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    よりそうパルス(総一)「毎年恒例! 大流しそうめん大会 in竜宮島」。
     まぶしい日差しできらめく窓硝子に貼り付けられた、いかにも手作りといった風合いのポスターを総士が見かけたのは、7月も終わりの蒸し暑い午後だった。


     夏の盛りに差し掛かった空気はむっとして、草のにおいが濃い。きょうは風が少ない。重なる蝉の声が手伝って、出て来がけに確認した外気温より、体感は数段暑い。
     数分歩いただけで汗がうなじに滲んで、長く伸ばした髪が首筋へまとわりついた。夏場は高い位置で結ったほうがいいかもしれない。つい先日切りそろえたばかりの前髪も汗を含んで、ぺたりと額に貼りついて不快だ。
     空は呆れるほど青い。予報では向こう一週間は晴れだ。人口の光と空気に慣れ切った身体は本物の日光と温度になかなか馴染まず、どこか身体の芯はひんやりとして、じりじりと日光に炙られた皮膚の下で感覚はぼやけている。かんかんに熱されたコンクリートに落ちた影の濃さが両目に痛い。

     ついため息が出そうになるほど快適とは程遠い道のりだが、少し遅めの昼休憩にアルヴィスから喫茶楽園への最短ルートを辿る総士の口元には、自分でも気づいていないような、わずかな笑みが浮かんでいた。
     ずっと幼いころは、こんな季節でも汗だくになりながら毎日のように走り回っていた。人の体力も顧みずに振り回してくれる幼馴染がいたせいで。それが今となっては、こうして汗をかくなんて、いったい何年ぶりだろう。
     もう少し歳を重ねてからは、そんな幼馴染と疎遠になっていたこともあって、真夏の日中に屋外へ出ることはほとんどなかった。学生という身分だったころは総士を見守る周囲の大人の声に、かろうじて途切れ途切れに通学していたものの、それでも学校のない夏休みともなれば、温度湿度が完璧に管理された室内で、一日中モニタをにらみ、キーを叩いていることがほとんどだった。この春から正式に研究員の立場を得てからは、ついつい地下にもぐりっぱなしになる生活に、ますます拍車がかかっている。
     それがこうして、わざわざ地上に休憩に出るくせがついたのは、毎日ちょっとでもいいから外に出て日を浴びろ、汗をかけ、と一騎があんまりうるさく言ったせいだ。こんな思考も真矢あたりに知られれば、「一騎くんの『せい』じゃなくて、一騎くんの『おかげ』でしょ」とあきれた視線を向けられるかもしれない。

     遠目に喫茶楽園の看板が見えた。ほんの数分の距離のはずが、長い長い苦難の末にやっとたどり着いたような気になって、軽くため息をつく。大した道のりでもないのに、運動不足がたたったのか、鼓動が早まって軽く息が上がっている。とにかく今は冷房の効いた店内で、一騎の淹れる冷えたコーヒーが飲みたい。
     表に出された黒板に「本日ランチ売り切れ」の貼り紙がまだ見えないところを見ると、今日はなんとか名物カレーにありつけるようだ。一騎カレーは喫茶楽園でもとりわけ人気メニューで、つい時間を忘れて研究に没頭しがちな総士にとって、不運な日には出会えないこともある味だった。他のメニューもじゅうぶん好みの味だが、やはり目当てのカレーが残っていると思うと、ぐったりと歩きながら炎天下の下やってきた甲斐があったというものだ。
     思わずほほえんだとき、近づいてくる足音とともに後ろから右肩を遠慮がちに叩かれ、「総士先輩」と声がかかった。
     暉だった。見慣れたエプロン姿のままで、片手には大きくふくらんでずっしりと重そうなビニール袋を提げている。ここから距離のある商店まで行ってきたのか、額に大粒の汗が浮いて、いかにもうんざりした表情だ。
    「買い出しか」
    「はい、牛乳なくなっちゃって。買ってきますって言ったらこの暑いのについでにあれもこれもって重いもんばっかり……一騎先輩、けっこう人づかい荒いんですよね」
     暉はなんでもないことのように口にして、ぐちぐちとため息をついているが、「人づかいの荒い一騎」なんて、カノンあたりが聞けばぎょっとしそうだ。
     早くに母を亡くしたせいか幼いころから自立心が強い傾向はあったが、総士との幼少期の一件があってから、少しずつ対話を重ねてお互いへの信頼を培った今でも、一騎が他人になにかを求めることはめったにない。
     自分でできることはいつのまにかひとりで勝手にやっているし、助けを申し出られても素直に受けることはほとんどない。なまじだいたいのことはひとりでこなせてしまうので、人に頼る、協力するという状況に慣れていないのもあるだろうが、頑なと言ってもいいほど誰かの手を固辞するところを見るに、一騎なりの信念のようなものがあるのかもしれない。
     だとしても、総士は一騎のその自立心をすこし心配していた。いや、自立心などというものではなく、誰も自らの人生に立ち入らせたくないのだと、そう訴えてさえいるように感じていた。
     一方で他人に対する厳しさというものはこれっぽっちも持たず、自分が手を貸すことには全くためらいがない。最近見せるようになった穏やかなほほえみも、誰かの甘えや至らなさや、気安い悪ふざけを許すときばかりに見ている気がする。
     そんな一騎が、なぜかここ最近、暉にだけは若干きびしい態度をとることが多くなった。
     喫茶楽園のマスターとしての自覚がやっと芽生えアルバイトの指導をしているつもりなのか、それともわけあって暉から向けられるライバル心を鈍い一騎なりに察しているのか、総士にはわからない。どんな理由にせよ、一騎の、ひとを関わらせない頑なな心がゆるみはじめているのならば、それは喜ばしいことだと思う。
    「先輩は今から昼ですか? お疲れさまです」
    「ああ、お前も」
     自然に右隣へ並んだ暉と連れ立って、喫茶店への数十メートルを歩いた。同行者がいる道行は、ひとりでのそれよりも数段早く感じる。
     ガラス張りの外観はてっぺんから照りつける太陽を強く反射して、両目に少し痛い。瞳の色素が薄いからか、昔から強い光に弱かった。こらえつつ店内をそっと伺えば、昼時を少し過ぎているためか、めずらしく客の姿はほとんどない。これならゆっくりできそうだ。
     戻りましたー、と間延びした声をあげながら暉がドアを開ける。ひんやりとした空気が流れ出て心地よい。
     屋外と店内の明度の差に目がくらむのをこらえて、暉に続こうとドアに手をかけた総士の目に、見慣れないポスターが飛び込んできた。
    「……流し素麺?」



     冷房の効いた店内にほっと息をつくと、暉からビニール袋を受け取った真矢のやわらかい声が心地よく出迎えてくれた。
    「皆城くん、いらっしゃい。お好きな席へどうぞ。いつものカレーでいい?」
    「ああ、頼む」
     ほとんど指定席と化した奥のカウンターに腰かけ、厨房に目を向けると、手元から一瞬顔を上げた一騎が「いらっしゃい」と笑った。
     ざくざくと一定のリズムで食材を切る音が小気味よい。どうやらランチの混雑を終えて、夜の仕込みに入っているらしい。切っても切っても減らないように見える大量の葉物野菜を慣れた手つきでさばく一騎に、Tシャツの襟元を仰ぎながらつい見入ってしまう。
     いつものことながら、と感心した目を向ける総士に、しかし普段ならなにかと話しかけてくるはずの一騎が、今日は妙に無口だった。
     身体に染みついているのか手つきこそ危なげなくしっかりしているが、なんとなく心ここにあらずといった感じで、手元に落としたままの視線はぼんやりとしている。
     あまりマイナスの感情を表に出さない一騎だが、今日は機嫌でも悪いんだろうか。
     声をかけようとしたとき、暉がカレーセットをトレイに載せて運んできた。いつもの、マスターの立場も忘れたようなあからさまに甘い態度で総士に構いまくる一騎をしょっちゅう見ているだけに、暉も暉で不思議そうな顔をしている。
    「どうぞ」
    「ありがとう」
     とはいえ、暉はそれ以上気にすることもなく、そのまま自分のグラスを持って右隣のカウンター席へ腰を下ろした。使いっぱしり後の休憩のようだ。
     ほとんど毎日、放課後をアルバイトとして一騎とともに過ごしている暉にとっては、さしてめずらしいことでもないのかもしれない。「髪、長いとやっぱり暑そうですね」なんて手持ち無沙汰にグラスを弄んでいる。ならば、総士が声をかけるだけ無駄だろうか。たまには一騎も放っておいてほしいときくらいあるだろう。
     真矢が買い出したストックを手にしばらく裏へ引っ込んでしまったにも関わらずのんびりとメロンソーダを飲んでいる暉に、店員としていいのかそれで、とも呆れたが、顔見知りしかいない島ではどこでも見るようなゆるい接客だ。むしろ暉としては、真矢が裏へ引っ込んでしまったから、話したい相手もなく、なんとなく総士の隣へ座ったというところだろう。一騎もちらっと暉へ視線をやっただけで、何も言わずに黙り込んでいる。
     カレーを味わいながら雑談に付き合っていると、明るく白んだガラスが目に入って、先ほどのまぶしさと、見慣れないポスターのことを思い出した。
     手作り感満載のポスターに記された開催場所はなんと竜宮島全域、日時は8月も下旬の、ちょうど学生の夏休みが終わる頃だった。用紙の隅に捺印された受付印を見るかぎり高校の生徒会で作成したポスターらしいが、ここのドアに貼ってあったということは喫茶楽園も協賛しているイベントで、ということは、ほとんど島を挙げてのイベントだということだろう。
    「表の貼り紙は何なんだ?」
    「何って……流し素麺です。竹とか組んで、水と素麺流す」
    「それは分かる」
    「ほら、この島って坂が多いじゃないですか。そういう坂道で、長く竹を組んで、流し素麺やるんですよ」
     今となってはおぼろげな記憶だが、うんと小さいころ、同年代の子を持つ家庭で集まって、敷地だけは無駄に広い皆城の家で流し素麺をやった覚えがある。だから、なんとなくのイメージだけは総士にもあった。そのころにはすでにいつも隣にいた一騎とともに、らしくもなくよくはしゃいだことを覚えている。
     ましてや、この竜宮島は戦い以外の人の日常の営みを、文化を保存するための島だ。島民が楽しめる行事は少しでも多いほうが良い。総士の心にひっかかったのは、むしろなんでもないことのように付け加えられた、煽り文句のほうだった。
    「知らない間に『毎年恒例』が増えていくな」
     自らが選んだ道とはいえ、二年ものあいだこの島を離れざるをえなかった総士にとって、変わってゆく営みを目にすることは、なによりも大切な家族が命を賭して守った島が今もたしかに受け継がれている歓びを伴った実感であるとともに、ほんの少し、取り残される寂しさを感じるものでもあった。
     同時に、きっとこの先を、そう長くは見つめていられないという確信もあった。
    「遠見先輩も一騎先輩も、たしか今年が初めてですよね、流し素麺」
     片付けを終えて裏から戻ってきた真矢に、暉がほんの少しうわずった、浮き足立った声で尋ねる。真矢は一瞬きょとんとして、すぐに理解したのか、「うん」とほほえむと厨房に入ってシンクの食器に手をつけた。
    「そうなのか」
    「このイベント、三年前にはじまったんだけどね。広登くんたちが、お祭りのあとも夏のイベントをやりたいってアーカイブから見つけてきて。でもあたしたち、ちょっと余裕なくて」
    「俺も。第一回は、まだ寝てたから」
     それまでずっと総士と暉の会話を黙って聞きながらキャベツを大量に千切りしていた一騎も、切り終わったそれを冷蔵庫に仕舞いながら、ぽつんとつぶやいた。
     なにも知らない人間が聞けば、まるで寝坊でもしたかのような口ぶりだ。
     深刻な同化現象によって自らが昏睡状態にあった時期のことを「寝てた」と表現する一騎に眉をよせ、思わず隣の真矢をちらりと見た。
    「カノンくらいかな、最初から最後まで参加できたの。みんなのまとめ役を買って出てくれて」
     真矢は困ったような顔でほんのり笑って、かすかに首を振り、いつもの甘くやさしい目で一騎を見つめている。
    「一昨年も一昨年で、それどころじゃなかったですしね」
     一昨年の8月下旬といえば、ボレアリオスミールとの一件で、たしかにそれどころではなかっただろう。
     去年はまだ島中あちこちで復旧工事が終わってなかったし…。はじめる時期が早すぎたんだよな広登のやつ、とぶつぶつ顔をしかめてはいるが、そんな暉も、里奈や芹も、さんざん隣で騒ぎつつ、広登のアイデアにしっかりと手を貸したに違いない。
     戦いの疲弊に立ち向かい、エンターテイメントを決して諦めない広登の明るさを、あたたかく、ときには少し呆れつつ見守りこそすれ、疎ましく思う人間はいない。
    「開催実績たった一回で『毎年恒例』か」
    「いいじゃない、これから『毎年恒例』にしていけば」
     食器についた真っ白な泡を流しながら真矢がほほえむ。あどけない、心が安らぐような声がそう言うと、本当に必ず『毎年恒例』にできるのだと、根拠はなくても穏やかな気持ちでそう思える。はるか遠くの約束されていない未来さえ、安心して信じていいのだと、そうできる力が自分たちにあるのだと、勇気づけてくれる強さが、やさしさが真矢の言葉にはある。
     どんな不安の中にあっても日常を大切に思う気持ちを思いださせてくれる、総士にとっても暉にとっても、そしてきっと一騎にとっても、なくてはならないひとだ。
     本物の太陽のまぶしさがなぜかまぶたに蘇って、総士はほんの一瞬目を閉じた。
    「一騎くんも皆城くんも、サボらないでちゃんと参加してよぉ。貴重な戦力なんだから」
     しんみりした空気を吹き飛ばすように明るく言って、真矢は泡だらけの両手を洗い流した。



    「こう快適だと、仕事に戻るのが億劫で仕方がないな」
     そろそろ地下へ戻らなければならないが、外気温のことを思うとなかなか外へ出る気にならない。暉に会計をすませてもらいあとは一歩を踏み出すだけだが、どうにも足が重く、ため息が出る。
    「忙しいんですか?」
    「取り立てて忙しいわけではないが、少し配置の異動があってな。午後いっぱいは荷運びと荷解きだ」
    「それって……ひとりで大丈夫なんですか」
     なんでもないような声色だが、総士を見上げる目には、それとはわからないように慎重に隠した心配の色が見える。
     島内では周知の事実であった総士の左目の障害に、暉が他の後輩よりもほんの少し深く心を寄せてくれていたことは、訓練でのクロッシングを通じて知っていた。
     いっとき失声症を患い、周囲があたりまえにできることをこなせない苛立ち、親しい人に置いていかれるような孤独感を味わったことのある暉だからこそ、障害の種類は違えど、自らと同じく人に理解されない不自由さを持つ総士に、ある種の親近感や共感があったのだろう。誰もが総士に気を遣ってはくれていたが、とりわけ暉は昔から必ず総士の右側に立ち、右側から声をかけるようにしてくれた。
     かつての総士は左目に障害こそあれ、知的能力も身体能力も、それ以外の部分はむしろ人より優れてさえいた。行き過ぎた気遣いは不快に感じることもあった。しかし、物心ついた頃から顔見知りの人間ばかりとはいえ、死角に入られるとどうしても身体は強張ったし、ほんの少し、誰かの手を借りないとどうにもならないこともあった。暉はそんな微妙なラインを見極めるのがうまい、数少ない人物だった。
     一度失い、作り直したこの左目はもう視力が回復しているのだと、どのタイミングで打ち明けるべきか頭を悩ませつつも、いまだにこうして心地よい気遣いをかけてくれる後輩が、かわいくないわけがない。
    「めんどうなだけで大したことじゃないさ。それとも手伝いに来てくれるか?」
     からかうように言ったとき、一騎がぴしゃっと暉を呼んだ。
    「暉、早く戻れ。仕事中だろ」
    「はーい」
     叱られた暉は肩をすくめて軽く返事をしている。
     本人はさして萎縮した風もなくけろっとしているが、総士でもちょっと聞いたことがないくらい、冷たい声だった。言われた暉よりも総士の方が胸がドキッとして、みょうな冷や汗をかいている。
     普段なら総士の給仕や会計は絶対に誰にも譲らないとばかりに一騎がひっついてまわるが、それもなく、厨房に入ったっきりでまともに目も合わせないところを見ると、今日は相当に機嫌が悪いらしい。
     すまないな、と暉にささやけば、「いいんです、サボってたのおれだし」とめずらしく殊勝な答えが返ってくる。しかしふてくされた表情を見れば、一騎の叱責に反省しているというより、不満をつのらせていることがまるわかりだ。「一騎先輩だって仕事中に総士先輩を構いまくるくせに」と大きく顔に書いてある。
     その子どもっぽい仕草についくすりと笑みがこぼれて、ほどほどにな、と耳打ちをすると、素直な後輩もぺろりとおどけたように舌を出して笑った。
     なんだかんだ言って、暉のこういう生意気さを、総士も嫌いではない。
     ……一騎の暉への当たりがきつい一因に、そんな後輩をかわいがる総士の態度が関係しているなどということを、今この場で察しているのは、一騎の隣で苦笑する真矢ばかりであった。



     俺の心臓は、たぶん、ちょっとだけ右寄りだ。
     総士の左目の光をこの手で奪い、縮こまるように日々をやり過ごしていた頃も、まともに彼と隣りあって立つことができるようになってからも。
     一騎の居場所はずっと、総士の左側だった。
     総士の半分になった視界に映り込むことが怖かった。もうまともに一騎をとらえることはないと、自分の右手がそうしたのだとわかっていても、その左目に怯えた自らの顔が映ることはおそろしかったが、それ以上に、一騎をたしかにとらえた右目から、総士の心を読みとってしまうことが怖くてたまらなかった。憎しみならまだいい。「なぜまだここにいるのだ」と、そんな目が自分を見つめているかもしれないと、考えるだけで心臓が止まりそうだった。
     総士のことをほんの少しだけ知ってからは、ファフナーに乗れと命じられたときからずっと抱いていた、自分が彼の左目になるのだという思いが強まった。言葉を交わすたびに、それは贖罪のための義務感などではなく、大切な人をただ大切にしたいという感情なのだと学んだ。一騎の、総士を傷つける、悲しませる、怯えさせるものからこの手で守りたいという気持ちに応えるように、総士も一騎に手を伸ばしてくれた。他人が自らの死角に立つといつもさりげなく身体を緊張させ、移動したり向きを変えていた総士が、一騎にだけは、リラックスした様子で、そこに立つことを許してくれた。気づいたときに一騎の身体を通り抜けたのは、帰ってきてくれた総士の左目に残る傷を見つけたときと同じくらいの、とてつもない歓喜だった。
     一騎の居場所は、今までも、これからもずっと総士の左だ。
     だからきっと、いつだって総士を求めて脈打つこの心臓は、ほんの少しでも彼に近づきたくて、人よりも右側に寄っているに違いない。

     表に出した「定休日」の黒板とは裏腹に、喫茶楽園の店内はいつもよりもむしろ騒がしい。月末に控えた流し素麺大会に向けて、午後から試食会が行われているからだ。
     冷めても水分が出ず、さくっと揚がる天ぷらの試作。大人から子どもまで楽しめる、つゆに合う薬味の研究。そして、ばかみたいな量で用意された素麺を食べきるための、オリジナルのつゆの提案。
     高校を卒業して正式に調理師として働いている一騎は、問答無用でつゆ係に割り振られた。いわく、天ぷらはきちんとした温度管理と思い切りさえ持っていればけっこうなんとかなるが、味の決め手となるつゆは素人にはどうにもならない、そうだ。嫌なわけではなかったから、意外と料理はみっちり母に仕込まれている咲良と、食堂の息子である広登とともに、定番以外の味付けをああでもないこうでもないと話し合っている。
     テーブル席では里奈と芹が薬味を刻んでいる。剣司は学校が休みでもアルヴィスのほうを抜けられなかったらしい。真矢は最近基礎教育過程を終え、溝口に付きっきりで航空のことを仕込まれているようで、今日も今ごろ空にいるはずだ。真矢が来ないと知って、なぜか暉はやけに落ち込んでいた。そんな暉は、総士と一緒にコンロで天ぷらを揚げている。
     総士は。
    「総士先輩、眼鏡、気をつけてくださいよ」
     暉の声が耳に入って、ぼんやりと下ろしていた顔を上げた。
     コンロのほうへ目を向ければ、心配そうに右から覗きこむ暉をよそに、総士は真剣な顔で温度計をにらみながらイカを揚げている。
     天ぷらなんて油が跳ねてやけどでもしかねない工程、もちろん総士にさせるつもりはなかったのだが、はじめに回された薬味係を「総士先輩はミリ単位で刻もうとこだわってて手が遅いったらない」と後輩ふたりに追い出されたのだから仕方がない。ひとまず怪我はなく、一騎からすれば不思議に思えるほど温度にこだわるところも、揚げものにはけっこう合っているようだ。
     暉も暉で、一騎にはやたらとつっかかるくせに総士には妙に素直なところがあるので、今のところ一騎が口をはさむまでもなく、ふたりでうまくやっているらしい。
     ……嫌だな。
     寄り添うふたりからむりやり目をそらした。腹の底に焦燥感が溜まって、無性にいらいらする。
     ここ一週間ほど、総士とまともに話していない。自宅や総士の部屋でふたりきりでいる間は平気なのに、ここや外で誰かの気配が混ざると、とたんにモヤモヤして、自分で自分のコントロールができなくなる。総士は忙しい合間を縫って一騎との時間を作ってくれているから、どうしてもふたりきりがいいなんて、困らせるようなことは言いたくない。わけもわからず他人に嫌な感情を覚える自分も嫌だった。酷い気持ちをそのまま総士にぶつけてしまう可能性がおそろしく、ふたりきりになれる夜の時間まで総士を避けるようになった。
     遠見がいてくれたらいいのに、と思う。
     真矢がなにを思って航空の道へ進んだのか、一騎は知らない。一騎がパイロットの任を解かれてから第一種任務を決めていないことを真矢は知っているはずだが、なにも言わない。
     なにか言ってほしいのだろうか。
     自分のことなのに。
     自分のことなのに、一騎にはわからないことだらけだ。
     パイロットだったころには、総士とクロッシングで繋がっていたころにはわかっているつもりだったことも、最近はごちゃごちゃと考えて、わからなくなってしまう。
     この嫌な気分も。
     これからのことも。
     総士のことも。
     総士が卒業後の道に、研究職を選んだことも。
    「ちょっと一騎、それ混ぜすぎ」
     はっとして手元を見れば、泡立て器で合わせていた調味料が、混ぜられすぎてボウルの中で分離している。
    「あ……悪い、ぼーっとしてた」
    「あんたがぼーっとしてるのはいつもでしょ。しっかりしてよね」
    「要先輩、まあまあ」
     呆れた咲良に肩をばしっと叩かれた。痛くはない。一騎には実感がないが、昏睡状態から回復した咲良は、以前と比べるとずいぶん力が弱くなったらしい。
     しかしどれだけ身体が弱っても、自発的なまばたきすらできなかった咲良が今こうして料理に勤しめるのは、ミョルニアからもたらされた情報によって同化現象に関する研究が飛躍的に進んだおかげだ。
     総士が今の研究職を選んだ理由のひとつに、パイロットの同化現象の進行を抑制したいという強い思いがあることを、一騎は知っている。そして総士が自らの研究によって助けたいと祈る、その最もたる対象が自分なのだということも、自惚れではなく事実として受け止めていた。
     わかっているのだ。
     総士は一騎のために研究職を選んだ。
     もちろん、すべてが一騎のためではない。まさかそこまでは自惚れられない。フェストゥムの世界から帰ってきた総士の身体のこと。かつての彼の妹のこと。そして新しく生まれてきたコアのこと。一騎の他にも理由はいくらでもある。
     だけど、総士の選択には、いつだって一騎の影がつきまとっている。視界の半分が奪われてしまったことも。パイロットとしてファフナーに搭乗が叶わなかったことも。一度失った身体を作りなおしてまで、帰ってきてくれたことも。今となっては呪いのようだとさえ思う。
     うれしくないと言えばうそになる。だが同時に、言いようのない、息がつまるような気持ちを覚えているのも事実だ。
     だって、きっと、間に合いはしないのに。
     悲観しているわけではないが、今後これまでのように飛躍的に研究が進む可能性などほとんどないということも、一騎は充分わかっていた。そしてきっと自分の命は、そこまで保たないだろうということも。
     総士を待つこともできずにいなくなる自分が彼の道を狭めて、はたしてよかったのか。総士は頭がいい。アルベリヒドでの研究以外にも、望めばどこへでも配属が叶ったはずだ。
     それに……たとえ一騎のためだとしても、その研究に総士を奪われともに過ごす時間を削られることは、耐えがたい苦痛だった。

    「広登、天ぷら終わった」
    「おう、こっちもだいたい準備できた。それじゃあお楽しみの試食といきましょうか!」
     用意した具材を揚げ終えて、総士と暉は天ぷらを載せたバットを里奈と芹のもとへ運んでいる。揚げたてのおいしそうなにおいにふたりが歓声をあげるのが聞こえた。
     ベーシックなめんつゆに、ごまだれ、中華風、カレー風、トマト風。5種類ほど作ったつゆをガラスの器に分け、簡単に中身をメモしたふせんを貼る。
     人数分の箸やグラスとともにテーブル席へ運べば、氷で冷やされた素麺の周りに、揚げたての天ぷらと薬味がすっかり整えられている。小口切りにしたねぎ、ごま、大葉などの定番とあわせて、錦糸卵、きゅうり、にら、鰹節、半分に切ったプチトマト。色鮮やかなテーブルを見ても、なんとなく食欲がわかない。胃のあたりがぐるぐるして気持ち悪い。
     麦茶のボトルを取りに冷蔵庫へ向かって、ふとみんなを振り返った。カレー風の器に貼られたふせんを興味深そうに熟読する総士に、広登がなにか説明している。眼鏡越しにもわかるくらい、総士がやわらかく目を細めてほほえんだ。
     平和だ。
     みんな楽しそうに笑っている。
     こうしてみんなが笑って過ごせる時間があることを、本当に、心からよかったと思う。そしてそこに、違和感なく総士がいることも。
     たしかにそう思っているのに、笑っているはずの自分の目が、総士の左が空席であることを執拗に確認してしまう。そこが一騎のために整えられていることを認めても、また黒い感情が心を覆っていく。心臓がいやな音で鳴っている気がした。
     ただでさえ、総士の、一騎のためだけの時間は減りつつあるのに。

     戦争がはじまる前、総士はいつもたくさんの人に囲まれていた。
     はっきりと言葉で教えられずとも、皆城の家が島にかなりの貢献をしていることを、誰もが大人たちの態度から読み取っていた。そうでなくともリーダーシップがあり、頭がよく、やさしい総士のことを、みんなが好きだった。親切な同級生が、左目に障害のある総士に気を遣っていたこともあるだろう。
     まともに総士の目も見られなかった一騎は、一体どんな気持ちでそれを見ていたのだったか。もうおぼろげにしか思い出せない。なんとなく、たくさんの人に囲まれて完ぺきな笑顔で笑っていても、総士はいつもひとりぼっちのように見えた。だけど一騎は総士から目をそらし続けてきたから、今となってはやっぱりよくわからない。
     フェストゥムがやってきて、誰ひとりわけがわからなかった同級生たちとは違い、総士は子どもたちを戦場へ送り出し、そのなかの誰かがいなくなろうとも、敵を完全に倒すまでは顔色ひとつ変えずにパイロットたちを死地へ縛りつける人間なのだと、みんなが知った。
     総士が以前のようにたくさんの人に囲まれることはもうなくなった。今度こそ、総士はひとりぼっちだった。だから一騎は総士の隣にいたかったのだ。ただそのことだけに必死で、他のことなど考える余裕はなかった。
     総士が島に帰ってきてくれてしばらくのうちは、パイロットやアルヴィスの中枢で働く人間を除いて、ほとんどが総士にどう接すればいいのか戸惑っていたらしかった。総士自身、どうも意識して地下にばかりこもっていたようだ。それが、いろいろなことが落ち着きはじめてから、なにかと理由をつけ一騎が総士を地上へ連れ出しているうちに、地下から出るくせをつけさせているうちに、また誰かに囲まれている総士を見ることが多くなった。
     戦争がはじまる前と同じように。
     だけど、前とは違う。
     総士は笑っている。
     心の底から誰かを信頼している顔で。あまりにも無防備に心のうちを差し出すような、年相応の顔で。
     そのことが一騎にはとてもうれしく、……同時に、胸がかきむしられるように苦しかった。
     そこに、まだ俺の場所を、空けていてくれるのか。
     単純にさびしいだけならまだよかった。一騎が総士へ抱く思いの強さは、島ではもはや周知の事実だ。ちょっとくらい強引に割り込んだって、みんな笑って受け入れてくれる。総士の隣へ居させてくれる。
     そうではないことを自覚しているから、一騎は自分でもわけのわからない気持ちを抱えて、最近ずっと塞ぎこんでばかりだ。
     総士への贖罪のためだけに、隣にいたのではない。
     総士への贖罪だけが、一騎の存在理由だったわけではない。
     だけど、もう総士の手足となって戦えない一騎が、総士を置いていなくなってしまう一騎が、あたりまえみたいな顔をして、以前のように総士の隣にいてもいいのか。かと言って自分以外の誰かがそこにいる光景を思い描こうとするだけで、胸が真っ黒に塗りつぶされたようになって、めちゃくちゃにわめきちらしたくてたまらなくなる。
     開けっ放しにしていた冷蔵庫が電子音を立てている。はっとしてボトルを取り出し、冷蔵庫を閉めて振り向けば、みんなテーブルについてあとはもう一騎を待つばかりだった。いつまでも突っ立ったままの一騎を総士が不思議そうな顔で呼ぶ。
    「一騎」
     大丈夫だ。
     総士が呼んでいる。
     一騎が総士の隣に立つたくさんの人間のうちのひとりでしかなかったとしても、ほんとうは一騎にその資格がないのだとしても、その左側は、まだ一騎だけのものだ。
     総士はそう思ってくれている。
     だから、まだ大丈夫なんだ。
    「ああ、いま行く」
     うなずいて笑った顔が、引きつっていないかどうか心配になった。



     個人端末に保存している私的な画像データが、たったひとつだけある。
     天真爛漫な満面の笑みで写る妹と、ぎこちなくぶきように笑う幼馴染のツーショット。
     総士の私室に訪れる人物など限られたものだが、というかほとんど一騎くらいで、その一騎は総士の端末を勝手にいじったりはしない。だがどうしても気恥ずかしく、厳重にパスワードまでかけて保存している。見られてはまずいものを隠す子どものようで、余計にきまりが悪い。パスワードがふたりの誕生日をもじったものであることも後ろめたさに拍車をかけた。それでもパスワードもなしにそのままデスクトップにおいておくのは、あまりにも、壊れやすい大切なものを無防備に野ざらしにしているような気がして、制限を解除できないままでいる。
     普段は開くことのないデータだ。デスクトップの隅の、無機質な数字のファイル名と、デフォルトのそっけないアイコンで充分。目の端でとらえると、1日の疲れがやわらぐ気がする。
     そしてときどき、ほんとうにときどき、疲労や不甲斐なさや、つもりつもった澱で座り込んだまま立てなくなりそうなとき、大切なふたりの生まれた日を打ち込んで、データを開く。それだけで、こわばった心がやわらかくほどけていく。
     今日はその、ほんとうにときどきの、ソファに崩れ落ちたまま立てなくなってしまいそうな日だった。ここ数日、あるケースの検証に、寝食をおろそかにするほど打ち込んでいた。なかなか実績が得られない総士の研究分野にはめずらしく、ほとんど奇跡的にと言ってもいいほど、順調に進んでいたケースだった。結果が出てみればなんのことはない、いつも通りの空振りだったが、それを「いつも通り」だと流して次の道に進むには、最近の総士はすこし消耗しすぎていた。
     ひさしぶりに開く画像データは総士の心を慰めてくれたが、ぶきような一騎の笑顔が目に入ると、ここまで調子を崩すに至った原因が浮かんで、ふと気持ちが翳った。
     こんな笑顔の一騎を、もうずいぶん見ていない。
     最近になってすこし様子がおかしい一騎を、注意深く見つめているうちに、避けられているのだということに気がついた。一騎が理由もなくこんなことをするはずがないから、なにかしらの原因が自分にあるのだろう。単に避けられているだけではなく、妙にもの静かで、考え込んでいるようなそぶりも多い。
     一騎は友人だ。血のつながった家族でもない。もう学生ではないし、どんなときでもとなりに立って支えあっていなければ生きていけないわけでもないだろう。……少なくとも、一騎にとっては。ただ、笑って、おだやかに生きてくれるなら。今までよりも一歩引いた距離で、一騎のしあわせをみつめているべきなのかもしれない。
     そう思う理性とは裏腹に、からだは、こころは全身の血が凍ったように痛んだ。
     そんなことは総士の望みではない。
     総士の望みは、一騎のいちばん近くに、となりに立って、そして叶うなら、自らが彼をしあわせにすることだ。
     かつて、いつだってみつめて求めているくせに、孤独と重圧でがんじがらめになってひとり動けなくなっていた総士に、歩みよってくれたのは、一騎のほうだ。一騎が総士のとなりにあることを望んでくれたからこそ、今総士はここにいる。
     だから今度は、今度こそ、総士のほうから一騎へ近づかなくてはならないのだろう。
     理解してはいたが、総士にはすこし重荷だった。なにせ2年もの間、一騎とクロッシングでつながって、直接伝わるそのこころの機微に安寧を得て、甘やかされていたのだ。言葉で会話することが大切だとはわかっていても、一騎がなにを考えているのかまったくわからない今、どうしても怖さがつきまとう。
     そもそも総士は、一騎が島を出て帰ってきてからも意地や不安で言葉が見つからず、なにより伝えたかった安堵もよろこびも、なにひとつ言葉にできなかったような人間だ。
     乙姫が見ていれば、こんな情けない兄をどう思っただろう。
     あの夏のように無邪気な笑顔でにこにこと、すこしだけおもしろそうにふたりを見守って、もしかしたら一言だけ、「素直にならなきゃダメだよ、総士」とでも言ったかもしれない。
     
     そんなことを考えたからか、その夜、夢を見た。
     乙姫の夢だった。
     一度だけ、ふたりで喫茶楽園へ出かけたときの夢だった。
     なるべく食事は乙姫とともに摂るようにしていたが、総士とふたりで地上の店でも食事がしてみたいと、言われたからだった。乙姫は、アルヴィスの食堂とは違って苦手なピーマンやたまねぎがどっさり入った溝口お手製のナポリタンを、それでもいたくよろこんで、おぼつかない手つきでせっせと食べ、ケチャップでぺたぺたする口で、おいしいねとにこにこ笑っていた。
     そんなに気に入ったなら、また来よう。今度は立上や西尾や、友だちも一緒に連れてくるといい。あのとき言いかけた言葉は、どうしても口には出せなかった。戦況はすこしずつ激しくなっていて、乙姫が身体の調子を崩すことも増えていた。「また」が果たしていつになるのか、わからないような日々だった。
     そして乙姫は、総士にできない約束は求めない子だった。
     総士もまた、できない約束を乙姫にしたくはなかった。
     結局、ふたりであの店へ行ったのは、それっきりだ。
     夢でも、総士の向かいに座った乙姫はにこにことして、おいしそうにナポリタンを食べていた。溝口のナポリタンではなく、ウインナーの代わりにベーコンを使い、きれいな半熟の目玉焼きが載った、一騎のナポリタンだった。ケチャップで真っ赤にぺたぺたになった口まわりを拭いてやると、乙姫はくすぐったそうに、楽しそうに声を出して笑った。
    「流し素麺、楽しみだね」
     テーブルにほおづえをついた乙姫が、いたずらっぽく目を細める。
    「一騎たちの作ってくれたおつゆ、すっごくおいしかったね」
     総士は一騎カレーが大好きだから、カレー味のばっかり食べてたでしょう。からかうように総士を覗きこんだ丸い大きな目に、そうだな、と笑いかえす。
     桜色のくちびるから漏れた名前に、つきんと胸が痛んだ。そうだ、あのときも一騎は、ひとりでぼうっとみんなの輪から外れたところへ立って、総士が呼ばなければとなりに立とうとしなかった。
     真矢が居れば、違っただろうか。きっとそうだろう。彼女ならもっとうまく、声をかけられたのだろう。
     総士の痛みが伝わって、乙姫も心臓に忍びこむガラス片のような冷たさにすこしだけ顔をしかめ、さびしそうに、それでもまた笑った。
     座ると床に足が付かず、つまさきをぶらぶらさせていた幼い身体が、すとんと椅子から降りて総士に近づいた。同級生たちよりもずっと細く華奢だった両腕が、乙姫を置いておとなに成長した総士の背中を抱きしめる。
     椅子に腰かけたままの頭が、ちょうど妹の胸に収まる。ちいさなてのひらが、そうっと髪を撫でている。やわらかい頬が総士の頭をこするたび、やさしい、泣きたくなるような、どこかなつかしいにおいだけが胸をくすぐる。まだたしかに覚えている。乙姫のにおいだった。
    「ねえ、総士、こうしてるときもちいいね」
    「ああ」
    「こうやってぎゅってすると、大切な人に、あなたが大切だよって思ってる気持ちが、ちゃんと伝わるような気がして、安心する」
     あかるい夏の朝のような声が、振動になって空気になって肺の奥まで落ちていくようだ。
     ひとつになりそうなほど近いふたつのからだの中で、総士の心臓だけがとくとくと音を立て、ぬくもりを帯びている。
    「わたしの気持ち、伝わってる?」
    「ああ、伝わっている」
    「総士の気持ちも、ちゃんと伝わってるからね」
    「……ああ」
     わかっている。
     乙姫はずっと、総士の感情を、孤独を、不安を、恐怖を、抱きしめていてくれた。受け止めていてくれた。
     本当なら、もっとあたたかいものだけを伝えたかった。楽しかったこと、好きなもの、きれいな場所、そういう感情だけで包んでやりたかった。たったひとりの、大切な妹だった。いつだって心の底からいたわって、なにもかもから守ってやりたかった。
    「総士がわたしにしてくれたみたいに、あったかくてやさしい気持ちを、伝えればいいだけだよ」
     だから、怖がらないでと、温度のない妹がやさしく囁いた。
     夢でまで、最後まで、兄を兄らしくいさせてくれない妹だった。





    「お疲れさま」
    「すまない」
     いたわりとともにカウンターから差し出された水滴の浮いたグラスを受け取って、きんと冷えたアイスコーヒーを喉を鳴らして味わった。ほてった身体に水分がしみこんでいく。深い苦みに、慣れない肉体労働に疲れた身体が弛緩する。真矢自身はまだまだだと言うが、溝口や一騎のものに劣らず、真矢の淹れるコーヒーもなかなかだと総士は思う。
     髪を高い位置で結んでいたせいで、数時間じりじりと太陽に焙られていた首筋がひりひりと痛む気がする。汗で張りついたTシャツをさっさと着替えてしまいたい。まだ気温の上がりきらない午前の早くから始めた作業だったが、昼を迎え、こうして喫茶楽園で昼食兼休憩を挟んでも、まだ半分ほど工程を残している。
     青々と伸びた竹を切り出し、真ん中で割り、竜宮島中を縦断する竹樋を何本も作成する……という、なにもこんな炎天下に行わなくてもと言いたくなるような、いかにもな重労働の日。島の若者がみな駆り出される中、同化現象の影響で数年前よりも身体が弱ったとはいえ、いまだに島内で腕力、体力、身体能力で勝るもののいない一騎は、しかしこんな日に限って定期検査が入っていたようだ。
     既にランチも終わった店内はまばらに客が残るばかりで、カウンターの中では溝口がのんびりとグラスを磨いている。一騎が店に出ない日は、すなわち調理師が不在ということになり、意外と料理の腕がいいオーナーが自ら調理師を務めることになっている。溝口本人はキッチンに入るたびに投げかけられる「溝口カレーじゃなくて一騎カレーを食わせろ」などという常連客のからかいに若干うんざりしているようだが、それでいて案外、溝口カレーの評判も上々だ。
    「お嬢ちゃん、そろそろ休憩入っていいぜ」
    「はーい」
     オーナーの声にエプロンを取った真矢が時計を見て、「一騎くん、そろそろ終わったかな」とつぶやいた。
     朝から喫茶店の仕込みをすませてそのままメディカルルームへ向かう一騎は、ひとり竹樋作りに合流できないことをしきりに気にしながら、「すぐ済ませて帰ってくるから!」と言い残してアルヴィスへと駆けていった。あれでは「メディカルチェックの前に走るな」「熱中症に気をつけろ」と後ろから叫んだ総士の言葉もどうせ聞こえていないだろう。
    「すぐ済ませるって、一騎くん、寝てるだけなのにね」
     おかしそうに笑った真矢がカウンターに回り、カフェオレのグラスを持ちながら左隣に座る。
    「あいつなりに、昏睡状態にあった一年間を取り戻そうとしているんだろう。皆とともに平和を実感できる時間を」
    「皆城くんってば……そうやって他人事みたいに話すの、ダメだよ」
     ほおづえをついた真矢の目がじっとりこちらをにらんだ。
    「一騎くんが取り戻したいのはその一年だけじゃないってこと、一騎くんがいちばん一緒に過ごしたいのがだれか、わかってるくせに」
    「……ああ」
     あきれたようなため息まじりに言い聞かせられて、素直に頷いた。これが2年前なら、故意に客観的な話し方をしたことには触れず、単に一騎の気持ちを汲まないことだけを責められたかもしれない。総士にも素直に頷く余裕などなく、きっとお互いに相手を効率よく傷つける言葉だけを選んでしまって、その奥にたしかにある心には気づけないままだっただろう。
     いまよりもずいぶん幼かった、責めあってばかりだった日のことを思うと、こうして差し出されるあたたかい言葉を素直に受け取れるようになったことが、すぐ左隣にいてくれる距離感が、くすぐったく、たからもののようだった。


    「……一騎は、なにか怒っていなかったか」
    「え?」
     溶けた氷がグラスを鳴らす音だけが響くしずけさに、その沈黙を息苦しく思わないでいられることに背中を押されて、ぽつりと、ずっと胸を塞いでいた言葉を吐き出した。
     いつかの自分なら、こんなふうに、あからさまに彼女に助けを求めることは絶対にできなかっただろう。きっと総士よりもずっとやさしく、一騎の心を癒すことができる真矢には。
    「先月楽園に寄ったとき、ずいぶん不機嫌そうにしていただろう。あれから妙に避けられているようで……なにか一騎を怒らせるようなことをしたかと考えていた」
    「……うーん」
     ぼんやりとグラスの汗をぬぐいながら、真矢はなにかを考えこんでいるようだった。
    「あのね、ここ最近の一騎くん、ずっと暉くんにきびしいの」
     暉くんにだけってわけでもないんだけど。
     どうしてか、わかる?
     答えなどまるで期待していない顔で、総士の焦りも恐怖も見透かしてしまいそうな、透明な瞳がこちらをじっと見つめる。皆城くんにはわからないでしょう、と、あからさまではなく、それでもほんのすこし責めるような瞳だった。
     下手に言いつのるのはやめて、ただ黙って首を振る。
    「皆城くん、前はほら、けっこうみんなから遠巻きにされてたじゃない?」
     突然話が変わったうえに、あまりにストレートな物言いだ。さすがに面食らって抗議しようと口を開きかけ、真剣な真矢の表情に、言葉をぐっとのみ込んだ。冗談を言っている顔ではない。いいから聞いて、と強いまなざしが刺さる。仕方なく、そうか、とだけ呟いた。
     なんとなく察してはいたものの改めてそう言葉にされると、すこしだけ、身体の中のどこかが痛むような気になる。とはいえそもそも、戦闘指揮官としてパイロットたちを自ら遠ざけたのは総士だったし、あえて彼らに距離を置かれるようなふるまいをしていたのも総士自身だ。
    「あっ、やだ、違う違う! べつにそういう意味じゃなくて……あのときの皆城くん、前とは雰囲気違ってちょっと話しかけづらくて。それにあたしたちも、皆城くんが背負ってるもの、なんにもわかってなかったから」
     総士の声色に、真矢があわてて両手を振った。
    「皆城くんが帰ってきてすぐは、ほかにやることも山積みだったし……あと、なにより一騎くんに皆城くんを独占させてあげたかったし」
    「なんだそれは」
     たしかに、総士が以前の皆城総士との連続性を認められある程度の自由を与えられてからも、真矢や剣司たちとは数回会ったきりで、島の人間との接触といえば定期的な身体検査か、ほとんど一騎が総士の地下の部屋へ通いつめてばかりだった。総士自身、しばらくはパイロットたちや島の中枢に関わる人間との接触を避けていたところもある。
     下級生や、メディカルルーム以外に勤務する人とまともに顔を合わせたのも、一騎に連れられて地上へ足を運ぶようになってからだ。
    「それがここ最近、だんだんみんなが皆城くんに構うようになったでしょう。一騎くん、拗ねちゃってるのかも」
     うーん、とうなって、真矢はかすかに首をかしげる。目の端で白く細い指がグラスのふちをそっとなぞっている。
    「拗ねてる、やきもち、……ううん、不安なのかな」
    「不安……?」
     思わずつぶやいた声に戸惑いがにじむ。総士が人と積極的に関わるようになって、それがなぜ一騎の不安につながるのか、一騎がなにを不安に思っているのか、全く見当がつかなかった。総士がとなりにありたいと望むのは、いつだって一騎ただひとりだ。一騎だって、そんな総士の望みに気づいているはずだ。気づいてくれていると、思っていた。
     ただ少なくとも、一騎が総士を疎ましく思い、離れようとしているのではなかったということだけが、ほんの少し波立った心を落ち着かせた。
     考え込む総士を真矢はじっと見つめて、ほんのすこし寂しそうに笑ったようだった。


    「ねえ、一騎くんとちゃんと話してね」
    「ああ」
     ずいぶん水っぽくなったコーヒーを飲みほしたとき、ドアベルが涼やかに鳴った。カウンターに腰かけたまま、真矢とふたりで振り返る。
     一騎だった。ドアに手をかけたまま、ぼんやりと入口に立ちつくしている。ほとんど太陽が真上にある日向から薄暗い店内へ入りかけて目がくらんだのか、それとも、今日は通常の定期検査だったはずだが消耗してしまったのか、すこし疲れた顔をしている。うっすら汗ばんでいるようだ。
     ……以前の一騎ならば、まわりがみんな汗だくになっていてもひとりなんでもないような様子で、汗ひとつかいていなかった。
    「一騎、終わったのか」
    「……総士」
     意識していつものように声をかけても、一騎はまだぼうっとして、総士のほうを見ようともしない。なんとなく、妙な態度だ。左の真矢も怪訝そうにしている。
     どこを見ているのかわからない、どこも見ていないような暗い目に、心臓がいやな音を立てた。今日の検査で相当な負担がかかったのか、それとも、なにか悪い結果が。考えたくないことを思い浮かべかけて、あわてて打ち消す。万が一のことがあったなら、こうして一騎がひとりで帰されることなどないはずだ。
    「どうだった」
    「異常はないって。いつもどおりだよ。悪い、遅くなって」
     その言葉に一瞬胸を撫でおろすが、今の一騎はどう見ても様子がおかしかった。店内に入るそぶりが全くない。うすく汗をかいているのに、よく見れば顔が真っ青だ。貧血でも起こしたのかもしれない。まるでおそろしいものでも見たかのように、自分を傷つけるものから身を守ろうとするかのように、全身がつよく緊張している。
    「一騎?」
    「一騎くん?」
    「……ああ、……いや。……なんでもない」
    「なんでもないわけないだろう、顔が真っ青だ」
     一向に入ってこようとしない一騎に焦れて、そばへ近づく。なかば無理やり手首を掴んで、指が余るその細さと、真夏の屋外を歩いてきたはずがひんやりと感じるほど低い体温に、ぞっと肌が粟立った。
     いつから一騎は、こんなに痩せて。直接その肌に触れることなど、めったになかった。どれだけ検査で出た数字を把握していても、ここまで認識が伴わないものなのか。
     不甲斐なさにくちびるを噛んで、一騎の手首をつよく握りなおした。ここから総士の体温が伝わって、一騎に残された時間につながれば、どんなにいいか。そのこころを慮って癒すことも、自分に唯一できる研究でも、結局、総士は一騎にとってなんの役にも立っていない。
     きつく握られた手首に、一騎が一瞬総士の目を見上げてなにかを言いかけ、そしてすぐに逸らした。
    「俺、外、手伝ってくるよ」
    「馬鹿言うな、今日はもう帰れ。家まで送る。遠見、悪いが皆に遅れると伝えておいてくれ」
    「うん……。一騎くん、無理しないでね」
     心配そうに瞳を揺らした真矢が、ちらりと総士を見た。一度だけうなずく。
     器屋への道中、一騎はかたくなに総士の一歩後をついて歩いて、とうとうとなりに並ぶことはなかった。





     あのとき手首を握った総士の熱ばかり、何度も思い返している。

     流し素麺大会当日は、気持ちのいい快晴だった。からりと晴れて湿度が低く、気温は高いが過ごしやすい。一騎の内心とは裏腹に、明るい日だった。
     昼前からはじまった流し素麺は盛況で、喫茶楽園前のゴール付近に設けられた天ぷらやつゆのコーナーも、たくさんの人で賑わっている。道路にはりめぐらされた竹樋は長く、最初の一束がゴールまでたどり着いたときには、見物客から歓声が上がっていた。
     大人たちは仮設のパイプ椅子に腰掛けながらテントの影で流れてきた素麺をのんびりと味わっていて、元気のありあまった子どもたちは、コースのかなり上のほうまで登って素麺を捕まえているようだ。ときおりつゆの味を変えに降りてきては、友人同士ではしゃぐ声がわっと上がる。
     いつのまにか主催者側に数えられていた一騎は今日一日つゆのコーナー担当で、設置された机の高さにも満たない身長の子どもが持ってくる器代わりの紙コップにご指名の味を注いでやったり、外のストックが切れそうになるたびに、店舗の冷蔵庫へ補充に行ったりしていた。単純に味がよかったのか、それとも不本意だった一騎カレーのメニュー名が今となっては名物として島中に広まっているからか、カレー風のものが早々に売り切れたのは、少し気分がいい。


     はじめのほうはせわしなく動いていたが、午後をまわってしばらく経つと、やはり食べ盛りの子どもを除いてほとんどの参加者は満足しはじめたようで、ずいぶん暇になった。もうかれこれ数十分、ぼうっとつったってみんなを眺めているだけだ。
     忙しくしているときは、まだよかった。こうしてひとりでなにかを考える時間があると、どうしても、心が沈む。
     意識が沈みかけたとき、近くでたむろしていた高校生らしき集団から、どっと大きな笑い声がはじけた。心臓が跳ねる。思わず目を向けると、後輩に捕まっているのか、輪の中心で笑っているのは剣司だった。
     まわりを囲んでいるのは、一騎のよく知らない後輩たちだ。顔と名前くらいはわかるが、そもそも接点がないし、親しく話したこともない。昔から剣司は交友関係が広かった。一騎はそう気さくな質ではないからうらやんだことこそないが、その気安さが剣司の長所で、何度も助けられている。
     なんとなく見つめていると、目があった。剣司がまわりの後輩に手を振ってこちらへ駆けてくる。
    「一騎、代わるぜ。ちょっと休憩しろよ」
    「剣司」
     高校を卒業して医学の道に進んでから、なにかと同級生や後輩の体調にも気を遣うようになった剣司だ。半日近く屋外で日光を浴びている一騎を気遣って、声をかけてくれたようだ。
    「大丈夫だ、そろそろ終わりだろ。今も休憩みたいなもんだよ」
     途中で竹が破損している箇所がないか、高低差の激しい坂を歩いて見回っている担当に比べれば、一騎の担当など楽園でのアルバイトより楽なものだ。
     以前ならば、体力や腕力が必要な仕事は、一騎にまわってくるのがあたりまえだった。言いようのない焦燥感が滲むが、体力が昔よりも衰えたのは誤魔化しようのない事実で、後輩の気遣いは単純にありがたい。過ごしやすい気候に、広登が気をきかせて椅子を用意してくれたこともあって、今日は調子がよかった。
     そっか、とつぶやいて、剣司がとなりに腰かける。剣司が話していた後輩たちは、果敢にも再び流れている素麺に挑戦している。
    「こんだけ楽しんでもらえりゃあ、汗だくになりながら準備した甲斐があったな」
     まだ楽しむ人がいる流し素麺に、剣司が満足そうに笑った。
     たしかに、これだけの竹樋を組み立てるのは相当な重労働だっただろう。第一種勤務が非番だった島民ほとんど総出で、一日がかりだったとあとから聞いた。パイロットの籍も形ばかりのもので、体力と料理くらいしかできることがない一騎だから、まともに参加できなかったことが少し申し訳ない。
    「悪かったな、全然手伝えなくて」
    「検査のあと体調悪かったんだろ? 仕方ねえよ。それよりお前は、前と同じ調子で無理しすぎだ」
     いっぱしの医者の顔で注意されて、少しきまりが悪い。いろんな人に心配してもらっているくせに、本当は、純粋に体調が悪かったわけではないからだ。
     ……あの日のことを思い出すと、全身に泥が流れているような、濁った、どろどろとした感情が、胸に渦巻く。
     あのとき。総士の左隣に座る真矢が、目に入ったとき。とてもいやな感情が胸をよぎった。自分でもぞっとするほど、考えたくないほど、ひどいことだった。
     よりにもよって真矢に対してそんなことを考えてしまったことも、誰かにこれほどの悪意を抱ける自分も、怖かった。甘えたいときにはさんざん真矢に甘えるくせに、都合が悪くなると、こんな感情も平気で、ごくあたりまえみたいに持てる。最低だ。
     次の瞬間には、足元が崩れてどこまでも落ちていくような、途方もない喪失感と痛みだけが残った。
     総士の暗闇によりそうことを許されたのは、一騎だけだと、そこは一騎だけの場所だと、特権なのだと思っていた。
     そうじゃなかったんだ。
     一騎の独りよがりだったのかもしれない。
     いや、前はそうだったはずだ。
     でも、いまは、もう、違う。
     そのあとのことは、頭がぼんやりして、よく覚えていない。
     総士が掴んだ手首の熱さばかり思い返しては、その背中を眺めながらとぼとぼと歩いた景色が浮かんで、また打ちのめされている。
    「総士となんかあったか?」
    「え…」
     また少しぼうっとしていたようで、眉をひそめてこちらをのぞき込んだ剣司の声で我に返った。
    「……なんでそう思うんだ」
    「こういうときにお前が総士にくっついてないの、変だろ」
     そこまで言われるほど、あからさまだっただろうか。ならば、総士にも最近の一騎の態度を気づかれているのかもしれない。
     総士はどう思っただろう。怪訝に思っただろうか。それはそうだろう。いままでさんざんそばにいたがった一騎が、突然距離を置くようになったのだ。
     少しでも、寂しく、物足りなく思ってくれただろうか。
     ……それとも、せいせいしているだろうか。
    「べつに、喧嘩とか、そんなんじゃないから」
    「なら良いけどさ」
     そうだ、こんなもの、喧嘩ですらない。
     あのときと同じだ。ひとりでふさぎ込んで、総士から離れて。
     いま一騎がしなければならないのは、総士ときちんと話をすることだ。総士の意思を確認して、そして、その望みのとおりにすることだ。一騎自身、自分のことがよくわかっていないのだ。こんなふうに考えて、なにかを選ぶのは向いていない。総士が思うことをきいて、総士の言うとおりにするのが一番いい。たとえ、それが一騎にとって、一番おそろしいことでも。
    「総士も最近なんか考え込んでるし、お前も、このままだと嫌なんだろ」
    「うん……」
     それでも、ほんとうに自分がなにを望んでいるかなんて、とっくに答えが出ていた。
     だって、総士の左側に当然のように立てる人間がもはや自分ひとりではないことに、こんなに打ちのめされて、うろたえている。
     ふと、喫茶店から連れ立って出てくる総士と暉が見えた。揚げものを担当していたふたりが、そろそろ客足を見て楽園のキッチンから引きあげてきたようだ。
     総士がこちらを見ないうちに、あわてて気づかなかったふりで目をそらす。暉になにかを耳打ちしている総士の、穏やかな顔が胸を刺す。
     逃げることも、向かっていくこともできないでいるうちに、いつの間にか総士は父と話し込んでいた。そうとはわかりにくい、いつもの落ち着いた表情で、だけどすごくうれしそうに笑っている。いつもぶっきらぼうな父の笑顔もめずらしくやわらかい。天ぷらの出来でも褒めているのかもしれない。
     なにやってるんだろう。なんで俺は、こんなことばかり考えているんだ。
    「剣司は、いやになること、ないか」
    「あのなあ、主語述語はちゃんとわかりやく言え」
     穏やかな声で、剣司が苦笑する。
     突然の支離滅裂な言葉にも、ちゃんと聞こうというポーズを取ってくれる。やさしいやつだ。
    「咲良……身体、ずいぶん良くなったんだろ」
    「ああ」
    「咲良が良くなって、本当に良かったと思う。でも、……今までずっと自分がそばにいたのに、別の誰かが自分の場所に立つことが増えて……苦しくなること、ないのか」
     苦しいのは、自分がそこに立つ権利がないと、心のどこかでわかっているからだ。自分が総士の左に立てる人間じゃないと、もっとふさわしい人に譲るべきだとわかっているくせに、ほかの誰かがそうなることを受け入れられない。
     あの日までは、それでも総士がそばにおいてくれるのは一騎だけなのだと、不相応にも信じていた。
     だけどもう、そうじゃないことを知ってしまった。総士の左には、真矢がいた。総士にとって、自らの死角にいても穏やかに笑えるほど心を許した存在が一騎以外にもあるのだと思うと、胸が焼けるように痛んで、気が狂いそうだ。
     遠くでわあっと子どもの歓声が上がった。
     そういえば午後からは、広登が主演のヒーローショーが予定にあったな、と思う。じっと竹の中を流れる水を眺めていた男の子が、同じ歳のころの男の子に、あたりまえみたいに手を引かれて一緒に駆けていく。
     あんなふうに総士の手を引けなくなってから、ずっと、この手はからっぽのままだった。
     必死でもがいて、取りこぼしてしまったものをもういちどとりもどして、やっとまともに息ができるようになったのに、また一騎はかけがえのない手を、心の底から安らいだ気持ちで掴めないままでいる。
    「まあ、俺もヤキモチ焼くタイプだけどさ」
     考え込むようにうつむいていた剣司が、顔を上げて、照れくさそうに頭をかいた。
     やきもち。
     そんな言葉の、かわいいものなんだろうか。これが?
    「誰があいつのとなりに立ってても、あいつが選んでくれたのは俺だ。それを知ってるし……咲良も、ちゃんとそう伝えてくれるから」
     穏やかに笑う顔が、同い年とは思えないほど、大人に見えた。同級生のなかでもひときわお調子者で、学校では毎日咲良に怒鳴られて追いかけまわされていたような剣司が、戦いを経験して、誰よりも大人びたと感じるときがある。
     咲良は昔から、剣司には特に当たりがきつかった。彼女の意識が回復してから、リハビリ室で何度かふたりに会うことがあった。いつもとなりに付き添っていた剣司に、思うように身体が動かない苛立ちや痛みで、当たり散らしている咲良を見たことがある。今だって、ときおり喫茶楽園へ昼食をとりに来るふたりのやりとりを聞いていると、かなりきびしい態度をとっていることがある。それこそ、もし一騎が同じような態度を総士からとられれば、ものすごく落ち込みそうなきびしさだ。
     それでも剣司は、咲良を信じているのだ。剣司がこんなふうに咲良を信じられるのは、きっと咲良が、ほかの誰に誤解されたとしても、剣司にだけは伝わるように、きちんと剣司を大切にしているからだ。
     いいな、と思った。
    「いいな、剣司は。咲良に大事にされてて」
    「お前もだろ」
    「俺は……俺は、違うよ」
     俺と、総士は。違う。きっとそんなふうには、できない。
    「あいつに大事にされる理由もない」
     うなだれた頭を、ぱし、とはたかれる。
    「お前、総士が同じこと言ってても『そうだな』って納得すんのかよ」
    「するわけないだろ!」
     剣司から投げ出された「もし」に、考えるまえに頭がかっとなって、大声を出していた。
     「大事にされる理由がない」なんて、総士がそんなふうに言ったら、一騎はたぶん、怒る。ものすごく怒る。そしてきっと悲しくなるだろう。だってそれは、一騎が総士を大切に思う気持ちを、信じてもらえていないということだ。
     こんなにも、気が変になるほど、一騎は求めているのに。
     ……だけど俺は、そう思っていることを、総士に信じてもらえるほど、きちんと伝えていたんだろうか?
     はじめてそこに考えが至って、全身の血がぞっと冷えるような心地がした。
    「総士もそう言うんじゃないのか。……そんなに大切なら、最初っから諦めてんじゃねえよ」
     一騎が大きい声を出したことにも、剣司は怒らない。ただ心底あきれたような顔で、ため息をついている。
    「……ここ、任せていいか。ちょっと頭冷やしてくる」
     剣司と話しこんでいるあいだに、店のまえの人混みはもうほとんどなくなっていた。もうそろそろすれば、後片付けをはじめなければいけない。その前に、総士と顔をあわせるまえに、どうしても、一瞬だけでもひとりで息を吐く時間がほしかった。
     肩をすくめてうなずいた剣司に甘えて、ひっそりと静まる店内に逃げるようにすべりこんだ。



     かすかに蝉の声と、ずいぶん小さくなった喧騒が遠くに聞こえる。明かりは落とされていて、大きくとられたガラス窓から、午後のくすんだ光がすけている。さっきまで総士と暉がいたキッチンはきれいに片付けられて、痕跡ひとつ残っていない。暉はちょっと雑なところがあるから、几帳面すぎる総士が最後まで掃除してくれたんだろう。
     入口に背を向けるようにカウンターに腰かけて、ほおづえをつく。このあいだ、真矢が座っていた席だ。あのとき、目に見える景色が水槽の向こうみたいにぼんやりとしているはずなのに、そんなことばかりは覚えている自分に、さすがにあきれて笑いが漏れた。
     そして考える。総士に伝えなきゃいけない。
     なにをすれば、どんな言葉で表せば、この、総士を求めて狂いそうな気持ちが伝わるだろう。
     伝えたところで、総士の望みに従うことに変わりはない。一騎が、総士に大事にされる理由がないと思うことも、変わらない。それでも、おまえのとなりにいたいのだと、言うべきなんだと思った。こんなふうにおかしくなるほど一騎が焦がれていることを、総士が全く知らず、信じてもくれないかもしれないと、はじめて気づいて、おそろしくなった。
     見失ってしまいそうなくらい遠くの喧騒を聞きながら得意じゃない考えに頭を巡らせて、どれくらい経ったかわからなくなったとき、背後で控えめなドアベルの音が響いた。
    「一騎」
     そして、心から待ち望んでいた、大切な声が一騎を呼んだ。
    「総士」
     ゆっくりと振り返る。
     総士はドアの近くで立ちつくして、何度も口を開いたり閉じたりを繰り返している。一騎と目が合うと伏せられたきれいな瞳が、ほんのすこし寂しくて、そしていつかの、きっと言いたいことを言えないまま、生活色のない部屋の説明ばかりをしてくれた幼かった総士が思い浮かんで、ふとやさしい気持ちになった。
     そうだ。総士を思うと、いつもやさしい気持ちになれた。いつのまにか、それを忘れてしまっていた。
    「今日、暑いな。ちょっと疲れた」
     笑いかけながらわざとそう言うと、総士もほっとしたような表情になる。無理するなと言っただろう、とちょっと怒ったような声で、かけていた眼鏡を外しながら、総士は右隣へ腰かけた。
     沈黙が落ちる。いつものことだ。お互い口下手だから、ふたりでいてもそう会話をするほうではなかった。総士がとなりにいてくれるのならその沈黙すら心地よかったはずなのに、気が付けば息苦しく感じるようになっていた。
     言葉のかわりに、なにか見つけるべきだったのかもしれないと、いまになって思う。
    「遠見から、お前が不安がっていると聞いた」
     総士の声は、努めて平たく聞こえるように話しているようだった。話しづらいことを話さなければならないときの、総士のくせだ。
     不安。そう言われるとしっくりきた。一騎よりも一騎のことを理解しているとすら感じるときのある真矢の言葉だから、しっくりきたのかもしれない。
    「やっぱり、遠見にはなんでもお見通しなんだな」
     たしかに一騎は不安がっていたのかもしれない。
     総士のそばにいたかった。総士のそばにいてもいいのだと、自信が持てないから怖かった。身体のことも、仕事のことも。広がってゆく総士の世界も。なにもかもが不安で、だから余計に総士にすがりつきたいのに、そうしていいのかどうかすらわからなくなっていた。……総士にとって一騎がどんな存在なのか、教えてもらえないから、おそろしかった。
    「この間ここに、遠見が座ってただろ」
     突然の一騎の言葉に、すぐ近くにある身体が怪訝そうに身じろいだ。
    「俺……ものすごくひどいことを、考えた」
     のどがからからだ。てのひらに汗がじっとりとにじむ。こんな、総士になんて思われるかもわからない醜いところなんて、本当は見せたくない。言いたくない。
     見当違いかもしれない。思い上がっているだけかもしれない。だけど、一騎が感じたようなおそろしさを、万が一にでも総士に与えているのだとしたら、そんなのは絶対にいやだ。
    「ひどいこと考えるくらい、おまえの、いちばん近くにいたかった」
     かたく握りすぎて、右手に爪が食い込みかけたとき、総士の手が強く掴んだ。
     総士はじっと前をにらみつけたまま、一騎へかたくなに顔を向けないまま、一騎の手のひらに食い込んだ爪をはがして、手を握りこむ。てのひらとてのひらをあわせて、指を絡める。あのときの、熱いくらいの総士の温度だ。
    「総士……」
    「新しいからだにこの傷だけ残した浅ましさを、お前には知られていると思っていた」
     握った一騎の手を、総士が左目に導く。まぶたを裂く傷の、すこし引きつれるような、盛り上がったあたらしい皮膚の感触。電流が走ったように指先がびくっとふるえた。
     俺の右手が、総士に、総士の傷に、ふれている。
     飛び上がって叫び出しそうになった身体を、総士の細い腕が息苦しいほどの力強さで押しとどめた。


    「そばにいろ」
     幼い子どもの笑い声が、あかるい窓の外からぼやけて届いている。
    「僕の心のとなりにあるのは、お前だけだ」
     からだが熱につつまれている。知ってる温度だ。総士のてのひらと同じ熱さ。
     とく、とく、と規則的な振動が胸をふるわせる。すこし早い、一騎ひとりのものではない、一騎の右寄りの心臓と重なって、もっと強い。
     ……総士の心臓の音。
     ぼうぜんとした一騎をつよく抱きしめたまま、総士はかすれた声でささやいた。たしかに、そばにいろと言った。手首をつかんだ、てのひらを握った、今らしくない乱暴さで抱きしめてくれている、この熱。
     ぐちゃぐちゃになっていた一騎のものと同じ、お互いを求める心だと、信じてもいいのか。
     総士が触れているところから、得体のしれない安らぎが身体じゅうへ広がっていく。
     なんで、もっとはやくこうしなかったんだろう。
     自分を抱きしめる男がどんな顔をしているのかどうしても見たくなって、うっとりと落ちていたまぶたを無理やり開けて、総士を見つめた。この心地よさを総士も感じてくれているのか、夜明けの空のような目は細まって、とろりと蕩けている。
    「……きもちいい」
     一瞬、一騎の心が無意識に声に出たのだと思った。つぶやいたのは総士だった。あたたかい吐息がほほにかかる。飴細工のような繊細なまつげがくすぐったい。
     こんなに近づいたのは、きっとはじめてだ。だけど、もっと近づきたい。総士にふれたい。一騎と同じ衝動をつぶやいた、そこがどんな温度なのか、感触なのか、味なのか、ふれて確かめたい。
     じっと見つめていると、視線が絡んだ。同じことを望んでいるような気がした。
     それがどういう行為なのか、どうすればいいのか、知識として知ってはいても、言葉でねだることも自ら動くことも、勇気がなくて、ただ目を閉じた。
     そしてできれば、総士から求めてほしかった。
     鼻がふれあうほど間近にあった気配がおずおずと動いて、そうっと一騎のくちびるを塞いでくれる。一度ふれるとたまらなくなって、とろけそうなほどやわらかいそこに、夢中でもっともっとと押し付けた。まるでなだめられているように、やわらかく受け止めた総士が上唇をはんで、ちゅ、と吸う。ほんのすこしの衣擦れでかき消されそうな小さな濡れた音に、からだの芯がぞくぞくとうずいた。
    「……ん」
     細かくふるえるほどの悦びがわきあがって、あまえた声が出る。
     こんなに安心する、心が通じる、幸せなことが、世の中にあったのか。
     しつこく総士のくちびるに吸いつく一騎を落ち着かせるように、熱いてのひらが背中を何度も撫でる。逆効果かもしれない。もっとしてほしい。総士がくれるものなら、なんでも。
     はじまったときのようにそっと静かにくちびるが離れて、詰めていた息を吐いた。あまくしびれたようなまぶたを開く。ふれあわせていただけなのに、すこし呼吸が上がっている。総士はいつもの白い頬を上気させて、夢見るような顔で一騎を見つめている。一騎もきっと、同じ顔をしている。
    「落ちついたか?」
    「ぜんぜん」
     駄々をこねるような一騎の言葉に、総士が困ったような顔で、こつんと額をあわせた。
    「ぜんぜん、足りない」
     総士にこんなふうにふれてもいいのは、ふれられるのは一騎だけなのだと、もっと教え込んでほしい。
     なにか話すべきことや、言うべき言葉があったような気がする。総士と話をしなければいけないと、さっきまではたしかにそう思っていたはずだ。
     だけど、ふれた熱の心地よさに、なにもかも流されてしまった。一瞬で心がほどけてしまった。
     今このときは、総士のとなりによりそう新しいやり方を、たくさん試させてほしかった。
    ま子 Link Message Mute
    2018/06/14 23:48:22

    よりそうパルス(総一)

    できてない18歳の夏、流し素麺大会と総士の左目の話。HAE後に総士と性的関係を持たなかった一騎はどこまで鬱屈するか総一。おなじものをぴくぶらにも流しています。

    #蒼穹のファフナー #腐向け #総一

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    • ラブレターフロム(一総)遠隔でいちゃつく一総を見守る剣司先生

      #腐向け #一総
      ま子
    • きみのてざわり(一総)総士の髪が好きでたまらない一騎と、そんな一騎がとても大切な総士。HAE〜EXO前のどこか。pixivに上げていたものをテストとして投稿してみます。
      小説機能の開発も予定されているとのことで、とても楽しみにしています。

      #蒼穹のファフナー #腐向け #一総

      ----------------------------------------



       正式に喫茶楽園の調理師という職を得て、一騎はノートにレシピを書き留めるようになった。
       自宅では母親の残したレシピ本を愛用していたようで、たまに簡単なふせんやメモを書いたり貼ったりしていることは知っていた。それでも一騎はあまりまめな質ではないから、逐一メモを取って割合や工程を工夫するよりも「なんとなく」でうまくやってしまうことのほうが多かったし、レシピ本そのものも長じるにつれて内容を覚えきってしまい、登場の機会は減っていったらしい。一度見せてもらったレシピ本のメモは、どれも少し昔の武骨な少年の字で書かれていた。
       それが、今まで習慣で行っていた調理というものを仕事としてこなすようになって、一騎なりに責任感というか、仕事としての義務感をおぼえたようだ。職場で出すランチのカレーや簡単なデザートのレシピをノートにまとめるようになった。「俺はだいたいなんとなくでいつも同じ味になるけど、店としてそれじゃだめだろ」と困ったように笑った顔が記憶に新しい。
       総士が楽園を訪れるたび嬉々として店員とは思えない頻度で構い出すので、こいつには今仕事中だという自覚があるのか、そもそもなぜ他の誰も咎めないんだ、と内心呆れていたが、後輩の暉がバイトとして入るようになって、少しは労働と向き合う気になったらしい。はじめてみれば案外楽しかったようで、最近では今あるメニューをまとめるだけではなく、試作と称して新しいメニューを総士に食べさせては、その表情にうんうん頷いて何かの文字列をノートに書き込む回数も増えた。ノートを開く姿も、喫茶店での仕事中だけではなく、自宅や今日のように訪れた総士の部屋でも見ることが多くなった。店外に持ち出すならパッドにしたほうが効率的じゃないか、とも勧めたが、性に合わないからと断られてしまった。
       今日も総士がシャワーを使う間にどうも手持無沙汰になったらしく、ぼんやりとデスクでノートを開いて何事かを書き込んでいる。なるべく早く済ませたつもりだったが、なにせ腰まで伸びた髪を濡らして洗うだけでも手間がかかる。一騎のように鴉の行水とはいかない。
       上がったぞと声をかけてベッドでドライヤーをかけながら、なんとなく頬杖をついた一騎の左手を見ていた。
       一騎の、数年前と比べて確実に細く白くなった指を見るたび、否応なくその根元に残る五本の痕が目に入る。色素が薄くなった肌に余計に濃く映るそれを見つめるたび、いつだって総士の胸は、痛みのような甘い感情で締めつけられる。恐怖と、そして歓び。
       呪いのように残るその痕は、同化現象が今も一騎の命を蝕んでいる証に他ならない。しかし同時に、一騎が総士の隣にあることを選び続けてきた証でもあるのだ。
       その痕が一騎の指に纏わりつく前の、ファフナーに乗る前の一騎の健康的に日に焼けた肌の色を、総士はもうぼんやりとしか思い出せなくなっている。もっともその頃は、お互い相手を真正面に捉えられないくせにその背中や横顔を見つめてばかりで、こんなふうに近い距離でその指を見つめることなどできなかった。
       ドライヤーを仕舞って声をかけようとした総士の目に、自らの髪に絡む一騎の指が映った。
       肩口まで伸びたつややかな黒髪に、線の細くなった白い指が絡んでいる。
       耳のあたりの一房を取って、細い指にくるくると巻きつけては解き、巻きつけては解きをゆるりと繰り返している、無意識だろうその動きを見ているうちに、蘇る記憶があった。



       もうずいぶん前。まだこの左目に傷を与えられる前。まだ総士がどこにもいなかった頃。
       父の勤務の都合で、一週間ほど真壁家にお世話になったことがある。
       総士はその頃ちょうど、人よりかなり早くメモリージングが解放されたばかりだった。竜宮島と島のコアのために生きろという父の言葉もまだよく噛み砕けず、行き場のない孤独と空虚に襲われて、自分がここにあってはいけないのだと、どこにもいないのだという恐怖に、塞ぎこみがちになっていた頃だった。
       人前で繕ってはいたものの、一騎はそんな総士の様子にうっすらと気づいて不安に思っていたのか、総士と長く一緒にいられることにいたく喜んだ。帰る家も同じだというのに、どこへ行くにもおおはしゃぎでくっついてまわった。
       二人で真壁家に帰宅してからも、母さんのレシピなんだと持ち出した件のレシピ本を参考にはりきって夕食を作り、食事中も珍しく史彦に静かにしなさいと窘められるまで総士に話しかけることをやめなかった。
       入浴も二人で済ませ、頑として一騎が譲らなかったので、二人一緒に一騎の布団で眠った。それでもまだ一騎は興奮していたようで、ぽつぽつと話しかける声は止まなかったが、総士がほとんど初めて感じる他人の体温の心地よさにうとうとと舟をこぎはじめると、ようやく安心したように、一日止まなかったマシンガントークを落ち着けたのだった。
       自宅とは違う、畳の上に敷いた布団の感触。いつもと違う石鹸の香り。すぐそばで感じる、この世で最も信頼する相手のゆっくりとした心臓の音。自分よりも少し高い体温。遠慮がちにそうっと総士の手を握ってくる、やわらかい手のひら。パジャマのズボンから伸びた裸足の足がすべすべと絡みあう気持ちよさ。
       物心ついた頃から一人で眠る習慣のあった総士には、それらすべてがはじめてのもので、そしてなぜ今まで知らなかったんだろうと悔やむほど安心感を与えてくれるものだった。
       「総士」と一騎がおずおずとささやいたのは、そのときだった。
      「総士、あのな、髪の毛、さわってていいか?」
       総士は寝つきの良いほうではなかったが、その日はもう半分夢の中で、一騎の言っていることもきちんと理解しているわけではなかった。
      「うん、いいよ」
       なにをねだられているのか理解はしていなかったが、大好きな一騎の言うことだから、なんでも許してやりたかった。
       夢うつつにそう返事をすると、あたたかい一騎の指がそっと髪に絡むのを感じた。他の男子よりも長く伸びた髪に絡んだ指は、遊ぶように、指通りを楽しむように、くるくると巻きつけては解き、巻きつけては解きを繰り返した。
       不思議と煩わしさはなく、どころかやさしく髪をひっぱられるその感触にとてつもない安心感をおぼえて、あっという間に総士は深い眠りへと落ちていった。
       次の日も、その次の日も同じように一騎にねだられ、四日を数える頃になると、もう一騎はなにも言わないでも布団に入るなり総士の髪にそっと指を絡め、総士も髪を触られる感覚にうっとりと目をつぶった。その頃には、一騎が触れてくれる感覚が自らに安心感を与えてくれるのだと、ここにいると感じさせてくれるのだと、総士にはもうわかっていた。
       そんなことだから、父の多忙が落ち着き自宅に帰ってからも、それからしばらくは一人のベッドではなかなか寝つけなかったのだ。



      「総士?」
       髪に絡めた指はそのままに、ベッドに腰かけたまま自分を見つめる総士を、一騎が不思議そうに呼んだ。
      「それ」
       きょとんとした顔が、総士の目線の先にある自らの指に気づいて、ばつが悪そうな、照れたような色に染まる。髪を解いて、誤魔化すように手櫛でぐしゃぐしゃと梳く。
      「なんか、癖なんだよ。子どもっぽいけど」
      「お前、昔、僕の髪でも同じことをしていたな」
      「そうだっけ?」
      「同じ布団で寝るとき、僕の髪を指にくるくる巻きつけながら寝ていただろう」
      「よく覚えてるな」
       向かっていたノートを閉じてベッドに上がるあたたかい身体を正面から抱き留める。胡坐をかいた膝の上に腰かけしばらくもぞもぞと動いていたが、収まりの良い場所を見つけたのか、腰を落ち着けた一騎が総士の肩に顔を埋めて満足げにため息をついた。深呼吸をして、うっとり蕩けた声がいいにおい、と呟く。
      「お前くらい髪が長いのって、他に周りにいなかっただろ。俺も父さんも短いし」
       痕の残る一騎の指がやさしく総士の髪を梳いて、ゆるく癖のある毛先をくるくると指に巻きつける。
      「だから、そうやって髪を触ってると、総士がここにいてくれるんだって、すごく安心した」
       あとは……総士の髪、気持ちよかったし。今も気持ちいいけど。
       総士の肩に懐きながら、一騎は機嫌よく髪をいじっている。同じ仕草でも、昔からは考えられない体勢と距離感だ。子どもの頃には知らなかったお互いの温度と感触まで手に入れて、同じ布団に入ることも、同じにおいを纏うことも、子どもの頃とは違う意味を持つのだと知った。そうして今は、手に入れたあたたかさが、ここにいるのだと教えてくれる。
      「だから癖になったのかな」
      「人のせいにするな」
      「総士が構ってくれないと、寂しくてやっちゃうのかも」
       だったらお前、しょっちゅうそれをやってることになるぞ。そう言いかけて、案外自分も一騎に構いきりなことに気づいてしまった。なにせ給事中の遠見になんとも言えない目でじとっと見つめられるくらいだ。これでは一騎のことを言っていられない。
       シャワーの間放っておかれた一騎は身体を持て余していたようで、むずむずと擦り寄りながら、顔中にキスを落としてくる。額、頬、鼻、くちびる、そして左のまぶた。乾いたやわらかいくちびるが皮膚を食む感触を味わっていると、しなやかな黒髪が頬や首筋を撫でて、くすぐったさに身がすくんだ。
      「伸びたな」
      「そうかな」
      「切らないのか」
      「うーん……うん」
      「伸ばしているのか。どういう心境の変化だ」
      「なんとなく」
       そっと髪を耳にかけて、さも今は総士の首筋にキスをするのに夢中です、といった顔をする。
       一騎は、髪が伸びた。
       同化現象の影響で色が白くなったし、なんとなく面差しもやさしくなった。体つきもそうしっかりしたほうではなかったが、同年代が大人の身体に変わっていく中で、今もどこか華奢でたおやかでさえある。本人は頑なに認めようとしないが、格段に体力は落ちたし、体調も崩しやすくなった。
       そして、昔は決してしなかった表情を見せるようになった。総士を丸め込んで、隠しごとをするのが上手になった。
       一騎の指に残る十本の呪いの輪。
       かつて一騎は、変わってゆくことが怖いと言った。
       自分が自分でなくなってしまうことが怖いと、そう言った一騎の声色や表情を総士は知らない。しかし、そんな一騎が変わることを受け入れてまで、総士の隣にいることを選んでくれたからこそ、総士は今ここにいる。
       ここにいるから、ここで共に生きているから、変わってゆく一騎の今を目に焼きつけたいと思う。変化の理由を思うたび痛みを感じても、それすら総士には幸福だ。
       だけれど、記憶に焼きついた幼い日の一騎から変わらないでいてくれる部分があることも、総士にとっては同じくらい胸を刺す幸福だった。



       お返しと言わんばかりに一騎を組み敷いて、顔中へ熱心にキスを落とした。結わえていない髪が一騎の首元をさらさらと流れて、くすぐっそうな吐息がくちびるを温める。額の生え際で深呼吸すれば、総士の先にシャワーを使った一騎からは同じシャンプーのにおいがするはずだが、心臓をやさしく撫でられるような、締めつけられるような愛しいにおいでいっぱいになる。何度感じても不思議だ。
       このまま素肌を合わせるところまで進んでいいだろうかと思いつつ、くちびるで感じる熱にうっとりしていると、つんと前髪をひっぱられて目を開く。
      「お前も、前髪、ずいぶん伸びたな。切ってやろうか」
      「いや……」
       特に髪型に拘りがあるわけではないが、理由もなく伸ばしているわけでもない。必要ないと言いかけて、見下ろした一騎の表情に口をつぐんだ。
       電灯に照らされて透きとおった一騎の飴色の目が、まぶしそうに総士を見上げている。
       何度も交わしたくちびるの温度にしっとりと濡れたまぶたが、穏やかにまばたきしながら総士の目をじっと見つめている。
       ふと、先程落とされたやさしいキスの感触が、熱が、まぶたによみがえった。
      「……そうだな、今度、近いうちに切ってくれ」
        この、溢れてしまいそうな感情が、伝わればいい、だけど、きっと伝わらなくても構わない。
       自ら言い出したくせに、きょとんとした瞳が不思議そうに瞬いた。
      「いいのか?」
      「お前が言ったんだろう」
       一騎が言うのなら、一騎が一緒なら、なにも怖くはない。揺るぎないものはずっとここにあって、そして知らなかった景色でさえ、やさしく総士を照らしてくれるから。
       だから僕も、変わることを受け入れよう。僕はここに、お前の隣にいるから。
      「髪、触っててもいいぞ」
      「髪だけ?」
       おかしそうに笑って服の下へ潜り込んでくる手のひらの心地よさに吐息を漏らしながら、どうか今はただ笑っていてくれるようにと、一騎の左目にくちびるを落とした。
      総士の髪が好きでたまらない一騎と、そんな一騎がとても大切な総士。HAE〜EXO前のどこか。pixivに上げていたものをテストとして投稿してみます。
      小説機能の開発も予定されているとのことで、とても楽しみにしています。

      #蒼穹のファフナー #腐向け #一総

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       正式に喫茶楽園の調理師という職を得て、一騎はノートにレシピを書き留めるようになった。
       自宅では母親の残したレシピ本を愛用していたようで、たまに簡単なふせんやメモを書いたり貼ったりしていることは知っていた。それでも一騎はあまりまめな質ではないから、逐一メモを取って割合や工程を工夫するよりも「なんとなく」でうまくやってしまうことのほうが多かったし、レシピ本そのものも長じるにつれて内容を覚えきってしまい、登場の機会は減っていったらしい。一度見せてもらったレシピ本のメモは、どれも少し昔の武骨な少年の字で書かれていた。
       それが、今まで習慣で行っていた調理というものを仕事としてこなすようになって、一騎なりに責任感というか、仕事としての義務感をおぼえたようだ。職場で出すランチのカレーや簡単なデザートのレシピをノートにまとめるようになった。「俺はだいたいなんとなくでいつも同じ味になるけど、店としてそれじゃだめだろ」と困ったように笑った顔が記憶に新しい。
       総士が楽園を訪れるたび嬉々として店員とは思えない頻度で構い出すので、こいつには今仕事中だという自覚があるのか、そもそもなぜ他の誰も咎めないんだ、と内心呆れていたが、後輩の暉がバイトとして入るようになって、少しは労働と向き合う気になったらしい。はじめてみれば案外楽しかったようで、最近では今あるメニューをまとめるだけではなく、試作と称して新しいメニューを総士に食べさせては、その表情にうんうん頷いて何かの文字列をノートに書き込む回数も増えた。ノートを開く姿も、喫茶店での仕事中だけではなく、自宅や今日のように訪れた総士の部屋でも見ることが多くなった。店外に持ち出すならパッドにしたほうが効率的じゃないか、とも勧めたが、性に合わないからと断られてしまった。
       今日も総士がシャワーを使う間にどうも手持無沙汰になったらしく、ぼんやりとデスクでノートを開いて何事かを書き込んでいる。なるべく早く済ませたつもりだったが、なにせ腰まで伸びた髪を濡らして洗うだけでも手間がかかる。一騎のように鴉の行水とはいかない。
       上がったぞと声をかけてベッドでドライヤーをかけながら、なんとなく頬杖をついた一騎の左手を見ていた。
       一騎の、数年前と比べて確実に細く白くなった指を見るたび、否応なくその根元に残る五本の痕が目に入る。色素が薄くなった肌に余計に濃く映るそれを見つめるたび、いつだって総士の胸は、痛みのような甘い感情で締めつけられる。恐怖と、そして歓び。
       呪いのように残るその痕は、同化現象が今も一騎の命を蝕んでいる証に他ならない。しかし同時に、一騎が総士の隣にあることを選び続けてきた証でもあるのだ。
       その痕が一騎の指に纏わりつく前の、ファフナーに乗る前の一騎の健康的に日に焼けた肌の色を、総士はもうぼんやりとしか思い出せなくなっている。もっともその頃は、お互い相手を真正面に捉えられないくせにその背中や横顔を見つめてばかりで、こんなふうに近い距離でその指を見つめることなどできなかった。
       ドライヤーを仕舞って声をかけようとした総士の目に、自らの髪に絡む一騎の指が映った。
       肩口まで伸びたつややかな黒髪に、線の細くなった白い指が絡んでいる。
       耳のあたりの一房を取って、細い指にくるくると巻きつけては解き、巻きつけては解きをゆるりと繰り返している、無意識だろうその動きを見ているうちに、蘇る記憶があった。



       もうずいぶん前。まだこの左目に傷を与えられる前。まだ総士がどこにもいなかった頃。
       父の勤務の都合で、一週間ほど真壁家にお世話になったことがある。
       総士はその頃ちょうど、人よりかなり早くメモリージングが解放されたばかりだった。竜宮島と島のコアのために生きろという父の言葉もまだよく噛み砕けず、行き場のない孤独と空虚に襲われて、自分がここにあってはいけないのだと、どこにもいないのだという恐怖に、塞ぎこみがちになっていた頃だった。
       人前で繕ってはいたものの、一騎はそんな総士の様子にうっすらと気づいて不安に思っていたのか、総士と長く一緒にいられることにいたく喜んだ。帰る家も同じだというのに、どこへ行くにもおおはしゃぎでくっついてまわった。
       二人で真壁家に帰宅してからも、母さんのレシピなんだと持ち出した件のレシピ本を参考にはりきって夕食を作り、食事中も珍しく史彦に静かにしなさいと窘められるまで総士に話しかけることをやめなかった。
       入浴も二人で済ませ、頑として一騎が譲らなかったので、二人一緒に一騎の布団で眠った。それでもまだ一騎は興奮していたようで、ぽつぽつと話しかける声は止まなかったが、総士がほとんど初めて感じる他人の体温の心地よさにうとうとと舟をこぎはじめると、ようやく安心したように、一日止まなかったマシンガントークを落ち着けたのだった。
       自宅とは違う、畳の上に敷いた布団の感触。いつもと違う石鹸の香り。すぐそばで感じる、この世で最も信頼する相手のゆっくりとした心臓の音。自分よりも少し高い体温。遠慮がちにそうっと総士の手を握ってくる、やわらかい手のひら。パジャマのズボンから伸びた裸足の足がすべすべと絡みあう気持ちよさ。
       物心ついた頃から一人で眠る習慣のあった総士には、それらすべてがはじめてのもので、そしてなぜ今まで知らなかったんだろうと悔やむほど安心感を与えてくれるものだった。
       「総士」と一騎がおずおずとささやいたのは、そのときだった。
      「総士、あのな、髪の毛、さわってていいか?」
       総士は寝つきの良いほうではなかったが、その日はもう半分夢の中で、一騎の言っていることもきちんと理解しているわけではなかった。
      「うん、いいよ」
       なにをねだられているのか理解はしていなかったが、大好きな一騎の言うことだから、なんでも許してやりたかった。
       夢うつつにそう返事をすると、あたたかい一騎の指がそっと髪に絡むのを感じた。他の男子よりも長く伸びた髪に絡んだ指は、遊ぶように、指通りを楽しむように、くるくると巻きつけては解き、巻きつけては解きを繰り返した。
       不思議と煩わしさはなく、どころかやさしく髪をひっぱられるその感触にとてつもない安心感をおぼえて、あっという間に総士は深い眠りへと落ちていった。
       次の日も、その次の日も同じように一騎にねだられ、四日を数える頃になると、もう一騎はなにも言わないでも布団に入るなり総士の髪にそっと指を絡め、総士も髪を触られる感覚にうっとりと目をつぶった。その頃には、一騎が触れてくれる感覚が自らに安心感を与えてくれるのだと、ここにいると感じさせてくれるのだと、総士にはもうわかっていた。
       そんなことだから、父の多忙が落ち着き自宅に帰ってからも、それからしばらくは一人のベッドではなかなか寝つけなかったのだ。



      「総士?」
       髪に絡めた指はそのままに、ベッドに腰かけたまま自分を見つめる総士を、一騎が不思議そうに呼んだ。
      「それ」
       きょとんとした顔が、総士の目線の先にある自らの指に気づいて、ばつが悪そうな、照れたような色に染まる。髪を解いて、誤魔化すように手櫛でぐしゃぐしゃと梳く。
      「なんか、癖なんだよ。子どもっぽいけど」
      「お前、昔、僕の髪でも同じことをしていたな」
      「そうだっけ?」
      「同じ布団で寝るとき、僕の髪を指にくるくる巻きつけながら寝ていただろう」
      「よく覚えてるな」
       向かっていたノートを閉じてベッドに上がるあたたかい身体を正面から抱き留める。胡坐をかいた膝の上に腰かけしばらくもぞもぞと動いていたが、収まりの良い場所を見つけたのか、腰を落ち着けた一騎が総士の肩に顔を埋めて満足げにため息をついた。深呼吸をして、うっとり蕩けた声がいいにおい、と呟く。
      「お前くらい髪が長いのって、他に周りにいなかっただろ。俺も父さんも短いし」
       痕の残る一騎の指がやさしく総士の髪を梳いて、ゆるく癖のある毛先をくるくると指に巻きつける。
      「だから、そうやって髪を触ってると、総士がここにいてくれるんだって、すごく安心した」
       あとは……総士の髪、気持ちよかったし。今も気持ちいいけど。
       総士の肩に懐きながら、一騎は機嫌よく髪をいじっている。同じ仕草でも、昔からは考えられない体勢と距離感だ。子どもの頃には知らなかったお互いの温度と感触まで手に入れて、同じ布団に入ることも、同じにおいを纏うことも、子どもの頃とは違う意味を持つのだと知った。そうして今は、手に入れたあたたかさが、ここにいるのだと教えてくれる。
      「だから癖になったのかな」
      「人のせいにするな」
      「総士が構ってくれないと、寂しくてやっちゃうのかも」
       だったらお前、しょっちゅうそれをやってることになるぞ。そう言いかけて、案外自分も一騎に構いきりなことに気づいてしまった。なにせ給事中の遠見になんとも言えない目でじとっと見つめられるくらいだ。これでは一騎のことを言っていられない。
       シャワーの間放っておかれた一騎は身体を持て余していたようで、むずむずと擦り寄りながら、顔中にキスを落としてくる。額、頬、鼻、くちびる、そして左のまぶた。乾いたやわらかいくちびるが皮膚を食む感触を味わっていると、しなやかな黒髪が頬や首筋を撫でて、くすぐったさに身がすくんだ。
      「伸びたな」
      「そうかな」
      「切らないのか」
      「うーん……うん」
      「伸ばしているのか。どういう心境の変化だ」
      「なんとなく」
       そっと髪を耳にかけて、さも今は総士の首筋にキスをするのに夢中です、といった顔をする。
       一騎は、髪が伸びた。
       同化現象の影響で色が白くなったし、なんとなく面差しもやさしくなった。体つきもそうしっかりしたほうではなかったが、同年代が大人の身体に変わっていく中で、今もどこか華奢でたおやかでさえある。本人は頑なに認めようとしないが、格段に体力は落ちたし、体調も崩しやすくなった。
       そして、昔は決してしなかった表情を見せるようになった。総士を丸め込んで、隠しごとをするのが上手になった。
       一騎の指に残る十本の呪いの輪。
       かつて一騎は、変わってゆくことが怖いと言った。
       自分が自分でなくなってしまうことが怖いと、そう言った一騎の声色や表情を総士は知らない。しかし、そんな一騎が変わることを受け入れてまで、総士の隣にいることを選んでくれたからこそ、総士は今ここにいる。
       ここにいるから、ここで共に生きているから、変わってゆく一騎の今を目に焼きつけたいと思う。変化の理由を思うたび痛みを感じても、それすら総士には幸福だ。
       だけれど、記憶に焼きついた幼い日の一騎から変わらないでいてくれる部分があることも、総士にとっては同じくらい胸を刺す幸福だった。



       お返しと言わんばかりに一騎を組み敷いて、顔中へ熱心にキスを落とした。結わえていない髪が一騎の首元をさらさらと流れて、くすぐっそうな吐息がくちびるを温める。額の生え際で深呼吸すれば、総士の先にシャワーを使った一騎からは同じシャンプーのにおいがするはずだが、心臓をやさしく撫でられるような、締めつけられるような愛しいにおいでいっぱいになる。何度感じても不思議だ。
       このまま素肌を合わせるところまで進んでいいだろうかと思いつつ、くちびるで感じる熱にうっとりしていると、つんと前髪をひっぱられて目を開く。
      「お前も、前髪、ずいぶん伸びたな。切ってやろうか」
      「いや……」
       特に髪型に拘りがあるわけではないが、理由もなく伸ばしているわけでもない。必要ないと言いかけて、見下ろした一騎の表情に口をつぐんだ。
       電灯に照らされて透きとおった一騎の飴色の目が、まぶしそうに総士を見上げている。
       何度も交わしたくちびるの温度にしっとりと濡れたまぶたが、穏やかにまばたきしながら総士の目をじっと見つめている。
       ふと、先程落とされたやさしいキスの感触が、熱が、まぶたによみがえった。
      「……そうだな、今度、近いうちに切ってくれ」
        この、溢れてしまいそうな感情が、伝わればいい、だけど、きっと伝わらなくても構わない。
       自ら言い出したくせに、きょとんとした瞳が不思議そうに瞬いた。
      「いいのか?」
      「お前が言ったんだろう」
       一騎が言うのなら、一騎が一緒なら、なにも怖くはない。揺るぎないものはずっとここにあって、そして知らなかった景色でさえ、やさしく総士を照らしてくれるから。
       だから僕も、変わることを受け入れよう。僕はここに、お前の隣にいるから。
      「髪、触っててもいいぞ」
      「髪だけ?」
       おかしそうに笑って服の下へ潜り込んでくる手のひらの心地よさに吐息を漏らしながら、どうか今はただ笑っていてくれるようにと、一騎の左目にくちびるを落とした。
      ま子
    • アイドルパラレル②例によって一総とも総一とも決めてません。
      公録で今日は一騎髪上げてる〜〜かわいい〜〜!!となったオタクが翌朝のワイドショーで報道された記者会見での総士の髪型に卒倒するし、翌月発売された雑誌の一騎のスナップに映り込んだ髪飾りが総士のものとお揃いであることに気づき、時間差で卒倒する。

      #蒼穹のファフナー #一総 #総一
      ま子
    • ひみつのビオラ(総一)衆人環境(真矢ちゃんと暉)の喫茶楽園でいちゃつく総一、一騎が総士にメロメロのメロ(まだつきあってません)

      #総一 #腐向け
      ま子
    • アイドルパラレル二人組のアイドルユニットをやっている一騎と総士の、起伏のない短いやつです。ふたりの嫉妬について。一総でも総一でも読める感じです(どちらとも決めていません)

      #腐向け  #一総  #総一
      ま子
    • アイドルパラレル3アイドル時空のふたりも9歳のころに一騎が総士の左目を傷つけた一件で疎遠になっており、そんな状態なのに14歳でユニットデビューすることが決まってしまった、という設定のうえのぎすぎす期の話

      #蒼穹のファフナー #一総 #総一
      ま子
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