恋しや恋し(りゅさい)「なんだ、また新しい煙草か」
談話室横の、喫煙室に遣ってきた芥川へ、ひらりと手を振った室生はその口元に加えられた煙草の煙をすん、と鼻を鳴らして嗅いだ後、すぐにそう言って笑った。風の流れを読む鳥のような、あるいは雨の匂いを嗅ぎ分ける野の獣のような仕草の微笑ましさに唇を緩めながら、顔を背けてふ、と煙を吐き出した芥川の周囲には、重く、甘い煙草の匂いが纏わり付いている。菓子を思わせるような甘ったるさではなく、煙草本来の、それもかなり上等な葉の匂いだ。
「購買の老爺がね、薦めてくれたんだよ」
美味そうに煙草を味わう芥川が、室生の座るカウチの隣へ腰を下ろす。肩口から溢れる髪が焦げてしまわぬよう、つい、室生の手が伸びて耳元へ掻きあげてやると、器用に煙草を咥えたまま、薄い唇がありがとう、と声を伴わずにそっと動いた。
芥川に煙草を薦めたという老爺は、購買の仕入れを主に生業としているらしい。らしい、というのは、滅多に店番をしていないからだ。普段は若い、それこそ室生と見目の年齢が似通った若者が立っているが、万年筆のペン先の調整や、嗜好品としての煙草や葉巻、煙管の羅宇の交換といった、細々とした、それも素人では手の及ばぬような仕事を主に請け負っている。室生も何度か万年筆の調整を頼んだことがあるし、煙管を愛用する尾崎なんかは、羅宇の意匠について熱く語っていたこともある。芥川はどうなのかというと、無口で眼光鋭いこの老爺とあまり相性はよろしくない。けれど、話は合うのだという。
「悔しいけれどね。薦められて、外したことが一度もないんだよ」
そう言ってたのは、いつだったか。悔しいと言いながら、新しく入荷した紙巻を蒸す姿はなかなかに満足げだった。今日吸っているのも、同じように薦められた煙草だというなら、買ったのは一箱きりだ。この男は物珍しい煙草を見かけると、一箱試してみるが、二箱目を買うことはない。二箱目は、愛飲しているいつもの紙巻に必ず戻る。
隣に座って、何気ない会話をぽつりぽつりと交わしながら煙草を吸う。煙は天井に備え付けられた大きなファンによってかき混ぜられ、壁の排気口から外へと吐き出されていく。白い紙巻がじりじりと燃え、灰となって黒く灰皿を汚す頃、すっかりと満足したらしい芥川が何本目になるかもわからない吸い差しを灰皿の中に押し込み、吸い殻へと変えて立ち上がった。
「さて、それじゃあ、……犀星?」
仕事に戻るよ、と続く筈だった言葉は途中で途切れ、不思議そうに名前を呼ぶ声が喫煙室にひっそりと響く。とっさに腕を伸ばし、芥川の服の裾を掴んでしまっては、まるで、まるで、
「まだ、一緒に居たいのかい」
柔らかな声は、子供をあやすそれによく似ていた。茶化す声だ。歌うように嘯く唇は、室生の返事を待って、待てども待てども、反応が無いことに、振り返った顔を直視できない。服を掴んだままの手は凍りついたように指一本動かないし、顔や首元にはちくちくと芥川の視線を感じる。ぎいぎいと音を立てそうな指をどうにか動かそうと躍起になっていると、それより早く肩越しに振り返っていた芥川が、半歩、体を捻って室生に向き直った。手が伸びてきて、室生の額に手套に包まれた手のひらが押し付けられる。
「熱は、なさそう、かな?」
その言葉を聞いた途端、それまで頑なだった手が弛緩して、芥川の横っ腹をばしりと引っ叩いた。あいた、と間延びした声を上げながら、背中を跳ねさせた男をようやく直視する。
「俺の煙草、切らしちまったんだ。少し置いていっちゃくれんかね」
「なんだ、そんなこと」
お安い御用だよ、と懐を探った芥川は、ぽんと気前よく煙草を一箱、室生の手の中へ放った。封の切られたそれは、今芥川が吸っていた新しい銘柄ではなく、普段から彼が愛飲している馴染み深い銘柄だった。
「あとでお代を頂きに行くよ」
「おう」
それじゃあまた後で。今度こそ、踵を返して歩き出した芥川の背中を見送り、その背中が扉の向こうへ消えるのを確かめてから、室生はカウチにずるずると背中を預けてだらしなく体を弛緩させた。手の中の煙草の箱は、懐に入れて持ち歩いていたせいだろう。角がひしゃげていて不恰好だったが、中身は綺麗な状態だった。一本引き抜き、マッチで火種を移す。ぶわりと広がる、馴染みのある匂いの中で深々と息を吐き出しながら、室生は元々自分の持ち歩いていた煙草の箱を取り出した。中にはまだ数本、手をつけていない煙草が残っている。尖らせた唇から吐き出した煙は、夜の芥川の纏う匂いとそっくり同じだった。