なにもしないからなにもしないで(りゅさい) 日の高いうちはまだ良い。夕暮れ時の、日が落ちる寸前の薄暗くなっていく時間帯は少々危うい。夜のうちは意外と大人しく、一番まずいのが、夜明け近い一等静まり返った時間だった。
室生の朝は早く、起きる時間は季節が移ろっても変わることがない。時折、本当に気まぐれのようにいつもの起床時間より早くに目が覚めることがあるが、そういう日はだいたい録でもないことが待ち受けている。
ふ、と夢の名残も綺麗に溶けて目が覚めた室生は、習慣のように布団の中から首を巡らせて壁掛け時計を見上げた。部屋の中はしんと静まり返っており、薄暗く夜の残滓がそこここに残っている。いつもより醜い時計盤の上を、緩慢に這う秒針と、長針、短針の向きを凝視してから唸るように布団の中に潜りこんだ。まだ起きる時間よりも一時間早い。二度寝してしまおうか。それとも起きて支度を整えてしまおうか。枕の上に頭を押し付けながら手足を縮こめていたけれど、眠気はちっとも戻ってこないし両の目は冴えるばかりだった。
一思いに体を起こし、布団を畳んで寝間着を脱ぎ、いつもの格好と、肌寒さに羽織を引っ掛けて部屋を出る。顔を洗い、心なしかうっすらと主張している産毛のような髭を剃ると、口を濯いで、今度こそすっかりと目も意識も覚めた。日課にしているのは中庭の散策と、様子を見て図書館裏の雑木林の中を歩いているが、どうにも今日は館内から出る気にならず、いつもより潜めた歩調で廊下を歩いて階段を下り、渡り廊下に出ると水気の多い温んだ風が吹き付けてきた。前髪がはらはらとほつれて、頬や首元の隙間がひやりと冷たい。
先日買い付けた飛び石が黒く色を変えて光っている。気がつかなかったが、夜のうちに雨が降ったのかもしれない。砂利を踏みしめ歩いていると、苔むした庭の一角にある木蓮の樹の下に長身痩躯の男が一人、迷い子のような心細そうな様子で花の盛りの終わった天へ伸びる枝ぶりを眺めている。
「芥川」
声を張る必要はない。そんなことをしなくても、夜の帳の明け切らぬ中庭に、室生の声は明瞭に響き渡った。木蓮を見上げていた芥川は、振り返らなかった。砂利を踏みしめる音、飛び石を蹴って、傍へと駆け寄る音が楽器のように鳴って、その音に揺さぶられでもしたように少しばかり驚いた顔をして、ようやく振り返る。一体いつからここに居るのか、夜気に濡れた長い髪は水気を含んで艶々と光り、反対に表情は生白く青ざめていた。薄ら氷の双眸が青々と色を濃くして、室生を見下ろす。その眼差しに、一気に機嫌の傾いた室生は隣に立つなり芥川の背中を平手で勢いよく叩いた。
「起きているなら起きているなりに、しゃんとしろ!」
「痛いよ」
ちっとも痛くなさそうな声は笑っているようだった。実際に笑っているのかと顔を見上げてみれば、笑うどころか表情が削ぎ落ちたように人形のような顔をしている。磨いた硝子玉のような目だけが、ぎょっとするくらいに生々しい。
「抜けるような青空の下の、木蓮の枝に縄をかけて首を括ったら、少しも寂しくはないかもしれないなって」
室生の飴色の双眸が剣呑に光る。みるみる怒気を滲ませる小柄な体に、本で読んだんだよ、と芥川は平淡に言った。その声が、その言葉が室生の神経に爪を立てると知っていて尚、わざわざ選んだのだろう。睨みつける室生に、うっすらと微笑んですらみせた。
「俺の庭で、そんなこと承知するわけないだろ」
「君の庭?」
此処に、この場所に、僕たちのものなんてなにひとつ、ありはしないのに。言葉尻がどんどんと小さくなり、しまいには溜息のように濁ってしまった芥川の声の、悲しみばかりが溢れそうな調子にそれでも室生の怒りは収まらない。悲嘆の怠惰を許せるほど、室生は芥川を知らないのだ。
「俺は、おまえのそう言うところは嫌いだ」
奥歯を軋ませながら、迷いのないはっきりとした声で芥川を追及する室生の苛烈さを待ち望んでいたように、ようやく芥川が上辺だけでない、心底からの笑みを見せた。それがどれだけ自嘲に満ちていたかなんて、知りたくもない。黒衣の腕が伸び、手套に包まれた形の良い手が室生に触れようとして、一瞬躊躇う。身動き一つせずに芥川を睨み上げる室生の、揺らぎのなさに恐る恐る、指先が頰に触れ、耳元を這って首裏に回り、背中へと落ちていく。肩甲骨の下、真っ直ぐな背骨の上を撫でるように抱き寄せられた。両手が背中へ回って、覆い隠すようにぎゅう、ときつく抱きしめられる。骨の軋みが聞こえそうなほどの加減のなさに、息苦しく切れ切れに喘ぐような呼気を繰り返しながら、馬鹿野郎。と叱る声は悲しみに暮れたように小さく、どこにも届かないまま消えてしまった。