     心中全く落ち着かない僕がギクシャクとカウンターに立つと、店長が「ご指名だぞ」と僕の背中をぽんと軽く叩いた。おおらかな店長の後押しはいつもなら少し緊張がほぐれるものだが、席に座るお客様が片手で頬杖をついて面白そうにこちらを見ているものだからとても居心地が悪い。数日前のあの一瞬の笑顔が思い起こされてブルリと身震いさえしてしまう。
     しかし仕事なのだから仕方がない。覚悟を決めた僕は休憩の合間に緩んだエプロンの紐を結び直して、ゆっくり深呼吸をした。今度は余所見をしないで、最初に濾過器にフィルターを被せるところから、慎重に、丁寧に、作業に取り掛かる。
     カップにコーヒーを注ぎ終えた瞬間、思わずほっと溜息が出るほど、僕は緊張していた。
     コーヒーをお出しすると、お客様はまたもや音も立てずにカップを持ち上げて口を付け、コーヒーを一口含む。
     けれど飲んだところで「えぐい」と眉間にしわを寄せて鋭い眼光をこちらに向けた。
    「丁寧に入れすぎだ。えぐみが強い」
     そう言ってまたもや飲み残したコーヒーにミルクとシュガーをたんまりと入れてかき混ぜてしまった。僕が思わず「ああ…」と落胆の声をもらして肩を落とした隣で、店長がほほうと感心の声を上げた。
    「お客さん、コーヒーに詳しいんですねぇ」
    「いいや、全くだ」
     応えを聞いた店長はきょとんとした顔でまた「うん?」と首を傾げていた。
     店長、その方はついこの間ここで初めてコーヒーを飲んだそうですよ。

     1日空けて、お客様がまた来店した。何故かまた僕にコーヒーを淹れさせて、一口飲んでは渋い顔をしていた。
     しかし今度はお客様がコーヒーにミルクを入れる前に店長がその手を止めて、小さなガラス皿をひとつ、お客様に差し出した。
    「口直しにどうですか」
     甘いものが苦手でなければ。そう言って店長がカウンターに置いたのはバニラアイスだ。店長のご友人が手作りしているもので、僕も時々まかないで戴いたりする。優しい甘さに濃厚な味わいとなめらかな舌触りには、誰もが舌鼓を打つこと間違いなしなのだ。
     お客様はふむとひとつ頷いて、スプーンですくったバニラアイスを口へ運ぶ。
     ーーぱっと、お客様の周りに色とりどりの花が散った。
     ように見えた。そんな幻覚が見えるくらい、アイスを食べたお客様の雰囲気がやわらかなものに変わったのを感じた。
    「これは美味いな」
     笑ってはいなかったが、鋭くつり上がった目が心なしか開いてより大きく見える。店長が「そうでしょう」と自慢げに言い、続けて「こうするとまた違った美味しさになります」と、お客様が飲み残したコーヒーとバニラアイスの皿をそれぞれ指差した。お客様は言われるがままにコーヒーを皿に注ぎ、コーヒーに浸ったバニラアイスをまた口に含む。
     お客様は「なるほど」と言っただけだったが、アイスを掬う手を止めることはなく、そのうち皿は注がれたコーヒーも含めて空になった。
    「よいものを食わせてもらった」
     礼を言うぞ。とお客様は本当にどこかの王様のような口調で代金を手渡してくる。僕はそれを慌てて受け取って、金額を確かめて更に慌てた。
    「多いです。お釣りを用意しますから、」
    「お前はチップを知らんのか?」
     既に出口へと歩き出していたお客様が振り返って、小馬鹿にしたように僕を笑った。それはあの時の冷たくいやらしい見下すような笑みでは無く、同列の人間に対してのそれだったように思う。
     出て行ってしまったお客様を追いかけてドアを開けてみても、既にそこに姿は無く、店の前でお金を握りしめたままぼんやりと立ち竦む僕に、店長が入り口から「これ」と軽く注意する。
    「見惚れてないで、仕事しなさい」
    「み、みとれてなんかいません」
     そう言った僕の声はふにゃふにゃ震えていて全く反論になっておらず、店長の笑いを誘った。

     それから幾日か過ぎた。例のお客様が初めて来店してから4週間くらいだろうか。
     お客様が渋い苦い薄い濃いなどと毎回的確にアドバイスをくれるので、僕の腕はどんどん上達していった。僕が淹れたコーヒーを飲んだ店長は「店を任せられるぞ!」と喜んでいて、僕も喜んだけれど、あのお客様にだけは相変わらず最後まで飲まれたことはない。飲み残されたコーヒーはミルクを注ぐかアイスに注がれるか、それだけの違いだ。
     今日もお客様がタブレット型端末を熱心に覗く傍で、僕の淹れたコーヒーがミルクで濁る。僕はそれを見ながら気付かれないようにそっとため息を吐くのだった。
     突然、お客様が立ち上がった。
     険しい表情でタブレットを見つめていたかと思うとジャケットのポケットから携帯端末を取り出して、どこかに電話をかけながら足早に店の外に出る。急ぎの仕事かな、とカウンターに置きっ放しになっているタブレットをこっそり覗き込むと、そこには外国語のニュース記事が表示されていた。遺跡のようなものが崩れた写真が載っている。なんの記事だろうときちんと読もうとする前に、入り口から「そこを動くな!」と大声が店内に響いた。僕が怒鳴られたのかと思わず身を竦めたが、お客様は電話口の向こうの相手に言っているらしく、「すぐに向かう」だの「何もするな」だのと叱るように念押ししていた。タブレットを鞄に詰め込みながら代金をきっちり払って駆け足で出ていってしまった。
     店内は嵐が去ったかのように静まり、倒されて中身がこぼれたコーヒーカップだけがカウンターにポツンと残された。

     それからしばらく、あのお客様が店にやってくることはなかった。
     あの慌て様だから、抜け出せない仕事が出来たのだろう。電話の口ぶりからして、ミスをした部下の後始末とか。なにやら外国語の文章を読んでいたから、実は海外での仕事が多いとか。
     気がつくとあのお客様のことばかり考えてしまって、時々仕事にミスが出るようになった。店長にも奥さんにも笑って茶化されたが、常連さんがひとり減ったくらいでいちいち気にしていてはいけない。気を引き締めなければ。

     いつものように朝の掃除をしていると、店長が「ちょっと見てみろ」と新聞を僕に差し出した。新聞の一面にはデカデカと「未確認巨大生物」と表記され、ある国の政府が軍を派遣しただとか物騒なことが書かれている。小さな島から海を移動しているこの巨大生物は、このままの進路で行けばこちらの大陸へと上陸するらしい。
    「ええ〜、これ本当ですか?」
     まるで映画だ。あまりにも非現実的で、手に取っている新聞が映画の小道具のように感じる。
     半信半疑で記事を読む僕に反して、真面目な顔で「これが本当なら、うちの国も危ないな」と店長は言う。
     確か、軍を派遣した国はこの国の同盟国だ。記事に書かれている巨大生物の足止めが失敗すれば、次はこの小さな国から軍を派遣せざるを得ない。そうなるとこの国で徴兵が始まるかもしれない……。
     そこまで考えて気付いた。この記事の端に、あの時お客様のタブレットに表示されていたものと同じ遺跡の写真が載っている。よく読むとそれは小さな島にある遺跡で、ここが破壊されたことで巨大生物が蘇ったと島の住民は騒いでいるらしい。あのお客様は軍事関係者だったんだろうか。
     カラン、とベルが鳴って店のドアが開いた。まだ開店には早い時間だったので「すみません」と反射的に断りの文句を言おうと顔を上げた。
     そこには、あのお客様が立っていた。
     黒のハイネックにグレーのジャケット。最初の頃と全く変わらない出で立ちに、時が巻き戻ったのかと勘違いしそうだ。
    「あいにくと、今日は客ではない」
     僕や店長が何か言う前に、お客様が声を発した。それは今まで聞いた彼の声の中で一番凛と澄んだ声だった。僕も、おそらくは店長も無意識に口を閉じる。口を挟ませない、けれど不快ではない威圧感が今の彼にはあった。
    「お前達には世話になったからな。一言だけ助言をしておこう」
     もったいぶった言い方をすると、僕の手にある新聞に目をやり、指差した。「それはもう読んだか?」彼の問いに僕が頷くと、彼は「なら話が早い」と一歩僕らに近づいた。
    「今すぐ軍が所有している地下シェルターに避難しろ。猶予はないぞ」
    「ど、どういうことですか?」先に口を開いたのは店長だった。僕も同じように説明を求めようとしたが、彼は黒い瞳でこちらをちらりと見ただけで、既に出口へ向かっていた。
    「待ってください!」
     咄嗟に駆け出した僕は彼を追って店の外に出る。

     どおん、と大きな音と共に地面が揺れた。
     凄まじい爆風が僕の体を塵屑のように吹き飛ばした。アスファルトの床に叩きつけられ、その激痛に声を出すまでもなく意識が数秒飛ぶ。
     全身の痛みに耐えながら、状況を把握しようとなんとか目を開ける。大丈夫、息苦しいが目は見えている。土埃が舞っていて視界はあまり良くないが、すぐ先に彼が立っているのがぼんやりと見えた。
     そして、彼の向こう側に見えたものに、僕の呼吸は一瞬止まった。
     それは人間の頭蓋骨のようだった。渦巻く雲の切れ間から覗く巨大な顔には、骨が剥き出した顎から長さも位置も不揃いな牙が不恰好に並んでいる。開いた口の奥は毒々しい肉色をしていて、ゆっくりとした深い呼吸音が不気味に反響している。空洞になっているはずの眼孔が、しっかりと一点を見つめている。
     視線の先にいるのは、彼だ。
     彼は地にしっかりと足をつけ、あの巨大な何かを睨みつけるかのように堂々と立っていた。
    「生きているな、人間よ」
     こちらを見ないまま彼が言う。返事をしたかったが、僕の口からは水っぽい咳しか出てこなかった。体を起こすことも出来ず、彼の足元を見ているのが一番楽な体勢だった。そこで僕は初めて、黒いスラックスの下が白い靴ではなく、足首を覆うブーツなのだと気づいた。
     彼は肩に下げていた鞄を僕の方へ放り投げ、着ていたジャケットも脱いで寄越す。下に着ていたらしい道着のような服に、どこからか取り出した赤い帯を絞めれば、彼は戦士のような姿となった。
     その間にも巨大な何かは、骸骨のような頭部を支える長い首をずるずるとこちらに伸ばしてきていた。分厚い雲に隠れていた長い首には鉤爪がついた細い腕が見える。僕の頭にはぼんやりと、何処かで見た龍の絵が浮かんでいた。神々しく光る鱗に覆われた長い体をくねらせて、雲の切れ間を悠々と泳ぐ伝説上の生き物。あんな禍々しいものがそれだというのだろうか。
    「生きたくば、そこから動くな」
     彼はそう言って一歩踏み出し、地面をざり、と強く踏みしめる。
     ドン、と彼を中心に地面が揺れた。その拍子にぶわりと舞った土埃を避けようとして目を閉じる。すぐにでも目を開けたかったがそれは叶わなかった。瞼の向こうで光り輝く何かによって、僕の視界は一瞬白く奪われたからだ。
     それは神々しいとも禍々しいとも言える、不思議な光を放っていた。薄紅色と漆黒が混じり合うオーラを纏った彼の黒髪は薄紅色に染め上がり、激しく逆立ち、揺らめいている。
     ーーその時、僕を構成する何もかもが時を止めていたに違いない。それ程までに彼の美しさに衝撃を受けていた。釘付けになった視線が動かない。
     怪しく揺らめくオーラを身に纏ったまま、彼は大きく飛び上がり、巨大生物へと向かって行った。薄紅色の弾丸が巨体を下から叩き、雲の向こうへと弾き飛ばす。彼の攻撃が当たるたびに巨大生物は悲鳴を上げ、空気が振動し、風が吹く。それを何度か繰り返すと、巨大生物は僕がいる場所からは見えなくなった。遠ざけてくれたのかもしれない。僕は彼が置いていった鞄や衣服を強く抱きしめていた。
     どうか、無事で。
     わけもわからず、ただそれだけを祈るばかりで、僕の意識はふつりと途絶えた。



     何度かの攻撃でようやく海まで押し戻すことができた。巨体すぎて押し戻す一撃にさえ全身全霊の力を込めなければならず、ブラックはここまで来るのにかなりの体力を消耗していた。息も少し上がっている。
     しかし巨体にも弱点が必ずある。そこを集中的に狙えばすぐに片がつくだろう。
     一旦、身に纏う気を鎮めたところで、後方に見知った気配を感じた。
    「悠々と高みの見物か」
     振り向きもせずに話しかけると、両手を後頭部で組んでのんびりと近付いてきたベジットは「いや〜?」と軽い口調で否定する。
    「オレの出る幕でもないかなって」
    「ほざけ。職務を全うしろ」
    「お堅いんだよな、言い方が。もっと可愛く言えない?」
    「死に去らせ、人間」
    「可愛くないなぁ」
    「だいたい貴様が先走って遺跡を壊さなければもっと簡単に、」
    「ちょっと待った! お小言は後で聞くからさ!」
     ベジットはひらりと宙を舞い、舞台に躍り出るかのようにブラックの隣に並んだ。
     気の高まりと共にベジットの黒髪が鮮やかな青色へと変わる。神々しい輝きを放つオーラはいつ見ても美しい。ブラックの口からそれを言ったことは一度も無いが。
     ベジットの横顔が不敵な笑みを浮かべる。
    「また飛びあがられちゃ面倒だ。さっさと終わらせて飯食いに行こうぜ」
    「……そうしよう」
     拳を握り、攻撃に備えて構えをとる。
     目下に、海中でのたうつ巨大な怪蛇の影が見えていた。



     目を覚ますと、そこは見慣れた店内の天井だった。
     体の痛みは不思議となく、易々と体を起こすこともできる。あの騒動は夢か幻かと勘ぐったものの、割れたガラスや陶器がそのままになっている荒れた店内を見れば、少なくともあの巨大な化け物は現実だったのだろうと思えた。服の上から体を触ってみてもなんともないが、服自体は血液と土埃で汚れていた。
    「よう。お目覚めか?」
     座り込む僕の頭上から声がした。顔を上げるとそこには青い道着を着た見知らぬ男が立っていて、僕を逆さまに見下ろしていた。逆立てた黒髪に、目立つ大きな耳飾り。垂れた二房の前髪がつり目を少しばかり隠している。
    「この店の店長も奥さんも無事だぜ。仙豆食わせてやったからな」
     はぁ、そうなんですか。まだ頭がぼんやりしていて、間抜けな声が出た。センズってなんだろう、薬だろうか?
    「よかったな、お前。カミサマに好かれてよ」
     カミサマ?
    「余計なことを言うな」
     今度は知った声がしてギョッとした。見るとカウンターの椅子に腕を組んで腰掛けた彼がいる。黒髪で、道着姿で、ちょっと汚れているが大きな怪我はしていないようだ。
    「無事だったんですね。心配しましたよ」
     安心して声をかけると、今度は彼のほうが目を見開いた。そしてなにやら居心地が悪そうな顔をして、トントンと指先でカウンターを軽く叩いた。
    「戯言を言う暇があるなら、コーヒーを淹れろ」
     僕は「は、はい、ただいま」と慌てて立ち上がった。

     コーヒーを淹れる前に、僕は店長と奥さんが寝かされていると聞いた二階の休憩室へと足を運んだ。ソファにそれぞれ寝かされたふたりは、衣服の汚れはあったものの呼吸は規則正しいし顔色も良い。あの男が言ったことは本当だったようだ。ふたりの安らかな寝顔に安心して、毛布をしっかりと掛け直してあげた。
     1階へ降りるとすぐに青い道着の男が「なんか食えるものあるか?」と言ってきたので、冷蔵庫の中身を確かめる。朝に仕込んだサンドイッチの材料が生きていると伝えると、嬉しそうに「パンは焼いてくれ!」と注文を付けてきた。うちのサンドイッチは最初から焼いてあるんですよ、と笑って答えた。
     カウンター内はガラス製品が多くて一番被害が酷かっただろうに、何故か綺麗だった。片付けてくれたんだろうか、と彼をちらりと見たが、彼の様子からは読み取れなかった。
     無傷なサイフォンがふたつ残っていてくれていたので、まずはふたり分のコーヒーを淹れる。
     死にかけたとは思えないほど落ち着いているのは何故なんだろう。荒れた店内を見渡せば確かに残念な気持ちになるのに、サイフォンの前に立つといつも通りの工程を自然と行うことができる。そうして出来上がったいつも通りのコーヒーをふたりの前へ差し出した。
     彼と男がコーヒーを飲む様子を見ていたかったが、僕にはまだ仕事がある。トースターで焼いたパンに野菜とチキンと特製のチーズソースをかけて挟む。包丁でザクッとパンを切る音に、男のほうが顔を上げたのがわかった。素早くお皿に盛り付けて、二枚の皿をカウンターに置く。
     青い道着の男は一口食べて「うまい!」と言ったきり、ハムスターのように口いっぱいに頬張っては噛みしめるように黙々と食べていた。目がずっとキラキラと輝いているので、ただ焼いて挟んだだけの僕でもなんだかにこにこしてしまう。
     一方、彼のほうは最初から静かだ。けど思ったより大口でかぶりついていたのでいつものスマートな振る舞いとのギャップに僕が驚いて凝視してしまった。僕の視線に気づいた彼が少し恥ずかしそうに下を向いたので、僕はうっかり「かわいいんだなぁ」と思ったことをそのまま口に出していた。それを聞いた彼が飲み込もうとしたサンドイッチを「うっ」と喉に詰まらせ、彼の肩に腕を回しながら男が「そ〜〜なの! オレのカミサマ可愛いでしょ?」と何故か自慢げになっていた。詰まったサンドイッチがなかなか喉を通っていかないから、彼は無言で顔を真っ赤にして男の脚を何度か蹴飛ばしていた(サンドイッチを両手で持っているから手が使えないんだろう)。僕は水差しからグラスに水を注ぎながら、すごく鈍い音がしているけど痛くないんだろうか…と思っていた。

     僕が自分の分のコーヒーを淹れ、ふたりに食後の2杯目を淹れましょうかと声をかけようとしたとき、青い道着の男がスッと席を立った。
    「そろそろ帰んなきゃな」
     その一言があまりにも静かで、僕はひやりとした。
    「そうだな」と続けて席を立つ彼に、僕は慌てて「また来てくださいますよね?」と問うた。
    「店長も奥さんも元気ですから、お店はきっとすぐに営業を始めます。そのときは、」
     そこまで言って、僕は続きの言葉を飲み込んだ。
     彼が笑っていたからだ。最初に見た恐ろしい笑顔でも、にたにたといやらしい笑顔でも、小馬鹿にした笑顔でもない。寂しさを感じさせる、うっすらと浮かべるだけの笑みだった。
    「私はもうここには来ない」
     彼はそう言って、こちらに向けた手の甲で僕の額に触れた。冷たい指輪の感触が伝わってくる。僕は動けないまま彼の言葉を待つ。
    「私達はあの化け物を追って、こことは別の世界からやってきた。
     私も彼もあの化け物もこの世界では異端。いつまでもここにはいられない。
     役目が終わった今、長居は無用だ」
     キン、と頭の奥で何かが響いた。耳鳴りのようにそれは重なっていく。不思議と不快ではない音色に、ふわふわと意識が沈んでいく。全ての音が遠ざかる。
    「ありがとな、カミサマに優しくしてくれて。
     人間嫌いのあいつが人間を助けるなんて、今まで無かったんだぜ。
     お前、けっこう気に入られてたんだなぁ」
     青い道着の男の声だった。嬉しそうな声色の中に、少しだけの嫉妬心を感じて、僕は笑う。
     こちらこそ、ありがとうございます。残念ながら、僕は完全に片想いでしたよ。



     騒音で目が覚めた。
     荒れた店の外は消防のサイレンが鳴り響き、人々の声で騒めいでいた。警察や救急隊が慌ただしく駆け回っているのが見える。避難所への誘導をしている町内アナウンスも聞こえる。それらが割れたガラス窓から筒抜けて僕の耳に届いていた。
     カウンター内はガラスが散らばり、サイフォンはひとつも残っていない。あれを買い揃えるには苦労するだろうなぁ、と僕はため息をつく。
     ふと思い立ってなんとなくビームヒーターのスイッチを入れたが、やはり電気は止まっているらしい。
     サイフォンがあってもコーヒーを淹れるのは無理だな、と思ったところで、カウンターにふたつのコーヒーカップが残されていることに気づく。そのどちらもが飲み干されている。
     何故か僕の目から涙が一雫だけこぼれた。



    「いっつも紅茶飲んでるカミサマがコーヒーとはなぁ。オレも久しぶりに飲んだぜ」
    「私は初めて飲んだ」
    「なぁ、なんであいつがお気に入りだったんだ?」
    「お前と似てて可愛かったんだ」
    「嘘付け。ひょろひょろだし全然似てねぇぞ」
    「? そうか……?」
    「おっとマジな顔だこれは」






    ◆◆◆

     ゼロ計画が完了した後の世界に来たベジットとふたりぼっちロゼ。の数年後。
     GTで言うところの邪悪龍みたいなのが時空を超えていろんな世界に散らばってしまったので、処理するためにいろんな世界を回るジトロゼとかいうふんわりしたファンタジー。ザマ様はお留守番してる。
     アルバイトの若者は見た目細身のシャロットで中身キャベくんみたいな感じです。サイヤ人ではないしベジットにも言うほど似てないけど、人間の区別あんまりついてなさそうな神様には似てるように見えたかも。
     紅茶派のブラックにコーヒー飲ませてみたかったのと、ジトロゼの共戦が書きたかっただけ。私はね、タピオン君の映画で巨大怪獣(ヒルデガーン)と戦う戦士達の姿が一等好きなので、ジトロゼにやって欲しかったんですよね。
     ブラックさんが電話使ってるシーンは、多分この人テレパシー使えるんだよな〜〜と思いつつも、電話口の向こう(ベジット)にキレてるブラックさんが書きたかったのであえて入れました。
     しかしこのブラックさん人間に慣れすぎて別人だな。
    Mz Link Message Mute
    2019/05/01 9:27:29

    パラレルワールドの旅人たち

    ##ジトロゼ
    モブ視点。ジトロゼ前提のモブ→黒(ロゼ)。現パロのようなファンタジー。BL要素は殆ど無い。ふたりぼっちの後の話。
    2019-02-06

    more...
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